(インタビュー)「言葉は可能世界を創るか?」(三浦俊彦)

* 出典:『文藝(文芸賞特別号)』1993年(河出書房新社)pp.248-254(<Column>欄)


 -三浦さんはこれまでとくに言葉に対し自覚的であるようにみえる小説をいくつか発表されてきましたが、また「虚構と可能世界の関係」について学会誌に論文を書いておられるように、「可能世界」の研究者としてもご活躍なさっています。今回はその接点についてお話をうかがいたく、ちょっとむずかしい問いを用意したのですが、いかがでしょうか。

 ひと目、この「言葉は可能世界を創るか?」という問いかけには、二つのいくぶんトリッキーな前提が絡み合っているように思いました。ひとつは、可能世界であれ何であれ、言葉(もしくは小説)は何かを創るのだ、という前提。もうひとつは、創るのであれ何であれ、言葉(もしくは小説)は可能世界と関わりを持つはずだ、という前提。第一の前提に立った問いは、はっきり述べ直せば「言葉は何を創るのか」、第二の前提に立った問いは「言葉は可能世界をどうするのか」ということになるでしょう。言葉で小説を書く、というのはまず創造行為であり、ならびにある世界を提供することだ、という暗黙の了解が巷にありますから、「言葉は可能世界を創るか」という形の問いかけはこの二大常識にいっぺんに関わった欲張った問いだということになりますね。
三浦  だからここでなにげなく投げかけられた「言葉は可能世界を創るか」という問いは、世界と創造という二大常識の片方を前提とし、もう片方の妥当性を問う、ただしどちらが前提でどちらが論題かわからない形で示されたぬえみたいな質問だということになりますね。だからそれにたまたま答える人間の本来の関心のありかにしたがって、または話の流れに刺激された衝動の揺れ具合にしたがってひとつの問いからもうひとつの問いへ、またもとの問いへと微妙に解決の努力が揺れ動いて、そこに曖昧かつ多様かつ多層な文学的妙味が醸し出される、という仕組みです。だいたい日本の文芸評論というものがそうした概念と前提の曖昧さをまとったまま進むがゆえの無自覚の震動、越境、思考の滲みを楽しむところに成立してきたと思います。たぶんそうしたところを狙ってこの「言葉は可能世界を創るか」、二重焦点のトリッキーな問いを用意されたのでしょうが……。確かに僕もほんとうはその霧中散策がここでできればさぞ面白かろうと思うのですが、だから「言葉は可能世界を創るか?」にじかに直観的にぶつかる手もあるにはあるのですが、そこはいかんせん、日頃教室で分析哲学系のフィクション論をまくしたてて前提の解剖やら推論の評価やらにどっぷり漬かっているものですから、やっぱりきょうも、「言葉は可能世界を創るか」をさっき申し上げたような厳密な(厳密というのも相対的な概念にすぎませんが)ふたつの問いに分解して、それからおもむろに考えさせていただきたいのです。

 三四郎の母型の祖母の血液型は何型?

 -それにしても三浦さんの御専門の分析哲学というのは文学理論ではさっぱり流行っていないようですね。

三浦 まったくその通りです。でも、文学理論とはいかずとも、それに僕も文学理論は全然勉強していなくて、哲学理論の土俵の方では、分析系の指示理論や記号論理学がフィクション論にさかんに活用されています。アメリカの哲学界では議論百出です。まあそこにはあとで戻るとして、先ほどのふたつの問いですね。二重焦点を一点にぎゅっと絞りまして、まず、創造の方を前提とした「言葉は何を創るのか」という問いです。
 この問いは、「言葉は虚構世界を創るのか、それとも言葉自身を創るのか」という択一的な問いに言い直して考えるとわかりやすいと思います。問いとは常に迷いと対立の産物ですから。さて、言葉は世界を創るのか、それとも言語自体で充足するはずのものなのか。これはむろん、かたくなな二者択一を目指した問いであるべきじゃありません。小説の意味の最も本質的な部分は(本質というのも相当いかがわしい言葉ですが簡略に語り進めるには仕方ないでしょうか・・・)、そして批評や解釈の究極的なターゲットはどちらであるべきか、世界か言葉か、そういう観点から仮に二者択一を設定してみようと思うのです。

