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『ラッセル協会会報』n.8(1967年7月),p.1. * 筆者は当時,東工大教授,ラッセル協会理事 ラッセルと文学者との実際のつきあいは,どうであったであろうか。1956年に出た『思い出の人たち』(Portraits from Memory and Other Essays/みすず書房版邦訳書名『自伝的回想』)には,D.H.ロレンス(1885-1930)と J.コンラッド(1857-1924)の肖像が描かれている。ロレンスは文学者の中でも特に個性のきわだって強い人である。ラッセルは,どの著書の中であったか,ロレンスのエネルギーの強さの誇示が実はかれの肉体的な弱さの裏返しだと,フロイト流の解釈を施しているが,この『思い出の人たち』では,デモクラシーをあたまから否定するロレンスの幾回かの手紙のために,ラッセルが動揺し,一時「自分にない洞察力」をロレンスが持っているような気がして,ついに「二十四時間のあいだ,自分など生きる資格のない人間だと考え,真剣に自殺を考えた」という話が載っている。しかし,けっきょく,この「病的な気持」から立直り,ラッセルは,「健全な考えに戻る」のである。 コンラッドの場合はどうであろうか。はじめ,コンラッドを紹介する人があって,ラッセルは会う気になるのだが,最後は,道で誰かと立話をしているコンラッドの姿を見かけながら,遠慮から声もかけずに通りすぎ,その後まもなくコンラッドの訃をきいて,さきの躊躇を後悔している。(松下注:ラッセルはコンラッドと手紙のやりとりを何回かしている。『ラッセル自叙伝』参照) コンラッドはひところ海洋小説家と呼ばれ,わが国でも大正年間にかなり読まれたが,その後はどちらかと言えば忘れられかけていた作家である。「コンラッドは忘れられかけているのではないかとおもうが,しかし,かれの激しい熱情的な気品は,わたしの思い出のなかに,泉の底から見た一つの星のようにかがやいている。わたしはかれの放つ光がわたしにかがやいたように,ほかの人たちにもかがやくようにできたらばとおもう。」 これが,ラッセルの『思い出の人たち』のコンラッドについての結びの言葉である。 |