バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )
 喜捨の行為は心地よいものではなく、また赤面を引き起こしがちである。つまり、そこには不可避的に、誰もが物乞いをする必要がないように社会は作られていなければならない、といった反省がある。(従って、)喜捨をすることによって自己満足を感ずるどころか、自分たちは他人をこのような窮乏と屈辱的な状態にしてしまう体制で利益を得ていると感じて、社会的良心が痛むのを感じる。

The act of giving is uncomfortable and inclined to cause a blush: there is inevitably the reflection that society ought to be so organized as to make it unnecessary for anyone to beg. So far from feeling self-satisfied because of giving, we feel our social conscience pricked because we profit by a system which reduces others to such want and humiliation.
 出典:'On charity' in: Mortals and Others; Bertrand Russell's American Essays, 1931-1935, v.1.
 詳細情報:http://russell-j.com//CHARITY.HTM

 <寸言>
 「機会の均等」という謳い文句に安住してはならない。スタート地点に大きな差がある以上,「機会の均等」は最初から存在していない。今富んでいる人は努力した人(あるいは先祖が努力した人)だという都合のよい前提では,社会的弱者を救うことはできないし,そういった人々に対し説得力をもたない。

 問題は,富(国民のすべての財産や総所得)の分配あるいは再分配の問題ではないか? 企業であれば(企業としての成長の糧は別にしておくとして,それ以外は)利益を社員にどのように分配するか,国家であれば税金をどのような割合で国民から徴収し,社会の進歩のためにどのようにお金を使うか,また困った人々(社会的弱者・経済的弱者)のためにどのようにお金を使うかという問題,,つまり,国の財産や国民総所得をどのように国民に使うか,また分配するかという問題に帰するのではないか?

 最低賃金が低かったり,生活保護の水準が低かったり,生活保護を受ける資格がありながらいろいろな制約や障害から受給できていないとう状況に対してどのような手を打つか? 生活保護費をだまし取る一部の不心得者をなくすためという口実で,生活保護の認定を必要以上に厳しくしたりしているが,結局は弱者を堂々いじめることができる(弱い者いじめのための)「免罪符」として使っていないか?
 現代においては,困窮する人々の問題は,社会の富の分配のあり方が適切でないところから生じているのであり,そのような社会制度や社会体制の問題を棚上げにして,時々「24時間愛は地球を救う」といったような番組を放送して気分を高揚させていい気持ちになっているのは,偽善ではないか? そういた番組をやらないよりやったほうがよいと安易に考えていないか? そういったショーをやり高揚感が得られれば普段は社会的弱者のことは忘れていられる,という隠れた気持ちがありはしないか?

 時々の慈善ショーではだめだと考える人は,やはり社会制度の根本的な改革が必要だと考えるはずだが・・・?