三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ 2011年1~6月)

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実在全体では粒子の状態が確定している
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月30日(木)03時39分16秒 返信・引用
> No.2804[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> その通りだとは思います。つまり、LかRかのような、波動関数の収縮がどの値をとるかというような事柄については、一つ一つの世界に究極に実在するのは「粒子」であって「波」ではない、ということは言えると思います。「波」は、世界を複数束ねて、そこで観測される粒子の振る舞いを便宜的に記述するときに要請される数学的虚構であると。
> まだらさんがそのようなことを言われているとしたら、私は同意です。

そういう意味で言っていますが、ちょっと気になる表現があります。

波というのはそもそも大量の粒子の振る舞いのことを指すと解釈するべきです。

大量の世界に大量の粒子が存在して影響し合っているのですから、そこに波の特性が顕れるのは何ら不思議なことではありません。


> しかし、一つ一つの世界に究極に実在する「粒子」も、不確定性原理には服するでしょう。位置と運動量を同時に確定した形で有する「粒子」は、世界を究極まで分岐させてひとつだけにしても、そういうどの世界にも存在できません。
> つまり、粒子の究極の姿にも、不確定性原理の波はつきまとう、と言えると思います。

そのように解釈する根拠はあるのでしょうか。そもそも、観察できない領域で粒子がどのように振舞っているのかを決定することはできないような気もしますが。

私の説では、「単独の粒子には波の特性は存在しない」という解釈になっています。多世界における大量の粒子だから波の特性が存在するということです。

> ただし、不確定性原理はいわゆる「因果性の法則」に反しているわけではありません。つまり、現在を正確に知れば未来を正確に予測できる」という「因果性の法則」(マックス・ヤンマーの言葉)は、不確定性原理によって破られてはいません(このことについては、『論理パラドクシカ』問022「不確定性原理」をご覧いただけると幸いです)。
> 波は波として、厳密な因果性に服しているので、波か粒子か、という問題はあまり深刻ではないとも言えますね。

これには同意します。実在全体では波だから因果性が破られると考える必要はないでしょう。


φ様の解釈だと、多世界解釈であるにも関わらず不確定性原理が適用されるのですね。

多世界解釈であれば、個別の粒子の状態は確定していると解釈することが可能なはずですが、その利点を捨てる理由がよくわかりません。



Re: 実在全体では波動関数が存在しないこと
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月29日(水)17時49分41秒 返信・引用
> No.2804[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(52)/SumioBaba(馬場純雄)

>> 無相関でないx(たとえば「Rだった」という発言など)や境界線上
>>のxを知覚対象として選んでしまう可能性もあった以上、一般的に
>>「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」と確信できる根拠
>>などないはずです。


それは単に、「Lか?Rか?」と相関の有るxを知覚したから、P(L)≠
1/2、P(R)≠1/2になったというだけの話。

> 何度も言っているように、認識の範囲外(メタ情報がない場合)
>においては常に「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」
>というのが量子力学だ、と述べている文献を具体的に教えてくだ
>さいとお願いしているのです。読んで勉強しますからと。しかし
>いっこうに文献が出てこない。


何か勘違いしてませんか?

  私の心M1が住む世界W1において、LとRとを確率1/2

  ずつで重ね合わせにし、私が「メタ情報」=「γと「Lか?

  Rか?」の相関」を持たずにγだけ知覚しても、世界W1

  においてLとRは、確率1/2ずつで重ね合わせのまま

  である。
と主張しているのは、「量子力学」ではなく[量子観念論仮説]ですよ。

> 馬場さんの言うことが正しくあるためには、「ああ、Rだ」とか「あ
>あ、Lだ」「さっきRだったから」「さっきLでありさえすれば」などと
>実験員が呟いたり、実験データの書かれた紙をヒラヒラ見せる姿勢
>をしたり、という実験中・実験後に生じるいろんな場面、つまりLかR
>かの情報を知らせるような事象はxの論議領域から除かねばなら
>ないでしょう。そういうxを「私」が見たなら、P(L|x)≠P(R|x)と
>わかってしまい、たちどころに重ね合わせが消えるからです。


そんな単純な話ではありません。それだって、みんなが私を騙そう
としている可能性も有るのだから。「メタ情報」=「x=「実験員が「ああ、
Rだ」と呟く」ならばRである」(実験員はウソを言わない)を私が知って
いなければ、xだけからRは導けません。

> 実験データを伏せている状態や、「ああ、右だ」等と言ってから口
>元の形がもとへ戻った瞬間以降の実験員の口もとは、P(L|x)=
>P(R|x)らしいので、xの論議領域に含めてよいでしょう。口元の形
>だけからは情報が入ってこないような場合はです。
> つまり、実験室内外の時空連続体の中で、私がこれからγを選ぶ
>場合、不連続的ないびつな形でγの準拠集団が点在するわけで
>す。
> しかしそういった二種の事象(γの準拠集団に入るものと、そうで
>ないもの)は入り組んでいて、互いにハッキリ分離できず、正確な区
>分けなどできっこありません。物理ではなく意味で二種の事象が区
>別されているので、物理的にはゲリマンダー的になるのは当然で
>しょう。
> 物理系がどのような「意味」「情報」を持つかは、物理状態から派
>生しますが、物理的外形のどこに意味があるかは主観的にはわか
>りません。馬場さんの「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=
>1/2」を成り立たせるxは、それを「私」が見聞きしてもLかRかに
>ついて情報が得られないような出来事の集合のメンバーであるわ
>けですが、そもそも「情報を得られない」と確信することなどできな
>いわけです。たとえば、実験員が部屋を出てきて無意味な呟きを
>漏らしたが、LかRかについて「私」は情報を得られなかったので
>P(L|x)=P(R|x)と判断したものの、あとになって、それが
>スワヒリ語の「Rだったが……」という意味だとわかるような場合。
>Rに特有の発音の口の形を「私」は知覚しているが、単に判別の
>知識がなかっただけの場合。それらに準じたいろんなバリエー
>ションがありえますから。
> というわけで、「γは「Lか?Rか?」とは無相関」と確信できるような
>根拠など決してありえません。物理的には因果関係があるわけで
>すから、確率的に無相関だとしたらそれは全くの偶然であり、よって
>無相関を確信などできないのは当然ですが。


世界W1内で、物理法則的因果関係により、xと両立できるのがLだ
けで、xとRとは両立できない場合、私の心M1は、意識的であるか無
意識的かに拘わらず、「xならばL」という「メタ情報」を持っていること
になります。なぜなら、「x」と物理法則とで「L」が証明できるという状
況ですから。つまり、私の心M1が持つ2つの情報「x」「xならばL」に
よってL+R→Lと収縮したという[量子観念論仮説]の説明通りです。


[量子観念論仮説]では、私の心M1が住む世界W1において、私が
LかRかを知り得るのは、次の2つの場合に限られます。


【1】 私が直接、LかRかを知覚する。


【2】 「γならL」または「γならR」という「メタ情報」を持った


   上で、私が直接γを知覚する。
私の問題設定では、【1】は許されていないし、「メタ情報」も持たない
という設定なので【2】も不可能。つまり、LかRかは知り得ません。
[量子観念論仮説]では、世界W1で何かが確定するためには、心M1
が自覚的か無自覚的かに拘わらず、その情報を知ることが必要十
分です。

> ただ、「ランダム」を馬場さんは恣意的な意味で使い続ける決意
>らしいので、その用法で否定するのはご自由に、という感じですね。
>馬場さんが正しい言葉遣いをするつもりがない以上、私もこれから
>はあまりシャカリキになって議論するのはやめにします。


サイコロの1~6の目が確率1/6ずつで出るのを、三浦さんは「ラン
ダム」という言葉の正しい使い方だと説明されており、私も全く同様
に使用しているだけです。


       ↓
> それから、
> いくらなんでも「ランダム」という言葉は、正しく使いませんか。
> ランダムな結果というのは、サイコロの例のように、一試行ごと
>の各確率変数の確率が一様分布でなければなりませんし、各試行
>が独立でなければなりません。

> 「その意味で」をもっと強調した表現にすれば誤解の余地はな
>かったでしょうが、べつに問題視されるほどのことは言ってません
>よ。最頻値をもたらす世界の集合へ私は分岐してゆく、という意味
>では決定論的、ということです。つまり「確率的決定論」です。


だから、サイコロを振った場合の「最頻値」って1~6のどれなんで
すか? それとも平均値の3.5ですか?

LとRが確率1/2ずつの場合の「最頻値」って、Lですか? Rですか?
それ以外ですか?

三浦さんの「最頻値」という言葉は、いかにも99%以上の確率で
どれか1つに確定するかのように聞こえ、だから実際上「決定論」で
あり、他の可能性は無視できる、と言っているかのようですが、今の
場合全くそういう状況じゃないんですよね。

以上


Re: 実在全体では波動関数が存在しないこと
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月29日(水)03時04分44秒 返信・引用
> No.2801[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 「粒子が算術的な波として現われているのだから非決定論的な結論しか出てこないはずだ」と言われたら何と答えるのでしょうか。
>
> それは我々の観察する世界でそう見えるだけであって、実在全体では異なると答えるのではありませんか?
>
> 私も同じように答えます。実在全体では量子論的な波動関数など存在しないのです。
>


その通りだとは思います。つまり、LかRかのような、波動関数の収縮がどの値をとるかというような事柄については、一つ一つの世界に究極に実在するのは「粒子」であって「波」ではない、ということは言えると思います。「波」は、世界を複数束ねて、そこで観測される粒子の振る舞いを便宜的に記述するときに要請される数学的虚構であると。

まだらさんがそのようなことを言われているとしたら、私は同意です。


しかし、一つ一つの世界に究極に実在する「粒子」も、不確定性原理には服するでしょう。位置と運動量を同時に確定した形で有する「粒子」は、世界を究極まで分岐させてひとつだけにしても、そういうどの世界にも存在できません。

つまり、粒子の究極の姿にも、不確定性原理の波はつきまとう、と言えると思います。

ただし、不確定性原理はいわゆる「因果性の法則」に反しているわけではありません。つまり、現在を正確に知れば未来を正確に予測できる」という「因果性の法則」(マックス・ヤンマーの言葉)は、不確定性原理によって破られてはいません(このことについては、『論理パラドクシカ』問022「不確定性原理」をご覧いただけると幸いです)。

波は波として、厳密な因果性に服しているので、波か粒子か、という問題はあまり深刻ではないとも言えますね。


……………………

以下は馬場さんへ

>
>  なぜ? 「波動方程式の因果関係」とは、「一度|L>と|R>が確率1/2
> ずつで重ね合わせ状態になると、それが周囲とどんな相互作用をし
> ても、|L>と|R>が1/2の確率で重ね合わせのまま時間発展していく」
> ということですよ。いわゆる「ユニタリ性」です。つまり、「P(L|x)=
> P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」が保たれるというのが、「波動方
> 程式の因果関係」ですよ。解ってますか? γは「Lか?Rか?」とは無
> 相関なので、γを見ても、LとRは確率1/2ずつの重ね合わせのまま
> です。
>


無相関でないx(たとえば「Rだった」という発言など)や境界線上のxを知覚対象として選んでしまう可能性もあった以上、一般的に「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」と確信できる根拠などないはずです。


何度も言っているように、認識の範囲外(メタ情報がない場合)においては常に「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」というのが量子力学だ、と述べている文献を具体的に教えてくださいとお願いしているのです。読んで勉強しますからと。しかしいっこうに文献が出てこない。


ただし念のため、当面の議論のxについて確認しておくと、実験室の中ではマクロな相互作用がされまくっており(なぜなら実験員や家具や壁や天井があることがわかっているから)、そのことを実験室の外の「私」は知っているという設定です。当然ですが。

よって、γとなりうる根元事象、つまりxの論議領域は、人間の知覚で観察できる事柄すべてです。それをふまえて、しかるべき文献を指示してください。


その文献を見ない段階で述べておくと、

馬場さんの言うことが正しくあるためには、「ああ、Rだ」とか「ああ、Lだ」「さっきRだったから」「さっきLでありさえすれば」などと実験員が呟いたり、実験データの書かれた紙をヒラヒラ見せる姿勢をしたり、という実験中・実験後に生じるいろんな場面、つまりLかRかの情報を知らせるような事象はxの論議領域から除かねばならないでしょう。そういうxを「私」が見たなら、P(L|x)≠P(R|x)とわかってしまい、たちどころに重ね合わせが消えるからです。

実験データを伏せている状態や、「ああ、右だ」等と言ってから口元の形がもとへ戻った瞬間以降の実験員の口もとは、P(L|x)=P(R|x)らしいので、xの論議領域に含めてよいでしょう。口元の形だけからは情報が入ってこないような場合はです。

つまり、実験室内外の時空連続体の中で、私がこれからγを選ぶ場合、不連続的ないびつな形でγの準拠集団が点在するわけです。

しかしそういった二種の事象(γの準拠集団に入るものと、そうでないもの)は入り組んでいて、互いにハッキリ分離できず、正確な区分けなどできっこありません。物理ではなく意味で二種の事象が区別されているので、物理的にはゲリマンダー的になるのは当然でしょう。

物理系がどのような「意味」「情報」を持つかは、物理状態から派生しますが、物理的外形のどこに意味があるかは主観的にはわかりません。馬場さんの「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」を成り立たせるxは、それを「私」が見聞きしてもLかRかについて情報が得られないような出来事の集合のメンバーであるわけですが、そもそも「情報を得られない」と確信することなどできないわけです。たとえば、実験員が部屋を出てきて無意味な呟きを漏らしたが、LかRかについて「私」は情報を得られなかったのでP(L|x)=P(R|x)と判断したものの、あとになって、それがスワヒリ語の「Rだったが……」という意味だとわかるような場合。Rに特有の発音の口の形を「私」は知覚しているが、単に判別の知識がなかっただけの場合。それらに準じたいろんなバリエーションがありえますから。

というわけで、「γは「Lか?Rか?」とは無相関」と確信できるような根拠など決してありえません。物理的には因果関係があるわけですから、確率的に無相関だとしたらそれは全くの偶然であり、よって無相関を確信などできないのは当然ですが。


というわけで、「どこで観測しようが、メタ情報が入ってきていないと主観的に判断された場合はP(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2で、「私」は重ね合わせにいる」というのは、多世界解釈の頻度による確率概念(客観確率)においては因果律の否定に他ならず、全くのナンセンスです。

>
>  「収縮してもしなくても」とは何ですか。収縮しない場合とする場合
> とは、決定的に異なります。
>  収縮が無く、波動関数で表された状態のシュレディンガー方程式
> に従う時間発展は「決定論的」です。しかし、波動関数が収縮する
> 時、どれになるかはランダムまたは「非決定論的」です。その区別も
> していないのですか?
>


「決定的に異なる」ことを私は否定してません。単に、「収縮してもしなくても、波動関数による事態の推移は、ランダムではない」と私は言ったのみです。

ただ、「ランダム」を馬場さんは恣意的な意味で使い続ける決意らしいので、その用法で否定するのはご自由に、という感じですね。馬場さんが正しい言葉遣いをするつもりがない以上、私もこれからはあまりシャカリキになって議論するのはやめにします。

>
> >ある時点で収縮した観察結果は、波動関数から計算される最頻値
> >となるでしょう。(LorRや猫の生死のような意図的に作った1/2設
> >定も例外ではない)。
>
>  ええっ!? |?>=(|L>+|R>)/√2の状態で、観測結果が|L>になるか|R>
> になるか確率1/2ずつで、観測してみないと判らないのに、三浦さん
> はこれを「決定論的」と表現しているのですか? これこそが「非決定
> 論的」の典型だろうに・・・。
>

「その意味で」私の経験する世界は決定論的です、と言ったのです。

「その意味で」をもっと強調した表現にすれば誤解の余地はなかったでしょうが、べつに問題視されるほどのことは言ってませんよ。最頻値をもたらす世界の集合へ私は分岐してゆく、という意味では決定論的、ということです。つまり「確率的決定論」です。

(これは確立した概念ですから、馬場さんの恣意的語法とは違いますよ。)

確率的決定論よりも強い通常の因果的決定論はもちろんLorRや猫の生死のような場合に成立しません。

ただし、多世界解釈以外の量子力学でも因果的決定論が成り立つという解釈が可能であるという理論の一端は、まだらさんへのレスでもリファーしましたが、『論理パラドクシカ』pp.56-59「不確定性原理」をご覧いただけると幸いです。


Re: 世界間の相互作用
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月27日(月)15時16分38秒 返信・引用
> No.2799[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(51)/SumioBaba(馬場純雄)

> つまり馬場さんは、「個々人がメタ情報を持たない領域において
>は、個々人のその領域では波動方程式が成り立たない(つまり、
>量子力学が成り立たない)」と述べているのであり、「それが量子
>力学です」と宣言しているわけです。


そう言ったつもりは全く有りません。三浦さんは、「SumioBabaは
量子力学を全く理解できていない」と主張するために、私の説明を
曲解・曲解また曲解しているように見えます。

「γと「Lか?Rか?」がどういう相関を持つか?」という「メタ情報」は持
たなくても、「私の心M1が住む世界W1において、1個の素粒子が確
率1/2ずつでLとRになる実験をしている事を、私は知っている」という
設定なのですから、|L>と|R>が重ね合わせの状態を|?>とすれば、
|?>=(|L>+|R>)/√2と波動関数で表現できるし、この状態で|L>である
確率は^2=1/2、|R>である確率は^2=1/2、と計算できま
す。ただ、確率までは判っても、実際に観測した場合どちらになるの
かは定まりません。それが量子力学です、と説明しました。

それなのに、三浦さんにかかるとこうなります。


           ↓
> つまり馬場さんは、「個々人がメタ情報を持たない領域において
>は、個々人のその領域では波動方程式が成り立たない(つまり、
>量子力学が成り立たない)」と述べているのであり、「それが量子
>力学です」と宣言しているわけです。
> ですから、
>そのような自己制約的な(心の到達範囲内に量子力学法則を限定
>する)量子力学があったとは私にとって驚きですから、文献を示し
>てくれと言ったのです(http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759
>の該当箇所を見直してください)
> もっとも、そんな観念論的量子力学があったなら、前提としてその
>体系を出せばいいだけで、馬場さんの量子観念論仮説の出番は
>ないわけですけれどね。

> 反対に、「個々人がメタ情報を持たない領域においては、個々人
>の世界のその領域では波動方程式が成り立たない(量子力学が
>成り立たない)」なんてことは言ってない、というのであれば、


はい、その通りです。

>私が
>以前思考実験として提示して何度か答えていただいたLorRや猫
>の生死から出発して友人の姿勢やパチンコ玉のタイピングに至る
>プロセスで、波動方程式の因果関係がたしかに成り立っていたこと
>になり、「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」という馬場
>さんの答えは否定されて、「私」がγを見た瞬間に「私」にとってLと
>Rの重ね合わせは消えることになります。


なぜ? 「波動方程式の因果関係」とは、「一度|L>と|R>が確率1/2
ずつで重ね合わせ状態になると、それが周囲とどんな相互作用をし
ても、|L>と|R>が1/2の確率で重ね合わせのまま時間発展していく」
ということですよ。いわゆる「ユニタリ性」です。つまり、「P(L|x)=
P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」が保たれるというのが、「波動方
程式の因果関係」ですよ。解ってますか? γは「Lか?Rか?」とは無
相関なので、γを見ても、LとRは確率1/2ずつの重ね合わせのまま
です。

> そしてある一定時間のあいだ収縮してもしなくても、波動関数に
>よる事態の推移は、ランダムではありませんね(馬場さんとのやり
>とりで見たとおり)。


「収縮してもしなくても」とは何ですか。収縮しない場合とする場合
とは、決定的に異なります。

収縮が無く、波動関数で表された状態のシュレディンガー方程式
に従う時間発展は「決定論的」です。しかし、波動関数が収縮する
時、どれになるかはランダムまたは「非決定論的」です。その区別も
していないのですか?

>ある時点で収縮した観察結果は、波動関数から計算される最頻値
>となるでしょう。(LorRや猫の生死のような意図的に作った1/2設
>定も例外ではない)。その意味で、私の経験する世界は決定論的
>です。


ええっ!? |?>=(|L>+|R>)/√2の状態で、観測結果が|L>になるか|R>
になるか確率1/2ずつで、観測してみないと判らないのに、三浦さん
はこれを「決定論的」と表現しているのですか? これこそが「非決定
論的」の典型だろうに・・・。

以上
状況は同じ


投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月27日(月)03時44分57秒 返信・引用
> No.2797[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


>  まだらさんがすでに説明しておられるように、「干渉」と「相互作用」
> とは、同じものではありません。しかし、
>     (1)と(2)が干渉するのは、(1)と(2)を第5の力が結び付け
>     ている時ではないか?
>     (1)と(2)が干渉しないのは、(1)と(2)を第5の力が結び付
>     けていない時ではないか?
> と考えてみるのは、大変合理的だと思います。少なくとも、※につい
> て真剣に考えている訳ですから。

一応書いておくと、「全ての場合において干渉はある」と私は言っています。

干渉はあるけれども一緒に動いてしまうので部分的には影響が観察できないということです。

一緒に動いた結果は当然観察できます。視点を広げないといけませんけれども。
実在全体では波動関数が存在しないこと


投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月27日(月)03時33分43秒 返信・引用
> No.2799[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> まだらさんへのお返事です。
>
> ■
> >
> > 二重スリット実験で干渉縞ができるということは、世界Aの粒子aと世界Bの粒子aが相互作用したということです。
> >
> > つまり「力が世界を超えて働いている」ということになります。未知の現象でも何でもありません。
> >
> >
> > 二重スリット実験で干渉縞ができるということは、世界Aの粒子aと世界Bの粒子aが相互作用したということです。
> >
> > つまり「力が世界を超えて働いている」ということになります。未知の現象でも何でもありません。
> >
>
> ↑これは違うと思いますよ。もしまだらさんが、物理的相互作用のことを言っているのなら。
>  干渉縞は、世界を超えて多数の粒子どうしが「相互作用」するからではありません。
>  つまり、多くの粒子が海の波のように互いに物理的作用を及ぼしあうわけではなく、単に算術的な波として現われるだけなのです。
>  引力や斥力ではなく、足し算引き算の問題です。
>  世界の相互作用ではなく数によって「私」がどこへ分かれるかが決まる、というのが多世界解釈の正統的解釈のはずです。


”波として現われる”のは我々の観察する世界での出来事です。つまりローカルな事象です。実在全体ではどうなっているのかという話をしているのですよ。

φ様は実在全体では決定論的であるということには同意されているはずです。

「粒子が算術的な波として現われているのだから非決定論的な結論しか出てこないはずだ」と言われたら何と答えるのでしょうか。

それは我々の観察する世界でそう見えるだけであって、実在全体では異なると答えるのではありませんか?

私も同じように答えます。実在全体では量子論的な波動関数など存在しないのです。




Re: まだらへ
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月27日(月)03時19分27秒 返信・引用
> No.2798[元記事へ]

モノクロームさんへのお返事です。

> まだら>「そもそも未知であることが本質」ってどういう意味でしょう。
>
> 分からないなら、説明しよう。
>
> まだら>未知であるということは、”観察されていない”か、
> まだら>”観察されてはいるが理論では説明できない”のどちらかです。
> まだら>未知であることは、知の探求としての科学の営みに関係あるに決まっています。
>
> 「”未知”の力」云々は、非決定的な量子力学に対して、
> 決定的な代替理論があるとし、その際
> 「非決定性は、何らかの”未知”の情報による。
>  人間は、結果の決定に必要な全ての情報を
>  知ることができないから予測できないが、
>  世界は全ての情報に基づいて変化するから
>  決定的である。」
> というような屁理屈をかますことも可能だろうという意味で書いた。

多世界解釈というのはそういう意味だと思うのですけどね。

あなたが言う、”屁理屈”というのは何がどう屁理屈なのかを説明してもらわないとわからないですね。

「実在全体では決定論で、我々の観察する世界では非決定論である」ということですか?


Re: 世界間の相互作用
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月27日(月)03時00分51秒 返信・引用
> No.2787[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。


>
> 二重スリット実験で干渉縞ができるということは、世界Aの粒子aと世界Bの粒子aが相互作用したということです。
>
> つまり「力が世界を超えて働いている」ということになります。未知の現象でも何でもありません。
>
>
> 二重スリット実験で干渉縞ができるということは、世界Aの粒子aと世界Bの粒子aが相互作用したということです。
>
> つまり「力が世界を超えて働いている」ということになります。未知の現象でも何でもありません。
>

↑これは違うと思いますよ。もしまだらさんが、物理的相互作用のことを言っているのなら。

干渉縞は、世界を超えて多数の粒子どうしが「相互作用」するからではありません。

つまり、多くの粒子が海の波のように互いに物理的作用を及ぼしあうわけではなく、単に算術的な波として現われるだけなのです。

引力や斥力ではなく、足し算引き算の問題です。

世界の相互作用ではなく数によって「私」がどこへ分かれるかが決まる、というのが多世界解釈の正統的解釈のはずです。

ですから、

>
> 未知の力を導入する必要もなく、φ様の説のように最も確率の高い世界を観察している
> というちょっと苦しげな説明も必要なくなります。
>

苦しげな説明ではなく(まあ印象としては苦しげかもしれませんが)、多世界解釈ではごく普通の説明です。

…………

■ 馬場さんへ

>
>  サイコロは1~6の目が出るので、|1>、|2>、|3>、|4>、|5>、|6>という
> 6つの状態が確率1/6ずつで重ね合わせになっている状態|?>は、
>     |?>=(|1>+|2>+|3>+|4>+|5>+|6>)/√6
> という波動関数で表されます。
>  二重スリット実験で1個の素粒子が、左の穴を通る|L>か、右の穴を
> 通る|R>か、2つの状態が確率1/2ずつで重ね合わせになっている状
> 態|?>は、
>     |?>=(|L>+|R>)/√2
> という波動関数で表されます。
>  両者の違いは、6つか2つか、という数だけです。どちらも「一試行
> ごとの各確率変数の確率が一様分布でなければなりませんし、各試
> 行が独立でなければなりません。」を満たしている点で共通していま
> す。
>


↑実験結果がLかRかではなく、LまたはRから帰結するマクロな諸出来事の展開(とりわけγに至る因果線)がランダムかどうかが問題になっていることは馬場さんもわかっていますよね。

見えすいた話のそらし方というか……?

議論をリタイアするという意思表示でしょうか。

>
>  なぜ任意なのでしょう? 直後だったら、γと「Lか?Rか?」の相関が
> 残っているでしょうから、私は「メタ情報」(γと「Lか?Rか?」の相関)を
> 知っていることになります。十分時間がたてば、パチンコ玉の不確定
> 性で「メタ情報」は埋没し、限りなく「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2」
> に近付くでしょうけど。
>


ここでも話をそらしてますねぇ……。

「任意」の母集団を無理に固定させる必要はないんですよ。

……もし見たら一目瞭然、というような場合は除外してかまわないのです。議論に影響ありません。

これまでの流れを見直せばわかりますが、私が「任意」と言ったのは、馬場さんがいう「メタ情報が入ってこない」領域の中での出来事の選択は自由という意味です。たとえばLかRかを見た百人の実験員が順番に部屋を出てくるのを「私」が見ているとして、百人の誰の姿勢をγと見なすかは任意、というようなことです。

それら任意のγをxとすると、どのxについても「P(L|x)=P(R|x)=1/2」と馬場さんは認定するわけですから、その「メタ情報が入ってこない間」はずっと、「私」の世界において、実験室内→外の出来事契機は「P(x|L)=P(x|R)=P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)」となり、LorRと、任意のxとは互いに独立となります。つまり、継起する諸出来事の間に【特殊な少数例にとどまらず一般的にすべて】波動関数による因果関係が全くないということです。よってランダム。

(ちなみに、確率論では、P(A|B)=P(A)は、AとBが独立であることの必要十分条件です。)


つまり馬場さんは、「個々人がメタ情報を持たない領域においては、個々人のその領域では波動方程式が成り立たない(つまり、量子力学が成り立たない)」と述べているのであり、「それが量子力学です」と宣言しているわけです。


ですから、
そのような自己制約的な(心の到達範囲内に量子力学法則を限定する)量子力学があったとは私にとって驚きですから、文献を示してくれと言ったのです(http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759 の該当箇所を見直してください)

もっとも、そんな観念論的量子力学があったなら、前提としてその体系を出せばいいだけで、馬場さんの量子観念論仮説の出番はないわけですけれどね。


反対に、「個々人がメタ情報を持たない領域においては、個々人の世界のその領域では波動方程式が成り立たない(量子力学が成り立たない)」なんてことは言ってない、というのであれば、私が以前思考実験として提示して何度か答えていただいたLorRや猫の生死から出発して友人の姿勢やパチンコ玉のタイピングに至るプロセスで、波動方程式の因果関係がたしかに成り立っていたことになり、「P(L|x)=P(R|x)=P(L)=P(R)=1/2」という馬場さんの答えは否定されて、「私」がγを見た瞬間に「私」にとってLとRの重ね合わせは消えることになります。


議論の形式で言うと、構成的ジレンマですね。

話題が物理学でなく論理学になってしまいました。


というわけで、

「ランダム」「任意」の対象を故意にすり替えた時点で、馬場さんは議論を放棄したものと判断させていただき(チョイキツイ言い方で済みません……)、

量子観念論仮説そのものがダメになったわけでもありませんので、このあたりでテーマを変える潮時ではないでしょうか。(相対状態でも、眠り姫でも)

………
■モノクロームさんへ

>
> マクロレベルでは、重みの大きさの分布が限りなく0,1に近づく場合が多い
> と思われるが、それでも0,1に一致するわけではないだろう。
>
> 「最頻値」の確率がいかほど1に近づいても1には一致しないのであれば、
> 「決定」とは異なるというのが、私の考えである。
>


もちろんそのとおりです。

が、あまりに確率(世界の頻度の比率)が0、1に偏っている場合は、実質、重ね合わせは消えたと言いますね。

厳密には、どんな決定的な観測がなされようが計測エラーの可能性はありますし、「常にあらゆる事柄について重ね合わせは消えていない」ということには反対しません。しかしそれはトリビアルな意味での重ね合わせです。

>
> つまり、意識がある一つのみの結果を観測するのは、
> 「マクロレベルだから」というだけで片付けられる
> 問題ではない。如何か?
>

というより、ひとつの確定状態が観測されるかぎりで、それを「マクロ」と呼ぶわけです。

「マクロだからひとつの結果に収縮する」のではなく、「ひとつの結果に収縮するからマクロ」なわけです。素粒子の数でミクロとマクロの境界を定義するならば話は別ですが。

そしてある一定時間のあいだ収縮してもしなくても、波動関数による事態の推移は、ランダムではありませんね(馬場さんとのやりとりで見たとおり)。ある時点で収縮した観察結果は、波動関数から計算される最頻値となるでしょう。(LorRや猫の生死のような意図的に作った1/2設定も例外ではない)。その意味で、私の経験する世界は決定論的です。
まだらへ


投稿者:モノクローム 投稿日:2011年 6月26日(日)20時51分25秒 返信・引用
まだら>「そもそも未知であることが本質」ってどういう意味でしょう。

分からないなら、説明しよう。

まだら>未知であるということは、”観察されていない”か、
まだら>”観察されてはいるが理論では説明できない”のどちらかです。
まだら>未知であることは、知の探求としての科学の営みに関係あるに決まっています。

「”未知”の力」云々は、非決定的な量子力学に対して、
決定的な代替理論があるとし、その際
「非決定性は、何らかの”未知”の情報による。

人間は、結果の決定に必要な全ての情報を

知ることができないから予測できないが、

世界は全ての情報に基づいて変化するから

決定的である。」
というような屁理屈をかますことも可能だろうという意味で書いた。

P.S.

まだら>”未知であることが本質”とはどういう意味なのかを説明してくれれば
まだら>もう少しあなたの意に沿った返答ができるかもしれません。

「意に沿う」という言葉が、機嫌をとるという意味に聞こえるが
そのような態度は一切とる必要はない。


Re: 突然だが、書き込ませていただく
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月26日(日)20時25分58秒 返信・引用
> No.2796[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

まだら様(4)/SumioBaba(馬場純雄)
モノクローム様(2)/SumioBaba(馬場純雄)

  (1) 「生きた猫」
  (2) 「死んだ猫」
  (3) (「生きた猫」+「死んだ猫」)/√2
  (4) (「生きた猫」-「死んだ猫」)/√2
とすると、次の関係が有ります。
  (1)=((3)+(4))/√2
  (2)=((3)-(4))/√2
  (3)=((1)+(2))/√2
  (4)=((1)-(2))/√2
「(1)か?(2)か?」を観測して(1)または(2)を知覚している時、(1)と(2)は
干渉しませんが、(3)と(4)は干渉しており、(3)+(4)で(2)「死んだ猫」を
消滅させたのが(1)「生きた猫」、(3)-(4)で(1)「生きた猫」を消滅させた
のが(2)「死んだ猫」です。

「(3)か?(4)か?」を観測して(3)または(4)を知覚している時、(3)と(4)は
干渉しませんが、(1)と(2)は干渉しており、(1)+(2)と重ね合わせられ
たのが(3)、(1)-(2)と重ね合わせられたのが(4)です。


(1)が(2)と干渉しない場合も有れば、(1)と(2)が干渉して(3)や(4)に
なる場合も有ります。

(3)が(4)と干渉しない場合も有れば、(3)と(4)が干渉して(1)や(2)に
なる場合も有ります。


  (1)と(2)が干渉しない場合と、(1)と(2)が干渉する場合と
  は、何が異なるのか?           ・・・※
について、現在の量子力学は何も答えていないように思われます。
特に多世界解釈の場合、(1)の視点に立って(2)と干渉していない
時も、(2)は消滅した訳ではなく、実在全体の中では(1)と(2)が重ね
合わせのままです。線形の重ね合わせのままなのに、(1)と(2)とは
干渉する場合と干渉しない場合が有る訳です。その違いは何なの
でしょう?

まだらさんがすでに説明しておられるように、「干渉」と「相互作用」
とは、同じものではありません。しかし、

  (1)と(2)が干渉するのは、(1)と(2)を第5の力が結び付け
  ている時ではないか?

  (1)と(2)が干渉しないのは、(1)と(2)を第5の力が結び付
  けていない時ではないか?
と考えてみるのは、大変合理的だと思います。少なくとも、※につい
て真剣に考えている訳ですから。

以上

Re: 突然だが、書き込ませていただく
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月26日(日)18時21分58秒 返信・引用
> No.2788[元記事へ]

モノクロームさんへのお返事です。

> 量子論の非決定性から意識の決定性を説明できない場合、
> 量子論は無意味なのであろうか?
>
> 多世界仮説は「なぜこの私なのか?」については全く説明していないが
> そもそもそれを説明するつもりがあったのだろうか?
>
> 唐突だが、「未知の力」を「”未知”の力」と読んでしまった。
> つまり、「”未知”なるものが、無数の可能性のうちの一つを選んでいる」と。
>
> ただしこの場合、”未知”であることが本質的であるなら、
> 知の探求としての科学の営みとは無関係と思われるが如何か?
> SumioBabaおよびまだらの両氏。
>
> #なお一切の敬称は省略する。敬称を求める要求に対してはこれを却下する。

何故か私の名前が書いてあったので返事しますが、「未知の力ではない」と書いたばかりですよ。

「そもそも未知であることが本質」ってどういう意味でしょう。

未知であるということは、”観察されていない”か、”観察されてはいるが理論では説明できない”のどちらかです。

未知であることは、知の探求としての科学の営みに関係あるに決まっています。

”未知であることが本質”とはどういう意味なのかを説明してくれればもう少しあなたの意に沿った返答ができるかもしれません。



Re: 量子力学の本当の不思議
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月26日(日)17時29分42秒 返信・引用
> No.2791[元記事へ]

モノクロームさんへのお返事です。

モノクローム様(1)/SumioBaba(馬場純雄)
三浦俊彦様(50)/SumioBaba(馬場純雄)

> SB>多世界解釈では、
> SB>    (1) 「生きた猫」
> SB>    (2) 「死んだ猫」
> SB>    (3) (「生きた猫」+「死んだ猫」)/√2
> SB>    (4) (「生きた猫」-「死んだ猫」)/√2
> SB>の4つが対等な関係にあります。
> SB>でも、なぜか観測できるのは(1)か(2)だけであり、(3)と(4)は
>観測できません。
> SB>その理由を聞いているのですが・・・?

>観測したのが「生死」だから。

>ところで(3)(4)について、実は
>(3)雌猫
>(4)雄猫
>だったとしよう。
>この場合「雌雄」を観測すれば、(3)(4)しか観測できないことになる。

>この場合、真に重要なのは
>「「生死」を確認後の生死それぞれの部分の雌雄は必ず半々になり
>「雌雄」を確認後の雌雄それぞれの部分の生死は必ず半々になる」
>ということ。

>つまり「生死」を観測した後生きた猫だけ集めて
>「雌雄」を観測しさらに雌猫だけ集めて
>「生死」を確認すると、その半分は死んでる、ってこと。

もっと重要な点は、
  観測されない限り、「ミクロな差異→マクロな差異」は
  世界を分岐させる原因にはなれない。
ということです。
               <1>

  1個の電子のスピンのz成分が、
      |z+>なら|生きた猫>   ・・・(1)
      |z->なら|死んだ猫>   ・・・(2)
  にする。
としましょう。これは、次の<2>と必要十分です。<1>ならば<2>が言
えるし、<2>ならば<1>も言えるからです。
               <2>

  1個の電子のスピンのx成分が、
      |x+>なら(|生きた猫>+|死んだ猫>)/√2 ・・・(3)
      |x->なら(|生きた猫>-|死んだ猫>)/√2 ・・・(4)
  にする。

<1>=<2>という方法で、1個の電子のミクロな差異を、猫のマクロな
差異に拡大しましたが、何も観測していないので、まだ世界は分岐
していません。不確定性原理により、z成分の+-と、x成分の+-とが、
両方確定することは有り得ないので、「観測しなくても、マクロな差異
に拡大した時点で、(1)と(2)も分岐し、(3)と(4)も分岐した」とは言えま
せん。(1)と(2)、(3)と(4)、のどちらかは重ね合わせのままであること
が必要ですが、一方だけを優先する理由が何も無いので、(1)と(2)
も、(3)と(4)も、重ね合わせのままだと思われます。

「(1)か?(2)か?」を観測すれば、(1)または(2)を知覚するでしょう。「(3)
か?(4)か?」を観測すれば、(3)または(4)を知覚するでしょう。(3)か(4)
かを識別する知覚システムは、理論上作れそうです。(3)か(4)かだけ
は識別できるけれども、(1)か(2)かを識別できない知覚システムを持
った宇宙人を、想定することは可能です。


要するに結論は、こうです。
  観測されない限り、「ミクロな差異→マクロな差異」は
  世界を分岐させる原因にはなれない。
  「(1)か?(2)か?」を観測すれば、(1)または(2)を知覚する。
  「(3)か?(4)か?」を観測すれば、(3)または(4)を知覚する。
  何を観測するか決めていない時は、(1)(2)(3)(4)すべて
  が重ね合わせのまま、どれになるか確定していない。

以上


Φへ
投稿者:モノクローム 投稿日:2011年 6月26日(日)14時58分4秒 返信・引用
SB> ④「結果を観測する時、一般にψ(t1)は多数の状態の重ね合わせであり、
SB>その中の一部を知覚することになりますが、どれを知覚するかは波動関数の
SB>重みの2乗に比例することまでしか判らず、どれが選ばれるかはランダムです。」

「ランダムです」は間違ってるが、その代わりに
「ある重みが1で他の重みが0となる”特殊な状況”でない限り、

量子力学のみからは決定できません」
と書いたなら、その通りだろう。

Φ> 「波動関数の重みの2乗に比例する」のであれば、結果は先行条件から
Φ>独立ではないし、不偏でもありません。つまりランダムではありません。
Φ>境界条件から推測できます。具体的にいえば、「たいてい最頻値に落ち着く」・・・

マクロレベルでは、重みの大きさの分布が限りなく0,1に近づく場合が多い
と思われるが、それでも0,1に一致するわけではないだろう。

「最頻値」の確率がいかほど1に近づいても1には一致しないのであれば、
「決定」とは異なるというのが、私の考えである。

つまり、意識がある一つのみの結果を観測するのは、
「マクロレベルだから」というだけで片付けられる
問題ではない。如何か?



SumioBabaへ
投稿者:モノクローム 投稿日:2011年 6月26日(日)14時33分47秒 返信・引用
φ> ランダムな結果というのは、サイコロの例のように、一試行ごと
φ>の各確率変数の確率が一様分布でなければなりませんし、各試行
φ>が独立でなければなりません。波動関数に従って継起する出来事
φ>は、どちらの条件も満たしません。

SB>二重スリット実験で1個の素粒子が、左の穴を通る|L>か、
SB>右の穴を通る|R>か、2つの状態が確率1/2ずつで重ね合わせに
SB>なっている状態|?>は、
SB>    |?>=(|L>+|R>)/√2
SB>という波動関数で表されます。
SB>「一試行ごとの各確率変数の確率が一様分布でなければなりませんし、
SB> 各試行が独立でなければなりません。」を満たしている・・・

量子力学における状態ベクトル|?>が
2つのベクトル|u>と|d>の合成として
|?>=a1|u>+a2|d> (a1^2+a2^2=1)
で表わせるとした場合、量子力学から
「a1=a2=1/√2 だけが正解で

a1=1/2,a2=√3/2 は間違ってる」
と結論することはできない。

そして、量子力学では
「a1=1/2,a2=√3/2もありえる」
というのであれば、その時点で

SB>情報を持たない領域の情報を得ようとする時、
SB>どれに決まるかは全くランダムです。
SB>それが量子力学です。

という主張は量子力学とは全く無関係の誤りである
と気づくはずである。



Re: 世界がこのように観察される必然性
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月26日(日)14時03分11秒 返信・引用
> No.2786[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(49)/SumioBaba(馬場純雄)

> ②は、①を肯定している、つまり
> 「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
>→【一般的に】成り立つわけがない、・・・に対して「それで良いと
>思いますよ」と答えているというんですね。


はい、ここまでOKです。

> では、改めて以下を対比してください。

>①  http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2754 より
>  「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
>→【一般的に】成り立つわけがない、
> というのはアプリオリに真です。
> (中略)ピタゴラ装置の例で見たように、γをどの時点の状態に取
>るかは任意でしたから、


なぜ任意なのでしょう? 直後だったら、γと「Lか?Rか?」の相関が
残っているでしょうから、私は「メタ情報」(γと「Lか?Rか?」の相関)を
知っていることになります。十分時間がたてば、パチンコ玉の不確定
性で「メタ情報」は埋没し、限りなく「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2」
に近付くでしょうけど。

>②の真意  http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2784 より
>「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
>→【一般的に】成り立つわけがない、・・・に対して「それで良いと
>思いますよ」と答えているんですよ。成り立つのは【一般的に】では
>なく、「私の心M1が住む世界W1において、LとRが確率1/2ずつで
>起きる実験をしている事を私は知っている」「友人の姿γと「Lか?R
>か?」との間にどんな相関が有るか?という「メタ情報」を、私は持た
>ない」という状況設定が有る場合だけですので。

> 馬場さんは①の「「私」が情報を持っていない部分は」の但し書き
>を故意に無視していますが、【一般的に】というのは、友人の姿勢
>やパチンコ玉のタイピングや位置のような、「私」の認識範囲外の
>経緯による結果一般のことを言っているのですよ。話を忘れないで
>ください。

> そこで改めて、
> ②は①の否定する「ビザールな世界観」「「私」が情報を持ってい
>ない部分はすべて無法則的ランダムだ」を否定できているんです
>か?
> 「【一般的に】は、「メタ情報」を私は持っている」と馬場さんが認め
>るなら、議論はジ・エンドですから、私はかまいませんよ。
> しかし馬場さんはそれでよいのですか?
> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759 から再び引用して
>おけば、

> 認識の到達範囲外のことについてはP(γ|L)=P(γ|R)
> 一般的にそれが成り立つというので、正確には
> ∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z))
> これが、認識の到達範囲外については普遍的に成り立っている、
>というのが量子力学なのですね。

> ↑
> これを②は否定できているのかということです。


量子力学では、まずx、y、zという事象を、たとえ曖昧な情報であっ
ても、それなりに波動関数|x>、|y>、|z>で表現することが必要です。
それができれば、「xであるときにyである確率」は||^2で、「xであ
るときにzである確率」は||^2で、計算できます。

x、y、zが何の事象かという情報さえ無い時は、波動関数として
|x>、|y>、|z>を表現する事自体ができないので、量子力学を用いた
P(x|y)やP(x|z)の計算はできません。

> それから、
> いくらなんでも「ランダム」という言葉は、正しく使いませんか。
> ランダムな結果というのは、サイコロの例のように、一試行ごと
>の各確率変数の確率が一様分布でなければなりませんし、各試行
>が独立でなければなりません。波動関数に従って継起する出来事
>は、どちらの条件も満たしません。


サイコロは1~6の目が出るので、|1>、|2>、|3>、|4>、|5>、|6>という
6つの状態が確率1/6ずつで重ね合わせになっている状態|?>は、


  |?>=(|1>+|2>+|3>+|4>+|5>+|6>)/√6
という波動関数で表されます。

二重スリット実験で1個の素粒子が、左の穴を通る|L>か、右の穴を
通る|R>か、2つの状態が確率1/2ずつで重ね合わせになっている状
態|?>は、


  |?>=(|L>+|R>)/√2
という波動関数で表されます。

両者の違いは、6つか2つか、という数だけです。どちらも「一試行
ごとの各確率変数の確率が一様分布でなければなりませんし、各試
行が独立でなければなりません。」を満たしている点で共通していま
す。


念のため、量子力学による確率計算方法です。
サイコロで3の目が出る|3>の確率は、


  <3|?>=<3|(|1>+|2>+|3>+|4>+|5>+|6>)/√6


    =(<3|1>+<3|2>+<3|3>+<3|4>+<3|5>+<3|6>)/√6


    =(0+0+1+0+0+0)/√6


    =1/√6
の2乗ですから、1/6です。

二重スリット実験で、1個の素粒子が|L>である確率は、


  =+|R>)/√2


    =(+)/√2


    =(1+0)/√2


    =1/√2
の2乗ですから、1/2です。

以上


量子力学の本当の不思議
投稿者:モノクローム 投稿日:2011年 6月26日(日)12時51分34秒 返信・引用
SB>多世界解釈では、
SB>    (1) 「生きた猫」
SB>    (2) 「死んだ猫」
SB>    (3) (「生きた猫」+「死んだ猫」)/√2
SB>    (4) (「生きた猫」-「死んだ猫」)/√2
SB>の4つが対等な関係にあります。
SB>でも、なぜか観測できるのは(1)か(2)だけであり、(3)と(4)は観測できません。
SB>その理由を聞いているのですが・・・?

観測したのが「生死」だから。

ところで(3)(4)について、実は
(3)雌猫
(4)雄猫
だったとしよう。
この場合「雌雄」を観測すれば、(3)(4)しか観測できないことになる。

この場合、真に重要なのは
「「生死」を確認後の生死それぞれの部分の雌雄は必ず半々になり

「雌雄」を確認後の雌雄それぞれの部分の生死は必ず半々になる」
ということ。

つまり「生死」を観測した後生きた猫だけ集めて
「雌雄」を観測しさらに雌猫だけ集めて
「生死」を確認すると、その半分は死んでる、ってこと。


初耳だ
投稿者:モノクローム 投稿日:2011年 6月26日(日)12時27分34秒 返信・引用
まだら>二重スリット実験で干渉縞ができるということは、
まだら>世界Aの粒子aと世界Bの粒子aが相互作用したということです。
まだら>つまり「力が世界を超えて働いている」ということになります。
まだら>未知の現象でも何でもありません。

初耳だ。

私がよく聞く説明は
「粒子aは実は波であり、波としての干渉により干渉縞が現れる」
というもの。

どちらのスリットを通ったか観測すると干渉縞が現れないのは
観測によって波の位相が変わってしまうからだ、と聞いている。

いわずもがなだが、波の干渉には何の力も必要ない。


波動関数=実在
投稿者:モノクローム 投稿日:2011年 6月26日(日)11時50分35秒 返信・引用
実在論の公理
「人間、あるいは「私」とは独立に外界は客観的に存在し、

そのあり方も「私」の主観には依存しない。

むしろ「私」こそが客観的世界の産物である」

φ>多世界解釈は、「無数の世界の物理的実在」という
φ>目に見えないものを認定する強固な実在論です。

波動関数=(「私」とは無関係な)実在、ということだな。


突然だが、書き込ませていただく
投稿者:モノクローム 投稿日:2011年 6月26日(日)11時28分25秒 返信・引用
量子論の非決定性から意識の決定性を説明できない場合、
量子論は無意味なのであろうか?

多世界仮説は「なぜこの私なのか?」については全く説明していないが
そもそもそれを説明するつもりがあったのだろうか?

唐突だが、「未知の力」を「”未知”の力」と読んでしまった。
つまり、「”未知”なるものが、無数の可能性のうちの一つを選んでいる」と。

ただしこの場合、”未知”であることが本質的であるなら、
知の探求としての科学の営みとは無関係と思われるが如何か?
SumioBabaおよびまだらの両氏。

#なお一切の敬称は省略する。敬称を求める要求に対してはこれを却下する。


世界間の相互作用
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月26日(日)10時17分14秒 返信・引用
φさんへのお返事です。

>一応こう考えれば、「世界を超えて働く力」なんてものを考えずにすむのではありませんか?

φ様とやりとりしたお陰で何が問題なのかわかったような気がします。


問題は、未知の力を導入しようとしたことそのもののようですね。よくよく考えて見ると現代物理学にとっての未知の力など私の説明では扱っていません。

「世界を超えて働く力」を「力が世界を超えて働いている」に表現を変えることにします。

二重スリット実験で干渉縞ができるということは、世界Aの粒子aと世界Bの粒子aが相互作用したということです。

つまり「力が世界を超えて働いている」ということになります。未知の現象でも何でもありません。


後はこれをマクロにも適用するだけです。

例えば月のような巨大な物質の内部でも「世界Aの粒子aと世界Bの粒子aの相互作用」が起きています。

この力がそのまま月全体に影響を与えているとしたら月全体が揺らぐようなことになるでしょうが、力の作用に対して直角方向への運動があれば影響は相殺されるのです。

全てが相殺されるわけではなく、結合の弱い部分への影響が観察されるのは潮汐力と同じです。地球と火星のように異なる移動速度の物体に対しても影響が観察されることになります。


この説明の利点は、二重スリット実験における干渉縞が観察される必然性が導かれることです。

恒星があって惑星に海があると必然的に「弱い結合への干渉(満潮・干潮)」と惑星の公転運動が存在することになりますが、同じように世界間に相互作用が働いていると必然的に「弱い結合への干渉(波動関数)」とマクロの運動が存在することになるのです。

ミクロの粒子では確率的な事象なのにマクロでは確定しているのは他の粒子との結合が強いか弱いかだけが理由です。「独立して動く粒子=ミクロ」と「結合状態の粒子=マクロ」ということですね。

波動関数が独立した粒子の確率的事象であるように、マクロの運動は結合状態の粒子の確率的事象ということになります。世界間の相互作用は我々の観察する世界に確率的事象を生むということですね。

我々知的生命は「運動する結合状態の粒子」=「公転する惑星」から観察しています。

「運動」というのは世界間の相互作用の影響に対して直角方向への移動ということになります。

φ様のように、「私の意識の物理状態=知的生命全体の意識の物理状態」を想定する場合には、知的生命全体が同じ運動をしていることになります。

私とφ様が全く同じ運動エネルギーを持っていると考える根拠はないと私は思います。接触すれば当然同調することになるのですけどね。


未知の力を導入する必要もなく、φ様の説のように最も確率の高い世界を観察しているというちょっと苦しげな説明も必要なくなります。


Re: 世界がこのように観察される必然性
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月26日(日)05時29分55秒 返信・引用
> No.2785[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 「何故我々は二重スリット実験において干渉縞を観察したのか」ということがφ様の説では
> 説明できないのではないかということなのですけどね。
>


たしかに、スリットを2つ開けるとなぜ干渉縞ができるのかについては、私も、実感として納得のゆく説明を聞いたことがありません。

専門家なら実感をもって納得しているのかもしれませんが(ただ量子力学をめぐっては専門家の納得も便宜的なものが多いとは聞きますが)、

正直なところ、多世界解釈をとったからと言って、 干渉縞が生ずる理由がわかりやすくなったとは思えません。

ただ、大まかな理解ではこういうことではないですか。

スリットをひとつだけ開けた場合と、2つとも開けた場合とでは、「私」がいることになる世界のメンバーが異なる(つまり、部分集合が異なる)。2つ開けた場合には、「私」が見るスクリーンでは、素粒子がひとつのスリットだけを通った場合の痕跡よりも、2つのスリットを通って同じ地点に達した場合の痕跡の方が、観察されやすい。なぜなら、そのような世界のほうが数が多いので、「私」がそのような世界へ分岐してゆく確率が高いからだ。

こうして、スリットをひとつだけ開けた場合の足し合わせとは異なったパターンが、2つ開けた場合には生ずることになる。……


どんなもんですかね?

ド素人な説明ですみませんが。

一応こう考えれば、「世界を超えて働く力」なんてものを考えずにすむのではありませんか?


…………

以下は馬場さんへ


……じっくり考えてお答えいただくよう、お願いしたはずですが、どうにも困りましたね……、


②と④との矛盾はまるっきり解消されていませんよ。


②は、①を肯定している、つまり

「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
→【一般的に】成り立つわけがない、・・・に対して「それで良いと思い
ますよ」と答えている


 というんですね。


では、改めて以下を対比してください。

①  http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2754 より

「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」? →【一般的に】成り立つわけがない、

というのはアプリオリに真です。

(中略)ピタゴラ装置の例で見たように、γをどの時点の状態に取るかは任意でしたから、P(γ|L)=P(γ|R)=1/2というのは、この世の推移がランダムだということなのです(少なくとも、「私」が情報を持っていない部分はすべて無法則的ランダムだ、ということです。これはただの素朴観念論であり、私の知覚風景の末端を境に世界が不連続になっているというビザールな世界観です)。

②の真意  http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2784 より
「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
→【一般的に】成り立つわけがない、・・・に対して「それで良いと思い
ますよ」と答えているんですよ。成り立つのは【一般的に】ではなく、
「私の心M1が住む世界W1において、LとRが確率1/2ずつで起きる
実験をしている事を私は知っている」「友人の姿γと「Lか?Rか?」との
間にどんな相関が有るか?という「メタ情報」を、私は持たない」という
状況設定が有る場合だけですので。


馬場さんは①の「「私」が情報を持っていない部分は」の但し書きを故意に無視していますが、【一般的に】というのは、友人の姿勢やパチンコ玉のタイピングや位置のような、「私」の認識範囲外の経緯による結果一般のことを言っているのですよ。話を忘れないでください。


そこで改めて、

②は①の否定する「ビザールな世界観」「「私」が情報を持っていない部分はすべて無法則的ランダムだ」を否定できているんですか?

「【一般的に】は、「メタ情報」を私は持っている」と馬場さんが認めるなら、議論はジ・エンドですから、私はかまいませんよ。

しかし馬場さんはそれでよいのですか?

