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牧野力「バートランド・ラッセルについて-"Open Mind and Open Heart"(Bertrand Russell)

* 出典:『文京女子短期大学紀要』n.3(1970年12月)pp.189-204.

*牧野力氏略歴等
 

1 まえがき

 昭和45年2月3日の夕刊は一斉に,ラッセル卿の訃報を伝えた。世界平和への真剣な努力とその業績をたたえ,湯川秀樹博士をはじめ,「人類の良心」ということばで,卿の死を追悼したことは,読者の記憶されるところであろう。そして,翌日の朝刊に,卿の生涯とその学問的業績について解説・報道した有力紙は1,2でなかった。

 一般の人が,ラッセルという名で想い出すところはまちまちである。

 卿の一生は,その97歳という2世紀に亘る長い年月であったが,人間の寿命としても珍らしいだけでなく,永眠される日の夕方まで,頭脳はその明敏さの衰えもなく,世界平和のため,アラブ(パレスチナ)問題についての公開メッセージの執筆に当られた(ロンドンタイムズ紙は,その後,このメッセージを1頁全部使って,掲載している。) 同紙の記事によれば,卿はいつもの習慣で,入江を見降ろすウェールズの丘の中腹にある別荘の二階から夕陽の沈むのを楽しみながら(右写真=1972年撮影:ラッセルが晩年住んだプラス・ペンリン山荘の庭からポートマドック湾を望む。牧野氏から戴いたもの。拡大する),メッセージの執筆を終え,いつものように,一ぱいのウィスキーを飲んで,平常と何ら変るところなく,床に就いた。これが最後となるとは誰にも(誰もが)予想しなかった,云々。
 97歳の老齢を気づかう人は世界に多く,数年前は胃腸障害で一時心配されたが,その後,侍医も驚く程の回復ぶりを見せて,側近者を安心させた矢先の出来事だった。一説には,1969年から70年にかけての世界的な寒波に急性肺炎を起したとも言われている。
 とも角,長寿と言っても,個人的に長寿を楽しむというのではなく,人類の運命と世界の平和のために,という実践力を最後まで失わず,また,今日の専門的学問分野への貢献の面も少くなく,(もっとも,これは40代までに限られたとみる人も多いが)更に,胸に囚人番号をつけた人であり,英国王から英国最高勲章を授かるなど,その97歳の生涯が多彩を極めたという点でも,今迄の歴史で珍らしい存在であったから,世界中でその死を悼むのも至極当然であった。タイムズ紙は全世界からの弔電を一面使って掲載している。
 しかし,ここでふれたいのは,女子短大生の頭脳的常識(松下注:この論文は短大の紀要に掲載されたことに注意)として,ラッセルの考えていた思想内容,あるいは,ラッセルの物事の考え方などについてである。(伝記・年表・著作表・解説などについては,後に掲げる入門的参考書を参照されたい。)
 ラッセルの思想にただ賛成するというのではなく,むしろ,卿の考え方,その論拠や理由について理解,記憶し,自分自分の日常生活や広い勉学の中で,想起し,時には疑問と批判を,また時には,反省と精進を行なう一つの契機として欲しいのである。
 

