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バートランド・ラッセル 「子供の嘘」

*原著:On Education, especially in early childhool, pt.2, chap. 8, 1926)
* 出典:『ラッセル思想辞典』所収

 賢明に大切に扱われた子は素直な目つきで、見知らぬ人にも物おじしない。逆に小言や厳格な扱いに服従させられて来た子は、いつも叱られまいとオドオドしている。
 幼い時にはうそをつかず、大人に恐怖を抱くか、真実を言うと危険だと発見する時からうそが始まる。うそは一つの発見で、本人はうそをつこうなどと考えもしなかっただろう。
 子供が真実を言っているかどうかの判断には注意がいる。子供の時間感覚と記憶は曖昧である。子供は相手の声の調子に左右されたり、作り話を面白く話しやすい。子供のうそつきの責任は親の側にある。うそをつく原因を取り除くべきだ。罰でうそを処理してはいけない。子供には厳しくうそを禁じ、大人が自分の気やすいうそに気付かないことほど、大きな親の権威失墜はない。親はやる気もない事柄を気安く口にしてはいけない。「もう一度やってみろ、叩き殺すぞ」。もう一度やれぱ、ほんとに殺さねばならないからだ。
 子供が机や椅子の角にぶつかると、「椅子のお馬鹿さん」とその角を叩いてみせる。これは自然の訓練とも言うべきことを子供から取り上げることになる。こぶができてもほって置くがよい、すると子供は生き物でない物に対する自分の注意の必要を学ぶからである。 (松下注:写真は、ラッセル一家。ラッセル、ドラ、ジョン、ケイト)


 要旨訳でないバージョン
一つの習慣(at a practice 繰り返し行われる行為)として,不誠実(不正直)であることは,ほとんど常にといってよいほど,恐怖(心)が生み出したものである。恐怖(心)なしに育てられた子供は,正直であるだろうが,それは,道徳的に努力しているからではなく,誠実(正直)である以外の考えが頭に浮かんでこないだけのことであろう。賢明に,かつ親切に取り扱われてきた子供は,卒直なまなざしをしており,知らない人に対しても,ものおじしない態度をとる。一方,うるさく小言を言われたり,厳格な扱いをされたりしてきた子供は,しかられはしないかと絶えず恐れており,自然にふるまったときには,いつも,何かルールに違反したのではないかとおびえている。嘘をついてもよいという考えは、幼い子供には,最初は浮かんでこない。嘘をつくことができるというのは,一つの発見であり,それは,恐怖にかられておとなの顔色を窺うことから生じるものである。

Untruthfulness, as a practice, is almost always a product of fear. The child brought up without fear will be truthful, not in virtue of a moral effort, but because it will never occur to him to be otherwise. The child who has been treated wisely and kindly has a frank look in the eyes, and a fearless demeanour even with strangers; whereas the child that has been subject to nagging or severity is in perpetual terror of incurring reproof, and terrified of having transgressed some rule whenever he has behaved in a natural manner. It does not at first occur to a young child that it is possible to lie. The possibility of lying is a discovery, due to observation of grown-ups quickened by terror.