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バートランド・ラッセル「拡大する知的宇宙」

* 出典:バートランド・ラッセル(著),大竹勝(訳)「拡大する宇宙の精神的把握(1958年執筆)(『わが精神の冒険』荒地出版社,1959年。238pp.p.27-41 所収)
* 大竹勝訳は改訳の必要あり
*'The Expanding Mental Universe' (written in 1958). Repr. in Adventures of the Mind, ed. by Richard Thruelsen and John Kobler (Curtis Publishing Co., 1958)

* 訳者の大竹勝(1909~1993)は、ラッセル協会設立発起人の1人
(Saturday Evening Post紙のラッセル紹介文)
 バートランド・ラッセルは、三代目ラッセル伯爵/アンバリー子爵(の次男)/数学者、哲学者、教育家、作家で、自分のことを「陽気な悲観論者」と呼んでいる。その論旨のため(一九一八年、平和主義者として)投獄されたこともあるが、ラッセルは一九五〇年度ノーベル文学賞を授与されるにあたって、「現代の最も才気ある、合理性と人間性の代弁者、西洋の言論と思想のための最も勇敢な闘士」と称えられた。八十七歳の今日、ラッセル卿はウェールズ(Wales)にある自宅とロンドンのテムズ河をのぞむ広いアパート(松下注:フラット)とで交互に暮している。
 近代知識がわれわれの精神生活におよぼす影響は、多岐にわたっているが、将来は、これまでよりも、もっと多くなるのではないかとすら思われる。精神生活は伝統的には、三つの面に分類されている――思索(思考)、意志、感情がそれである。この分類にはたいして科学的な妥当性はないけれども、議論のためには便利であるから、それに従っておくことにしよう。

 近代知識の最初の影響が思索(思考)におよんだことはわかり切ったことであるが、近代知識は、すでに、重要な影響を意志の分野においてもおよぼしているし、当然、同様な影響を感情の分野でもおよぼすに相違ない。もっとも今までのところ、その発展は十分とは言えないけれども。そこで、わたしは、純粋に知的な影響から始めることにしよう。

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 天文学者たちが広く支持しているある学説によれば、物理的宇宙は絶えず拡大している。われわれのところからあまり近くにないあらゆるものがわれわれから遠のいており、遠くにあればあるほど、ますます早い速度で遠のいている。この学説を支持しているひとたちの考えでは、宇宙のきわめて遠い部分は、光よりも早い速度でわれわれから遠のいているので、不断に、視界のそとに消えうせているのである。この拡大する物理的宇宙の学説が今後も学界で認められていくものかどうか、わたしにはわからないが、精神的宇宙の拡大については疑いの余地はあるまい。科学がそうだとしめしてきた宇宙を認識するひとびとは、過去の時代では思いもよらなかったほどに、また今日でも、多くのひとびとにとっては、途方にくれるほど苦痛なまでに、空間的にも時間的にも、想像をたくましくしなければならないのである。

 空間的世界の拡大は、ギリシアの天文学者たちによって始められた。アナクサゴラスは、アテネ市民に哲学を教えさせるため、ペリクレスがアテネに招いたのであったが、太陽はペロポネスス半島くらいの大きさであるという意見を持っていた。しかし同時代のひとびとは、これは、とほうもない誇張だときめていた。しかし、そのうちに、天文学者たちは、地球からの太陽および月との距離測定の方法を発見した。そして彼らの計算は正確とは言えなかったけれども、その計算からしても、太陽が地球の二百倍近くはなければならないことをしめすには十分であった。シセロ(松下注:キケロ)の家庭教師であったポシドニウスは古代においてなされた太陽の距離のもっとも正確な測定を行なった。彼の測定は正確な数値の半分に近かった。彼の時代以後の古代天文学者たちは彼よりも正鵠(せいこく)を失したけれども、いずれもみな、太陽系にくらべては、地球の大きさは微々たるものであることを認識することにかわりはなかった。
 中世期には、知的な後退が起こって、それまでにギリシア人が持っていた多くの知識は忘れられた。中世期に考えられた宇宙のもっとも想像的なすがたダンテの天界であった。このなかには、いくつかの同心円の天球層があって、月、太陽、いろいろな遊星、恒星があり、さらに最高天がある。ビアトリスに案内されて、ダンテは二十四時間でそこを一巡するのである。彼の宇宙は、近代人にとっては、信じられないほど、小じんまりしたものである。われわれが住まねばならない宇宙とそれをくらべるならば、暴風雨のなかのさかまく太洋とあのオランダ画家の描いた室内との関係にも似たところがある。ダンテの物理的世界には全然神秘も、深淵も、未知の世界の、想像もつかないような集積もない。それは快適で、住みよく、人間味があり、温かいが、近代天文学になじんだひとびとにとってはいやにせせこましく、天界の自由な大気のものというよりは獄舎の整頓のいきとどいた様子にもなぞらえられるであろう。