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759 から再び引用しておけば、


認識の到達範囲外のことについてはP(γ|L)=P(γ|R)

一般的にそれが成り立つというので、正確には

∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z))

これが、認識の到達範囲外については普遍的に成り立っている、というのが量子力学なのですね。




これを②は否定できているのかということです。


それから、

いくらなんでも「ランダム」という言葉は、正しく使いませんか。

ランダムな結果というのは、サイコロの例のように、一試行ごとの各確率変数の確率が一様分布でなければなりませんし、各試行が独立でなければなりません。波動関数に従って継起する出来事は、どちらの条件も満たしません。

「M1がW1について情報を持たない領域の情報を得ようとする時、どれに決まるかは全くランダムです。」という馬場さんの言葉が、①が否定していること「x、y、zの論議領域を「情報を持たない領域での出来事」とするときに「∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z))」」以外を意味するなどというのは言葉の歪曲もいいところです。

せっかく御投稿いただいていながら、毎度苦言ばかりですみませんが――――


世界がこのように観察される必然性


投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月25日(土)09時03分56秒 返信・引用
φさんへのお返事です。

>> φ様の説だと、意識と多世界の収束が一致している理由は
>>「人間原理におけるファインチューニング」だけということになるはずですが、
>>それならばミクロでぶれが生じている理由がよくわかりません。
>>
>> 物理的な条件で意識が成り立っているのであれば、完全に一致して良いはずです。
>>
>> 「古典的な力学の支配する宇宙=我々の観察する世界」にならない理由は何でしょうか。
>>

> の意味を私が理解できなかったことから始まっていますね。

そうですね。これの説明をするということで良いと思うのですが、ちょっと遠回りしようと思います。


「第5の力」というものについて整理しておく必要があるでしょう。

φ様は、4つの力で説明できるのであれば第5の力を持ち出す必要はないという意見なのだと思います。


でも、そもそも我々の知る宇宙に根源的な力は4つもなく、電磁気力と弱い力と強い力は統一理論ができているので重力と合わせて二つです。重力と電磁気力が異なる力であるという証拠もありません。

つまり第5の力を持ち出したところで、いずれ統一理論ができて同じ力の別の側面であるということになる可能性は高いわけですね。なのに何故第5の力を持ち出すのかというと、その方がわかりやすいからです。

とはいえ、「第5の力」という言葉は神秘的なイメージがつきまとってしまうようなので、ここでは「世界を超えて働く力」という名称にした方が良いかもしれません。

「世界を超えて働く力」と「世界内限定の力」を便宜上わけて考えようということですね。

太陽系のモデルで言うと、太陽の引力と地球の引力をわけて考えているようなものです。

「世界を超えて働く力」→「大気圏外で働く力=太陽の引力」という感じです。

この場合「ミクロで生じるぶれ=潮汐力」という説明になります。


φ様の説明だと「我々の意識が二重スリット実験において干渉縞を作らない状態を観察する」ことも可能なはずです。

私の説明だと地球で潮汐力と惑星の惑う力が観察されるのは必然であるように、ミクロレベルでの波動関数とマクロレベルでの確率変動があるのは必然であるということになり、「意識はニ重スリット実験において必然的に干渉縞を観察する」ことになります。

「何故我々は二重スリット実験において干渉縞を観察したのか」ということがφ様の説では説明できないのではないかということなのですけどね。


Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月24日(金)18時45分1秒 返信・引用
> No.2782[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(48)/SumioBaba(馬場純雄)

> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2754??での私の記述(①)と、
> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2757 での馬場さんの応答
>(②)を再録しておきます。
> あと、http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759 での私の応答
>(③)も。
 >●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
>
> ①
>>  「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
>>→【一般的に】成り立つわけがない、
>> というのはアプリオリに真です。
>> 【一般的に】成り立つとはどういう意味かを考えればすぐわかりま
>>す。その場合、任意の出来事のあとに任意の出来事が等確率で
>>起きることになり、因果律が成り立たなくなり、私たちの日常経験
>>も成立しなくなります。ピタゴラ装置の例で見たように、γをどの時
>>点の状態に取るかは任意でしたから、P(γ|L)=P(γ|R)=1
>>/2というのは、この世の推移がランダムだということなのです(少
>>なくとも、「私」が情報を持っていない部分はすべて無法則的ランダ
>>ムだ、ということです。

>②
> それで良いと思いますよ。私の心M1が住む世界W1における因果
>律は、M1がW1について持っている情報に物理法則を適用した範囲
>だけで成立するものです。M1がW1について情報を持たない領域の
>情報を得ようとする時、どれに決まるかは全くランダムです。それが
>量子力学です。

「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
→【一般的に】成り立つわけがない、・・・に対して「それで良いと思い
ますよ」と答えているんですよ。成り立つのは【一般的に】ではなく、
「私の心M1が住む世界W1において、LとRが確率1/2ずつで起きる
実験をしている事を私は知っている」「友人の姿γと「Lか?Rか?」との
間にどんな相関が有るか?という「メタ情報」を、私は持たない」という
状況設定が有る場合だけですので。

>>③
>> 「それが量子力学」であったとは私は初耳です。
>> これは驚くべきことですから、根拠になる文献をぜひ示していた
>>だけませんか。
>>      (中略)
>>馬場さんの言を文字通りにとると、
>> 認識の到達範囲外のことについてはP(γ|L)=P(γ|R)
>> 一般的にそれが成り立つというので、正確には
>> ∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z))
>> これが、認識の到達範囲外については普遍的に成り立ってい
>>る、というのが量子力学なのですね。

「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
→【一般的に】成り立つわけがない、・・・に対して「それで良いと思い
ますよ」と答えているんですけど。


>●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
>
> ①が否定する「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り
>立つ」を肯定した②が、「この世の推移がランダムだ」と認めている
>ことはおわかりですね?
> ∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z)) であると。

①の「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
→【一般的に】成り立つわけがない、・・・に対して「それで良いと思い
ますよ」と答えているんです。肯定しているのではなく、否定している
のが②です。

> これは、前回の馬場さんの
> ④「結果を観測する時、一般にψ(t1)は多数の状態の重ね合わせ
>であり、その中の一部を知覚することになりますが、どれを知覚す
>るかは波動関数の重みの2乗に比例することまでしか判らず、どれ
>が選ばれるかはランダムです。」
> と矛盾することもおわかりでしょう。


「成り立つわけがない」に「それで良いと思いますよ」と答えている
のが②です。「「【一般的に】成り立つ」を肯定した②」と、正反対に
なっているので、矛盾も生じるでしょう。

> ちなみに、④における「ランダム」の用法も変ですね。
> 「波動関数の重みの2乗に比例する」のであれば、結果は先行条
>件から独立ではないし、不偏でもありません。つまりランダムでは
>ありません。境界条件から推測できます。具体的にいえば、「たい
>てい最頻値に落ち着く」というのは私が前々から言っていることで、
>論理的真理です。


確率1/2ずつでLとRの場合、「最頻値」て何? Lですか? Rですか?
こういう時に「最頻値」という概念を持ち出されても意味不明、という
説明もすでに書きました。

確率だけは判っていても、「どちらに確定するかは「ランダム」」と表
現して良いと思います。

> つまり、非対称な境界条件から波動関数に従った推移が、任意
>の結果を等確率で生み出すなどということは不可能でしょう、という
>①に、馬場さんはまだ答えていません。


「非対称な境界条件から波動関数に従った推移が、任意の結果を
等確率で生み出す」なんて、一般的に言えないだろうし、そう書いた
覚えは全く有りません。

以上


Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月24日(金)13時35分54秒 返信・引用
> No.2782[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(47)/SumioBaba(馬場純雄)


私の説明はこうでした。


                【前半】


  私の心M1が住む世界W1における因果律は、M1がW1


  について持っている情報に物理法則を適用した範囲


  だけで成立するものです。M1がW1について情報を持


  たない領域の情報を得ようとする時、どれに決まるか


  は全くランダムです。それが量子力学です。
でも、正しく伝わらなかったようなので、以下を追加しました。


                【後半】


  私の心M1が住む世界W1における因果律について、


  量子力学を適用する場合の説明ですね。


  まず、M1がW1について持っている情報の範囲内で、


  対象となっている物理状態の初期状態を波動関数


  ψ(t0)として表現します。この中にすでに不確定性が


  含まれています。


  次に、シュレディンガー方程式を用いて、時刻t1(>t0)


  における波動関数ψ(t1)を計算します。原因から結果


  を導いたという意味で、この部分が因果律です。


  最後に結果を観測する時、一般にψ(t1)は多数の状


  態の重ね合わせであり、その中の一部を知覚するこ


  とになりますが、どれを知覚するかは波動関数の重


  みの2乗に比例することまでしか判らず、どれが選ば


  れるかはランダムです。

三浦さんの反論は、【前半】と【後半】の間になされたものでした。
【後半】の説明を追加してもまだ不明な点が有るのであれば、もう一
度反論をまとめて下さい。

以上


Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月23日(木)20時56分14秒 返信・引用
> No.2779[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。


もともとは、まだらさんの

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2771

における

>
> φ様の説だと、意識と多世界の収束が一致している理由は
>「人間原理におけるファインチューニング」だけということになるはずですが、
>それならばミクロでぶれが生じている理由がよくわかりません。
>
> 物理的な条件で意識が成り立っているのであれば、完全に一致して良いはずです。
>
> 「古典的な力学の支配する宇宙=我々の観察する世界」にならない理由は何でしょうか。
>


の意味を私が理解できなかったことから始まっていますね。

>
> もう一回整理して私の意見を書くことにします。
>


よろしくお願いします。


………………………

さて、

以下は馬場さんへ。


どうも議論の基本が守られていないようですよ。

局部にそのつど反応するのではなく、話の流れを尊重してほしいのですが……

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2754 での私の記述(①)と、
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2757 での馬場さんの応答(②)を再録しておきます。
あと、http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759 での私の応答(③)も。


●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●


>  「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
>→【一般的に】成り立つわけがない、
> というのはアプリオリに真です。
> 【一般的に】成り立つとはどういう意味かを考えればすぐわかりま
>す。その場合、任意の出来事のあとに任意の出来事が等確率で
>起きることになり、因果律が成り立たなくなり、私たちの日常経験
>も成立しなくなります。ピタゴラ装置の例で見たように、γをどの時
>点の状態に取るかは任意でしたから、P(γ|L)=P(γ|R)=1
>/2というのは、この世の推移がランダムだということなのです(少
>なくとも、「私」が情報を持っていない部分はすべて無法則的ランダ
>ムだ、ということです。



それで良いと思いますよ。私の心M1が住む世界W1における因果
律は、M1がW1について持っている情報に物理法則を適用した範囲
だけで成立するものです。M1がW1について情報を持たない領域の
情報を得ようとする時、どれに決まるかは全くランダムです。それが
量子力学です。



「それが量子力学」であったとは私は初耳です。

これは驚くべきことですから、根拠になる文献をぜひ示していただけませんか。


    (中略)
馬場さんの言を文字通りにとると、

認識の到達範囲外のことについてはP(γ|L)=P(γ|R)

一般的にそれが成り立つというので、正確には

∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z))

これが、認識の到達範囲外については普遍的に成り立っている、というのが量子力学なのですね。


●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●


①が否定する「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つ」を肯定した②が、「この世の推移がランダムだ」と認めていることはおわかりですね?

∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z)) であると。


これは、前回の馬場さんの

④「結果を観測する時、一般にψ(t1)は多数の状態の重ね合わせであり、その中の一部を知覚することになりますが、どれを知覚するかは波動関数の重みの2乗に比例することまでしか判らず、どれが選ばれるかはランダムです。」

と矛盾することもおわかりでしょう。


ちなみに、④における「ランダム」の用法も変ですね。

「波動関数の重みの2乗に比例する」のであれば、結果は先行条件から独立ではないし、不偏でもありません。つまりランダムではありません。境界条件から推測できます。具体的にいえば、「たいてい最頻値に落ち着く」というのは私が前々から言っていることで、論理的真理です。

つまり、非対称な境界条件から波動関数に従った推移が、任意の結果を等確率で生み出すなどということは不可能でしょう、という①に、馬場さんはまだ答えていません。


ともあれ、筋道を大切にしないと、その場の反応に終始するだけの言葉の濫用になってしまいます。


馬場さんにお願いですが、

べつに毎回即座に反応しなくても大丈夫ですから、

議論の流れをじっくり把握しなおしてから御発言いただけると有難いですね。

②④のように相矛盾する応答があまりに重なると、どこを突いてよいのかこちらも選べなくなってしまいます。


①②③(友人の姿勢は「私」にとってLorRの情報を含むのか)がクリアできれば、相対状態(観測結果の一意性)や眠り姫の話に進めるんですけれどね。


Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月23日(木)16時25分30秒 返信・引用
> No.2778[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(46)/SumioBaba(馬場純雄)

> 何度も述べてきたように、私は多世界解釈が観念論を含意する
>ということに大賛成です。今のところ私の結論は観念論です。
> ですから、強固な実在論から始めるのは、論点先取ではなく、背
>理法の仮定なのです。


[量子実在論仮説]では説明できず、[量子観念論仮説]で初めて
説明できる例として、


  「眠り姫問題」・・・同一の事象でも、誰の住む世界で見る


    かで確率は異なる。


  「決定論と自由意志の両立」・・・友人の住む世界で私の


    脳は決定論に従っていても、私の住む世界で私の心


    は自由意志による世界の選択が可能。
を挙げました。

> ともあれ、科学者の大勢が当然視する実在論的世界観をはじめ
>から否定するようでは論証はできません。
> 観念論を前提して観念論を導いてもらってもただのイデオロギー
>であり、論証ではありませんね。


私は、実在論も観念論も仮定せず、多世界解釈を仮定すると自ず
と[量子観念論仮説]に到達し、[量子実在論仮説]の立場には立てな
いのでは?と主張し、三浦さんもそれに同意されたはずです。

>  というわけで、
>  http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759
>  で申し上げたように、
> 馬場さんの唱える以下のような観念論的量子力学の、信頼でき
>る出典をなるべく早くお教え下さい。
>馬場さんが「量子力学」という言葉で何を意味しているのか私に
>わからないままでは話の進めようがありませんから、馬場さんとの
>「議論」は、私がその出典に目を通して、共通の理解を得てからに
>させていただきます。
> よろしくお願いします。

>> 私の心M1が住む世界W1における因果律は、M1がW1について
>>持っている情報に物理法則を適用した範囲だけで成立するもの
>>です。M1がW1について情報を持たない領域の情報を得ようとす
>>る時、どれに決まるかは全くランダムです。それが量子力学です。


あまりにも常識的すぎて、あからさまにこう説明してある文献が見つ
かりません。逆に聞きますが、何が解らないのですか? 量子力学
の基礎の基礎だと思いますが?

私の心M1が住む世界W1における因果律について、量子力学を
適用する場合の説明ですね。

まず、M1がW1について持っている情報の範囲内で、対象となって
いる物理状態の初期状態を波動関数ψ(t0)として表現します。この
中にすでに不確定性が含まれています。

次に、シュレディンガー方程式を用いて、時刻t1(>t0)における波
動関数ψ(t1)を計算します。原因から結果を導いたという意味で、
この部分が因果律です。

最後に結果を観測する時、一般にψ(t1)は多数の状態の重ね合わ
せであり、その中の一部を知覚することになりますが、どれを知覚す
るかは波動関数の重みの2乗に比例することまでしか判らず、どれ
が選ばれるかはランダムです。


「ユニタリ性」もご存じなかったので、相互作用が有る場合も保存さ
れる性質であることを説明しましたが、こんなに初歩的なところから
説明が必要なのでしょうか?

以上


論点?
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月23日(木)07時37分27秒 返信・引用
> No.2775[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

馬場様の発言を引用
> これこそが大問題です。そしてこの問題を考究するときに、「4つの力
> だけで十分か? 第5の力が必要か?」という選択に迫られるのです。


http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2770
φ さんの発言を引用
>コペンハーゲン解釈であれば、「私」に観測された実在の側面以外は実在と認めないため、「なんだかわからないけど観測すると実在が収縮する」ということになり、「なんだかわからないけど」の部分が「第5の力」にあたると言ってもよいと思います。


こういう発言もあったわけですが馬場様的にはこの認識で良いのではありませんか?


Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月23日(木)07時28分42秒 返信・引用
> No.2776[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>> 「意識にとって世界は」必要かつ十分な最適がなされていると言っているのではなく、「世界にとって意識は」必要かつ十分な最適意識であるはずだとφ 様が主張していることになると言っているのです。
>

>よくわかりませんね。
> 私の述べたどういう命題が「世界にとって意識は」必要かつ十分な最適意識であるはず」ということを含意するのでしょう?
> そんな命題は、進化論にも人間原理にも反する目的論的な命題です。

「世界にとって」という言葉を目的論と解釈する理由はないと思いますけどね。


φ様の言う、「実在論の公理」を言い換えただけなんですが。


> それはちょっと違うような。
> 「私がφであるのは、世界の一側面である」ということです。
> 「私」は世界の客観的構成要素ではないため、私をφたらしめている力など存在しません。
> 力が働くのは、あくまで客観的事実に対してです。
> 世界をどの側面から見るかは、側面が決めるのであって、世界の客観的事実が決めるのではありません。
> 「昨日は6月21日である」という事実を成り立たせる特定の力など存在しないのと同様です。
> 「ここは東京である」という事実を成り立たせる力が存在しないのも同様です。
> むろん、あえて力を求めれば、四つの力で十分という言い方もできますけれどね。

第5の力を仮定したからと言って事情は変わらないと言っているだけなのですが。

お返事を読む限り、φ様は私の意見に反対していないように見えます。

もう一回整理して私の意見を書くことにします。



Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月23日(木)05時54分17秒 返信・引用
> No.2777[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>
>  多世界解釈から出発し、実在論と観念論のどちらにも先入観を持
> たず、どちらが正しいと言えるかを議論している真っ最中です。それ
> なのに、「実在論が正しい」と仮定して「実在論が正しい」と主張して
> も、ただの論点先取になってしまいます。
>


何度も述べてきたように、私は多世界解釈が観念論を含意するということに大賛成です。今のところ私の結論は観念論です。

ですから、強固な実在論から始めるのは、論点先取ではなく、背理法の仮定なのです。


ともあれ、科学者の大勢が当然視する実在論的世界観をはじめから否定するようでは論証はできません。

観念論を前提して観念論を導いてもらってもただのイデオロギーであり、論証ではありませんね。



というわけで、


http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2759

で申し上げたように、

馬場さんの唱える以下のような観念論的量子力学の、信頼できる出典をなるべく早くお教え下さい。
馬場さんが「量子力学」という言葉で何を意味しているのか私にわからないままでは話の進めようがありませんから、馬場さんとの「議論」は、私がその出典に目を通して、共通の理解を得てからにさせていただきます。

よろしくお願いします。

>
> 私の心M1が住む世界W1における因果
> 律は、M1がW1について持っている情報に物理法則を適用した範囲
> だけで成立するものです。M1がW1について情報を持たない領域の
> 情報を得ようとする時、どれに決まるかは全くランダムです。それが
> 量子力学です。
>


Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月22日(水)12時01分55秒 返信・引用
> No.2776[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(45)/SumioBaba(馬場純雄)

> 馬場さんが蒸し返している事柄も、単に死んだ猫と生きた猫の
>合体という物理的対象が存在しないがゆえにそれが「私」の知覚
>対象にならない(少なくとも多世界解釈では)というだけの話であっ
>て、なんら謎ではない、ということは以前述べたとおりです。幻覚
>以外に「私」の安定した知覚対象になるのは、客観的実在だけだ
>からです。


「単に死んだ猫と生きた猫の合体という物理的対象が存在しない
がゆえに」って、どういう意味ですか? 多世界解釈では、


  (1) 「生きた猫」


  (2) 「死んだ猫」


  (3) (「生きた猫」+「死んだ猫」)/√2


  (4) (「生きた猫」-「死んだ猫」)/√2
の4つが対等な関係にあります。でも、なぜか観測できるのは(1)か
(2)だけであり、(3)と(4)は観測できません。その理由を聞いているの
ですが・・・?

> 「実在論の公理」から出発することは、余計なつまらない謎モドキ
>をまず消しておいて、本当の謎に迫るためにも大切なことです。


多世界解釈から出発し、実在論と観念論のどちらにも先入観を持
たず、どちらが正しいと言えるかを議論している真っ最中です。それ
なのに、「実在論が正しい」と仮定して「実在論が正しい」と主張して
も、ただの論点先取になってしまいます。

以上


Re: 「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月22日(水)03時41分36秒 返信・引用
> No.2773[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 「意識にとって世界は」必要かつ十分な最適がなされていると言っているのではなく、「世界にとって意識は」必要かつ十分な最適意識であるはずだとφ 様が主張していることになると言っているのです。
>

よくわかりませんね。

私の述べたどういう命題が「世界にとって意識は」必要かつ十分な最適意識であるはず」ということを含意するのでしょう?

そんな命題は、進化論にも人間原理にも反する目的論的な命題です。

>
> 「私をまだらたらしめているのは4つの力である」というのがφ 様の主張であると私は認識しています。
>


それはちょっと違うような。

「私がφであるのは、世界の一側面である」ということです。

「私」は世界の客観的構成要素ではないため、私をφたらしめている力など存在しません。

力が働くのは、あくまで客観的事実に対してです。

世界をどの側面から見るかは、側面が決めるのであって、世界の客観的事実が決めるのではありません。

「昨日は6月21日である」という事実を成り立たせる特定の力など存在しないのと同様です。

「ここは東京である」という事実を成り立たせる力が存在しないのも同様です。

むろん、あえて力を求めれば、四つの力で十分という言い方もできますけれどね。


馬場さんが蒸し返している事柄も、単に死んだ猫と生きた猫の合体という物理的対象が存在しないがゆえにそれが「私」の知覚対象にならない(少なくとも多世界解釈では)というだけの話であって、なんら謎ではない、ということは以前述べたとおりです。幻覚以外に「私」の安定した知覚対象になるのは、客観的実在だけだからです。

「実在論の公理」から出発することは、余計なつまらない謎モドキをまず消しておいて、 本当の謎に迫るためにも大切なことです。


Re: 中途半端な状態(不完全な一致)
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月20日(月)17時32分40秒 返信・引用
> No.2772[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(44)/SumioBaba(馬場純雄)

> 他方、多世界解釈によれば、実在全体は単に量子力学に文字
>どおり従っているだけであって、各々のローカルな視点で見ると
>(多世界の部分集合にいる自我の観点から見ると)収縮が起きる
>ように見えるだけなので、第5の力は必要ないでしょう。

> ローカルな視点から見たときだけ問題になるような現象はいろ
>いろあります。
> 「太陽と月の見掛けの直径が等しい(ゆえに、皆既日食が起こり
>うる)」というのも、実在の性質というより、特定の場所からの(たと
>えば地球上からの、地球誕生後四十数億年経った特定の時期で
>の眺めでの)限定的真理ですね。
> あるいは、「私はマリリン・モンローでもなくアインシュタインでも
>なくまだらでもなくφである」というのも、φの視点から見たときだけ
>成り立つ限定的真理ですね。
> いま、これこれの机が平行四辺形に見えている」等々も同じです。

> それらの限定的真理(ローカルな真理)は、実在全体の物理状態
>に影響を与える要素(成分)というより、実在全体の中の特定の側
>面、と言うべきものでしょう。
> 私がφであるのは偶然であり、それと同じく、ある素粒子があの
>領域ではなくこの点に収縮したのは偶然です。
> そして、それは、ローカルな視点のどれが経験されるか、の偶然
>性であり、実在全体の決定論的法則性と両立します。

> 私をまだらではなくアインシュタインでもなくφたらしめている」の
>は第5の力である、というのは馬鹿げていますよね。
> それと同じく、波動の収縮はたまたまそのような世界だったという
>ことで、「この世界にこの収縮をもたらしたのは第5の力だ」という
>のもナンセンスです。
> 私がたまたまφであるゆえに、「φのいる世界」ならではの収縮
>が起きていくにすぎません。


シュレディンガーの猫の話で、確率1/2ずつで猫が生と死の両方に
なるようにした上、私が箱を開けてみた時、「生きた猫を見た私の心」
をM1、「死んだ猫を見た私の心」をM2とします。一番本質的な謎は、
次の点です。


               【本質的な謎】


  なぜM1とM2とは<M1|M2>=0、<M2|M1>=0すなわち「M1の


  視点に立つ時、同時にM2の視点に立つ確率は0」「M2の


  視点に立つ時、同時にM1の視点に立つ確率は0」で独立


  してしまい、M1とM2の片方の視点にしか立てないのか?


  <M1|M2>≠0、<M2|M1>≠0すなわち「M1の視点に立つ時、


  同時にM2の視点に立つ確率は0でない」「M2の視点に立


  つ時、同時にM1の視点に立つ確率は0でない」でM1とM2


  とが融合して「1つの心」Mとなり、Mの視点に立つことで


  M1とM2の両方の視点に同時に立つことはできないのか?
この最も重要な謎に対し、三浦さんの立場では答える術が無いため
に、見て見ぬ振りをしておられるだけに思います。答えられますか?


私の脳Bに随伴する心Mが、個々のニューロンB1-Bnに随伴する
心M1-Mn(nは約140億)、個々の分子・原子・素粒子B1-Bnに随伴す
る心M1-Mn(nは約10^27)、にまで分裂・独立してしまえば、それはM
の消滅を意味します。実際にはM1-Mnが融合し、心M(≠0)が発生
しています。

一方、140億人の人間B1-Bn(nは140億)1人1人が1個のニューロン
の役を演じ、全員で脳機能のシミュレーションを行っても、個々のB1-
Bnに随伴する心M1-Mnは独立したままで、140億人B全体に随伴す
る心Mに融合できません。その証拠に、M1-Mnのどれか1つの視点
には立てても、2つ以上の視点に同時には立てません。


  M1とM2とが「独立」した状態と「融合」した状態とは、何


  が異なるのか?
これこそが大問題です。そしてこの問題を考究するときに、「4つの力
だけで十分か? 第5の力が必要か?」という選択に迫られるのです。

以上


補足
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月19日(日)22時02分26秒 返信・引用
> No.2773[元記事へ]

「私をまだらではなくアインシュタインでもなくφたらしめている」のは4つの力ではないということであれば、5つの力でもありません。


>「この世界にこの収縮をもたらしたのは第5の力だ」というのもナンセンスです。

そもそもミクロレベルにおいては重ね合わせは収縮していません。第5の力が働いているにも関わらずです。

「この収縮」をもたらしたのは第5の力ではないですよ。

5つの力の合成された結果「この収縮」をもたらしたり重ね合わせが維持されたりしているだけです。

4つの力と第5の力の違いは、多世界(広い範囲)に働いているか、個別世界に限定されて働いているかの違いです。

以前出した太陽系モデルでは、4つの力は範囲が地球に限定され、第5は太陽系全体に働いているという違いがあります。

4つの力が火星では働いていないという意味ではないですよ。



「世界にとって意識は」ファインチューニングである
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月19日(日)20時58分56秒 返信・引用
> No.2772[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> ファインチューニングとは、意識にとって必要条件が満たされているという意味であって、それ以上のチューニングを示唆してはいません。

私もそのように理解しています。

だからφ 様の言っていることに納得できないと言っているのです。

「物理的な状態が意識を規定する」というのがφ 様の主張のはずです。

「完全な一致」と私が言ったのはこれ(物理的な状態=意識)のことです。

>「完全に一致」というのは、この世界は意識の成立にとって必要かつ十分なちょうどよい最適世界であるはずだ、ということでしょうか?

そうではありません。

「意識にとって世界は」必要かつ十分な最適がなされていると言っているのではなく、「世界にとって意識は」必要かつ十分な最適意識であるはずだとφ 様が主張していることになると言っているのです。

>私をまだらではなくアインシュタインでもなくφたらしめている」のは第5の力である、というのは馬鹿げていますよね。

「私をまだらたらしめているのは4つの力である」というのがφ 様の主張であると私は認識しています。

「物理的な状態が意識を規定する」のであれば、そういうことになるのではありませんか?

問題なのは、物理的状態Aからいくつかの要素を取り除いて考えた場合どうなるかということです。そこにもまだらではない意識が存在するはずです。

物理的な状態「A-」がどのような意識を形成しているかも規定されていることになります。


4つの力でも5つの力でも同じことだと私は思いますけどね。


Re: 中途半端な状態(不完全な一致)
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月18日(土)00時14分57秒 返信・引用
> No.2771[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 実在全体が決定論的法則性を持っていても、「我々が観察できる世界」の情報だけではそれを知ることはできず、「偶然」が成り立つのは理解できます。
>

いや、「「我々が観察できる世界」の情報だけでそれ(決定論的法則性)を知ることができる」のが量子力学の建前でしょう。

とくに、多世界解釈によれば、実在全体が決定論的であることに異論はないと思います。

ひとつの世界(実際は多世界の部分集合だが)の視点からでも、それがどのような決定論的法則であるのかはわかるのです。

ただ、ローカルな視点であるため、自分が実在全体の中の「どこにいるのか」がわからず、具体的に身辺で何が起こるのかが予想できないだけですからね。

実在全体でどのようなことが起きているかは決定しており、わかっている。しかし、自分がそのどこに位置しているかがわからない、というわけです。

クラス全体の人員構成は完璧に知っているが、自分がそのうち誰なのかがわからない、というような感じですね。

そして、一人称的知識は、客観的世界についての情報の一部ではありません。

私をまだらではなくアインシュタインでもなくφたらしめている」のは第5の力である、というのは馬鹿げていますよね。

それと同じく、波動の収縮はたまたまそのような世界だったということで、「この世界にこの収縮を
もたらしたのは第5の力だ」というのもナンセンスです。

私がたまたまφであるゆえに、「φのいる世界」ならではの収縮が起きていくにすぎません。

>
> φ様の説だと、意識と多世界の収束が一致している理由は「人間原理におけるファインチューニング」だけということになるはずですが、それならばミクロでぶれが生じている理由がよくわかりません。
>
> 物理的な条件で意識が成り立っているのであれば、完全に一致して良いはずです。
>


「完全に一致」というのは、この世界は意識の成立にとって必要かつ十分なちょうどよい最適世界であるはずだ、ということでしょうか?

だとすると、それは違います。

自然選択説や人間原理が言うように、人間のような知的生命は、宇宙の本質でもなければ目的でもなく、ただ泡のように生じてしまったトッピング現象ですから、知的生命(意識)にとっては無意味な現象や敵対的な機構がこの宇宙にはいっぱいあります。

逆に言うと、この宇宙は単に意識を生み出すのにギリギリ必要な秩序さえあればよかったのであり、過剰な秩序は必要ないというわけです。

実在全体はもとより、この宇宙ですら、意識を優遇などしていないのです。結果的に意識を生み出しただけです。生存は保証しても(生存を保証しない宇宙は観測選択されないので)、幸福や健康や長寿までは保証してくれないのです。この宇宙は。


というわけで、

ファインチューニングとは、意識にとって必要条件が満たされているという意味であって、それ以上のチューニングを示唆してはいません。

この宇宙が意識生命体にとって最適ではないのも道理です。

創造主たる神様がいれば、あるいは目的論的力が働いていれば、「最適」が実現したかもしれませんが、知的生命は単なる結果なので、この宇宙は最適からは程遠いというのが人間原理の基本的な考え方です。


中途半端な状態(不完全な一致)
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月17日(金)13時33分45秒 返信・引用
> No.2770[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>他方、多世界解釈によれば、実在全体は単に量子力学に文字どおり従っているだけであって、各々のローカルな視点で見ると(多世界の部分集合にいる自我の観点から見ると)収縮が起きるように見えるだけなので、第5の力は必要ないでしょう。

φ様がそのように考えているのはわかっていますが、知りたいのは「理由」です。

前に私が太陽系のモデルで第5の力を仮定した場合の説明をしました。

このモデルだと「我々が観察する世界」で起きていることを無理なく説明できるのではないかと考えているのです。


> それらの限定的真理(ローカルな真理)は、実在全体の物理状態に影響を与える要素(成分)というより、実在全体の中の特定の側面、と言うべきものでしょう。
> 私がφであるのは偶然であり、それと同じく、ある素粒子があの領域ではなくこの点に収縮したのは偶然です。
> そして、それは、ローカルな視点のどれが経験されるか、の偶然性であり、実在全体の決定論的法則性と両立します。
実在全体が決定論的法則性を持っていても、「我々が観察できる世界」の情報だけではそれを知ることはできず、「偶然」が成り立つのは理解できます。

非決定論的な要素を、「実在全体の中の特定の側面」として理解することが可能であることも肯定します。確かにそのような世界は成立可能でしょう。

でも、実在全体が本当にそのような性質であるのかどうかについては検証が必要ではないでしょうか。


「第5の力がなくても成り立つ可能性がある」ということは肯定します。それはφ 様の説明した通りでしょう。

でもそれは第5の力が存在しないということを意味しません。

φ様の説だと、意識と多世界の収束が一致している理由は「人間原理におけるファインチューニング」だけということになるはずですが、それならばミクロでぶれが生じている理由がよくわかりません。

物理的な条件で意識が成り立っているのであれば、完全に一致して良いはずです。

「古典的な力学の支配する宇宙=我々の観察する世界」にならない理由は何でしょうか。

「意識が物理的な条件に反抗する力」と言い換えてもいいですが。

この説明がないので納得できないということです。


Re: 4つの力だけでは説明できない現象
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月16日(木)04時20分20秒 返信・引用
> No.2768[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> ニ重スリット実験において
>
> 「穴を二つにして干渉縞ができる場合」と「穴を一つにして干渉縞ができない場合」の両方において、スクリーンで粒子が観察された時が「複数の世界の差異が収束された」時です。
>

「差異が収束」というと、マクロな差異が同一状態に収斂することのようにも聞こえますが、

そのことではなくて、波動方程式の決定論的因果線が突如として特定の時空点に確定するような現象のことですね。「収縮(波束の収縮)」と呼ぶことにした方がよいと思うのですが。

>
> 「穴を二つにして干渉縞ができる場合」が「物理的な影響を与えているように見える」場合です。
> 「穴を一つにして干渉縞ができない場合」が「物理的な影響を与えていないように見える」場合です。
>

どちらも「物理的な影響を与えているように見える」のではないでしょうか。

シュレーディンガー方程式には組み込まれていない「収縮」というトッピング現象が起きてしまうことでは同じですから。

>
> > 問題は、差異の収束は「実在全体における物理状態」に影響を与えるか否かです。
>

コペンハーゲン解釈であれば、「私」に観測された実在の側面以外は実在と認めないため、「なんだかわからないけど観測すると実在が収縮する」ということになり、「なんだかわからないけど」の部分が「第5の力」にあたると言ってもよいと思います。


他方、多世界解釈によれば、実在全体は単に量子力学に文字どおり従っているだけであって、各々のローカルな視点で見ると(多世界の部分集合にいる自我の観点から見ると)収縮が起きるように見えるだけなので、第5の力は必要ないでしょう。


ローカルな視点から見たときだけ問題になるような現象はいろいろあります。

「太陽と月の見掛けの直径が等しい(ゆえに、皆既日食が起こりうる)」というのも、実在の性質というより、特定の場所からの(たとえば地球上からの、地球誕生後四十数億年経った特定の時期での眺めでの)限定的真理ですね。

あるいは、「私はマリリン・モンローでもなくアインシュタインでもなくまだらでもなくφである」というのも、φの視点から見たときだけ成り立つ限定的真理ですね。

いま、これこれの机が平行四辺形に見えている」等々も同じです。


それらの限定的真理(ローカルな真理)は、実在全体の物理状態に影響を与える要素(成分)というより、実在全体の中の特定の側面、と言うべきものでしょう。

私がφであるのは偶然であり、それと同じく、ある素粒子があの領域ではなくこの点に収縮したのは偶然です。

そして、それは、ローカルな視点のどれが経験されるか、の偶然性であり、実在全体の決定論的法則性と両立します。


Re: 4つの力だけでは説明できない現象
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月15日(水)20時08分15秒 返信・引用
> No.2768[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

まだら様(3)/SumioBaba(馬場純雄)

> 問題は、差異の収束は「実在全体における物理状態」に影響を
>与えるか否かです。

>波動関数の収縮は「我々が観察する世界に」4つの力だけでは
>説明できない現象を引き起こします。

>「実在全体も4つの力だけで説明できる」のか、「実在全体には
>第5の力が存在する」のかということです。


面白い論点ですね。[量子観念論仮説]では、第5の力はいわゆる
「自由意志」に対応します。「意志の力で右腕を挙げた」といった実感
ですね。

実在全体の世界の集合を{W}、私の心M1が住む世界をW1、友人の
心M2が住む世界をW2としましょう。「心M1の自由意志」という第5の
力を認識できるのは、世界W1の中だけです。世界W2では、「心M1の
自由意志」は観測できないし、{W}の中では「心M1の自由意志」は存
在さえしていません。そういう意味で「心M1の自由意志」という第5の
力は、見せ掛けだけの力です。

私の脳をBとすると、私の心M1は、B全体に随伴することはマレで、
殆どの場合Bの一部であるB1だけに随伴します。残りの部分をB2と
すると、B=B1+B2です。私の心M1とは、B1の特定の状態|B1a>に随
伴する心M1aを意味します。このM1aにとってB1の状態は|B1a>に確
定していますが、M1aはB2の状態を正確には知らないので、M1aに
とって、すなわち世界W1において、B2の状態は|B2a>+|B2b>+|B2c>+
・・・という多数の状態の重ね合わせだと考えます。

友人の心M2は世界W2の中で、私の脳B=B1+B2を詳しく観察して
おり、B1の状態は|B1a>に確定し、B2の状態も|B2a>に確定していま
す。つまり、友人の心M2が住む世界W2において、私の脳B=B1+B2
の状態は|B1a>|B2a>だけに確定しており、不確定性原理レベルの
不確定性は残るものの、ほぼ決定論に従って時間発展しており、「自由
意志」が入り込む余地は無いように見えます。

しかし、私の心M1aにとって私の脳B=B1+B2の状態は、|B1a>|B2a>
ではなく、|B1a>(|B2a>+|B2b>+|B2c>+・・・)=|B1a>|B2a>+|B1a>|B2b>+
|B1a>|B2c>+・・・ですから、|B1a>|B2a>だけに限定されることなく、
|B1a>|B2b>、|B1a>|B2c>、・・・に時間発展していく可能性を残して
おり、この部分が「自由意志」と見なされます。「量子ゼノン効果」を
使えば、M1aが自分にとって好ましいB2の状態を、|B2a>、|B2b>、
|B2c>、・・・の中から、ある程度選び出せるはずです。
→<<クオリア統一理論(68)>>「量子観念論仮説(10)」参照。

以上


4つの力だけでは説明できない現象
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月15日(水)12時21分15秒 返信・引用
> No.2767[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>1.の「我々が観察する世界では複数の世界の差異が収束されます」とは、具体的にはたとえばどのような出来事のことですか

ニ重スリット実験において

「穴を二つにして干渉縞ができる場合」と「穴を一つにして干渉縞ができない場合」の両方において、スクリーンで粒子が観察された時が「複数の世界の差異が収束された」時です。

> 波動関数の収縮は見かけ上「我々の観察する客観的な世界」において物理的な影響を与えているように見えるのです。

「穴を二つにして干渉縞ができる場合」が「物理的な影響を与えているように見える」場合です。
「穴を一つにして干渉縞ができない場合」が「物理的な影響を与えていないように見える」場合です。

> 問題は、差異の収束は「実在全体における物理状態」に影響を与えるか否かです。

波動関数の収縮は「我々が観察する世界に」4つの力だけでは説明できない現象を引き起こします。

「実在全体も4つの力だけで説明できる」のか、「実在全体には第5の力が存在する」のかということです。


Re: 実在全体を俯瞰する視点
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月14日(火)01時16分52秒 返信・引用
> No.2766[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 前提
> 1.我々が観察する世界では複数の世界の差異が収束されます。
> 2.実在全体においてはこのような「複数の世界の差異の収束」などというような視点は存在しません。
>
> 前提1では視点が固定されているので収束などということが起きているように見えますが、実在全体を俯瞰する視点からは「重ね合わせ」などというものはないことになります。
>
> まずこの前提について確認した方がよさそうです。
>

まだ言葉の確認が必要なようです。

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2761の「「多世界が収束する」「重ね合わせが収縮する」という意味で私は使っているのですが、」だけではまだわかりません。


「世界の差異が収束する」というまだらさんの用法がわからないわけです。

1.の「我々が観察する世界では複数の世界の差異が収束されます」とは、具体的にはたとえばどのような出来事のことですか?


実在全体を俯瞰する視点
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月13日(月)09時46分36秒 返信・引用
> No.2765[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> そうした世界の分岐(差異)は、ミクロな場合は、粒子の相互作用がないので、また同じ状態(世界)へと融合(収束)することが頻繁に起こります。
> しかし、熱力学的な不可逆プロセスに入ってしまうと原因と結果が非対称になるため、マクロな差異(分岐)がまた同じ状態へ融合することはありませんね。

「熱力学的な不可逆プロセスでマクロな差異が同じ状態へ融合することはない」というのは本質ではないでしょう。

一度混ざってしまった醤油と酢は分離しないと言っているようなものです。でも分離させることはできます。

放置した状態では確率が低いとしてもここでは意志が働いているのですから、分離させるような何かが働いてもおかしくはありません。

とはいえ、そこは議論する必要はないでしょう。

>多世界解釈はミクロにもマクロにも統一的に適用されるので、ミクロだけに量子力学を適用しマクロな収縮はトッピングであとからくっつけるというコペンハーゲン解釈の御都合主義的は不要となります。

これが確認したかったことです。

>前提
>1.主観世界においては差異が収束される
>2.実在全体においては差異は収束されない

前提
1.我々が観察する世界では複数の世界の差異が収束されます。
2.実在全体においてはこのような「複数の世界の差異の収束」などというような視点は存在しません。

前提1では視点が固定されているので収束などということが起きているように見えますが、実在全体を俯瞰する視点からは「重ね合わせ」などというものはないことになります。

まずこの前提について確認した方がよさそうです。

これに賛成して頂けるかどうかです。



主観確率・客観確率については表現を考えることにします。
Re: 主観確率に従わない"惑星"
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月13日(月)01時21分21秒 返信・引用
> No.2763[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 以前のφ様 の投稿も考え合わせると多世界解釈の適用はマクロに限定されていると
>解釈しているとも取れますね。
> コペンハーゲン解釈をミクロに適用し、多世界解釈をマクロに適用している
>ということでいいのでしょうか。
>


いや、多世界解釈ですから、重ね合わせは別々の世界の共存であると解釈し、ミクロな違いはすべて別々の世界に対応すると考えます。

ミクロな違いによってすでに世界は分岐したことになる、と私が No.2754冒頭で書いたのをご覧いただければと思います。


そうした世界の分岐(差異)は、ミクロな場合は、粒子の相互作用がないので、また同じ状態(世界)へと融合(収束)することが頻繁に起こります。

しかし、熱力学的な不可逆プロセスに入ってしまうと原因と結果が非対称になるため、マクロな差異(分岐)がまた同じ状態へ融合することはありませんね。


多世界の実在全体は、ミクロレベルの分岐で見ると分岐・融合を繰り返して常に一定種類が持続し、マクロレベルの分岐で見るとどんどん分岐が増えて種類が増してゆく、というのが多世界解釈の世界像でしょう。


多世界解釈はミクロにもマクロにも統一的に適用されるので、ミクロだけに量子力学を適用しマクロな収縮はトッピングであとからくっつけるというコペンハーゲン解釈の御都合主義的は不要となります。

>
> 主観確率とは、火星が地球を中心にして回ることへの期待のことだと考えれば
> 良いのではないかと思います。
>
> 客観確率と主観確率のズレは恒星と惑星の違いつまり
>「太陽の引力の影響を無視できるかどうか」です。
> 現実の火星は主観確率ではなく客観確率で動いているので直感通りに動かない
> ということですね。


「直観による判断」のことを主観確率とまだらさんが言っているとしたら学術的意味とは違います。直観による確率はむしろ心理的確率というべきものですね。

主観確率は、辻褄を合わせ、確率判断どうしの整合性を保って、数学的に導き出されるものです。

たとえば、モンティ・ホール・ジレンマで、「直観(心理的確率)では1/2だけど、計算してみると主観確率は1/3でなければならない」というふうに。

でも、もう面倒ですから、「主観確率」「客観確率」の区別を云々するのはやめにします。「条件付き確率」の概念さえ共有していれば、べつに困ることもないでしょうから。


(なお、「主観確率」「客観確率」の学術的な意味については、ドナルド・ギリース『確率の哲学理論』(日本経済評論社)が読みやすいでしょう。)


というわけで、前回まだらさんが述べていたことの意味がわからなくてベンディングにさせていただいたあれですが、ともあれ言い方を変えていただければ幸いです。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月12日(日)18時01分41秒 返信・引用
> No.2759[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(43)/SumioBaba(馬場純雄)


三浦さんのNo.2759で、重要な部分にだけは答えておきます。

> 私が次の問題を出されたとします。
> 実験室内でLかRかが観測された。次の仮説が真である確率を
>求めよ。
> 仮説A「友人の姿勢γは、Lによってもたらされた」
> 仮説B「友人の姿勢γは、Rによってもたらされた」

> このような★仮説検定の問題★であれば、手掛かりがないので
>すから、私もP(A)=P(B)=1/2 と答えます。
> 無知なのですから、主観確率を適用せざるをえません。賭けを
>するにしても、期待値計算はそれぞれ1/2で行なわざるをえま
>せん。


それでOKです。そして[量子観念論仮説]の場合、「無知」というの
は、「私が住む世界W1において、LかRかに決まっているのだけど、
私は知らない」ではなく、「私が住む世界W1においては、L+Rという
重ね合わせのまま、どちらにも決まっていない」を意味します。

> しかし、
> P(P(A)=P(B)=1/2|γ)=1
> は同じく主観確率的に否定するべきです。
> なぜなら、統計力学的に言って、LとRという別個のマクロ状態
>が、ランダムに選ばれた時点・地点のγにおいてたまたま一致する
>確率は極小であることが私には判断できるからです。


これは違います。

三浦さんは相変わらず、Lを見た友人の姿α1と、Rを見た友人の
姿β1とを1つずつ選び出して比較し、ランダムに選ばれた時点・地
点においてα1とβ1とがたまたま一致する確率は極小である、と
言っている訳ですね。

そうではなくて、私がまだ友人を見ていない時、Lを見た友人の姿
自体がα1、α2、α3、・・・と無限個存在し、Rを見た友人の姿自体
もβ1、β2、β3、・・・と無限個存在し、その中には、立っている友人
の姿、寝ている友人の姿、座っている友人の姿、・・・など起こり得る
すべての状態が、私の住む世界W1では重ね合わせのままです。

私が友人の姿を知覚して初めて、世界W1における友人の外見上
の姿が、特定の状態γに確定します。しかし、「メタ情報」=「「Lである
か?Rであるか?」と「γであるか?γでないか?」の相関」を私は何も持
たない、という設定です。友人が住む世界W2では、特定の相関を持
っているかもしれませんが、私は「メタ情報」を持たないので、世界
W1では、あらゆる相関を持つ世界が重ね合わせのままであり、結局
世界W1では、すべての相関が打ち消し合って無相関となり、「γで
あり、Lである」と「γであり、Rである」が1/2ずつで重ね合わせのま
まです。

「メタ情報」を持たない、ということは、たとえ友人の外見上の姿が
「Lだったよ」と教えてくれている姿であったとしても、友人がホントを
言うのかウソを言うのかが不明で確率1/2ずつなので、私にはやはり
LかRかは判らず、1/2ずつの重ね合わせであることを意味します。


反論するのであれば、私は「メタ情報」を持たない、という設定なの
に、なぜγがLとRの片方に偏るのかを説明すべきです。

「偏った」ということは、「Lであるか?Rであるか?」と「γであるか?γ
でないか?」の間に「相関が生じた」ということです。私の心M1が住
む世界W1で「相関が生じた」と言えるためには、私の心M1が「メタ情
報」を持つことが必要です。つまり三浦さんは、私は「メタ情報」を持
たない、という設定に反した主張をしています。

以上


主観確率に従わない"惑星"
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月12日(日)16時20分50秒 返信・引用
> No.2761[元記事へ]

客観確率に従う惑星

前の太陽と地球のモデルを太陽系に拡大することにします。


火星は主観確率に従わず、逆行します。

火星は客観確率に従っているので主観確率には従いません。


主観確率とは、火星が地球を中心にして回ることへの期待のことだと考えれば良いのではないかと思います。


客観確率と主観確率のズレは恒星と惑星の違いつまり「太陽の引力の影響を無視できるかどうか」です。


現実の火星は主観確率ではなく客観確率で動いているので直感通りに動かないということですね。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月12日(日)12時26分22秒 返信・引用
> No.2759[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(42)/SumioBaba(馬場純雄)


このへんで、議論は終わりにしましょうか。本論と無関係なところで
すれ違ってばかりいるようで、得るものは少なく、時間のムダばかり
が目立つようになって来ました。


◇会議室 :【挑戦】定説への挑戦


トピック:クオリア統一理論 http://folomy.jp/heart/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=21734
の方で意見を聞かせて下さる方には、時間が許す限り、こちらもお答
えしたいと思います。どなたでも大歓迎です。

以上


理論の適用範囲
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月12日(日)02時46分47秒 返信・引用
> No.2760[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> 「任意のx、y、zが認識の範囲外にあるマクロな状態であるとき、xを生み出したのが、それに先立つマクロな状態yである客観確率と、別のマクロな状態zである客観確率とは等しい」
> ということにも賛成しているのでしょうか?
> (「客観確率」としたのは、もともと多世界解釈(つまり、世界の部分集合の測度)の話だったからです)。

yである確率は客観確率であり、zである確率も客観確率であると思いますね。

この二つの確率が同じ値を取るのかどうかは判断できないのではないかと思います。


>まだらさんは馬場さんに賛成のようですが
今は馬場さんが言っていないことも言っていますので同じ立場ではないですよ。上の質問にも馬場さんは違う答えを返すでしょうから。


> まだらさんは「収束」と「収縮」を区別してくれてますか?

> 「収束」は、マクロな違いから出発した別々の世界が、一定時間後に、互いに同じ状態(少なくとも知覚的に不可識別の状態)になること

> 「収縮」は、ミクロな重ね合わせがマクロな確定状態へと確率的に遷移すること

「多世界が収束する」「重ね合わせが収縮する」という意味で私は使っているのですが、φ様は「ミクロな違いから出発した別々の世界が収束することはない」と解釈しているということでしょうか。あるいは、ミクロな違いは別々の世界を意味しないと解釈しているのでしょうか。

以前のφ様 の投稿も考え合わせると多世界解釈の適用はマクロに限定されていると解釈しているとも取れますね。

コペンハーゲン解釈をミクロに適用し、多世界解釈をマクロに適用しているということでいいのでしょうか。


ここを確認してから話を進めさせて下さい。



Re: 客観確率は実在全体を対象とし、主観確率は我々の観察する客観世界を対象とする
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月12日(日)01時32分12秒 返信・引用
> No.2756[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。


>
> 1.主観世界においては差異が収束される
> 2.実在全体においては差異は収束されない
>




さて、ここからして意味がわからないのですが、

まず確認から始めましょう。

まだらさんは「収束」と「収縮」を区別してくれてますか?


「収束」は、マクロな違いから出発した別々の世界が、一定時間後に、互いに同じ状態(少なくとも知覚的に不可識別の状態)になること


「収縮」は、ミクロな重ね合わせがマクロな確定状態へと確率的に遷移すること


まだらさんは「収束」のことではなく「収縮」のことを言っているような気がするのですが、どうなんでしょう。

そのうえで、以下のことも、もっとわかりやすく述べていただければと思います。以下の引用で、「収束」と「収縮」は同じ意味ですか、違う意味ですか?

>
> 問題は、差異の収束は「実在全体における物理状態」に影響を与えるか否かです。
>
> 古典力学:マクロレベルを観察する限りにおいては「影響を与えることはない」ようにみえます。
> 量子力学:ミクロレベルを観察する限りにおいては「影響を与える」ようにみえます。
>
> 波動関数の収縮は見かけ上「我々の観察する客観的な世界」において物理的な影響を
> 与えているように見えるのです。
>


ちなみに、

まだらさんは馬場さんに賛成のようですが、

「任意のx、y、zが認識の範囲外にあるマクロな状態であるとき、xを生み出したのが、それに先立つマクロな状態yである客観確率と、別のマクロな状態zである客観確率とは等しい」

ということにも賛成しているのでしょうか?

(「客観確率」としたのは、もともと多世界解釈(つまり、世界の部分集合の測度)の話だったからです)。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月12日(日)01時29分48秒 返信・引用
> No.2757[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


今回は、少々拒絶的に聞こえることを申し上げねばなりませんので、

まず、

「馬場さんの気持ちはわかる」という点をもっぱら「主観確率」の文脈で記すことから始めましょう(「客観確率」はイヤだということなので「主観確率」だけで)。


私が次の問題を出されたとします。


実験室内でLかRかが観測された。次の仮説が真である確率を求めよ。

仮説A「友人の姿勢γは、Lによってもたらされた」

仮説B「友人の姿勢γは、Rによってもたらされた」


このような★仮説検定の問題★であれば、手掛かりがないのですから、私もP(A)=P(B)=1/2 と答えます。

無知なのですから、主観確率を適用せざるをえません。賭けをするにしても、期待値計算はそれぞれ1/2で行なわざるをえません。


しかし、

P(P(A)=P(B)=1/2|γ)=1

は同じく主観確率的に否定するべきです。

なぜなら、統計力学的に言って、LとRという別個のマクロ状態が、ランダムに選ばれた時点・地点のγにおいてたまたま一致する確率は極小であることが私には判断できるからです。

つまり、統計力学的にP(A)≠P(B)とならざるをえないことを私が知っている以上、

主観確率P(A)=P(B)=1/2 という現在の主観確率判断が、新しい証拠によって覆される(つまりAかBの一方に対して圧倒的に有利な判定を下さざるをえなくなる)可能性を認めるべきだからです。無知は永続しないかもしれないのです。


「私はこの件について永久に無知で、現在のP(A)=P(B)=1/2という認識に閉じこめられたままだろう」などと自信を持つだけの根拠は誰も持っていないでしょう。


馬場さんは、最も素朴な主観確率P(A)=P(B)=1/2 で存在論まで作り上げようとしていますが、そしてその気持ちはわかるのですが、それは「無知」の永続性を過信しています。その結果アドホックな観念論に堕しており、普遍的決定論である量子力学とは何も関係もなくなっているような気がします。


結局のところ、

客観確率(世界の部分集合の測度)がP(A)≠P(B)であることを知っているという「私」の科学的知識の現状が考慮されねばならないため、

主観確率的にいっても、P(P(A)=P(B)|γ)<1です。

(↑客観確率を拒否する馬場さんにはさしあたり通じないかもしれませんが)


なお、次に御投稿いただくときは、

「主観確率」「客観確率」という語を、通常の学術的意味で使っていただくようお願いいたします。

「カオス」や「ランダム」もそうでしたが、馬場さん独自の用法を編み出すのはご自由なのですが、対話の時にはきわめて不便なものです。

ネットでの趣味の議論だからいいじゃないか、という立場もあるでしょうが、やはり他の場所でも通用する議論をしたいですしね。


さて、以上は前置きで、

本題に入ります。


馬場さんは基数と測度を本当に区別できてるんでしょうか?


P(γ|L)=P(γ|R)となる理由として馬場さんがこれまで述べてきたのは、
Lがγに至るプロセスと、Rがγに至るプロセスとがともに「無数にあるから」ということだけでした。
それ以外はなかったように思います。

だからこそ、基数と測度の区別が出来ていないのではないか、と私は前回問うたのです。

基数が全体集合と一対一対応するほど部分集合の要素が多くても、測度は無限小ということがいくらでもあります。まさにL-R-γがそれにあたります。


前回の言葉で繰り返すと、「初期条件が異なる場合、「同じ状態になってしまう」時間発展など、多世界全部のうち無限小の部分集合でしか起こらない」。


L世界とR世界がγで一致するような部分集合は、L世界とR世界の全体集合の中の無限小しか占めないというのは統計力学的真理です。なぜなら、γを選ぶ地点も時点も任意ですから、特定の点で一致することのあるL世界とR世界のペアも、観測者によってその一致点がピンポイントで選ばれる確率は極小だからです。

むろん、二世界がすべての点で一致すれば、観測者によってどの点が気まぐれに選ばれても一致するでしょうが、初期条件が異なる世界が以後まったく同じ歴史を辿る確率はゼロです。

しかしこれについて馬場さんから御返事がないのでは仕方ありませんね。

>
> 友人をまだ見ていない私にとって、Lを見た友人の状
> 態もα1、α2、α3、・・・と無限個、Rを見た友人の状態もβ1、β2、
> β3、・・・と無限個存在し、すべてが重ね合わせのままです。特定の
> γが与えられた時、α3=γ=β8のように、γはα群とβ群の両方に
> 重複して存在する場合が殆どでしょう。γがα群とβ群の片方だけ
> に存在する状況を作り出す方こそ、よほど意図的なファインチューニ
> ングが必要です。
>


「γはα群とβ群の両方に重複して存在する場合が殆ど」などとは根拠皆無と思われますが、まあそこは譲歩して「殆ど」だと仮定したとしましょう。それでも、γが現に実現してしかもP(γ|L)=P(γ|R)、ということを導くことはできません。導くには、γがα群とβ群の両方において最頻値に該当する、という極端なことが起こらねばなりません。そんなことが【一般的に】成り立つはずがないのです。


さて、
私の次の文章

>
> >  「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
> >→【一般的に】成り立つわけがない、
> > というのはアプリオリに真です。
> > 【一般的に】成り立つとはどういう意味かを考えればすぐわかりま
> >す。その場合、任意の出来事のあとに任意の出来事が等確率で
> >起きることになり、因果律が成り立たなくなり、私たちの日常経験
> >も成立しなくなります。ピタゴラ装置の例で見たように、γをどの時
> >点の状態に取るかは任意でしたから、P(γ|L)=P(γ|R)=1
> >/2というのは、この世の推移がランダムだということなのです(少
> >なくとも、「私」が情報を持っていない部分はすべて無法則的ランダ
> >ムだ、ということです。
>


に対し、馬場さんは

>  それで良いと思いますよ。私の心M1が住む世界W1における因果
> 律は、M1がW1について持っている情報に物理法則を適用した範囲
> だけで成立するものです。M1がW1について情報を持たない領域の
> 情報を得ようとする時、どれに決まるかは全くランダムです。それが
> 量子力学です。


とのことですが、

「それが量子力学」であったとは私は初耳です。

これは驚くべきことですから、根拠になる文献をぜひ示していただけませんか。

馬場さんのその言が正しければ、量子力学が成り立つのは(波動方程式が因果律を決めるのは)各意識が情報を持っている領域内に限定されるということになります。

つまり、意識が因果律の適用範囲を決定する、と。


「それが量子力学」だとすると……、量子力学というのはもともとラディカルな観念論であり(つまり波動方程式の有効範囲は心の認識範囲に限られ)、そこから馬場さんは観念論を導き出しました、というまことに陳腐な話になってしまいますね。


しかし以前も申し上げたとおり、多世界解釈から観念論を導くと謳った以上(それとも私の勘違いか?)、観念論的量子論からではなく、多世界解釈という実在論的世界観(世界の部分集合の測度にもとづく確率の頻度解釈)から観念論を導いてほしかったですね。

私にはそれが(一応、論理の上では)できるつもりですが、馬場さんがそれをやるのを見たかったのです。

少なくとも、意識は物質の産物であり、宇宙は意識が出現するはるか前から量子力学に従っていたという実在論的前提から始めてもらいたかったものです。

前にも述べましたが、この「実在論の公理」をまず認めないようでは、科学的な話はできません。

それ以前に、はじめから結論を前提したのでは、ただの論点先取であって面白くも何ともありませんし。


ともあれ、馬場さんの言を文字通りにとると、

認識の到達範囲外のことについてはP(γ|L)=P(γ|R)

一般的にそれが成り立つというので、正確には

∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z))

これが、認識の到達範囲外については普遍的に成り立っている、というのが量子力学なのですね。

正直、トホホではないでしょうか……(∀x∀y∀z(P(x|y)=P(x|z))から矛盾を導くことができるように感じますが、ここでは着手しません)

↑話が一気に萎んでしまった反面、

同時に大問題も孕んでいますから、

以上の点をハッキリさせるまではこれ以上話を進めることはできませんね。


というわけで、

「因果律は、M1がW1について持っている情報に物理法則を適用した範囲だけで成立するものです。M1がW1について情報を持たない領域の情報を得ようとする時、どれに決まるかは全くランダムです。それが量子力学です」

という趣旨を支持する信頼できる文献的根拠を示していただくまでは、馬場さんへのレスはお休みさせてください。


なお、文献を示すといっても、<<クオリア統一理論>>からのコピペはご遠慮くださいね。

URLへの指示・リンクはかまいませんが、既成の長文のコピペは今後お断りいたしますので、どうぞよろしくお願いします。


(無題)
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月11日(土)15時45分1秒 返信・引用
三浦俊彦様(41)/SumioBaba(馬場純雄)


2つの心M1とM2が「独立」した状態と、M1とM2が「融合」した状
態との違いについての説明です。

M1とM2が「融合」するためには、現在の物理学では認められてい
ない第5の力である「非局所的相互作用」、または、非物質的実体
「霊魂」が必要だと主張します。

以上

=======================================================

          <<クオリア統一理論(91)>>
          ー M1とM2の「干渉項」 ー
           2011.04.20  馬場純雄


2つの心M1とM2(M1≠M2)が「融合」して、「1つの心」Mになるため
には、何が必要なのでしょうか? M1とM2が「独立している状態」(M1
とM2のどちらか一方の視点には立てても、同時に両方の視点には
立てない状態)と、M1とM2が「融合している状態」(M1とM2の両方の
視点に同時に立てる状態)とは何が違うのでしょうか?