 -これは古典的あるいはモダニズムの文学観と、革新的もしくはポストモダニズムの文学観との対照のようにも見えますね。

三浦 その通りです。可能世界であれ現実世界であれ(現実世界というのは無数の可能世界のうちたまたま私たちが住んでいる可能世界に他ならないと言えますが)小説はある世界を内容として持つ、それこそが創作と解釈の拠点となるのだろうか、それとも、小説はあくまでも本質的に言葉そのもので、世界などという彼方の実在に拠るまでもなく言葉自身の表層、言葉どうしの戯れのネットワークにこそ文学的核が(核というものがあるとすれば)宿っているのだろうか。

 -言葉は透明な窓か、不透明な壁かということですか。

三浦 世界か言語か、という問いは、もう一段精密化すれば次のような例で始めることができます。よく教室でも言ってるお手軽な例ですが(笑)、「三四郎の母方の祖母の血液型は何型だろうか」と問うてみるとします。(「美禰子は三四郎を愛していただろうか」というようなもっと興味深い質問を例にとってもいいのですが余計な解釈欲求が入りこんでくるのを防ぐためあえてトリビアルな例にするのです。)漱石のテクストのどこを読んでも三四郎の祖母の血液型については知る手掛かりがない。この問題を前にして、三つの文学的気質が分かれるでしょう。まず一番目は、書いてないのだから「三四郎の祖母の血液型」などというものはないのだ、という考え。二番目に、書いてないのだから何型であろうと自由だ、つまりあらゆる可能性がそれなりに同時に真なのだ、という考え。そして最後に、確かに書いてないけど血液型は一通りに定まっているはずだ、という考え。祖母の血液型云々は話を純化するため出したニセの解釈問題ですが、この三つの態度は、もっと興味深い、本当に議論の対象となるあらゆる種類の本格的解釈問題に必ず現われてきます。三つの態度はそれぞれ伝統的に、解釈ニヒリズム、解釈レラティビズム(相対主義)、解釈リアリズムに対応していると言ってよいと思います。

 -テクストの空白部を無とするか、分岐した実在とするか、描かれた部分と同格とするか、ということですね。

三浦 そうです。ニヒリズムは、言葉を超えた実在を信じませんから、小説とは言葉である、という明白な姿勢を表わします。リアリズムは、小説の言葉が描くのは小説が対応する世界のごく一部であって、背景に大きな状況が言葉とは独立に横たわっている、というわけですから小説とは世界である、という考えです。相対主義は、書かれた部分の特権的確定性を認めながらも書かれない部分のある種の存在を認めていますから、小説とは言葉だという姿勢と世界だという姿勢の中間をとるものだと言えるでしょう。たぶん、読みの自由とか意味の多様性とかに通ずるいちばんポピュラーな考えは相対主義でしょう。科学論でのパラダイム理論の影響などを受けた文学理論家が唱えるのもこの立場です。相対主義は、小説が創るのは多数の世界なのだ、という考えだとも言えます。

 -相対主義はニヒリズムとリアリズムの中間だけれど、どちらかというとリアリズムの亜流として自然に解釈できる、と。

三浦 まあそんなところです。しかし世俗のレベルでは最も自然でポピュラーな相対主義とはいえ、しょせんはニヒリズム-リアリズムの妥協の産物ですから、先端的を自称したい批評家を本当に満足させることはできません。そこで多くの批評家はニヒリズムかリアリズムかのどちらかに走らざるをえないのですが、リアリズムはどうもいまさら、といった感じでいかにも格好悪い。そこで後期ウィントゲンシュタインやディコンストラクションに代表されるように、哲学も批評も理論も「表層批評」的なニヒリズムの傾きを強めてゆくのです。つまり言葉は単に言葉の網目で勝負するのであって、可能世界を創りなどしないのです。たとえ非現実的実在であれ言語以外の実在に縛られた論理など持たないというわけです。いくぶん偽悪的な、しかし魅力ある考えです。

