心理学の唯物論的傾向を物理学の反唯物論的傾向と調和させることができると私に思われる考えは,ウィリアム・ジェイムズおよびアメリカの新実在論者たちの考えである。これによると,世界を作っている「素材」(stuff)は心的でも物的でもなく,「中性的な素材」であって,両者は(心的なものも物的なものもどちらも)これから構成されるのである。
The view that seems to me to reconcile the materialistic tendency of psychology with the anti-materialistic tendency of physics is the view of William James and the American new realists, according to which the 'stuff' of the world is neither mental nor material, but a 'neutral stuff,' out of which both are constructed.
出典:The Analysis of Mind, 1921, preface.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/16T-PREF.HTM
<寸言>
常に2つのアプローチが必要であろう。即ち、我々は人間なので、人間(や人間の生命)を重視して物事を考える必要がある(そうでないと滅びてしまう)というのが一つ。もう一つは、それと同時に、人間は宇宙の始まりとともにあるのではなく、100万年(あるいは数百万年)くらい前に誕生し、銀河宇宙の死滅とともにいずれ滅亡するだろうという視点(つまり、神による創造によって世界=宇宙が誕生し、神に似せて人間を神がつくったのではないという視点)で物を考える必要があるだろう。 努力をしないといつの間にか前者の視点にのみ立ちがちであるが(また人類の繁栄のためにはそれも必要であるが)、後者の立場で考えることも、物を考えることに価値があるとしたら、大切。 ということで、後者の立場で考えてみると、最新の科学、特に宇宙論からみると、この宇宙(世の中)は素粒子(やダークマターやダークエネルギー)からなっており、我々の眼ではなく、現代物理学の観点でみると、宇宙は、地球であろうが、人間であろうが、同一の素粒子でできており、素粒子大になって宇宙を眺めれば(もちろんそんな視点に実際に立つことは不可能であるが)、宇宙は素粒子の濃度が高いところと濃度が薄いところがあり、それに何かよくわからないが、ダークマター(やダーク・エネルギー)が全体を覆っている。 さて、そういった世界観を前提にして、「人間の視点」にもどってみると、宇宙には、いろいろな物質があり、物質ではない精神が存在しているように「見える」。人間などの知的高等生命には発達した感覚器官だけでなく、意識によって、素粒子によって成り立っているにすぎない(ただし、濃度の違いはある)世界(宇宙)を部分的に切り取って、理解することができる(と、勘違いかも知れないが、我々は考える)。 「東京は日本の首都である。」は一つの事実であるが、人間以外の動物にはわからないことであり、意味のないこと。 人間の心とは何であろうか? (現代物理学=素粒子物理学の観点を基本にしていた)ラッセルの1920年代の考えでは、人間の目を例にすれば、外界からの刺激(光)が目に届いた瞬間は物理的現象(見えるという現象)が生じるが、それは物(物質)の世界ですが、それを反転させると心的現象(見る行為)が生じる。つまり、世界は、物質でも心でもない、それよりも基本的なモノ(something underlying)からなっており、その同じもの(同じ出来事 event)が視点によって物に見えたり、心に見えたりするのだろう、という考え方。 人間の立場に立って日常生活をするためには、物と心にわけて考えた方がわかりやすいので、そうせざるを得ないが、「理論」哲学の立場で考える時は、事実判断や価値判断は人間などの高等生命が存在して始めて生まれてくるのだろうということになるのではないか?
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