もし脳Bに随伴する心Mが、個々のニューロンに随伴する心M1-Mn
(nは約140億)、個々の分子・原子・素粒子に随伴する心M1-Mn(nは
約10の27乗?)にまで分解・独立したら、それは心Mの消滅を意味しま
す。逆に言うと、n個の心M1-Mnが独立せずに融合するメカニズムこ
そが、脳Bに心M(≠0)を発生させる「錬心術」を可能にしている訳で
す。

実は量子力学こそが、この違いを説明できる枠組を備えていると
思われるのです。「量子干渉」という概念を用いて、この違いを表現
してみます。

量子力学では、観測前の物体Xの状態を|X>で表します。これは、
波動関数としての表現で、一般に様々な状態の重ね合わせであり、
I・カントの言う「物自体」に相当します。そしてこれを観測する時、な
ぜかとなります。これが、心によって
観測される時の物体Xの状態であり、カントの言う「現象世界」に相当
します。
|X>も わせですが、両者は複素共役の関係にあるため、波動関数は複素
数で表されるものの、観測される物理量やその確率は必ず実数とな
るように、理論が構成されています。

2つの心M1と心M2の状態を|M1>と|M2>で表し、その和を心Mであ
るとして、

  |M>=|M1>+|M2>                     ・・・(1)
と表現してみます。この時点で、M1とM2が「独立」しているのか、そ
れとも「融合」しているのかは、不明とします。その違いをどう表現す
べきか、これから考えるのです。
この場合にも当然、

  <M|=<M1|+<M2|                     ・・・(2)
が考えられ、

  <M|M>=(<M1|+<M2|)(|M1>+|M2>)           ・・・(3)
    =<M1|(|M1>+|M2>)+<M2|(|M1>+|M2>)      ・・・(4)
    =<M1|M1>+<M2|M2>+<M1|M2>+<M2|M1>   ・・・(5)
と表現できるでしょう。ここで、

  <M|M> ・・・ MによるMの認識
という意味です。同様に、

  <M1|M1> ・・・ M1によるM1の認識
  <M2|M2> ・・・ M2によるM2の認識
と対応します。

問題は、(5)の第3項と第4項なのですが、これも同様に解釈すると、

  <M1|M2> ・・・ M1によるM2の認識
  <<M2|M1> ・・・ M2によるM1の認識
となります。これら2つがいわゆる「干渉項」であり、M1とM2の間の
「テレパシー項」とでも呼ぶべきものです。実際のところ、量子力学で
は、<M1|M1>=1、<M2|M2>=1と規格化されているとき、<Mi|Mj>または
<Mj|Mi>は、「Miの視点に立つ時、同時にMjの視点に立っている確率
の平方根」または「Mjの視点に立つ時、同時にMiの視点に立ってい
る確率の平方根」を与えるものです。

従って、第3項<M1|M2>=0かつ第4項<M2|M1>=0とすると、これが
まさに、「M1とM2の独立している状態」を表していると思われます。
なぜなら、「M1の視点に立つ時、同時にM2の視点に立っている確率
は0」「M2の視点に立つ時、同時にM1の視点に立っている確率は0」
を意味するからです。

逆に、第3項<M1|M2>≠0または第4項<M2|M1>≠0の場合こそが、
「M1とM2の独立していない状態」です。なぜなら、「M1の視点に立つ
時、同時にM2の視点に立っている確率が0でない」「M2の視点に立
つ時、同時にM1の視点に立っている確率が0でない」を意味するから
です。

       【MがM1とM2の「独立」した和である時】

  <M|M>=<M1|M1>+<M2|M2>              ・・・(6)
  <M1|M2>=0、かつ、<M2|M1>=0           ・・・(7)
                 [解釈]
  「MによるMの認識」は、「M1によるM1の認識」と「M2に
  よるM2の認識」の和に等しい。



       【MがM1とM2の「独立」した和でない時】

  <M|M>=<M1|M1>+<M2|M2>+<M1|M2>+<M2|M1> ・・・(8)
  <M1|M2>≠0、または、<M2|M1>≠0         ・・・(9)
                 [解釈]


  「MによるMの認識」は、「M1によるM1の認識」と「M2に
  よるM2の認識」の和ではなく、さらに、「M1によるM2の
  認識」と「M2によるM1の認識」を加えたものに等しい。


私の左脳をB1、右脳をB2、B1に随伴する心をM1、B2に随伴する
心をM2、B=B1+B2全体に随伴する心をMとしましょう。

正常な脳B=B1+B2の状態で、B1とB2とがどんなに親密に相互作用
し合っていても、それが「局所的相互作用」である限り、M1とM2とは
「独立」している、と主張しました。→本論(41)。それが(6)と(7)の状態
です。B=B1+B2全体を「非局所的相互作用」が結び付けると、M1と
M2は「独立」せずに「融合」し、「1つの心」Mになります。それが、(8)と
(9)の状態です。


私の心をM1、友人の心をM2とした場合にも、M1とM2は「独立」して
います。私の心M1はM1の存在と状態しか知り得ないし、友人の心
M2もM2の存在と状態しか知り得ません。もし「テレパシー」と呼ばれ
る現象が存在し、M1がM2を知り、M2もM1を知り得たとすると、M1と
M2は「融合」して「1つの心」Mになる可能性が出てきます。(6)(7)と(8)
(9)の違いは、そういう事を言っているのです。ただし正確には、私の
心M1と友人の心M2が持つ情報のズレを、少な目に見てもm=10000
ビットくらいは有ると仮定すると、<M1|M2>=(1/2)^(m/2)=(1/2)^5000
であり、<M1|M2>=0は近似であることを、本論(19)で説明しました。


このように量子力学は、M1-Mnが独立している状態と、M1-Mnが
融合して「1つの心」Mになっている状態との違いを、「量子干渉」の
有無で表現できるのではないか?と考えます。やはり、「意識科学」と
量子力学とは、密接な関係を持つように思われます。

=======================================================

以上
=======================================================

          <<クオリア統一理論(92)>>
         ー M1とM2の「干渉項」(2) ー
           2011.04.20  馬場純雄


本論(91)の続きです。2をnに一般化します。私の脳Bをn個(n≧2)の
部分B1-Bnが接合されていると解釈し、B全体に随伴する心をM、B1
に随伴する心をM1、B2に随伴する心をM2、・・・、Bnに随伴する心を
Mnとします。

    |M>=|M1>+|M2>+ ・・・ +|Mn>            ・・・(1)
    <M|=<M1|+<M2|+ ・・・ +<Mn|            ・・・(2)

    <M|M>=(<M1|+<M2|+ ・・・ +<Mn|)
             x(|M1>+|M2>+ ・・・ +|Mn>)
      =<M1|(|M1>+|M2>+ ・・・ +|Mn>)
      +<M2|(|M1>+|M2>+ ・・・ +|Mn>)
             ・・・・・・・
      +<Mn|(|M1>+|M2>+ ・・・ +|Mn>)        ・・・(3)

      =<M1||M1>+<M1|M2>+ ・・・ +<M1|Mn>
      +<M2||M1>+<M2|M2>+ ・・・ +<M2|Mn>
             ・・・・・・・
      +<Mn||M1>+<Mn|M2>+ ・・・ +<Mn|Mn>    ・・・(4)
です。


B全体を「非局所的相互作用」が結び付けている時には、「干渉項」
すなわち非対角成分<Mi|Mj>(i≠j)も考慮する必要が有ります。(3)と
(4)を見ると、個々の<M1|、<M2|、 ・・・、<Mn|のどれもが(|M1>+|M2>+
・・・ +|Mn>)全部を認識していることを示しています。

  Mの個々の部分M1-MnがM全体を認識している。
という訳で、まさに「フラクタル構造」になっています。これこそ、
  M1-Mnが「融合」し、「1つの心」Mになっている状態。
です。

一方、個々の部分B1-Bn相互間に「非局所的相互作用」が存在し
ない場合には、すべての「干渉項」<Mi|Mj>(i≠j)が0ですから、(4)の
対角成分<Mi|Mj>(i=j)だけを考えれば良いのです。この時(4)は次の
(5)になります。


  <M|M>=<M1|M1>+<M2|M2>+ ・・・ +<Mn|Mn>  ・・・(5)
もちろん、


  M1はM1だけを、M2はM2だけを、・・・、MnはMnだけを
  認識している。
という訳で、これこそ、
  Mが、M1-Mnの「独立」した和である状態。
です。


(4)を見てみましょう。非対角成分<Mi|Mj>(i≠j)≠0の場合でも、これ
が対角成分<Mi|Mj>(i=j)に比べて十分無視できるほど絶対値が小さ
い時、(4)は近似的に(5)と見なせるはずです。

つまり、M1-Mnが「独立している状態」か、「独立していない状態」
かという違いは、○かXか、0か1か、というはっきりした区別ではない
事を示唆しています。<Mi|Mi>=1(i=1、2、3、・・・、n)と規格化した上で
MiとMjとの「融合率」kijを、


  kij=|<Mi|Mj>|                      ・・・(6)
で定義すると、kijの範囲は0≦kij≦1です。kij=0の時、MiとMjとは「独
立」していますが、MiとMjとが「独立」せずに「融合」していると言う場
合のkijは、0<kij≦1の値を取ることができ、必ずしもkij=1だとは限り
ません。

だからこそ、私の心Mは、明らかに、この部分、あの部分、・・・と区
別できる「独立」した多くの部分M1、M2、M3、・・・の存在を感じなが
ら、しかもそれらは同時に「融合」し、全体としての「1つの心」Mという
統一性と、両立できるのではないでしょうか? 例えば、映画を見てい
る時の私の心Mは、映像を見る心M1、音声を聞く心M2、ストーリー
を楽しむ心M3、・・・などの部分から構成されているのを感じますが、
M1、M2、M3、・・・のどれか1つではなく、どれでもある心Mだと実感し
ます。

実際、M=「011010」、M1=「01????」、M2=「??10??」、M3=「????10」と
すると、Mは、M1、M2、M3が融合(積融合)したものと見なせます。し
かも、<M|M1>=<M|M2>=<M|M3>=1/√16なので、「Mが確率1で存在
する」と仮定すると「M1、M2、M3も確率1/16で存在する」までが言え
ます。→本論(90)。


以上のように説明すると、量子力学さえ用いれば、「非局所的相互
作用」など考慮しなくても、M1-Mnの「独立」「融合」を説明できるかの
ように錯覚されるかもしれませんが、それは違います。量子力学で説
明できるのは、次の点だけです。


  M1-Mnが「独立」した状態と「融合」した状態の違いは、
  「干渉項」すなわち非対角成分<Mi|Mj>(i≠j)が0か否か
  である。
そして量子力学は、次の質問に答えることができません。
  M1-Mnが「独立」した状態から「融合」した状態に変わ
  るには、どうすれば良いのか?

これを説明するために必要なのが、「非局所的相互作用」です。脳
B全体を「非局所的相互作用」が結び付けている時、そこに発生する
心が、B全体に随伴する「1つの心」Mです。「非局所的相互作用」が
B1だけを結び付けている時、そこに発生するのが、B1だけに随伴す
る心M1です。[霊魂説]の立場を取るなら、「霊魂」が脳B全体と相互
作用している時の心がM、「霊魂」がB1だけに収縮している時の心が
M1です。

140億人の人間B1-Bn(nは140億)1人1人が1個のニューロンの役を
演じつつ、全員で「赤を知覚している時の脳機能」のシミュレーション
をする場合も同じです。個々のB1-Bnに随伴する心M1-Mnは「独立」
したままであり、(5)の状態です。140億人B全体に「赤のクオリアを知
覚する心」Mが発生するためには、n個の心M1-Mnがテレパシーで
「融合」するか、あるいは、140億人B全体に大きな「霊魂」が宿るか、
どちらにしろ、140億人B全体を何かが「非局所的相互作用」で結び
付け、M1-Mn相互間の「干渉項」<Mi|Mj>(i≠j)≠0により、M1-Mnが
「1つの心」Mに融合することが必要です。


量子力学では、私の心Mが知覚する物体Xの物理状態|X>が、|X1>
と|X2>の重ね合わせ状態、


  |X>=|X1>+|X2>
となり、両者が「量子干渉」を起こします。[観念論]では、|X1>を知覚
している私の心|M1>、|X2>を知覚している私の心|M2>を考え、
  |M>=|M1>+|M2>
と見なし、この|M1>と|M2>が干渉しているのだ、と解釈します。そうす
ると「量子干渉」は、物質世界に実在する現象ではなく、心の様々な
状態の間に起きる現象だということになります。

=======================================================

以上

                参考文献

・本論(1)~本論(100)↓
◇会議室 :【挑戦】定説への挑戦

トピック:クオリア統一理論

http://folomy.jp/heart/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=21734


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月10日(金)17時34分49秒 返信・引用
> No.2754[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(40)/SumioBaba(馬場純雄)

> 今回は主観確率と客観確率がメインで、正直、
> 「反論のための反論」の部分には応じているヒマはありませんが、
> 最低限お答えさせていただきます。

>>ここが一番重要な点です。「ミクロな差異がマクロな差異に拡大し
>>ただけで世界は分岐するか?」という問題で、三浦さんは「YES」、
>>私は「NO」と答えているのですよね。

> そうではありません。ミクロな差異だけで世界はすでに分岐して
>います。


そういう言い方は全くナンセンスです。多世界解釈における「実在
全体」の集合{W}の個々の要素世界W1、W2、W3、・・・について、「す
でに分岐している」「いや、まだ分岐していない」と言い合っても、どう
違うのか不明だし、検証方法も無いからです。

「すでに分岐している」というためには、「「すでに分岐している」と
認識している視点(心)が存在する」と言う必要が有ります。そして
「すでに分岐している」と認識するためには、ミクロな差異ではダメ
で、LならL、RならR、と私が識別しているという、心身状態のマクロ
な差異が必要です。

> そもそもの問題は、ランダムにある事象が与えられたとき――
>たとえば「LかRかいずれか一方だけを見た友人が特定の表情や
>仕草など知覚可能状態γを示したのを見たとき、それがLとRの
>両者から等確率で帰結したと言えるか――
>P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」」という
>問いに、「【一般的に】など言えるはずがない」ということです。
> マクロな差異が同一状態に収束するなど、例外中の例外のその
>また超例外です。本来、それが認められれば十分な話なのです。


相変わらず三浦さんは、Lを見た友人の状態α1とRを見た友人β1
とを、1つだけ比較してしまってます。そして、「一度マクロな差異が生
じたα1とβ1が、その後偶然α1=β1になるのは超例外だ」と言って
いるだけです。

そうでなくて、友人をまだ見ていない私にとって、Lを見た友人の状
態もα1、α2、α3、・・・と無限個、Rを見た友人の状態もβ1、β2、
β3、・・・と無限個存在し、すべてが重ね合わせのままです。特定の
γが与えられた時、α3=γ=β8のように、γはα群とβ群の両方に
重複して存在する場合が殆どでしょう。γがα群とβ群の片方だけ
に存在する状況を作り出す方こそ、よほど意図的なファインチューニ
ングが必要です。

>  「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」?
>→【一般的に】成り立つわけがない、
> というのはアプリオリに真です。
> 【一般的に】成り立つとはどういう意味かを考えればすぐわかりま
>す。その場合、任意の出来事のあとに任意の出来事が等確率で
>起きることになり、因果律が成り立たなくなり、私たちの日常経験
>も成立しなくなります。ピタゴラ装置の例で見たように、γをどの時
>点の状態に取るかは任意でしたから、P(γ|L)=P(γ|R)=1
>/2というのは、この世の推移がランダムだということなのです(少
>なくとも、「私」が情報を持っていない部分はすべて無法則的ランダ
>ムだ、ということです。


それで良いと思いますよ。私の心M1が住む世界W1における因果
律は、M1がW1について持っている情報に物理法則を適用した範囲
だけで成立するものです。M1がW1について情報を持たない領域の
情報を得ようとする時、どれに決まるかは全くランダムです。それが
量子力学です。

>> 相変わらず三浦さんは、α1+β1という2つだけの重ね合わせの
>> 話をし、2^100種類の重ね合わせの場合と混同しています。
>>  100ビットの情報を持つマクロな状態として、はっきり差異が生じて
>> しまったα1とβ1(α1≠β1)とは、この後偶然にα1=β1となる可能
>> 性が極めて小さいのは確かです。しかし、100ビットの情報を持つ
>> 2^100種類の状態すべてが重ね合わせられている時、話は全く違い
>> ます。1つの状態が少し変化すると、すぐ他の状態に等しくなり、一瞬
>> 前まで違っていた2つの状態が、一瞬後には同じ状態になってしまう
>> という時間発展が無数に生じています。

> ↑は、次のような詭弁と同じです。
> 「60と61の間には無数に多くの実数がある。本当に無限大の。
>つまり、60≦x≦61なるxの個数は、実数全体の個数に比べてまっ
>たく遜色ない。したがって、太郎の体重kgがこの範囲に収まる確率
>は1/2である」。
> これは「基数(濃度)」と「測度」を混同した誤りです。
> 個数が一対一対応しうるほど多いからといって、同等の測度を
>持っているとは限りません。
> 初期条件が異なる場合、「同じ状態になってしまう」時間発展な
>ど、多世界全部のうち無限小の部分集合でしか起こらないという
>のは、計算するまでもなく論理的あるいは統計力学的な正論で
>しょう。否定する側はよほどの証拠が必要です。


どこが似ているのか解りません。

> さらに、前々から指摘させていただいていることですが、
> 馬場さんは何事も閉鎖系でしか考えていないようですから、友人
>の姿勢γは閉鎖系ではなく、開放系の一部分であることを是非もう
>一度思い出してください。


別に閉鎖系に限定しているつもりは無いし、解放系でも同じこと
でしょう。α1、α2、α3、・・・の場合とβ1、β2、β3、・・・の場合と
で、友人の身体が周囲から受ける影響は対等でしょうから。

> 閉鎖系であれば、いつかは同じ状態に戻るので、長い時間の間
>には、別々の状態から同じ状態に収束する瞬間が期待できるかも
>しれません(それもごくごく稀にですが)。しかし、先ほども述べたよ
>うに、「そういうこともある」ではダメなのです。常に同じ状態である
>のでないと、【【任意に選ばれた】γについて】「特定の表情や仕草
>など知覚可能状態γにある友人がその前にLを見ていた確率とR
>を見ていた確率はともに1/2」という保証になりません。

> よって、一般的にP(γ|L)≠P(γ|R)であり、P(L)=P(R)
>によりP(L|γ)≠P(R|γ)ということになります。


「Lであるか?Rであるか?」と「γであるか?γでないか?」との間に
相関が何も無ければ、「γである」という情報だけ得ても、LかRかは
確率1/2ずつです。そして今の場合、「メタ情報」=「「Lであるか?Rで
あるか?」と「γであるか?γでないか?」との相関」を何も知らない、
という設定です。多世界解釈なので、「知らない」ということは、あら
ゆる相関の重ね合わせです。「γならL」という相関と「γならR」と
いう相関が対等に重ね合わせられているので、LとRが確率1/2ずつ
です。

むしろ、逆にお尋ねしたいくらいです。「メタ情報」を何も持たない、
という設定なのに、なぜγがLまたはRの片方だけに結び着くので
しょうか?

> たとえば、銀河系に知的生命がいる確率は、客観確率論では0
>または1。主観確率論ではそのつどの天文学的・生物学的証拠
>によって変動するでしょう。
> 厳密な決定論では、もちろん、過去、現在、未来を問わず、あら
>ゆる可能な事象についてもその客観確率は0か1だけなので、主
>観確率だけが有意義に用いられることになります。客観確率の
>出番はありません。〈あの力学〉がそうですね。

> 推測統計学の立場では、客観確率の基準がもうちょっとゆるやか
>で、未来の事象については客観確率を云々することができると考え
>ますが、現在または過去の事象については客観確率は必ず1か0
>でなければなりません。
> 未来と同様に現在と過去の事象についても客観確率を有意義
>に使えるのはもちろん、重ね合わせを認め、確率を実在の本質と
>考える量子力学でしょうね。

> さて、推測統計学の立場をとるとして、
> 未来の事象については客観確率と主観確率は常に一致するの
>でしょうか?
> 統計学の人に聞いてみないと判りませんが、未来の事象につい
>ても、客観確率と主観確率が異なる場合はたくさんあるようなこと
>を聞きます。
> たとえば、「このコインは細工がしてあって表か裏のどちらか一方
>が大いに出やすい」という情報だけ与えられていて、さて、これから
>一回だけこのコインを投げるとき、表が出る確率Pはいくらでしょう、
>と問われた場合。

> 客観確率論者は、「P≠1/2」と答えます。出やすさが半々で
>ないことだけが判っているのだから、表が出る確率は1/2より大
>きいか、小さいかいずれかである。しかしどちらであるかまでの
>詳しい情報はない。よって、言えることは「P≠1/2」ということだ
>けだ。

> 主観確率論者は、「P=1/2」と答えます。出やすさが半々で
>ないことだけが判っているが、出やすいのは表か裏かどちらかで、
>しかも情報がない以上可能性は平等だから、表が出る確率も裏が
>出る確率も等しいと考えざるをえない。よって、厳密に「P=1/2」
>だ。

> その同じコインで何度も実験し、頻度を数えて真相が突き止めら
>れる場合は「P≠1/2」が正しそうだし、一回限りのギャンブルで
>意思決定しなければならない場合とか、「「その同じコイン」ってど
>れだよ? このようなコイン設定で一般的に答えられなきゃ意味な
>いだろう」という場合は、「P=1/2」とするのが合理的ではない
>でしょうか。

> このあたりは数学者も意見不一致のようなので、素人の議論が
>大いに意義を主張しうるところでしょう。


なるほど、よく解りました。私が言う「客観確率」と「主観確率」とは、
定義がだいぶ異なるようですね。私の定義は、こうでした。

例えばフェアなコインを投げると、「表=1/2、裏=1/2」であることは、
誰にでも共通する客観的な確率だ、とするのが「客観確率」。

でも「眠り姫問題」のように、コインを投げる人にとっては「表=1/2、
裏=1/2」でも、眠り姫にとっては「表=1/3、裏=2/3」ってことが有るぞ?
というのが「主観確率」。

「客観確率」の方は、「物質世界の物理状態はすべての人間に共
通する客観的実在だ」という[量子実在論仮説]が前提となっていま
す。これを「ニュートン力学における絶対速度のようなもの」とあざ笑
い、「同一の事象でも、誰の住む世界で見るかで確率はどうにでも
変わるんだよ」と主張し、「主観確率」こそがすべてだと考えるのが
[量子観念論仮説]です。

以上


Re: 客観確率は実在全体を対象とし、主観確率は我々の観察する客観世界を対象とする
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月10日(金)16時20分36秒 返信・引用
> No.2755[元記事へ]

実在全体で働いている第5の物理的な力が我々の観察する客観的世界では働いていない状態をモデルで説明します。

地球上=我々の観察する客観的世界とします。


太陽の引力が地球上でどのように働いているのかについて以下のように説明します。

地球の公転による遠心力と相殺されているので全く働いていない。

潮汐力による影響が発生している

地上において固定されているものに対しては潮汐力は事実上無視して良い。
地上において固定されていないもの(海の水など)に対しては潮汐力を無視することはできない。


量子力学における効果も、他との相互作用が弱く独立した素粒子では無視できないが、他の粒子に固定されている素粒子では影響が周囲に吸収されて事実上ゼロになっています。


類似性は明らかではないでしょうか。


太陽の引力=第5の力、潮汐力=量子効果です。


客観確率は実在全体を対象とし、主観確率は我々の観察する客観世界を対象とする
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月10日(金)15時44分6秒 返信・引用
> No.2754[元記事へ]

φさんへのお返事です。

色々と口を出したいことができたのでまた投稿します。

馬場さんと同じ立場で参加しても議論に建設的な貢献ができるとは思えないので、次のような立場で参加しようと思います。

私の「φ様の見解だとこのような点に疑問を感じる」に対して「学術を読め」か「それはこういうことだ」かのどちらかで返答してもらうことを希望します。

以下疑問点

> マクロな差異が同一状態に収束するなど、例外中の例外のそのまた超例外です。本来、それが認められれば十分な話なのです。
これは当然だし、馬場さんも否定しないのではないかと思います。

「差異の収束→意識の形成」という原則で考えるのであれば、この例外の存在は重い意味を持つのではないかということです。

前提

1.主観世界においては差異が収束される
2.実在全体においては差異は収束されない


問題は、差異の収束は「実在全体における物理状態」に影響を与えるか否かです。


古典力学:マクロレベルを観察する限りにおいては「影響を与えることはない」ようにみえます。
量子力学:ミクロレベルを観察する限りにおいては「影響を与える」ようにみえます。

波動関数の収縮は見かけ上「我々の観察する客観的な世界」において物理的な影響を与えているように見えるのです。

仮説
1.「差異の収縮→意識の形成」という力は実在全体における第5の物理的な力として機能している
2.「差異の収縮→意識の形成」は見かけ上物理的な影響を与えているように見えるが実在全体では物理的な影響はない


φ様の主張は[2]、馬場さんの主張は[1]になると私は理解しています。

疑問点:コペンハーゲン解釈における波動関数の収縮が、「我々の観察する客観的な世界」では見かけ上物理的な影響があるのに、実在全体では物理的な影響がないのは何故でしょうか。

私がφ様の説明よりも馬場さんの説明を支持するのはここに矛盾があると感じるからです。

仮説1では我々が観察する客観的世界では第5の物理的な力は相殺されて働いていないことになるのでオカルトではありません。



主観確率と客観確率の違いは実在全体では第5の物理的な力が働いていることによるものということになるでしょう。

第5の力が働いている「実在全体」では「P≠1/2」(客観確率)
第5の力が働いていない「我々が観察する客観世界」では「P=1/2」(主観確率)

ということになります


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月10日(金)00時45分43秒 返信・引用
> No.2753[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


今回は主観確率と客観確率がメインで、正直、

「反論のための反論」の部分には応じているヒマはありませんが、

最低限お答えさせていただきます。

>
>  ここが一番重要な点です。「ミクロな差異がマクロな差異に拡大し
> ただけで世界は分岐するか?」という問題で、三浦さんは「YES」、私
> は「NO」と答えているのですよね。
>


そうではありません。ミクロな差異だけで世界はすでに分岐しています。「ミクロな差異による分岐は厳密に同じ状態の世界へ収束しうるが、マクロな差異による分岐ではそうはならない」と私は述べたのです。

しかも、確率的にゼロとは言っておらず、事実上ゼロと言っただけです。

そもそもの問題は、ランダムにある事象が与えられたとき――たとえば「LかRかいずれか一方だけを見た友人が特定の表情や仕草など知覚可能状態γを示したのを見たとき、それがLとRの両者から等確率で帰結したと言えるか――P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」」という問いに、「【一般的に】など言えるはずがない」ということです。

マクロな差異が同一状態に収束するなど、例外中の例外のそのまた超例外です。本来、それが認められれば十分な話なのです。

>
>  不確定性原理を利用して、△Pはいくらでも大きくできます。スクリ
> ーンを構成している素粒子の位置座標を限りなく正確に測定して
> 位置座標の不確定性を△R→0にすれば、△P→∞になり得る、等。
> PlとPrの差異がもはやミクロでなくマクロと言えるくらい大きくなって
> も、△P→∞のために埋没し、|SL>か|SR>かを識別できず、|L>と|R>
> が干渉します。
>


↑を見ても、依然として|SL>と|SR>がマクロな違いだとはイメージできませんねえ。瞬間的に「埋没」してしまうのでは。

こんな非現実的な(そして実用面で不可能な)スクリーン細工を想定するくらいなら、「水槽の右端か左端かどちらかにインクが流れ落ちる」という私が前に出した自然な例の方がまだましではありませんか? インクの例なら、ハッキリと右、左というマクロな違いから出発します。時間が経てばインク分子の分布が水分子の分布に「埋没して」識別不可能な状態になります。その程度でも私は「マクロな違いが収束した例」として認めうる(知覚が水の色だけに圧倒的に向けられている場合に限るが)と言っているのですから。

あるいは、物質のマクロな塊と反物質のマクロな塊が接触して、光エネルギーになって消えてしまうという例の方がスッキリするかもしれません。その場合なら、確かにマクロな違いが同一状態に収束したと言える場合があるかもしれません。

いずれにしても、もともと人為的な設定による収束がありうることに疑義が呈されていたわけでなく、

「Lを見た友人とRを見た友人が同じ表情や仕草など知覚可能状態γに収束すると言えるか――P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」という自然で日常的な風景が問題でしたから、馬場さんの不自然な人為設定の例をいくら出しても的外れです。


「P(γ|L)=P(γ|R)=1/2が【一般的に】成り立つか」? →【一般的に】成り立つわけがない、

というのはアプリオリに真です。

【一般的に】成り立つとはどういう意味かを考えればすぐわかります。その場合、任意の出来事のあとに任意の出来事が等確率で起きることになり、因果律が成り立たなくなり、私たちの日常経験も成立しなくなります。ピタゴラ装置の例で見たように、γをどの時点の状態に取るかは任意でしたから、P(γ|L)=P(γ|R)=1/2というのは、この世の推移がランダムだということなのです(少なくとも、「私」が情報を持っていない部分はすべて無法則的ランダムだ、ということです。これはただの素朴観念論であり、私の知覚風景の末端を境に世界が不連続になっているというビザールな世界観です)。


いずれにせよわれわれは、特定の例外的な出来事についてではなく、【一般的な】話をしていたのです。人為設定の例をいくら出しても反論にならないのはおわかりでしょう。

しかも、人為設定としても、馬場さんの思考実験は欠陥だらけに感じられます。

一々挙げるのは面倒なのでひとつだけ指摘すると、先ほどの引用の中の

「PlとPrの差異がもはやミクロでなくマクロと言えるくらい大きくなっても」の部分。

「マクロ」の用法が不明です。同じ表現が次の部分にも。

>
>  素粒子を吸収した後のスクリーンの状態|SL>と|SR>とは、「マクロ
> な状態」です。|SL>は運動量P+Pl、|SR>は運動量P+Prです。Pの
> 不確定性が△P→∞の場合、PlとPrとの差異が十分マクロでも、|SL>
> か|SR>かを識別できず、|L>と|R>は干渉します。
>


本当に「PlとPrとの差異が十分マクロ」と言えるなら、どこかで差異が熱力学的過程へと洩れたことがある、つまり干渉が消えているという意味ですから、スクリーンにだけいくら細工をしようが頭隠して尻隠さずです。スクリーンに達するまでの他の部分(たとえばPの出発点およびそこから帰結する諸結果)に反作用によるマクロの違いが残ってしまい、その後、PlとPrの重ね合わせにはなりえないでしょう。差異の痕跡を全部防止する設定は至難です。

>
>  相変わらず三浦さんは、α1+β1という2つだけの重ね合わせの
> 話をし、2^100種類の重ね合わせの場合と混同しています。
>  100ビットの情報を持つマクロな状態として、はっきり差異が生じて
> しまったα1とβ1(α1≠β1)とは、この後偶然にα1=β1となる可能
> 性が極めて小さいのは確かです。しかし、100ビットの情報を持つ
> 2^100種類の状態すべてが重ね合わせられている時、話は全く違い
> ます。1つの状態が少し変化すると、すぐ他の状態に等しくなり、一瞬
> 前まで違っていた2つの状態が、一瞬後には同じ状態になってしまう
> という時間発展が無数に生じています。
>


↑は、次のような詭弁と同じです。

「60と61の間には無数に多くの実数がある。本当に無限大の。つまり、60≦x≦61なるxの個数は、実数全体の個数に比べてまったく遜色ない。したがって、太郎の体重kgがこの範囲に収まる確率は1/2である」。

これは「基数(濃度)」と「測度」を混同した誤りです。

個数が一対一対応しうるほど多いからといって、同等の測度を持っているとは限りません。

初期条件が異なる場合、「同じ状態になってしまう」時間発展など、多世界全部のうち無限小の部分集合でしか起こらないというのは、計算するまでもなく論理的あるいは統計力学的な正論でしょう。否定する側はよほどの証拠が必要です。


さらに、前々から指摘させていただいていることですが、

馬場さんは何事も閉鎖系でしか考えていないようですから、友人の姿勢γは閉鎖系ではなく、開放系の一部分であることを是非もう一度思い出してください。

閉鎖系であれば、いつかは同じ状態に戻るので、長い時間の間には、別々の状態から同じ状態に収束する瞬間が期待できるかもしれません(それもごくごく稀にですが)。しかし、先ほども述べたように、「そういうこともある」ではダメなのです。常に同じ状態であるのでないと、【【任意に選ばれた】γについて】「特定の表情や仕草など知覚可能状態γにある友人がその前にLを見ていた確率とRを見ていた確率はともに1/2」という保証になりません。


しかも友人の姿勢γは閉鎖系ではないのですから。

「100ビットの情報を持つマクロな状態」などというものがずっと固定されているわけではなく、外部との情報・エネルギーの出入りによって、Lの場合とRの場合とではビット数そのものが互いに異なっていき、要素となる事象のメンバーが大幅に異なります。

「友人の姿勢」というのは素粒子の集合を固定した系ではなく、開放系の一部を便宜的に(友人の見かけで)区切った擬似複合体ですから、LとRという初期条件が異なると、収束しようのないほどに急速に外部と非対称な相互作用をし、もはや互いに識別不能状態に戻ることはありません。これこそカオスの効果です。

よって、一般的にP(γ|L)≠P(γ|R)であり、P(L)=P(R)によりP(L|γ)≠P(R|γ)ということになります。


で、本題。

>
> 「主観確率」と「客観確率」とが常に同じ値を持つのであれば、両者
> の区別は不要と思われます。区別が必要だということは、両者が異
> なる値を持つ場合が有る、ということだと思いますが、「主観確率」と
> 「客観確率」とで、値が異なる場合って有りますか?
>


たとえば、銀河系に知的生命がいる確率は、客観確率論では0または1。主観確率論ではそのつどの天文学的・生物学的証拠によって変動するでしょう。

厳密な決定論では、もちろん、過去、現在、未来を問わず、あらゆる可能な事象についてもその客観確率は0か1だけなので、主観確率だけが有意義に用いられることになります。客観確率の出番はありません。〈あの力学〉がそうですね。


推測統計学の立場では、客観確率の基準がもうちょっとゆるやかで、未来の事象については客観確率を云々することができると考えますが、現在または過去の事象については客観確率は必ず1か0でなければなりません。

未来と同様に現在と過去の事象についても客観確率を有意義に使えるのはもちろん、重ね合わせを認め、確率を実在の本質と考える量子力学でしょうね。


さて、推測統計学の立場をとるとして、

未来の事象については客観確率と主観確率は常に一致するのでしょうか?

統計学の人に聞いてみないと判りませんが、未来の事象についても、客観確率と主観確率が異なる場合はたくさんあるようなことを聞きます。

たとえば、「このコインは細工がしてあって表か裏のどちらか一方が大いに出やすい」という情報だけ与えられていて、さて、これから一回だけこのコインを投げるとき、表が出る確率Pはいくらでしょう、と問われた場合。


客観確率論者は、「P≠1/2」と答えます。出やすさが半々でないことだけが判っているのだから、表が出る確率は1/2より大きいか、小さいかいずれかである。しかしどちらであるかまでの詳しい情報はない。よって、言えることは「P≠1/2」ということだけだ。


主観確率論者は、「P=1/2」と答えます。出やすさが半々でないことだけが判っているが、出やすいのは表か裏かどちらかで、しかも情報がない以上可能性は平等だから、表が出る確率も裏が出る確率も等しいと考えざるをえない。よって、厳密に「P=1/2」だ。


その同じコインで何度も実験し、頻度を数えて真相が突き止められる場合は「P≠1/2」が正しそうだし、一回限りのギャンブルで意思決定しなければならない場合とか、「「その同じコイン」ってどれだよ? このようなコイン設定で一般的に答えられなきゃ意味ないだろう」という場合は、「P=1/2」とするのが合理的ではないでしょうか。


このあたりは数学者も意見不一致のようなので、素人の議論が大いに意義を主張しうるところでしょう。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 9日(木)19時02分9秒 返信・引用
> No.2752[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(39)/SumioBaba(馬場純雄)

>>  |L>の場合、運動量Plの素粒子がスクリーンに吸収されたのが|SL>
>> です。|R>の場合、運動量Prの素粒子がスクリーンに吸収されたのが
>> |SR>です。Pl≠Prなので、吸収された瞬間は|SL>≠|SR>です。ところ
>> がその後、|SL>か|SR>かを見分ける方法が存在しないので、実際上
>> |SL>=|SR>になりました。三浦さんが絶対に有り得ないと主張されて
>> いた、
>>     マクロな物体の異なる状態|SL>と|SR>が(|SL>≠|SR>)、
>>     一瞬後|SL>=|SR>になる。
>> という現象が起きたのです。

> ↑まだこだわりが残りますか(苦)?


ここが一番重要な点です。「ミクロな差異がマクロな差異に拡大し
ただけで世界は分岐するか?」という問題で、三浦さんは「YES」、私
は「NO」と答えているのですよね。

> 馬場さんが抽象してくる|SL>と|SR>の差異なるものは、運動量
>を測定すれば統計的に現われただろう反面、測定しなれば実在
>しませんから、


もちろん測定して良いですよ。素粒子が到達する前のスクリーン
全体の運動量Pを、不確定性△P→0となるよう正確に測定しておけ
ば、素粒子を吸収した後のスクリーン全体の運動量がP+Plなのか
P+Prなのかで、|SL>と|SR>の識別ができ、|L>か|R>かも判明したで
しょう。この時スクリーンは観測装置になり、干渉は無くなります。

でも実際には、素粒子が到達する前のスクリーン全体の運動量を
正確に測定していなかったので、素粒子が到達する前のスクリーン
全体の運動量Pには大きな不確定性△Pが伴い、△P>>|Pl-Pr|で
あるため、素粒子を吸収した後のスクリーンをどんなに詳しく調べて
も、PlとPrの差異が埋没し、|SL>か|SR>かを識別できなくなり、|L>か
|R>かも不明となって、干渉した訳です。

不確定性原理を利用して、△Pはいくらでも大きくできます。スクリ
ーンを構成している素粒子の位置座標を限りなく正確に測定して
位置座標の不確定性を△R→0にすれば、△P→∞になり得る、等。
PlとPrの差異がもはやミクロでなくマクロと言えるくらい大きくなって
も、△P→∞のために埋没し、|SL>か|SR>かを識別できず、|L>と|R>
が干渉します。

>測定された痕跡のうちどの特定のスクリーン上到達点(位置)に
>ついて特定の運動量を反実仮想的に述べているのかが全く不明
>です。
> 位置と運動量を同時に確定させることは不確定性原理に反する
>ということに目をつぶって、無限個の状態の集合を|SL>とか|SR>と
>か言うにしても、そんなものはただの仮想的状態であって、いわゆ
>る「マクロな状態」ではありません。


別に、不確定性原理を無視しているつもは無いですが・・・。

> ともあれ前述のように、運動量を実際に測定する場合としない
>場合とでは、一回一回の到達位置が同じではないので、行わな
>かった方(測定しなかったならば測定した場合の方)の|SL>と|SR>
>もどの痕跡について言っているのか不定であって、馬場さんの言
>うことに実質的意味はなさそうですね。
> 測定した場合は決して|SL>≠|SR>が観測されないわけですから。


到達位置はS1の場合に固定して十分です。|L>の場合も|R>の場合
も必ずスクリーン上の点S1に到達するように設定した、と考えても
良いです。到達位置が点S2、S3、・・・の場合はやり直し、でもOK。

> いずれにせよ、
> 馬場さんの仮想的な|SL>と|SR>なるものにかりに何らかの意味
>があるものと譲歩したとしても、
> そのような一瞬で崩れる状態がなぜ「マクロな物体の状態」と言
>えるのかさっぱり判らないわけです。
> 「マクロな物体(スクリーン)の何らかの状態」が必ずしも「マクロ
>な状態」ではないのです。同様に、「マクロな物体(スクリーン)の
>何らかの違い」が必ずしも「マクロな違い」ではないのです。

> そもそも「マクロな違いが同一状態に収斂する」ことはない、と
>私が述べたのは、「知覚的に違いが感知される程度の違いが
>いったん生じたら、同一状態に戻ることはない」という意味でした
>(普通はそういう意味に取るでしょう)。|SL>と|SR>なるものがどの
>程度のスケールで起こると馬場さんは考えているのか知りません
>が、知覚域を何十桁も下回ったのではマクロな違いとは言えませ
>んからね。


素粒子を吸収した後のスクリーンの状態|SL>と|SR>とは、「マクロ
な状態」です。|SL>は運動量P+Pl、|SR>は運動量P+Prです。Pの
不確定性が△P→∞の場合、PlとPrとの差異が十分マクロでも、|SL>
か|SR>かを識別できず、|L>と|R>は干渉します。

> それに私は、マクロ物体の異なる状態が同一状態になることは
>「絶対に有り得ないと主張」などしていませんよ。単に統計的に
>ありえないと考えるだけです。確率的に極小ではあるが、マクロな
>収斂は量子力学で禁じられているわけではないでしょう。ちょうど、
>私の身体の素粒子全部と壁の素粒子全部がうまいこと互いに
>よけあって深刻な相互作用を起こさず、私が壁を通り抜けて隣室
>へ移動できた、ということが絶対不可能ではないように。
> だから、現実的に不可能、というくらいですね。


相変わらず三浦さんは、α1+β1という2つだけの重ね合わせの
話をし、2^100種類の重ね合わせの場合と混同しています。

100ビットの情報を持つマクロな状態として、はっきり差異が生じて
しまったα1とβ1(α1≠β1)とは、この後偶然にα1=β1となる可能
性が極めて小さいのは確かです。しかし、100ビットの情報を持つ
2^100種類の状態すべてが重ね合わせられている時、話は全く違い
ます。1つの状態が少し変化すると、すぐ他の状態に等しくなり、一瞬
前まで違っていた2つの状態が、一瞬後には同じ状態になってしまう
という時間発展が無数に生じています。

> なお、自然の経緯に任せずに意図的に設定すれば「マクロな物
>体の異なる状態が同一状態になること」は必ずしも難しいことでは
>なく、すでに私はいくつか例を挙げたつもりです。


それもまた、α1+β1という2つだけの重ね合わせの場合の話で
す。2^100種類の重ね合わせの場合は逆で、自然の経緯に任せて
おくと「マクロな物体の異なる状態が同一状態になること」がほぼ
確実に生じ、それを防ぐ方が意図的な設定を必要とします。

> 「客観確率」と「主観確率」の学術的定義は完全ではないにせよ
>比較的ハッキリしていて(いわゆる確率の「傾向性解釈」と「頻度
>解釈」における確率が「客観確率」と呼ばれ、ベイズ的仮説検定
>における確率が「主観確率」でしょう)、多世界解釈の場合は確率
>の頻度解釈が文字通りに使えますから、主要な話題は迷うことなく
>客観確率を前提することになります。
> コペンハーゲン解釈の場合も、波動方程式や不確定性原理が
>確率を還元不可能な形で含んでいると見るので、客観確率が便利
>でしょう。
> 世界はひとつで、しかも決定論に従う、と考えるなら、ラプラスの
>ような主観確率(確率というのは外部世界には無縁の概念であり、
>単に無知の度合でしかない)を採用せざるをえないでしょう。

> 文脈からして、主観確率で論ずるのは「仮説が真である確率」に
>ついて論じる場合(メタレベル)だけで、事象について述べる場合
>(対象レベル)は客観確率で論じないと、多世界解釈等、量子力学
>の原則に反するように思います。


ご説明、有り難うございます。

「主観確率」と「客観確率」とが常に同じ値を持つのであれば、両者
の区別は不要と思われます。区別が必要だということは、両者が異
なる値を持つ場合が有る、ということだと思いますが、「主観確率」と
「客観確率」とで、値が異なる場合って有りますか?

以上


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 9日(木)14時29分47秒 返信・引用
> No.2750[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


>
>  |L>の場合、運動量Plの素粒子がスクリーンに吸収されたのが|SL>
> です。|R>の場合、運動量Prの素粒子がスクリーンに吸収されたのが
> |SR>です。Pl≠Prなので、吸収された瞬間は|SL>≠|SR>です。ところ
> がその後、|SL>か|SR>かを見分ける方法が存在しないので、実際上
> |SL>=|SR>になりました。三浦さんが絶対に有り得ないと主張されて
> いた、
>     マクロな物体の異なる状態|SL>と|SR>が(|SL>≠|SR>)、
>     一瞬後|SL>=|SR>になる。
> という現象が起きたのです。


↑まだこだわりが残りますか(苦)?

馬場さんが抽象してくる|SL>と|SR>の差異なるものは、運動量を測定すれば統計的に現われただろう反面、測定しなれば実在しませんから、測定された痕跡のうちどの特定のスクリーン上到達点(位置)について特定の運動量を反実仮想的に述べているのかが全く不明です。

位置と運動量を同時に確定させることは不確定性原理に反するということに目をつぶって、無限個の状態の集合を|SL>とか|SR>とか言うにしても、そんなものはただの仮想的状態であって、いわゆる「マクロな状態」ではありません。

ともあれ前述のように、運動量を実際に測定する場合としない場合とでは、一回一回の到達位置が同じではないので、行わなかった方(測定しなかったならば測定した場合の方)の|SL>と|SR>もどの痕跡について言っているのか不定であって、馬場さんの言うことに実質的意味はなさそうですね。

測定した場合は決して|SL>≠|SR>が観測されないわけですから。



いずれにせよ、

馬場さんの仮想的な|SL>と|SR>なるものにかりに何らかの意味があるものと譲歩したとしても、

そのような一瞬で崩れる状態がなぜ「マクロな物体の状態」と言えるのかさっぱり判らないわけです。

「マクロな物体(スクリーン)の何らかの状態」が必ずしも「マクロな状態」ではないのです。同様に、「マクロな物体(スクリーン)の何らかの違い」が必ずしも「マクロな違い」ではないのです。

マクロ物体である私の現在の身体の可能的違いのほとんどは、ミクロな違いです。


そもそも「マクロな違いが同一状態に収斂する」ことはない、と私が述べたのは、「知覚的に違いが感知される程度の違いがいったん生じたら、同一状態に戻ることはない」という意味でした(普通はそういう意味に取るでしょう)。|SL>と|SR>なるものがどの程度のスケールで起こると馬場さんは考えているのか知りませんが、知覚域を何十桁も下回ったのではマクロな違いとは言えませんからね。


それに私は、マクロ物体の異なる状態が同一状態になることは「絶対に有り得ないと主張」などしていませんよ。単に統計的にありえないと考えるだけです。確率的に極小ではあるが、マクロな収斂は量子力学で禁じられているわけではないでしょう。ちょうど、私の身体の素粒子全部と壁の素粒子全部がうまいこと互いによけあって深刻な相互作用を起こさず、私が壁を通り抜けて隣室へ移動できた、ということが絶対不可能ではないように。

だから、現実的に不可能、というくらいですね。


なお、自然の経緯に任せずに意図的に設定すれば「マクロな物体の異なる状態が同一状態になること」は必ずしも難しいことではなく、すでに私はいくつか例を挙げたつもりです。

Lが出てもRが出ても友人はただ自動送信のボタンを押すだけと決めておき、いずれの場合も同一時刻に送信がなされるならば、受信する私の世界ではLとRの重ね合わせが保たれたままですから、友人にとっては世界が収縮したのに、私にとっては収縮していないということが起こります。

この場合は、私の世界が、LであれRであれその結果が厳密に同一状態になっているからで、LかRかという過去の出来事が決定していないマクロな重ね合わせ状態に私は住んでいます。


むろん、「本当はどちらだったか」はたいていすぐバレてしまうんですけれどね。

分岐のどちらが真相だったかがあとからバレることなど原理的にありえないミクロな分岐・収斂とは違って、マクロな分岐・収斂は、たいてい一定時間しか続かず、不安定です。

上のメール設定では、そのあと友人に会っていろいろ話し、当時の実験室内と私の自室との状況を比べたとき、共通原因で繋がっている法則的可能性のリストから漏れるような「出来事のペア」を順々に除外してゆくと、LかRかいずれかが「ありえない状態、あるいは低確率の状態」ということが判明し、あとから私の過去がLだったかRだったか決定することは多いでしょう。

しかし、そうした照合に使える情報が私の知覚世界に入ってくる前に私が死ぬかもしれず、そうした場合は、私はマクロな両方の出来事と確率的に同等に両立した重ね合わせに住み続けたまま一生を終えたのであり、Lを見た友人と同じ世界群に住んでいたのか、Rを見た友人と同じ世界群に住んでいたのかは全く未定のまま、というより私は両方の友人と同居していたのです。

>
>  では、次の話題にでも移りましょうか? 何でも良いです。「主観確
> 率」と「客観確率」なんかどうでしょう? 私は、「客観確率」こそ、ニュ
> ートン力学の「絶対速度」に相当する無意味な概念であり、「主観確
> 率」がすべてだと考えます。ただし、「客観確率」と「主観確率」の定
> 義が三浦さんと一致しているかどうかは、よく判りません。
>


馬場さんが「Pl≠Prなので、(運動量測定をしていなくても)吸収された瞬間は|SL>≠|SR>(で、それがマクロな違いを生んでいるはず)」という意味不明の主張に固執されるなら、とても先へは進めないようにも思いますが――、


そこはもうクリアしたことにさせていただいて、


言葉の定義についてですが、

「カオス」もそうでしたが、

各々が勝手に定義しては議論など出来ないので、やはり学界での標準的な用法に従うべきでしょう。

「客観確率」と「主観確率」の学術的定義は完全ではないにせよ比較的ハッキリしていて(いわゆる確率の「傾向性解釈」と「頻度解釈」における確率が「客観確率」と呼ばれ、ベイズ的仮説検定における確率が「主観確率」でしょう)、多世界解釈の場合は確率の頻度解釈が文字通りに使えますから、主要な話題は迷うことなく客観確率を前提することになります。

コペンハーゲン解釈の場合も、波動方程式や不確定性原理が確率を還元不可能な形で含んでいると見るので、客観確率が便利でしょう。

世界はひとつで、しかも決定論に従う、と考えるなら、ラプラスのような主観確率(確率というのは外部世界には無縁の概念であり、単に無知の度合でしかない)を採用せざるをえないでしょう。


文脈からして、主観確率で論ずるのは「仮説が真である確率」について論じる場合(メタレベル)だけで、事象について述べる場合(対象レベル)は客観確率で論じないと、多世界解釈等、量子力学の原則に反するように思います。


どうも感じることですが、

客観確率を認めないとか、|SL>や|SR>のような値は測定しなくても実在しているとか、どうも馬場さんから垣間見える姿勢というのは、量子力学ではなく、私がもうその呼び名は使わないと言った〈あの力学〉の世界観に則っているようですね……? 馬場さんの本音は意外とそちらか?


(無題)
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 8日(水)18時58分9秒 返信・引用
三浦俊彦様(38)/SumioBaba(馬場純雄)


[量子観念論仮説]における、「心の2種類の基底」「世界Wと心Mの
関係」「重ね合わせ」「波動関数の収縮」・・・などの説明です。

以上

=======================================================



          <<クオリア統一理論(98)>>


           ー 心の基底変換 ー



           2011.05.05  馬場純雄



量子力学では、1個の素粒子の状態を、次の2通りで表現すること
が可能でした。


                 【1】


  様々な位置r=(x、y、z)に存在する「粒子」状態|r1>、|r2>、


  |r3>、・・・の重ね合わせ


                 【2】


  様々な運動量p=(px、py、pz)を持つ「波」状態|p1>、|p2>、


  |p3>、・・・の重ね合わせ
心の状態についても、これと同様な、2つの「基底」による状態の表
現を考えてみます。


全宇宙Wの物理状態が、わずか8ビットの自由度しかない、単純
なモデルを考えます。それを表す独立変数をP1、P2、P3、・・・、P8
とし、これらは独立して0または1の状態を取れるとします。すると
当然、Wの取り得る状態の数は、2の8乗=256種類になります。そ
れらの状態を、Wの後ろの( )内に、P1からP8までの0と1を順に並
べて記し、


  W(00000000)


  W(00000001)


  W(00000010)


  W(00000011)


    ・・・・・・


  W(11111111)
と表現します。

そして、いわゆる「多世界説」を仮定します。これは、現在のところ、
実証も反証もできない仮説ではありますが、量子力学における波動
関数の収縮が何を意味しているかを理解する上で、とても解り易い
仮説です。Wの取り得る256種類の状態すべてを要素とする集合{W}
を考えるだけで良いのです。


次に、全宇宙Wを知覚する心Mを考えます。具体例を挙げると、心M
がWについて、


  P1=1、P3=0、P4=1
という3ビットだけの情報を持つ状態を、


  M(1?01????)
で表します。他の5ビットは、


  P2=P5=P6=P7=P8=?(0か1か不明)
を表しています。

すべての心Mの状態を表すのに、どのような「基底」を用いるべき
か、という問題です。以下に、2つの方法を挙げてみます。



                【基底1】

まず1つの方法は、Mの基底として、次の16個を考える方法が有り
ます。


  M(0???????) ・・・P1=0に対応する心


  M(1???????) ・・・P1=1に対応する心


  M(?0??????) ・・・P2=0に対応する心


  M(?1??????) ・・・P2=1に対応する心


  M(??0?????) ・・・P3=0に対応する心


  M(??1?????) ・・・P3=1に対応する心


        ・・・・・・・・・・・・・・・


  M(???????0) ・・・P8=0に対応する心


  M(???????1) ・・・P8=1に対応する心
この場合、例えば先に挙げた心M(1?01????)は、


  M(1???????)、M(??0?????)、M(???1????)
の3つで構成されている、と解釈されます。これら3つの「基底」が融
合(積融合)してできたものが心M(1?01????)だという訳です。

この【基底1】による表現は、3次元空間内の特定の領域Crだけに
広がる1個の素粒子の波動関数を、「粒子」状態の重ね合わせで表
現したのに似ています。|r1>、|r2>、|r3>、・・・と、より広い範囲内での
「粒子」状態を重ね合わせると、領域Crも広がるからです。



                【基底2】

もう1つ、面白い方法が有ります。この【基底2】が、1個の素粒子の
波動関数を、「波」状態の重ね合わせで表現するのに似ています。

全宇宙Wの状態が、W(00000000)からW(11111111)まで256種類
存在しました。それらと一対一対応させ、全宇宙を知覚しているか
のような仮想的な心も、256種類考えます。


  M(00000000) → W(00000000)を知覚している心


  M(00000001) → W(00000001)を知覚している心


  M(00000010) → W(00000010)を知覚している心


  M(00000011) → W(00000011)を知覚している心


            ・・・・・・・・・・・


  M(11111111) → W(11111111)を知覚している心
そしてこれら256個の心を、心Mの「基底」と定めるのです。

この場合、先ほどの心M(1?01????)はどう表現されるでしょうか?
M(1?01????)という状態は、P1=1、P3=0、P4=1の3ビットの情報だ
けが決定していて、P2、P5、P6、P7、P8は?のまま定まっていませ
ん。そこでこの?は、0と1の重ね合わせのままだと見なすのです。


  「?」=「0」+「1」 (より正確には、「?」=(「0」+「1」)/√2)
すなわち、256種類の「基底」の中で、P1=1、P3=0、P4=1を満たす
ものは、32個存在します。P2、P5、P6、P7、P8が0か1かの組み合
わせで、2の5乗=32種類です。M(1?01????)とは、それら32個を重
ね合わせたものと見なす訳です。それら32個の「基底」は、P1=1、
P3=0、P4=1は共通しているので、重ね合わせても情報が残るのに
対し、P2、P5、P6、P7、P8の0か1かはすべてが重ね合わせられる
ことで、情報が消えてしまい、?になったと考えるのです。

32個の個々の「基底」は、P1、P2、P3、・・・、P8すべての情報を
持った心なのに、32個重ねると、P1=1、P3=0、P4=1の3ビットだけ
情報が残り、他の5ビットは消えてしまいます。個々の|p1>、|p2>、
|p3>、・・・は全宇宙空間内に広がった「波」なのに、それらを多数
重ね合わせることにより、領域Cr内だけが残り、その外部ではうち
消し合って消滅する、というのと同じです。

M(1?01????)という心は、全宇宙Wの持つ8ビットの情報のうち3ビ
ットしか持たないので、残りの5ビットに相当する2の5乗=32種類の
Wの状態を重ね合わせのままで知覚していることになります。これ
が、量子力学でいう「重ね合わせ」に相当します。

もし、私の心Mの持つWについての情報が、3ビットから4ビットへ
と1ビット増えると、Mが知覚するWの状態は、32種類の重ね合わせ
から16種類の重ね合わせに減ります。これが、「観測による波動関
数の収縮」に対応します。

私の心Mが持つ全宇宙Wについての情報の量をI(ビット)とし、Mが
知覚するWの状態がJ(個)の重ね合わせであるとすると、


  「2のI乗」xJ=256(一定)               ・・・(1)
あるいは、


  I+logJ=8(一定) [logの底は2]           ・・・(2)
という保存則が成立しています。I=0のときJ=256、I=1のときJ=128、
I=2のときJ=64、I=3のときJ=32、・・・、I=8のときJ=1、です。

=======================================================

以上

=======================================================



          <<クオリア統一理論(99)>>


           ー 心の基底変換(2) ー



           2011.05.05  馬場純雄



本論(98)の続きです。

【基底2】の256個の「基底」のどれか1つ、例えばM(10011011)は、
【基底1】の16個の「基底」を用いると、M(1???????)、M(?0??????)、
M(??0?????)、M(???1????)、M(????1???)、M(?????0??)、M(??????1?)、
M(???????1)、という8個の「基底」で合成されているのが解ります。
これが、


  「粒子」状態|r1>、|r2>、|r3>、・・・の重ね合わせで、全宇


  宙に広がる「波」状態|p1>を作り出す。
に似ています。

逆に、【基底1】の16個の「基底」のどれか1つ、例えばM(???1????)
は、【基底2】の256個の「基底」の中の、P4=1だけを満たす128個の
「基底」を全部重ね合わせて合成されているのが解ります。これが、


  全宇宙に広がる「波」状態|p1>、|p2>、|p3>、・・・の重ね


  合わせで、1個の「粒子」状態|r1>を作り出す。
に似ています。


M(????????)という心を考えましょう。【基底1】の方で考えると、こ
のM(????????)は、心の基本単位に相当する16個の「基底」を何一
つ持たない心であり、何も無い心、すなわち「無意識」に対応します。

ところがこれを【基底2】の方で考えると、正反対の解釈になります。
このM(????????)は、256個の「基底」すべてを重ね合わせることで、
P1、P2、P3、・・・、P8の情報が全部消えてしまった状態の心です。
何も無いどころか、すべてが有るがゆえに、重ね合わせられて消滅
しているのです。


  「何も無い状態」とは「すべてが有る状態」に等しい。
というのが、量子力学特有の哲学です。


P1=0という1ビットだけの情報を持つ心M(0???????)が、P1=0かつ
P2=1という2ビットの情報を持つ心M(01??????)になるには、どうす
れば良いでしょうか?

