展覧会評
 
 もちろん作品そのものは第一室から最後に至るまですべてカバコフが作ったものなのだが、第6室で現実へバトンタッチするまでの諸作品は、死後に発掘され近年注目を集めつつあるシャルル・ローゼンタールという画家の手になるものとして見ることを鑑賞者は要求されるわけだ。ローゼンタールの評伝と現代美術界における評価について、カバコフは概略的な解説文(「シャルル・ローゼンタールについて」T,pp.11-19)(注)まで用意している。すでに名をなし七十歳にならんとする大御所芸術家が、夭逝後に発見され評価された天才芸術家という(芸術家の誰もが憬れるであろう)もう一つの仮想的人生を我が物にしたかのような展覧会である。
 架空の作り手を代理に仕立てたこの戦略は、さまざまな美学的効果を持つだろう。まず何よりも、自己の展覧会を自ら「引用」する構造を捏造することによって、現実の芸術家、自ら理想とする芸術家、解釈者としての芸術家という三位一体的分裂をあからさまに演じることができているのが興味深い。現実の作者カバコフは、ローゼンタールの作品を引用符付きのメタ言語によって語ることにより、「フィクションとしての美術」という新しい芸術ジャンルを提示することができた。一方、ローゼンタールは引用符抜きの生の美術言語によって、既成ジャンルの内部で実際何がなしえたかをカバコフに代わり正面から問いかけることになる。リアリズムの復権やモダニズムの批判的継承、そしてコンセプチュアリズムの再演といった、カバコフ本人の潜在的な芸術モチーフ(今さらしらふでは小恥かしくて実現できないモチーフ)を、虚構の枠内でローゼンタールが律儀に作品化する役割を担わされるのだ。
 カバコフが「現実に」作品化しているわけではないので、この展覧会の諸作品に対する引用符抜きの批評(現実の批評)は不可能となるだろう。解釈が難しいという意味ではなく、論理的に不可能となるのである。ローゼンタールの作品が架空の人物ならぬ実在の芸術家(カバコフであれ誰であれ)によって本当に発表されていたとした場合、観賞者がどのように受け取り、芸術批評界がどのような解釈と評価を下したか、ということは永久に、架空のシミュレーション内に封印されてしまったからである。カバコフはローゼンタールに託した諸作品を現象として発表することにより、逆説的にもこれらの作品を実在としては抹消してみせた。当展覧会の個々の作品についての批評は、すべて引用符付きの批評(虚構の批評)とならざるをえない。現実の批評が可能なのは、全体としてのこの展覧会に対してだけなのだ。(次ページに続く)