嘘をついてもよいという考えは、幼い子供には,最初は浮かんでこない。嘘をつくことができるというのは,一つの発見であり,それは,恐怖にかられておとなの顔色を窺うことから生じるものである。子供は,おとなが彼に嘘をつくことや,おとなに本当のことを言うのは危険だということ,を発見する。このような事情のもとに,子供は嘘をつくようになる。こうした誘因をなくしてやれば,子供は嘘をつこうとは思わないだろう。
The possibility of lying is a discovery, due to observation of grown-ups quickened by terror. The child discovers that grown-ups lie to him, and that it is dangerous to tell them the truth ; under these circumstances he takes to lying. Avoid these incentives, and he will not think of lying.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2: Education of character, chap. 8: Truthfulness
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE08-020.HTM
<寸言>
二世や三世の政治家であれば、親や祖父が(嘘も方便ということで)何度も国民に対し嘘をつくのを目撃すると、「不必要に事を荒立たせないほうがよい」ということで、自分もよく嘘をつくようになってしまう。本当のことを言えば落選してしまうと思っている者も少なくない。どこの国でも「嘘は政治家の始まり」というのが諺になっているようであるが、政治家がよく嘘をつくのは、国民も「心地良い嘘」に騙されたいと、無意識的に思っているのかも知れない。嘘はいやだと真剣に思うようになるのは、戦争中か、世界大恐慌が起こった後とか、原発事故のような大惨事が起こった時であろう。 幸か不幸か、再度の原発事故、大地震、アベノミクス崩壊、年金資金の株運用による蒸発、海外での紛争(小規模な戦争)、その他、政治家や支配層の嘘に気づく機会が、今後けっこうありそうである。 (安倍首相が嘘をついた事例は、道徳の副読本の材料に大量採用できそう。)