 非現実世界の恋愛

 -三浦さんの作品は文体や言葉遣いにこだわる種類の作品ですし、別のインタヴューでも「小説は内容よりどう書くかの方法論が問題。言葉が現実を映す手段なら、しょせん人生論的なものになってしまう」と語っておられるので、やはりニヒリズムの立場に立たれるのでしょうね。

三浦 本音はそうかもしれません。しかし、ここが自分でもわからないのですが、最終的には小説家も批評家もリアリストにならざるをえないと思うのです。言葉を超えた被造世界の実在を前提せざるをえないと思う。むろん小説が人生論的になってしまっては、つまり俗流評論にあるように現代の若者風俗を生き生きと描き出しているのが素晴らしいとか、特定の職業の描写や特殊な方言による会話さえあれば現実的だと珍重されるとか、そういう現実定位の文学観こそ真の芸術的想像力を殺し一般読者をどんどん俗物精神へと染めてゆく元凶に違いないので大嫌いなのですが、しかし現実世界ではない可能世界に対しては、小説の言葉はそこに繋ぎとめられていなければならないと思うのです。しかも分岐した多元世界ではなく、ただ一通りに定まったリアルな可能世界にです。

 -では例えば、「ブック THE 文藝」に発表された「オククトパ・バイブレーション」に出てくる性感言語のようなものも、やはり可能的実在を忠実に、一通りに描き出した言葉なのだと……。
三浦 そう見てほしいのです。あの作品を書いたとき、『海燕』の文芸時評で沼野充義さんが、作者の求めているのは意味の真空だろうか、と述べていましたが、たしかに、言われたように「言語空間の現出」によって「現実を撤回する」というのはニヒリスティックにみて面白い試みです。(いや、じつは「過去を撤回する」というテーマを小説中に明示しておきながら、言語遊戯が現実撤回に繋がりうる行為であることを沼野さんに言われるまで自分では意識していなかったのですよ。言われてみればなるほどという感じで、妙なものですね。)しかし「オクトパ・バイブレーション」を書いている最中の僕の意識は、この非現実的な性感言語が、肉体的官能のバイブレーションを文字通りに表現しているのだとしたらその確定的な性感とはいったいどんなものだろうか、という意識だったことを記憶しています。表層で戯れるのはいつでもできる。深層の世界へと辿りつくまじめな旅を読者といっしょにしたい、というのがあの作品創作の快楽だったのです。

 -「M色のS景」のナンセンス問答の部分などもそうなのですか。

三浦 あれは表層的にはナンセンスですが、あの可能世界ではリアルで有意味な問いなのです。こういうクイズでショックを受けるとは、この登場人物はいったいどういう記憶と経験を持っているのだろう、なんとか読み取れないだろうかといういわば実在への問いに読者を誘なおう、という狙いです。「非現実世界の恋愛を描くのではなく恋愛を非現実化すること、それが「M色のS景」最大の実験なのだ」と書評して下さったのは巽孝之さんですが、実のところきょうの言葉遣いで言えば、非現実世界における実際の恋愛を描くことが依然としてあの作品の第一義的意図でありました。「M色のS景」の言語を蒸溜しエスカレートさせて同じ標的を狙ったのが「オクトパ・バイブレーション」の性感言語だったわけで、「M色のS景」に好意的だった読者がこちらもまた(むしろ一層)探求心を刺激されると感ずるかどうかで、僕の実在感覚に合った「味方の読者」だったかどうかが判別できる、といった仕組みです。もちろん「味方の読者」が良い読者だとは全然限らないわけですけれど(笑)。

