展覧会評
★「イリヤ・カバコフ展 シャルル・ローゼンタールの人生と創造」
  『比較文学研究』76号(2000年8月刊)掲載


 イリヤ・カバコフ(1933〜)という芸術家の名を、私は聞いたことがなかった。シャルル・ローゼンタール(1898〜1933)という芸術家のことも知らなかった。もっともローゼンタールを知らなかったのは、教養不足とは無関係だ。シャルル・ローゼンタールとは、97年に来日して水戸芸術館を下見したカバコフが、水戸芸術館の空間構成に合わせて構想した、架空の画家なのである。この『イリヤ・カバコフ展 シャルル・ローゼンタールの人生と創造』は、ウクライナ生まれの夭逝の画家ローゼンタールが遺したスケッチ、絵画、オブジェなどを「キュレーター」であるイリヤ・カバコフが取りまとめ企画した回顧展、という設定の、いわば虚構の美術展なのである。
 水戸芸術館を見て閃いた構想だから、ほとんどがこの展覧会のための新作である。第一室にはローゼンタールが十代の頃の習作ドローイングやスケッチ、第2室にはローゼンタールが美術学校時代に学んだマレーヴィチの影響下にシュプレマティズム的表現と旧具象的表現を組み合わせた模索的絵画。第3室ではロンドンやカルカッタでの見聞を描いた大画面のカンバス裏に電球を仕掛け、ちょうど駅前に見かける案内地図のように、鑑賞者が手前の解説風文章のボタンを押すと絵の中の当該部分が光るという趣向がコンセプチュアルアートの先駆け的雰囲気をかもし出している。第4室には描き残しの白面を露出させた油絵、そしてカンバスを切り取った陰に電球を配して発光させるというような、いっそう遊戯性を高めた作品が並べられ、第5室に至っては一見ただ真っ白な大カンバスが並んでおり、近づいてよく見ると、鉛筆による下絵らしき群像の輪郭が浮かび上がってくる。第6室には晩年の、詩のような断章的言葉が書き入れられたインク絵と、カバコフによる当回顧展プランのドローイング。そして「芸術家の図書室」と題された最後の第7室は、カバコフ本人のアルバムや本など諸資料が閲覧できる空間になっている。(次ページに続く)