バートランド・ラッセル「原因としての知性」
* 原著: Understanding History and Other Essays, 1957, part III, chap. 1: the meaning of matter
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』索引
1983年に早稲田大学教育学部教員図書室にラッセル関係資料約2000点を寄贈してラッセル文庫を作ってもらいました。Understanding History and Other Essays(1957年刊)もその中の1冊で、手元に副本をもっておらず、残念ながら、原文を添えることができません。
ということで、とりあえず牧野力・要旨訳のみ掲載しておきます。
「一時代の生産様式とより少ない程度での交換様式とがその時代の政治、法律、文学、哲学、宗教などの性格を決める究極的な原因となる」とのマルクスの理論は、決定論として受け入れると誤りを導く。いろいろな仮説を示唆する手段として用いれば、価値ある説になる。彼が 確信していたほどではないが、疑いもなく大幅に真理性を持っている。
マルクスの理論の中で、私が最大の誤りと見る点は 原因としての知性を無視していることにある。人間と猿とは同じ環境にあっても食料確保に異なる方法をとる。 人間が農耕を行うのは人間の外にある弁証法の働きからではなく、内在する知性がそうする利点を示したからである。もしギリシア人の知性がその最盛期のままで持続されていたならば、産業革命はずっと早くに起っていたかも知れない。奴隷労働が労力省化装置の発明を刺激しなかったという議論はあるが、種々の事実からこの見解は成立しえない。明らかに、知性それ自身に諸原因がある。 その諸原因は、部分的には社会環境の中に求めねばならないが、また生物学的で個人的なものでもある。素晴らしい能力者と精神薄弱者とは共に、明確に生得的に平均的な一般能力者とは異なっている。素晴らしい能力なしに、生産方式の根本的進歩は起りえない。人々を個人としてよりもむしろ集団として観察することだけで、 また、心理的解釈を試みずに、身体的行動のみを観察することだけで、初めて真に科学的な社会学になるとする見解にも見落しがある。