 -言葉より世界に優先権がある……。しかしその一通りに決まった可能世界の在り方、例えば性感言語が指示し表わしている状況そのものがどんなものか、現実世界の読者には知りようがないのですよね。

三浦 知りようがありませんね。いや、解釈技術の進歩(?)につれて部分的には知ることができることが永久にないとは言えませんが、少なくとも僕はその知り方を知りません。しかし重要なのは、知られる知られないにかかわらず、明示されていない部分も「原理的に一通りに定まっているはずだ」という認識を持つことです。定まっている内容そのものを知ることは必要じゃありません。「定まっている」という二次的メタ認識を保つことです。言葉で書かれていないところは「ない」のではなく、「幾通りにも分かれる」のでもなく、「ただ一つある」のです。その姿勢を本気で抱くことが、鑑賞と解釈の迫力を保証するのです。そしてひいては、批評と研究の迫力をも。

 異形な言葉が映すリアルな別世界とは?

 -本誌の冬季号に掲載された「この部屋に友だちはいますか?」は、もちろん言語遊戯は含まれていますが、どちらかというと普通の意味での解釈の多様性が一見認められる作品でしたね。

三浦 「この部屋」は、前二作の恋愛から脱却して友情へとテーマを移行させたのですが、あれは自分では、大まかに二つの読みができる小説だと思っています。友情というものが全般にこの現実世界におけるのとは違う文化的地位を占め、違う心理的・生理的法則に従っているような異様な可能世界を描いたのだと見る読み方が一つ。もう一つは、現実世界と法則的には違わない世界の中で、友情に対してエクセントリックな態度をとる人物や団体がその世界の一隅で自分ら独自の事件を繰り広げているという、個対共同体という枠に則った読み方。他にもいろんなパラダイムがあるかもしれませんが、さしあたりこの二つを二大候補とすると、このどちらを採るかで作品世界がガラリと変わり、個々の事件の意味が百八十度転回し、もしかしたら作品の価値というか、評価そのものが天と地ほどに分かれる、ということにもなりかねません。僕自身、その両方の読みが同じくらいの蓋然性で出来るようにわざと書いています。あ、いや、あまり創作の裏を得々として語ると頭で作っているみたいで、そういえば九月に京都の国際日文研の僕も属する研究会で「異界への想像力」というシンポジウムがあったのですがそこで辻原登さんが創作上の「仕掛け」についての質問に「仕掛けなんてけちなことは全く考えない」と断言し、村田喜代子さんは「仕掛けはあるかと言われればないし、ないかと言われればある」と考え込んでおられましたが、それがどうも本当みたいで、そうした境地の方々から馬鹿にされてしまいそうですから自作の裏はこのくらいにしますが(笑)、いずれにせよ、「この部屋に」のふたつの解釈のうち真の作品世界の在り方はどちらか一つに定まっているのであって、作者も読者も知らないところでリアルに決まっているのであって、この両方の世界を同時に作品が含んでいるとは考えない方がよい。少なくとも一方の解釈は誤りなのです。読みの自由とか表層の戯れとかいうスローガンは美しいけれど、相対主義やニヒリズムからは真の論争も、豊かな解釈も生まれてこないというのが僕の考えです。

