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日高一輝「苔雫荘(笠会長の思い出)」
『ラッセル協会会報』n.10(1968年4月)pp.3-4.

* 日高一輝(ひだか・いっき, 1912〜 ):当時、ラッセル協会常任理事。

 箱根のわたくしの寓居を訪ねて来られたことがある。
 庭の地面、石の蔭、樹木の根のあたりに一面に敷きつめた苔を眼にとめられた先生は、嬉しさで浮き浮きとしだされた。「何とかして茅ケ崎(=笠会長の自宅)に貰ってゆきたいけれども如何だろうか・・・」 普段あまり欲を仰言らない先生であったが、苔ともなると話は別である。
 わたくしはシャベルを二本借りて来た。二人で苔を採りはじめた。先生は、さも高価な宝でも掘るように、念入りに、慎重にシャベルの先を動かされる。わたくしのシャベルの方にまで細かく注意をして、掘り方を教えてくださる。先生が、遠慮がちにしながらも、あんなに喜びに満たされて、一心に、夢中に、せっせと苔を掘っておられたお姿が、笠信太郎の名と共に、何時もわたくしの脳裡から去らない。
 一九五九年、わたくしがロンドンのラッセル卿のもとに赴くに当って、出来ればラッセル卿を日本にお招きしたいというアイデアを提げて、一日、先生のところにご相談に上った。笠先生ならばと確信していたからである。いろいろと語り合うほどに、先生は、わたくしが想っていた以上に、深く深くラッセル卿に傾倒しておられたことを知った。思想的なこともさることながら、むしろそれ以上に人間的な近親感をいだいておられたのである。そして、「何とかして実現してほしい・・・」と乗り気になられ、招待者として表には(平和アピール)七人委員会が立ち、経費その他については「朝日」とも協議して、笠先生が責任をもたれるというお約束をしてくださった。ついにラッセル卿のご承諾は得られなかったけれども、しかし、笠先生のこのご熱意が、後にラッセル協会につながることになったとも言えるのである。
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 この協会の発足に当って、会長にはぜひ笠先生をということになって、茅ケ崎の'苔雫荘'に懇請に上った。縷々(るる)と経過を説明して、先生のご出馬をお願いした。先生は、じっと沈思黙考されてから、その場で快諾をしてくださった。そうして、(1)ラッセルのものの考え方についていかに共鳴しておられるか−−ラッセル思想の研究、理解がいかに有意義であるか−−誤解されやすいラッセルを正しく伝えることがいかに必要であるか、(2)似而非たる会が多すぎる今日の日本において、ラッセル協会のような性格の協会がいかに大切であるか、等について語ってくださった。そして、ひきうけるからには自分は、真剣に、自分の全心を傾注してこの会のために尽したいと仰言ってくださった。真正面からわたくしどもの要請をうけとめ、応えてくださった先生である。そうしてそれを先生は、会長として実証してくださった。どんなに些細な事にでも真剣に協議に加わり、どんなに小さな会合でも欠かさず出席してくださった。先生の知性と良識はもとよりのこと、この会のためにそそがれた愛情と誠実を思うにつけて、敬慕の念を禁じ得ないのである。