【基底1】の表現方法で考えると、P1=0という1ビットの情報を持つ
心M(0???????)と、P2=1という1ビットの情報を持つ心M(?1??????)と
が「融合」(積融合)することによって初めて、P1=0かつP2=1という2
ビットの情報を持つ心M(01??????)になれます。

ところがこれを【基底2】の方で考えるとどうでしょう? P1=0という1
ビットの情報を持つ心M(0???????)は、M(00??????)とM(01??????)の
重ね合わせに等しいので、


  M(0???????)=M(00??????)+M(01??????)→M(01??????)
という波動関数の収縮が起きれば良いのです。


  【基底1】における多数の「基底」の融合(積融合)は、


  【基底2】でみると多数の「基底」の重ね合わせ状態か


  ら波動関数が収縮する過程として表現される。
かくして、2つの心M1と心M2の「融合」(積融合)が、量子力学におけ
る波動関数の収縮に還元できる点が、これら2つの「基底変換」の
面白いところです。

「0」または「1」の部分が「意識」を持ち、「?」の部分は「無意識」で
す。


  「?」=「0」+「1」→「0」
または


  「?」=「0」+「1」→「1」
という波動関数の収縮こそが「意識」の発生を意味しています。


  「意識」=「波動関数の収縮」
です。「意識が波動関数を収縮させた」のか?、それとも「波動関数が
収縮するところに意識が発生する」のか? ・・・それは、どちらと考え
ても良いでしょう。


以上、【基底1】と【基底2】の2つの表現方法を試みました。心Mの
状態をM(・・・・・・・・)とし、個々の「・」が、「0」、「1」、「?」の3通りの状
態を取れるとすると、心Mの状態は全部で3の8乗=6561種類存在す
ることになります。

ただし、これはあくまで表現方法の説明であって、


  なぜ6561種類の心の状態が存在し得るのか?
は、謎のままです。

例えば先程のM(1?01????)という状態の心は、【基底1】だと3個の
「基底」の組み合わせで、【基底2】だと32個の「基底」の重ね合わせ
で作り出せます。しかし、この場合、次の謎は不明のままです。


  なぜ、【基底1】における3個の「基底」や、【基底2】に


  おける32個の「基底」は、ばらばらに独立することなく、


  かつ、【基底1】における16個の「基底」、【基底2】にお


  ける256個の「基底」は、すべてが融合することもなく、


  M(1?01????)という特定の状態で有り得るのか?
ちょうど量子力学において、次の謎に誰も答えられないのと同じで
す。


  なぜ1個の素粒子は、3次元空間内の1点に局在する


  「粒子」であったり、全宇宙空間に広がる「波」であった


  り、その中間の「波束」であったりするのか?

これを説明するためには、【基底1】の場合も、【基底2】の場合も、
多数の「基底」の中で、1つでもなければ全部でもなく、特定の部分
だけを結び付けている何物かの存在を考える必要が有ります。


それから、本論(98)に書いた通り、256個の世界Wと、256個の心と
は、完全に一対一対応しています。


  M(00000000) → W(00000000)を知覚している心


  M(00000001) → W(00000001)を知覚している心


  M(00000010) → W(00000010)を知覚している心


  M(00000011) → W(00000011)を知覚している心


            ・・・・・・・・・・・


  M(11111111) → W(11111111)を知覚している心
従って、Wの全集合{W}とMの全集合{M}とを区別することが無意味
となり、同一と見なして良いのが解ります。世界Wの集合{W}を心M
の集合{M}に還元したことになり、これこそが[観念論](ライプニッツ
の「モナドロジー」)です。かくして、本論(59)に書いた[量子観念論
仮説]につながります。


             [量子観念論仮説]


  地球上には数十億人の人間の心M1、M2、M3、・・・、Mn


  (nは数十億)が存在しているが、物質世界の方も、心M1


  が住む世界W1、心M2が住む世界W2、心M3が住む世界


  W3、・・・、心Mnが住む世界Wn、と心の数だけ存在し、す


  べて異なる。(「多世界説」まで考慮すれば、n→∞)。


  心Miが住む世界Wiは、Miが知覚・認識している範囲内で


  だけ物理状態が確定しているが、Miが情報を持たない


  領域は何も物理状態が確定しておらず、あらゆる可能性


  が重ね合わせのままである。WiはMiそのものと見なすこ


  とになり(i=1、2、3、・・・、n)、


      M1=W1、M2=W2、M3=W3、・・・、Mn=Wn


  そして、存在するのはすべての心M1、M2、M3、・・・、Mn


  の集合{M}だけである。//

=======================================================

以上


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 8日(水)17時41分3秒 返信・引用
> No.2749[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(37)/SumioBaba(馬場純雄)

> 哲学的ゾンビでは、収縮は起こりません。意識を持つ場合だけ
>です。
> 「見かけの「収縮」の原因は「抽象自我(心)」だ」というのはもち
>ろんです。
> ただし、物理的な原因ではありませんよ。物理的には(客観的
>には)収縮など起きていないので。
> なぜなら、私の意識そのものが外界の状況の可能性それぞれ
>に合わせて分岐しているだけだからです。
> 客観的には分岐(諸世界の複数の部分集合への分離)がある
>だけで、収縮は一切起きていません。
> それが多世界解釈です。
> 「意識における収縮」というのはあくまで主観的な出来事、つま
>り意識の内容に他ならず(しかも収縮そのものを直接知覚する
>ことはなく、二重スリット実験の結果から推論する時のような間接
>的認識だけがなされますね)、客観的には、意識の中であれ外で
>あれ、収縮はありません。波動方程式に従った連続的で線形な
>決定論的推移があるだけです。


この点は完全に合意ですね。

> ●正
> 他方、スクリーンに件の検出器を付けなければどうなるでしょう?
>「スリットに検出器を付けない普通の二重スリット実験」と同じに
>なります。|L>と|R>が両方生じたまま素粒子はスクリーンに達し、
>到達状態(痕跡)は|L>と|R>が共有します。|SL>≠|SR>ではなく、
>|SL>=|SR>です。|L>か|R>かを識別する物理量が何も測定され
>ていないのですから、当然でしょう。単にスクリーン上に位置が記
>されるだけであり、これを何度も繰り返すと干渉縞が現われます。


|L>の場合、運動量Plの素粒子がスクリーンに吸収されたのが|SL>
です。|R>の場合、運動量Prの素粒子がスクリーンに吸収されたのが
|SR>です。Pl≠Prなので、吸収された瞬間は|SL>≠|SR>です。ところ
がその後、|SL>か|SR>かを見分ける方法が存在しないので、実際上
|SL>=|SR>になりました。三浦さんが絶対に有り得ないと主張されて
いた、


  マクロな物体の異なる状態|SL>と|SR>が(|SL>≠|SR>)、


  一瞬後|SL>=|SR>になる。
という現象が起きたのです。

ニュートン力学だと、マクロな差異を持つ|SL>と|SR>(|SL>≠|SR>)
が、その後|SL>=|SR>になることは絶対に無いでしょう。しかし量子
力学では、|SL>や|SR>自体が不確定性の固まりであり、無限個の
状態の重ね合わせなので、PlとPrのミクロな差異(Pl≠Pr)などすぐに
埋没してしまい、|SL>=|SR>になり得ます。



                ******


では、次の話題にでも移りましょうか? 何でも良いです。「主観確
率」と「客観確率」なんかどうでしょう? 私は、「客観確率」こそ、ニュ
ートン力学の「絶対速度」に相当する無意味な概念であり、「主観確
率」がすべてだと考えます。ただし、「客観確率」と「主観確率」の定
義が三浦さんと一致しているかどうかは、よく判りません。

以上


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 8日(水)03時48分10秒 返信・引用
> No.2748[元記事へ]

φさんへのお返事です。

第2ブロックの最終段落に誤記がありましたので訂正します。


●誤
他方、スクリーンに件の検出器を付けなければどうなるでしょう? 「スリットに検出器を付けない普通の二重スリット実験」と同じになります。|SL>と|SR>が両方生じたまま素粒子はスクリーンに達し、到達状態(痕跡)は|SL>と|SR>が共有します。|SL>≠|SR>ではなく、|SL>=|SR>です。|L>か|R>かを識別する物理量が何も測定されていないのですから、当然でしょう。単にスクリーン上に位置が記されるだけであり、これを何度も繰り返すと干渉縞が現われます。









●正
他方、スクリーンに件の検出器を付けなければどうなるでしょう? 「スリットに検出器を付けない普通の二重スリット実験」と同じになります。|L>と|R>が両方生じたまま素粒子はスクリーンに達し、到達状態(痕跡)は|L>と|R>が共有します。|SL>≠|SR>ではなく、|SL>=|SR>です。|L>か|R>かを識別する物理量が何も測定されていないのですから、当然でしょう。単にスクリーン上に位置が記されるだけであり、これを何度も繰り返すと干渉縞が現われます。



ただの誤記ですから、訂正しなくても一目瞭然だったでしょうけれど。念のため。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 8日(水)01時35分20秒 返信・引用
> No.2747[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>
>  それは違うと思います。
>  1個の素粒子が、左の穴を通った|L>と右の穴を通った|R>に分岐
> し、両者がスクリーン上の同一の点S1に到達した時、同一状態に
> 収束していませんよ。どちらの穴を通ったかで僅かに傾きが異なり、
> |L>の場合の運動量Plと、|R>の場合の運動量Prとは異なりますから
> (Pl≠Pr)。もし、点S1の位置でPlとPrのどちらかなのを識別していた
> ら、|L>か|R>かが判明したはずです。その場合には、スクリーンは
> 観測装置となり、|L>か|R>かを観測したので干渉は無くなります。
>  実際にはPlかPrかを識別しないまま、スクリーン上の点S1に到達
> しました。Plだった場合のスクリーンを|SL>、Prだった場合のスクリー
> ンを|SR>とすると、もちろん|SL>≠|SR>です。|L>と|R>とのミクロな差
> 異Pl≠Prを、|SL>≠|SR>というマクロな物体の差異に拡張させたにも
> 拘わらず、|L>と|R>は干渉します。なぜなら、スクリーン上の点S1に
> 素粒子が到達した状態|S1>が与えられても、それが|SL>で|L>だった
> のか、それとも、それが|SR>で|R>だったのか、知りようが無いから
> です。
>                   まとめ
>     |L>と|R>とのミクロな差異Pl≠Prを、|SL>≠|SR>という
>     マクロな物体の差異に拡張させても、それだけでは、
>     収縮は起こらず、|L>と|R>は重ね合わせのまま。
>     実際に観測した状態|S1>が、|SL>なのか、それとも
>     |SR>なのか、を知り得て初めて、|L>または|R>の一方
>     だけに収縮する。
>


うーん……、馬場さんは根本的に思い違いをしています……。

この段階で「議論」などせずに早く観念論やゾンビのことを論じたいので、この件については各自がじっくり文献を調べるということにしませんか?

ただもちろん、私は馬場さんが間違っていると確信しているので、いちおうその理由をここで述べておきます。

この件についての御返事はいりません。(むろん、この件をハッキリさせないと観念論その他の話もズレまくりかもしれないので、御納得できなければいくらでもレスしてください。それに万一私が間違っていたら面白いですしね)


スクリーン上で素粒子の到達位置を検出するのは2スリット実験のもとからの設定ですが、そのうえに飛来方向(でもなんでも、とにかく|L>か|R>かを識別する何らかの物理量)まで検出する装置を付けるわけですね。なるほど。私はずっとスリットに検出器を付けて干渉縞をなくす実験をイメージしていましたが(本などに出てくるのはその実験なので)、馬場さんのようにスクリーン上に余剰検出器を付けても同じ効果があるでしょうから、話は変わりません。

スクリーンにその検出器を付ければ、もちろん、実験一回ごとに|SL>≠|SR>となるでしょう。その場合、|L>か|R>かについて収縮が起きています。マクロな違いとして登録されてしまうのですから、実験一回ごとに|SL>世界と|SR>世界は永遠に分離し、因果的に無関係に存在し続けます。

ちなみに、そのような実験設定で何度も繰り返すと、干渉縞は現われず、「スリットに検出器を付けてどちらを通ったかを検出してしまう実験」と同じ結果になるでしょう。スリットで検出する実験でも、スクリーン上に干渉縞は現われませんから。
他方、スクリーンに件の検出器を付けなければどうなるでしょう? 「スリットに検出器を付けない普通の二重スリット実験」と同じになります。|SL>と|SR>が両方生じたまま素粒子はスクリーンに達し、到達状態(痕跡)は|SL>と|SR>が共有します。|SL>≠|SR>ではなく、|SL>=|SR>です。|L>か|R>かを識別する物理量が何も測定されていないのですから、当然でしょう。単にスクリーン上に位置が記されるだけであり、これを何度も繰り返すと干渉縞が現われます。


結果として、馬場さん考案のスクリーン上検出器を付けた場合は、多数回繰り返した場合に干渉縞が生じない位置に素粒子が到達することになり、|SL>≠|SR>となって、私たちの意識はそのつど|L>世界と|R>世界どちらか一方にカテゴライズされます(むろん両方にカテゴライズされるのですが、主観的には一方だけに「私」がいるように感じられます。もう一方の「私」とは無関係になるからです)。

馬場さん考案のスクリーン上検出器を付けない場合は、多数回繰り返した場合に干渉縞が生じる位置に素粒子が到達することになり、|SL>と|SR>は位置だけでは区別できなくなります。私たちは|L>世界と|R>世界の重ね合わせに居続けます。


「スクリーン上の点S1に」という馬場さんの表現が、そもそも誤解の産物なのです。

スクリーン上検出器がある場合と無い場合では、素粒子のスクリーン上の到達位置が異なるのですから、S1という同じ指示句で示せません。

なぜかというと、検出される場合は干渉縞のない到達パターンとなり、検出されない場合は干渉縞のある到達パターンとなるので、到達位置の確率分布が違うのです。S1の内容が異なります。


つまり、


「|L>と|R>とのミクロな差異Pl≠Prを、|SL>≠|SR>というマクロな物体の差異に拡張させても、それだけでは、収縮は起こらず、|L>と|R>は重ね合わせのまま。」

という馬場さんの認識は全くの誤りで、|SL>≠|SR>というマクロな物体の差異に拡張させると、マクロな観測がされたということですから、そのつど|L>か|R>か一方への収縮が起こり、重ね合わせは消えます。干渉縞も消えます。|L>世界と|R>世界は分離します。

|SL>≠|SR>という検出ができない低精度の普通のスクリーン(位置の痕跡だけ残すスクリーン)を用いた場合は、|SL>≠|SR>とはならず、|L>と|R>は重ね合わせのままです。干渉縞も出来ます。「|L>兼|R>世界」が続きます。



以上の私の説明が正しいかどうかは、高精度の実験ができれば、干渉縞の有無によって確かめることができるでしょう。

そして量子力学によれば、以上の私の説明は正しいはずです。


要は、馬場さんの「スクリーン上検出実験」は、普通に言われる「スリット上検出実験」とまったく同じだということです。検出すれば収縮し、検出しなければ重ね合わせのままです。スリット上検出実験の場合に干渉縞が消えることは、馬場さんも意義ありませんよね?


一般に、検出器を付けた場合と付けない場合では(特定の物理量を観測した場合としない場合とでは)根本的に結果が(世界の推移が)異なるというのは、量子力学の基本ではないでしょうか。

この基本認識は今後共有していきたいものです。


この件はできればあまり続けたくないので、馬場さんに御納得いただけたならば終わりにしたいと思いますが、よろしいでしょうか。馬場さんなら、すんなり納得していただけたと思います。

以上への御返事はいりません。

さて、本題に戻りましょう。

>
>  では、「抽象自我(心)」を持たない「哲学的ゾンビ」だったら、見かけ
> の「収縮」は何も無い、ということですか?
>  もしYESであれば、見かけの「収縮」の原因は「抽象自我(心)」だと
> いうことですね。
>  もしNOであれば、「素粒子→猫→私の目→私の視神経→私の脳」
> のどこで見かけの「収縮」が起きるのかを説明して下さい。
>


哲学的ゾンビでは、収縮は起こりません。意識を持つ場合だけです。

「見かけの「収縮」の原因は「抽象自我(心)」だ」というのはもちろんです。

ただし、物理的な原因ではありませんよ。物理的には(客観的には)収縮など起きていないので。

なぜなら、私の意識そのものが外界の状況の可能性それぞれに合わせて分岐しているだけだからです。

客観的には分岐(諸世界の複数の部分集合への分離)があるだけで、収縮は一切起きていません。

それが多世界解釈です。

「意識における収縮」というのはあくまで主観的な出来事、つまり意識の内容に他ならず(しかも収縮そのものを直接知覚することはなく、二重スリット実験の結果から推論する時のような間接的認識だけがなされますね)、客観的には、意識の中であれ外であれ、収縮はありません。波動方程式に従った連続的で線形な決定論的推移があるだけです。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 7日(火)17時46分15秒 返信・引用
> No.2745[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(36)/SumioBaba(馬場純雄)

>> そうじゃない例を、とっくに挙げて見せているじゃないですか。
>>二重スリット干渉縞実験で、1個の素粒子がどちらの穴を通ったか
>>観測せず、LとRがそのままスクリーンに到達した場合です。LかR
>>かというミクロな差異を持った1個の素粒子が、マクロな物体である
>>スクリーンにぶつかりました。しかし、スクリーン上の点S1、S2、S3、
>>・・・のどの位置に到達しても、LとRが混ざり合ってしまい、どちら
>>だったのか判らなくなって干渉を起こします。
>> ミクロな差異がマクロな差異に拡大しただけでは、干渉は無くなり
>>ません。マクロな状態γを見て「これならLだ」「これならRだ」と知り
>>得た人にとってだけ、波動関数が収縮するのです。しかも一般に、
>>他の物体のγという状態を見ても、「γならL」なのか「γならR」な
>>のかという「メタ情報」を持っていなければ、LかRかは判りません。

> ちょっとまずいですね……。
> 時間も限られた中で議論しているわけですから、私の前回の
>文章をよく読んでレスをつけていただけるとさいわいです。
> 「素粒子が他の素粒子と相互作用しない間は、どんなルートを
>通っても、「もとに戻る」ことが可能」と私が書いていることをご確
>認下さい。こんな基本的な事については私たちはとっくに同意し
>てきたはずです。


その点はOKですよ。

> 「1個の素粒子がどちらの穴を通ったか観測せず、LとRがその
>ままスクリーンに到達した場合」とは、私が前回言った「素粒子が
>他の素粒子と相互作用しない間」に分岐が起こっており、それが
>他の物体と相互作用しなかったので、波動方程式の推移によって、
>互いに区別できない同一状態に収束した例です。それは頻繁に
>起きています。


それは違うと思います。

1個の素粒子が、左の穴を通った|L>と右の穴を通った|R>に分岐
し、両者がスクリーン上の同一の点S1に到達した時、同一状態に
収束していませんよ。どちらの穴を通ったかで僅かに傾きが異なり、
|L>の場合の運動量Plと、|R>の場合の運動量Prとは異なりますから
(Pl≠Pr)。もし、点S1の位置でPlとPrのどちらかなのを識別していた
ら、|L>か|R>かが判明したはずです。その場合には、スクリーンは
観測装置となり、|L>か|R>かを観測したので干渉は無くなります。

実際にはPlかPrかを識別しないまま、スクリーン上の点S1に到達
しました。Plだった場合のスクリーンを|SL>、Prだった場合のスクリー
ンを|SR>とすると、もちろん|SL>≠|SR>です。|L>と|R>とのミクロな差
異Pl≠Prを、|SL>≠|SR>というマクロな物体の差異に拡張させたにも
拘わらず、|L>と|R>は干渉します。なぜなら、スクリーン上の点S1に
素粒子が到達した状態|S1>が与えられても、それが|SL>で|L>だった
のか、それとも、それが|SR>で|R>だったのか、知りようが無いから
です。


                まとめ


  |L>と|R>とのミクロな差異Pl≠Prを、|SL>≠|SR>という


  マクロな物体の差異に拡張させても、それだけでは、


  収縮は起こらず、|L>と|R>は重ね合わせのまま。


  実際に観測した状態|S1>が、|SL>なのか、それとも


  |SR>なのか、を知り得て初めて、|L>または|R>の一方


  だけに収縮する。


「マクロな物体は量子干渉を起こしにくい」とよく言われますが、正
しくは「マクロな物体の物理状態を観測して大量の情報を得てしまう
と、量子干渉を起こす確率は無限小に小さくなる」と言うべきです。
マクロな物体でも、あらゆる状態の重ね合わせのままに保ち、どんな
状態なのかを観測せず、情報を得ていなければ、ミクロな素粒子と
同じくらい簡単に、量子干渉を起こすはずです。

マクロ量子干渉の具体例として、ボース・アインシュタイン凝縮した
状態が有名です。超低温にするなどして素粒子の自由度を小さく
し、N=10^6個くらいの素粒子を同一の波動関数で表される状態に
すると、1個の素粒子と同じくらい簡単に量子干渉を起こします。この
場合、素粒子N=10^6個ものマクロな物体でありながら、状態の自由
度を1個の素粒子と同じにし、大量の情報を持てなくした訳です。

1個の素粒子だけだなく、1個の原子でも、1個のサッカーボール状
分子フラーレンC60でも、二重スリットの干渉縞が生じる実験に成功
しているようです。C60が現在どういう向きにあるかを観測してしまう
と、異なる2つの向きが今後全く同じになる可能性は小さく、量子干
渉を起こしにくくなります。そこで逆に、C60が現在どんな向きにある
のかを観測せず、あらゆる向きの重ね合わせにしてしまうと、1個の
素粒子と同じくらい簡単に量子干渉を起こすはずです。

シュレディンガーの猫でも同様です。友人は猫を観察しました。100
ビットの情報を得たとすると、友人と猫は、2^100種類の異なる状態
に分岐します。猫が生きていた状態が2^99種類とし、その中の1つを
α1、猫が死んでいた状態も2^99種類とし、その中の1つをβ1としま
す。α1とβ1だけを比較すれば、すでに100ビットもの情報を持つマ
クロな差異が発生(α1≠β1)しているので、今後偶然α1=β1になる
確率は極めて小です。

しかし、猫を観測していない私はどうでしょう? 私にとって猫はまだ
2^100種類の重ね合わせのままです。α1+β1という2つだけの重ね
合わせではないことに注意して下さい。猫が生きている状態をα群
とすれば、これは2^99種類の重ね合わせです。猫が死んでいる状態
をβ群とすれば、これも2^99種類の重ね合わせです。そして私は、
これらすべての重ね合わせの中にいます。α群の2^99種類を重ね
合わせ、β群の2^99種類も重ね合わせると、α群は「生きている状
態」、β群は「死んでいる状態」というたった1ビットの情報だけが残
り、それ以外の具体的な猫の状態に関する情報は完全に消滅して
しまいます。それゆえ、α群とβ群とは、1個の素粒子のLとRが干渉
するのと同じくらい、簡単に干渉すると思われます。

> 決して同一状態にならないと私が言ったのは、観測しない場合
>ではなく、Lと観測された場合と、Rと観測された場合ですよ。
> 私が述べた「素粒子どうしが相互作用したとき――とくに多くの
>素粒子が相互作用したまま結合しているマクロな物体にぶつかっ
>たりしたときは、素粒子どうしの相互作用が非対称的な結果を生
>んで統計的な結果へと一気に偏ります」という例は、観測を行なっ
>て(素粒子をスリットのところで多数素粒子系と相互作用させて)、
>LかRかの結果を出してしまった場合です。
> この時点で、LとRの重ね合わせは消え、2種類の世界が分離し
>ます。「私」はどちらか一方だけにカテゴライズされます。
> この場合は、互いに干渉できず、もう同一状態には戻らず、統計
>力学的に言って離れてゆく一方です。←これはほとんどすべての
>物理学者が認めていることですから、これに異を唱えるのは大仕
>事になるでしょう。


LかRかを観測した場合はそうでしょうね。

>>     1個の素粒子がLなら猫は生き続け、Rなら死ぬような
>>     装置を作る。「素粒子→猫→私の目→私の視神経→
>>     私の脳」、まで相互作用が連鎖しても、最初の「素粒
>>     子」がLとRの1/2ずつの重ね合わせであれば、どこま
>>     でも重ね合わせが伝染し、「私の脳」まで来ても、「生
>>     きた猫を見ている私の脳状態」と「死んだ猫を見てい
>>     る私の脳状態」とが、1/2ずつの重みで重ね合わせら
>>     れているはず。
>>     現実には、私の心は、「生きた猫」または「死んだ猫」
>>     のどちらか一方を知覚する。この「波動関数の収縮」
>>     は、物質や光どうしの相互作用では起こり得ないため、
>>     「私の脳→私の心」の部分で、私の心(抽象自我)が
>>     起こしているとしか考えられない。
>> 三浦さんは、これに賛成しているのですか? それとも反対して
>>いるのですか?

> 「抽象自我」が物理的に収縮を生じさせる、という点は、反対で
>す。
> 「抽象自我」が存在範囲(多世界の集合の中での)を縮めてゆく
>中で自ずと収縮を感じるのであり、それ以外の物理系において収縮
>は起きていない、という解釈なら、賛成です。
> つまり、多世界解釈の描像で考えないと、ノイマン説は単なる
>オカルト観念論でしょう。
> 多世界解釈によれば、多世界にまたがって存在している「抽象
>自我」が、環境の認識につれて論理的にどんどん存在範囲を縮
>小していって、知覚対象に不連続な変化が生じた瞬間に、「収縮」
>が観測されるということです。
> つまり、「収縮」は見かけの現象です。


では、「抽象自我(心)」を持たない「哲学的ゾンビ」だったら、見かけ
の「収縮」は何も無い、ということですか?

もしYESであれば、見かけの「収縮」の原因は「抽象自我(心)」だと
いうことですね。

もしNOであれば、「素粒子→猫→私の目→私の視神経→私の脳」
のどこで見かけの「収縮」が起きるのかを説明して下さい。

以上


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 7日(火)17時13分39秒 返信・引用
> No.2745[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  「議論」するのは無駄と言ったのであって、定説(多世界解釈を採るモチーフからしてそれしかないという定番の解釈)を確認し合うというのは大いに意味があると思いますよ。
>  そして、その解釈が正しいかどうかは、私たちが議論しても仕方がなく、巷の信頼できる本(なるべく原典)をあたって同意を再形成すべきだ、ということにすぎません。
>  いつでも戻ってきてください。

その見解に全面的に同意します。

定説を確認し合うのあれば、馬場さんとφ様がやってくれれば良いと思っているだけです。

>  実は、私は「多世界解釈は観念論を含意する」という点では馬場さんにまったく同意であり、
>  しかし多世界解釈の強固な実在論を馬場さんがどうも支持していないようなので(多世界の測度で定義できる客観確率を認めないということですし)、そもそも多世界解釈が導入されたモチーフを否定している以上、多世界解釈と無関係の頭ごなしの観念論になりかねず、論証が成立していないのでは、と心配なだけです。
>
>  ここまで言う私がなぜ「観念論」を支持できるかについては、ここではまだちゃんと御説明していないので、
>  それを詳しく説明すれば、まだらさんにも実感をもって納得していただけるかもしれませんね。

そうですね。そうかもしれません。
それも馬場さんとφ様のやりとりの中で示されることになるのでしょうからちゃんと読ませて頂きますよ。

議論に対する関心を失ったというわけではありませんので気にしないで下さい。



Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 7日(火)04時18分34秒 返信・引用
> No.2744[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> φ様と私の違いは多世界解釈を正しく解釈しているかどうかであるという点では同意します。多世界解釈について議論するのは時間の無駄という点でも同意します。
>


「議論」するのは無駄と言ったのであって、定説(多世界解釈を採るモチーフからしてそれしかないという定番の解釈)を確認し合うというのは大いに意味があると思いますよ。

そして、その解釈が正しいかどうかは、私たちが議論しても仕方がなく、巷の信頼できる本(なるべく原典)をあたって同意を再形成すべきだ、ということにすぎません。

いつでも戻ってきてください。

>
> 私にはφ様が誤解している(馬場さんの理解が正しい)としか思えないし、φ様の説明で私が理解するということも現状ではなさそうだからです。
>


実は、私は「多世界解釈は観念論を含意する」という点では馬場さんにまったく同意であり、

しかし多世界解釈の強固な実在論を馬場さんがどうも支持していないようなので(多世界の測度で定義できる客観確率を認めないということですし)、そもそも多世界解釈が導入されたモチーフを否定している以上、多世界解釈と無関係の頭ごなしの観念論になりかねず、論証が成立していないのでは、と心配なだけです。


ここまで言う私がなぜ「観念論」を支持できるかについては、ここではまだちゃんと御説明していないので、

それを詳しく説明すれば、まだらさんにも実感をもって納得していただけるかもしれませんね。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 7日(火)02時02分31秒 返信・引用
> No.2740[元記事へ]

φさんへのお返事です。

φ様と私の違いは多世界解釈を正しく解釈しているかどうかであるという点では同意します。多世界解釈について議論するのは時間の無駄という点でも同意します。

私にはφ様が誤解している(馬場さんの理解が正しい)としか思えないし、φ様の説明で私が理解するということも現状ではなさそうだからです。

既存の枠組みで結論が出るところまで話が煮詰まったわけですから、議論自体は成功したと考えていいのではないかと思います。

また意見を言うかもしれませんが、とりあえず引っ込ませて頂きますね。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 7日(火)00時19分4秒 返信・引用
> No.2741[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>  そうじゃない例を、とっくに挙げて見せているじゃないですか。二重
> スリット干渉縞実験で、1個の素粒子がどちらの穴を通ったか観測
> せず、LとRがそのままスクリーンに到達した場合です。LかRかという
> ミクロな差異を持った1個の素粒子が、マクロな物体であるスクリーン
> にぶつかりました。しかし、スクリーン上の点S1、S2、S3、・・・のどの
> 位置に到達しても、LとRが混ざり合ってしまい、どちらだったのか判
> らなくなって干渉を起こします。
>  ミクロな差異がマクロな差異に拡大しただけでは、干渉は無くなり
> ません。マクロな状態γを見て「これならLだ」「これならRだ」と知り
> 得た人にとってだけ、波動関数が収縮するのです。しかも一般に、
> 他の物体のγという状態を見ても、「γならL」なのか「γならR」なの
> かという「メタ情報」を持っていなければ、LかRかは判りません。


ちょっとまずいですね……。

時間も限られた中で議論しているわけですから、私の前回の文章をよく読んでレスをつけていただけるとさいわいです。

「素粒子が他の素粒子と相互作用しない間は、どんなルートを通っても、「もとに戻る」ことが可能」と私が書いていることをご確認下さい。こんな基本的な事については私たちはとっくに同意してきたはずです。

「1個の素粒子がどちらの穴を通ったか観測せず、LとRがそのままスクリーンに到達した場合」とは、私が前回言った「素粒子が他の素粒子と相互作用しない間」に分岐が起こっており、それが他の物体と相互作用しなかったので、波動方程式の推移によって、互いに区別できない同一状態に収束した例です。それは頻繁に起きています。

決して同一状態にならないと私が言ったのは、観測しない場合ではなく、Lと観測された場合と、Rと観測された場合ですよ。

私が述べた「素粒子どうしが相互作用したとき――とくに多くの素粒子が相互作用したまま結合しているマクロな物体にぶつかったりしたときは、素粒子どうしの相互作用が非対称的な結果を生んで統計的な結果へと一気に偏ります」という例は、観測を行なって(素粒子をスリットのところで多数素粒子系と相互作用させて)、LかRかの結果を出してしまった場合です。

この時点で、LとRの重ね合わせは消え、2種類の世界が分離します。「私」はどちらか一方だけにカテゴライズされます。

この場合は、互いに干渉できず、もう同一状態には戻らず、統計力学的に言って離れてゆく一方です。←これはほとんどすべての物理学者が認めていることですから、これに異を唱えるのは大仕事になるでしょう。


馬場さんが「LとRが混ざり合ってしまい、どちらだったのか判らなくなって干渉を起こします。」と書いているのも気になりますね……。かなり不安になってきました。

判らないもなにも、多世界解釈では、両方が現実に起こっているんですよ。多世界解釈の話をしているんでしょう? 多世界解釈では、ミクロなレベルで両方の世界がダブっており、それが、スクリーンに出た結果で再びひとつに合致するのです。むろん、ミクロ・マクロの断層などありませんから、マクロなレベルでもそれに応じて全く同じ重ね合わせが起きています。世界は常に無数に存在し続け、原理的に識別できない場合に「同じ世界」と呼んで、常に多数の世界をひっくるめて考えざるをえなくなっているだけのことです。

「どちらだったのか判らなくなって干渉を起こします。」ではなく、「両方の場合が一定時間後に互いに識別不能状態になって干渉を起こす」のです。

↑このことは、いくらなんでも単なる基本ですから、このレベルで「議論」するのはやめにしましょう。私たちはもっと進んだ議論をしていたはずです。

申し訳ありませんが、基本を詳しく確認したければ、私との会話ではなく、どうか多世界解釈の学術論文を読んでください。啓蒙書もよいのが出ているでしょうが、とくに、ヒュー・エベレットの原典がお薦めです(短い方のバージョンで十分です)。


今さら重ね合わせの定義などではなく、量子観念論仮説の話をしましょう。

>
>
>     1個の素粒子がLなら猫は生き続け、Rなら死ぬような
>     装置を作る。「素粒子→猫→私の目→私の視神経→
>     私の脳」、まで相互作用が連鎖しても、最初の「素粒
>     子」がLとRの1/2ずつの重ね合わせであれば、どこま
>     でも重ね合わせが伝染し、「私の脳」まで来ても、「生
>     きた猫を見ている私の脳状態」と「死んだ猫を見てい
>     る私の脳状態」とが、1/2ずつの重みで重ね合わせら
>     れているはず。
>     現実には、私の心は、「生きた猫」または「死んだ猫」
>     のどちらか一方を知覚する。この「波動関数の収縮」
>     は、物質や光どうしの相互作用では起こり得ないため、
>     「私の脳→私の心」の部分で、私の心(抽象自我)が
>     起こしているとしか考えられない。
> 三浦さんは、これに賛成しているのですか? それとも反対している
> のですか?
>


「抽象自我」が物理的に収縮を生じさせる、という点は、反対です。

「抽象自我」が存在範囲(多世界の集合の中での)を縮めてゆく中で自ずと収縮を感じるのであり、それ以外の物理系において収縮は起きていない、という解釈なら、賛成です。

つまり、多世界解釈の描像で考えないと、ノイマン説は単なるオカルト観念論でしょう。

多世界解釈によれば、多世界にまたがって存在している「抽象自我」が、環境の認識につれて論理的にどんどん存在範囲を縮小していって、知覚対象に不連続な変化が生じた瞬間に、「収縮」が観測されるということです。

つまり、「収縮」は見かけの現象です。


フォン・ノイマンは、多世界解釈を知りませんでしたから、「抽象自我」を物理的項のように考えていますが、それではまだ不完全なのです。収縮とは、単に世界の部分集合の縮小の過程で起こる見かけの出来事に過ぎません。


「収縮」が起こる時点をギリギリまで消去しようとした点で「ノイマン・ウィグナー理論」はコペンハーゲン解釈よりはるかに進んでいたが、多世界解釈に比べるとまだまだだった、ということについては、『論理パラドクシカ』問025「ウィグナーの友人」に簡単に述べましたからご参照いただければ幸いです。

そこに参考文献として挙げたウィグナーの論文は、多世界解釈登場以後であるにもかかわらず、エベレットに比べて一歩後退している印象を私は持ちました。


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 6日(月)18時23分55秒 返信・引用
> No.2740[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(35)/SumioBaba(馬場純雄)

> 素粒子どうしが相互作用したとき――とくに多くの素粒子が相互
>作用したまま結合しているマクロな物体にぶつかったりしたときは、
>素粒子どうしの相互作用が非対称的な結果を生んで統計的な
>結果へと一気に偏りますから、もうもとには戻れません。分岐した
>世界どうしは永久に姿が異なることになり、互いに干渉できなくなり
>ます。(前々から馬場さんに私が言い続けているのはこのことです)


そうじゃない例を、とっくに挙げて見せているじゃないですか。二重
スリット干渉縞実験で、1個の素粒子がどちらの穴を通ったか観測
せず、LとRがそのままスクリーンに到達した場合です。LかRかという
ミクロな差異を持った1個の素粒子が、マクロな物体であるスクリーン
にぶつかりました。しかし、スクリーン上の点S1、S2、S3、・・・のどの
位置に到達しても、LとRが混ざり合ってしまい、どちらだったのか判
らなくなって干渉を起こします。

ミクロな差異がマクロな差異に拡大しただけでは、干渉は無くなり
ません。マクロな状態γを見て「これならLだ」「これならRだ」と知り
得た人にとってだけ、波動関数が収縮するのです。しかも一般に、
他の物体のγという状態を見ても、「γならL」なのか「γならR」なの
かという「メタ情報」を持っていなければ、LかRかは判りません。

> 以上のように、マクロレベルで干渉が生ずることは確率的には
>可能でしょうが、ひとりの意識の中で重ね合わせが経験される
>ことは物理的に不可能でしょう。知的生命には最低限の物理的
>条件というものがあり、2つの経験を不完全な幻覚ではなく正真
>正銘の記憶として重ね合わせで保つ、という素粒子の配置が脳
>で起きたら、生命が維持できないのではないでしょうか。これは
>馬場さんの【新新・質問】へのお答えにもなっていると思います。


どう答になっているのか、解りません。V・ノイマンの「抽象自我」の
論法です。


  1個の素粒子がLなら猫は生き続け、Rなら死ぬような


  装置を作る。「素粒子→猫→私の目→私の視神経→


  私の脳」、まで相互作用が連鎖しても、最初の「素粒


  子」がLとRの1/2ずつの重ね合わせであれば、どこま


  でも重ね合わせが伝染し、「私の脳」まで来ても、「生


  きた猫を見ている私の脳状態」と「死んだ猫を見てい


  る私の脳状態」とが、1/2ずつの重みで重ね合わせら


  れているはず。


  現実には、私の心は、「生きた猫」または「死んだ猫」


  のどちらか一方を知覚する。この「波動関数の収縮」


  は、物質や光どうしの相互作用では起こり得ないため、


  「私の脳→私の心」の部分で、私の心(抽象自我)が


  起こしているとしか考えられない。
三浦さんは、これに賛成しているのですか? それとも反対している
のですか?

以上


Re: マクロレベルへの理論拡張
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 6日(月)02時13分16秒 返信・引用
> No.2738[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。


↓のような問いは、多世界解釈の論文を見れば書いてありますから、ここで「議論」してもあまり有意義ではないのでは? 和田純夫さんあたりに訊きに行った方が間違いがないかと思いますが、とりあえず、私の理解を述べておきましょう。

>
> ミクロレベルではLの因果律とRの因果律は両立していますよね。「LかRのどちらかになる」という原則は成り立っていないはずなんですが。「LとRが干渉してXになる」ということが起きています。
>


↑「ミクロレベルではLの因果律とRの因果律は両立している」というのは正しくありませんよ。

Lに至る素粒子のルートと、Rに至る素粒子のルートは、別々の世界に属しています。

つまり、私たちはその両方の世界群に属しています。

観測しないかぎり、区別しようがないまま同じ状態に戻るので、マクロなレベルでは世界の重ね合わせのまま支障ないというわけです。

> 「『私』は客観的世界の産物である」ということが、「LかRのどちらかになる」という意味ではないとしたらニ重スリット実験における干渉縞のような現象がマクロレベルで起きた場合、LとRが干渉してXになるということを否定する根拠がなくなるはずです。
>
> だとすると、マクロレベルでLとRが干渉してXにならない理由は何でしょうか。
>
> というよりも、マクロレベルでLとRが干渉してXになるような「私」も認めないといけなくなるのではありませんか?
>

ミクロなレベルでの分岐・収斂の繰り返しが起こるのは、素粒子が他の素粒子と相互作用しない間は、どんなルートを通っても、「もとに戻る」ことが可能なためです。

素粒子が相互作用しない間のミクロな分岐は、そのままマクロな分岐にも対応ており、ミクロの部分だけが異なる膨大なマクロ世界(互いにそっくり)が重なり合っています。ミクロな分岐は、多数の分岐が全く同じマクロ状態に戻ることを繰り返していますから、マクロな私たちは分岐していることに気づきません。しかし実は私たちは、ミクロな違いを持つ膨大な世界に同時に存在しているのです。


素粒子どうしが相互作用したとき――とくに多くの素粒子が相互作用したまま結合しているマクロな物体にぶつかったりしたときは、素粒子どうしの相互作用が非対称的な結果を生んで統計的な結果へと一気に偏りますから、もうもとには戻れません。分岐した世界どうしは永久に姿が異なることになり、互いに干渉できなくなります。(前々から馬場さんに私が言い続けているのはこのことです)

むろん、これは統計的な問題ですから、確率が極小とはいえ、マクロレベルでの分岐のあとまた同じ状態に戻ることも論理的に不可能ではありません。しかし、膨大な素粒子の動きが、いったん別々の相互作用をしたあとで全く同じ状態に戻る確率は小さすぎて問題になりません。まわりのすべての素粒子に影響が波及しますしね。だからマクロレベルでLかRというマクロな結果が出てしまえば、もう互いに一致することはなく、これは光速で四方八方に伝達される相互作用によって環境全体の違いとして刻み込まれます。

かりに一致したとしたら、同時に観測していた二人のうち「私」は「Lだった」と主張し、友人は「Rだった」と主張し、対立したままという状況になるのではないでしょうか。「私」が見せる証拠は私にはLの痕跡と見え、友人にはRの痕跡と見え、……ということが続くというような。(←このパッチワーク的収斂はいい加減な想像です。実際にマクロな収斂が起こるとしたら、分岐する前の状態に戻り、各人の記憶はもとに戻ってしまって、分岐したことに気づかないでしょう。それ以外の形で、いったんマクロに分岐した世界が波動方程式に従った推移の結果全く一致した状態に収斂した場合、物体の配置や各人物の記憶などがどうなっているか、適当に思い描いてください)

ともあれ、統計的に起こりそうにないことが長時間続くように世界全体の素粒子が配置し続けることは不可能なので、関わる素粒子数の多いマクロレベルの現象では、統計力学の論理に従った確率の高い組み合わせが実現し続けるのでしょう。


以上のように、マクロレベルで干渉が生ずることは確率的には可能でしょうが、ひとりの意識の中で重ね合わせが経験されることは物理的に不可能でしょう。知的生命には最低限の物理的条件というものがあり、2つの経験を不完全な幻覚ではなく正真正銘の記憶として重ね合わせで保つ、という素粒子の配置が脳で起きたら、生命が維持できないのではないでしょうか。これは馬場さんの【新新・質問】へのお答えにもなっていると思います。


ともあれ、素粒子数の多さからくる統計的傾向がミクロとマクロの違いを分けています。はっきりした境目があるわけではありませんが、私たちにとっては違いがあるとしか言いようがないわけです。

なお、「なぜ多数の相対状態に分かれたことを人は認識しないのか」は、ヒュー・エベレットの原論文にすでに詳しく書いてある定番の問題です。詳しく知りたければ、一読するとよいでしょう。


根本的な疑問?
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 6日(月)00時48分18秒 返信・引用
> No.2738[元記事へ]

そもそも、ミクロレベルで実在論の公理が成り立っているということは、{Wi}={Mi}を主張しているということになるのでは?

何か勘違いしていることがあったら教えて下さい。


マクロレベルへの理論拡張
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 5日(日)22時11分11秒 返信・引用
> No.2736[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>「知的生命全体の意識の成立条件」=「私の意識の成立条件」=「我々が観測する世界の状態」
>これは認めます

これだと「私」の観察した結果は「友人」の意識にも影響を与えるということになりますよね。それどころか、「私」の観察した結果は知的生命全体に影響を与えることになります。

[量子観念論仮説]の記号を便宜的に拡張してみます。

{WR}を我々が観察する世界の状態
{WZ}を知的生命全体の意識の成立条件

{W1}={WR1}={WZ1}

{W2}={WR2}={WZ2}

ということになるはずです。


> ミクロレベルでも実在論の公理は成り立っています。
> 粒子の位置は、当該時刻における波動方程式の絶対値の二乗に等しい、という形で、実在全体の姿は「私」の意識とは独立に決定しています。
> したがって、LとかRとかいうある事象が与えられれば、その系がどのように発展するかという諸世界の相対的比率(測度)は決まっており、「私」の居場所がどの諸世界へ縮小してゆくかということも、確率1/2のような特殊な場合(設定Fがなされたような場合)を除き、客観的に決まっています。


ミクロレベルではLの因果律とRの因果律は両立していますよね。「LかRのどちらかになる」という原則は成り立っていないはずなんですが。「LとRが干渉してXになる」ということが起きています。

「『私』は客観的世界の産物である」ということが、「LかRのどちらかになる」という意味ではないとしたらニ重スリット実験における干渉縞のような現象がマクロレベルで起きた場合、LとRが干渉してXになるということを否定する根拠がなくなるはずです。

だとすると、マクロレベルでLとRが干渉してXにならない理由は何でしょうか。

というよりも、マクロレベルでLとRが干渉してXになるような「私」も認めないといけなくなるのではありませんか?


一応ここまでを確認させて下さい。



Re: 実在論の公理の適用範囲
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 5日(日)16時00分14秒 返信・引用
> No.2736[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(34)/SumioBaba(馬場純雄)

> あるいは、意識というものを因果的統一体として考える必要は
>ないのに、どうして{W1}にいる私と{W2}にいる私とが同一人物とし
>て成立できないのか、という意味でしょうか。
> これはつまらない質問です。なぜなら、{W1}にいる私と{W2}にい
>る私とを同一人物と考えたいなら、考えればよいだけだからです。
>たまたま私たちは、{W1}にいる意識と{W2}にいる意識とを分離して、
>それぞれ一方だけを「人間」「意識」「自我」と名づけているという
>だけです。これは「私」の定義であって、「なぜそうか」という質問の
>対象にはなりません。なぜすべての指が親指でないのか、という
>のが馬鹿げているのと同じです。あの指だけが親指なのは、単に
>親指の定義なのです。


次のテーマに突入しそうですね。三浦さんは、次の2つを区別して
ますか?


     (1) n個の心M1-Mnの独立した和


  M1-Mnのどれか1つの視点には立てても、2つ以上の


  視点に同時には立てない状態
例えば、地球上に存在する数十億人の心をM1-Mn(nは数十億)とし
た場合がそうです。


     (2) n個の心M1-Mnが融合した「1つの心」M


  Mの視点に立つことで、M1-Mnの視点に同時に立てる


  状態
例えば、私が映画を見ているときの心Mは、映像を見ている心M1、
音声を聞いている心M2、ストーリーを楽しんでいる心M3、・・・などの
部分によって構成されていますが、私は自分の心を、M1、M2、M3、
・・・の中のどれか1つだとは感じておらず、M1、M2、M3、・・・のどれ
でもある、と実感しています。M1、M2、M3、・・・が融合して「1つの
心」Mになっているからです。

M1-Mnが「独立」しているか「融合」しているかは、0か?1か?、では
なく、融合率k(0≦|k|≦1)で表されるべきものです。M1とM2の融合率
は、内積k12=<M1|M2>やk21=<M2|M1>で定義できます。k12とk21は
「M1の視点に立つ時、同時にM2の視点に立っている確率の平方根」
または「M2の視点に立つ時、同時にM1の視点に立っている確率の
平方根」を与えるものです。<M1|M2>=0ならM1とM2は独立しており、
<M1|M2>≠0ならM1とM2は融合している、と判断できます。


この区別をすれば、先程の質問はこう表現できます。


              【新新・質問】


  例えばシュレディンガーの猫の箱を開け、猫が生きて


  いた世界の集合を{W1}、猫が死んでいた世界の集合を


  {W2}、両者の重ね合わせを{W}={W1}+{W2}とするとき、


  なぜ私は、{W1}だけを知覚する心M1、または{W2}だけ


  を知覚する心M2、のどちらか一方の視点に立ってしま


  い、M1とM2は独立してしまうのだろう?


  M1とM2が融合した心Mの視点に立ち、{W}={W1}+{W2}


  全体を知覚することはなぜできないのだろう?
三浦さんは、「M1とM2が独立した状態」と「M1とM2が融合してMに
なっている状態」の区別、してますか?

以上


Re: 実在論の公理の適用範囲
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 5日(日)14時40分35秒 返信・引用
> No.2734[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

「知的生命全体の意識の成立条件」=「私の意識の成立条件」=「我々が観測する世界の状態」
これは認めます。


ところで、

> 実在論の公理というのは「絶対位置・絶対速度」を認めるということなのですから、ミクロレベルでは破綻しているのです。
>
> [量子観念論仮説]と実在論の公理は両立し得ないということです。
>


↑あ、これはちょっと困りましたね。

私の考えでは、[量子観念論仮説]と実在論の公理は両立するので。


ミクロレベルでも実在論の公理は成り立っています。

粒子の位置は、当該時刻における波動方程式の絶対値の二乗に等しい、という形で、実在全体の姿は「私」の意識とは独立に決定しています。

したがって、LとかRとかいうある事象が与えられれば、その系がどのように発展するかという諸世界の相対的比率(測度)は決まっており、「私」の居場所がどの諸世界へ縮小してゆくかということも、確率1/2のような特殊な場合(設定Fがなされたような場合)を除き、客観的に決まっています。


客観世界の産物であるということの意味
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 5日(日)08時31分35秒 返信・引用
> No.2733[元記事へ]

φさんへのお返事です。

「知的生命全体の意識の成立条件」=「私の意識の成立条件」=「我々が観測する世界の状態」

話が錯綜していますが、これを認めるのか否か確認させて下さい。




実在論の公理の適用範囲
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 5日(日)08時27分57秒 返信・引用
SumioBabaさんへのお返事です。

> まだらさんへのお返事です。
>
> まだら様(2)/SumioBaba(馬場純雄)
>
> >>                  【質問】
> >>    なぜ私は、多世界解釈における「実在全体」の集合{W}
> >>    を知覚せず、その部分集合である{W1}だけを知覚する
> >>    のか? 何が{W}から{W1}を選び出すのか?
> >実在論の公理では、「「私」こそが客観的世界の産物である」と
> >言っているわけで、むしろ{W1}が「私」を選んでいるといっている
> >のです。
>
> >馬場様の立場はわかりますが、実在論の公理を認めるのであれ
> >ば、何が{W}から{W1}を選び出すのかは明らかです。
>
> >「私」が{W1}だけを知覚することには謎はないと私は思いますけ
> >どね。
>
>  質問の意味が正しく伝わっていないようですので、書き換えます。
>                  【新・質問】
>     例えばシュレディンガーの猫の箱を開け、猫が生きて
>     いた世界の集合を{W1}、猫が死んでいた世界の集合を
>     {W2}、両者の重ね合わせを{W}={W1}+{W2}とするとき、
>     なぜ私は{W1}または{W2}の一方だけは知覚できても、
>     {W}={W1}+{W2}全体を知覚することはできないのだろう?
>     何が{W}={W1}+{W2}全体の知覚を禁じているのだろう?
>
>  「実在論の公理」=「人間、あるいは「私」とは独立に外界は客観
> 的に存在し、そのあり方も「私」の主観には依存しない。むしろ「私」
> こそが客観的世界の産物である」を認めた上で、どう答えるのでしょ
> うか?
>
> 以上

話がどんどんおかしくなっていますよ。

実在論の公理というのは、「私」の観察する世界はマクロレベルでは収斂しているという意味なのです。

[私は{W1}または{W2}の一方だけは知覚できても、{W}={W1}+{W2}全体を知覚することはできない]

とそもそも同じ意味です。

マクロレベルでは収斂しているから片方しか知覚できないんですよ。

馬場様は、「実在論の公理は元々マクロレベルでしか成り立っていない」ということを忘れています。[量子観念論仮説]はミクロレベルとマクロレベルの両方が対象ですから、この範囲ではそもそも実在論の公理は成り立っていません。

実在論の公理というのは「絶対位置・絶対速度」を認めるということなのですから、ミクロレベルでは破綻しているのです。

[量子観念論仮説]と実在論の公理は両立し得ないということです。

相対論的スケールで「絶対時間・絶対空間」を認めることができないのと同じことです。




Re: 「私」が{W1}だけを知覚する理由
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 5日(日)03時32分35秒 返信・引用
> No.2732[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

馬場さんが客観確率を認めないとしたら、世界の部分集合どうしの包含関係や測度も認めないことになり、多世界解釈を認めないことになる、という指摘をもうちょっと掘り下げるべきところですが、

今回はとりあえず以下の質問に答えておくことにします。

(率直に言って、あまり興味深い問いとは思えず、何の役に立つのか教えていただきたいですが……、)

>
>                  【新・質問】
>     例えばシュレディンガーの猫の箱を開け、猫が生きて
>     いた世界の集合を{W1}、猫が死んでいた世界の集合を
>     {W2}、両者の重ね合わせを{W}={W1}+{W2}とするとき、
>     なぜ私は{W1}または{W2}の一方だけは知覚できても、
>     {W}={W1}+{W2}全体を知覚することはできないのだろう?
>     何が{W}={W1}+{W2}全体の知覚を禁じているのだろう?
>
>  「実在論の公理」=「人間、あるいは「私」とは独立に外界は客観
> 的に存在し、そのあり方も「私」の主観には依存しない。むしろ「私」
> こそが客観的世界の産物である」を認めた上で、どう答えるのでしょ
> うか?
>


とにかく妙な質問ですね。

{W}={W1}+{W2}全体を知覚することはできない、という前提が間違っています。

{W1}にいる私と{W2}にいる私とのメレオロジー的和(物理的な合計を個体とみなしたもの)は、ちゃんと{W1}+{W2}を知覚していますよ。

{W}={W1}+{W2}全体の知覚を禁じるものは何もありません。少なくとも多世界解釈では、{W1}にいる私と{W2}にいる私とのメレオロジー的和が全体を知覚しています。


いや、そういうのは知覚したことにならない、というならば、どういうのが知覚なんでしょうか?

「因果的に繋がった意識統覚体」が一挙に統一意識の中で知覚しなければならない、という意味でしょうか?

そういう意味での知覚であれば、そんな知覚は出来ないのが当たり前で、{W1}+{W2}という「因果的に繋がった時空間」が存在しないのですから、因果的統一体の知覚対象にはなりえません。

私が生涯で、脚が5本あるナメクジに出会わないであろうのと同じ理由です。脚が5本あるナメクジなどという因果的統一体が存在しないからです。存在しないものは知覚できませんから。

むろん、幻覚でそういうナメクジを見ることはできますよ。同様に、生きておりかつ死んでいる猫も幻覚で見ることができるでしょう。あす、{W1}+{W2}らしき異様な感覚に襲われることもありうるでしょう。しかしそれは別の問題です。


あるいは、意識というものを因果的統一体として考える必要はないのに、どうして{W1}にいる私と{W2}にいる私とが同一人物として成立できないのか、という意味でしょうか。

これはつまらない質問です。なぜなら、{W1}にいる私と{W2}にいる私とを同一人物と考えたいなら、考えればよいだけだからです。たまたま私たちは、{W1}にいる意識と{W2}にいる意識とを分離して、それぞれ一方だけを「人間」「意識」「自我」と名づけているというだけです。これは「私」の定義であって、「なぜそうか」という質問の対象にはなりません。なぜすべての指が親指でないのか、というのが馬鹿げているのと同じです。あの指だけが親指なのは、単に親指の定義なのです。


Re: 「私」が{W1}だけを知覚する理由
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 4日(土)22時54分39秒 返信・引用
> No.2730[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

まだら様(2)/SumioBaba(馬場純雄)

>>                  【質問】
>>    なぜ私は、多世界解釈における「実在全体」の集合{W}
>>    を知覚せず、その部分集合である{W1}だけを知覚する
>>    のか? 何が{W}から{W1}を選び出すのか?
>実在論の公理では、「「私」こそが客観的世界の産物である」と
>言っているわけで、むしろ{W1}が「私」を選んでいるといっている
>のです。

>馬場様の立場はわかりますが、実在論の公理を認めるのであれ
>ば、何が{W}から{W1}を選び出すのかは明らかです。

>「私」が{W1}だけを知覚することには謎はないと私は思いますけ
>どね。


質問の意味が正しく伝わっていないようですので、書き換えます。


               【新・質問】


  例えばシュレディンガーの猫の箱を開け、猫が生きて


  いた世界の集合を{W1}、猫が死んでいた世界の集合を


  {W2}、両者の重ね合わせを{W}={W1}+{W2}とするとき、


  なぜ私は{W1}または{W2}の一方だけは知覚できても、


  {W}={W1}+{W2}全体を知覚することはできないのだろう?


  何が{W}={W1}+{W2}全体の知覚を禁じているのだろう?


「実在論の公理」=「人間、あるいは「私」とは独立に外界は客観
的に存在し、そのあり方も「私」の主観には依存しない。むしろ「私」
こそが客観的世界の産物である」を認めた上で、どう答えるのでしょ
うか?

