生物に適用される建設性は,機械に適用される建設性とはまったく異なっている。前者の場合は,より地味な機能があり,ある種の思いやりを必要とする。それゆえ,幼い子供に建設的な心を教えるときには,それを積み木や機械に対してだけではなく,植物や動物に対しても働かせる機会を用意してあげなければならない.
Constructiveness applied to living things is quite different from constructiveness applied to machines ; it has humbler functions, and requires a sort of sympathy. For that reason, in teaching constructiveness to the young, they should have opportunities of exercising it upon plants and animals, not only upon bricks and machines.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2: Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE06-080.HTM
<寸言>
教育行政(学校教育など)もそのような視点で行われることが少なくなく、文部官僚と現場の教師の考え方との意識や考え方によくずれが生じる。
現場の教師も生徒を鋳型にはめてよいというおすみつき(文科省や教育委員会の通達など)をもらえれば、教室の運営に余り困らず、生徒に気を使わなくてもよいので、負担を減らすことができる。受験期の生徒を担当している場合には、有名な大学にできるだけ多く入れるだけで評価してもらえる。
しかし、良心的な教師は、生徒を機械や歯車の一つとして眺めることができず、できるだけ一人ひとりの個性を尊重して教育にあたろうとする。結局はそのほうが生徒自身からも、長い目で見れば親からも感謝されることになるはずである。
親であろうが、教師であろうが、生身の一人の人間の教育や躾をする者にとって、生徒を機械や鋳型をモデルとしてみるのがよいか、生物(個性をもった生命体)をモデルとしてみるのがよいかは、明らかなはずであるが、短期的成果を求める「指導者」や「為政者」には前者のタイプが少なくない。