2 ラッセルの特色

 著書60余冊と一般に数えられている。(ラッセル年譜参照)ほとんど,1年1冊の割で著述出版されている。

 (1)精細な論理と科学的懐疑精神
  卿は大学卒業時から,未来の数理哲学者,論理哲学者とみなされていた。専門的業績はこの方面である。(筆者は勿論この方面のことはよくわからない故,余り深入りしない。)
 卿は幼少にして両親と死別し,首相だった祖父母に引きとられ,兄フランクに幾何学の手ほどきを受けた。その兄を手こづらせた話は有名である。兄が幾何学の証明法を教える時,公理は証明不要として(世間の常識通りに),証明にかかった。卿は,公理の証明から出発しないと気がすすまなかった。兄はこまって,それなら教えるのはやめる,と言った。やっと兄の教えに従った。しかし,ラッセルのこの懐疑精神は三つ子の魂から芽ばえていた。ケンブリッジ大学の3年間で数学を専攻し,最後の1年問は哲学を専攻したが,学位論文は,「幾何学の基礎」であった。
 ラッセルは科学的懐疑精神と合理性とを実践した人である。社会通念として誰も疑問も抱かない事柄を根源的に掘り下げて,改めて検討して行く人である。これは,専門の数学や哲学や論理学だけでなく,社会科学や人生問題の扱う問題についてもそうである。
 例えば,1と1とを加えれば2となる,のを本気で疑うとすれば,普通ならば,精神病院に送られよう。しかし,卿は本気で掘り下げた。その結果,約10年かかって,プリンキピア・マテマティカ(数学原理)全3巻を,大学時代の指導教授と書き上げた。しかも,その第1巻何百頁が終る時,1プラス1イコール2という式の証明が完了したと言われている。この精細な論理の積み上げ方は,科学的懐疑精神の強さと真理探求の情熱がなくては出来ないことである。(この科学的懐疑精神の養成を,彼は教育論,政治論の中で説くのである。そして,幼児教育にも関連する。)
 この精細な論理の展開は,算数の領域では数学基礎論という学問の領域で十分示された。また,論理学の分野では,昔から持続されて,誰も深く疑問を抱かなかったアリストテレスの論理学,形式論理学を根本的に批判して,論理の考え方を改新した。そして,意味論,記号論,数学基礎論の成果をまじえて,記号論理学を集大成した。
 ラッセル自身は多少茶目気もこめて,社会科学や人文科学の領域の問題を考究する時と数理哲学を考える時は別だと言うが,問題を考究する時の脳の動きとしてのその持ち味はひとしく発揮されているのではあるまいか。

 (2)内面論理の把握の適正と予言性
  物事を世間の通念のままうのみにせず,根源から出直し,キメ細かく考えてゆくその考え方は,当然内面的な機能や論理を見逃さない。例えば,下手な説明だが,私達がハイキングで野山に美しく咲く草花を見ると,高山植物として採取禁止されていなければ,東京の自分の庭に植えたいという衝動に駆られ,そこから掘り出しかねない。つまり,現象に動かされる。しかし,卿は,その美しさを支えている客観的条件を直観把握し,現実的,実際的に採取の不可能性を論理的に見逃さない。だから,掘って持ち帰る気になれない。(これは,後述の社会科学の問題,幸福問題,倫理問題などで「明知」を説くことと無関係ではない。物事の道理をよく知る必要を説くことに通ずる。)
 卿が,人生について,人間について,社会について,世界について,教育について,人事百般について論述,解説している時,例の茶目気やユーモアや警句でボヤかす時以外,上述の特性は常に誰にも読みとれるところである。
 内面論理の把握が的確であるので,当然,時代の変化に色あせることが少ない。だから,何拾年か昔に書いた彼の本の内容が今日その実例を示したり,やっと誰も「そうか」と気がつく場合が多い。その例も枚挙にいとまなし。この点から,彼の言論に予言性を感ずる人が少くない。卿の発言は何年後,何拾年後に,その意味が誰にもわかり易い事例となって現れてくる。逆に,その論理,事情が一般にわからないと,「変った人間」として奇人視される。
 先づ彼の著書についてそのことが言える。彼の著書は10年,20年位の時代の波に消え去らない。少なくとも50~60年はその真価はうせない。それは内面的論理を適確に把握しているからである。例えば「政治理想」という本について見ると,第1次大戦中,彼は対独戦争の愚を説いた。反戦家として扱われ,遂に投獄された。(右挿絵:「ラッセル自叙伝」より)彼が1917年,グラスゴーの炭坑労働者大会の席上で「政治理想」の本質をわかり易く説く予定で書いた原稿が,陸軍省から禁足令を受けたため,その大会の議長によって代読されたが,その原稿は1922年米国で処女出版(松下注:米国では1917年に出版されている)されたまま(長い間英国では出版されず),英国で(は)1962年に処女出版された。半世紀後に本国で出版されたのは,ラッセルの著書が有名で,老齢のため著作力が衰えて,出版する著作がなくなったからではない。(その頃,「武器なき勝利」を出版している。)半世紀前の著書の内容が依然として生々として価値をもつからである。今日の世界の各国の政治に適用されるからである。ハッキリ掴む点を掴んでいるからである。また,1920年に「ボルシェヴイズムの実践と理論」が出版された。1919年に,ソ連に英国労働党の視察団に加わって,革命直後のソ連を実地に見て来た。レーニンやトロツキーその他指導者幹部にも会って話した。その結果,帰国して著述したものである。これも,ボルシエヴイズムの理論と実践とに関する深い洞察,内面的論理を把握した結果が語られているから,共産主義研究書として今日でも真価を失っていない。翌年,北京大学に招かれ客員教授として,哲学の講義を行い,日本・米国経由で帰英して出版したのが,「中国の問題」である。1922年の出版である。1922年の著書が1966年中共(中華人民共和国)の誕生後(毛沢東の中国革命は1948年であった。)に,約半世紀前のそのままで出版した。その原著序に詳細な但し書きがあるが,要するに,改訂の必要のないこと,初版のままで再版する意義について語られている。特に,東西両文明(中国文明と西欧文明)との対比の章には,自信の程を示している。というのは,内面的論理や洞察力の適切さを示しているからである。
 この書は,世界中が中国を物珍らしい東洋の一国として紹介するか,天然資源の豊富で資本家の金儲けのできる国と視るか,そんな視点に立つ本がほとんどすべてであった当時に,中国人と中国文明の本質を把握し,中国人の自主独立方式を中国人自身の立場に立って論理的に説いた本として,世界で白人の書いた唯一の本であり,かつ,その所説内容が99パーセント,中共の現状にも的中しているという点で世界的名著とされてきた。恐らく,中国の歩む将来についての警告や目標でも,1970年代以後において,21世紀に更に今日以上にラッセルは再認識されること必定であろう。(1970年以降の日中関係は,日本国民の運命を左右する要素を背負うものだが,本書を見ると,その当時,つまり半世紀前の日本の歩んだ道,明治百年間の日本の歩みについてもふれている。これも,現実的に適切である。半世紀前に日米戦争や日本の運命を論じた項だけでも,凡人であるわれわれにとって,戦後の体験からふり返ると,納得できる点が多々ある。)
 他の著書についても,他にいろいろの類例があり,特定項目をあげればきりがないが,枚数の都合で省略するが,第1次大戦直後,米ソ間の核協定や米ソ偶発戦争防止の為の通信連絡条約締結提唱などでラッセルの提案が10余年後に一部分実現したのである。