 十七世紀の初期以来、われわれの宇宙概念は空間的にも、時間的にも大きくなってきたし、つい近年までその増大は際限がないかのように思われてきた。太陽との距離は、ギリシア人が想像していたより、はるかに厖大なものであり、遊星のあるものは太陽よりもはるかに遠方にあることが発見された。恒星は、その一番近いものですら、太陽よりも茫漠たる彼方にあることが発見された。太陽の光が、われわれのところに達するのには約八分を要するが、われわれに一番近い恒星の光でも約四ヵ年はかかる。われわれが肉眼で別々に見ることの出来る星は、「銀河」、もっと世俗的な言葉では「ミルキー・ウエイ」「天の河」と呼んでいるところの厖大な集合体をなしている、われわれの直接の近隣者である。これこそ、われわれが肉眼で見ることのできるほとんどすべての星をふくむ一集合体であるが、それは(われわれの「銀河」は)、そのような集合体(全体のなか)のいく百万のうちの一つでしかない。そのような集合体がいくつあるのかわれわれにはわからない。それというのも、ますます強力になっていく望遠鏡が、たえず、ますます増大する数の集合体を明らかにしているからである。
 若干の数字が想像の助けとなるであろう。われわれに一番近い恒星の距離は約二五兆マイルである。(右写真:アンドロメダ星雲)「天の河」は、いわば、われわれの教区みたいなものであるが、それは約三千億の星数をふくんでいる。「天の河」に匹敵するいく百万の集合体があって、その一つの集合体から次のものまでの距離は光線が通過するのに約二百万年を要するのである。宇宙には相当な量の物質がある。太陽の重量は二兆×兆×兆トンである。「天の河」の重量は太陽の約一千六百億倍で、「天の河」に匹敵するいく百万の集合体があるのである。しかしそれほど物質があるにもかかわらず、宇宙の厖大な大部分は空虚である、ほとんど空っぽであると言ってもよい。

 時間に関しても、同様にわれわれの思想を拡大する必要がある。この必要はまず地質学と古生物学にしめされた。化石、水成岩、火成岩は、とうぜん、非常に長い地球の大古に遡る歴史をあたえた。それから、太陽系と星雲の起源についての諸学説があらわれた。今や、もっとも強力な現在の望遠鏡をもってすれば、それから発する光がわれわれのところに達するには、五億年を要するほどの遠い物体を見ることが出来るのであるが、われわれが見るところのものは、現に起こっているところのものではなくて、かのはるかに遠い過去に起ったところのものなのである。

 これまでのところ、わたしが述べてきたことは、思想(思索)の分野におけるわれわれの精神的宇宙の拡大に関することであった。わたしは今や、この拡大が意志と感情の分野においておよぼし、かつ当然およぼすべき影響に言及することにしよう。
 まったく地上の出来事のなかに没頭し、空間と時間とにおいて遠くにある物事にほとんど思いをいたしたことのないひとびとにとっては、天文学的深淵にくらべて、人間が微少であり、すべての人間の関心事が些細であることを悟るにあたり、初めは、なにか手のつけられぬ、重苦しい、あるいはまた麻痺状態にさえさせるようなところがあるであろう。しかしこの影響は、合理的でもなければ長くつづくべきことでもない。たんなる量の大きさを崇拝する理由はさらにない。われわれはかならずしも痩せた男より肥った男を尊敬するとはかぎらない。アィザック・ニュートン卿は河馬よりははるかに小さかったが、それだからと言って、われわれは、彼を彼よりもっと大きな動物ほど価値がないとは思わない。人間の精神のサイズ――そんな言葉づかいが許されるならば――は、人間の肉体のサィズで測定されるべきものではない。それは、測定が可能な範囲において、彼が思索と想像において把握する宇宙のサィズと多様性によって測定さるべきである。天文学者の精神は、彼が認識するところの宇宙とともに、一歩一歩成長することができるし、また成長すべきである。そしてわたしが彼の精神は成長すべきであると言うとき、わたしが意味しているのは、彼の全体的な精神(心)のことを言っているのであって、その知的な面のみを言っているのではない。一個のまとまったものとしての人間が、彼の知識の成長とともに成長するというのであれば、意志と感情とが思想に伍してゆかねばならない。もしこれが獲得されないとするならば――知識は宇宙的となって行くのに、意志と感情とは地方的なものにとどまるとするならば――、調和の欠如が起こり、ひいては一種の狂気を生むことになり、その影響は悲惨なものとならざるをえまい
 わたしは、これまで知識のことを考察してきたのであるが、これからは叡知(智恵)のことを考慮してみたい思う。そして叡智とは知識と意志と感情との調和であって、けっして必ずしも知識の成長にともなって、成長するとはかぎらないのである。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)