以上


実在論の公理と実在論的常識の関係
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 4日(土)21時10分21秒 返信・引用
> No.2730[元記事へ]

> 「私」が{W1}だけを知覚することには謎はないと私は思いますけどね。

これはちょっと言葉足らずでした。実在論の公理を認めるのであればという限定付きの表現になります。

>「それがニュートン力学(実在論的常識)だから」では、答になりません
>よ。ニュートン力学に頼らず、量子力学だけで【質問】に答えようとし
>て、みんな悩んでいるのですから。

実在論の公理を認めると、実在論的常識だからという理由を認めたことになってしまうということです。




「私」が{W1}だけを知覚する理由
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 4日(土)21時03分33秒 返信・引用
> No.2729[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>なぜ私は、多世界解釈における「実在全体」の集合{W}
>    を知覚せず、その部分集合である{W1}だけを知覚する
>    のか? 何が{W}から{W1}を選び出すのか?

実在論の公理では、「「私」こそが客観的世界の産物である」と言っているわけで、むしろ{W1}が「私」を選んでいるといっているのです。

馬場様の立場はわかりますが、実在論の公理を認めるのであれば、何が{W}から{W1}を選び出すのかは明らかです。

「私」が{W1}だけを知覚することには謎はないと私は思いますけどね。


Re: 同じ重ね合わせにファインチューニングされた客観世界
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 4日(土)18時46分45秒 返信・引用
> No.2726[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(33)/SumioBaba(馬場純雄)

> まずは次のことを公理とすべきです。
> 「人間、あるいは「私」とは独立に外界は客観的に存在し、その
>あり方も「私」の主観には依存しない。むしろ「私」こそが客観的
>世界の産物である」
> この「実在論の公理」を認めた上でないと、いかなる結論も説得
>力を持ちません。
> とくに、観念論へと結論を持って行く場合、まずは「実在論の
>公理」を前提して、その矛盾を暴くあるいはその限界を指摘する、
>という形で背理法的な論証をしないと、観念論の証明など決して
>出来ません。


仮に「実在論の公理」を認めた場合、三浦さんは、次の質問にどう
答えるのでしょう?


                【質問】


  なぜ私は、多世界解釈における「実在全体」の集合{W}


  を知覚せず、その部分集合である{W1}だけを知覚する


  のか? 何が{W}から{W1}を選び出すのか?
「それがニュートン力学(実在論的常識)だから」では、答になりません
よ。ニュートン力学に頼らず、量子力学だけで【質問】に答えようとし
て、みんな悩んでいるのですから。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 4日(土)17時05分32秒 返信・引用
> No.2723[元記事へ]

三浦俊彦様(32)/SumioBaba(馬場純雄)



                なぜ


          「客観的物質世界の実在」


           という錯覚が生じるか?


[量子観念論仮説]では、「私が住む世界W1において、私の心M1
が情報を持たない領域の物理状態は確定していない」です。にも
拘わらず、なぜか「客観的物質世界の実在」を実感してしまいます。
その理由は、人々がそれぞれ異なる世界に住んでいながら、部分
的に重複しているからです。



                 (1)

私の心M1は、私が住む世界W1の中で、私の部屋の様子をかなり
詳しく知っており、世界W1の中の私の部屋の物理状態は、かなり確
定しています。この私の部屋をR1とします。

友人の心M2は、友人が住む世界W2の中で、私の部屋の様子を
知らないので、世界W2の中の私の部屋の様子は、無数の物理状態
R1、R2、R3、・・・の重ね合わせです。

友人を初めて私の部屋に招待すると、友人は私の部屋を見た時点
で、様々な私の部屋R1、R2、R3、・・・を見ている友人に分岐します。
しかし、私はすでに自分の部屋がR1に確定した世界W1に住んでい
るため、R2、R3、・・・へ分岐していく友人を見ることはできず、100%
の確率で友人がR1だけを見るように実感します。それゆえ、こう錯覚
してしまいます。


                【錯覚1】


  友人が私の部屋を見る前から、友人にとっても私の部屋


  の様子はR1だけに確定していた。友人はそれを、知らず


  にいただけだ。
真実はこうです。


                【真実1】


  友人が私の部屋を見る前、友人にとって私の部屋の様子


  は、R1、R2、R3、・・・の重ね合わせだった。友人が私の


  部屋を見た時に初めて、友人にとって私の部屋はR1に


  確定した。



                 (2)

逆も言えます。友人の心M2は、友人が住む世界W2の中で、友人
の部屋の様子をかなり詳しく知っており、世界W2の中の友人の部屋
の物理状態は、かなり確定しています。

私の心M1は、私が住む世界W1の中で、友人の部屋の様子を知ら
ないので、世界W1の中の友人の部屋の様子は、無数の物理状態
r1、r2、r3、・・・の重ね合わせです。

私が初めて友人の部屋に招待され、私が友人の部屋を見た時点
で初めて、様々な友人の部屋r1、r2、r3、・・・を見ている私に分岐し
ます。ただし、それがr1、r2、r3、・・・どの状態であった場合も、そこ
にいる友人にとってはずっと前から、友人の部屋はその状態に確定
しています。もしr1であれば友人は、「この部屋はずっと前からr1だっ
たよ」「たった今r1に決定した訳が無いじゃないか」と説明し、確かに
その通りだと思われるr1の様子を私も見るので、一瞬前までr2、r3、
・・・の可能性が重ね合わせられていたとは、とても考えられません。
r2、r3、・・・の場合も同様です。それゆえ、本当はたった今r1に確定
したのに、それを実感できず、こう錯覚することになります。


                【錯覚2】


  私が友人の部屋を見る前から、私にとっても友人の部屋


  の様子はr1だけに確定していた。私はそれを、知らずに


  いただけだ。
真実はこうです。


                【真実2】


  私が友人の部屋を見る前、私にとって友人の部屋の様子


  は、r1、r2、r3、・・・の重ね合わせだった。私が友人の


  部屋を見た時に初めて、私にとって友人の部屋はr1に


  確定した。

以上


「私」が客観世界の産物であるということの意味
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 4日(土)02時05分16秒 返信・引用
> No.2726[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> 実在全体についてのことと、ひとつの世界(あるいは特定の部分集合)の内部で何が観察されるかとは別の事柄です。そこに異論が出ようはずはありません。
> とくに、非決定性(とくに波束の収縮)については、量子力学によれば非決定性はひとつの世界(あるいは特定の部分集合)のローカルな視点からの見かけの事柄であって、実在全体としては厳密に決定論的かつ線形です。
> したがって、「実在全体」が文字どおり本当に実在していると考える多世界解釈は、量子力学の最も忠実な解釈であり、世界観です。

ここまでは問題がありません。

>それは、「量子力学が正しいなら、ごく普通の日常的な因果律に沿った流れが知覚されるように収縮していきそうだ」としか言いようがないでしょう。

それはもちろん認めます。問題なのは「何故そうなるか」ということです。


>まだらさんの御指摘どおり、「私」は宇宙のファインチューニングの産物なのですから、
>まずは次のことを公理とすべきです。
>「人間、あるいは「私」とは独立に外界は客観的に存在し、そのあり方も「私」の主観には依存しない。むしろ「私」こそが客観的世界の産物である」

「私」が客観的世界の産物であるというとき、「私」と「友人」の成立条件は同じである必要はないと思いますがどうでしょうか。例えば「私」の肉体の成立条件と「友人」の肉体の成立条件は同じではありません。

「私」の意識の立っている場所と「友人の意識」の立っている場所が異なることはφ様の公理と矛盾しないと思いますが。

>「多世界の部分集合の測度で測れる客観確率など無く、主観確率だけがあり、私が知らないことはすべて等確率の重ね合わせ」

「私の肉体の成立条件以外は確定情報ではない」ということと「私が知らないことは確定情報ではない」ということは同じであるように思えます。確定情報でないのであれば、等確率の重ね合わせでもおかしくないように思うのですが。


「私の意識の成立条件」と「私の肉体の成立条件」は同じ意味であるとして、「私が知らないこと」と「私の意識の成立条件」が違うと考えておられるのでしょうか。

φ様の発言を読むと「知的生命全体の意識の成立条件」=「私の意識の成立条件」=「我々が観測する世界の状態」になっているように見えるのですよね。

「知的生命の意識共通の成立条件」というものがあるとしても、それが「私の意識の成立条件」と同じになる必然性はないのではないかというのが私の持っている疑問です。



Re: 同じ重ね合わせにファインチューニングされた客観世界
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 3日(金)22時33分48秒 返信・引用
> No.2724[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 実在全体についての思考実験を行う場合(多世界解釈を採用した場合)には「不確定性原理の効果が事実上無視できる、決定論的カオス的力学」は使うべきではないのではないか。
>
> 「決定論的カオス的力学」は観察された結果であり、観察で検証し得ない実在全体に思考実験において適用することには問題があるはずです。
>
> 実在全体がどのようになっているかについては観察で検証することはできず、理論的な整合性のみで思考実験するしかないでしょう。
>

↑ここは、まだらさんと私に理解の違いはないように思います。

実在全体についてのことと、ひとつの世界(あるいは特定の部分集合)の内部で何が観察されるかとは別の事柄です。そこに異論が出ようはずはありません。

とくに、非決定性(とくに波束の収縮)については、量子力学によれば非決定性はひとつの世界(あるいは特定の部分集合)のローカルな視点からの見かけの事柄であって、実在全体としては厳密に決定論的かつ線形です。

したがって、「実在全体」が文字どおり本当に実在していると考える多世界解釈は、量子力学の最も忠実な解釈であり、世界観です。

その多世界の中で、「私」がどの部分集合へと縮まっていきそうか、というのは、「私」の視点からは偶然となりますが、もちろんランダムではなく、自ずと「あっちには縮まりそうになく、こっちは大いに可能性がある」という大いなる偏りが認められます。

だからこそまがりなりにも「私」の主観世界で因果律が成り立ってきたわけです。


ここでずっと問題になってきたのは、

まだらさんが関心を寄せる「実在全体がどうなっているか」ではなく、「「私」が実在全体のどこに収縮していきそうか」ということでした。それは、「量子力学が正しいなら、ごく普通の日常的な因果律に沿った流れが知覚されるように収縮していきそうだ」としか言いようがないでしょう。

大部分の事柄については意図的に選べないので、あえて測度の小さな部分集合に分け入るのではなく、メジャーな部分集合へと「私」は入ってきたし、これからもそうなるだろうからです。

>
> φ 様は、同じ客観的世界(私と友人の住む実在論的客観世界であり、多世界のひとつ)というものを想定しているのではないでしょうか。(多世界のひとつという言い方が問題であれば多世界の一部でも良いです)
>
> これはおそらく、知的生命による宇宙のファインチューニングという考え方から来ているのではないかと推測しています。
> つまり知的生命が絶滅してもファインチューニングが継続するのであれば、客観的世界として物理的な力だけで成り立っていることになります。
>
> φ 様が私と友人は同じ重ね合わせの(ファインチューニングされた)客観的世界に存在すると考え、馬場さんの「私と友人はそれぞれ別の重ね合わせの世界に住んでいる」という考えを否定するのは無理もないとは思います。
>


「人間のような知的生命が観測しなくても、宇宙は、そして実在全体は存在した」というのが科学的世界観の大原則です。

この原則をはじめから否定するようでは、話が始まりません。

まだらさんの御指摘どおり、「私」は宇宙のファインチューニングの産物なのですから、

まずは次のことを公理とすべきです。

「人間、あるいは「私」とは独立に外界は客観的に存在し、そのあり方も「私」の主観には依存しない。むしろ「私」こそが客観的世界の産物である」

この「実在論の公理」を認めた上でないと、いかなる結論も説得力を持ちません。

とくに、観念論へと結論を持って行く場合、まずは「実在論の公理」を前提して、その矛盾を暴くあるいはその限界を指摘する、という形で背理法的な論証をしないと、観念論の証明など決して出来ません。


とくに、多世界解釈は、「無数の世界の物理的実在」という目に見えないものを認定する強固な実在論です。

「私」の主観の範囲では知覚できない「他の無数の諸世界」を認定するという実在論を採っておきながら、「多世界の部分集合の測度で測れる客観確率など無く、主観確率だけがあり、私が知らないことはすべて等確率の重ね合わせ」というのは、率直に言って支離滅裂でしょう。

量子観念論仮説の結論が間違っているとは断定できませんが、いきなり飛ぶのではなく、できるかぎり「実在論の公理」に沿った形で論証を進め、「いかなる意味で「私」は観念論的世界に住むと言えるのか」を明らかにすべきでしょう。


ちなみに、「主観確率」の立場あるいはベイズ主義は、ラプラスのように確率を「無知の度合」と解釈する立場ですから、自分が知らないだけで客観的な実在は決まっている(自分が確率1/2と思っている事象も実は確率1か0)という考えと整合的です。


同じ重ね合わせにファインチューニングされた客観世界
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 2日(木)21時23分46秒 返信・引用
> No.2722[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>この点(コペンハーゲン解釈も多世界解釈も、「私」の周囲の見かけについては同じニュートン力学的予測をするということ)について、まだらさんが同意なのであれば、私との間に意見の不一致はないと思われます。

これは問題ありません。

>実在全体の話では量子力学(+相対性理論)に従うべきであるのは当然です。(ただし困ったことに、その2つの理論がいまだに互いに矛盾したままなのですが……)

これも問題ありません。

> ニュートン力学という言葉で私は、不確定性原理の効果が事実上無視できる、決定論的カオス的力学のことを言ったまでです。
>「多世界解釈だからといって、コペンハーゲン解釈の場合よりも不確定性原理のマクロな効果が大きく評価されねばならない、等々といった違いは一切ありえない」という基本さえ同意されれば十分です。

これには同意できません。

私が言っているのは、

実在全体についての思考実験を行う場合(多世界解釈を採用した場合)には「不確定性原理の効果が事実上無視できる、決定論的カオス的力学」は使うべきではないのではないか。

ということです。

「決定論的カオス的力学」は観察された結果であり、観察で検証し得ない実在全体に思考実験において適用することには問題があるはずです。

実在全体がどのようになっているかについては観察で検証することはできず、理論的な整合性のみで思考実験するしかないでしょう。



> 本当の争点は、 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2720 の後半に述べたような、
> 量子観念論仮説は、実在論的な多世界解釈を突き詰めるところに(背理法的に)帰結する非実在論だからこそ説得力があるのではないか? 多世界解釈的でない甘い基準で観念論を認めてしまっては背理法のロジックが台無しでしょ? ということです。
>
> まだらさんはどう思われますか?

「実在論的な多世界解釈から出発して背理法的に非実在論に帰結する論法だから説得力がある」と言われているのですよね。それはわかりますが、「多世界解釈的でない甘い基準で観念論を認めてしまっては背理法のロジックが台無しでしょ?」という部分に疑問を感じます。

具体的に言うと、「多世界解釈的=実在論的常識」になっているようだが、それはおかしいのではないかということです。多世界解釈が実在論的で決定論的であるということと、観察可能な世界が実在論的常識に支配されていることとでは意味が大幅に違うのではないでしょうか。

勘違いがあればご指摘下さい。


A φ 様の発言を引用
> ですから、「知りようがないことは客観的に決まっていないことだ」としてしまうと、ただの頭ごなしの断言となってしまい、説得力が激減するのです。

B 馬場さんの発言を引用
> 観測した友人にとってはLかRかが確定しても、観測していない私にとってはLとRが重ね合わせのまま、と考えるべき理由は、十分に説明したはずです。それなのに「ただの頭ごなしの断言となってしまい、説得力が激減する」ですか。やれやれ。

おそらく、AとBが論点になっていますよね。

「私」の世界が客観的であるか主観的であるかを問うのであれば、主観的なものと考えるべきではないでしょうか。

私の表現だと、LかRが確定する理由は主観的な(意識の)要素なのか、客観的(物理的)な要素なのかを判断しなければいけないということになります。

そもそも「物理的な要素でLかRが確定する」という根拠はどこから来ているのかということが私には疑問なのです。

「私」と「友人」が別の主観的世界に住んでいるということと、同じ客観的世界(実在全体)に住んでいることは矛盾しません。

φ 様は、同じ客観的世界(私と友人の住む実在論的客観世界であり、多世界のひとつ)というものを想定しているのではないでしょうか。(多世界のひとつという言い方が問題であれば多世界の一部でも良いです)

これはおそらく、知的生命による宇宙のファインチューニングという考え方から来ているのではないかと推測しています。
つまり知的生命が絶滅してもファインチューニングが継続するのであれば、客観的世界として物理的な力だけで成り立っていることになります。

φ 様が私と友人は同じ重ね合わせの(ファインチューニングされた)客観的世界に存在すると考え、馬場さんの「私と友人はそれぞれ別の重ね合わせの世界に住んでいる」という考えを否定するのは無理もないとは思います。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 2日(木)18時13分30秒 返信・引用
> No.2720[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(31)/SumioBaba(馬場純雄)

> 馬場さんのお答えは予想通りですが、
> 残念ながら、間違っています。間違っていると言うより、「不適
>切」というべきか。
> 不適切という意味は、次の2つにおいてです。(なんか不適切
>ってコトバがきつくて申し訳ありませんが……)
> 第一には、実在論的常識と食い違っています。(なぜ実在論的
>常識が大切かについてはすぐ後で述べます)


ちょっと待って下さい。そもそも私と三浦さんとの間では、


           [量子観念論仮説]の主張


  私の心M1が住む世界W1において、L+R→Lという波動


  関数の収縮が起きるためには、M1が「Lは有り得るが、


  Rは有り得ない」という情報を持つこと(私の心身状態


  をくまなく調べた時、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」


  という情報がどこかに見つかること)が必要条件である。
という点で意見が一致しました。あとは微妙な差異である「情報は入
り易いか?入りにくいか?」についての議論が続いていたはずです。

それが、いつの間にか三浦さんは「マクロではニュートン力学(実在
論的常識)を支持する」と言い出し、[量子観念論仮説]を否定し始め
ました。三浦さんは何の議論をしているのですか?

ちなみに、[量子観念論仮説]とニュートン力学とは両立できないの
で、「ニュートン力学は正しい」という立場に立てば、「[量子観念論仮
説]は間違い」となるのは当然なんですけど・・・。

> 実在論的常識はこう考えるでしょう。
> 「ああ、写真に写っているこのような特徴的模様が台の複数の
>箇所にあるという確率は低いから、右端だけか、左端だけか、
>いずれかだろう。しかも、右端だけ、左端だけという2つの場合
>(可能世界の2つの集合)がそれぞれ、私が辿ってきた歴史
>(現実世界を含む可能世界の集合)と物理的に両立することも
>ありえない。なぜなら、物理的世界は全領域がカオス的に絡み
>あっているから、この模様が左右どちらにあるかという事情は、
>直接・間接の原因と結果を通じて私の身辺にまでたえず非対称の
>大きな違いをもたらしているはずで、その中には私の生活に深く
>影響しているものもある。となると、私は知りえないが、これは
>右端か左端かどちらかに決定しており、この写真を見た時点で
>私の居場所(多世界の部分集合)はLかRかの一方だけにいま
>収縮したのだ」
> ↑これが実在論的常識です。


そんなにうまくいきません。自分が住む世界W1について私が知っ
ているのはごく一部であり、殆ど知らない部分ばかりです。LかRか
も知らないけど、私の身辺領域Xの物理状態もよく知らないので、
X=X1+X2+X3+・・・という無数の状態の重ね合わせです。


X1なら、Lのときに、身辺領域Xは私に影響γを及ぼす。


X2なら、Rのときに、身辺領域Xは私に影響γを及ぼす。
の両方が重ね合わせであるため、私が身辺領域Xから影響γを受
けても、LとRのどちらかは判らず、LとRは重ね合わせのままです。

> これを認めないようだと、LとRの違いのように、人生において
>択一的などんな違いが生じても(あるとき階段で転んだ・転ばな
>かった、あるときバナナを買った・買わなかった等々)、そのあと
>確率的に起こりそうな出来事がすべて同じになってしまい、一切
>の分岐が無くなって、因果律が崩壊し、多世界解釈そのものの
>需要が無くなるからです。
> 多世界全体で、どのくらいの測度の部分集合で何が起こりそう
>かという伸縮は、どの部分集合を(Lを含む部分集合か、Rを含む
>部分集合かどちらを)初期条件とするかによって、大幅に変わる
>のです。そうでないと、どんな見えすいた未来予測すらできなく
>なります。
> 所与のどんな分岐についても、各分岐の可能な結果のいずれ
>もが測度1/2の部分集合に含まれる、などということは不可能
>なのです。
> 常識に反する場合は、よほどのメリットが証明されないかぎり、
>立証責任が拭い去れません。


そうじゃなくて、相関の問題です。|L>なら|OL>、|R>なら|OR>、と
一対一対応をさせて|OL>か|OR>かを観測すれば、|L>か|R>かが確
定します。しかし、|L>でも|OL>と|OR>の両方が有り得るし、|R>でも
|OL>と|OR>の両方が有り得るし、という状態では、|OL>か|OR>かを
観測しても|L>と|R>は重ね合わせのまま、・・・という話をしてるんで
すけど、伝わらなかったみたいですね。

> ちなみにメリットのことを言うと、
> 実在論を採用する日常的なメリットは明らかなので、実在論者
>は立証責任を負いません。
> 進化論的にも、赤ちゃんの心理学実験により、人間は生まれ
>つき強固な実在論者であることが証明されています。自然選択も、
>実在論者を優遇してきたのです。本心からの観念論者は生き延
>びるのが難しいだろう、ということは、論証するまでもないと思い
>ます。

> さて、
> 馬場さんのお答えが「不適切」である第二の意味。
> いま述べたように、前回の私のパチンコ台の設定に「私は重ね
>合わせにいる」と答えるということは、常識的実在論に反しており、
>「確率的に圧倒的に偏っていそうなことでも事実としてこの私に
>知りようがないかぎりは客観的に確率1/2(主観確率としてでは
>なく客観確率として1/2)」という観念論を前提してしまっていま
>す。


[量子観念論仮説]に「客観確率」なんて有りませんよ。有るのは、
心Miが住む世界Wiにおける「主観確率」だけです(i=1、2、3、・・・)。

> これを前提してしまうと、「量子観念論仮説」は、論点先取になり、
>インパクトを失うのです。
> なぜなら、「多世界解釈から観念論が導き出される」というのが
>量子観念論仮説であるはずですが、多世界解釈そのものは、
>「アインシュタインが聞いたら大変喜んだだろう」と言われている
>存在論で、現在の物理学説の中で最も常識的実在論に近い、
>最も強固な実在論だからです。


意味不明。

> 多世界解釈は、他の解釈(コペンハーゲン解釈、ノイマン・ウィ
>グナー理論、隠れた変数理論、量子論理、などなど)に比べて最
>も実在論的かつ局所的な解釈ですから、世界が多数あるという
>仮定以外においては、最も常識的実在論的な世界観をとらなけ
>ればなりません。
> つまり、多世界解釈という決定論的かつ実在論的な解釈を突き
>詰めてゆくと、なんと個人の視点からは実在論が否定されざるを
>えなくなるよ!」というところに量子観念論仮説のインパクトがあ
>るのではないでしょうか。
> ですから、「知りようがないことは客観的に決まっていないことだ」
>としてしまうと、ただの頭ごなしの断言となってしまい、説得力が
>激減するのです。


観測した友人にとってはLかRかが確定しても、観測していない私
にとってはLとRが重ね合わせのまま、と考えるべき理由は、十分に
説明したはずです。それなのに「ただの頭ごなしの断言となってしま
い、説得力が激減する」ですか。やれやれ。

> 前回のパチンコ玉の写真を見て、「ああ、私には知りようがない
>が、右端か左端のどちらかだ。他方ではない」という実在論的
>世界観を率直に認めつつも、なお、マクロに私が重ね合わせに
>いる場合がありうる、というところに量子観念論仮説のインパクト
>があるでしょう。


「なお、マクロに私が重ね合わせにいる場合がありうる」よりもっと
強い「私がマクロな重ね合わせにいなくなる理由が無い」です。

> あのパチンコ台の設定程度のレベルですんなり観念論(反実在
>論)に走ってしまうようでは、科学というより哲学であり、もともと
>量子力学に頼る必要すらなかったのではありませんか?


そうではなくて、多世界解釈を支持すると必然的に[量子観念論仮
説]に到達する、です。

> 観念論を認める地点をギリギリまで引き延ばして(少なくとも多
>世界論者のモチーフを満たす程度にまで実在論に付き合って)、
>最後に「やはり観念論……」とどんでん返しで論証できるところに
>こそ、量子観念論仮説の醍醐味があるはずです。

> 醍醐味ではなく論理を追求しているのだ、といわれそうですが、
>だったらなおさら、「第一の意味」に述べたように、観念論を採用
>するメリットを提示しなければなりません。


最大のメリットはもちろん、「ミクロなら量子力学、マクロならニュー
トン力学」というその場しのぎの御都合主義を回避できることです。
量子力学だけでミクロとマクロを統一的に説明したいからこそ、多世
界解釈が登場したのです。そして、「多世界解釈は必然的に[量子
観念論仮説]に到達するようだぞ?」と訴えているのが私です。それ
なのに三浦さんは、「ミクロなら量子力学、マクロならニュートン力学」
というその場しのぎの御都合主義を支持する、と言い出されました。
まさに「逆噴射」状態。何を考えておられるのでしょう?

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 2日(木)14時39分0秒 返信・引用
> No.2721[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。


そういうことであれば安心しました。


ただ、「誤読」について弁解させていただくと、

>
> コペンハーゲン解釈では(マクロレベルにおいて)
>「量子力学は見かけ上ニュートン力学になる」ということには異論はありませんが、
> 多世界解釈では異なるのではないかと私は思います。
>


↑まだらさんのこの文章を素直に読むと、

「見かけ上」の話をしていますよね。つまり、

「コペンハーゲン解釈では、量子力学はマクロでの見かけ上ニュートン力学になる」

「多世界解釈では、量子力学はマクロでの見かけ上ニュートン力学にならない」

と読めませんか。

私はそう読みました。

なので、「見かけ上」は(「私」が経験する環境の見かけは)コペンハーゲン解釈と多世界解釈とで全く違いは出ませんよ、と書いたのでした。


そもそも、コペンハーゲン解釈と多世界解釈が「実在全体において」異なるモデルを持つことは当たり前なので、まだらさんがあえてそのことを言っているとは思わなかったのでした。
もちろん、まだらさんが「見かけ」のことではなく実在全体のことを言っているのであれば、全く異存ありません。

まだらさんと私は、とくに不一致はないと思います。


量子観念論仮説をめぐっては、私が住む見かけの環境で起きていることを手掛かりに(それ以外には手掛かりはありえませんから)、以前の見かけの世界の属する集合を推測することが論点になっています。だから、実在全体ではなく、見かけ上(実在の特殊な部分集合の中で)何の次に何が起きそうか、という因果律に従って推測が行なわれねばなりません。

そこで、見かけの世界の記述としてはコペンハーゲン解釈だろうが多世界解釈だろうが近似として有効なニュートン力学に従ったごく普通の実在論的推測ができないようでは、何も話が進まないでしょう、ということです。


この点(コペンハーゲン解釈も多世界解釈も、「私」の周囲の見かけについては同じニュートン力学的予測をするということ)について、まだらさんが同意なのであれば、私との間に意見の不一致はないと思われます。


とにかく、争点はニュートン力学ではありません。

私はもともと知覚世界の記述手段、しかも「近似」としてしかニュートン力学を認めていませんから。実在全体の話では量子力学(+相対性理論)に従うべきであるのは当然です。(ただし困ったことに、その2つの理論がいまだに互いに矛盾したままなのですが……)

お望みであれば、ニュートン力学という言葉は今後使わないようにします。

ニュートン力学という言葉で私は、不確定性原理の効果が事実上無視できる、決定論的カオス的力学のことを言ったまでです。

「多世界解釈だからといって、コペンハーゲン解釈の場合よりも不確定性原理のマクロな効果が大きく評価されねばならない、等々といった違いは一切ありえない」という基本さえ同意されれば十分です。

ニュートン力学の話はやめましょう。本当の争点から話がそれては面白くありませんから。


本当の争点は、 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2720 の後半に述べたような、

量子観念論仮説は、実在論的な多世界解釈を突き詰めるところに(背理法的に)帰結する非実在論だからこそ説得力があるのではないか? 多世界解釈的でない甘い基準で観念論を認めてしまっては背理法のロジックが台無しでしょ? ということです。


まだらさんはどう思われますか?


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 2日(木)13時26分58秒 返信・引用
> No.2720[元記事へ]

φさんへのお返事です。

φ 様が何を言いたいのかわからないので質問させて下さい。

A 私の発言を引用
>「多世界解釈にニュートン力学を適用すると通常のニュートン力学とは大幅に異なる結論になる」ということです。見かけ上同じになるということは、実在全体では同じにならないということですから。

B φ様の発言を引用
> 普通のマクロな現象をどんなに細かく調べたとしても、コペンハーゲン解釈と多世界解釈で違いは見出されません。実在全体がひとつの世界なのか複数の世界なのかについて形而上学的な違いが2つの解釈の間でありますが、私たち人間が観測できる出来事の具体的流れについては全く同じことを予測し、2つの解釈において、「私の住む世界」が決定論に従う度合に違いは一切認められません。

>むろん、「私」に観測できない部分も含めた実在全体は、多世界解釈では厳密に決定論的かつ線形であり、物理的事実として収縮は起きていないとされる一方、コペンハーゲン解釈では非決定論的であり物理的事実として収縮が起きているとされる、という違いはあります。しかしその違いは、量子力学の本質からして、決して直接に観測できないのです


AとBは同じ意味だと私は思いますが、どこに違いがあると考えたのでしょうか。違いは実在全体の部分であると書いたはずですが。

多世界解釈におけるニュートン力学と通常のニュートン力学との違いとは、「『私』の範囲の収縮」の部分ですよ。



私の文章の誤読としか思えないのですが。
Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 2日(木)04時40分51秒 返信・引用
> No.2719[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

最初に、まだらさんへ。

>
> コペンハーゲン解釈では(マクロレベルにおいて)
>「量子力学は見かけ上ニュートン力学になる」ということには異論はありませんが、
> 多世界解釈では異なるのではないかと私は思います。
>
> 多世界解釈においては(マクロレベルにおいて)「量子力学はニュートン力学と
> 大幅に異なる」と考えるべきです。
>


「マクロレベルにおいて」とは、普通、人間が日常で知覚できるスケールのことですね。しかも「見かけ上」ですよね。

すると、↑でまだらさんが言うことは間違っているでしょう。

↑を支持する文献が何かあるのでしょうか?

コペンハーゲン解釈と多世界解釈は、通常のマクロの現象の進み方について、全く同じ予測をするはずです。

一方の解釈でニュートン力学がよい近似であるならば、他方の解釈でも全く同程度によい近似です。そのことについては、ぜひ、多世界解釈の原典であるヒュー・エベレットⅢ世の原論文を読まれることをお薦めします。後のドウィットやドイッチュの論文でもこの点に違いはありません。

普通のマクロな現象をどんなに細かく調べたとしても、コペンハーゲン解釈と多世界解釈で違いは見出されません。実在全体がひとつの世界なのか複数の世界なのかについて形而上学的な違いが2つの解釈の間でありますが、私たち人間が観測できる出来事の具体的流れについては全く同じことを予測し、2つの解釈において、「私の住む世界」が決定論に従う度合に違いは一切認められません。


むろん、「私」に観測できない部分も含めた実在全体は、多世界解釈では厳密に決定論的かつ線形であり、物理的事実として収縮は起きていないとされる一方、コペンハーゲン解釈では非決定論的であり物理的事実として収縮が起きているとされる、という違いはあります。しかしその違いは、量子力学の本質からして、決して直接に観測できないのです。

だからこそ、多世界解釈が正しいのか間違っているのか、「経験的検証が不可能」という理由で多世界解釈が批判されてきたわけです。

論理的にはるかにエレガントで、オッカムの剃刀にも引っかからないので、多世界解釈の方が正しいことは明らかなんですけれどね。でもやはり、物理的な測定で多世界解釈とコペンハーゲン解釈の食い違いを見せることは誰にもできません。


ただし、

「これが観察されれば多世界解釈が検証できるのではないか?」

と言われている種類の例外的な現象はいくつかあります。しかし、それらはきわめて特殊な現象で、普通の意味での科学的観察ではありませんし、ニュートン力学の近似度とも関係ありません。

ここでは煩雑になるので説明は省かせていただきますが、多世界解釈が正しいかどうかの特殊な検証については、私が行なった解説としては次の2つをご参照いただければ幸いです。

『論理サバイバル』問102「多世界説の経験的証拠」

『論理パラドクシカ』問026「量子自殺」問027「量子不死」


Quantum suicide は、ネットで容易に検索できます。


ただし、

まだらさんが「コペンハーゲン解釈ではマクロレベルにおいて量子力学は見かけ上ニュートン力学になるが、多世界解釈では異なる」と言われるには何らかの根拠があるのでしょうから、

出典かまたは理由があれば是非お教えいただけると有難いです。


さて、


馬場さんのお答えは予想通りですが、

残念ながら、間違っています。間違っていると言うより、「不適切」というべきか。

不適切という意味は、次の2つにおいてです。(なんか不適切ってコトバがきつくて申し訳ありませんが……)

第一には、実在論的常識と食い違っています。(なぜ実在論的常識が大切かについてはすぐ後で述べます)

実在論的常識はこう考えるでしょう。

「ああ、写真に写っているこのような特徴的模様が台の複数の箇所にあるという確率は低いから、右端だけか、左端だけか、いずれかだろう。しかも、右端だけ、左端だけという2つの場合(可能世界の2つの集合)がそれぞれ、私が辿ってきた歴史(現実世界を含む可能世界の集合)と物理的に両立することもありえない。なぜなら、物理的世界は全領域がカオス的に絡みあっているから、この模様が左右どちらにあるかという事情は、直接・間接の原因と結果を通じて私の身辺にまでたえず非対称の大きな違いをもたらしているはずで、その中には私の生活に深く影響しているものもある。となると、私は知りえないが、これは右端か左端かどちらかに決定しており、この写真を見た時点で私の居場所(多世界の部分集合)はLかRかの一方だけにいま収縮したのだ」

↑これが実在論的常識です。

これを認めないようだと、LとRの違いのように、人生において択一的などんな違いが生じても(あるとき階段で転んだ・転ばなかった、あるときバナナを買った・買わなかった等々)、そのあと確率的に起こりそうな出来事がすべて同じになってしまい、一切の分岐が無くなって、因果律が崩壊し、多世界解釈そのものの需要が無くなるからです。

多世界全体で、どのくらいの測度の部分集合で何が起こりそうかという伸縮は、どの部分集合を(Lを含む部分集合か、Rを含む部分集合かどちらを)初期条件とするかによって、大幅に変わるのです。そうでないと、どんな見えすいた未来予測すらできなくなります。

所与のどんな分岐についても、各分岐の可能な結果のいずれもが測度1/2の部分集合に含まれる、などということは不可能なのです。

常識に反する場合は、よほどのメリットが証明されないかぎり、立証責任が拭い去れません。


ちなみにメリットのことを言うと、

実在論を採用する日常的なメリットは明らかなので、実在論者は立証責任を負いません。

進化論的にも、赤ちゃんの心理学実験により、人間は生まれつき強固な実在論者であることが証明されています。自然選択も、実在論者を優遇してきたのです。本心からの観念論者は生き延びるのが難しいだろう、ということは、論証するまでもないと思います。


さて、

馬場さんのお答えが「不適切」である第二の意味。

いま述べたように、前回の私のパチンコ台の設定に「私は重ね合わせにいる」と答えるということは、常識的実在論に反しており、「確率的に圧倒的に偏っていそうなことでも事実としてこの私に知りようがないかぎりは客観的に確率1/2(主観確率としてではなく客観確率として1/2)」という観念論を前提してしまっています。

これを前提してしまうと、「量子観念論仮説」は、論点先取になり、インパクトを失うのです。

なぜなら、「多世界解釈から観念論が導き出される」というのが量子観念論仮説であるはずですが、多世界解釈そのものは、「アインシュタインが聞いたら大変喜んだだろう」と言われている存在論で、現在の物理学説の中で最も常識的実在論に近い、最も強固な実在論だからです。

多世界解釈は、他の解釈(コペンハーゲン解釈、ノイマン・ウィグナー理論、隠れた変数理論、量子論理、などなど)に比べて最も実在論的かつ局所的な解釈ですから、世界が多数あるという仮定以外においては、最も常識的実在論的な世界観をとらなければなりません。

つまり、多世界解釈という決定論的かつ実在論的な解釈を突き詰めてゆくと、なんと個人の視点からは実在論が否定されざるをえなくなるよ!」というところに量子観念論仮説のインパクトがあるのではないでしょうか。

ですから、「知りようがないことは客観的に決まっていないことだ」としてしまうと、ただの頭ごなしの断言となってしまい、説得力が激減するのです。


前回のパチンコ玉の写真を見て、「ああ、私には知りようがないが、右端か左端のどちらかだ。他方ではない」という実在論的世界観を率直に認めつつも、なお、マクロに私が重ね合わせにいる場合がありうる、というところに量子観念論仮説のインパクトがあるでしょう。

あのパチンコ台の設定程度のレベルですんなり観念論(反実在論)に走ってしまうようでは、科学というより哲学であり、もともと量子力学に頼る必要すらなかったのではありませんか?

観念論を認める地点をギリギリまで引き延ばして(少なくとも多世界論者のモチーフを満たす程度にまで実在論に付き合って)、最後に「やはり観念論……」とどんでん返しで論証できるところにこそ、量子観念論仮説の醍醐味があるはずです。


醍醐味ではなく論理を追求しているのだ、といわれそうですが、だったらなおさら、「第一の意味」に述べたように、観念論を採用するメリットを提示しなければなりません。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 6月 1日(水)15時05分26秒 返信・引用
> No.2717[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(30)/SumioBaba(馬場純雄)

SumioBabaさんへのお返事です。

>> 箱の中に10枚のコインが入っています。もしLだったら初期状態
>>は「表表表表表表表表表表」から、もしRだったら初期状態は「裏
>>裏裏裏裏裏裏裏裏裏」からスタートします。箱をゆすって1秒に1回
>>くらいの割合で、どれか1枚のコインをひっくり返します。5秒後に
>>見れば、初期状態がどちらだったのか、つまりLとRのどちらだっ
>>たのか、ほぼ判るでしょう。でも1時間後に見て、例えば「裏表表
>>裏表裏裏裏表表」だった場合、初期状態が「表表表表表表表表
>>表表」と「裏裏裏裏裏裏裏裏裏裏」のどちらで、LとRのどちらだっ
>>たのか、全く判らず確率1/2ずつになります。

> カオスと、熱平衡あるいはエントロピー増大とを混同していませ
>んか?
> 現象としては全く逆なんですけれどね。

> 馬場さんは、これまでの話で熱平衡をイメージしていたってこと
>はないですよね?
> コインの例のように「閉じた系」は熱平衡(統計的な帰結)に至っ
>て全体がエントロピー最大の状態に落ち着きますが(したがって、
>表裏半々の場合が最頻値となりますが)、
> 友人の姿勢やワープロの文字列の場合は、「開いた系」の中の
>一部を私が見たということですから、初期状態がどうであれ熱平
>衡で同一結果に至る、ということはまずありえませんよ。開いた系
>は、私がずっと過ごしていた空間とも連続しているわけですから、
>知覚情報は満載です。
> 友人の姿勢やワープロの文字列は、平衡状態には程遠く、非対
>称で低エントロピーの状態です。
> 別々の初期状態から、その友人の姿勢なりワープロの文字なり
>が結果する確率は極小です。それこそがカオスということです。
> 馬場さんのコインの例を見ると、カオスと熱平衡とを完全に取り
>違えていたように思えてなりません。(つまり「閉じた系」をイメージ
>していた?)

> ちなみに、熱平衡の場合であっても、ミクロに見れば同一の結果
>にはなりません。単に裏表半々くらいという数だけを見るのではな
>く、コインに印が付いていて識別できるならば、組み合わせではなく
>順列になりますから、結果を見れば、全部表と全部裏のどちらから
>出発したのかは、解析できます。


そうじゃなくて、もちろん10枚すべてを区別し、1時間後に見た状態
は2^10種類のどれかです。

三浦さんが言っているのはこういう事でしょう?


             【三浦さんの主張】


           (SumioBabaによる推測)


   初期状態が「表表表表表表表表表表」だった場合(Lの


  場合)と、初期状態が「裏裏裏裏裏裏裏裏裏裏」だった


  場合(Rの場合)と、1時間後の状態が全く同じになる可能


  性は極めて小さい。例えば、


    「表表表表表表表表表表」・・・(1)


     →(1時間経過)→「表裏表裏裏表裏裏表表」・・・((1))


    「裏裏裏裏裏裏裏裏裏裏」・・・(2)


     →(1時間経過)→「裏表裏裏表裏表表裏表」・・・((2))


  のように、ほぼ確率1で1時間後の状態は異なるだろう。


  ((1))≠((2))。


   初期状態が(1)なのか(2)なのかを知らない私が、1時間


  後に初めて見た結果は((1))の「表裏表裏裏表裏裏表表」


  の方だったとしよう。ニュートン力学では原因と結果が


  1対1対応なので、時間を逆向きにたどれば、初期状態は


  (1)であったことが判明する。つまり((1))を見た私は、初期


  状態が(1)だったことを知る。ただし、複雑な物理現象を


  頭の中だけでシミュレーションして((1))→(1)とたどり着く


  だけの推理力を人間は持たないので、意識の上では初期


  状態が(1)と(2)のどちらだったかを知らないと感じるだけだ。
これに対する私の主張がこうです。


             【馬場純雄の主張】


   私は初期状態が(1)か(2)かも見ていないし、途中の経


  過も見ておらず、1時間後の「表裏表裏裏表裏裏表表」


  ・・・((1))を見ているだけだ。


   「カオス」が絡む物理現象は、次にどのコインがひっくり


  返るかという予想ができない。10枚のコインの現状から、


  1ステップ未来へ進む時も、1ステップ過去へ戻る時も、


  10枚のコインのどれかが確率1/10でひっくり返る、としか


  言えない。


   従って、1時間後の「表裏表裏裏表裏裏表表」・・・((1))


  だけを見ても、初期状態が(1)と(2)のどちらだったかは判


  らず、LとRが確率1/2ずつで重ね合わせのままである。

>コインに印が付いていて識別できるならば、組み合わせではなく
>順列になりますから、結果を見れば、全部表と全部裏のどちらから
>出発したのかは、解析できます。
と書いてありますが、本当でしょうか? 仮に1時間後の状態が、


  「表裏表裏表裏表裏表裏」・・・((3))
だった場合、全部表と全部裏のどちらから出発したのか、解析して
見せて下さい。



                ******

> 「私」は、巨大な迷路状のパチンコ台を作った。
> 2スリット実験でLならば、パチンコ玉がひとつだけ、左の穴から
>発射されて、パチンコ台のようなクギの林を百単位分通り抜ける。
>クギは1単位ごとに、パチンコ玉を約99.9%の確率で左、
>約0.1%の確率で右に進ませる。
> Rならば、パチンコ玉がひとつだけ、右の穴から発射されて、
>やはりクギの林を百単位分通り抜ける。クギは1単位ごとに、
>パチンコ玉を約99.9%の確率で右、約0.1%の確率で左に
>進ませる。(99.9%、0.1%という確率の根拠は、クギの形が
>非対称に設定されているからで、さまざまな気温・湿度のもとで
>何度もやってみた結果の頻度に基づきます)
> 2スリット実験が終わり、「私」は、迷路の終点を調べた。しかし
>パチンコ玉がどの地点にあるかをちゃんと見る時間がなかった
>ので、十人ほどの友人に終点一帯を適当に写真に撮ってもらった。
> 後で写真を見てみると、台の上に特徴的な形と色をした木目模
>様や虫食いやシミがいくつかある箇所にパチンコ玉が写っていた。
> しかしあなたは、その箇所が迷路終点の右の方なのか左の方
>なのか、写真を見ただけではまったくわからない。写真はどれも
>局部写真だからである。
> Lだったらパチンコ玉はかなり左の方にあると考えられるし、R
>だったらかなり右の方にあるだろう。しかし写真は友人たちが適当
>にあちこち撮ったきり、箇所を教えてもらっていないし、友人たちも
>たぶん忘れている。写真の順番も混ざってしまって誰が撮ったもの
>なのかわからない。
> ちなみに、その迷路状パチンコ台は焼却してしまった。迷路の
>見かけの詳細について覚えている人もいない。

> ↑こういう場合、「私」はLとRの重ね合わせにいるのでしょうか、
>それとも知らないだけでどちらか一方にいるのでしょうか。


私がLかRかを知る理由は何も無さそうなので、「私はLとRの重ね
合わせの中にいる」です。

以上


「素粒子が他の素粒子と相互作用する」=「『私』の範囲の収縮」
投稿者:まだら 投稿日:2011年 6月 1日(水)13時20分25秒 返信・引用
> No.2715[元記事へ]

φさんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。

φ様が考えていることがだいたい理解できたのではないかと思います。

>ただ私が心配しているのは、現在の量子力学は非相対論的だということで、マクロの世界にそのまま適用はできないでしょう。相対論との間に矛盾がなく、近似になっているニュートン力学の方が無難ではないでしょうか。これは素人考えで、議論するつもりはありませんが。
> いずれにせよ、将来完成した相対論的量子力学をマクロな現象にも適用すべし、というのは全く異存ありません。


馬場さんが自分で返事しているので私が返答する必要はないかもしれませんが一応書いておくと「馬場さんの理論はマクロな現象にも適用しなければならない」と考えた方が良いのではないかと思います。

マクロな現象に適用できないと主張することは馬場さんの理論は間違っていると主張するのと同じ意味になるはずだからです。

そもそもマクロな現象に適用するための理論なのですから、「マクロの世界にそのまま適用はできない」というのはそのまま馬場さんの理論に対する結論になってしまうということです。


>「マクロレベルでも量子力学を適用できる」からといって、マクロな現象の因果関係が非決定論的になるわけではありませんね。マクロ世界からするとプランク定数はあまりに小さいので、量子力学は見かけ上、ほとんどニュートン力学になるわけですから。サイズが大きくなれば、法則は同じでもその現われは相転移して決定論的になる、ということに矛盾はありません。
> これはコペンハーゲン解釈でも多世界解釈でも同じです。

コペンハーゲン解釈では(マクロレベルにおいて)「量子力学は見かけ上ニュートン力学になる」ということには異論はありませんが、多世界解釈では異なるのではないかと私は思います。

多世界解釈においては(マクロレベルにおいて)「量子力学はニュートン力学と大幅に異なる」と考えるべきです。

「多世界解釈にニュートン力学を適用すると通常のニュートン力学とは大幅に異なる結論になる」ということです。見かけ上同じになるということは、実在全体では同じにならないということですから。




>3.はその通りですが、「訂正」における訂正後の方は意味がわかりませんでした。もし訂正するのであれば、わかりやすく言い直していただければと思います。

この辺は私が理解していない部分にφ様と私とのすれ違いがあるのではないかと思い、確認しようと思ったことなので私から説明するのは難しいのですが、一応書いてみます。

訂正前の表現を引用
>3.「私」が観察する限りにおいてミクロレベルで存在する波動関数の収縮はマクロレベルでは存在しない。
>4.マクロレベルにおいて波動関数の収縮が観察されない理由は「私」の範囲の収縮が起きているから。


ミクロレベルで波動関数の収縮が存在しないのは「私」の範囲の収縮が起きないからと考えていいと思いますが、だとするとマクロレベルでの波動関数の収縮を考えるときも「私」の範囲の問題として考えていいのではないでしょうか。

φ様と馬場さんの議論においては、「私」の範囲を「意識が保てるかどうか」という基準で決定しているように見受けられます。ここに「プランク定数はあまりにも小さいからニュートン力学で解釈して良い」という前提を持ち込むことには問題があるのではないでしょうか。


「ミクロレベルで『私』の範囲の収縮が起きないのはプランク定数が比較的大きいからでマクロレベルで『私』の範囲の収縮が起きるのはプランク定数があまりにも小さいから」と言っても構わないのかどうかという疑問です。

φ様の表現で言うと「素粒子が他の素粒子と相互作用しないかぎり」と「『私』は主観的現象世界で定義される」の二つを区別する理由はなく

「素粒子が他の素粒子と相互作用する」=「『私』の範囲の収縮」

と考えていいはずです。

φ様はこの二つを区別するがゆえに、マクロレベルでニュートン力学を採用したがるのではないかということですが。

以上です。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 6月 1日(水)03時48分45秒 返信・引用
> No.2716[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


>
>  箱の中に10枚のコインが入っています。もしLだったら初期状態は
> 「表表表表表表表表表表」から、もしRだったら初期状態は「裏裏裏
> 裏裏裏裏裏裏裏」からスタートします。箱をゆすって1秒に1回くらい
> の割合で、どれか1枚のコインをひっくり返します。5秒後に見れば、
> 初期状態がどちらだったのか、つまりLとRのどちらだったのか、ほぼ
> 判るでしょう。でも1時間後に見て、例えば「裏表表裏表裏裏裏表表」
> だった場合、初期状態が「表表表表表表表表表表」と「裏裏裏裏裏
> 裏裏裏裏裏」のどちらで、LとRのどちらだったのか、全く判らず確率
> 1/2ずつになります。この場合の「最頻値」って、何ですか?
>


カオスと、熱平衡あるいはエントロピー増大とを混同していませんか?

現象としては全く逆なんですけれどね。


馬場さんは、これまでの話で熱平衡をイメージしていたってことはないですよね?

コインの例のように「閉じた系」は熱平衡(統計的な帰結)に至って全体がエントロピー最大の状態に落ち着きますが(したがって、表裏半々の場合が最頻値となりますが)、

友人の姿勢やワープロの文字列の場合は、「開いた系」の中の一部を私が見たということですから、初期状態がどうであれ熱平衡で同一結果に至る、ということはまずありえませんよ。開いた系は、私がずっと過ごしていた空間とも連続しているわけですから、知覚情報は満載です。

友人の姿勢やワープロの文字列は、平衡状態には程遠く、非対称で低エントロピーの状態です。

別々の初期状態から、その友人の姿勢なりワープロの文字なりが結果する確率は極小です。それこそがカオスということです。

馬場さんのコインの例を見ると、カオスと熱平衡とを完全に取り違えていたように思えてなりません。(つまり「閉じた系」をイメージしていた?)


ちなみに、熱平衡の場合であっても、ミクロに見れば同一の結果にはなりません。単に裏表半々くらいという数だけを見るのではなく、コインに印が付いていて識別できるならば、組み合わせではなく順列になりますから、結果を見れば、全部表と全部裏のどちらから出発したのかは、解析できます。


さて、熱平衡の事例であれば、私も馬場さんと意見はまったく同じですよ。

たとえば次のような設定にします。

Lだったら、水槽の左端の蛇口から赤インクが5秒間落ちます。Rだったら、右端の蛇口から左と同じ品質の赤インクが左と同量出ます。

実験が終わって一日経って、私は水槽を見ました。私が視界に捉えるのは水槽の中の水だけです。全体が一様にピンク色になっていて、LだったのかRだったのかわかりません。

……という場合なら、私は、LとRの重ね合わせにいる、ということに同意します。

なぜなら、Lの場合とRの場合とでは、結果として私の知覚風景に何の違いももたらさないからです。

分子一個一個の位置を精密に追跡できれば(実際は技術的に無理ですが)、Lの場合の結果とRの場合の結果は異なるので、解析できるでしょう。しかし全体として見えるのは、私の、というか人類の知覚力の限界のため、Lの場合もRの場合もまったく同じです。

したがって、「私」が多世界のどの部分集合にいるかということは、私の本質である主観性(知覚風景の内在的性質)によっては決定されません。(私が決定できないということではなく、知覚風景の本質的性質からして客観的に決定できません)

よって、私はLとRの重ね合わせにいます。

事情は、以前に書いた、実験後に友人が空メールを自動送信する例と同じです。


さて、馬場さんが熱平衡をイメージしていたのではないことを祈りつつ、熱平衡と誤解されないような例でまた質問させてください。たびたびご面倒ですが、よろしくお願いします↓


「私」は、巨大な迷路状のパチンコ台を作った。

2スリット実験でLならば、パチンコ玉がひとつだけ、左の穴から発射されて、パチンコ台のようなクギの林を百単位分通り抜ける。クギは1単位ごとに、パチンコ玉を約99.9%の確率で左、約0.1%の確率で右に進ませる。

Rならば、パチンコ玉がひとつだけ、右の穴から発射されて、やはりクギの林を百単位分通り抜ける。クギは1単位ごとに、パチンコ玉を約99.9%の確率で右、約0.1%の確率で左に進ませる。(99.9%、0.1%という確率の根拠は、クギの形が非対称に設定されているからで、さまざまな気温・湿度のもとで何度もやってみた結果の頻度に基づきます)

2スリット実験が終わり、「私」は、迷路の終点を調べた。しかしパチンコ玉がどの地点にあるかをちゃんと見る時間がなかったので、十人ほどの友人に終点一帯を適当に写真に撮ってもらった。

後で写真を見てみると、台の上に特徴的な形と色をした木目模様や虫食いやシミがいくつかある箇所にパチンコ玉が写っていた。

しかしあなたは、その箇所が迷路終点の右の方なのか左の方なのか、写真を見ただけではまったくわからない。写真はどれも局部写真だからである。

Lだったらパチンコ玉はかなり左の方にあると考えられるし、Rだったらかなり右の方にあるだろう。しかし写真は友人たちが適当にあちこち撮ったきり、箇所を教えてもらっていないし、友人たちもたぶん忘れている。写真の順番も混ざってしまって誰が撮ったものなのかわからない。

ちなみに、その迷路状パチンコ台は焼却してしまった。迷路の見かけの詳細について覚えている人もいない。


↑こういう場合、「私」はLとRの重ね合わせにいるのでしょうか、それとも知らないだけでどちらか一方にいるのでしょうか。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月31日(火)17時43分16秒 返信・引用
> No.2715[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(29)/SumioBaba(馬場純雄)

> 量子力学がマクロレベルに適用できることを否定する人はいな
>いでしょう。多世界解釈を支持する人であろうが、コペンハーゲン
>解釈を支持する人であろうが、その点は同じです。
> 計算するさいにはニュートン力学の方が便利で、実際上ほとんど
>変わらないので、パチンコ玉の進路をいちいちシュレーディンガー
>方程式で考える人はいないでしょうけれども。


だから、ニュートン力学が通用するのは、マクロで、しかも「カオス」
と無関係な問題だけです。「カオス」が絡む場合、ニュートン力学の
「決定論」は全くお手上げであり、量子力学を用いた「確率論」で議論
できるだけです。

> ただ私が心配しているのは、現在の量子力学は非相対論的だ
>ということで、マクロの世界にそのまま適用はできないでしょう。


そんなことは有りません。「場の量子論」は、量子力学と相対的理
論とを融合させた理論として完成しています。中でも量子電磁力学
は、恐るべき精度で理論値と実験値が一致しており、正しいことは
間違いないと思われます。ただ、「量子重力理論」だけが未完成、と
いう現状です。

>相対論との間に矛盾がなく、近似になっているニュートン力学の
>方が無難ではないでしょうか。これは素人考えで、議論するつもり
>はありませんが。


「無難」も何も、今ニュートン力学を使ったら、議論はすべてぶち
壊しです。[量子観念論仮説]について議論している真っ最中に、
[量子観念論仮説]とは両立できないニュートン力学を支持する、と
言い出しているのですから。

> ただし念のため、
> 「マクロレベルでも量子力学を適用できる」からといって、マクロ
>な現象の因果関係が非決定論的になるわけではありませんね。
>マクロ世界からするとプランク定数はあまりに小さいので、量子
>力学は見かけ上、ほとんどニュートン力学になるわけですから。
>サイズが大きくなれば、法則は同じでもその現われは相転移して
>決定論的になる、ということに矛盾はありません。
> これはコペンハーゲン解釈でも多世界解釈でも同じです。


「マクロだから非決定論になる」のではなく、「不確定性原理にカオ
スが絡むから非決定論になる」のです。

> さて、
> 馬場さんのお答えは予想通りでしたが、
> 「ほぼ1/2ずつ」というのが気になりますね……。「ほぼ」が。
> 厳密に1/2ではないのですか?
> 馬場さん的には厳密に1/2と言うと思っていたので……。


「ほぼ」を説明するのは面倒なので、「厳密に1/2」にします。

> 選択肢がLとRの2つで、それぞれがカオス的に複雑な経緯を
>辿っているとすれば、LとRは、厳密に1/2になるようなファイン
>チューニングがない場合は、各々の確率変数の実現確率は
>とてつもなく偏るというのが常識だと思います。つまり、ほとんど1
>と、ほとんどゼロとに帰着すると。
> 設定に意図的デザインがなされていないかぎり、「ほぼ1/2」
>というのはありえないでしょう。


全く逆です。「ほとんど1と、ほとんどゼロ」にする方こそ厳密なファ
インチューニングが必要なのであり、そうでなければ「1/2ずつ」に
なります。

二重スリット実験で、LかRかを観測するためには、|L>なら|OL>で
ある|L>|OL>、|R>なら|OR>である|R>|OR>、という1対1の関係を作る
ため、高精度の人工的工夫が必要です。工夫をせず(観測せず)、そ
のまま素粒子がスクリーンに到達してしまうと、素粒子がスクリーン
上の点S1、S2、S3、・・・のどこに到達しようと、|L>と|R>が1/2ずつ
混ざってしまい、干渉を起こします。

> LとRから後続する出来事の最頻値は、各瞬間ごとに違います
>よね。(ちなみに、最頻値は最も多くの世界で成り立つ結果です
>から、「私」が目撃する結果は、確率的に、最頻値でないとする
>アプリオリな理由はありません。つまり必ず最頻値が目撃されま
>す)。


「カオス」が絡んでいる場合、「最頻値」の意味が解りません。

> ピタゴラ装置ふうドミノ倒しの場合、LかRの信号が届いてから
>5秒後には、明らかに左右のビーチボールの位置がLの場合と
>Rの場合とで異なるので、最頻値は全く違います。5秒後の部屋
>の様子を見れば、LかRかはわかります。


はい、それは当然です。

> では次の5秒後はどうか。最頻値は違ったままでしょう。次の
>5秒後はどうか。ますます偏りますからますます違うでしょう。次
>の5秒後は。……と考えていったとき、たしかに2、3分も経てば
>LとRの区別はつかなくなるでしょう。しかしそれは人間の目には
>区別できないだけであって、そこで起きることの最頻値がいつか
>一致している、というようなメカニズムなんてあるのでしょうか?