 (3)人間愛と徹底した人間洞察

 ラッセルを辛らつで厳しくて,血も涙もない冷血漢のように思い易い。何故ならば,数学と哲学と論理学が専門の学者であると聞けば,世間の常識ではそうなり易い。でも,ラッセルの場合はちがう。
 明敏な頭脳の回転から,警句が飛び出す。立身出世や明哲保身などから人ざわりよく低姿勢を歓迎しやすいのが世の常であるが,他人のご機嫌取りの必要もなく,かつ,それの出来ない育ちであるので是々非々主義のところがあり,自分の思うところを率直に的確に言い表すとなると,遠慮がないから、毒舌家と誤解され嫌われることもある。
 それと冷血漢とは別である。ラッセルは子供と若者の味方である。世俗的に悟り切った常識人にはウソが多いので,ラッセルは子供と若者が好きなのである。また,世間体から物事をみたり,相手を身分や階級や身なりで判断しない。人間の本質や人間を見抜いているからであろう。素直に人に会い話す。相手が虚心坦懐であれば,よい話し相手になる。
 彼は理性に強い半面,情熱にも強い。凡人より振幅が大きいのかも知れない。老齢になって,安穏に暮そうと思えば暮せる条件を備えながら,広場に若者と座り込み,デモの先頭に立つのは,唯々,世界の平和,人類の幸福を一途に念願するからである。
 彼程,人間を愛し,人間を尊重する人も少ない。それが彼の人生観,世界観に貫かれているからである。彼の考え方が根源スタートからそうだからである。そのような一貫性をもつ人は必ずしも多くない。口で人間愛や人間主義を説くが,その所説の内面的構成に一貫性のない人も多い。そして,徹底した人間主義者なるが故に,ラッセルは教育,宗教,政治,経済において誤解されることもある。特に,宗教問題で,彼は不可知論者としての言論から無宗教者視される。しかし,これは近視眼的推論である(宗教の項目参照)

