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バートランド・ラッセル「幼年時代」

* 原著:The Autobiography of B. Russell, v.1(1967)
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』より



 私の両親は、1864年に(ふたりとも)22歳の時に結婚した。私が(1872年に)生れて2日目に、母は自分の母(=ラッセルの母方の祖母)に出した手紙の中で、次のように書いている。
'ころころ肥った、とても器量(→顔立ち)の悪い子です。眼が青く、両眼が離れていて、あごが出ていません。すぐ授乳できないと、とてもあばれます。声を張り上げて、体をふるわせ、足でけとばし、とても大変です。機嫌がよいと、頭をもたげてとても元気いっぱいにあたりを見回します。'
 (私の父、アンバーレイ卿は、1876年1月になくなった。)母と姉は、父が亡くなるより1年半前に、ジフテリアで死んだ。
 父母の死後、私と兄フランクは、(ロンドン郊外の) Richmond Park にある Pembroke Lodge に住んでいた(父方の)祖父母に引き取られた。この屋敷は、ビクトリア女王が祖父母に、終生ここに暮すようにと賜ったものであり、クリミア戦争が決定された有名な閣議の開かれたところであった。・・・。

ラッセルの言葉366
 ペンブローク・ロッジの11エーカーの庭は、18歳までの私の人生に甚だ大きな役割を果した。西方に、Epsom Downs(エプソム丘陵)からウインザー城に至る広大な眺めを楽しめた。私はその広大な視界と何ら妨げるもののない日没の光景を見慣れていた。その時以来、この両方のない生活は少しも幸福ではなかった。
 この広大な庭は過去の栄光に生きており、私も(幼年時代は)その庭とともに過去に生きた。私は祖父の全盛時代を想像し、亡き両親と姉の幻想をそこに思い描いた。
 私が6歳の時、祖父は逝った。夫より23歳も若かった祖母は、私の幼年時代以来最も重要な人だった。・・・。祖母は、シェークスピア、ミルトン、18世紀の詩人達に詳しく、独・仏・伊語を完全に話せた。
 祖母の道徳観は、ビクトリア女王時代の清教徒の道徳で、近代感覚でものをみる心情をもたなかった。・・・。80歳に達するまで、午後のお茶の時間が過ぎるまで決して安楽椅子には坐らなかった。完全に俗人離れしていた。

 '汝、群衆に従いて、悪を為すなかれ'
 ('Thou shalt not follow a multitude to do evil')

 これは祖母のお気に入りの聖句で、私にくれた聖書の見返しに書かれた言葉だった。・・・。この聖句を強調してくれたことは、後年少数派に属しても何ら恐れないように導いてくれた。(写真は4歳の時のラッセル及び、祖母)


My grandmother, on the contrary, who was twenty-three years younger than he (= Russell's grandfather) was, was the most important person to me throughout my childhood. ...
Her morality was that of a Victorian Puritan, and nothing would have persuaded her that a man who swore on occasion might nevertheless have some good qualities....
"Thou shalt not follow a multitude to do evil."
Her emphasis upon this text led me in later life to be not afraid of belonging to small minorities.
 Source: The Autobiography of B. Russell, v.1(1967)
  More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-320.HTM