三浦俊彦による書評

★ 永井均『<私>の存在の比類なさ』(勁草書房)
★ 渡辺恒夫『輪廻転生を考える』(講談社現代新書)

* 出典:『ストア』vol.4(1998年9月号)


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『<私>の存在の比類なさ』

『輪廻転生を考える』

 他の人間もこの世界も、私の作り出した幻影さ。心を持つのはこの自分だけ。子どもの頃、そんな妄想に捉えられたことは誰しもあるでしょう。「独我論」とか「唯我論」とか呼ばれるれっきとした哲学説なんですが。
 でも、これを貫き通すのは現実には不可能ですよね。他人らもこの私と同じ心ある存在と考えずには社会生活は営めない。だけど本当の「世界の視点」として実在してるのはこの私だけ、って感じがどこかにくすぶり続けることも確か。この「第二次独我論」的感覚を、一体どう言い表わしたらよいだろうか。
 一つの道は、全ての人が独我論を信ずることができるって事実に着目する方向です。みんなが「ただ一人の私」でありうる、いや、事実そうなんだと。過去・未来・同時代のあらゆる人間は、「この私」が輪廻転生を繰り返すさまざまな姿なのだ。渡辺恒夫『輪廻転生を考える』が唱える「遍在転生観」です。
 壮大で革命的な、しかもわかりやすい考えですが、これだと、なぜ今この瞬間、「ただ一人の私」が他の人でなくたまたま三浦俊彦に宿っているのか、という不思議を解明してくれません。私が転生する順番はどのように決まっているのか。今この瞬間に男でも女でも豚でもよかったはずの、さらには存在しなくてもよかったはずの「この私」が、なぜ、ここにこうして、いるのか。
 この根源的な「私」の神秘を追究してる人といえば、永井均でしょう。『<私>の存在の比類なさ』のあらましは次の通りです。
 <私>は、特定の誰のことでもない。永井均と世界の視点との結びつきは必然的ではないから。かといって<私>とは、誰にとってもその人自身を意味する一般概念でもない。<私>は「他に同じ種類のものが存在しない独自な存在者」なのだから。しかし<私>を論じ始めるや否や、聞き手全員が各々自分のこととして理解することが前提されてしまい、独自の<私>は複数の私一般へ転落を余儀なくされる。独自の<私>を取り戻すにはこの等質化から再び独在的な離反をせねばならないが、「独自な存在者一般」として必ずまた等質空間に包み込まれるだろう。「<>という記法が示すのは、独在と頽落の終わることなきこの拮抗運動なのである。」
 なるほどね。でも「終わることなき拮抗運動」なんて、なんかゴマカされた気がしません? そう、永井を読むと今度は、私ってそんなに「比類ない」ものかね、って疑いたくなってくるんですよ。<私>が「独自な存在者」でなきゃいけないなんて誰が決めたんだ? みんな同じ私、等質の私、ってことでいいじゃないか。それで解決じゃないか。こうして、渡辺恒夫の「遍在転生観」へともう一度惹き寄せられていくんですね。
 けれどもそっちに浸ってみるとまた、「やっぱり俺はこの俺でしかない」という不思議さが……。「みんな私」じゃ解消できないもどかしさが蘇ってきて……。永井の本へ……
 この渡辺~永井往復運動は、永井の言う「終わることなき拮抗運動」の一種なのだろうか。もしそうならば、永井の勝ちですね。だけど、それじゃあいかんような。「<私>が存在しているということは、究極の奇跡である」と永井は言う。だけど不思議感に任せて神秘を奉納するだけだったら哲学は要りません。永井独在論と渡辺遍在論のはざまから、両極を超え出る道が開けるはずです。かくいう私・三浦俊彦が、『可能世界の哲学』(NHK出版)第五章でそいつを試みかけたつもりなんですけどね。現実世界一個の中じゃどうしても「なぜ?」って不思議感が残ってしまうので、無数の「可能世界」の実在を虚心に認めることで「私」の神秘含め一切合財説明しちゃおうって大真面目な狙いなのですが。本格的にはこれからです。
 今世紀最後の謎「私」。何か画期的な「私」論が、来世紀、無数の「私」によって理解・実践されねばならないような気がします。


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