の画像(4)二面性の徹底と調和
 ラッセルの伝記を書いたアラン・ウッドは,その名著「バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家」において,「情熱の懐疑家」という副題をつけている。これはラッセルを伝える象徴的役割を果している。情熱的である時,人間は感性的で意志的であることが多い。懐疑的乃至懐疑家という人はどちらかと言えば,理性的で,冷静であることが多い。理論的で冷静な人は,概して,実践的乃至行動的でない。個人で,いづれが一方に偏向するのがわれわれの間の普通見かける所である。彼はアメリカを告発する一面,弁護もする。ソ連を賞讃する時も,ソ連を糾弾する時もある。是々非々主義である。一方だけに偏向しない。善ければ,誰をもほめる。ところが,ラッセルの場合は,どちらかに指向する程度も普通人とちがい,かつ,一方だけというよりは,感情的である半面理性的でもあり,理論的でもあると同時に実践的である。二面が分離されず,一身に統合されている。例えば,教育について,説をなす所謂教育論者を見る時,理論に強く,象牙の塔に入る者を多くみる。また,教育の現場にある教育家は実践や体験に良心的である反面,自己満足に走り易いし,全体的位置づけの論理に概して弱く,特殊的か個別的なものに拘泥しやすい。
 ラッセルには教育論に関する著述も少なくなく,その反面,自己の所説を自己犠牲をも顧みず貴重な実践を敢てしていた。それは,ビーコンヒル・スクールの開設である。厖大な借財を物ともせず,日夜執筆で返済していた。
 ラッセルを論ずる人は「二つのラッセル」と称して,相対的二面を指摘し,しかもその一身に統一された人格,理論と実践の中に巨人をみる。そういう人物論が少なくないのも当然である。
 以上のような特色は(数学基礎論,分析哲学,論理実証主義などの分野における専門的分野にも無関係ではないが)より多く,人文科学,社会科学の領域内の問題を貫く特色と言えよう。これらの具体的な事例は,彼の自叙伝全3巻(第1巻翻訳出版済)に明示されている。
 ラッセルの自叙伝について付言すると,自叙伝史上でも特異な位置を占めると言われていることを第一にあげられよう。
 何事もフランクに素直に包み隠さず語っている点と凡人に巨星ラッセルに親近感を抱かせる点とで、一読の価値があり,アメリカでベストセラーズ第一位を占めたのも尤もと思われる。
 

3 ラッセル思想について

  ラッセルは何をどう考えていたかについて全般的に述べることすら,容易ならぬ仕事である。余りに専門に過ぎたり,余りに部分的だったり,個人的興味の故に中心から遠去かったりし勝ちであり,また,抽象に走りすぎたりし易いからである。先ず,誰も大なり,小なり関心を寄せる項目について,入門的解説をする方が無難であろう。(最後に,入門的文献を示す故,個人的関心のある事項については,それぞれの関連する単行本で改めて研究されたい。)

 (1)孤独
    人間は個体的存在であると同時に社会的存在であり,二重写しの存在とも言える。この事実,この体質論理から,いろいろの事象・心情が派生・展開する。孤独感は社会性,集団意識の満されない姿であり,自他・彼我の識別から生れる実感でもある。この相対的な一方から他方への傾斜の中に,別な要素が混入する。
 2歳で母と,4歳で父と死別したラッセルは,祖父母の家に引き取られ,兄と一緒であるとは言え,自叙伝に語られているように,淋しかった。祖母は勿論孫がかわいくない筈はない。叔父叔母も同居していたから,大きい家に小人数で淋しいというのとはちがう。
 生来いたずらで冒険好きな彼に,年齢の近い遊び友達は少く,祖母は熱心なクリスチャンで清教徒的な厳格さをもっていた。祖父がヴィクトリア女王から賜った広いペンブロークロッジの邸宅の庭園を彼はよく散歩していた。その頭の中で想像と思索が一杯であった。大学受験で速成塾に行くまでこれが続いた。普通の生徒が数年かかるところを1年半で終了した。ある時期,彼は自殺することしか考えなかった。たまたま,数学に興味を感じ,救われた。姉も母と共に死亡していたから,彼は孤独に堪えて生きる運命にあったのかも知れない。だから,彼自身,次のように言っている。
「子どもの時に孤独で,人からともすればうとまれがちであったような人のほうが,周囲から暖かく励まされて育った人よりは,偉大な仕事をなしとげることが多いのではないだろうか。知的な孤独に堪える力なくしては,人間の天才の最高の諸業績は不可能であろう。」
 個性的な眼ざめの年齢にある若者の中には,孤独を云々し,時に甘え,時に誇張し,真実から眼を離す者もいる。デカダンの詩人の句を引くまでもなく,人生と人間には孤独は不可分の関係であろう。真実をつかみ,生の意義を認めるところに,人間主義への門があるのではあるまいか。少年ラッセルは孤独に堪え抜いたのであった。この貴重な体験の意味を味わう必要があろう。(自叙伝第1巻参照)