 まず意志から始めることにしよう。世の中には人間に成就出来ることと、成就出来ないこととがある。カニュート王があげ潮を止めさせようとした物語は、人間の力のおよばないことを意志することのおろかさをしめすために意図されたものであった。過去においては、人間に可能なことはきわめてかぎられていた。最悪の意図を持った悪人といえども、きわめてかぎられた範囲の害悪をおよぼすに止まった。最善の意図を持った善人も、きわめてかぎられた範囲の善しか出来なかったのである。ところが知識の、もろもろの増大を見るにいたって、人間の修得出来る量は増大した。われわれの科学的な世界にあっては、そして、遠からぬ将来における、さらに科学的な世界における知識の増大を推量するとき、われわれの先祖が、夢想も出来なかったほど、大きな害悪を、悪人は行なうことが出来るし、はるかに大きな善を善人は行なうことが出来るにいたるであろう。中世期の末までは、四種類の物質、いわゆる地、水、風、火の四大要素しかないと考えられていた。この学説の妥当性が、ますます明らかになってくるにつれ、科学者によって認められた元素の数は増加するばかりで、ついには九十二と推定されるところまできた。現代の原子研究は、自然に生じないところの新しい元素を製造することを可能にした。残念なことには、こういった新しい元素がいずれも人体に有害であって、きわめて少量でも多数のひとびとを殺すことができるということである。この意味において、最近の科学は有益であったとは言えない。これに反して、科学は、病気と戦い寿命を延ばす方法においては、ほとんど奇蹟と見えるような業績をおさめたのである。

 人間の力のこれらの増加は地上のものにとどまっている。すなわち、われわれは地上において、過去においてその比をみないほど、生活を形成することも可能になったし、もし冗談にでも、その気になれば、生命を断つ(人類だけでなく、すべての地球上の生命を消滅・絶滅させる)ことも出来るようになった。しかし、そのような気まぐれから人間のとどめをさすようなことにならないなら、われわれは広大な人間力拡張の出発点に立っているのである。経費の採算がとれると考えられるなら、にむけ発射体(ロケットや弾丸など)をうちあげることも出来るし、一部のひとびとの意見では、人間はやがて月に人間の生活を維持させることが可能であるという。火星や金星が長く征服されないでいるだろうと想像する理由はない。その一方、ジョンスン上院議員は、科学の力が地球に驚くべき影響をあたえることが出来る旨を上院に語った。彼自身の言葉を引用するならば「科学の力は地球の天候を統御し、かんばつや洪水を起こし、メキシコ湾の潮流を変更させ、温帯を寒帯に代えさせる力を持つことも出来る」と言うのである。
 われわれが、このような巨大な力を持つようになったとき、われわれはどんな目的にそれを用いるのであろうか。これまで、人間は無知と無能のおかげで生存してきた。人間は烈しい動物であって、勝手放題に害悪のかぎりをつくした有力者がいつの時代にもいた。しかし彼らの活動は、彼らの技術の限界によって制限されていた。今では、これらの制限は消え去りつつある。われわれの増加した器用さをもって、過去における専制君主が追っていたくらいの高邁さしかない目的を追求しつづけるのであるならば、われわれは自からを崩壊に宿命づけることになり、恐竜が滅亡したのと同様に滅亡することになるであろう。恐竜もまた、かつては動物の王者であった。彼らの時代の競争で彼らに勝利をあたえたところのいろいろな角を彼らは発育させた。しかし、他の恐竜が彼らを征服することは出来なかったけれども、恐竜は死滅し、この世を鼠や二十日鼠のような、もっと小さな動物にのこしたのである。

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 叡知のない器用さ(や小利口)を育成したならば、われわれもまた、似たような運命をたどることになるであろう。競争相手国の両発射体が同時に月に着陸し、水素爆弾を装備されている両者がお互いに交戦し、相手を撲滅させることに成功するという情景が目に見えるようである。わたしはそのような将来について考えてみることは少しも楽しくない。わたしとしては、われわれが自分の家を整頓し終るまで、月のことには触れないでいたほうがいいという気がしてならない。今までのところ、われわれの愚かさは地上のことにかぎられてきたが、愚かさを宇宙的なものにしたところで、勝利のほどは疑わしい。
 科学が人類の意志に与えた力の増大
が、恩恵となって、呪いとはならないとするならば、それらの意志が向けられる目的はそれを遂行する力の発展に比例して成長しなければならない。
これまでのところ、日曜毎に、われわれは、隣人を愛するように教えられてきたけれども、われわれは平日には、隣人をにくむように教えられてきた。ところで、平日は日曜の六倍もあるのである。これまでは、われわれが隣人をにくむことによってあたえることのできた害悪は、われわれの無能力によって制限されていたが、われわれが入ろうとしているところの世界においては、そのような制限は全然ないのだから、憎悪にひたることは、最終的で完全な破滅にいたるのみである。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)

