三浦俊彦 - エッセイ索引

三浦俊彦「ディテールの古層」

* 出典:『三田文学』第60号(2000年冬季号),pp.28-29 掲載


 「小説家になろう」とある日志して小説家になったという人が何人くらいいるのか知らないが、私の場合そのような志を立てた明確な瞬間を、いや大まかな時期をすら思い出すことはできない。ノートにさかんに「おはなし」なるものを書き綴り始めていたのが六歳のときなので、広い意味で小説家への志はそれ以前にあり、「この一冊」も六歳以前に読んだ本ということになると思われる。
 しかし六歳以前に読んだ本で、少なからぬ感銘を受けた覚えのあるものといったら、昆虫図鑑と理科図鑑くらいのものだろうか。種類別に一頁あたり七匹ずつが色刷りで説明されている昆虫図鑑、とくにカミキリムシとスズメガの頁を繰り返しボロボロになるまで眺めたし、たしか『五年生の理科』とかいう参考書みたいな本の巻末の、いろいろな伝染病の特色が表になってるところをこれもボロボロになるまで読みふけった。直接に人間を描写した本よりも、人間を取り巻く環境のディテールへの興味から人間界の万象を想像し、同時に、世界を分類して理解しようとする健気な人類の営みというものに漠然と、子供ながらしみじみとした情感を覚えて、キャラクター作りに向かっていったような気がする。
 というよりも、「文章」そのものへの原始的な関心が喚起されたというべきか。六歳のときのノートには、創作に混じって、やはり図鑑からの書き写しと思われる「恐竜の進化」の物語が綴られている。手作りだろうが出来合いだろうが言葉をあやつる楽しみを覚えたということだろう。頭の中が物質化して次々に文字になることへの快感の質は、当時も今もほとんど変わっていないような気がする。
 というふうに、六歳以前に読んだ、今や出版社も正確なタイトルも覚えていない図鑑類を「この一冊」に挙げるとしたら、そう、「東海村の臨界事故の原因は? 人類が原子核を発見したことさ」というようなトリビアルな話になってしまうだろう。しかし書くことに目覚めたのが現に六歳以前であった以上、その後のいかなる時であれ「よし、小説をやろう」と改めて思い立つ必要はすでになく、転機を成す一冊などというものもどうやら存在しないようなのである。尤もらしい文学書を無理に掘り起こすこともできないわけではなかろうが、さしあたりは正直に「昆虫図鑑」と述べておくのが良心的というものだろうか。
 というわけで私は小説の道に、ある世界観を提示されたとか、あるストーリーに感動したとか、ある人間像にかぶれたとかいった劇的な入り方はしていない。物心ついたときには「文章への興味」が根付いていて、どういう種類の文章でもとにかく書いて認められればいいなと漠然と考えていたのである。「小説」と限定していたらもっと自覚的努力のプレッシャーを煩ったり過去の文人を模範と仰ぎつつ父殺し的修業に悩んだり己れの文体を身につけよう的に足掻いたりもしたことだろうが、ただ本能的に「文章」と目論んでいたため、必ずどこかへ引っかかる自信というか、朗らかな確信に甘んじていたのである。
 小説が初めて商業誌上に活字になったのは三十一歳のとき、論文が商業誌に載って初原稿料を得たのは二十五歳のとき、のちに小説に組み入れることになるアフォリズムを同人誌に書きつらねていたのは二十歳くらいのときだが、私にとって「小説」も「論文」も「エッセイ」も「アフォリズム」もみな「文章」という言語パフォーマンスの各アスペクトに他ならなかった。今では、小説と論文とでは使う筋肉も違えば伝達できるメッセージも違うという自明の理がようやくほんの少し実感できかけてはいるけれども。いや、しかし、さすがに六歳のときよりスタイルも世界観もだいぶ自覚的になっていることは確かなのだから、その主因となった二十代頃の何か一冊を転機として心底挙げることくらいできてよさそうなものだ。難しく考えることもあるまい。真っ先に思いつく本は何だろう。
 最近のわが執筆に手がかりを探ってみようか。ここ二ヶ月間に細かい文章をずいぶん書いたが、その中に私の初心をよく表わしていると思われる作品が二つあって、ひとつは長編小説の一部となるべきエッセイ風断章(『武蔵野美術』No.115)、もうひとつは学術雑誌の「討論」欄の小論文(『科学哲学』33巻1号)なのだが、思えばそれぞれ、谷崎潤一郎、バートランド・ラッセルが模範になっている。この二人は饒舌体、簡潔体の相違はあるが「論理的」という点で共通している。というわけであってみれば、あえて一冊を選ぶとしたら、いや、一見脈絡無視した唐突さで申し訳ないが尾辻克彦『国旗が垂れる』である、としておきたい。なんといっても一番好きな作家だ。谷崎的理路とラッセル的分析癖を混ぜ合わせて昆虫図鑑的ディテールの中で中和させれば、赤瀬川式パラノイア気質になるような。そんな尾辻作品の中で、理屈と不条理を幼児的情緒の中で天然融合させていて一番面白く読めたのが、『国旗が垂れる』だったのである。