の画像  (2)神
  孤独なラッセルは信仰に対する疑問とも戦った。彼が12歳の誕生日に祖母から聖書をもらった。その扉には,「(汝)群衆のなす悪事に追従するなかれ」と書いてあった。(意訳「自ら省みて直ければ千万人といえどもわれ行かん。」)祖父母の家は宗教的雰囲気に包まれていた。従って,物心ついた彼の心に,信仰問題についての疑問が生まれるのも当然である。彼は考えた。数学に関心を抱いた。キメの細かい論理の展開は,やがて彼が専門の学問を積むにつれ,論理実証主義者ラッセルは遂に不可知論者となった。無神論者ではない。彼は'絶対'とか'完全'とか'不変の真理'とか言うことを気易く考えない。
 神の存在を普遍的に現実的に論証できない限り「在る」とも「無い」とも言えない。だから,不可知論者となる。主観的に在ると信ずることだけについて言えばそれは各人自由だが,問題は,主観的信仰が人類に役立つかどうかという点にある。ラッセルは人間の有限性,孤独性,それらに由来する安心立命を求める宗教的感情について,批判も,否定もしない。批判・否定することはおかしい。宗教的感情は人間自身の存在の影である。影は不離である。影におびえぬ勇気を彼は求める。特に彼が強調するのは次の点である。
 存在不可知の神を想定し,これに依存し,人間的努力を忘れ,神の名を借りて,教会を作り,僧職階級制度を設ける宗教体制に権力をもたせることを批判する。孤独の人間は手をつなぎ,助け合うべき己の姿を明らかに知り,互に不完全を許し合う寛容が,孤独と不安と有限から脱却する人間の道と考える。「なぜ私は基督教徒でないのか」という著者としてラッセルは,無神論者と大雑把に片づけられやすい。しかし,ラッセルは'山上の垂訓'と同一の精神の持ち主である。唯,人間の宗教的感情の根源に対し,大脳の生理機能から派生するアニミズムの所産である神に己を預ける人頼みの人生を採らず,人間相互の明知と寛容とによる協力という自力更生の人生をえらぶのである。そして彼は,キリスト教が今迄どれだけ真の平和に貢献したか怪しいと言う。
 宗教各派は自己宗派のみを正しいとし,他を迷妄と排し,狂信的であることで一貫している。説教で戦争はなくならないで,核戦争の予想が戦争を回避抑制させている。彼は神頼みの道でなく,自覚と協力の道を求める。
 (彼の宗教論は何冊もある。彼の考え方を肯定・否定するためでなく,通過することが必要かも知れない。アインシュタインが科学の道を探求した揚句,現行宗教制度には否定的で,自ら'宇宙的宗教'を提唱した心境と一脈通ずる点もある。)

 (3)狂信
  彼は「科学的懐疑主義」の立場をとる以上,'絶対化'を好まない。従って,狂信が大嫌いであり,マルクス主義共産主義を宗教の一種とみなす。幸福論,権力論,教育論にも,科学的懐疑主義精神から,狂信反対論が登場する。幸福であるには,「是しかない」という一辺倒の発想では必ず夢が破られる。幸福の本質とそれに近づく道は別な事柄になるが,「是しかない」式考え方に幸福の条件は宿らない。権力には魔性がある。ひとたび権力を握ると失うまいとさせる傾向が出る。主権在民という権力分配がよいが,権力者の政治的見解だけが良くて「是しかない」,「他は邪悪だ」と狂信的になり易い。独裁政治体制には狂信的傾向が多い。教育も,国家主義が極端になると狂信的傾向を帯びやすい。それを防止する方法は彼の教育論にくわしく出てくる。

