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バートランド・ラッセル「知識と知恵」n.5 : 知恵を教える? - Bertrand Russell : Knowledge and Wisdom (1954)

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 この意味における知恵を教えることはできるだろうか? そうして,もし可能であるならば,それを教えることは教育の目的の一つであるべきだろうか? 私は,この両方の問いに肯定的に(イエスと)答えたい。我々は,日曜日には,自分を愛するように隣人を愛するべきであると言われる。(しかし)一週間のうちの他の6日間は,隣人を憎むことを熱心に勧められる。あなたは,我々が憎むのを強く勧められるのは隣人ではないので,これはナンセンス(無意味なたわごと)だというかもしれない。しかしあなたは,この教えが「サマリア人は我々の隣人である」という格言によって例示されているのを記憶しているだろう。(注:聖書に「汝の隣人を愛せよ」というイエスの言葉があるが、「サマリア人が隣人でなければサマリア人を愛する必要はないことにならないか」という問いに対し、イエスは、ある人が同胞のユダヤ人の誰からも助けられなかったが、道で出逢ったサマリア人に助けられたという喩え話をだして、「そのサマリア人こそあなたの隣人だ」と言ったという言い伝えに基づく格言。)我々はもはやサマリア人を憎むことを望んでおらず,それゆえこのたとえ話の要点を見失いがちである。その要点をつかみたいなら,サマリア人の代わりに,事情によって、共産主義者あるいは反共主義者に置き換えて考えるべきである。害を加える者を憎むのは正しいという異議が出されるかもしれないが,私はそうは思わない。あなたが彼らを憎むならば,あなたもまた,害を加える者となるだけである。即ち、あなたが彼らに悪しきやり方を放棄させるように導くようにならない可能性が大きい。悪を憎むことは,それ自身,一種の悪への屈従(悪にとらわれること)である。悪から抜けだす道(方法)は理解(による方法)であって,憎悪(による方法)を通してではない。私は無抵抗を擁護しているのではない。だが,私は,抵抗が悪の広がりを阻止するのに効果的であるためには,最大限の(対象についての)理解と,我々が保持したい良いものが生き残ることと両立する最小限の力とを結び付けられるべきであると言っているのである。
 私が擁護しているような見解は行動における勇気と両立しないと一般的に力説されている。私は,歴史がこの見解を確証している(裏付けている)とは思わない。英国のエリザベス一世とフランスのアンリ四世とは,ほとんどすべての人がプロテスタント側か,カトリック側に立ち,狂信的であった時代に生きていた。二人とも,当時の過誤からは免れており,両方とも自由人であり続けながら,慈愛深く,しかも確かに相当な成果をおさめた。アブラハム・リンカーンは,私が知恵と呼んできたものから(決して)離れることなく,大規模な戦争を指導した。
Can wisdom in this sense be taught? And, if it can, should the teaching of it be one of the aims of education? I should answer both these questions in the affirmative. We are told on Sundays that we should love our neighbors as ourselves. On the other six days of the week, we are exhorted to hate. You may say that this is nonsense, since it is not our neighbour whom we are exhorted to hate. But you will remember that the precept was exemplified by saying that the Samaritan was our neighbour. We no longer have any wish to hate Samaritans and so we are apt to miss the point of the parable. If you want to get its point, you should substitute Communist or anti-Communist, as the case may be, for Samaritan. It might be objected that it is right to hate those who do harm. I do not think so. If you hate them, it is only too likely that you will become equally harmful; and it is very unlikely that you will induce them to abandon their evil ways. Hatred of evil is itself a kind of bondage to evil. The way out is through understanding, not through hate. I am not advocating non-resistance. But I am saying that resistance, if it is to be effective in preventing the spread of evil, should be combined with the greatest degree of understanding and the smallest degree of force that is compatible with the survival of the good things that we wish to preserve.
It is commonly urged that a point of view such as I have been advocating is incompatible with vigour in action. I do not think history bears out this view. Queen Elizabeth I in England and Henry IV in France lived in a world where almost everybody was fanatical, either on the Protestant or on the Catholic side. Both remained free from the errors of their time and both, by remaining free, were beneficent and certainly not ineffective. Abraham Lincoln conducted a great war without ever departing from what I have called wisdom.
(掲載日:2016.02.10/更新日:)