箱の中に10枚のコインが入っています。もしLだったら初期状態は
「表表表表表表表表表表」から、もしRだったら初期状態は「裏裏裏
裏裏裏裏裏裏裏」からスタートします。箱をゆすって1秒に1回くらい
の割合で、どれか1枚のコインをひっくり返します。5秒後に見れば、
初期状態がどちらだったのか、つまりLとRのどちらだったのか、ほぼ
判るでしょう。でも1時間後に見て、例えば「裏表表裏表裏裏裏表表」
だった場合、初期状態が「表表表表表表表表表表」と「裏裏裏裏裏
裏裏裏裏裏」のどちらで、LとRのどちらだったのか、全く判らず確率
1/2ずつになります。この場合の「最頻値」って、何ですか?

> 「私」はどの瞬間に部屋を調べてもよかったわけで、キーボード
>にパチンコ玉が降り注いでいる最中に見るとか、最後の文字が
>打たれた瞬間を見るとか、2階でパチンコ玉が散らばり始めた時
>を見るとか、時間は調整できます。
> ある程度以上時間が経った後は、どの瞬間を見ても、肉眼では
>LかRかの手掛かりは得られないとしましょう。
> 「私」がいつ部屋を覗き込むかは任意なので、
> 馬場さんの「LとRは重ね合わせ」という見解が成り立つために
>は、そのすべての瞬間において、LとRとで最頻値が同じでなけれ
>ばなりません。つまり、各々が「ほぼ1/2」というような不安定な
>ことではなく、「厳密に1/2」です。それがずっと続かなければな
>りません。そんなことはありえないでしょう。


1分もたてば、60回ほどコインはひっくり返っているので、表=5枚、
裏=5枚、が期待値でしょうね。もちろん、統計的ゆらぎで、表=6枚、
裏=4枚、になったり、表=3枚、裏=7枚、になることも有るでしょうが、
1分後にはもはやLかRかは判らないでしょう。「1分後以降はいつ見
ても、LとRが可能性1/2ずつ」です。

> ともあれ、LとRという別々の出来事が同一の部屋という同配置
>の物理系に作用したとしたら、可能な結果が違うのは議論以前の
>当たり前のことではないでしょうか。最頻値はなおさらです。現に
>最初の2、3分であれば肉眼で簡単に識別できたでしょうから。


私は部屋の様子についてごく大雑把な情報しか持たないため、
私が住む世界W1において、部屋の物理状態は無限種類の重ね合
わせであり、様々な物理変数X1、X2、X3、・・・は確定しておらず、
いろんな値の重ね合わせです。最終的に私が知覚するγは、それ
が友人の姿であろうと、ワープロの文字列であろうと、


  γ=「LまたはR」に、X1、X2、X3、・・・が作用したもの
です。γだけ与えられても、X1、X2、X3、・・・が不明なので、そのγ
が、「LにX1、X2、X3、・・・が作用したもの」なのか、それとも、「Rに
X1、X2、X3、・・・が作用したもの」なのか、判断ができない訳です。
X1、X2、X3、・・・を適当に変えれば、γは、「LにX1、X2、X3、・・・が
作用したもの」にもなり得るし、「RにX1、X2、X3、・・・が作用したも
の」にもなり得ます。

> ちなみに、ピタゴラ装置ふうドミノ倒しの部屋を見に行く前や、
>シュレーディンガーの猫の部屋を開ける前は、「私」に知覚される
>風景の最頻値は厳密に同じですから、結果(LかRか、生か死か)
>はどちらも「厳密に1/2ずつ」で、「私」は重ね合わせにいます。
>しかもマクロな重ね合わせにいます。


ここまでは一致ですね。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月31日(火)03時54分25秒 返信・引用
> No.2713[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 1.多世界解釈はマクロレベルに拡張したコペンハーゲン解釈(量子力学)である。
>
> 2.多世界解釈が正しければマクロレベルでも量子力学を適用できる。
>


量子力学がマクロレベルに適用できることを否定する人はいないでしょう。多世界解釈を支持する人であろうが、コペンハーゲン解釈を支持する人であろうが、その点は同じです。

計算するさいにはニュートン力学の方が便利で、実際上ほとんど変わらないので、パチンコ玉の進路をいちいちシュレーディンガー方程式で考える人はいないでしょうけれども。


ただ私が心配しているのは、現在の量子力学は非相対論的だということで、マクロの世界にそのまま適用はできないでしょう。相対論との間に矛盾がなく、近似になっているニュートン力学の方が無難ではないでしょうか。これは素人考えで、議論するつもりはありませんが。

いずれにせよ、将来完成した相対論的量子力学をマクロな現象にも適用すべし、というのは全く異存ありません。


ただし念のため、

「マクロレベルでも量子力学を適用できる」からといって、マクロな現象の因果関係が非決定論的になるわけではありませんね。マクロ世界からするとプランク定数はあまりに小さいので、量子力学は見かけ上、ほとんどニュートン力学になるわけですから。サイズが大きくなれば、法則は同じでもその現われは相転移して決定論的になる、ということに矛盾はありません。

これはコペンハーゲン解釈でも多世界解釈でも同じです。

>
> 3.「私」が観察する限りにおいてミクロレベルで存在する波動関数の収縮はマクロレベルでは存在しない。
>
> 4.マクロレベルにおいて波動関数の収縮が観察されない理由は「私」の範囲の収縮が起きているから。
>

3.はその通りですが、「訂正」における訂正後の方は意味がわかりませんでした。もし訂正するのであれば、わかりやすく言い直していただければと思います。
4.はまったくそのとおりですね。多世界解釈の旨みです。ミクロの世界では、素粒子が他の素粒子と相互作用しないかぎり、世界は分岐・収斂を繰り返しますから、「私」は自分が重ね合わせにいることがわかります。ところが、マクロレベルでは、自分自身もいっしょに分岐(収縮)してしまい、永久に分離してゆくので、収縮には気づかないわけです。

それでも、マクロレベルでも現象的に異なる複数の世界に「私」がまたがっている場合はあり、知覚的に全く区別できない(ただし主観的にでなく客観的に区別できない場合ですが)世界はすべて「私の世界」です。「私」は主観的現象世界で定義されるからです。


さて、

馬場さんのお答えは予想通りでしたが、

「ほぼ1/2ずつ」というのが気になりますね……。「ほぼ」が。

厳密に1/2ではないのですか?

馬場さん的には厳密に1/2と言うと思っていたので……。


選択肢がLとRの2つで、それぞれがカオス的に複雑な経緯を辿っているとすれば、LとRは、厳密に1/2になるようなファインチューニングがない場合は、各々の確率変数の実現確率はとてつもなく偏るというのが常識だと思います。つまり、ほとんど1と、ほとんどゼロとに帰着すると。

設定に意図的デザインがなされていないかぎり、「ほぼ1/2」というのはありえないでしょう。


LとRから後続する出来事の最頻値は、各瞬間ごとに違いますよね。(ちなみに、最頻値は最も多くの世界で成り立つ結果ですから、「私」が目撃する結果は、確率的に、最頻値でないとするアプリオリな理由はありません。つまり必ず最頻値が目撃されます)。

ピタゴラ装置ふうドミノ倒しの場合、LかRの信号が届いてから5秒後には、明らかに左右のビーチボールの位置がLの場合とRの場合とで異なるので、最頻値は全く違います。5秒後の部屋の様子を見れば、LかRかはわかります。

では次の5秒後はどうか。最頻値は違ったままでしょう。次の5秒後はどうか。ますます偏りますからますます違うでしょう。次の5秒後は。……と考えていったとき、たしかに2、3分も経てばLとRの区別はつかなくなるでしょう。しかしそれは人間の目には区別できないだけであって、そこで起きることの最頻値がいつか一致している、というようなメカニズムなんてあるのでしょうか?


「私」はどの瞬間に部屋を調べてもよかったわけで、キーボードにパチンコ玉が降り注いでいる最中に見るとか、最後の文字が打たれた瞬間を見るとか、2階でパチンコ玉が散らばり始めた時を見るとか、時間は調整できます。

ある程度以上時間が経った後は、どの瞬間を見ても、肉眼ではLかRかの手掛かりは得られないとしましょう。

「私」がいつ部屋を覗き込むかは任意なので、

馬場さんの「LとRは重ね合わせ」という見解が成り立つためには、そのすべての瞬間において、LとRとで最頻値が同じでなければなりません。つまり、各々が「ほぼ1/2」というような不安定なことではなく、「厳密に1/2」です。それがずっと続かなければなりません。そんなことはありえないでしょう。


馬場さんが「厳密に1/2」と言わずに「ほぼ1/2」という言い方をしたのは、LとRとで、その後の各瞬間で最頻値がたえず異なっている(互いに独立に揺らいでいる)と感じていたからではないでしょうか。

カオスが事実であれば、LとRとで最頻値が同一にとどまることはありえず、したがって「ほぼ」どころか1/2から大幅にそれていくはずです。

ともあれ、LとRという別々の出来事が同一の部屋という同配置の物理系に作用したとしたら、可能な結果が違うのは議論以前の当たり前のことではないでしょうか。最頻値はなおさらです。現に最初の2、3分であれば肉眼で簡単に識別できたでしょうから。

以上のような推理も、「私の心身に与えられている情報」に入ると思われます。

それを無視して、肉眼の限界が最頻値の一致する瞬間を決める、というのはオカルト的でしょう。


ちなみに、ピタゴラ装置ふうドミノ倒しの部屋を見に行く前や、シュレーディンガーの猫の部屋を開ける前は、「私」に知覚される風景の最頻値は厳密に同じですから、結果(LかRか、生か死か)はどちらも「厳密に1/2ずつ」で、「私」は重ね合わせにいます。しかもマクロな重ね合わせにいます。

ピタゴラ装置ふうドミノ倒しの部屋を見た後には、それが成り立ちません。見られた結果がともにLとRの結果として最頻値であるような瞬間などないのです。


訂正
投稿者:まだら 投稿日:2011年 5月30日(月)23時03分49秒 返信・引用
補足
> 3.「私」が観察する限りにおいてミクロレベルで存在する波動関数の収縮はマクロレベルでは存在しない。

これはちょっとおかしな表現をしていますね。

3.「『私』が観察していてもマクロレベルで存在する波動関数の収縮はミクロレベルには存在しない。」

と言わないといけないようです。



Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:まだら 投稿日:2011年 5月30日(月)22時56分25秒 返信・引用
> No.2711[元記事へ]

φさんへのお返事です。

φ様が何を言っているのかよくわからなくなったので質問させて下さい。

1.多世界解釈はマクロレベルに拡張したコペンハーゲン解釈(量子力学)である。

2.多世界解釈が正しければマクロレベルでも量子力学を適用できる。

3.「私」が観察する限りにおいてミクロレベルで存在する波動関数の収縮はマクロレベルでは存在しない。

4.マクロレベルにおいて波動関数の収縮が観察されない理由は「私」の範囲の収縮が起きているから。


2を肯定するのであれば、ニュートン力学を採用する理由がわかりません。全て量子力学で説明すれば良いはずです。

ニュートン力学を採用しても同じ結果が出るのであればわざわざ量子力学を使う理由はありませんけれども、違いがあるのであれば量子力学の結果を採用しないとおかしいでしょう。例えばニュートン力学と相対論で異なる結果が出る場合には相対論の結果を採用しないといけないはずです。


1と3と4は確認です。もし否定するのであれば教えて下さい。

以上です。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月30日(月)15時22分7秒 返信・引用
> No.2711[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(28)/SumioBaba(馬場純雄)

> さて、整理のため、また簡単な質問をさせてください。
> 量子脳のような余計な仮定を排除して(そんな怪しげな異端
>学説での不一致が入り込んではつまらないので)、ピュアな設定
>を作り、馬場さんと私の不一致が程度問題に過ぎないのかどう
>か、確認するためです。

> 設定はこうです。
> 「私」は、二階の部屋に複雑なピタゴラ装置ふうドミノ倒しをたく
>さん作った。天井にはビーチボールが2個釣り下げられている。
> 隣接する実験室の2スリット実験で、観測が一度だけなされる。
> 観測器がLを記録すると、ただちに左側のボールが落下して
>ドミノを倒し、5秒後に右側のボールが落下して別のドミノを倒す。
> Rが記録されると、ボールが落ちる順番は逆である。
> いずれにしてもボールによってすべてのドミノが倒され、床じゅう
>に配置してある百個ほどのパチンコ玉を散乱させる。散乱した
>パチンコ玉は床にあいた穴から次々に落ち、いくつかのデコボコ
>だらけの漏斗を通って階下に至り、ワープロのキーボード上に
>バウンドして、文字列を出現させる。
> さて、その2スリット実験が終わったあと、実験に立ち合わず
>観測結果も知らない私は、階下のワープロ画面を調べに行った。
>「ゆすけかまかとr-^\ちけせもくらん]5/c……」二百ほどの文字列
>が出ている。
> 文字列をじっと見ながら私は、「Lだったのか、Rだったのか」と
>しばし考える。手掛かりらしきものはさっぱり発見できない。
>ワープロのまわりに転がっているパチンコ玉を見つめてもヒント
>など見当たらない。

> 以上のような場合、「私」はLとRの重ね合わせにいるのでしょ
>うか、それとも知らないだけで、実はどちらかの世界だけにいる
>のでしょうか?


もちろん、私が住む世界W1においては、LとRがほぼ1/2ずつの
確率で重ね合わせのままです。

パチンコ玉を素粒子のように扱ってみます。LまたはRの刺激に
より、パチンコ玉が落ち始める時刻をt0、パチンコ玉がワープロに
文字列を出現させた時刻をt1とします。パチンコ玉の個数を100個
とし、パチンコ玉1~パチンコ玉100と呼び、その状態をψ1~ψ100
とすると、ψ1~ψ100はパチンコ玉の重心の位置座標r=(x、y、z)と、
パチンコ玉の運動量p=(px、py、pz)で表されます。

まず私は、時刻t0におけるパチンコ玉1の初期位置を、殆ど正確
には把握していません。パチンコ玉1の位置rの不確定性は、恐らく
△r=数cmに及ぶでしょう。ψ1(t0)は、3次元空間の中で、直径数cm
の球くらいの広がりを持っています。これは、パチンコ玉1の重心の
位置rが、直径数cmの球内部のあらゆる位置に存在する∞個の
状態の重ね合わせです。ψ2(t0)~ψ100(t0)も同様です。これら
ψ1(t0)~ψ100(t0)をまとめて、パチンコ玉100個全体の状態Ψ(t0)
とします。個々のψ1(t0)~ψ100(t0)がそれぞれ∞個の状態の
重ね合わせなので、Ψ(t0)は∞^100個の状態の重ね合わせです。
これが初期状態です。このΨ(t0)にシュレディンガー方程式を用い、
時刻t1におけるΨ(t1)を計算します。

「カオス」のため、1個のパチンコ玉の時刻t0における初期位置が
無限小ずれても、時刻t1における100個のパチンコ玉全体の状態は
大きく異なります。実際には100個すべての初期位置の不確定性が
△r=数cmも有るのですから、Ψ(t1)の∞^100種類の状態の中には、
ワープロで可能な、あらゆる文字列を出現させる状態が存在するで
しょう。

さらに、Lだった場合とRだった場合の差異は、「カオス」のために
完全に埋没し、実際に得られた特定のワープロの文字列からLかR
かを判断することは不可能であり、私が住む世界W1においてLとR
は、ほぼ確率1/2ずつで重ね合わせのままです。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月30日(月)04時03分6秒 返信・引用
> No.2710[元記事へ]

まだらさんへのお返事です。

>
> 「標準的な量子力学の解釈ではマクロレベルにおいて干渉が喪失する理由を説明できない」というのが馬場さんの理論の大前提になっているはずだということです。
>
> これに対してφ 様は現実にマクロレベルでは干渉が喪失しているのだから理由を説明する必要はないと言っていることになるのではないかというのが私の言いたいことです。
>


そうですか?

多世界解釈はそれだけで十分説明になっていると思います。

物理的な収縮というものを認めるようでは量子力学の波動方程式に忠実とは言えないので、波動方程式を文字通りにとれば、実在全体としては波動方程式どおり、決定論的かつ線形に進むはずだというわけで、それを唯一認めているのが多世界解釈ですよね。

非決定論的・確率的な収縮が起きてしまうのは、あくまで見掛けだけのことで、「私」が多世界のどの部分集合にいるかが変化するだけ、というスッキリした理論です。

つまり、多世界解釈に同意することが、干渉の喪失の説明を果たしたことになるでしょう。

馬場さんも私も、この点では一致しているようです。(「量子観念論仮説」そのものは、「多世界解釈は観念論を含意する」という趣旨ですから、多世界解釈は偽だと信じる人であっても量子観念論仮説を信じることはできるわけですが)。


馬場さんと私の不一致は、まだらさんが言うようなことではなく、単に、

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2700 における(2e)に該当するのは具体的にどのような現象であるか、ということのようです。


さて、

>
>  「カオス」という言葉を私と三浦さんとは、だいぶ違った意味で使っ
> ているようですね。
>


やはり標準的な意味で使うべきでしょう。

「カオス」は、学術用語としては初期条件に敏感な決定論的現象を指すので、その意味で用いるべきだと思います。

>
>  「最頻値」の意味が解りません。
>


最頻値は「モード」のことで、正規分布だったら平均値または中央値(メジアン)に一致しますが、非対称な素粒子配置での因果関係では、相互作用の結果が正規分布になることはないでしょうから、最頻値を採用すべきでしょう。

というのは、分布がカオス的に偏っている場合には、次に何が起こりそうかという期待値に一致するのは、最頻値だけだろうからです。

つまり最頻値は、期待値と同じ意味と考えてかまいません。

Lが起きたらα1、α2、α3……のうちどれが一番起こりそうか、

Rが起きたらβ1、β2、β3……のうちどれが一番起こりそうか、というのが最頻値であり、期待値です。


さて、整理のため、また簡単な質問をさせてください。

量子脳のような余計な仮定を排除して(そんな怪しげな異端学説での不一致が入り込んではつまらないので)、ピュアな設定を作り、馬場さんと私の不一致が程度問題に過ぎないのかどうか、確認するためです。


設定はこうです。

「私」は、二階の部屋に複雑なピタゴラ装置ふうドミノ倒しをたくさん作った。天井にはビーチボールが2個釣り下げられている。

隣接する実験室の2スリット実験で、観測が一度だけなされる。

観測器がLを記録すると、ただちに左側のボールが落下してドミノを倒し、5秒後に右側のボールが落下して別のドミノを倒す。

Rが記録されると、ボールが落ちる順番は逆である。

いずれにしてもボールによってすべてのドミノが倒され、床じゅうに配置してある百個ほどのパチンコ玉を散乱させる。散乱したパチンコ玉は床にあいた穴から次々に落ち、いくつかのデコボコだらけの漏斗を通って階下に至り、ワープロのキーボード上にバウンドして、文字列を出現させる。

さて、その2スリット実験が終わったあと、実験に立ち合わず観測結果も知らない私は、階下のワープロ画面を調べに行った。「ゆすけかまかとr-^\ちけせもくらん]5/c……」二百ほどの文字列が出ている。

文字列をじっと見ながら私は、「Lだったのか、Rだったのか」としばし考える。手掛かりらしきものはさっぱり発見できない。ワープロのまわりに転がっているパチンコ玉を見つめてもヒントなど見当たらない。


以上のような場合、「私」はLとRの重ね合わせにいるのでしょうか、それとも知らないだけで、実はどちらかの世界だけにいるのでしょうか?


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:まだら 投稿日:2011年 5月29日(日)16時04分45秒 返信・引用
> No.2707[元記事へ]

φさんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。

物理学の話にするのは本意ではないので、説明のレベルを変えて同じことを指摘することにしたいと思います。

お二人の議論では「多世界解釈」が前提として採用されているはずです。

多世界解釈とは、量子力学のコペンハーゲン解釈を論理的にマクロなレベルまで拡張したものでしょう。

そもそも馬場さんの理論はコペンハーゲン解釈の欠点である「波動関数の収縮」多世界解釈における「多世界の干渉性の喪失」を説明するためのものだと認識しています。


多世界の干渉性が喪失する理由を説明しているのに、多世界の干渉性はマクロレベルでは喪失しているから説明する必要はないと言うのはおかしいでしょう。

「標準的な量子力学の解釈ではマクロレベルにおいて干渉が喪失する理由を説明できない」というのが馬場さんの理論の大前提になっているはずだということです。


これに対してφ 様は現実にマクロレベルでは干渉が喪失しているのだから理由を説明する必要はないと言っていることになるのではないかというのが私の言いたいことです。


多世界解釈がマクロレベルに拡張したコペンハーゲン解釈(量子力学)なのだということを忘れてはいないでしょうか。

以上です。



Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月29日(日)08時21分40秒 返信・引用
> No.2707[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(27)/SumioBaba(馬場純雄)

> ちょっと戻って、馬場さんの前々回の次の言についてもう一度
>コメントさせてください。

>> 私が実際に体験した知覚風景をγとすると、
>> 殆どの場合γは、α1、α2、α3、・・・、αnの中
>> にも存在し、β1、β2、β3、・・・、βnの中にも存在し、ダブっ
>>ていると思います。例えば、α3=γ=β8、のように。従って、
>>γを知覚して
>> も、LかRかの情報は得られず、LもRも確率1/2です。

> 常識的に考えて(これは重要な姿勢です)、AとBが互いに異
>なったマクロ状態だとすると、それぞれの後に「最も起こりやす
>い結果」は異なるだろう、ということにご注意下さい。
> 「直後の」連鎖を辿っていくと、差違はますます開きこそすれ、
>縮まることはめったにありません。
> 友人がLを観測した場合と、Rを観測した場合とでは、マクロ
>な違いがありますから、互いに異なった刺激が実験室内に波及
>します。つまり、Lの可能な結果の集合αと、Rの可能な結果β
>とは、かりに確率変数にダブりがあるとしても、最頻値はαとβ
>とでは別々の結果になると考えられます(最頻値が一致すると
>いうのは御都合主義的です)。


α1、α2、α3、・・・、αnの中にも、β1、β2、β3、・・・、βnの中
にも、友人の立っている姿、寝ている姿、座っている姿、・・・などが
含まれているはずです。この場合の「最頻値」とは、何を意味するの
でしょう?

> そして、マクロな因果律に従った結果ですから、確率変数を
>横軸に、確率密度を縦軸にグラフを書くと、αのグラフもβの
>グラフも、最頻値の左右は急速に下降するものと考えられます。


「最頻値」の意味が解りません。

> 実際に私が見た友人の姿勢γは、かりにαの集合にもβの集合
>にも含まれているとしても、どちらか一方の最頻値のみにきわめて
>近いでしょう(というより、最頻値そのものでしょう)。


γが「立っている友人の姿」であった場合、αの集合とβの集合と
どちらの「最頻値」に近いのでしょうか?

> すると、P(γ|L)≠ P(γ|R)です。
> さて、実際に友人から聞いて確かめると、観測結果はLでした。
> すると、P(γ|L)≫ P(γ|R) ということがわかります。 ……①

> さらに、次のようになります。

> P(L)=1/2??   P(R)=1/2??   ←2スリット実験の設定より

> P(L|γ)/P(R|γ)=(P(γ|L)/P(γ|R))×(P(L)/P(R))
=P(γ|L)/P(γ|R)

> ①より、この値は膨大な大きさですから、P(L|γ)/P(R|γ)≫1
> よって、γに条件付けると、「私」がLかRかを確かめる前におい
>てすでに、「これから判明するであろう方(友人が明かすであろう方)
>がすでに成り立っている確率はほぼ1であり、そうでない方が
>成り立っている確率はほぼ0である」と「私」には判断できることに
>なります。


でも、「これから判明するであろう方」がどちらなのかは、LとRが
確率1/2ずつであり、これこそが「絡み合い状態」です。

この前、(1)(2a)(2b)(3)に分ける話をしました。今生じているのが、
まさに(2b)の状態です。私にとって友人は「マクロな観測装置」です。
そして、「マクロな観測装置」で観測した事を私は知っていますが、
「マクロな観測装置」を私はまだ見ていない状況です。|L>だった場合
の観測装置を|OL>、|R>だった場合の観測装置を|OR>とすると、私
が住む世界W1では、|L>|OL>+|R>|OR>という絡み合い状態であり、
|L>+|R>→|L>や、|L>+|R>→|R>という波動関数の収縮は起きておら
ず、まだ|L>と|R>は重ね合わせのままです。

>>  ニュートン力学が通用するのは、マクロで、しかも、「カオス」が
>>絡まない2体以下の問題の場合だけです。例えば、天体の運動
>>とか。天体運動は、「太陽の周りを回る地球」や「地球の周りを
>>回る月」のように、2体問題として近似できるので、何年も先に起
>>きる日食・月食を予言 できるなど、高精度計算が可能です。

> 実際に計算できるかどうかと、原理的に計算できるかどうかとを
>混同されているようです。観念論という形而上学の話をしているの
>ですから、原理的に計算可能かどうかを論じなければなりません。
>カオスは決定論的な現象ですから、原理的には計算できるはず
>です。カオスはニュートン力学の本質であり、カオスな系は、むしろ
>ニュートン力学に従っていることの証拠になります。

>> しかし、脳の物理状態の時間発展のように、10^27個もの素
>>粒子が複雑に絡み合って相互作用し合う場合には、無限小の
>>差異がすぐマクロに拡大してしまう「カオス」が絡み、不確定性
>>原理レベルのミクロな差異がすぐマクロな差異に拡大するので、
>>ニュートン力学の「決定論」は全く役に立ちません。例えば、1秒
>>ごとにマクロな2つの状態に分岐すると考えてみましょう。仮に、
>>現在の友人の脳の物理状態を完全に正確に与えられたと仮定
>>しても、10秒後にはマクロに異なる1024種類の物理状態に分岐
>>してしまい、その中のどれになるのか、ニュートン力学は全く
>>予言できません。

> カオスというのは決定論的法則に従う現象のことですから、不
>確定性原理は関係ないと思いますが、まあ余計な議論は枝葉末
>節に行きがちなのでやめておきましょう。


いえ、ここが一番重要な点です。

量子力学では不確定性原理のため、脳を構成する個々の素粒子
が「粒子」と「波」の中間状態「波束」となり、位置座標も△r>0、運動
量も△p>0の不確定性を持った波動関数で表されます。脳の初期
状態を完璧に表すなら、個々の素粒子すべての状態を波動関数で
表すことになります。そして、シュレディンガー方程式を用い、10秒後
の脳状態を計算できたとすると、まさにそれがマクロに異なる1024種
類の状態の重ね合わせになる訳です。1024種類のうちどれに波動
関数が収縮するかは、量子力学でも定まらず、確率に頼るしかあり
ません。これが厳密な計算方法です。ニュートン力学の「決定論」で
は、全く近似できません。

「カオス」という言葉を私と三浦さんとは、だいぶ違った意味で使っ
ているようですね。

> B氏は、次の2種類の世界にまたがって存在しているという
>わけですね。

> ●第1類
>  C氏が「Lなら赤、Rなら青」と言う諸世界
> ●第2類
>  C氏が「Rなら赤、Lなら青」と言う諸世界

> B氏は、この二つの世界の区別を一切経験しない人生を歩んで
>きたことが必要です。
> つまり、第1類と第2類に属するあらゆる世界が、B氏のこれまで
>の人生の全経験と整合的でなければなりません。そのようなことは
>不可能でしょう。
> なぜなら、「C氏が「Lなら赤、Rなら青」と言う」という命題1と、
>「C氏が「Rなら赤、Lなら青」と言う」という命題2とは、C氏の脳
>状態や、その脳状態を形作った原因となる外的刺激などによって
>真偽が決まったのだからです。


C氏は実験直前に量子乱数サイコロを振って決めたのかもしれま
せんよ。C氏の脳内部の量子乱数サイコロかもしれませんよ。

> 命題1の必要条件を事態1、命題2の必要条件を事態2としま
>しょう。
> 事態1も事態2も、マクロな出来事です。それらは一連の因果関
>係の連鎖によっており、設定Fによって一挙に非決定論的に決
>まったことではありません。事態1、事態2は、外界の出来事から
>孤立した出来事ではなく、複雑につながっています。つまり、ここ
>までで事態1を外界から切り離して独立させられる、というような
>区切りはありません。事態2も同様です。


事態1と事態2はマクロな出来事ですが、C氏の脳内部にある多数
の量子乱数サイコロがどう転ぶかというミクロな差異で、どちらにで
もなり得るはずです。

> さて、B氏とC氏は話ができるほどの距離にいるわけですから、
>因果的に密接に繋がった同じ系に同居しています。すると、事態
>1と事態2のうち、知覚的に区別できる何らかの部分が、B氏の
>知覚(記憶を含む)に一切違いを及ぼさなかったという確率は極
>小です。
> つまり、C氏から真相を聞く以前に、B氏は、意識はできぬまま
>「命題1が真である」という情報に晒されていた可能性が大です。
> B氏の知覚は多種多様なバイアスから影響を受けていますから、
>きわめて近くにいるC氏の脳状態を決めた無数の出来事のうち、
>どれもがB氏の意識に影響を与えなかったなどという確率は、一
>般的に言ってほぼゼロでしょう。
> これは素朴な直観ですが、この素朴な直観を論破することは
>至難ではないでしょうか。つまり、素朴でない説を立てる側に、厳
>密な立証責任があります。


そもそも私は、


                【前提】


  「LかRかの違いで、友人の身体の物理状態にどういう


  違いが生じる傾向にあるか?」という「メタ情報」を私は


  一切持たない。
という状況設定の上で、


  「友人の姿が他の姿でなく、この姿だ」という情報を得


  ても、私の心身に「Lか? Rか?」という情報は入って来


  ない。
と主張していたのです。「メタ情報」を持っていたら、友人の姿を見る
ことで、私の心身に「Lか? Rか?」という情報が入って来るのは当然
ですから。で、この点について三浦さんは、合意して下さったはず。

三浦さんの反論(?)は、


  しかしそもそも、【前提】は現実的にあり得ないのでは


  ないか?
と、新たな論点を持ち出しており、いわゆる「抗弁」だと思われます。
こういう場合、三浦さんの方に、「【前提】は現実的にあり得ない」を
立証する責任が有るのではないでしょうか?

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月29日(日)05時21分37秒 返信・引用
> No.2707[元記事へ]



φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(26)/SumioBaba(馬場純雄)


[量子観念論仮説]の特徴は、「私が住む世界W1において、私の
心M1が情報を持たない領域の物理状態は、可能性を持つすべて
の状態の重ね合わせのまま、波動関数は収縮していない」です。
一方ニュートン力学には「重ね合わせ」も「波動関数の収縮」も無く、
「私が住む世界W1において、私の心M1が情報を持たない領域も、
物理状態はすべて確定している」です。ニュートン力学を支持する
立場に立つと、[量子観念論仮説]が否定されるのは当然ですよね?

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月29日(日)01時51分55秒 返信・引用
> No.2705[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

> No.2705[元記事へ]


まだらさん、ご参加ありがとうございます。

>
> 「マクロレベルでも量子力学は矛盾なく採用することができる」という結論
> になると思うのですが。
> 理論上では不確定性原理のランダムな効果がゼロにならないのに、
> 観察された結果では事実上ゼロになっているように見えるということが本来の議論のはずです。
> 観察された結果が事実上ゼロなのだから理論でも事実上ゼロ
> になると扱っても良いというのでは理論を構築する意味がないのではないでしょうか。
>


知覚世界の有様に限ると、観察の面でも理論の面でも量子力学の影響は事実上ゼロ、という現実は尊重しなければならないでしょう。

量子力学の関与が事実上ゼロなのは、プランク定数があまりに小さいからで、諸物体の速度が光速に比べて小さな系では相対論的効果が無視できるのと同様です。

さらにいえば、現段階の量子力学は相対論と矛盾するので、日常レベルの出来事の理解には、量子力学よりもニュートン力学を使うのが無難でしょう。量子論とも相対論とも矛盾しない(近似として解釈できる)最も無難な力学がニュートン力学だからです。

日常的マクロの世界で使えるような、重力理論を採り入れた新しい量子力学は、現在の量子力学とはかなり違うものになっているのではないでしょうか。重力効果が無視できるミクロレベルでは通用している現在の量子力学の常識を、重力が無視できないマクロレベルにそのままあてはめるというのは、どう見ても無謀のような気がします。ニュートン力学で考えた方がましではないでしょうか。

まあこのへんは、物理学の先生にちゃんと伺ってみなければならないところで、私の素人考えに固執するつもりはありませんが、とりあえず、マクロ世界は設定Fがないかぎり決定論的カオス、という標準的な言説に依拠しておきたいと思います。

ちょっと戻って、馬場さんの前々回の次の言についてもう一度コメントさせてください。

>
> 私が実際に体験した知覚風景をγとすると、
> 殆どの場合γは、α1、α2、α3、・・・、αnの中
> にも存在し、β1、β2、β3、・・・、βnの中にも存在し、ダブっている
> と思います。例えば、α3=γ=β8、のように。従って、γを知覚して
> も、LかRかの情報は得られず、LもRも確率1/2です。
>


常識的に考えて(これは重要な姿勢です)、AとBが互いに異なったマクロ状態だとすると、それぞれの後に「最も起こりやすい結果」は異なるだろう、ということにご注意下さい。

「直後の」連鎖を辿っていくと、差違はますます開きこそすれ、縮まることはめったにありません。

友人がLを観測した場合と、Rを観測した場合とでは、マクロな違いがありますから、互いに異なった刺激が実験室内に波及します。つまり、Lの可能な結果の集合αと、Rの可能な結果βとは、かりに確率変数にダブりがあるとしても、最頻値はαとβとでは別々の結果になると考えられます(最頻値が一致するというのは御都合主義的です)。

そして、マクロな因果律に従った結果ですから、確率変数を横軸に、確率密度を縦軸にグラフを書くと、αのグラフもβのグラフも、最頻値の左右は急速に下降するものと考えられます。

実際に私が見た友人の姿勢γは、かりにαの集合にもβの集合にも含まれているとしても、どちらか一方の最頻値のみにきわめて近いでしょう(というより、最頻値そのものでしょう)。

すると、P(γ|L)≠ P(γ|R)です。

さて、実際に友人から聞いて確かめると、観測結果はLでした。

すると、P(γ|L)≫ P(γ|R) ということがわかります。 ……①


さらに、次のようになります。


P(L)=1/2    P(R)=1/2    ←2スリット実験の設定より


P(L|γ)/P(R|γ)=(P(γ|L)/P(γ|R))×(P(L)/P(R))
=P(γ|L)/P(γ|R)


①より、この値は膨大な大きさですから、P(L|γ)/P(R|γ)≫1

よって、γに条件付けると、「私」がLかRかを確かめる前においてすでに、「これから判明するであろう方(友人が明かすであろう方)がすでに成り立っている確率はほぼ1であり、そうでない方が成り立っている確率はほぼ0である」と「私」には判断できることになります。

>
>  ニュートン力学が通用するのは、マクロで、しかも、「カオス」が絡ま
> ない2体以下の問題の場合だけです。例えば、天体の運動とか。天体
> 運動は、「太陽の周りを回る地球」や「地球の周りを回る月」のように、
> 2体問題として近似できるので、何年も先に起きる日食・月食を予言
> できるなど、高精度計算が可能です。
>


実際に計算できるかどうかと、原理的に計算できるかどうかとを混同されているようです。観念論という形而上学の話をしているのですから、原理的に計算可能かどうかを論じなければなりません。カオスは決定論的な現象ですから、原理的には計算できるはずです。カオスはニュートン力学の本質であり、カオスな系は、むしろニュートン力学に従っていることの証拠になります。

>  しかし、脳の物理状態の時間発展のように、10^27個もの素粒子が
> 複雑に絡み合って相互作用し合う場合には、無限小の差異がすぐ
> マクロに拡大してしまう「カオス」が絡み、不確定性原理レベルのミク
> ロな差異がすぐマクロな差異に拡大するので、ニュートン力学の「決
> 定論」は全く役に立ちません。例えば、1秒ごとにマクロな2つの状態
> に分岐すると考えてみましょう。仮に、現在の友人の脳の物理状態を
> 完全に正確に与えられたと仮定しても、10秒後にはマクロに異なる
> 1024種類の物理状態に分岐してしまい、その中のどれになるのか、
> ニュートン力学は全く予言できません。
>


カオスというのは決定論的法則に従う現象のことですから、不確定性原理は関係ないと思いますが、まあ余計な議論は枝葉末節に行きがちなのでやめておきましょう。

>
>  「きわめて偏った初期条件を持った」といっても、それがどう偏ってい
> るのかを知っているのは友人だけです。友人はすでに、特定の偏りを
> 持った世界に住んでいます。しかし、私はどう偏っているかを知らない
> ので、私が住む世界ではあらゆる偏り方が重ね合わせられることで、
> 偏りは完全に打ち消し合い、消滅しているでしょう。
>


「あらゆる偏り方が重ね合わせられることで、偏りは完全に打ち消し合い、消滅している」などというのはアドホックなイメージにすぎません。


「私」の住む諸世界において、私のいる部屋と実験室とは、いま一時的に隔離されているとしても、実験室は「私」の部屋と共通原因(隔離以前の)によって繋がった場所であり、「私」がこれまでに受けた情報の中には、決定論的に実験室内がどのように推移するかという情報が含まれています。

例外は、実験室内における設定FによるLかRかの実現が全く非決定論的であることだけですが、これについても、「Lならばこれこれ」「Rならばしかじか」という形で、物理状態はおおかた決定しています。

実験室内の偏りかたは、「私」のいる室外の偏りかたと共通原因によって連動しており、客観的にどう推移するかはLの場合、Rの場合それぞれ別様にですが、決まっています。すなわち、「私」がいる部屋の物理情報のかぎりにおいて、実験室内の推移も偏った形で決まっているのです。打ち消しあったりはしません。

>
> 世界WAでは、L+R→Lと確定します。
>  B氏は、C氏が「Lなら赤、Rなら青」と言うのか、それとも逆に「Rなら
> 赤、Lなら青」と言うのかを知りません。C氏が「赤」だと言うのは聞き
> ましたが、B氏が住む世界WBにおいてC氏は、「Lなら赤、Rなら青」と
> 言うC氏と、逆に「Rなら赤、Lなら青」と言うC氏の重ね合わせのまま
> です。従って、「赤」が「Lである」に対応している確率は1/2、「赤」が
> 「Rである」に対応している確率も1/2となり、B氏が住む世界WBで
> は、まだL+Rという重ね合わせのままです。
>


B氏は、次の2種類の世界にまたがって存在しているというわけですね。


●第1類


C氏が「Lなら赤、Rなら青」と言う諸世界

●第2類


C氏が「Rなら赤、Lなら青」と言う諸世界


B氏は、この二つの世界の区別を一切経験しない人生を歩んできたことが必要です。

つまり、第1類と第2類に属するあらゆる世界が、B氏のこれまでの人生の全経験と整合的でなければなりません。そのようなことは不可能でしょう。

なぜなら、「C氏が「Lなら赤、Rなら青」と言う」という命題1と、「C氏が「Rなら赤、Lなら青」と言う」という命題2とは、C氏の脳状態や、その脳状態を形作った原因となる外的刺激などによって真偽が決まったのだからです。

命題1の必要条件を事態1、命題2の必要条件を事態2としましょう。

事態1も事態2も、マクロな出来事です。それらは一連の因果関係の連鎖によっており、設定Fによって一挙に非決定論的に決まったことではありません。事態1、事態2は、外界の出来事から孤立した出来事ではなく、複雑につながっています。つまり、ここまでで事態1を外界から切り離して独立させられる、というような区切りはありません。事態2も同様です。

さて、B氏とC氏は話ができるほどの距離にいるわけですから、因果的に密接に繋がった同じ系に同居しています。すると、事態1と事態2のうち、知覚的に区別できる何らかの部分が、B氏の知覚(記憶を含む)に一切違いを及ぼさなかったという確率は極小です。

つまり、C氏から真相を聞く以前に、B氏は、意識はできぬまま「命題1が真である」という情報に晒されていた可能性が大です。

B氏の知覚は多種多様なバイアスから影響を受けていますから、きわめて近くにいるC氏の脳状態を決めた無数の出来事のうち、どれもがB氏の意識に影響を与えなかったなどという確率は、一般的に言ってほぼゼロでしょう。

これは素朴な直観ですが、この素朴な直観を論破することは至難ではないでしょうか。つまり、素朴でない説を立てる側に、厳密な立証責任があります。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月28日(土)22時12分8秒 返信・引用
> No.2702[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(25)/SumioBaba(馬場純雄)


二重スリット実験で、1個の素粒子が左を通ったLか、右を通ったR
かをC氏が観測し、LかRかを知っています。それを暗号でA氏とB氏
に教えようとします。実験室を出て来たC氏は、A氏とB氏二人の前
で「赤」と言いました。

A氏は、C氏が「Lなら赤、Rなら青」と言うことを知っています。C氏
は「赤」と言いました。従って「Lである」と推測できます。A氏が住む
世界WAでは、L+R→Lと確定します。

B氏は、C氏が「Lなら赤、Rなら青」と言うのか、それとも逆に「Rなら
赤、Lなら青」と言うのかを知りません。C氏が「赤」だと言うのは聞き
ましたが、B氏が住む世界WBにおいてC氏は、「Lなら赤、Rなら青」と
言うC氏と、逆に「Rなら赤、Lなら青」と言うC氏の重ね合わせのまま
です。従って、「赤」が「Lである」に対応している確率は1/2、「赤」が
「Rである」に対応している確率も1/2となり、B氏が住む世界WBで
は、まだL+Rという重ね合わせのままです。

A氏の視点に立つと、自分の住む世界WAでは「Lである」に確定し
たため、ついついB氏にとっても「Lである」に確定しており、B氏が
それを知らないだけ、と考えてしまいます。しかし今の場合、B氏は
LかRかを判断できるだけの十分な情報を持っていないので、B氏が
住む世界WBでは、L+Rという重ね合わせのままです。「B氏は、「Lで
ある」と判断できる十分な情報を持っているのに、自分で気付いて
いないだけ」と「B氏は、「Lである」と判断できる十分な情報を持って
いない」の違いは、ものすごく微妙なのが解ります。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月27日(金)18時17分34秒 返信・引用
> No.2703[元記事へ]

三浦俊彦様(24)/SumioBaba(馬場純雄)

> 真空中の素粒子→LもしくはR、という観測結果の実現自体は、
>量子効果を一気にマクロな二者択一へ拡大するようデザインされ
>た特殊な設定(自然界にはめったにない設定です。設定Fと呼びま
>しょう)の結果であり、偶然の決定ですから、厳密に1/2です。
>過去・現在のマクロな知覚世界の有様をいくら綿密に調べても、神
>の目から見ても、「この私の知覚世界」で次にLとRのどちらが判明
>するかは非決定的です。
> このような均等な選択肢が、マクロな出来事の可能性のすべて
>の段階(あるいは多くの段階)で生じているかのように馬場さんは
>イメージしているのではないでしょうか?


はい。そういう設定です。友人はすでにLかRかを観測して知って
おり、黙り込んでいる友人を私は見るだけ。「LかRかの違いで、
友人の身体の物理状態にどういう違いが生じる傾向にあるか?」と
いう「メタ情報」を私は一切持たない、という設定です。友人の姿を
見ただけで、私の心身に「Lか? Rか?」という情報が入って来るだ
ろうか?という問題ですね。

で、私は「なかなか入って来ないと思う」、三浦さんは「殆どの場合、
入って来ると思う」と、意見が分かれています。

> たとえば、Lを見た友人が直後に鼻を掻くかどうかとか、右の人差
>し指を20度ほど曲げるかどうかとか、空気のある分子が方向をこれ
>これの方向へ変えるかどうかとか、そういったことごとくに、LかRか
>のような(普通はもっと多くの選択肢からの)均等な物理的可能性が
>あるかのように。しかしそれは錯覚でしょう。「Lの場合もRの場合も、
>友人はあらゆる表情や口調を取り得る」なんてことはありえません。


そう言ってしまうと、「LかRかの違いで、友人の身体の物理状態に
どういう違いが生じる傾向にあるか?」という「メタ情報」を、私はいくら
か持っている、という設定になってしまいます。「メタ情報」を持った上
で友人の姿を見るのであれば、LかRかを知り得る可能性は当然出
て来るでしょうね。では、


  「「LかRかの違いで、友人の身体の物理状態にどういう


  違いが生じる傾向にあるか?」という「メタ情報」を、私は


  何も持たない」という条件が付けば、


  黙り込んだ友人を私が見たり、私が友人に頭を叩かれ


  ても、「Lか? Rか?」という情報は私の心身に入って来


  ない。
に関しては、合意でしょうか?

> 多世界解釈といっても、われわれの日常世界の各選択肢でそんな
>キメ細かい分岐をいちいち認めるわけではありません(啓蒙書には
>右手を挙げる世界と左手を挙げる世界の分岐、なんてよく書いて
>ありますが。そのくせニュートン力学は決定論的だなどとも書いて
>あります)。量子的ミクロにはさまざまな分岐が実際生じているでしょ
>うが、マクロには(巨視的な統計的現われとしては)ほとんどの論理
>的可能性さらには物理的可能性ですらニュートン力学的に測度ゼロ
>で、「いま私は観測結果を間違って認識している」という普通は考え
>ない可能性よりも小さな可能性でしょう。
> (ちなみに、馬場さんはニュートン力学を軽視しているようですが、
>ニュートン力学は、量子力学をマクロなレベルに適用したときに実
>現する確率の最も大きなパターンをきわめて高い精度で予測します
>から、知覚世界を議論するときは尊重しましょう。知覚世界は、設定
>Fがなされていないところではほぼすべてがニュートン的だと検証
>されていますが、それはもともと知覚可能スケールでニュートン力学
>になるように量子力学が作られているのですから当然のことです)。


ニュートン力学が通用するのは、マクロで、しかも、「カオス」が絡ま
ない2体以下の問題の場合だけです。例えば、天体の運動とか。天体
運動は、「太陽の周りを回る地球」や「地球の周りを回る月」のように、
2体問題として近似できるので、何年も先に起きる日食・月食を予言
できるなど、高精度計算が可能です。

しかし、脳の物理状態の時間発展のように、10^27個もの素粒子が
複雑に絡み合って相互作用し合う場合には、無限小の差異がすぐ
マクロに拡大してしまう「カオス」が絡み、不確定性原理レベルのミク
ロな差異がすぐマクロな差異に拡大するので、ニュートン力学の「決
定論」は全く役に立ちません。例えば、1秒ごとにマクロな2つの状態
に分岐すると考えてみましょう。仮に、現在の友人の脳の物理状態を
完全に正確に与えられたと仮定しても、10秒後にはマクロに異なる
1024種類の物理状態に分岐してしまい、その中のどれになるのか、
ニュートン力学は全く予言できません。脳の物理状態の時間発展は、
現在1つの状態が10秒後にはマクロに異なる1024種類の状態に分
岐し、現在マクロに異なる1024の状態が10秒後には1つの状態に収
斂しつつ、時間発展しているのです。1つの原因から1つの結果しか
導けないニュートン力学では、近似のしようが有りません。現在の脳
状態が与えられても、10秒後の脳状態は確定しておらず、マクロに
異なる1024種類のどれかが確率1/1024ずつくらいで生じる、としか
言えない訳です。

> さて、友人のいる実験室の中を私は見ていませんが、そこがマクロ
>にはきわめて偏った初期条件を持った場所であることを私は知って
>います。なので、マクロな微細変化が対称的に何でもかんでも起こり
>うるわけではありません。


「きわめて偏った初期条件を持った」といっても、それがどう偏ってい
るのかを知っているのは友人だけです。友人はすでに、特定の偏りを
持った世界に住んでいます。しかし、私はどう偏っているかを知らない
ので、私が住む世界ではあらゆる偏り方が重ね合わせられることで、
偏りは完全に打ち消し合い、消滅しているでしょう。

以上


                ******

まだら様(1)/SumioBaba(馬場純雄)


はじめまして。

>観察された結果が事実上ゼロなのだから理論でも事実上ゼロにな
>ると扱っても良いというのでは理論を構築する意味がないのでは
>ないでしょうか。


仰るとおりだと思います。だから私は三浦さんに対し、「ここでニュー
トン力学を使ったのでは、元も子も無くなる」「論点先取だ」と反発した
次第でした。

三浦さんが「ニュートン力学で十分だ」と主張されるのであれば、
ニュートン力学を使わず、量子力学だけを使って「ニュートン力学で
十分だ」を導いて見せるべきかと思います。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:まだら 投稿日:2011年 5月27日(金)14時02分36秒 返信・引用
> No.2688[元記事へ]

φさんへのお返事です。

はじめまして

お二人の議論をずっと拝見させて頂いていたのですが、行き詰っているようですね。

お二人の違いはマクロレベルでニュートン力学を採用して良いかどうかでしょう。

φ様の発言を過去ログから引用
>ニュートン力学は、量子力学から創発するマクロレベルの力学で、しかも重力など量子力学から抜け落ちている作用を含みます。マクロレベルになると、ミクロレベルでは無視できたor存在しなかったさまざまな力(重力、電磁気力(摩擦力、圧力、張力などなど))が大きな役割を演じ、不確定性原理の効果など圧倒してしまいます。したがって、馬場さんの言う非決定性が重要なのはミクロレベルを脱する瞬間であって、いったんマクロレベルに達したら、もはや不確定性原理のランダムな効果は事実上ゼロになります。

これが正しいとすると、「マクロレベルでも量子力学は矛盾なく採用することができる」という結論になると思うのですが。

理論上では不確定性原理のランダムな効果がゼロにならないのに、観察された結果では事実上ゼロになっているように見えるということが本来の議論のはずです。


観察された結果が事実上ゼロなのだから理論でも事実上ゼロになると扱っても良いというのでは理論を構築する意味がないのではないでしょうか。

見当外れな意見だということであれば、無視して下さいませ。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月26日(木)20時27分58秒 返信・引用
> No.2701[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


依然として馬場さんは、量子力学の対称的な法則のみに準拠しており、「私」が実験直前まで経験してきた特殊な諸世界の集合が全体として有しているバイアス(境界条件または初期条件)を無視しているようですが……。


すべての初期条件を均等に参加させるなら、馬場さんの言うことにも一理あるかもしれません。しかし、マクロな初期条件がきわめて特定方向に偏っているのですから、ミクロには対称的である量子力学法則をあてはめれば、当然、マクロな現われは初期の偏りをますます拡大する方向に進みます。

内容的には何やら同じところをグルグル繰り返している感なきにしもあらずですが、説得のテクニック合戦みたいになっても、まあそれなりに意義はあるでしょう。

>
>  Lの場合もRの場合も、友人はあらゆる表情や口調を取り得ると思
> われるため、友人の表情や口調がどんなものであっても(これがγ)、
> LとRの可能性が有ると思います。「Lだったら、こういう表情や口調は
> あり得ない」「Rだったら、こういう表情や口調はあり得ない」と否定で
> きる表情や口調は、何も無いと思われます。「素粒子がLだったら、ス
> クリーン上のこの位置には到達できない」「素粒子がRだったら、スク
> リーン上のこの位置には到達できない」と言えるような位置が特に
> 無く、スクリーン上のどの位置S1、S2、S3、・・・に到達しても、LとRの
> 両方の可能性が有るのと同じです。
>


真空中の素粒子→LもしくはR、という観測結果の実現自体は、量子効果を一気にマクロな二者択一へ拡大するようデザインされた特殊な設定(自然界にはめったにない設定です。設定Fと呼びましょう)の結果であり、偶然の決定ですから、厳密に1/2です。過去・現在のマクロな知覚世界の有様をいくら綿密に調べても、神の目から見ても、「この私の知覚世界」で次にLとRのどちらが判明するかは非決定的です。

このような均等な選択肢が、マクロな出来事の可能性のすべての段階(あるいは多くの段階)で生じているかのように馬場さんはイメージしているのではないでしょうか? たとえば、Lを見た友人が直後に鼻を掻くかどうかとか、右の人差し指を20度ほど曲げるかどうかとか、空気のある分子が方向をこれこれの方向へ変えるかどうかとか、そういったことごとくに、LかRかのような(普通はもっと多くの選択肢からの)均等な物理的可能性があるかのように。しかしそれは錯覚でしょう。「Lの場合もRの場合も、友人はあらゆる表情や口調を取り得る」なんてことはありえません。

多世界解釈といっても、われわれの日常世界の各選択肢でそんなキメ細かい分岐をいちいち認めるわけではありません(啓蒙書には右手を挙げる世界と左手を挙げる世界の分岐、なんてよく書いてありますが。そのくせニュートン力学は決定論的だなどとも書いてあります)。量子的ミクロにはさまざまな分岐が実際生じているでしょうが、マクロには(巨視的な統計的現われとしては)ほとんどの論理的可能性さらには物理的可能性ですらニュートン力学的に測度ゼロで、「いま私は観測結果を間違って認識している」という普通は考えない可能性よりも小さな可能性でしょう。

(ちなみに、馬場さんはニュートン力学を軽視しているようですが、ニュートン力学は、量子力学をマクロなレベルに適用したときに実現する確率の最も大きなパターンをきわめて高い精度で予測しますから、知覚世界を議論するときは尊重しましょう。知覚世界は、設定Fがなされていないところではほぼすべてがニュートン的だと検証されていますが、それはもともと知覚可能スケールでニュートン力学になるように量子力学が作られているのですから当然のことです)。


さて、友人のいる実験室の中を私は見ていませんが、そこがマクロにはきわめて偏った初期条件を持った場所であることを私は知っています。なので、マクロな微細変化が対称的に何でもかんでも起こりうるわけではありません。起こりうるマクロな出来事の種類はきわめてバイアスがかかっており、かつ、ほぼ決定論的です。量子効果はほとんど顕在化しません。たとえ量子的揺らぎが顕在的な効果を持つとしても、設定Fのようにファインチューニングされていないため、互いに相殺しあったり統計的に偏ってしまったりで、ほとんどニュートン力学の決定論的プロセスで近似できるままに推移するでしょう。例外もあるでしょうが、いまは一般的に妥当する話を考えています。


以上のことは、「実験室外の私と歴史を共有する実験室内のすべての部分的世界の分岐」についてあてはまります(実験室内は、いまは私と断絶していても、何十億年も局所的地続きの環境でいろんな作用を共有してきた歴史があるので)。こうして、確率的に起こりうることの種類は、実験室が存在する多世界全体(「あの友人」を含む実験室全体」)できわめて偏っています。その偏り方は、「すべての偏りを合わせれば、平均してすべての偏りが均等になるだろう」というようなものではありません。その点が、「スクリーン上のどの位置S1、S2、S3、・・・に到達しても、LとRの両方の可能性が有る」というのと決定的に異なるのです。

したがって、私は、計算できないまでも、「実験室の中では、きわめて偏った因果関係の推移が生じている」ことを知っています。たとえ知らなくても、私の心にはその情報と整合的な情報しか生まれてこのかた入ってきていません。

したがって、

>
> 私が実際に体験した知覚風景をγとすると、
> 殆どの場合γは、α1、α2、α3、・・・、αnの中
> にも存在し、β1、β2、β3、・・・、βnの中にも存在し、ダブっている
> と思います。例えば、α3=γ=β8、のように。従って、γを知覚して
> も、LかRかの情報は得られず、LもRも確率1/2です。


↑は、さまざまな意味で間違っています。

αとβのうちどれかがともにγとなるような程度にまでバラエティに富んだα、βが実現するなどということは、ニュートン的決定論からしてありえません(単なる量子的違いは前述のとおりめったにマクロ化しないので)。ニュートン力学(量子力学のマクロ世界における統計的現われ)は決定論的のみならずカオス的速やかに拡大せざるをえませんから、α3=γ=β8のようなダブりはまずないでしょう。たとえ例外的にダブったとしても、γに占めるαとβの測度がちょうど1/2ずつなどという御都合主義的なことはありえません。

むろん、素粒子の分布が均質である世界においてであれば(そんな世界はエントロピーが高すぎて水も酸素もDNAもないので「私」や「友人」のような生物は住めませんけれど)、LとRは、それぞれマクロな結果として平等に同じような結果を生ずることでしょう。マクロな結果は大幅にダブっており、その結果を見て、LだったかRだったかを逆算することは原理的にも不可能かもしれません。かりに人間の心がそのような世界で結果を見れば、その心は、LとRの重ね合わせにいることになるでしょう。

しかし、実際に「私の心」があるこの世界(実験室内はその一領域)は、人間の脳が存在するほどにエントロピーが低く、きわめて偏った質量分布を示しています。そこではもはや、L、Rというふうにいったんマクロ化した世界の分岐は、それぞれがカオス的非対称かつ非線形の連鎖を生ずるので、二度と同じ知覚的姿に収斂することはありません。

かりに収斂することがあったとしても、それは「たまたま」であって、設定Fのように「いつも」というわけにはいきません。私たちがいま論じているのは「このような場合に一般的にどうであるか」です。LとRの分岐が起きたときにその結果としての友人の姿γが「いつも1/2の確率でLとRの両方を支持する重ね合わせだ」などというオカルト的なことはありえない、とφは言いたいわけです。


念のため、均質な世界を考えずとも、多世界解釈でありとあらゆる偏った世界を考慮すれば、つまりマクロな質量分布としてさまざまに偏ったあらゆる世界を集めれば、全体としてL、Rそれぞれから生ずる結果は似たような集合に落ち着くではないか――――という反論は無効です。なぜなら、「この私」が住むこの世界の集合は、世界の全体集合の中で、ある特定の定まった偏りを示していることがすでにわかっているからです。「他の偏りではなく、このような偏り」なのです。

したがって、馬場さんのようにいくらα、βの諸可能性を考えたところで、それら可能性は、

①設定Fがなされていないかぎり、α、βの知覚可能規模での実現内容がそれぞれ大きく偏っているため、ダブりは起こりそうにない。設定Fが働くのは、素粒子の発射と観測器への作用というミクロ・マクロ移行の瞬間(素粒子の相互作用の以前から以後への移行瞬間)であって、目による観測器の読み取りと友人の姿勢といったマクロな出来事どうしの間にはめったに働かない。

