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バートランド・ラッセル落穂拾い001(詳細版)

* ラッセル関係文献「以外」の図書などでラッセルに言及しているものを拾ったもの)

簡略版

『中野好夫集IV』(筑摩書房,1984年1月)から採録

* 中野好夫(なかの・よしお):

(pp.289-290 & 293-294)「誰のために書いているのか」

 バートランド・ラッセルの,もう晩年に近いころのエッセイに,「わが文章心得」(How I Write)と題した短い一編がある。(エッセイ,Portraits from Memory and Other Essays, 1956 に収められている。)題名の通り,彼自身の若いころからの文章修業の話や,また文体上の影響を受けた学者,作家たちのことを,ごく気やすく回想風に述べたものだが,その中に,次のような愉快な挿話が出る(出てくる)。
 まず社会学の著作になら現われそうな文章の一例として,以下のような一文を挙げるのである。とりあえずまず邦訳してみよう。
 生まれつきなり,あるいは環境のせいで,なにか偶然ともいうべき幸運な事情が集中したおかげで,現実例としてはきわめて稀な少数者だけにしか満たされぬようなある種の先行的諸条件が,たまたまうまく結び合い,多くの因子が社会的に有利なように基準から逸脱しているという個人でも創りだ出さないかぎり,人間というものはすべて,望ましからぬ行動様式から完全に免れうるものはいない。
 これがとにかく一文章なのである。実はこの試訳をやってみるのに,わたしは小半時ばかり脳味噌を搾り上げた。が,もちろん自信はないし,おそらくわかっていただける読者はいまいと思う。だから,やはり原文を引いておく。志ある方はよりよい名訳を試みていただきたい。(ただし,これを2つ,3つの文に解きほぐすのでは問題にならぬ。ぜひとも原文同様,一文章で願いたいのだ。)
Human beings are completely exempt from undesirable behaviour-patterns only when certain prerequisites, not satisfied except in a small percentage of actual cases, have, through some fortuitous concourse of favourable circumstances, whether congenital or environmental, chanced to combine in producing an individual in whom many factors deviate from the norm in a socially advantageous manner.

 さて,以下がこの一文に対するラッセルの批評だが,自分ならこの文章をこう書くというのだ。
「人間というのはすべて,いや,少なくともほとんどすべては,悪人である。そうでない人間というのは,その生まれと育ちにおいて,よほど稀な幸運に恵まれたものにちがいない」(All men are scoundrels, or at any rate almost all. The men who are not must have had unusual luck both in their birth and in their upbringing. と。

 そしていうのだ。この方がはるかに短くて,わかりやすい。しかも,まさに同じことをいっているはず。ただし(とラッセルは付け加える),もしこんな後者のような文章を書いていれば,おそらくその教授は大学をクビになるのではないか,と。(なおついでにいえば,この文章,ラッセルは「社会学の著作になら現れそうだ」と書いたり,「果してうまく英語になるだろうか」などと空トボケているが,案外現実に彼がぶつかった誰か実際の学者の文章だったのではないだろうか。)
 ・・・・。
 そこで最後に,話はまたラッセルの上掲エッセイにもどるが,その中で彼は,もっぱら説得を目的とする文章(原語は expository である。いわゆる芸術としての文学の文章は,おのずから別だが,ということであろう)を書くときの自家の戒めとして,次のような3カ条を挙げている。第一は,短い単語ですむ場合に,いわゆる long word を使うな。ロング・ワードとは,もちろん綴りの長い単語のこと。たとえば最初にも引いた文例でいえば,簡単に innate ですむところを,わざわざ congenital などと衒気で気取った言葉を使うな--さしずめ日本文でいえば,平易な日常語ですむところを,妙に難解な漢語などひねくるな,ということである。第二は,非常に多くの限定留保条件のつくような文章を書くときには,その条件のいくつかを,それぞれ別の文章で書け。でなければ,おそらく条件の上に条件が重り,山鳥の尾のしだり尾然たる長々しい複合文になるおそれがある。それを避けよということであろう。
 そして最後の第三は,文章の書出しが読者に,最後の結びとはまるで反対の期待を抱かせるような文章を書くな,というのだ。いま少し注釈を加えれば,ある一文を読み出して途中までは,当然Aなる結語に終るだろうと読みとれるのに,最後になって意外にもBという断定になり,アッと驚くタメゴローになるような文章は,絶対に書くなということである。これなど,否定か肯定かの語が最後に出る日本語の場合など,実に心得るべき忠告だと思う。おかげで下手な日本語の長文など,反対の期侍とまではいかなくとも,十行近くもエンエンとつづいていって,まだ果して「である」のか,「でない」のか,さっぱりわからなくてイライラさせられることがある。たとえばある有名な本の邦訳本に,こんな実例があった。まず主語が出て,そのあと事実の叙述が長々とっづくのだが,さてそれがどうなるのかさっぱりわからぬ。7,8行もすすんでから,やっと「・・・起源をもつ」と結ぶのである。原文を見ると,実になんでもない。やはりはじめに主語があり,すぐそのあと traced back its origin to ... とくる。なんのことはない,「斯々(しかじか/主語)のはじまりは,・・・である」とでも訳出してくれれば,きわめて自然に原文通り,頭から事実が理解されて行くのである。これは訳文だが,オリジナルな日本文でも,実にこの種のものが多い。その意味で第3の忠告はきわめて適切である。
 どうせわたし自身は,文学的文章など書けるわけもなく,また書くはずもなく,もっぱら実用文ばかりを書いている方なので,年来ラッセルのこれら忠告は,非常に有難い指針にしているつもりだ。世の筆者たちも,もっとよくこれら戒めを守ってくれるなら,ずいぷん総合雑誌なども読み易くなるだろうし,存在の意味も十分あるはずだと思うのだが,どうだろうか。(1972年12月)