 (4)権力
 人間が幸福に生きるには,経済的不正や搾取の体制から人間を解放しなければならないと社会主義は説く。確かに,貧乏追放は望ましい。ラッセルも之に反対しない。
 しかし,経済的正義が保証されれば,人間は幸福になれるのか。なれると言い切るマルクスをラッセルは頭が悪いと評している。
「搾取をなくすのは絶対必要だが,そうなっても,まだ人間を幸福にしないものがある。それは権力悪である。権力悪を最小限度に閉込めねばならない。社会科学の根本課題は権力の法則を探求するにある。その例はスターリン体制下の社会だ。人間誰も権力衝動をもつ。指導者も,追従者にも,批判者にもある。現れ方のちがいであり,誰も権力悪の魔性にとりつかれる。」
 独裁政治,専制政治は権力集中で,権力悪の見本である。権力悪を極小に保ち,人間関係を協和的にするために,キリストも釈迦も,老子も孔子もソクラテスも苦心した。民主主義は主権を分配するから,権力悪を弱める筈であるが,唯政治や経済の面だけで考えてもだめで,歴史が証明している。世論を容易に盛んに起す「宣伝」の在り方と幼児から子供を権力悪のとりこにしない教育心理面との工夫が是非必要だと説く。(「権力」という著書は一読の価値がある。政治・経済だけでなく,幸福や教育にもつながる問題であるから。)

 (5)教育
  ラッセルの教育論には特色がある。著書も多い。また,幼児教育についての見識も深い。高度成長から産業界の人口対策,労働人口増加策として,就学年齢低下,五歳児入学などが叫ばれ,幼稚園も,教育ママの半可通の流行の波に乗って,昨今ブームである。
 しかし,ラッセルの半世紀前の幼児教育論はそんな現象的なトン服薬的なねらいと全然ちがい,人間形成の根本と社会観とから発想されている。人間には二つの根本衝動がある。物を所有したがる所有衝動と,見たり,楽しんだり,誰とも共有しうるものをこの世に初めて創造しようとする創造衝動とである。更にこれらの衝動から,願望達成に有効なものを掴もうとして,誰も権力衝動を発揮する。所有衝動と創造衝動とは相反した性質や働きや結果をもつ。動物は本能的な所有衝動にふりまわされる。しかし,必要以上の所有を大体しない。人間はちがう。飽くことなく所有し,他人に迷惑をかける。(キリストはこの点をいましめている。'何を食べようか,何を飲もうかと,自分の命のことで思いわずらい,何を着ようかと自分の身のことで思いわずらうな。空の鳥をみるがよい。・・・' 「政治理想』について,ラッセルもこのマタイ伝福音書のことばを引用している。)
 人間が動物より優れたものであるためには,(イ)所有衝動より創造衝動を優先させる,(ロ)生命力・勇気・感受性・知性の四つの要因を大切にして,人間の理想的性格を形成する必要がある。教育はその線上に在る,と彼は説く。
 そして,権力悪の生れ易い体制への政治的武器となる教育,戦争と貧困をなくす新しい世界を開く鍵となる教育,人間の心身の基本的な病を治療する手段となり人間を正気にする教育を求める。このような教育の役割は,物事の道理をわきまえる明知と人間相互の関係を調和させる寛容とに貫かれねばならない。それには,人間の一生を支配する年齢三歳から五歳の幼児教育が慎重に行われねばならない。狂信,独裁,偏見と戦うには,自ら考え抜く科学的懐疑精神と雄弁その他にごまかされぬ合理的思考力とが必要と考える。教育を,唯詰め込む教育から,自ら考える工夫の教育へ,と改変すべしと説く。

 (6)世界政府
の画像   平和と民主主義のために,結局,世界政府樹立を力説する。平和の条件として,(1)軍事力を独占する世界政府樹立,(2)世界各地の生活水準の均衡,(3)人口の安定,などを挙げている。
 人間個人個人の間を少しでも調和的にするには,関係者全員に同等の権利を与えて,それぞれの考えや言い分をよくきいて,互に考え合って,ヨリ多くの人々の納得する結論に至るように話合うのが民主主義である。そのためには,話し合う問題の内容のすみずみまでわかるだけの筋の通る考え方ができなければならない。更に,ルールを尊重し合って,結論を出し,その結論の賛否を票決して,多数決に従わねばならない。しかし,多数派は,数の優勢にあぐらをかかないで,少数派の意見に耳を傾け,採るべき点は結論や実施面に生かさなければならない。つまり,真の一致協力による能率向上,目標達成には,(1)主権在民的な平等な権利を与え,(2)協議内容を充分理解する明知が必要で,その結論をまとめる上で,ルールに従い,多数派は少数派の長所を生かす寛容と明知をもたないと,力と力との対決,闘争のいたちごっこになる。
 民主主義には明知・寛容・ルール尊重の三つの基本条件がかくされている。これがないと失敗する。その実例は古今東西に多い。これら条件は一つに教育の引き受けるべき役割である。だから,民主主義者は教育を重視する筈である。
 次に,この民主主義--人間調和の方式をくずすものがある。それは国際性の欠けた国家主義や民族主義である。人類の歩みの中で国家がある大切な役割を果してくれた時代もあった。しかし,これからは,必ずしも昔通りのプラス面だけというわけにはいかない。21世紀は国家という枠づけが次第に崩れて,世界政府に移る時代という専門家もいる。現実的には,いろいろの面で具体的に国際的協調や統一が実現され出している。国連の諸分野に実例がある。盲目的愛国主義は,国際的民主主義を妨害する時もある。
 人間同士仲よく生きてゆく民主主義の納得方式が地球全面にひろがるためには,結局,世界政府ができなければ,とラッセルは説く。「民主主義とは何か」「人類に未来はあるか」その他で,夢物語でなく,現実的に可能な世界政府案が出ている。
 狂信と偏見と煽動とがあるので,国と国,民族と民族,東と西の小ぜり合いが絶えない。ここにも,明知と寛容の必要な実例がある。