②たとえ量子力学のミクロな対称的ゆらぎの効果がマクロに出現したとしても、初期条件(環境)の質量分布がきわめて偏っているので、マクロな出来事が対称的な小刻みな変化をくまなく実現するということはない。

③かりにマクロに対称的な変化がともに可能だった例外的な場合だけをとっても、確率までが「重ね合わせ」というに値するほど拮抗することはまずありえない。

といったような理由で、マクロな収斂は起こらないでしょう。


これは、別に私が独特な説を工夫しているわけではなく、一般に言われている量子力学ならびにニュートン力学の統計的性質をそのまま述べているだけのつもりですが……。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月25日(水)17時03分40秒 返信・引用
> No.2700[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(23)/SumioBaba(馬場純雄)

> さて、本題に戻って、
>(2a),(2b)の区分けに御不満のようだったので、より詳細に、次の
>ようにしてみましょうか。以下の文中、観測装置の有無については
>私は知っているものとします。

> (1)LorRの結果が観測され、どちらか一方に決定したのを私は
>見て、意識している。【顕在意識あり】
> (2a)LorRの結果を私は見て知っているが、いまはその結果を
>意識していない。思い出して意識しようとすればできるが、いまは
>結果について考えていない。【前意識あり】
> (2b)LorRの結果を私は見ていないが、観測装置がかたわらに
>あると知っており、結果がどちらだったのか知るにはちょっと目を向
>けて観測装置を見さえすればよい。(私は結果を無意識にも知らな
>いが、周囲の手掛かりから簡単に知ることができる)【潜在意識あり】
> (2c)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置を直接見ること
>もできないが、装置の音や振動や操作員の足音や次の段取りの
>相談の声などが洩れてくる。それらをすべて総合してじっくり考えれ
>ば、LorRのどちらが起きたのか、私の知識と能力で正しく推測でき
>る。【推測能力あり】
> (2d)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置を直接見ること
>もできないが、装置の音や振動や操作員の足音などをすべて総合
>すれば、LorRのどちらが起きたのか、量子力学の計算によって
>一義的に推測できる。ただし計算は高度すぎて私の能力では遂行
>できない。【原理的知識あり】
> (2e)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置を直接見ること
>もできないが、装置の音や振動が洩れてくる。ただしそれらはあまり
>に無個性なので、LorRのどちらが起きたのか、量子力学の計算を
>総動員しても原理的に推測できない。【知覚的相違あり】
> (2f)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置のある部屋は
>完全に遮断されていて、私のいる場所に知覚可能な違いをもたら
>していない。ただし近距離にある。【因果関係あり】
> (2g)観測装置のある部屋は私のいる場所から遠く離れていて、
>LorR実験時から現在までの間に、部屋からの光がまだ届いていな
>い。【測定あり】
> (3)LorRの結果を観測する観測装置が取りつけられずに実験が
>なされた。そのことを私は知っている。【測定なし】

> 馬場さんとφの相違点は、[量子観念論仮説]では一致しています。
>つまり、
>「実験室からの光や音など因果作用を私が知覚したとしても、その
>知覚内容にLかRかという情報が入っている場合と入っていない
>場合を分けねばならず、前者では私はLorRのいずれかに確定した
>世界におり、後者ではLorRが確定しない重ね合わせにいる」
> ということでは一致しているはずです。
> ところがφは、実験室からの因果作用が私に知覚された場合、
>LかRかという情報はまず間違いなく入っている、と考え、馬場さん
>は、入っていない場合が多い、と考えるわけです。
> LorRが「私」の世界で収縮したかどうかについて整理すると、こう
>でしょう。

> ■実在論 (1)~(2g)では世界は収縮しており、(3)では重ね合
>わせである。
> ■φの[量子観念論仮説] (1)~(2d)では世界は収縮しており、
>(2e)~(3)では重ね合わせである。ただし、(2e)に相当する場合
>は、意図的にデザインしないかぎり、日常の自然状態ではめったに
>起こらない。理由は、量子力学は巨視的近似がニュートン力学的
>カオスを呈するような法則を持つからである。
> ■馬場さんの[量子観念論仮説] (1)~(2d)では世界は収縮し
>ており、(2e)~(3)では重ね合わせである(つまりφとまったく同じ)。
>(2e)に相当する場合は、日常の自然状態でしょっちゅう起きている。

> 馬場さんとφは、理論的なところでは一致しており、事実の認定
>((2e)がどれほど普遍的に起きているか)で不一致なのです。
> つまり法則ではなく、境界条件の認識が一致していないのです。

> 「φの[量子観念論仮説]」で、「意図的にデザイン」された場合と
>いうのはたとえばこうです。LorRの実験結果が出たら、友人は、実
>験室の中から私にちょうど正午にメールを発信するように事前に決
>めておきます。メール送信はクリックひとつでできるようになっており、
>送信のタイミングにブレが生じないような設定になっています。
> こうして、正午に私の家に何も書いてない空メールが届きます。
> 実験室と私の家とはいくつもの塀や道や広場で遮断されていて、
>因果関係といったらメール受信だけです。しかもその信号は、結果
>がLでもRでも正確に同じであるように定められていたので、私は
>手掛かりとなる知覚を一切得ていません。
> このようにデザインしておけば、私は、観測装置からの因果連鎖に
>触れながらも、観測結果については、重ね合わせに存在しています。


ここまでOKです。

> これを、メールではなく電話に変えたらどうでしょうか。自動発信で
>はなく、友人が手でかける電話です。受話器を取った私には、友人
>の発信のタイミングや、微妙な息遣いが伝わっています。そのような
>特定の知覚風景αは、Lの場合とRの場合のいずれとも同等に両立
>し、したがってLとRはともに1/2だ、などということはありえません。


なぜでしょう? ここが解りません。Lだった場合の知覚風景には、
私が知覚する以前、α1、α2、α3、・・・、αn無限個の可能性が有
り、これらにおいて発信のタイミングや微妙な息遣いは千差万別で、
可能なものはすべて存在したはずです。Rだった場合の知覚風景に
も、私が知覚する以前、β1、β2、β3、・・・、βn無限個の可能性が
有り、これらにおいて発信のタイミングや微妙な息遣いは千差万別
で、可能なものはすべて存在したはずです。私が実際に体験した知
覚風景をγとすると、殆どの場合γは、α1、α2、α3、・・・、αnの中
にも存在し、β1、β2、β3、・・・、βnの中にも存在し、ダブっている
と思います。例えば、α3=γ=β8、のように。従って、γを知覚して
も、LかRかの情報は得られず、LもRも確率1/2です。

二重スリットの干渉縞実験で、干渉を起こす場合と全く同じ状況
です。1個の素粒子が、左の穴を通ったLか右の穴を通ったRかを観
測装置で識別せず、スクリーンに到達させます。そして、スクリーン
上のS1、S2、S3、・・・どの位置に到達したかを肉眼で識別できるよ
うに、化学反応を起こさせて、マクロに拡大します。スクリーン上の
どの位置に到達した場合も(これがγに相当する)、Lだった可能性と
Rだった可能性の両方が存在し、LとRの可能性は1/2ずつです。

>確率はどちらかに極端に偏るはずです。理由はすでにこれまでの
>投稿で述べたので省略します。

>??というわけで、「重ね合わせ」と言うに値する確率を保証するため
>には、よほどの意図的ファインチューニングが必要でしょう。

> というわけで、事実問題として、馬場さんの立場が説得力を持って
>いるとは思えません。
> つまり、(2e)に相当するような場合の認定が甘すぎます。なにしろ、
>http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2679 と
>http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2676 を合わせると、馬場さん
>はたとえば、次のような状況さえ(2e)に含めているからです。実験
>結果を見た友人が私の目の前にいて、その表情や口調が私に知覚
>されている、という状況です。そういう状況であってすら、友人があ
>からさまにLかRか答えを教えてくれるまで私の世界はLorRのいず
>れにも収縮しない、というのはφにはとうてい信じられません。


Lの場合もRの場合も、友人はあらゆる表情や口調を取り得ると思
われるため、友人の表情や口調がどんなものであっても(これがγ)、
LとRの可能性が有ると思います。「Lだったら、こういう表情や口調は
あり得ない」「Rだったら、こういう表情や口調はあり得ない」と否定で
きる表情や口調は、何も無いと思われます。「素粒子がLだったら、ス
クリーン上のこの位置には到達できない」「素粒子がRだったら、スク
リーン上のこの位置には到達できない」と言えるような位置が特に
無く、スクリーン上のどの位置S1、S2、S3、・・・に到達しても、LとRの
両方の可能性が有るのと同じです。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月25日(水)05時14分30秒 返信・引用
> No.2699[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


(B=B1+B2)の論法については、とくに述べるべきことはないように思われます。普通の観念論ですよね。「私」の心の外側でも、日常的レベルでは近似的にニュートン力学が成り立つような世界に私が住んでいる確率が高いことは、ベイズ的仮説検定により証明できるでしょう。

これについては必要が生じ次第戻るとさせていただいて、


さて、本題に戻って、
(2a),(2b)の区分けに御不満のようだったので、より詳細に、次のようにしてみましょうか。以下の文中、観測装置の有無については私は知っているものとします。


(1)LorRの結果が観測され、どちらか一方に決定したのを私は見て、意識している。【顕在意識あり】

(2a)LorRの結果を私は見て知っているが、いまはその結果を意識していない。思い出して意識しようとすればできるが、いまは結果について考えていない。【前意識あり】

(2b)LorRの結果を私は見ていないが、観測装置がかたわらにあると知っており、結果がどちらだったのか知るにはちょっと目を向けて観測装置を見さえすればよい。(私は結果を無意識にも知らないが、周囲の手掛かりから簡単に知ることができる)【潜在意識あり】

(2c)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置を直接見ることもできないが、装置の音や振動や操作員の足音や次の段取りの相談の声などが洩れてくる。それらをすべて総合してじっくり考えれば、LorRのどちらが起きたのか、私の知識と能力で正しく推測できる。【推測能力あり】

(2d)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置を直接見ることもできないが、装置の音や振動や操作員の足音などをすべて総合すれば、LorRのどちらが起きたのか、量子力学の計算によって一義的に推測できる。ただし計算は高度すぎて私の能力では遂行できない。【原理的知識あり】

(2e)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置を直接見ることもできないが、装置の音や振動が洩れてくる。ただしそれらはあまりに無個性なので、LorRのどちらが起きたのか、量子力学の計算を総動員しても原理的に推測できない。【知覚的相違あり】

(2f)LorRの結果を私は見ていないし、観測装置のある部屋は完全に遮断されていて、私のいる場所に知覚可能な違いをもたらしていない。ただし近距離にある。【因果関係あり】

(2g)観測装置のある部屋は私のいる場所から遠く離れていて、LorR実験時から現在までの間に、部屋からの光がまだ届いていない。【測定あり】

(3)LorRの結果を観測する観測装置が取りつけられずに実験がなされた。そのことを私は知っている。【測定なし】


馬場さんとφの相違点は、[量子観念論仮説]では一致しています。つまり、
「実験室からの光や音など因果作用を私が知覚したとしても、その知覚内容にLかRかという情報が入っている場合と入っていない場合を分けねばならず、前者では私はLorRのいずれかに確定した世界におり、後者ではLorRが確定しない重ね合わせにいる」

ということでは一致しているはずです。

ところがφは、実験室からの因果作用が私に知覚された場合、LかRかという情報はまず間違いなく入っている、と考え、馬場さんは、入っていない場合が多い、と考えるわけです。

LorRが「私」の世界で収縮したかどうかについて整理すると、こうでしょう。


■実在論 (1)~(2g)では世界は収縮しており、(3)では重ね合わせである。

■φの[量子観念論仮説] (1)~(2d)では世界は収縮しており、(2e)~(3)では重ね合わせである。ただし、(2e)に相当する場合は、意図的にデザインしないかぎり、日常の自然状態ではめったに起こらない。理由は、量子力学は巨視的近似がニュートン力学的カオスを呈するような法則を持つからである。

■馬場さんの[量子観念論仮説] (1)~(2d)では世界は収縮しており、(2e)~(3)では重ね合わせである(つまりφとまったく同じ)。(2e)に相当する場合は、日常の自然状態でしょっちゅう起きている。


馬場さんとφは、理論的なところでは一致しており、事実の認定((2e)がどれほど普遍的に起きているか)で不一致なのです。

つまり法則ではなく、境界条件の認識が一致していないのです。


「φの[量子観念論仮説]」で、「意図的にデザイン」された場合というのはたとえばこうです。LorRの実験結果が出たら、友人は、実験室の中から私にちょうど正午にメールを発信するように事前に決めておきます。メール送信はクリックひとつでできるようになっており、送信のタイミングにブレが生じないような設定になっています。

こうして、正午に私の家に何も書いてない空メールが届きます。

実験室と私の家とはいくつもの塀や道や広場で遮断されていて、因果関係といったらメール受信だけです。しかもその信号は、結果がLでもRでも正確に同じであるように定められていたので、私は手掛かりとなる知覚を一切得ていません。

このようにデザインしておけば、私は、観測装置からの因果連鎖に触れながらも、観測結果については、重ね合わせに存在しています。

これを、メールではなく電話に変えたらどうでしょうか。自動発信ではなく、友人が手でかける電話です。受話器を取った私には、友人の発信のタイミングや、微妙な息遣いが伝わっています。そのような特定の知覚風景αは、Lの場合とRの場合のいずれとも同等に両立し、したがってLとRはともに1/2だ、などということはありえません。確率はどちらかに極端に偏るはずです。理由はすでにこれまでの投稿で述べたので省略します。
というわけで、「重ね合わせ」と言うに値する確率を保証するためには、よほどの意図的ファインチューニングが必要でしょう。


というわけで、事実問題として、馬場さんの立場が説得力を持っているとは思えません。

つまり、(2e)に相当するような場合の認定が甘すぎます。なにしろ、http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2679 と http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2676 を合わせると、馬場さんはたとえば、次のような状況さえ(2e)に含めているからです。実験結果を見た友人が私の目の前にいて、その表情や口調が私に知覚されている、という状況です。そういう状況であってすら、友人があからさまにLかRか答えを教えてくれるまで私の世界はLorRのいずれにも収縮しない、というのはφにはとうてい信じられません。


馬場さんのこの認定はマクロな分岐の収斂を認めており、ニュートン力学的にまず確率ゼロです。そして、量子力学はマクロな近似としてはニュートン力学にならざるをえません。巨視的なレベルで不確定性原理が強い効果を持つような世界は、そもそも生物が誕生できず、「私」が存在できないという意味で、排除されています。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月24日(火)18時17分34秒 返信・引用
> No.2696[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(22)/SumioBaba(馬場純雄)


こういう論法はどうでしょうか?


4次元時空としての全宇宙をBとし、任意の一部をB1、残りの部分を
B2とします。(B=B1+B2)。B1は、人間の脳でも良いし、左脳だけ、1個
のニューロンだけ、1個の分子・原子・素粒子だけでも良いし、石ころ、
机、椅子、鉛筆、消しゴム、・・・でも良いです。B1の時間の厚みも、小
さくても大きくてもOKです。

B1をすっぽり包み込む微小厚さe(→0)の外部表面膜領域をBe、B2
からBeを除いた領域をB2-Beで表します。e→0の極限で、BeはB1と
B2の境界面になり、B2-BeはB2になります。

さらに、現代科学の常識と思われる次の2点を仮定します。


                  [A]


  すべての物理的相互作用は、光速以下で空間を伝わり、


  距離ゼロまで接近して初めて及ぼし合える「局所的相互


  作用」であり、空間的距離を飛び越えて及ぼし合う「非局


  所的相互作用」など存在しない。


                  [B]


  心は脳の機能なのであって(心・脳同一説)、非物質的


  実体「霊魂」などは存在しない。


全宇宙Bの物理状態を、4次元時空内で多数の物質粒子や光子等
の世界線が絡み合った世界線ネットワーク(ファインマン・ダイヤグラ
ム)Bであると解釈します。その任意の一部がB1です。もちろんB1の
状態も、世界線ネットワークとして表現されます。

B1の物理状態だけを定めた時、「B1とB2の境界で物理法則を満た
さねばならない」という「境界条件(接続条件)」により、B2の物理状態
がどれだけ確定するか、です。確定するのはBeまでであり、B2-Be
の物理状態は定まりません。B1とB2の境界で切断されている物質
粒子や光子等の世界線を、B1からB2へと延長する時、エネルギー・
運動量等の保存則により、無限小だけはまっすぐに延びていると
推測できますが、その先がどうなっているかは全く不明だからです。

B2-Beを全く異なる物理状態B2’-Beで置き換え、B1とB2’との境界
で物理法則を満たすようにできます。



                 結論


  [A] 「非局所的相互作用」など存在しない。


  [B] 非物質的実体「霊魂」など存在しない。


  の2つを仮定すると、全宇宙Bの任意の一部であるB1


  の物理状態を定めても、残りの部分B2の中で物理状


  態が確定するのは、B1の無限小近傍Beまでであり、


  Beの外側であるB2-Beの物理状態はたかだか推測で


  きるだけで確定しない。


全宇宙をB、私の脳をB1とした場合も同じです。今私は、正常な五
体を持って活動していると思い込んでいます。しかし、私の真の姿
は培養槽に浮かぶ脳であり、マッドサイエンティストたちが私の脳B1
に様々な電気刺激を与え、いかにも正常な五体を持って日常生活
を送っているかのような擬似体験をさせているのかも?、と疑うことが
可能です。私の心M1は、私の脳B1が無限小近傍Beから受ける「局
所的相互作用」により、Beの外側の物理状態B2-Beを推測できるだ
けであり、B2-Beの物理状態を決して確実には知り得ません。

以上


(無題)
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月23日(月)18時34分35秒 返信・引用
三浦俊彦様(21)/SumioBaba(馬場純雄)

=======================================================



          <<クオリア統一理論(67)>>


          ー 量子観念論仮説(9) ー



           2011.01.09  馬場純雄



[量子観念論仮説]の主張である、


  心なしには、何も観測できない。


  心なしには、何も波動関数の収縮を起こせない。
を説明します。


よく量子力学の本に、


  物理でいうところの観測は、機械によるもので十分であり、


  人間の心による知覚・認識は不要。
という表現を目にします。いかにも波動関数収縮に、それを観測して
いる人間の心は無関係であるかのような表現です。確かに次の実験
的事実【1】は有ります。


                  【1】


  二重スリット実験で、素粒子がどちらの穴を通ったかを


  マクロな観測装置で観測するだけで、観測装置が「左の


  穴を通った」と表示しているか、「右の穴を通った」と表


  示しているかを人間の心が知覚・認識しなくても、干渉


  縞は生じなくなる。
これは正しいです。しかし、この観測においても、根本的なところで
人間の「心」が介在している事実を見逃しています。さらに、素粒子
と観測装置との相互作用において、波動関数の収縮は何一つ起き
ていません。それを説明します。


素粒子が左の穴を通った状態を|L>、右の穴を通った状態を|R>、
観測装置が「左の穴を通った」と表示している状態を|OL>、「右の穴
を通った」と表示している状態を|OR>としましょう。観測装置の状態
が|OL>か|OR>かを、自分は知覚・認識していません。人間の心が
知覚・認識していないのに、なぜ干渉縞が生じなくなったのでしょう?


  人間の心が知覚・認識しなくても、マクロな観測装置と


  素粒子が相互作用しただけで、|L>+|R>→|L>、または、


  |L>+|R>→|R>という波動関数の収縮が起きたから。
ではありません。こう考えると、人間の心なしに波動関数が収縮する
かのように誤解してしまいます。そうではなく、まだ|L>と|R>は重ね合
わせのままです。そしてこの場合の「観測」とは、こういう意味です。


                  (1)


  素粒子が|L>なら、観測装置は|OL>。つまり|L>|OL>と


  いう状態になる。


  素粒子が|R>なら、観測装置は|OR>。つまり|R>|OR>と


  いう状態になる。


  他の2つ、|L>|OR>や|R>|OL>は起こり得ないが、上の


  2つのうちどちらであるかはまだ観測していないので、


  両者の重ね合わせ状態|L>|OL>+|R>|OR>にある。
いわゆる「絡み合い」の状態です。こうなると、|L>と|R>は干渉できな
くなります。なぜなら、もし|L>と|R>が干渉したとすると、自分はこの
時、|L>+|R>という重ね合わせの状態にいた事が確定してしまいま
す。それなのにその後、観測装置が|OL>か|OR>かを調べ、素粒子
もあの時|L>と|R>のどちらか一方であったことが判明してしまうと、
不確定性原理に反し、矛盾になってしまいます。だから(1)の状態に
なると、|L>と|R>は干渉できません。

また、観測装置は必ずしもマクロでなく、ミクロであっても、1個の
素粒子であっても同じです。二重スリットに通した1個の素粒子が|L>
だったか|R>だったかという情報を、もう1個の素粒子と相互作用させ
ることで、もう1個の素粒子の状態が|OL>か|OR>かで知り得るように
確保すると、|L>と|R>は干渉しなくなります。面白いことに、一度観測
した後、観測装置を見ないまま破壊して|OL>だったのか|OR>だった
のかを識別できなくすると、また|L>と|R>の干渉が復活します。

もし人間の心が観測装置を知覚・認識し、|L>|OL>と|R>|OR>のどち
らであるかを知ると、|L>か|R>かが確定し、もちろん干渉縞は生じな
くなります。この時は4つの中のどれか1つにまで確定します。【1】で
干渉縞が生じなくなった理由は、|L>か|R>かが確定したからではな
く、まだ|L>|OL>+|R>|OR>という重ね合わせのままですが、絡み合い
になっているからだ、という点が重要です。


一方、何も「観測」していない状態とは、次の(0)で表される4つの状
態の重ね合わせです。


                  (0)


  素粒子が|L>でも、観測装置は|OL>か|OR>か不明。


  素粒子が|R>でも、観測装置は|OL>か|OR>か不明。


  |L>|OL>、|R>|OR>、|L>|OR>、|R>|OL>の4つを重ね合わ


  せた|L>|OL>+|R>|OR>+|L>|OR>+|R>|OL>という状態に


  ある。
先程こう書きました。


  二重スリット実験で、素粒子がどちらの穴を通ったかを


  マクロな観測装置で観測するだけで、観測装置が「左の


  穴を通った」と表示しているか、「右の穴を通った」と表


  示しているかを人間の心が知覚・認識しなくても、干渉


  縞は生じなくなる。
これは確かに正しいですが、この前半、


  二重スリット実験で、素粒子がどちらの穴を通ったかを


  マクロな観測装置で観測するだけで、
という時に、すでに「心」が介在している事実を、見逃してはなりませ
ん。つまり、


  素粒子と観測装置の存在および関係を「心」が知覚し、


  両者がこのような関係にある現状では、(0)ではなく(1)


  のはずだと認識することにより、(0)→(1)という波動関


  数の収縮(世界の限定)が生じた。
という形で、「心」がすでに介在しているのです。 もし「心」の介在が
無ければ、状態は自ずと(0)になってしまい、(1)になり得ません。これ
こそ[量子観念論仮説]が主張する、


  心なしには、何も観測できない。


  心なしには、何も波動関数の収縮を起こせない。
の意味です。

例えば1個の石ころは(心を持つかどうかは不明として)、自分の前
に置かれている観測装置と素粒子の関係自体を認識できないはず
です。「多世界説」によれば、石ころの状態は全く同一でありながら、
観測装置と素粒子の関係は、|L>|OL>である世界W1、|R>|OR>である
世界W2、|L>|OR>である世界W3、|R>|OL>である世界W4、いう4つの
世界が並行して存在します。石ころは自分がどの世界にいるのかを
識別できないため、嫌でもW1+W2+W3+W4という4つの世界すべてを
重ね合わせた(0)の視点に立てるだけであり、(0)→(1)という波動関数
の収縮(世界の限定)自体を起こせず、(1)の視点に立つことができな
い、ということです。


                まとめ1


  素粒子が、左の穴を通った|L>か右の穴を通った|R>か


  を観測装置で観測するだけで、観測装置が|OL>か|OR>


  かを人間の心が知覚・認識しなくても、干渉縞が生じな


  くなるのは事実だが、その原因は、|L>|OL>+|R>|OR>と


  いう絡み合いになったからであって、|L>+|R>→|L>また


  は|L>+|R>→|R>という波動関数の収縮が起きた訳では


  ない。


                まとめ2


  素粒子と観測装置の関係を知覚できる自分の心Mが、


  |L>ならば|OL>は必然、|R>ならば|OR>は必然、と認識


  することで、自分の住む世界Wでは、


      |L>|OL>+|R>|OR>+|L>|OR>+|R>|OL>


                    →|L>|OL>+|R>|OR>


  まで波動関数の収縮が起きたが、観測装置が|OL>か


  |OR>かは観測していないので、|L>|OL>+|R>|OR>という


  重ね合わせのまま、それ以上は収縮できない。



                まとめ3


  素粒子と観測装置との相互作用においては、素粒子の


  |L>+|R>という重ね合わせ状態が、観測装置までを巻き


  込み、|L>|OL>+|R>|OR>という重ね合わせに拡大された


  だけであり、波動関数の収縮など何一つ起きていない。

=======================================================

以上



                参考文献

・本論(1)~本論(97)↓
◇会議室 :【挑戦】定説への挑戦

トピック:クオリア統一理論

http://folomy.jp/heart/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=21734


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月22日(日)21時04分52秒 返信・引用
> No.2696[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(20)/SumioBaba(馬場純雄)

> いまは多世界解釈を前提にしていますよね?
> ユニタリ性が成り立つのは、あらゆる世界を考慮したときだけ
>では?
> 心による認識でいったん諸世界の集合にバイアスがかかると、
>当然、確率は偏ります。
> つまり、心の認識する世界の集合に限定すると、ユニタリ性は破れ
>ているでしょう。
> 「私」の意識と矛盾した世界も含めすべての世界を考慮に入れる
>のはナンセンスです。それだと観念論ではなく実在論になってしまい
>ます。「量子力学で許されることはすべて起きている」。それで話は
>終わってしまいます。われわれが考えているのは観念論の可能性
>なのですから、「私」の経験と整合する偏った世界だけを考えねば
>なりません。


「ユニタリ性」は、多世界解釈で存在し得るすべての世界の集合を
{W}とした場合、任意の部分集合{W1}だけの中で成立します。

私の心M1は、すでに私が住む世界W1について大量の情報を持っ
ており、{W}を、それらの情報を満たしている世界の集合{W1}と、満た
していない世界の集合{W2}に分け、{W1}の重ね合わせだけの中に
住んでいます。この{W1}が、「対称性の破れまくった、極度にバイアス
のかかった」私が住む世界W1です。

この{W1}の中で、1個の素粒子がLとRに確率1/2ずつで分岐するよ
うな実験をします。その結果、Lだった世界の集合を{W1L}、Rだった
世界の集合を{W1R}とすると、LかRかを観測していない初期状態の
時刻t0では、両者が確率1/2ずつで重ね合わせのままです。{W1L}を
WL、{W1R}をWRと略記すると、


  a・WL(t0)+b・WR(t0) [|a|^2=|b|^2=1/2]
が初期状態です。

その後、LまたはRだった1個の素粒子は、スクリーンや観測装置な
どと相互作用し、一般の時刻tには、WL(t)≠WR(t)となっていくでしょ
うが、それを、


  c・WL(t)+d・WR(t)
と書くと、必ず、|a|^2=|c|^2=1/2、|b|^2=|d|^2=1/2、を満たすことを保証
するのが「ユニタリ性」です。

でも実際には、LとRのどちらなのかを観測すると、|c|^2=1、|d|^2=0、
または、|c|^2=0、|d|^2=1、のどちらかに、波動関数が収縮しているのを
見ることになります。どこで「ユニタリ性」が破れたのか?・・・と問うのが
「観測問題」です。

> 物理学のド素人として私は一般ロジックで論じているだけであり、
>ヒュー・エヴェレットの原典は長バージョンも短バージョンも通読して
>はいるものの、多世界解釈以外はノイマンも含めほとんど読んでい
>ませんので、ノイマンの理論の妥当性については知りません。
>フォン・ノイマンを読まずに量子論を語るなと言われそうですから、
>いずれノイマンも読んでみようと思います。

>>   (1) 自分が住む世界W1において、L+R→L、または、L+R→R
>>     という波動関数の収縮が起きている。(W1において、LとR
>>     のどちらであるかを、自分は知っている。)
>>   (2) 自分が住む世界W1において、L+Rという重ね合わせの
>>     ままだが、LとRは干渉しない。(W1において、LとRのどちら
>>     であるかを自分は知らないが、素粒子と観測装置が絡み
>>     合いになっているのを知っているので、観測装置を見る
>>     ことで、LかRかを知る方法が存在している。)
>>   (3) 自分が住む世界W1において、L+Rという重ね合わせ状態
>>     であり、LとRは干渉する。(W1において、LとRのどちらで
>>     あるかを自分は知らないし、LとRが干渉すれば、どちらだ
>>     ったのかを知る方法は無くなる。)
>>(1)と(2)の区別、してますか? (1)と(2)の区別、必要でしょうか?

> (2)は、実験はなされたが、LかRかを知る方法をまだ適用していな
>い時点のことを言っていますよね。
> (2)の「自分は知らない」を、単に意識として言い当てることができな
>いだけで、実験室から光か音か振動が微小でも漏れてきたのを私が
>感じているとすれば(2aとしましょう)、(1)と(2a)は同じです。客観的
>に(計算できないだけで主観的にも)私の世界は収縮しているので。


(2)を2つに分ける場合、「意識はしていないが、無意識的にLかRか
を知っている場合」(2a)と、「意識しておらず、無意識的にも知らない
場合」(2b)に分けるべきです。実験室からの光や音を私が知覚したと
しても、LかRという情報が入っている場合と入っていない場合の両方
が有り得ます。

> 光も音も振動も一切洩れていないとすれば(2bとしましょう)、(1)と
>(2b)は異なります。(2b)と(3)がまったく同じことであるというのが、
>私の[量子観念論仮説]です。


そんな事が言えるでしょうか? (2)は[(2a)も(2b)も]、LとRが干渉しま
せん。(3)はLとRが干渉します。(2b)と(3)は異なります。

素粒子が|L>の場合の観測装置を|OL>、素粒子が|R>の場合の観測
装置を|OR>とすると、(2b)では両者の絡み合い|L>|OL>+|R>|OR>です。
(3)では観測していないので、|L>|OL>+|R>|OR>+|L>|OR>+|R>|OL>と、
4つ全部の重ね合わせです。4つ全部の重ね合わせだと、
|L>|OL>+|R>|OR>+|L>|OR>+|R>|OL>=(|L>+|R>)(|OL>+|OR>)と因数分解
できるため、「|L>か? |R>か?」と「|OL>か? |OR>か?」の相関が無くなります。

> 馬場さんの[量子観念論仮説]は、すでに(2a)が(3)と同じことだ
>というわけですね。
> そんなことは、「私」のこれまでの知覚世界の非対称性からして
>ありえない、というのが私の主張です。


私の[量子観念論仮説]では、(2a)は(1)に等しいですよ。この点は、
三浦さんと同じです。ただし、(2a)と(2b)の分け方を少し変えましたが。

> 整理すると、
> ■実在論 (1)(2a)(2b)では世界は収縮しており、(3)では重ね
>合わせである。
> ■私の[量子観念論仮説] (1)(2a)では世界は収縮しており、
>(2b)(3)では重ね合わせである。
> ■馬場さんの[量子観念論仮説] (1)では世界は収縮しており、
>(2a)(2b)(3)では重ね合わせである。


(1)は、|L>か|R>の一方に確定している状態。

(2a)は、(1)と同じ。

(2b)は、|L>|OL>+|R>|OR>という絡み合い状態。

(3)は、(|L>+|R>)(|OL>+|OR>)という無相関状態。
結局、(1)と(2a)、(2b)、(3)の3つを区別すべきです。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月22日(日)03時53分20秒 返信・引用
> No.2695[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>
> 量子力学における物理状態の時間発展は「ユニタリ」であることが、
> 一応常識となっています。1個の素粒子が一度確率1/2ずつで、左の
> 穴を通った世界WLと、右の穴を通った世界WRとの重ね合わせ状態
> a・WL(t)+b・WR(t) [|a|^2=|b|^2=1/2]になると、この素粒子が他の物体
> とどんな相互作用をし、WL(t)とWR(t)とがどれほど異なる状態になろう
> と、|a|^2=|b|^2=1/2は保たれる、という性質です。
>  だからこそ、私がシュレディンガーの猫を見る時も、猫(生+死)→私の
> 目→私の視神経→私の脳、まで来ても重ね合わせが伝染するだけで
> 収縮は有り得ず、私の脳→私の心(抽象自我)の部分で初めて収縮す
> る、というV・ノイマンの論法につながります。
>


いまは多世界解釈を前提にしていますよね?

ユニタリ性が成り立つのは、あらゆる世界を考慮したときだけでは?

心による認識でいったん諸世界の集合にバイアスがかかると、当然、確率は偏ります。

つまり、心の認識する世界の集合に限定すると、ユニタリ性は破れているでしょう。

「私」の意識と矛盾した世界も含めすべての世界を考慮に入れるのはナンセンスです。それだと観念論ではなく実在論になってしまいます。「量子力学で許されることはすべて起きている」。それで話は終わってしまいます。われわれが考えているのは観念論の可能性なのですから、「私」の経験と整合する偏った世界だけを考えねばなりません。


物理学のド素人として私は一般ロジックで論じているだけであり、ヒュー・エヴェレットの原典は長バージョンも短バージョンも通読してはいるものの、多世界解釈以外はノイマンも含めほとんど読んでいませんので、ノイマンの理論の妥当性については知りません。フォン・ノイマンを読まずに量子論を語るなと言われそうですから、いずれノイマンも読んでみようと思います。

ただ、ノイマンだって、「私の心」が意識した手掛かりすべてと量子力学の法則とを合わせれば、猫の生死がそこで決まると言うわけでしょう。意識された手掛かりは当然この世界の物理的配置に従いバイアスがかかっていますから、そこに法則を適用すれば、「生死を意識的に知る前」であっても帰結するのはきわめて偏った確率のはずです。単に「意識的に知っていないから」という理由で、生死の確率1/2、などとノイマンは言わないでしょう。もし言っていたらノイマンがおかしいと思いますよ。

むろん、意思決定理論などでベイズ主義を採るときは、「意識的に知っていなければ1/2」と考えざるをえません。しかし物理学の話ですから、客観確率で考えるべきです。

>
>     (1) 自分が住む世界W1において、L+R→L、または、L+R→R
>       という波動関数の収縮が起きている。(W1において、LとR
>       のどちらであるかを、自分は知っている。)
>     (2) 自分が住む世界W1において、L+Rという重ね合わせの
>       ままだが、LとRは干渉しない。(W1において、LとRのどちら
>       であるかを自分は知らないが、素粒子と観測装置が絡み
>       合いになっているのを知っているので、観測装置を見る
>       ことで、LかRかを知る方法が存在している。)
>     (3) 自分が住む世界W1において、L+Rという重ね合わせ状態
>       であり、LとRは干渉する。(W1において、LとRのどちらで
>       あるかを自分は知らないし、LとRが干渉すれば、どちらだ
>       ったのかを知る方法は無くなる。)
> (1)と(2)の区別、してますか? (1)と(2)の区別、必要でしょうか?
>


(2)は、実験はなされたが、LかRかを知る方法をまだ適用していない時点のことを言っていますよね。

(2)の「自分は知らない」を、単に意識として言い当てることができないだけで、実験室から光か音か振動が微小でも漏れてきたのを私が感じているとすれば(2aとしましょう)、(1)と(2a)は同じです。客観的に(計算できないだけで主観的にも)私の世界は収縮しているので。

光も音も振動も一切洩れていないとすれば(2bとしましょう)、(1)と(2b)は異なります。(2b)と(3)がまったく同じことであるというのが、私の[量子観念論仮説]です。


馬場さんの[量子観念論仮説]は、すでに(2a)が(3)と同じことだというわけですね。

そんなことは、「私」のこれまでの知覚世界の非対称性からしてありえない、というのが私の主張です。


ちなみに、LかRかというのは、これまでの世界の歴史(「私」の心の経歴すべて)と平等に両立します。客観的に1/2ずつです(すべての諸世界でも、「私」のバイアスのかかった諸世界でも同じこと)。ここではニュートン力学の出番はありません。

ところが、いったん私の視界や聴覚に入った「友人の姿勢α」というマクロな出来事について、「Lを見たからαになった」「Rを見たからαになった」のいずれかというのは、ニュートン力学からして、これまでの世界の歴史(「私」の心の経験の経歴すべて)と平等に両立しません。客観的に確率ほぼ1とほぼゼロに分離しています(すべての諸世界でならともかく、「私」の認識のバイアスのかかった諸世界では)。つまり、素粒子の集団が、巨視的な近似をしたときニュートン力学に従わないような具合に量子力学が働くということは確率的に極小(そんな諸世界の測度はほぼゼロ)だからです。(とっくの昔に(ビッグバンの直後あたりに)分岐した諸世界の中には、巨視的な近似をしたときニュートン力学に従わない諸世界があるかもしれません。しかしそういう諸世界は「私」とは因果的に関係ありません)。


整理すると、

■実在論 (1)(2a)(2b)では世界は収縮しており、(3)では重ね合わせである。

■私の[量子観念論仮説] (1)(2a)では世界は収縮しており、(2b)(3)では重ね合わせである。

■馬場さんの[量子観念論仮説] (1)では世界は収縮しており、(2a)(2b)(3)では重ね合わせである。


(2a)と(3)を同等視する((1)と(2a)を切り離す)には、心が感じる「意味」が「物理的配置」を決定するという、呪術的・言霊的・オカルト的世界観が必要になります。(1)と(2a)の本質的違いは、意味として情報が確定したかどうかだけですから。物理現象としては、諸世界の集合は(2a)の情報ですでに十分収縮させられているのです。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月21日(土)14時43分9秒 返信・引用
> No.2694[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(19)/SumioBaba(馬場純雄)

>>  「対称性の破れまくった、極度にバイアスのかかった」
>> 私が住む世界W1の中で、1個の素粒子がLとRに、確率1/2ずつで重
>> ね合わせた状態で、時間発展していくような実験をしているはずです。
>> それなのに、確率1/2ずつにならないとでも?

> 再び言いますが、対称性が成り立つのは、他の素粒子と相互作用
>しない間だけです。

> 馬場さんは、他の素粒子と相互作用しない素粒子の対称的なゆら
>ぎの例ばかり出して論じているようですが、巨視的世界のすべての
>粒子がそのように振る舞うと想定しているのであれば、そんな非現
>実的な「量子力学」は世界を記述できず、当然、ニュートン力学と
>矛盾し、ニュートン力学の方が正しくなりますよ。
> もちろん、馬場さんのようにではなく、分布の極端に偏った素粒子の
>諸集団(マクロなデコボコの日常世界という境界条件)に正しく量子
>力学をあてはめれば、ニュートン力学よりも精密な計算ができること
>に私も異論ありません。
> 馬場さんが持ち出す法則は正しくても、あてはめる境界条件が間
>違っているのです。
> つまり、馬場さんは「境界条件無視の誤謬」を犯しています。観念
>論を論じる私たちはすでに、観念論を考える人間の脳のようなもの
>が実現しているきわめて非対称な世界に住んでいるのです。その
>境界条件(初期条件)のもとで、量子力学から何が帰結するかを確
>率計算しなければなりません。馬場さんのように、すべての素粒子
>が自由粒子であるかのように扱うのは、初期条件に反しているわけ
>です。
> 粒子は相互作用をするので、マクロな物体が複雑に関係している
>ニュートン的世界では、質量の不均衡により、相互作用の多い部分
>と少ない部分の差が拡大し、特定の結果だけが確率的に実現する。
>そのことはなんら量子力学に反しないばかりか、その必然的帰結です。

>>  ここでニュートン力学を使ったら、それこそ元も子もなくなります。
>> 「ミクロなら量子力学、マクロならニュートン力学」という御都合主義
>> の使い分けをやめ、多世界解釈でミクロとマクロを統一的に説明し
>> ようと試みているのですから。

> 御都合主義ではありません。観念論における知覚世界は統計的
>に偏った世界です。自由粒子の対称的な乱舞とはわけが違うのです。
> 個々の人間の心理学と、国家の政治学とを分けるのが御都合主義
>とは誰も言わないでしょう。自由粒子の量子力学(ミクロ)と、素粒子
>の膨大な絡み合いから成る非対称なマクロ世界を分けて考えるの
>は、統計がどれだけ効果を現わすかの違いであり、いわゆる相転移
>する前と後の違いでしょう。

>>  私がどんな世界W1に住んでいようと、二重スリット実験でLとRとが
>> 確率1/2ずつで起きるような実験をすれば、LとRが確率1/2ずつで
>> 重ね合わせになると思いますけど・・・? 違うのでしょうか?

> 前述のとおり、素粒子が何かの攪乱を受けてしまうと、1/2にはなり
>ません。
> 繰り返すと、馬場さんへの提言としては、対称的な法則だけに囚わ
>れるのでなく、現にバイアスのかかっている境界条件(観測選択効果
>で選ばれた境界条件)を考慮せよ、ということのようです。


自由粒子だけを考えているつもりは無いですよ。

量子力学における物理状態の時間発展は「ユニタリ」であることが、
一応常識となっています。1個の素粒子が一度確率1/2ずつで、左の
穴を通った世界WLと、右の穴を通った世界WRとの重ね合わせ状態
a・WL(t)+b・WR(t) [|a|^2=|b|^2=1/2]になると、この素粒子が他の物体
とどんな相互作用をし、WL(t)とWR(t)とがどれほど異なる状態になろう
と、|a|^2=|b|^2=1/2は保たれる、という性質です。

だからこそ、私がシュレディンガーの猫を見る時も、猫(生+死)→私の
目→私の視神経→私の脳、まで来ても重ね合わせが伝染するだけで
収縮は有り得ず、私の脳→私の心(抽象自我)の部分で初めて収縮す
る、というV・ノイマンの論法につながります。

三浦さんのご主張は、「この素粒子が周囲の物体と相互作用する時
に「ユニタリ」性が壊れる」、ですか? 「デコヒーレンス」?


1つ重要な点として、「LとRは干渉しなくなる」と「L+R→L、または、
L+R→Rという波動関数の収縮が起きる」とは異なる、という区別を、
考慮してますか? [量子観念論仮説]では、LとRについて、3つの場合
分けが必要かと思われます。


  (1) 自分が住む世界W1において、L+R→L、または、L+R→R


    という波動関数の収縮が起きている。(W1において、LとR


    のどちらであるかを、自分は知っている。)


  (2) 自分が住む世界W1において、L+Rという重ね合わせの


    ままだが、LとRは干渉しない。(W1において、LとRのどちら


    であるかを自分は知らないが、素粒子と観測装置が絡み


    合いになっているのを知っているので、観測装置を見る


    ことで、LかRかを知る方法が存在している。)


  (3) 自分が住む世界W1において、L+Rという重ね合わせ状態


    であり、LとRは干渉する。(W1において、LとRのどちらで


    あるかを自分は知らないし、LとRが干渉すれば、どちらだ


    ったのかを知る方法は無くなる。)
(1)と(2)の区別、してますか? (1)と(2)の区別、必要でしょうか?

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月20日(金)21時37分6秒 返信・引用
> No.2693[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>
> 「対称性の破れまくった、極度にバイアスの
> かかった」私が住む世界W1の中で、二重スリット実験を行えば、1個
> の素粒子がLとRに、確率1/2ずつで重ね合わせた状態で、時間発展
> していきます。W1が「対称性の破れまくった、極度にバイアスのかかっ
> た」世界だからといって、この確率が変わることは無いですよね?
>


それは、すべての世界で量子力学の一般法則が成り立っているからです。

素粒子の配置(非対称的な分布)の方は、一般法則ではなく境界条件ですから、世界ごとに大幅に異なります。すべての世界は、ミクロには共通であり、マクロにはそれぞれ偏っているということです。

だから、二重スリットで確率1/2になるのは、環境独特の境界条件に攪乱されない場合だけです。つまり、素粒子が他の素粒子と相互作用しない間だけです。二重スリット実験などは、攪乱を周到に避ける環境で行なわれるでしょう。

人間の脳などを生み出した巨視的環境は、非対称で不均質な攪乱だらけですから、自然環境や日常的環境で二重スリットのような重ね合わせが実現されることはめったにありません(物理実験の環境に似た条件が偶然揃うようなことがあれば別ですが、「私」と「友人」の会話のような雑然とした動きを含むオープンな環境ではとうてい無理でしょうね……)。

ともあれ、他の素粒子と相互作用すれば、とくにスリットの検出器とかスクリーンのような膨大な素粒子から成る物体と相互作用すれば、対称性は破れ、偏った結果が生じるでしょう。検出器やスクリーンとの相互作用が1/2の結果を出すのは、それ以外の相互作用を極力避けているからです。前述のとおり、磁場などの攪乱があれば、当然、1/2からズレるでしょう。

対称性の破れ方は世界ごとに異なりますが、巨視的な物体どうしが相互作用した場合には、ニュートン力学に従う破れ方が圧倒的に確率が高い(ニュートン的世界が圧倒的多数である)わけです。なぜなら、ニュートン力学は巨視的な経験データの一般化であり、多数の粒子の統計的に最も高確率の組み合わせパターンを巨視的な近似で記述しているからです。

>
>  それって、「マクロな物体に、異なる状態の重ね合わせは不可能」
> という意味ですか? なぜでしょう? 今まさにその点を、議論している
> はずなのに・・・。
>  つまり、量子力学だけで(ニュートン力学で近似せずに)、「マクロな
> 物体に、異なる状態の重ね合わせは不可能」を導けるかどうか、です。
> そして、「量子力学に忠実に従うなら、マクロな物体でも異なる状態
> の重ね合わせが有るはずだ」と主張しているのです。それに対する
> 三浦さんの答は、「マクロな物体に、異なる状態の重ね合わせは不可
> 能」「なぜなら、マクロな物体はニュートン力学に従うからだ」ですか?
> それって、典型的な論点先取でしょう。
>


多世界論者にとっては、「マクロな物体に、異なる状態の重ね合わせは不可能」ではないはずです。現に、シュレーディンガーの猫については、私は重ね合わせを認めるつもりですし。

分岐が微細なので対称性が成り立ってまったく同じ状態に復帰可能な場合(ミクロの二重スリット実験の場合など)と、分岐が大きいため統計的カオスにより非可逆的に遠ざかってはいるが知覚される環境が不可識別である場合(マクロに拡大したシュレーディンガーの猫で、部屋が厳重に密閉されている場合など)では、「私」の世界で重ね合わせが生じると考えるべきです。しかし、同じ状態に帰着しないならば、対称性の破れが経験されてしまいます。別様の対称性破れが生じた世界は、現在のこの私の知覚とは矛盾し、この私ともはや経験を共有しない分身が分岐しています。「この私の世界」が観念論的かどうかを考えるときは、経験を厳密に共有する「私」の束(きわめて非対称な束)だけを考えねばなりません。
二重スリット実験だって、対称性が破れたら到達跡が可視化マクロ化し、重ね合わせがただちに消えます。それと同じことを始めからマクロの場合で私は言っているだけなのですが。

>
>  「対称性の破れまくった、極度にバイアスのかかった」
> 私が住む世界W1の中で、1個の素粒子がLとRに、確率1/2ずつで重
> ね合わせた状態で、時間発展していくような実験をしているはずです。
> それなのに、確率1/2ずつにならないとでも?
>


再び言いますが、対称性が成り立つのは、他の素粒子と相互作用しない間だけです。

>
>  そう言ってしまうと、「量子力学は間違いで、ニュートン力学の方が
> 正しい」と言っているかのように、聞こえてしまいます。
>  ちなみに、マクロだからと言って、ニュートン力学の近似が必ず成立
> するとは限りません。マクロな物理現象の中にも、ニュートン力学では
> 説明できず、量子力学を用いて初めて理解できる「マクロ量子効果」
> も、数多く見つかっています。量子力学の方がより厳密な理論である
> ことは間違い有りません。ニュートン力学という近似法則を使わず、
> ミクロもマクロも量子力学だけで統一的に説明して見せることが課題
> です。特に「波動関数が収縮するように見えるのはなぜか?」という点
> が大問題です。
>


馬場さんは、他の素粒子と相互作用しない素粒子の対称的なゆらぎの例ばかり出して論じているようですが、巨視的世界のすべての粒子がそのように振る舞うと想定しているのであれば、そんな非現実的な「量子力学」は世界を記述できず、当然、ニュートン力学と矛盾し、ニュートン力学の方が正しくなりますよ。

もちろん、馬場さんのようにではなく、分布の極端に偏った素粒子の諸集団(マクロなデコボコの日常世界という境界条件)に正しく量子力学をあてはめれば、ニュートン力学よりも精密な計算ができることに私も異論ありません。

馬場さんが持ち出す法則は正しくても、あてはめる境界条件が間違っているのです。

つまり、馬場さんは「境界条件無視の誤謬」を犯しています。観念論を論じる私たちはすでに、観念論を考える人間の脳のようなものが実現しているきわめて非対称な世界に住んでいるのです。その境界条件(初期条件)のもとで、量子力学から何が帰結するかを確率計算しなければなりません。馬場さんのように、すべての素粒子が自由粒子であるかのように扱うのは、初期条件に反しているわけです。

粒子は相互作用をするので、マクロな物体が複雑に関係しているニュートン的世界では、質量の不均衡により、相互作用の多い部分と少ない部分の差が拡大し、特定の結果だけが確率的に実現する。そのことはなんら量子力学に反しないばかりか、その必然的帰結です。

>
>  ここでニュートン力学を使ったら、それこそ元も子もなくなります。
> 「ミクロなら量子力学、マクロならニュートン力学」という御都合主義
> の使い分けをやめ、多世界解釈でミクロとマクロを統一的に説明し
> ようと試みているのですから。
>


御都合主義ではありません。観念論における知覚世界は統計的に偏った世界です。自由粒子の対称的な乱舞とはわけが違うのです。

個々の人間の心理学と、国家の政治学とを分けるのが御都合主義とは誰も言わないでしょう。自由粒子の量子力学(ミクロ)と、素粒子の膨大な絡み合いから成る非対称なマクロ世界を分けて考えるのは、統計がどれだけ効果を現わすかの違いであり、いわゆる相転移する前と後の違いでしょう。

>
>  例えば、α=「立っている友人の身体」である場合、
> 「立っている」からといって、猫の生死の情報は何も読み取れないので、
> AとBは、ちょうど確率1/2ずつだと思いますが・・・?
>


ただ「立っている」という漠然とした認識しかできない混濁した意識であれば、重ね合わせの中に存在していると言えるでしょうね。しかしそういう人だって、時間展開の中で推移を見ているわけであり、過去の膨大な経験もあるので、それらと整合的なのは猫の生死の一方だけのはずです。

それに通常は、瞬間だけとっても、αは視覚、聴覚、触覚などが連動して複雑微妙な知覚空間を構成しており、猫の生と死の両方と整合するような(各々1/2の確率となるような)ことはありえないでしょうね。健康な人間であるかぎり。

>
>  私がどんな世界W1に住んでいようと、二重スリット実験でLとRとが
> 確率1/2ずつで起きるような実験をすれば、LとRが確率1/2ずつで
> 重ね合わせになると思いますけど・・・? 違うのでしょうか?
>


前述のとおり、素粒子が何かの攪乱を受けてしまうと、1/2にはなりません。

繰り返すと、馬場さんへの提言としては、対称的な法則だけに囚われるのでなく、現にバイアスのかかっている境界条件(観測選択効果で選ばれた境界条件)を考慮せよ、ということのようです。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月20日(金)16時43分56秒 返信・引用
> No.2692[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(18)/SumioBaba(馬場純雄)

> 馬場さんはどうも、「この私の視点」の話をしていることをお忘れで
>はないでしょうか。
> 観念論ですから、私の心が捉える世界が問題になっていますよね。
> 心が経験する世界は、そもそも「心」が生み出されている時点で、
>何度も収縮を繰り返してきた(多世界のすべてから何度もスクリー
>ニングされて極小の偏った部分集合へと狭まった)諸世界です。
> 心が経験する世界は、対称性の破れまくった、極度にバイアスの
>かかった世界です。
> そこはまだ無数の諸世界の集合ですが(歴史的に絞られてきた
>部分集合の中のすべての世界に共通する事柄が「私」に経験され
>るので)、無数の世界があるからといって、対称的ではありません。
>全体として、ものすごく偏っているのです。物質の配置にしても、
>起きてきた出来事の分布にしても、きわめて非対称です。


それは解ります。しかし、「対称性の破れまくった、極度にバイアスの
かかった」私が住む世界W1の中で、二重スリット実験を行えば、1個
の素粒子がLとRに、確率1/2ずつで重ね合わせた状態で、時間発展
していきます。W1が「対称性の破れまくった、極度にバイアスのかかっ
た」世界だからといって、この確率が変わることは無いですよね?

> 対称性が破れて巨視的な物体が生じた時点で、量子力学の抽象
>的な「ランダムな結果」はミクロなレベルに限定されてしまいます。


それって、「マクロな物体に、異なる状態の重ね合わせは不可能」
という意味ですか? なぜでしょう? 今まさにその点を、議論している
はずなのに・・・。

つまり、量子力学だけで(ニュートン力学で近似せずに)、「マクロな
物体に、異なる状態の重ね合わせは不可能」を導けるかどうか、です。
そして、「量子力学に忠実に従うなら、マクロな物体でも異なる状態
の重ね合わせが有るはずだ」と主張しているのです。それに対する
三浦さんの答は、「マクロな物体に、異なる状態の重ね合わせは不可
能」「なぜなら、マクロな物体はニュートン力学に従うからだ」ですか?
それって、典型的な論点先取でしょう。

>マクロな物体がある、つまり素粒子の密集の度合が場所によって
>異なっているため、質量やエネルギーが偏在し、統計的に、ありうる
>量子的結果のうちマクロ化するのはごく一部に確率が偏ります。
> たとえば、二重スリット実験でも、実験室に一方向へ磁場がかかっ
>ていたら、右か左かの確率は1/2にならないでしょう。心が経験す
>る世界では、そのような不均質な確率的配分が世界全体でさまざ
>まな仕方で起きています。


でも今の場合、「対称性の破れまくった、極度にバイアスのかかった」
私が住む世界W1の中で、1個の素粒子がLとRに、確率1/2ずつで重
ね合わせた状態で、時間発展していくような実験をしているはずです。
それなのに、確率1/2ずつにならないとでも?

> ニュートン力学は、単に量子力学を近似したというより、巨大な
>物質が生ずるほどに対称性の破れた世界、つまり諸結果に統計
>的な偏りが生ずるようになった世界を近似する力学と言うべきで
>しょう。


量子力学では、プランク定数h(≠0)が重要な役割を果たします。hは、
人間の身体的スケールに比べると桁違いに小さいので、量子力学の
理論においてh=0と近似したものがニュートン力学です。

> その力学は、量子力学と矛盾してはなりませんが、量子力学が
>認める結果を対称的にすべて認めるようであってもなりません。
>量子的にマクロに実現しうる諸結果の一部だけを特権化して大き
>な確率を割り振ります。巨視的な摩擦力や圧力というのはそういう
>ものでしょう。量子的に特定の方向性だけを優遇して統計的に拡大
>してゆきます。


そう言ってしまうと、「量子力学は間違いで、ニュートン力学の方が
正しい」と言っているかのように、聞こえてしまいます。

ちなみに、マクロだからと言って、ニュートン力学の近似が必ず成立
するとは限りません。マクロな物理現象の中にも、ニュートン力学では
説明できず、量子力学を用いて初めて理解できる「マクロ量子効果」
も、数多く見つかっています。量子力学の方がより厳密な理論である
ことは間違い有りません。ニュートン力学という近似法則を使わず、
ミクロもマクロも量子力学だけで統一的に説明して見せることが課題
です。特に「波動関数が収縮するように見えるのはなぜか?」という点
が大問題です。

> 「この私の視点」は、このように、量子力学のミクロには依然ラン
>ダムな出来事連鎖の生み出す結果として、所与の巨視的構造に
>したがってバイアスのかかった巨視的結果だけを観測できること
>になります。
> したがって、近似とはいえ、私たちの巨視的な偏った世界がニュー
>トン力学に従うことは確証された事実です。


ここでニュートン力学を使ったら、それこそ元も子もなくなります。
「ミクロなら量子力学、マクロならニュートン力学」という御都合主義
の使い分けをやめ、多世界解釈でミクロとマクロを統一的に説明し
ようと試みているのですから。

>力学の対称的な非決定性が成り立っても(馬場さんは粒子個々の
>重ね合わせについてしか述べていないようですが)、マクロな結果
>が知覚できるほどの非対称的構造がいったん出来ているという初
>期条件にあてはめれば、不均等に分布した粒子同士の相互作用
>によって、偏った統計的結果が生じてカオス的に結果が拡大します。

> というわけで、次のようになります。

> A. 猫を見た友人の身体が状態αを示したのを私の心が捉えた
>とき、そのあとに友人が言う言葉は「猫は生きている」である。
> B. 猫を見た友人の身体が状態αを示したのを私の心が捉えた
>とき、そのあとに友人が言う言葉は「猫は死んでいる」である。

> AとBとが同じ確率であるとしたら、まさに奇跡でしょう。対称性の
>成り立つミクロレベルでは同等の結果は同等の確率を持つでしょう
>が、巨視的世界では対称性が破れており、一見同等の結果でも、
>確率は大違いです。

> αには知覚的に識別不可能ないくつもの量子的状態があるという
>のを認めるにせよ、量子効果がマクロな出来事にAとBほどの違い
>を生ずるということは、かりに可能だとしても、一方の確率が小さす
>ぎてお話にならないでしょう。
> ましてや馬場さんの寓話にあるような、友人と私との顔を見合わ
>せての会話で友人が答えを述べる瞬間まで私の世界は収縮しない、
>などというのはこの世界の巨視的非対称性に反しています。量子力
>学をこの世界の非対称的構造に適用すれば、重ね合わせが排除さ
>れるのは確率的必然です。


そうでしょうか? 例えば、α=「立っている友人の身体」である場合、
「立っている」からといって、猫の生死の情報は何も読み取れないので、
AとBは、ちょうど確率1/2ずつだと思いますが・・・?