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 このような考慮をしているとわれわれは感情の分野を考えたくなる。われわれが追求しようとする目的を決定するものは感情である。人間の力の厖大な増進をどんな役に立てようかということを決定するのは感情である。感情は、われわれの精神能力のその他のすべてと同様、生存競争のなかで次第に発達してきたものである。きわめて初期の頃から、人間はグループに別れていて、それは時代の経過につれ、家族から種族、種族から民族、民族から連合へと次第に増大していったのである。この過程を通じて、生物学的な必要が二つの相反する道徳体系を生じたのである。一つは自分自身の社会グループを取り扱うためのものであり、もう一つは外部者を取り扱うためのものである。モーゼの十戒は殺すことなかれ、ぬすむことなかれとわれわれに教えているが、われわれ自身のグループの外にあっては、これらの禁止は多くの制限を条件としている。歴史においてもっとも有名なひとびとの多くは、自分のグループが他のグループを殺し、他のグループからぬすむことを援助した腕前によってその名声を得ているのである。今日にいたるまで、イギリスの貴族は、彼らの先祖がノルマン人であって、サクソン人が彼らを殺したよりもサクソン人を殺すことにすぐれていたことを証明することが出来れば、得意である。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)
 われわれの感情生活は条件づけられてしまっていて、自分の種族と、集団的にこれに張り合っている他種族との間にあるこの対抗によって、今日では、それは、生物学的に見ても、ためにならないほどになっている。近代技術によって作り出された新しい世界にあっては、経済的繁栄は以前に唱道されていた手段とはかなりちがった手段によって確保されることになっているのである。未開種族は、競争相手の種族を絶滅することができれば、敵を食い殺すばかりでなく、敵の領地を専有し、前よりも安楽に暮すことが出来るのである。次第に減少してはいったが、こういった征服の利益は近代まで残存してきた。
 しかし今日では事態はその反対である。協力する二つの民族は、両者が競争する場合にいずれかの方が獲得出来るよりも、繁栄を獲得する公算ははるかに大きい。われわれの感情は、われわれの技術に未だ十分順応していないために、競争はつづいている。それは依然として続いていて、だれが見ても、競争者のすべてに滅亡をもたらしかねない様相である。それでもなお競争がつづいているのはわれわれが、われわれの感情を、技術的熟練と同率に成長させることが出来ないからである。(右イラスト出典: Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953.)
 技術的熟練は、それに見合う感情の拡大がない場合には、成功出来ないような技術的統一を生ずる。それは目的の統一が欠けているからである。技術的に進んだ世界にあっては、一地方において成されたことは、かなりちがった地方にも大きい影響をもたらすことになろう。われわれの感情においてわれわれが自分たちの地方だけのことしか考慮しないならば、全体としての機構は円滑に活動することは出来ない。この過程は、いろいろな形で、進化を通じて持続してきたものである。海綿動物は、それが海の中で生きているあいだは、一棟のアパートのように、多数の微生物の共同住宅みたいなもので、おのおのの微生物は、ほとんどまったく各自独立していて、他の微生物の利益などには全然関心を持たされるということがない。もっと発達した動物の肉体においては、各細胞は、あるていど個別的な生物として残るけれども、全体の繁栄を通してのみ繁栄することが出来るのである。においては、一グループの細胞が帝国主義の仕事にかかるのであるが、身体の他のすべての細胞を死にいたらしめることによって、自からの墓穴を掘ることになるのである。自分の利益という点からみれば、人体は一つの単位である。ひとは、足の親指の利害を小指の利害とかみあわせてみるようなことはできない。身体の一部分が繁栄するためには、全体としての身体の共同目的に対する協力がなければならない。
 おなじような統一が、未だきわめて不完全ではあるけれども、人間社会において起こりつつある。そしてそれは、漸次、一つの身体に属するところの統一と同種類のものに近づきつつある。食事をするとき、健康であるならば、滋養は身体のあらゆる部分に有益であって、口が外のもののために骨を折ってくれるとは、なんと親切で没我的なんだろうと考える者はあるまい。科学的社会が残存しうるはずならば、この種の統一と自己の利益の拡大とが起こらねばなるまい。感情の分野におけるこの拡大は、世界のいろいろな部分の新しい相互依存にとって必要になって来た。
 そこで、将来起こりそうなことを例にとってみよう。南半球のある国が南極大陸に人が住めるように開拓し始めたと仮定する。第一の段どりは、氷を溶かすことであろう――それは、未来の科学が可能にしそうな一つの妙技であろう。氷の溶解は各地の水面を高めることになり、大部分のオランダやルイジアナ州やその他多くの低地を水中に没せしめることになろう。明らかにそのような国々の住民は熱心に自分たちを溺死させるような計画には反対することであろう。わたしが、いくらか幻想的な例をえらんだのは、現存する政治上の激情をかきたてるような例を避けたいという一念からである。わたしが関心を持っている点は、大きな不幸を避けたいというのなら、密接な相互依存は共同の目的を必要とするということであって、共同目的といっても、ある感情の一致がなければ、首尾よく行くものではないということである。ことわざにあるキルケニの二匹の猫はしっぽのはしだけが残るまで喧嘩をしたのだが、両方に思いやりがあったなら、両方とも幸福に暮したことであろう。
 宗教は久しく隣人を愛し、他人の不幸よりも幸福を望むことが、われわれの本務であると教えてきた。不幸にして、活動的なひとびとはこの教えにほとんど注意をはらわなかった。しかしこれから現われようとしている新しい世界では、宗教が唱道してきたところの他人にたいする親切な感情は、ただ道徳的本務となるばかりでなく、生存の必要欠くことできない条件となるのである。一つの人体はもし両手が両足と軋轢(あつれき)を生じ、胃が肝臓と交戦していたならば、長く生きることは出来ない。この点について、全体としての人間社会は、ますます一つの人体に似てきた。そしてわれわれが生存しつづけるというのなら、個人の福祉についてのわれわれの感覚が身体全体にかかわるものであって、そのあちこちの部分にのみかかわるものではないのと同様に、われわれは人間社会全体の福祉にわれわれの感情が向けられるようにしむけねばなるまい。とにかく、そのような感情のありかたは立派なものであったであろうが、今日、人間の歴史で初めて、人間が亨受しようと欲するもので、何かを成就したいと思うならば、それは必要になり始めたのである。
 先覚者や詩人は久しく前から、わたしがぼんやりとしめそうと試みているこの種の自我の拡大についての直観を持っていた。彼らが教えてきたことは、人間は叡知と呼ばれるところのあるものに可能性を持っており、それは知識だけ、意志だけ、感情だけでなりたっているのではなくて、一つの綜合であり、三者全部の密接な統一であるということであった。