の画像  (7)進歩と公害
  戦争中から戦後にかけて,食糧事情の悪い頃,東京で1日3食,カボチャとキウリとナスで暮した経験をもつ筆者には,戦後の若い人に笑われそうだが,次の考え方を抱いている。
 ところが,年々,化学肥料の発達や除草,殺虫剤の発達で,農薬はすばらしい効果をあげて,豊作続きで,昨今,倉庫に古々米がうなっている。折角,役人が考えた休耕案とは逆に,今年も百万トン過剰だと報道されている。(3年前の古々米を国際価格の二倍以上の高い費用で食べ,高価な消毒・保管料を血税から払わされるのは,政治の貧困と言われるが,その問題にはここではふれない。)化学の発展で農薬で豊作続きである。これだけを部分的に考えると,確かに'進歩'である。しかし,折角,沢山お米がとれても,それ以外にいろいろの面でマイナス面が現れている。自然の秩序は破られ,自然調和は崩される。そして,その結果,各種の公害が生れる。川は汚れ,魚は病死し,虫は殺され,夏の夜に憩いを与えるホタルも地上から姿を消した。指が曲り,原因不明の病気にかかる。
 全体の中の位置づけ,他との関係を軽視することから,折角の発見も,一つにはプラスでも他には害となり,マイナス面の展開が,総体的マイナスになることも,今日の公害列島日本では少くない。
 部分と全体との関係,相互の多様な相即性などを無視すると,それ自体の善も善とならない。これは近代科学の問題である。そして,これは'進歩'とは何かという問題とも関連する。人間と科学と自然の問題であり,部分的知識と総合的知慧の問題にも関係がある。ラッセルは半世紀前「中国の問題」の中で,中国文明と西欧文明との対比論の中で,この問題に触れている。東洋人の自然観照,自然順応,自然調和の面と西洋人の環境改変,自然対時,自然征服の面とが人間の不可分の二面であり,二面の統一調和こそ人間の幸福につながる道と考えている。中国の将来への希望をそれにかけている。知識と知慧,分析と総合,の関係を掘り下げないで,真の公害への対策はないのではないだろうか。資本主義批判の一材料として公害をとらえる見地も昨今流行しているが,それだけでは,どうかと思う。
 科学と人間,科学技術と人間生活,などにもっと反省と工夫とが必要なのではあるまいか。科学技術に酔いしれた世界に公害がはびこる。公害というコトバこそ使っていないが,進歩と人間の幸福との関係をラッセルは,半世紀前に言及しているが,彼は今流行の'レジャー(余暇)'の問題を,科学技術と社会制度のやがて直面する問題として,世界でも早く指摘している。(角川文庫「怠情への讃歌」参照)その当時は怠情(idleness)は悪徳とみなされていた。彼はアイドルネスの中に,人間の創造的な活動の萌芽を観た。そして,人間の幸福につながり,個性伸張と社会的貢献の意義を観た。(同書がケインズ経済学の予告と先鞭をつけた経緯は省略する。ケインズは学生時代,ラッセルを含む秀才グループ,「ザ・ソサエテイ」の一員で,ラッセルの発想法や哲学的見解の洗礼を受けていた。)