 -リアリズムの裏づけは紛れもなく解釈論的な理由なのだ、と

三浦 主としてそうですが、他に倫理的な理由もあります。ニヒリズムも相対主義も、その精神は「人間に知られえないものは存在しない」もしくは「知られる部分と同程度には存在しない」という信念にもとづいている。これは哲学的観念論に通ずる一種傲慢な態度で、人間中心主義です。世界には、そして世界の外には、人間には原理的に知られえぬ確定情報がたくさんあるとする実在論こそが謙虚な姿勢でしょう。
 戦略的な理由もあります。言葉の戯れを至上とするポスト構造主義はもう実は言い古された立場になっていて、いまだに革新的であるかのようにこの言辞を繰り返す人が多いのは不思議なほどです。実在と堅く結びついていると直観的に信じられる自然科学においてこそ、パラダイム相対主義やファイヤアーベント流ニヒリズムの衝撃、革新性は持続するのであって、詩や小説のように、しょせんは紙上の黒いインクにしか過ぎないと心の底ではみんな思っている文化について、脱構築的ニヒリズムが革新的であったり衝撃的であることはできません。むしろ古きよきニュークリティシズムのような、テーマと統一と実在を標榜する立場の方が、文学論においては革新的パワーが高いはずなのです。飽きず繰り返されるポスト構造主義的言辞の惰性にまともな反省を促すためにも、言語か世界か、という択一においてあえて極端に世界寄りの姿勢をとること、しかも一見内容より言葉そのものに過剰な工夫を凝らす作風において主張すること、これこそが説得的な、有効なスタンスだと思うわけです。透明な文体のリアリズム小説で虚構世界リアリズムを主張してもそれは薄っぺらな手前味噌になってしまうでしょうから。
 あと最後に、論理的な理由がある。僕の考えでは、詩はともかく小説という作物は、各々唯一の可能世界に通ずるとしなければならないことが、論理の力でかなり論証できるのです。ここで論理というのは、政治家の論理とか消費者の論理とかいう比楡的な意味での論理ではなくて、本物の論理、すなわち記号論理学で表わされる論理です。ニヒリズムと相対主義、その亜種やその他十種類以上の説を論駁してリアリズムを支持しなければならないのはなぜかということを、いま大学の講義や紀要で発表しつつあるのですが、長くなるのでここではその内容を述べることは差し控えますけれども、近く『虚構世界の存在論』(勁草書房)としてまとめる予定です。公刊できれば、日本では全く知られていない英米分析哲学流のフィクション論が多少知られて一般の俎上にも乗り、住みやすい風土に少し変わるんじゃないか、という邪な期待を抱いております。まあそうなってもしばらくは、「フィクションは確定した永遠の世界を映す」なぞといかにも古めかしい考えを不調和な口調で奉ずるなんか格好悪い役、を演じなければならないでしょうが(笑)。この恥かしい実在論こそが、ほんとはいちばん急進的な姿勢なのだと世に納得してもらえるまでは、がんばりたいです(笑)。

 -言葉は唯一の可能世界と関わることが論証された(されるだろう)ところで、最後に、言葉は可能世界をどうするのか」という問いの方ですが……。はたして「創る」のか……。

三浦 そう、それが残っていました。「言葉は可能世界を創るか?」という二重焦点のもう一つの絞り方。ここでは、対立項は「言葉は創るのではなく、模倣するのでは」ということです。言い換えれば、「小説はそれまで無かった可能世界を創り出すのか、それともすでに有る可能世界を模倣し投射するのか」という問い。これに対する僕の考えは、すでに明らかになっていると思います。ただ最後に申しあげておくべきことは、確かに虚構は可能世界を創造することができないとしても、木に埋まった観音像を掘り出すことができるだけだとしても、無数に既在するうちのどの観音像を選ぶかについては無限の自由があるということ。そして、どのような言葉・文体で可能世界を現実世界に投射するかは予め決定されておらずこちらは有限とはいえ膨大な自由があるということ。だからこそ僕は言葉を大事にしたいわけで、ときにはアクロバティックに陥るほど言葉に凝りたいというのも、虚構世界リアリズムをつまらないものに貶めてしまわないために、言葉部分の創造の可能性を強調したいがためなのです。むろんそれ以前に、異形の言葉が映すリアルな別世界が一体いかなるものなのかについて読者に絶望的な推測を巡らしつづけてもらう、それが真の目的であることに変わりはないのですが。