 ギリシア人のなかの若干の者、ことにソクラテスは、知識だけで完全な人間を創造するには十分であると考えていた。ソクラテスによれば、故意に罪を犯かす者はないのだから、もしわれわれがみな十分な知識を持っていたら、われわれはみな完全に行為するはずである。わたしはこれは正しいとは考えない。ひとは、厖大な知識と、同様に厖大な悪意とを持った悪魔的な存在を想像することができるし、悲しいかな、そのような存在に似た人物は人間の歴史に何名も出ているのである。誤謬よりも知識を求めるということだけでは十分ではない。その反対よりも慈愛を感ずることが、また必要である。しかし知識だけでは十分ではないとしても、それは叡知のきわめて重要な要素である。
 生まれたての赤ん坊の世界は、彼のすぐそばにある環境にかぎられている。それは感情で、直接にわかるところのものによってしきられた小さな世界である。それは「いま-ここ」の壁のなかに閉じ込められている。しだいに知識が増すにつれて、これらの壁は後退する。記憶と経験とが、成長する子供の生活において、過ぎ去ったこと、遠くにあるものをしだいにもっとはっきりさせてくれる。もし、子供が科学者に成長するならば、彼の世界は、わたしが初めのほうで話したところの空間と時間のきわめて遠い部分を包括することになろう。もし彼が叡知をうるに到るならば、彼の感情は知識の成長につれて、成長しなければならない。神学者たちの語るところでは、神は、「いま-ここ」にわずらわされず、大なり小なり、われわれが必然的に運命づけられているところの感覚と感情の不公平さのない、一つの厖大な全体としての宇宙をみそなわし給うという。われわれはこの完全な不偏性を獲得することは出来ないし、もし獲得していたら生きながらえることも出来なかったであろうが、人間としての制限の許す範囲で、出来るだけその不偏性に近づくべきであり、近づくことも出来るのである。われわれは日常生活において、焦燥や心配や失敗に悩まされている。
 われわれは、あまりにもやすやすと直接の環境において邪魔になるものについて考え込んでしまう気がする。しかし、日常生活のわずらわしいことが些細なものに感じられ、われわれのもっと深い感情がわれわれの宇宙についての瞑想の厖大さの様相をおびてくるような、そうした大きい世界に住むことは可能であるし、真の知恵者たちは、それが可能であることを証明している。その修得の程度には大小いろいろであろうが、そのように修得しようと念ずるすべてのひとが、ある程度は修得できるのであって、ひとびとがそれに成功するかぎり、活動を阻害されることなく、しかも激動させないところの一種の心のやすらかさを獲得することになろう。
 わたしが描き出そうとしている精神状態は、叡智という言葉でわたしが意味しているところのものであって、明らかにきわめて貴重なものである。世界は、かつてなかったほど、この種の叡知を必要としているのである。もし人類がそれを獲得するならば、自然を征服するわれわれの新しい力は、人間がこれまでに経験したこともなければ、想像だにすることの難しかった幸福と福祉の見通しをあたえることになる。もし叡知を得ることが出来ないとすれば、もろもろの器用さ(小利口さ)の増進は、ひたすらに、とりかえしのつかぬ不幸にわれわれを近づけるばかりであろう。人間はいろんな善行と悪事を働いてきた。善行のあるものはなかなか立派であった。このような善行を愛するすべてのひとびとは、できるだけの自信をもって、この決意の秋(とき)にのぞんで、聰明な選択がなされることを希望しなければならない。
The effects of modern knowledge upon our mental life have been many and various, and seem likely, in future, to become even greater than they have been hitherto. The life of the mind is traditionally divided into three aspects : thinking, willing, and feeling. There is no great scientific validity in this division, but it is convenient forpurposes of discussion, and I shall, therefore, follow it.

It is obvious that the primary effect of modern knowledge is on our thinking, but it has already had important effects in the sphere of will, and should have equally important effects in the sphere of feeling, though as yet these are very imperfectly developed. I will begin with the purely inte1lectual effects.