 (8)幸福
  人間の幸福について書かれた本ほど,おびただしい数にのぼる種類の本はないそうである。当然である。個体性を背負う生命の拡充体である人間だからである。では,ラッセルはどう幸福を考えていたか。人間は自分に不足した点を欲しがり,少しでも得ると幸福に思う。しかし,幸福でありたければ,掴もうと願う幸福の中味と,人間の実体とを見分けなければならない。掴んだと思ってもすぐ飽々するような願い方や,掴んでも,他方で自分を苦しめる願い方でもよくない。そこで,何事にも関心と意欲とを感じうるような心,広く深い心の眼を養なう必要がある。それによって,退屈したり,他人を羨望したりしないですむ。また,自分独りだけに終らず,まわりの人と共に楽しめる内容だと,尚更よい。隣人に役立つことに努力する楽しみはその追求の過程だけでも幸福になれる。何事にも関心と喜びと意義とを見付けたり感じたりできる心,明知を持ち,隣人と共に楽しみを分ち合う心,社会性を背景とした寛容な心を持つことに,「幸福」に近づく道がある。そして,幸福は棚からボタ餅を待つ性質のものでなく,自分で努力,工夫して探求されるべきものであると説いている。
 ゲーテ風な言い方をすると,小我から大我への昇華の中に,人間幸福の一面がありそうである。「教育」はこのためにも役割を演じてくれる。人間が四足獣の動物でなく,二足直立体として大脳の発達により「考える・わかる(ホモ・サピエンス)」動物であれば,明知と寛容の養成が「教育」に委ねられる。
 

4 明知と寛容を説く

の画像  アラン・ウッドがラッセル(の伝記)に,「情熱の懐疑家」という象徴的副題をつけたことは前述したが,それは,理性と感情の振幅の広さを示し,分別知と総合調和を求める情緒の現れの面が彼にあるからであろう。
 しかし,ラッセルの著書や主張や実践行動を貫くものとして,彼の言葉と結びつけると,彼の人柄と生涯と主張とは「明知」と「寛容」とにあるということにもなる。Open mind and Open Heart と彼は言う。各自,分別心の窓を開き知をみがけ,そして情緒の窓を開いて隣人を助けよ。そして,不可知な神にすがるより(それは個人が主観的には可能であっても),社会的に集団組織としての社会の中では,可能性をあきらめねばならない。史実はそれをこれでもか,これでもか,という程多く示している。有限で,未完で,孤独で,傷きやすい人間は,己を知り,互に手を取り合い,助け合う中に,その気になれば,神に祈ることを少しでも,現実に果せるのだ。よく道理をわきまえ,互に不完全さを許し合い,孤独な傷つきやすい心に生き甲斐を感ぜさせるために,先づ「教育」に,明知と寛容との実績を積み重ねるように期待する。天国より地上に,民族から世界市民に,神よりも,相互理解と互助精神にと,人間の道を説く彼は,一人の求道家であった。如何に毒舌と批判とを教会に浴びせようとも,真髄は人間愛と人間肯定以外の何物でもなく,不可知論者なるが故に,現実的な実証主義者であるが故に,経験尊重と経験純化を求める。
 「明知と寛容」という簡潔の表現の中には,そこまで到る経過の間には,ラッセルの思索と体験とがあった。それが,ある意味では,60余冊の著述の帰結でもある。数学基礎論を支える論理的思弁は,科学的性格を多分に帯びる故に,独立,分離され易いが,人間科学,社会科学の問題探求,問題解決の努力をも内側から支えているのではあるまいか。対象の差はあるが,思弁機能は同一であろう。科学に貢献するラッセルの思弁は彼を不可知論者にした。ところが不可知論者なるが故に,ラッセルは人間主義に徹し,神から遠ざかり「明知と寛容」を要請して,人類愛に生涯を捧げ,永眠する数時間前まで,核戦争反対,世界平和のために最善を尽した。

 舌足らずのラッセル紹介に終ったが,多数のラッセル著書の翻訳や研究書の中で,読者に最も関心の深い1冊を精読し,まとめてみると,ラッセルの考え方が判る。ラッセルは絶対化・狂信を排し,科学的合理的懐疑精神を讃美している。ラッセルに唯心酔することはラッセルを理解する態度に反する。自分自身で考え直し,時に批判し研究してゆくことこそラッセル精神にそうものであろう。結論よりもそこに至る考えをたどる営みの中に,人間の成長も活用の契機もあろう。また,最もラッセル的な意味があるのかも知れない。(了)(1970.9.15)
 *この後に続く、「ラッセル年譜」は省略。