The physical universe, according to a theory widely held by astronomers, is continually expanding. Everything not quite near to us is moving away from us, and the more remote it is, the faster it is receding. Those who hold this theory think that very distant parts of the universe are perpetually slipping into invisibility because they are moving away from us with a velociy greater than that of light. I do not know whether this theory of expanding physical universe will continue to hold the field or not, but there can be no doubt about the expanding mental universe. Those who are aware of the cosmos as science has shown it to be have to stretch their imaginations both in space and in time to an extent which was unknown in former ages, and which to many in our time is bewilderingly painful.
の画像 The expansion of the world in space was begun by the Greek astronomers. Anaxagoras, whom Pericles imported into Athens to teach the Athenians philosophy, maintained that the sun is as large as the Pelopennesus, but his contemporaries thought that this must be a wild exaggeration. Before long, however, the astronomers discovered ways of calculating the distance of the sun and moon from the earth, and, although their calculations were not correct, they sufficed to show that the sun must be many times larger than the earth. Poseidonius, who was Cicero's tutor, made the best estimate of the sun's distance that was made in antiquity. His estimate was about half of the right value. Ancient astronomers after his time were farther from the mark than he was, but all of them remained aware that, in comparison with the solar system, the size of the earth is insignificant.
In the Middle Ages there was an intellectual recession, and much knowledge that had been possessed by the Greeks was forgotten. The best imaginative picture of the universe, as conceived in the Middle Ages, is in Dante's Paradiso. In this picture there are a number of concentric spheres containing the moon, the sun, the various planets, the fixed stars, and the Empyrean. Dante, guided by Beatrice, traverses all of them in twenty-four hours. His cosmos, to a modern mind, is unbelievably small and tidy. Its relation to the universe with which we have to live is like that of a painted Dutch interior to a raging ocean in storm. His physical world contains no mysteries, no abysses, no unimaginable accumulation of uncatalogued worlds. It is comfortable and cosy and human and warm; but, to those who have lived with modern astronomy, it seems claustrophobic and with an orderliness which is more like that of a prison than that of the free air of heaven.
Ever since the early seventeenth century our conception of the universe has grown in space and time, and, until quite recent years, there has not seemed to be any limit to this growth. The distance of the sun was found to be much greater than any Greek had supposed and some of the planets were found to be very much more distant than the sun. The fixed stars, even the nearest, turned out to be vastly farther off than the sun. The light of the sun takes about eight minutes to reach us, but the light of the nearest fixed star takes about four years. The stars that we can see separately with the naked eye are our immediate neighbours in a vast assemblage called 'The Galaxy', or, in more popular parlance, 'The Milky Way'. This is one assemblage of stars which contains almost all that we can see with the naked eye, but it is only one of many millions of such assemblages. We do not know how many there may be.
A few figures may help the imagination. The distance of the nearest fixed star is about twenty-five million million miles. The Milky Way, which is, so to speak, our parish, contains about three hundred thousand million stars. There are many million assemblages similar to The Milky Way, and the distance from one such assemblage to the next takes about two million years for light to traverse. There is a considerable amount of matter in the universe. The sun weighs about two billion billion billlon tons. The Milky Way weighs about a hundred and sixty thousand million times as much as the sun, and there are many million assemblages comparable to The Milky Way. But, although there is so much matter, the immensely large part of the universe is empty, or very nearly empty.

In regard to time, a similar stretching of our thoughts is necessary. This necessity was first shown by geology and paleontology. Fossils, sedimentary rocks and igneous rocks gave a backward history of the earth which was, of necessity, very long. Then came theories of the origin of the solar system and of the nebulae. Now, with the most powerful existing 'telescopes, we can see objects so distant that the light from them has taken about five hundred million years to reach us, so that what we see is not what is happening now, but what was happening in that immensely distant past.  

What I have been saying concerns the expansion of our mental universe in the sphere of thought. I come now to the effects this expansion has, and should have, in the realms of will and feeling.
To those who have lived entirely amid terrestrial events and who have given little thought to what is distant in space and time, there is at first something bewildering and oppressive, and perhaps even paralysing, in the realization of the minuteness of man and all his concerns in comparison with astronomical abysses. But this effect is not rational and should not be lasting. There is no reason to worship mere size. We do not necessarily respect a fat man more than a thin man. Sir Isaac Newton was very much smaller than a hippopotamus, but we do not on that account value him less than the larger beast. The size of a man's mind - if such a phrase is permisslble - is not to be measured by the size of a man's body. It is to be measured, in so far as it can be measured, by the size and complexity of the universe that he grasps in thought and imagination. The mind of the astronomer can grow, and should grow, step by step with the universe of which he is aware. And when I say that his mind should grow, I mean his total mind, not only its intellectual aspect. Will and feeling should keep pace with thought if man is to grow as his knowledge grows. If this cannot be achieved - if, while knowledge becomes cosmic, will and feeling remain parochial - there will be a lack of harmony producing a kind of madness of which the effects must be disasterous.
We have considered knowledge, but I wish now to consider wisdom, which is a harmony of knowledge, will and feeling, and by no means necessarily grows with the growth of knowledge.

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Let us begin with will. There are things that a man can achieve and other things that he cannot achieve. The story of Canute's forbidding the tide to rise was intended to show the absurdity of willing something that is beyond human power. In the past, the things that men could do were very limited. Bad men, even with the worst intentions, could do only a very finite amount of harm. Good men, with the best intentions, could do only a very limited amount of good. But with every increase in knowledge, there has been an increase in what men could achieve. In our scientific world, and presumably still more in the more scientific world of the not distant future, bad men can do more harm, and good men can do more good, than had seemed possible to our ancestors even in their wildest dreams. Until the end of the Middle Ages, it was thought that there were only four kinds of matter, the so-called elements of earth, water, air and fire. As the inadequacy of this theory became increasingly evident the number of elements admitted by men of science increased until it was estimated at ninety-two. The modern study of the atom has made it possible to manufacture new elements which do not occur in nature. It is a regrettable fact that all these new elements are deleterious and that quite moderate quantities of them can kill large numbers of people. In this respect recent science has not been beneficent. Per contra, science has achieved what might almost seem like miracles in the way of combating diseases and prolonging human life.
These increases of human power remain terrestrial: we have become able, as never before, to mould life on earth, or to put an end to it if the whim should seize us. But, unless by some such whim we put an end to man, we are on the threshold of a vast extension of human power. We could now, if the expenditure were thought worth while, send a projectile to the moon, and there are those who hold that we could in time make the moon capable of supporting human life. There is no reason to suppose that Mars and Venus will long remain unconquered. Meanwhile, as Senator Johnson told the Senate, scientific power could have astonishlng effects upon our own planet. It could, to quote his own words, 'have the power to control the earth's weather, to cause drought and flood, to change the tides and raise the levels of the sea, to divert the Gulf Stream and change temperate climates to frigid'.
When we have acquired these immense powers, to what end shall we use them? Man has survived, hitherto, by virtue of ignorance and inefficiency. He is a ferocious animal, and there have always been powerful men who did all the harm they could. But their activities were limited by the limitations of their technique. Now, these limitations are fading away. If, with our increased cleverness, we continue to pursue aims no more lofty than those pursued by tyrants in the past, we shall doom ourselves to destruction and shall vanish as the dinosaurs vanished. They, too, were once the lords of creation. They developed innumerable horns to give them victory in the contests of their day. But, though no other dinosaur could conquer them, they became extinct and left the world to smaller creatures such as rats and mice.
We shall court a similar fate if we develop cleverness without wisdom. I foresee rival projectiles landing simultaneously on the moon, each equipped with H-bombs and each successfully engaged in exterminating the other. But until we have set our own house in order, I think that we had better leave the moon in peace. As yet, our follies have been only terrestrial; it would seem a doubtful victory to make them cosmic.
If the increased power which science has conferred upon human volitions is to be a boon and not a curse, the ends to which those volitions are directed must grow commensurately with the growth of power to carry them out. Hitherto, although we have been told on Sundays to love our neighbour, we have been told on weekdays to hate him, and there are six times as many weekdays as Sundays. Hitherto, the harm that we could do to our neighbour by hating him was limited by our incompetence, but in the new world upon which we are entering there will be no such limit, and the indulgence of hatred can lead only to disaster.

These considerations bring us to the sphere of feeling. It is feeling that determines the ends we shall pursue. It is feeling that decides what use we shall make of the enormous increases in human power. Feeling, like the rest of our mental capacities, has been gradually developed in the struggle for existence. From a very early time, human beings have been divided into groups which have gradually grown larger, passing, in the course of ages, from families to tribes, from tribes to nations, and from nations to federations. Throughout this process, biological needs have generated two opposite systems of morality: one for dealings with our own social group; the other for dealings with outsiders. The Decalogue tells us not to murder or steal, but outside our own group this prohibition is subject to many limitations. Many of the men who are most famous in history derive their fame from skill in helping their own group to kill people of other groups and steal from them. To this day, aristocratic families in England are proud if they can prove that their ancestors were Norman and were cleverer at killing Saxons than Saxons were at killing them.
Our emotional life is conditioned to a degree which has now become biologically disadvantageous by this opposition between one's own tribe and the alien tribes against which it collectively competes. In the new world created by modern technique, economic prosperity is to be secured by means quite different from those that were formerly advocated. A savage tribe, if it can exterminate a rival tribe, not only eats its enemies but appropriates their lands and lives more comfortably than it did before. To a continually diminishing degree these advantages of conquest survived until recent times.
But now the opposite is the case. Two nations which co-operate are more likely to achieve economic prosperity than either can achieve if they compete. Competition continues because our feelings are not yet adapted to our technique. It continues because we cannot make our emotions grow at the same rate as our skills.
Increase of skill without a corresponding enlargement in feeling produces a technical integration which fails of success for lack of an integration of purpose. In a technically developed world, what is done in one region may have enormous effects in a quite different region. So long as, in our feeling, we take account only of our own region, the machine as a hole fails to work smoothly. The process is one which, in varying forms, persisted throughout evolution. A sponge, while it is living in the sea, is like a block of flats, a common abode of a number of separate little animals each almost entirely independent of the others and in no way obliged to concern itself with their interests. In the body of a more developed animal, each cell remains in some degree a separate creature, but it cannot prosper except through the prosperity of the whole. In cancer, a group of cells engages in a career of imperialism, but, in bringing the rest of the body to death, it decrees also its own extinction. A human body is a unit from the point of view of self-interest. One cannot set the interest of the great toe in opposition to that of the little finger. If any part of the body is to prosper, there must be co-operation to the common ends of the body as a whole.
The same sort of unification is taking place, though as yet very imperfectly, in human society, which is gradually approximating to the kind of unity that belongs to a single human body. When you eat, if you are in health, the nourishment profits every part of your body, but you do not think how kind and unselfish your mouth is to take all this trouble for something else. It is this kind of unification and expansion of self-interest that will have to take place if a scientific society is to prove capable of survival. This enlargement in the sphere of feeling is being rendered necessary by the new interdependence of different parts of the world.
Let us take an illustration from a quite probable future. Suppose some country in the southern hemisphere sets to work to make the Antarctic continent habitable. The first step will be to melt the ice - a feat which future science is likely to find possible. The melting of the ice will raise the level of the sea everywhere and will submerge most of Holland and Louisiana as well as many other low-1ying lands. Clearly the inhabitants of such countries will object to projects that would drown them. I have chosen a somewhat fantastic illustration as I am anxious to avoid those that might excite existing political passions. The point is that close inter-dependence necessitates common purposes if disaster is to be avoided, and that common purposes will not prevail unless there is some community of feeling. The proverbial Kilkenny cats fought each other until nothing was left but the tips of their tails: if they had felt kindly toward each other, both might have lived happily.
Religion has long taught that it is our duty to love our neighbour and to desire the happiness of others rather than their misery. Unfortunately, active men have paid little attention to this teaching. But in the new world, the kindly feeling towards others which religion has advocated will be not only a moral duty but an indispensable condition of survival. A human body could not long continue to live if the hands were in conflict with the feet, and the stomach were at war with the liver. Human society as a whole is becoming, in this respect, more and more like a single human body; and if we are to continue to exist, we shall have to acquire feelings directed toward the welfare of the whole in the same sort of way in which our feelings of individual welfare concern the whole body and not only this or that portion of it. At any time such a way of feeling would have been admirable, but now, for the first time in human history, it is becoming necessary if any human being is to be able to achieve anything of what he would wish to enjoy.
Seers and poets have long had visions of the kind of expansion of the ego which I am trying to adumbrate. They have taught that men are capable of something which is called wisdom, something which does not consist of knowledge alone, or of will alone, or of feeling alone, but is a synthesis and intimate union of all three.
の画像 Some of the Greeks, and notably Socrates, thought that knowledge alone would suffice to produce the perfect man. According to Socrates, no one sins willingly, and, if we all had enough knowledge, we should all behave perfectly. I do not think that this is true. One could imagine a satanic being with immense knowledge and equally immense malevolence - and, alas, approximations to such a being have actually occurred in human history. It is not enough to seek knowledge rather than error. It is necessary, also, to feel benevolence rather than its opposite. But, although knowledge alone is not enough, it is a very essential ingredient of wlsdom.
The world of a newborn infant is confined to his immediate environment. It is a tiny world bounded by what is immediately apparent to the senses. It is shut up within the walls of the here-and-now. Gradually, as knowledge grows, these walls recede. Memory and experience make what is past and what is distant gradually more vivid in the life of the growing child. If a child develops into a man of science, his world comes to embrace those very distant portions of space and time of which I spoke earlier. If he is to achieve wisdom, his feelings must grow as his knowledge grows. Theologians tell us that God views the universe as one vast whole, without any here-and-now, without that partiality of sense and feeling to which we are, in a greater or less degree, inevitably condemned. We cannot achieve this complete impartiality, and we could not survive if we did, but we can, and should, move as far toward it as our human limitations permit.
We are beset in our daily lives by fret and worry and frustrations. We find ourselves too readily pinned down to thoughts of what seems obstructive in our immediate environment. But it is possible, and authentic wise men have proved that it is possible, to live in so large a world that the vexations of daily life come to feel trivial and that the purposes which stir our deeper emotions take on something of the immensity of our cosmic contemplations. Some can achieve this in a greater degree, some only in a lesser, but all who care to do so can achieve this in some degree and, in so far as they succeed in this, they will win a kind of peace which will leave activity unimpeded but not turbulent.

The state of mind which I have been trying to describe is what I mean by wisdom, and it is undoubtedly more precious than rubies. The world needs this kind of wisdom as it has never needed it before. If mankind can acquire it, our new powers over nature offer a prospect of happiness and well-being such as men have never experienced and could scarcely even imagine. If mankind cannot, every increase in cleverness will bring us only nearer to irretrievable disaster. Men have done many good things and many bad ones. Some of the good things have been very good. All those who care for these good things must hope, with what confidence they can command, that in this moment of decision the wise choice will be made.

(No. 31 in series 'Adventures of the Mind', The Saturday Evening Post, July 18, 1959. Vol. 322, No. 3. Reprinted in Adventures of the Mind, ed. by Richard Thruelson and John Kobler (New York: Alfred A. Knopf, 1959)