> 馬場さんは、すべての世界を母集団として考えているように思わ
>れますが、すでに「私が存在し、知覚している世界」という例外的な
>諸世界に候補が絞られていることを忘れてはならないでしょう。
>巨視的配置が不均質であれば、結果の確率も偏ることは当然です
>から。
> くどいようですが念を押すと、「心が住む世界」は、観測選択効果
>により対称性が極度に破れており、量子力学がそこに働きつづけ
>た場合、巨視的にはきわめて偏った結果が確率的に優遇されるこ
>とになります。言い方を変えれば、巨視的にニュートン力学が成り
>立つ諸世界(Aが成り立つ諸世界)がそうでない諸世界(Bが成り立
>つ諸世界)に比べて圧倒的に大きな測度を占めるというわけです。
> AとBのようなペアを、特定の「私と友人」の実験についてのことに
>限らず、すべての実験に一般化して考えれば、「私」が知る知らない
>にかかわらず、結果がいずれか一方のみに極度に偏っているだろう
>ことはなおさら認められねばなりません。「私」の知識にとってどちら
>も同等だから「この種の実験の場合常に」確率1/2だ(あるいは「重
>ね合わせ」と称するに値するほど1/2に近い)などと言うのは(そう
>言わないと馬場さん式の「[量子観念論仮説]の主張」にならないわ
>けですが)、率直に言ってオカルト以外の何物でもないと思われます。


私がどんな世界W1に住んでいようと、二重スリット実験でLとRとが
確率1/2ずつで起きるような実験をすれば、LとRが確率1/2ずつで
重ね合わせになると思いますけど・・・? 違うのでしょうか?

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月20日(金)11時38分7秒 返信・引用
> No.2691[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

「日常的な大きな質量を扱う力学には↑は当てはまりません。量子力学の統計的効果から創発するニュートン力学の世界では、出来事はカオス的に非可逆的に進みます」
という私の言に対する馬場さんの、

>
>  それは本末転倒です。ニュートン力学は量子力学の近似法則でしか
> ないのですよ。「厳密な量子力学の方で考えると、マクロな状態でも
> 重ね合わせになっていると考えざるを得ない」と説明しているのに、
> 「マクロな状態では近似法則であるニュートン力学を使うべきだ」と反
> 論していることになります。正しいのはもちろん量子力学です。「マクロ
> な状態でも、ニュートン力学で近似できない場合が有るので、そういう
> 時にニュートン力学は使えない」が結論です。
>


馬場さんはどうも、「この私の視点」の話をしていることをお忘れではないでしょうか。

観念論ですから、私の心が捉える世界が問題になっていますよね。

心が経験する世界は、そもそも「心」が生み出されている時点で、何度も収縮を繰り返してきた(多世界のすべてから何度もスクリーニングされて極小の偏った部分集合へと狭まった)諸世界です。

心が経験する世界は、対称性の破れまくった、極度にバイアスのかかった世界です。

そこはまだ無数の諸世界の集合ですが(歴史的に絞られてきた部分集合の中のすべての世界に共通する事柄が「私」に経験されるので)、無数の世界があるからといって、対称的ではありません。全体として、ものすごく偏っているのです。物質の配置にしても、起きてきた出来事の分布にしても、きわめて非対称です。


対称性が破れて巨視的な物体が生じた時点で、量子力学の抽象的な「ランダムな結果」はミクロなレベルに限定されてしまいます。マクロな物体がある、つまり素粒子の密集の度合が場所によって異なっているため、質量やエネルギーが偏在し、統計的に、ありうる量子的結果のうちマクロ化するのはごく一部に確率が偏ります。

たとえば、二重スリット実験でも、実験室に一方向へ磁場がかかっていたら、右か左かの確率は1/2にならないでしょう。心が経験する世界では、そのような不均質な確率的配分が世界全体でさまざまな仕方で起きています。

ニュートン力学は、単に量子力学を近似したというより、巨大な物質が生ずるほどに対称性の破れた世界、つまり諸結果に統計的な偏りが生ずるようになった世界を近似する力学と言うべきでしょう。

その力学は、量子力学と矛盾してはなりませんが、量子力学が認める結果を対称的にすべて認めるようであってもなりません。量子的にマクロに実現しうる諸結果の一部だけを特権化して大きな確率を割り振ります。巨視的な摩擦力や圧力というのはそういうものでしょう。量子的に特定の方向性だけを優遇して統計的に拡大してゆきます。


「この私の視点」は、このように、量子力学のミクロには依然ランダムな出来事連鎖の生み出す結果として、所与の巨視的構造にしたがってバイアスのかかった巨視的結果だけを観測できることになります。

したがって、近似とはいえ、私たちの巨視的な偏った世界がニュートン力学に従うことは確証された事実です。個々の粒子には量子力学の対称的な非決定性が成り立っても(馬場さんは粒子個々の重ね合わせについてしか述べていないようですが)、マクロな結果が知覚できるほどの非対称的構造がいったん出来ているという初期条件にあてはめれば、不均等に分布した粒子同士の相互作用によって、偏った統計的結果が生じてカオス的に結果が拡大します。


というわけで、次のようになります。


A. 猫を見た友人の身体が状態αを示したのを私の心が捉えたとき、そのあとに友人が言う言葉は「猫は生きている」である。

B. 猫を見た友人の身体が状態αを示したのを私の心が捉えたとき、そのあとに友人が言う言葉は「猫は死んでいる」である。


AとBとが同じ確率であるとしたら、まさに奇跡でしょう。対称性の成り立つミクロレベルでは同等の結果は同等の確率を持つでしょうが、巨視的世界では対称性が破れており、一見同等の結果でも、確率は大違いです。

αには知覚的に識別不可能ないくつもの量子的状態があるというのを認めるにせよ、量子効果がマクロな出来事にAとBほどの違いを生ずるということは、かりに可能だとしても、一方の確率が小さすぎてお話にならないでしょう。

ましてや馬場さんの寓話にあるような、友人と私との顔を見合わせての会話で友人が答えを述べる瞬間まで私の世界は収縮しない、などというのはこの世界の巨視的非対称性に反しています。量子力学をこの世界の非対称的構造に適用すれば、重ね合わせが排除されるのは確率的必然です。


馬場さんは、すべての世界を母集団として考えているように思われますが、すでに「私が存在し、知覚している世界」という例外的な諸世界に候補が絞られていることを忘れてはならないでしょう。巨視的配置が不均質であれば、結果の確率も偏ることは当然ですから。

くどいようですが念を押すと、「心が住む世界」は、観測選択効果により対称性が極度に破れており、量子力学がそこに働きつづけた場合、巨視的にはきわめて偏った結果が確率的に優遇されることになります。言い方を変えれば、巨視的にニュートン力学が成り立つ諸世界(Aが成り立つ諸世界)がそうでない諸世界(Bが成り立つ諸世界)に比べて圧倒的に大きな測度を占めるというわけです。


AとBのようなペアを、特定の「私と友人」の実験についてのことに限らず、すべての実験に一般化して考えれば、「私」が知る知らないにかかわらず、結果がいずれか一方のみに極度に偏っているだろうことはなおさら認められねばなりません。「私」の知識にとってどちらも同等だから「この種の実験の場合常に」確率1/2だ(あるいは「重ね合わせ」と称するに値するほど1/2に近い)などと言うのは(そう言わないと馬場さん式の「[量子観念論仮説]の主張」にならないわけですが)、率直に言ってオカルト以外の何物でもないと思われます。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月19日(木)18時44分55秒 返信・引用
> No.2690[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(17)/SumioBaba(馬場純雄)

> 馬場さんは2つのレベルを混同していませんか?
> ミクロからマクロへの収縮の「確率」と、マクロな現象どうしの関係
>の「確率」とです。
> 不確定性原理が大きな効果を持つミクロレベルがマクロレベルに
>拡大するプロセスには、たしかに、量子論的な確率(非決定性)が
>働きます(多世界全体で見れば決定論的かつ線形なわけですが)。
>どちらのスリットを通ったかは確率1/2、猫の生死は確率1/2と
>いうのがそれです。
> しかし、確率1/2と言えるのは、いったんマクロに拡大したあとは
>ニュートン力学的な決定論で進むという現実があるからです。たと
>えば、シュレーディンガーの装置で、粒子が崩壊して青酸ガス発生器
>に作用した後にも、もしやまだ不確定性原理が大きく作用して、青酸
>が分解するかも、猫のところまで青酸が届かないかも、猫の身体に
>青酸が作用しないかも、等々は考慮に入れません。そんなことを気
>にしたら、そもそもミクロなゆらぎの拡大がマクロ的にいかなる現象
>となるのか、その確率そのものが不明になるでしょう。そんな懸念は、
>経験的データにも反しています。


そういう意味ではありません。例えば友人が私の頭を叩く場合の話
で言うと、友人の手の表面や私の頭の表面で常に量子乱数サイコロ
が振られているため、それがノイズとなってしまい、叩き方の微妙な
差異で、友人が何を考えているかといった情報までが私の心身に入
って来るとはとても思えない、ということです。

> ニュートン力学は、量子力学から創発するマクロレベルの力学で、
>しかも重力など量子力学から抜け落ちている作用を含みます。マク
>ロレベルになると、ミクロレベルでは無視できたor存在しなかった
>さまざまな力(重力、電磁気力(摩擦力、圧力、張力などなど))が
>大きな役割を演じ、不確定性原理の効果など圧倒してしまいます。
>したがって、馬場さんの言う非決定性が重要なのはミクロレベルを
>脱する瞬間であって、いったんマクロレベルに達したら、もはや不確
>定性原理のランダムな効果は事実上ゼロになります。


どういう捉え方をしておられるのか解りません。ミクロレベルでも
重力、電磁気力(摩擦力、圧力、張力などなど)は当然存在しており、
無視できないし、すべて考慮されています。(ミクロな記述の場合には、
摩擦力、圧力、張力という呼び方はしませんが、これらは電子・陽子
が光子を吸収・放出する効果として記述されます)

> 馬場さんは重力や摩擦力など、マクロレベルで初めて活躍し始め
>る力を軽視しているようですが、それは無理筋でしょう。
>話が銀河や銀河団のスケールに及んでいるのに相対論的効果を
>無視してニュートン力学に固執するのと似たようなナンセンスでは
>ないでしょうか。


「マクロレベルで初めて活躍し始める力」なんて知りません。現代物
理学でいう素粒子レベルの4種類の力---強い力、電磁気力、弱い力、
重力---すべては、ミクロレベルで活躍しています。マクロレベルの
すべての力も、この4つに還元されます。

> 二重スリット実験で、スリットの検出器が素粒子の経路をいったん
>マクロに決定したらそれがスクリーンにまで維持される(スクリーン
>でまた重ね合わせに戻っていたりしない)のと同様、いったん決まっ
>た猫の生死が友人の視界に入れば、あとは風や音や摩擦などの
>マクロな決定論的推移によって、猫の生死の一方だけが私の心に
>情報として届いてくるはずです。


友人の心M2は猫を観測したから、友人が住む世界W2で猫の生死
が確定しただけ。私の心M1が住む世界W1は、また別の話。

> 私には、ニュートン力学を無視できるという方が謎です。そもそも
>量子力学は重力を無視するわけですから、量子力学をミクロと同様
>の調子でマクロレベルでも押し通せるはずがありません。


「量子重力理論」が未完成であるのは確かですが、それは従来の
摂動論にくりこみを施す方法では計算できないというだけだあって、
重力が量子力学に従っていないと考える物理学者は、まずいないで
しょう。

> スリットの問題②で干渉縞模様を許容しなかった馬場さんなら、
>当然、友人の動きや私の知覚環境が決まった後の猫の生死の重
>ね合わせなど許容できるはずがないと思われます。猫を見た友人
>の身体の動きは、猫の生死のいずれか一方を目撃した友人の動き
>とは矛盾するわけですから。


「友人の動きや私の知覚環境」の中に、猫の生死の情報は無い
と考えるため、私の心M1が住む世界W1では、生死の重ね合わせの
ままです。

> ともあれ、生きた猫に対応するα、死んだ猫に対応するβを重ね
>合わせに分割してみたところで観念論は救済できないでしょう。私
>の心がかなりアバウトな知覚力しか持たないとしても、α、βはそれ
>ぞれある時間幅をもって知覚される状態ですから、一連の現象
>(友人や部屋全体の様子)の連鎖が、「猫の生」「猫の死」の両方の
>事態とたまたま辻褄が合う、などという確率は、ニュートン力学的に
>超極小です。


それは、α1とβ1の話です。三浦さんの話では、αというのが、α1
だけを意味するのか、α1、α2、α3、・・・、αnの重ね合わせを意味
するのか、いつも区別が無視されています。

>少なくとも、猫の視覚像や言葉による関連情報が入ってくる瞬間
>まで「私」は猫の重ね合わせにいる、などという人間本位の世界観
>は御都合主義的で、もはや多世界も量子も関係ないただの素朴な
>観念論でしょう。科学的世界像にとことん従ったところに観念論が
>立ち上がる、という面白さが[量子観念論仮説]の本意だったはず
>なのに(ですよね?)最後の詰めで反ニュートン的な観念論に依拠
>してしまっては元も子もないのでは?
> いずれにせよ、因果連鎖のマクロな収斂については、物理学者
>がどの程度シミュレーションなどやっているのか知りませんが、
>「ニュートン力学は決定論的でカオス的」という常識が覆ったとは
>聞きませんから、馬場さんのような考えは成り立たないと思われます。


「ミクロなら量子力学、マクロならニュートン力学」という使い分け
こそが、その場しのぎの「御都合主義」です。それで満足できないか
らこそ、すべてを量子力学で説明するための方法として注目されて
いるのが「多世界解釈」です。

> 私の知覚力の閾値以下の違いしか生じないような、「因果的に厳重
>に隔離された部屋の中」で量子効果がマクロに拡大されれば、それ
>はマクロな重ね合わせとして私の諸世界を決めると言えるでしょうね。


「[量子観念論仮説]の主張」までは、意見が一致している訳ですね。

>しかし、何か知覚できる音や光が漏れてくれば(E)、部屋の中での
>変遷について私が何も知る術がないとしても、もはや重ね合わせは
>ありません。現在の知覚内容だけでなく、私の経験した過去が、出
>来事Eの含意をすでに決めてしまっているからです。


このへんの違いですね。もし私が、α1+β1という2つだけの重ね合わ
せの中にいるのであれば、α1とβ1の場合において、私の身体の物
理状態にすぐに差が生じるのは確かでしょう。しかし、実際には私は、
α1、α2、α3、・・・、αn、β1、β2、β3、・・・、βnという2n個の重ね
合わせの中にいるので、その中の1つであるγが与えられても、それ
がα1、α2、α3、・・・、αn、と、β1、β2、β3、・・・、βn、のどちらに
属すかなんて、とても判らないだろうと思います。



                ******

>ともあれ依然として2つの確率の混同が見られます。
>ミクロからマクロへの収縮の「確率」と、マクロな現象どうしの関係の
>「確率」とです。

>いったん猫の生死の視覚像が友人の脳や外界に影響すれば、重力
>や摩擦力が支配する非量子力学的世界の話となり、マクロな推移
>で進みますから、αやβに重ね合わせなどありません。


いつの間にか、「波動関数の収縮は「ミクロな差異→マクロな差異」
で起きるのであって、心は無関係」に変わっちゃいましたか?

>いったんマクロに拡大した後の因果連鎖は、ニュートン力学的な統
>計的決定論で進みます。
> 死んだとき、あるいは生きている猫の姿勢が何通りもあるのでは
>ないか、と言われるかもしれませんが、青酸の瓶が割れた出来事は
>すでにマクロですから、友人が見たときの猫の姿勢もただひととおり
>です。
> また、かりに猫の姿勢が何通りも可能性があったとしても、それは
>論点に全く無関係で、αとβが一致する確率をなんら高めません。


未だに三浦さん、「α1+β1という2つだけの重ね合わせ」と「α1、α2、
α3、・・・、αn、β1、β2、β3、・・・、βnという2n個の重ね合わせ」の
区別が無いんですよね。

>> 時刻t0における1つの状態が時刻t1には多数の状態に分かれ、逆
>>に、時刻t0における多数の状態が時刻t1には1つの状態に収斂する
>>といった過程を無数に重ね合わせたまま時間発展していくのが、
>>量子力学です。

> 重力と統計的効果が無視できるミクロな世界ではそうですが、日常
>的な大きな質量を扱う力学には↑は当てはまりません。量子力学の
>統計的効果から創発するニュートン力学の世界では、出来事はカオ
>ス的に非可逆的に進みます。


それは本末転倒です。ニュートン力学は量子力学の近似法則でしか
ないのですよ。「厳密な量子力学の方で考えると、マクロな状態でも
重ね合わせになっていると考えざるを得ない」と説明しているのに、
「マクロな状態では近似法則であるニュートン力学を使うべきだ」と反
論していることになります。正しいのはもちろん量子力学です。「マクロ
な状態でも、ニュートン力学で近似できない場合が有るので、そういう
時にニュートン力学は使えない」が結論です。

> 猫が生きているのにβが実現するような世界、猫が死んでいるの
>にαが実現するような世界は、量子論の多世界解釈の中にも存在
>できません。
> たとえ存在したとしても、以前書いたとおり、確率が小さすぎて(諸
>世界の全体集合に占める測度が小さすぎて)、「重ね合わせ」の名
>に値しません。マクロな配置は初期状態からの因果連鎖の統計的
>積み重ねですから。


それは、α1またはβ1に波動関数が収縮し終えている友人が住む
世界W2の話。私が住む世界W1の話ではありません。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月18日(水)22時19分2秒 返信・引用
> No.2689[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

「補足説明」が
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2688 へのレスではないところをみると、すれ違いだったのでしょうか。ともあれ依然として2つの確率の混同が見られます。
ミクロからマクロへの収縮の「確率」と、マクロな現象どうしの関係の「確率」とです。

いったん猫の生死の視覚像が友人の脳や外界に影響すれば、重力や摩擦力が支配する非量子力学的世界の話となり、マクロな推移で進みますから、αやβに重ね合わせなどありません。いったんマクロに拡大した後の因果連鎖は、ニュートン力学的な統計的決定論で進みます。

死んだとき、あるいは生きている猫の姿勢が何通りもあるのではないか、と言われるかもしれませんが、青酸の瓶が割れた出来事はすでにマクロですから、友人が見たときの猫の姿勢もただひととおりです。

また、かりに猫の姿勢が何通りも可能性があったとしても、それは論点に全く無関係で、αとβが一致する確率をなんら高めません。

>
> 時刻t0における1つの状態が時刻t1には多数の状態に分かれ、逆
>に、時刻t0における多数の状態が時刻t1には1つの状態に収斂する
>といった過程を無数に重ね合わせたまま時間発展していくのが、
>量子力学です。


重力と統計的効果が無視できるミクロな世界ではそうですが、日常的な大きな質量を扱う力学には↑は当てはまりません。量子力学の統計的効果から創発するニュートン力学の世界では、出来事はカオス的に非可逆的に進みます。

猫が生きているのにβが実現するような世界、猫が死んでいるのにαが実現するような世界は、量子論の多世界解釈の中にも存在できません。

たとえ存在したとしても、以前書いたとおり、確率が小さすぎて(諸世界の全体集合に占める測度が小さすぎて)、「重ね合わせ」の名に値しません。マクロな配置は初期状態からの因果連鎖の統計的積み重ねですから。

あとはhttp://8044.teacup.com/miurat/bbs/2688に述べたとおりです。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月18日(水)15時07分53秒 返信・引用
> No.2686[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

三浦俊彦様(16)/SumioBaba(馬場純雄)



                補足説明

友人は時刻t0に、シュレディンガーの猫の生死を観測します。「生き
た猫」を見た友人の身体の物理状態がα、「死んだ猫」を見た友人の
身体の物理状態がβです。私は時刻t0には、友人の姿を見ていない
ので、αと言っても無数の状態α1、α2、α3、・・・、αnの可能性が
有り、βと言っても無数の状態β1、β2、β3、・・・、βnの可能性が
有り、[量子観念論仮説]では、私にとって友人はこれら2n種類の状態
の重ね合わせになっている、と考えます。n→∞。

α1とβ1だけを比較すると、時刻t0にα1(t0)≠β1(t0)だったのが、
時刻t1にα1(t1)=β1(t1)と収斂する確率は無限小Pです。しかし、2n
種類が重ね合わせになっている時は、時刻t0にαi(t0)≠βj(t0)だった
のが、時刻t1にαi(t1)=βj(t1)に収斂する時間発展が、数多く起きて
います。Pは無限小ですが、nは無限大であり、どちらの無限がより
強力かというと、断然nの方が強力だからです。

時刻t0における1つの状態が時刻t1には多数の状態に分かれ、逆
に、時刻t0における多数の状態が時刻t1には1つの状態に収斂する、
といった過程を無数に重ね合わせたまま時間発展していくのが、量子
力学です。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月18日(水)14時02分51秒 返信・引用
> No.2686[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>
> 量子力学では、一瞬一瞬いたるところで量子乱数サイコロが
> 振られており、原因を定めても結果は確率的にしか予想できないし、
> 結果を定めても原因は確率的にしか知り得ません。私は、サイコロを
> 振った時でさえ、不確定性原理が無視できず、ミクロな不確定性が
> カオスによってすぐマクロに拡大するため、振った時点でどの目が出
> るかは決まっていない、と考えます(振り方にも依りますが)。ですから、
> 「私が友人に頭を叩かれただけで、?友人の脳状態がどうなっている
> かという情報までが私の身体の中に入ってくる」とは、とても考えられ
> ません。
>


馬場さんは2つのレベルを混同していませんか?

ミクロからマクロへの収縮の「確率」と、マクロな現象どうしの関係の「確率」とです。

不確定性原理が大きな効果を持つミクロレベルがマクロレベルに拡大するプロセスには、たしかに、量子論的な確率(非決定性)が働きます(多世界全体で見れば決定論的かつ線形なわけですが)。どちらのスリットを通ったかは確率1/2、猫の生死は確率1/2というのがそれです。

しかし、確率1/2と言えるのは、いったんマクロに拡大したあとはニュートン力学的な決定論で進むという現実があるからです。たとえば、シュレーディンガーの装置で、粒子が崩壊して青酸ガス発生器に作用した後にも、もしやまだ不確定性原理が大きく作用して、青酸が分解するかも、猫のところまで青酸が届かないかも、猫の身体に青酸が作用しないかも、等々は考慮に入れません。そんなことを気にしたら、そもそもミクロなゆらぎの拡大がマクロ的にいかなる現象となるのか、その確率そのものが不明になるでしょう。そんな懸念は、経験的データにも反しています。

ニュートン力学は、量子力学から創発するマクロレベルの力学で、しかも重力など量子力学から抜け落ちている作用を含みます。マクロレベルになると、ミクロレベルでは無視できたor存在しなかったさまざまな力(重力、電磁気力(摩擦力、圧力、張力などなど))が大きな役割を演じ、不確定性原理の効果など圧倒してしまいます。したがって、馬場さんの言う非決定性が重要なのはミクロレベルを脱する瞬間であって、いったんマクロレベルに達したら、もはや不確定性原理のランダムな効果は事実上ゼロになります。

馬場さんは重力や摩擦力など、マクロレベルで初めて活躍し始める力を軽視しているようですが、それは無理筋でしょう。話が銀河や銀河団のスケールに及んでいるのに相対論的効果を無視してニュートン力学に固執するのと似たようなナンセンスではないでしょうか。

二重スリット実験で、スリットの検出器が素粒子の経路をいったんマクロに決定したらそれがスクリーンにまで維持される(スクリーンでまた重ね合わせに戻っていたりしない)のと同様、いったん決まった猫の生死が友人の視界に入れば、あとは風や音や摩擦などのマクロな決定論的推移によって、猫の生死の一方だけが私の心に情報として届いてくるはずです。

>  ニュートン力学でなく、量子力学まで考慮する時、三浦さんはどう
> お考えなのでしょうか? 多世界解釈の話をしているのに、なぜここで
> ニュートン力学が出て来るのかもよく解りませんし・・・。
>


私には、ニュートン力学を無視できるという方が謎です。そもそも量子力学は重力を無視するわけですから、量子力学をミクロと同様の調子でマクロレベルでも押し通せるはずがありません。

スリットの問題②で干渉縞模様を許容しなかった馬場さんなら、当然、友人の動きや私の知覚環境が決まった後の猫の生死の重ね合わせなど許容できるはずがないと思われます。猫を見た友人の身体の動きは、猫の生死のいずれか一方を目撃した友人の動きとは矛盾するわけですから。

いくら多世界解釈を認めるからといって、個々の世界の内部での決定論的法則を無視してはならないでしょう。


ともあれ、生きた猫に対応するα、死んだ猫に対応するβを重ね合わせに分割してみたところで観念論は救済できないでしょう。私の心がかなりアバウトな知覚力しか持たないとしても、α、βはそれぞれある時間幅をもって知覚される状態ですから、一連の現象(友人や部屋全体の様子)の連鎖が、「猫の生」「猫の死」の両方の事態とたまたま辻褄が合う、などという確率は、ニュートン力学的に超極小です。少なくとも、猫の視覚像や言葉による関連情報が入ってくる瞬間まで「私」は猫の重ね合わせにいる、などという人間本位の世界観は御都合主義的で、もはや多世界も量子も関係ないただの素朴な観念論でしょう。科学的世界像にとことん従ったところに観念論が立ち上がる、という面白さが[量子観念論仮説]の本意だったはずなのに(ですよね?)最後の詰めで反ニュートン的な観念論に依拠してしまっては元も子もないのでは?


いずれにせよ、因果連鎖のマクロな収斂については、物理学者がどの程度シミュレーションなどやっているのか知りませんが、「ニュートン力学は決定論的でカオス的」という常識が覆ったとは聞きませんから、馬場さんのような考えは成り立たないと思われます。


私の知覚力の閾値以下の違いしか生じないような、「因果的に厳重に隔離された部屋の中」で量子効果がマクロに拡大されれば、それはマクロな重ね合わせとして私の諸世界を決めると言えるでしょうね。しかし、何か知覚できる音や光が漏れてくれば(E)、部屋の中での変遷について私が何も知る術がないとしても、もはや重ね合わせはありません。現在の知覚内容だけでなく、私の経験した過去が、出来事Eの含意をすでに決めてしまっているからです。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月17日(火)21時46分9秒 返信・引用
> No.2684[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(15)/SumioBaba(馬場純雄)

> 私と向き合っている友人の心にはすでに「生きている猫」が確定
>しています。
> その場合、かりに友人の心に「死んだ猫」が確定していた場合に
>比べて、友人の身体の動き、傾きなどが同じでないだろうということ
>は、馬場さんも認めるでしょう。
> 実際に私に見えた友人の身体の動きや傾き、表情をαとしましょう。
> 友人の猫の目撃から数秒でも時間が経ったときのαは、カオス的
>な(決定論的な、あるいはほぼ決定論的な)因果連鎖により、友人
>が死んだ猫を目撃した場合には決して実現しない様相を呈している
>はずです。その違いは、光速で部屋中に広がるので、あっというま
>に私の全知覚に影響を及ぼします。
>  量子力学の多世界の中にさえ、死んだ猫を目撃した友人がαを
>呈するような世界は存在しません。猫の生死の目撃のいずれかと
>いうマクロな違い(神経、筋肉、空気の分子、ホコリの舞い方等々に
>由来する)が、まったく同一のαに収斂する確率は、ゼロに等しい
>からです。
> これはちょうど、地球があすきっかり24時間だけ同質量のミッキ
>ーマウスの形に変形し、明後日もとの地球に戻る、という世界が
>存在しないのと同様の理屈です。(様相論理学の可能世界であれ
>ばそのような世界も存在するのですが、いまは物理学の多世界の
>話ですから)

> 私は友人を見て、αを感じています。
> αの中には、私は意識的に計算できないながらも「友人は生きて
>いる猫を見た」という情報は含意されています。
> こうして、私の心も、友人の心と同じく、生きている猫とだけ整合し、
>死んだ猫とは矛盾した状態へと変化していることになります。
> むろん、逆の私もいます。死んでいる猫とだけ整合し、生きた猫と
>は矛盾した状態へと変化した私が。しかしその私は、友人の姿にα
>を見たのではなく、β、つまり死んだ猫を目撃した友人の身体の動
>き等であるβを見た私であり、すでに別の世界の集合へと分岐して
>しまっており、すでに「この私」とは同じ心(視点)を共有していません。

> 友人と私が語り合える距離にいながら、このような不可逆的情報
>の伝達がないと考える方が不自然でしょう。

> むろん、ある時点での友人の生きた猫の目撃と死んだ猫の目撃
>というマクロな違いが、まったく同一のαへと収斂する、という確率
>も厳密にゼロではないかもしれません。
> しかしその確率は、友人が猫の生死を見間違える確率や、私が
>友人の姿を見間違えて誤情報を意識してしまうという確率、そもそも
>猫殺害装置が壊れていた確率等々に比べてはるかに小さいでしょう。
>あまりに小さな確率しか占めない諸世界は、その後の歴史の展開
>によって、私がそのような世界内にいたと判明する確率が極小な
>わけですから(つまり、αを見た私の心が、ひきつづいて猫を見た
>ときにその死を見る確率があまりにもゼロに近すぎる)、問題設定
>にとってトリビアルな要因として、却下することができます。


αとβを1つずつ比較するのはおかしいですよ。まだ私が友人を
知覚していなかった時、αは無数の状態α1、α2、α3、・・・、αnの
重ね合わせでした。βも無数の状態β1、β2、β3、・・・、βnの重ね
合わせでした。nは10の一万乗、一億乗、一兆乗、・・・、n→∞という
大きな数です。友人が猫を知覚する時刻をt0、私が友人の姿を見る
時刻をt1としましょう。

私が時刻t1に知覚したのはαですから、これをα1(t1)だったとしま
す。私はこの時、2n個に分岐した訳です。三浦さんが言うβをβ1(t1)
とします。α1(t0)は「生きた猫」を知覚した友人、β1(t0)は「死んだ猫」
を知覚した友人ですから、α1(t0)≠β1(t0)。これが時刻t1において、
α1(t1)=β1(t1)と同一の状態の収斂する確率は無限小であり、この
確率をPとします。

確かにα1とβ1という1つずつを比較すると、α1(t0)≠β1(t0)、だっ
たのがα1(t1)=β1(t1)になる確率は無限小Pです。しかし、α1とβ1、
α1とβ2、α1とβ3、・・・、α1とβn、全部を比較したらどうでしょう? α1(t0)≠βi(t0)、だったのがα1(t1)=βi(t1)に収斂してしまうβiが、
期待値としてnP個くらい存在することになります。α1(t0)≠αi(t0)、
だったのがα1(t1)=αi(t1)に収斂してしまうαiも、期待値としてnP個
くらい存在することになります。Pは無限小でも、nは無限大なので、
nPは無視できません。もし、n=10^10000、P=10^(-100)とするなら、
nP=10^9900となります。

しかも今の場合、nは理論上可能な身体の物理状態の数であり、
素粒子1個でも異なれば別として数えるため、殆どn=∞です。一方、
時刻t1におけるαとβの識別は、私が肉眼で友人の姿を見て行うの
ですから、私が肉眼で識別できる友人の身体の状態数をmとすると、
P=1/mで近似できます。mはせいぜい、m=10^10くらいじゃないでしょ
うか? もしそうなら、nP=10^9990となります。

つまり、αもβも10^10000種類の重ね合わせであり、時刻t1に私
が見た友人の姿α1(t1)の過去と思われるものが、α1(t0)、α2(t0)、
α3(t0)、・・・、αn(t0)の中にもnP=10^9990個、β1(t0)、β2(t0)、β3(t0)、
・・・、βn(t0)の中にもnP=10^9990個存在し、友人が見たのが「生き
た猫」なのか「死んだ猫」なのか、ちょうど1/2ずつで全く不明になり
ます。かなり好き勝手に数値を決めましたが・・・。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月17日(火)18時29分20秒 返信・引用
> No.2684[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(14)/SumioBaba(馬場純雄)

> ②への答えから察するに、馬場さんは、スリットに検出器が付いて
>いることを「私」が知っているのであれば、客観的に素粒子はいずれ
>か一方だけのスリットを通るのであり、したがって干渉縞は生じない、
>という考えのようですね。それならば安心しました。


はい、その通りです。

> この点についての馬場さんと私の意見の相違は、もっぱらニュー
>トン力学に関するものであり、量子論、ましてや多世界解釈とは何
>の関係もなさそうです。


三浦さんはニュートン力学の決定論で考え、私は量子力学の不確
定性原理を考慮した確率論で考えている、という違いではないでしょ
うか。

ニュートン力学では、理論上誤差ゼロで、原因と結果が1対1対応し
ていますから、原因が定まれば結果もすべて定まるし、逆に、結果を
知れば原因もすべて知り得ます。この立場でなら、三浦さんのご主張
は正しいでしょう。

でも量子力学では、一瞬一瞬いたるところで量子乱数サイコロが
振られており、原因を定めても結果は確率的にしか予想できないし、
結果を定めても原因は確率的にしか知り得ません。私は、サイコロを
振った時でさえ、不確定性原理が無視できず、ミクロな不確定性が
カオスによってすぐマクロに拡大するため、振った時点でどの目が出
るかは決まっていない、と考えます(振り方にも依りますが)。ですから、
「私が友人に頭を叩かれただけで、?友人の脳状態がどうなっている
かという情報までが私の身体の中に入ってくる」とは、とても考えられ
ません。

ニュートン力学でなく、量子力学まで考慮する時、三浦さんはどう
お考えなのでしょうか? 多世界解釈の話をしているのに、なぜここで
ニュートン力学が出て来るのかもよく解りませんし・・・。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月17日(火)03時26分40秒 返信・引用
> No.2682[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


①~⑥の質問にお答えいただきありがとうございました。

たしかに、検出器がつけられていることを「私」が知っているのかいないのかによって違いが生じてくることがありますね。

①~⑥の文面は、「私」から見た説明のつもりで書いたので、「私」は検出器がつけてあることは知っているという設定のつもりでした。あるいは、第三者から見た記述だとしても、その記述のもとでの「私」が問題になっていますから、第三者が知っているその記述の世界にいるかぎりでの「私」(当の第三者と同じ世界の集合に住む私)はどのような世界にいるか、という、結局は同じことになるわけですが。


ともあれ、知りたかったのは、以下のことです。

たとえば①で、スリットに検出器が付いていることを「私」が知っていても、素粒子がどちらを通ったかをスクリーン上の跡で確認していないのだから、私の世界において、スクリーン上に干渉縞が生じているはず、と馬場さんが考えるかどうかということです。

②への答えから察するに、馬場さんは、スリットに検出器が付いていることを「私」が知っているのであれば、客観的に素粒子はいずれか一方だけのスリットを通るのであり、したがって干渉縞は生じない、という考えのようですね。それならば安心しました。馬場さんは徹底した観念論者ではないということになります。

徹底的な観念論者であれば、スリットに検出器が付いていようとも、検出器は心ではなく、心での観測はされていないのだから、それぞれのスリットを通った素粒子はどちらを通ったと考えることもでき(「私」の心はどちらにも世界を収縮させず)、各回において各素粒子は両方を通ったと考えねばならず(重ね合わせは消えず)、私の心がスクリーンを見ないかぎりは縞模様が出来ている―――スクリーンを私の心が見るまでは、一方だけを素粒子が通ったかのように世界の集合が収縮することはない、と考えるのではないでしょうか。

馬場さんはそこまでの観念論者ではないということですね。

>
>私は観測
> しませんが、友人だけは箱を開けて観測しました。
>  猫の物理状態を知覚すると、100ビットの情報が得られると仮定し、
> 「01100・・・・・01011」(0)というように表示します。「01100・・・・・01011」
> の部分に0または1が100個並んでいて猫の物理状態を表しており、
> 最後の(0)は、猫が生きている状態であることを示しています。猫が
> 死んでいる状態だったら(1)です。(0)か(1)かは、100ビットの0または1
> の関数であり、100ビットのうち最少でも30ビットの「0か? 1か?」が判
> 明しないと、(0)か(1)かは定まらないとしましょう。
>
>  友人が観測したら、猫は生きており、
>     「01100・・・・・01011」(0)             ・・・<1>
> でした。
>




「100ビットのうち最少でも30ビット」というたとえが誤解を招きかねません。

最初に猫を見る人の心にとっては猫の生死の決定は30ビット必要でも、第2番目以降の心にとっては、すでに猫そのものを見る必要はなく、最初の人の変化からの不可逆的なマクロな分岐が感知されればよいので、通常は1ビットで十分でしょう。


友人と私は互いに姿が見えるほど近くにいるわけですよね。

いずれにしても馬場さんは、http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2676 において、私と友人が顔を見合わせながら部分的な情報交換をしつつ順次、ふたり各々の世界が別個に収縮してゆく話を出しているので、ここでも、友人と私とは近くにいてかまいませんね。


私と向き合っている友人の心にはすでに「生きている猫」が確定しています。

その場合、かりに友人の心に「死んだ猫」が確定していた場合に比べて、友人の身体の動き、傾きなどが同じでないだろうということは、馬場さんも認めるでしょう。

実際に私に見えた友人の身体の動きや傾き、表情をαとしましょう。

友人の猫の目撃から数秒でも時間が経ったときのαは、カオス的な(決定論的な、あるいはほぼ決定論的な)因果連鎖により、友人が死んだ猫を目撃した場合には決して実現しない様相を呈しているはずです。その違いは、光速で部屋中に広がるので、あっというまに私の全知覚に影響を及ぼします。

量子力学の多世界の中にさえ、死んだ猫を目撃した友人がαを呈するような世界は存在しません。猫の生死の目撃のいずれかというマクロな違い(神経、筋肉、空気の分子、ホコリの舞い方等々に由来する)が、まったく同一のαに収斂する確率は、ゼロに等しいからです。

これはちょうど、地球があすきっかり24時間だけ同質量のミッキーマウスの形に変形し、明後日もとの地球に戻る、という世界が存在しないのと同様の理屈です。(様相論理学の可能世界であればそのような世界も存在するのですが、いまは物理学の多世界の話ですから)


私は友人を見て、αを感じています。

αの中には、私は意識的に計算できないながらも「友人は生きている猫を見た」という情報は含意されています。

こうして、私の心も、友人の心と同じく、生きている猫とだけ整合し、死んだ猫とは矛盾した状態へと変化していることになります。

むろん、逆の私もいます。死んでいる猫とだけ整合し、生きた猫とは矛盾した状態へと変化した私が。しかしその私は、友人の姿にαを見たのではなく、β、つまり死んだ猫を目撃した友人の身体の動き等であるβを見た私であり、すでに別の世界の集合へと分岐してしまっており、すでに「この私」とは同じ心(視点)を共有していません。


友人と私が語り合える距離にいながら、このような不可逆的情報の伝達がないと考える方が不自然でしょう。


むろん、ある時点での友人の生きた猫の目撃と死んだ猫の目撃というマクロな違いが、まったく同一のαへと収斂する、という確率も厳密にゼロではないかもしれません。

しかしその確率は、友人が猫の生死を見間違える確率や、私が友人の姿を見間違えて誤情報を意識してしまうという確率、そもそも猫殺害装置が壊れていた確率等々に比べてはるかに小さいでしょう。あまりに小さな確率しか占めない諸世界は、その後の歴史の展開によって、私がそのような世界内にいたと判明する確率が極小なわけですから(つまり、αを見た私の心が、ひきつづいて猫を見たときにその死を見る確率があまりにもゼロに近すぎる)、問題設定にとってトリビアルな要因として、却下することができます。


この点についての馬場さんと私の意見の相違は、もっぱらニュートン力学に関するものであり、量子論、ましてや多世界解釈とは何の関係もなさそうです。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月16日(月)18時04分56秒 返信・引用
> No.2680[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(13)/SumioBaba(馬場純雄)


シュレディンガーの猫の話です。猫が確率1/2ずつで、生きた状態と
死んだ状態の重ね合わせとして、箱の中に入っています。私は観測
しませんが、友人だけは箱を開けて観測しました。

猫の物理状態を知覚すると、100ビットの情報が得られると仮定し、
「01100・・・・・01011」(0)というように表示します。「01100・・・・・01011」
の部分に0または1が100個並んでいて猫の物理状態を表しており、
最後の(0)は、猫が生きている状態であることを示しています。猫が
死んでいる状態だったら(1)です。(0)か(1)かは、100ビットの0または1
の関数であり、100ビットのうち最少でも30ビットの「0か? 1か?」が判
明しないと、(0)か(1)かは定まらないとしましょう。


友人が観測したら、猫は生きており、


  「01100・・・・・01011」(0)             ・・・<1>
でした。多世界解釈を考えるとき、猫が死んでいるのを知覚した友人
をも想像するので、それを例えば、


  「10110・・・・・10010」(1)             ・・・<2>
とします。私の心M1は観測していないので、私が住む世界W1におい
て、猫の状態は2^100種類の重ね合わせです。それなのに、友人は
<1>の視点に立っているため、「私は観測していないから、生と死の
重ね合わせ」という時、ついつい私が<1>+<2>というたった2つだけの
重ね合わせ状態にいるかのように、錯覚し勝ちです。そうすると、どう
なるでしょう?

もし私が<1>+<2>というたった2つだけの重ね合わせの中にいるなら、
<1>と<2>の違いを1ビットでも知れば、波動関数の収縮が起きます。
例えば、「第1ビット(100ビットのうち一番左のビット)は0」という情報を
得れば、<1>だけがそれを満たし、<2>は満たしていないので、私が住
む世界W1において直ちに、<1>+<2>→<1>という波動関数の収縮が
起きます。逆に<1>+<2>→<1>という波動関数の収縮を防ぎ、世界W1
において<1>+<2>という重ね合わせを保つためには、猫が入った箱と
私とが遠くに離れているか、または、<1>と<2>の差異が私に1ビットも
伝わらないうちに<1>と<2>が全く同一の状態に収斂するという確率
無限小の事態が生じるか、どちらかが必要と思われます。


でもそれは勘違いです。私の心M1は観測していないので、世界W1
における猫の状態は<1>+<2>というたった2つの重ね合わせではなく、
2^100種類の重ね合わせなのです。0と1の重ね合わせを?と書くと、
世界W1の中の猫は、


  「?????・・・・・?????」(?)             ・・・<3>
という状態です。仮に「第1ビット(100ビットのうち一番左のビット)は0」
という情報が得られたとしても、


  「0????・・・・・?????」(?)             ・・・<4>
です。100ビットのうち、最少でも30ビットの「0か? 1か?」が判明しない
と(0)か(1)かは定まらないので、<4>は(?)のままです。つまり世界W1に
おける猫の状態は、生+死という重ね合わせのままであり、生+死→生、
という波動関数の収縮は起きていません。


友人の視点に立ち、私が住む世界をついつい<1>+<2>というたった
2つの重ね合わせであるかのように考えてしまうと、<1>と<2>の違い
が私に1ビット伝わっただけでも私が住む世界は、生+死→生、または、
生+死→死、という波動関数の収縮を起こすかのように、錯覚してしま
います。しかし本当は、観測していない私は2^100種類の重ね合わせ
の中にいるので、<1>と<2>の違いが私に1ビットくらい伝わっても、まだ
私が住む世界は生+死という重ね合わせのままであり、生+死→生や
生+死→死、という波動関数の収縮は起きないのが解ります。

これもまた、私の心M1が住む世界W1についての話と、友人の心M2
が住む世界W2についての話を、混同してしまった例でしょう。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月15日(日)19時18分26秒 返信・引用
> No.2680[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(12)/SumioBaba(馬場純雄)

>> 友人はここで、AまたはBを選択する訳ですね?

> ↑そうではないのです。

AとBは、友人とは関係なく、「私」が考える命題です。AとBは、友人
>の視神経や筋肉をすべて含んだ部屋の物理的配置を記述した命題
>です。友人が選ぶことの出来ない物理的状態を仮言命題で表現した
>ものです。
> 叩き方αは、実際に友人が私を叩いた叩き方とは異なった叩き方で
>す。きわめて詳細に特殊化された叩き方を想定してください。LとRと
>いう異なった情報のマクロな物理的影響が、同じαに収斂するとは
>考えられないような特殊な状態がαです。


私の心M1が観測したのは、「αである」か「αでない」か、ですよね?
そして、体験したのは「αでない」の方でした。それにより、私が住む
世界W1において、L+R→L、または、L+R→Rという波動関数の収縮が
起きるだろうか?という問題ですね。

「αでない」叩き方をされた私の心身状態の中に、「Lか? Rか?」と
いう情報が入ったと想定するなら、私がそれを証明できるか否かに
拘わらず、世界W1において、L+R→L、または、L+R→Rという波動関
数の収縮が起きると考えます。

「αでない」叩き方をされた私の心身状態の中に、「Lか? Rか?」と
いう情報が入っていないと想定するなら、---例えば、「αでない」と
いう叩かれ方から、友人が、A「もし友人がLを見たら、合図として私を
叩き方αで叩く」、B「もし友人がRを見たら、合図として私を叩き方α
で叩く」のどちらを選んでいるのか判断できず、世界W1において、A
を選んだ友人AとBを選んだ友人Bとが重ね合わせのままだとするな
ら---、世界W1においてはL+R→LやL+R→Rという波動関数の収縮
は起きておらず、L+Rという重ね合わせのままだと考えます。

> さて、
> 馬場さんの二重スリット実験の記述を見て、よくわからなかったの
>ですが、ちょっと質問させていただけますか。

> [量子観念論仮説]の主張によれば、下の①~⑥の場合、私の世界
>で次のア、イのどちらが生じているのか、馬場さんの考えを聞かせ
>てください。

> ア スクリーン上には|L>と|R>が干渉して縞模様が出来ている。
> イ スクリーン上には|SL>、|SR>というふたつの線が実現されている。


|SL>、|SR>は、「ふたつの線」という意味ではありませんよ。

素粒子1個で考えましょう。1個の場合「縞」は生じませんが、スクリー
ン上の位置を左から右へ、S1、S2、S3、・・・とすると、LとRが干渉した
場合には、S1、S3、S5、・・・の位置に大きな確率で到達し、S2、S4、S6、
の位置に到達する確率は小さくなる、といった現象が生じます。これを
多くの光子で行うと、明暗が交互に並ぶことになり、「干渉縞」が生じ
ます。

1個の素粒子が左の穴を通って来る状態が|L>、右の穴を通って
来る状態が|R>、スクリーン上のどこかの点Siで素粒子が観測される
状態が|S>です。1個の素粒子は直接肉眼では知覚できないため、
スクリーン上の点Siに到達した時、化学反応を起こさせ、肉眼で見え
る大きさの輝点に拡大されています。|SL>は、 |L>が拡大されて|S>に
なった状態。|SR>は、 |R>が拡大されて|S>になった状態。

1個の素粒子がスクリーン上の点Siに到達した時、|L>だった場合
と|R>だった場合とで、わずかに傾きが異なりますから、それを観測
しておけば、 |L>か|R>かが判明したはずです。でもそれを行わない
まま、スクリーン上の点Siに到達してしまいました。

重要なのは、|S>が点S1、S2、S3、・・・のどの位置に到達した状態
かを識別しても、それが|SL>か|SR>かを見分ける術が無いことです。
それゆえ、 |L>か|R>かも見分ける術が無く、両者が干渉を起こします。

頭を叩かれた私も同じです。叩き方が「αである」か「αでない」か
を識別し、「αでない」の方だと判っても、それがLとRのどちらなのか
を見分ける術がなければ、私の心M1が住む世界W1において、L+R
という重ね合わせのままであり、L+R→LやL+R→Rという波動関数
の収縮は起きません。

> ①スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数
>発射。スクリーンは心を持った誰にも見られることがない。実験装置
>は私のいる場所と因果的に完全に遮断されている。


[量子観念論仮説]では常に、「どういう情報を持った心M1の視点に
立つと、M1が住む世界W1はどう確定しているか?」と考えます。状況
設定がよく判らないのですが、それなりに答えてみます。

「スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数発
射。」という情報(=情報X)を、私の心M1は持っているのでしょうか?、
持っていないのでしょうか? そこが決定的に重要なのです。

もし持っているなら、私は何らかの方法でこの情報XをM1の中に取
り入れ、その時に、情報Xを満たす世界WXと満たさない世界WYとの
重ね合わせから、W1=WX+WY→WXという波動関数の収縮を起こして
いるので、「因果的に完全に遮断されている」とは言えなくなります。

もし「因果的に完全に遮断されている」なら、M1は情報Xを持てず、
私が住む世界W1は、このような実験をしている世界WXと、このような
実験をしていない世界WYとの重ね合わせW1=WX+WYです。

> ②スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数
>発射。スクリーンは心を持った誰にも見られることがない。ただし、
>実験装置は私のいる場所と因果的に遮断されておらず、検出器を
>含む実験装置全体から発する音や光や風は私の身辺に漏れている。


「私の心M1は私が住む世界W1において、こういう実験を行っている
という情報を持っており、しかも、スクリーンは見ていないけれど、
音や光や風という形で、実験装置からの影響を受けている」、という
設定でしょうか? ・・・ もしそうなら、M1は「スリットのいずれかまたは
両方に検出器をつけ」という事実を知っているので、W1においてスク
リーン上に「干渉縞は生じない」ことが確定しています。

それとも、「私はどういう実験を行っているのかも知らず、音や光や
風だけで、実験装置の状態を推測せねばならない」、という設定でしょ
うか? ・・・ もしそうなら、音や光や風によって私の心M1が得る情報
の範囲内で実験装置の状態が確定するだけです。恐らく、何の実験
をしているのかも情報は伝わらず、W1における実験装置の状態は、
様々な実験装置の状態の重ね合わせのままであり、スクリーン上に
干渉縞が生じている世界、生じていない世界、全く別の実験をして
いる状態、・・・等が重ね合わせのままです。

> ③スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数
>発射。スクリーンは心を持った誰にも見られることがない。ただし、
>検出器がそのつど二種の音のいずれかを発して、私に解読できな
>い合図によって|L>か|R>かを告げ知らせてくる。


「スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数
発射。」、「検出器がそのつど二種の音のいずれかを発して、私に
解読できない合図によって|L>か|R>かを告げ知らせてくる。」という
情報を、私の心M1は持っているのでしょうか?、持っていないのでしょ
うか? 最も重要な点が不明です。

> ④スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数
>発射。心を持った友人がスクリーンを見る。友人がいる場所は、私
>のいる場所と因果的に完全に遮断されている。


友人の心M2が何かを観測したか否かは、私の心M1が住む世界W1
には何の影響も及ぼしません。「W1はM1が持つ情報の範囲内だけ
で確定する」です。

> ⑤スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数
>発射。心を持った友人がスクリーンを見る。友人の姿、動きは私に
>よく見える。友人は私に気づいていないので合図のたぐいは一度も
>送られてこない。


友人は、スクリーン上に干渉縞が生じないのを、すでに見ている訳
ですね? 私はスクリーンは見ずに、友人の姿だけを見る、という訳
ですね?

私の心M1が住む世界W1において、私が友人の姿を見ることにより、
「干渉縞が生じていない」という情報が私の心身に入り込めば、私が
それを証明できるか否かに拘わらず、世界W1においても、「干渉縞
が生じていない」に確定しています。

私の心M1が住む世界W1において、私が友人の姿を見ても、「干渉
縞が生じていない」という情報が私の心身に入り込まなければ、私
が住む世界W1においては、「干渉縞が生じている」+「干渉縞が生じ
ていない」という重ね合わせのままです。特定の友人の姿を知覚して
いる私の心M1の状態を固定しても、「干渉縞が生じている」なのか、
「干渉縞が生じていない」なのかは決まらず、両方の可能性が残って
いるため、[量子観念論仮説]だと必然的に、W1は、「干渉縞が生じて
いる」+「干渉縞が生じていない」という重ね合わせです。

> ⑥スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数
>発射。心を持った友人がスクリーンを見る。友人の姿、動きは私に
>よく見える。友人は自分だけが知っていて私の知らない暗号で私
>に毎回|L>か|R>かを知らせてくる。


これに対する答は、⑤と全く同じになると思います。

> ご面倒ですが、よろしくお願いします。
> トリッキーな問い方ですみませんが、確認のためです。


喜んで答えさせて頂きます。こんなにレベルの高い議論はめったに
できないので、とても楽しいです。

ただ、状況設定する場合、「スリットのいずれかまたは両方に検出
器をつけ、素量子を多数発射。」「検出器がそのつど二種の音のいず
れかを発して、私に解読できない合図によって|L>か|R>かを告げ知
らせてくる。」という設定だと、それを私の心M1が知っているのか否か
という最も重要な部分が不明になってしまいます。私の心M1が何を
知っているかが、決定的に重要なのです。「私の心M1は、私が住む
世界W1について<1><2><3>・・・を知っている」という形で状況設定す
れば、自ずと答は定まります。

> 最初に述べたように、[量子観念論仮説]の主張はまったく穏当な
>考えであり、大筋は私は反対しておりません。
> 単に、「心の住む世界においてどういうときに重ね合わせが生じて
>いるのか」について、私たちに食い違いがありそうだというだけの
>ことです。


「観念論」を支持する場合、最も難しい課題は、「なぜ、客観的物質
世界なるものが実在するかのように感じてしまうのか?」を説明する
ことです。三浦さんとのこの議論は、私に大きな進歩をもたらしてくれ
そうです。今後ともよろしく。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月15日(日)01時41分31秒 返信・引用
> No.2679[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>>
>> たとえば、部屋の物理状態(因果関係の具体的現われを決める
>>物理的配置)として、次の二つの可能性(仮言命題)を考えます。
>>
>> A「もし友人がLを見たら、合図として私を叩き方αで叩く」
>> B「もし友人がRを見たら、合図として私を叩き方αで叩く」
>>AとBにおいてαはまったく同一の特殊な性質を指すものとします。
>> LかRかによって友人は叩き方を変えるというのがルールですか
>> ら、AとBがともに真、ということはありません。

>
> 友人はここで、AまたはBを選択する訳ですね?
>


↑そうではないのです。

AとBは、友人とは関係なく、「私」が考える命題です。AとBは、友人の視神経や筋肉をすべて含んだ部屋の物理的配置を記述した命題です。友人が選ぶことの出来ない物理的状態を仮言命題で表現したものです。

叩き方αは、実際に友人が私を叩いた叩き方とは異なった叩き方です。きわめて詳細に特殊化された叩き方を想定してください。LとRという異なった情報のマクロな物理的影響が、同じαに収斂するとは考えられないような特殊な状態がαです。


以上の確認の上で、もう一度私の論証を辿ってみていただけると幸いです。(わかりづらい論証だったようなので、無理には求めませんが)


さて、

馬場さんの二重スリット実験の記述を見て、よくわからなかったのですが、ちょっと質問させていただけますか。


[量子観念論仮説]の主張によれば、下の①~⑥の場合、私の世界で次のア、イのどちらが生じているのか、馬場さんの考えを聞かせてください。


ア スクリーン上には|L>と|R>が干渉して縞模様が出来ている。
イ スクリーン上には|SL>、|SR>というふたつの線が実現されている。



①スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数発射。スクリーンは心を持った誰にも見られることがない。実験装置は私のいる場所と因果的に完全に遮断されている。


②スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数発射。スクリーンは心を持った誰にも見られることがない。ただし、実験装置は私のいる場所と因果的に遮断されておらず、検出器を含む実験装置全体から発する音や光や風は私の身辺に漏れている。


③スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数発射。スクリーンは心を持った誰にも見られることがない。ただし、検出器がそのつど二種の音のいずれかを発して、私に解読できない合図によって|L>か|R>かを告げ知らせてくる。


④スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数発射。心を持った友人がスクリーンを見る。友人がいる場所は、私のいる場所と因果的に完全に遮断されている。


⑤スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数発射。心を持った友人がスクリーンを見る。友人の姿、動きは私によく見える。友人は私に気づいていないので合図のたぐいは一度も送られてこない。


⑥スリットのいずれかまたは両方に検出器をつけ、素量子を多数発射。心を持った友人がスクリーンを見る。友人の姿、動きは私によく見える。友人は自分だけが知っていて私の知らない暗号で私に毎回|L>か|R>かを知らせてくる。


ご面倒ですが、よろしくお願いします。

トリッキーな問い方ですみませんが、確認のためです。


最初に述べたように、[量子観念論仮説]の主張はまったく穏当な考えであり、大筋は私は反対しておりません。

単に、「心の住む世界においてどういうときに重ね合わせが生じているのか」について、私たちに食い違いがありそうだというだけのことです。

>
>  友人の心M2は、友人が住む世界W2について10個の事実を知っ
> ており、これら10個の命題に論理的加工を施すことで、「|L>であっ
> て、|R>ではない」という証明が可能だとします。この時、友人がその
> 証明を発見しているか否かに拘わらず、友人の心M2は「|L>であって、
> |R>ではない」という情報を持っているため、世界W2は|L>+|R>→|L>
> という波動関数の収縮を起こしています。
>  私の心M1は、私が住む世界W1について、友人が知っている10個
> の事実のうち6個だけを知っており、他の4つは知らないとします。
> この時、世界W1では、6個の命題は真ですが、他の4つの命題は
> 真である状態と偽である状態の重ね合わせです。そして、6つの
> 命題に論理的加工を施しても、「|L>であって、|R>ではない」は証明
> できないとします。この時、私が住む世界W1では、|L>+|R>という
> 重ね合わせのままであり、|L>+|R>→|L>という波動関数の収縮は
> 起きていません。
>

↑私がこれに同意するのは、友人と私が互いに因果的に断絶している場合です。

友人と私が互いに話や観察が出来る距離にいるならば、もう私と友人は、|L>と|R>の真偽に関しては同じ世界(の集合)に住んでいるでしょう。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月13日(金)20時50分27秒 返信・引用
> No.2677[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(11)/SumioBaba(馬場純雄)


要は、私の心M1が住む世界W1についての話なのか、それとも、
友人の心M2が住む世界W2についての話なのか、混同してはいけ
ない、ということです。

友人の心M2は、友人が住む世界W2について10個の事実を知っ
ており、これら10個の命題に論理的加工を施すことで、「|L>であっ
て、|R>ではない」という証明が可能だとします。この時、友人がその
証明を発見しているか否かに拘わらず、友人の心M2は「|L>であって、
|R>ではない」という情報を持っているため、世界W2は|L>+|R>→|L>
という波動関数の収縮を起こしています。

私の心M1は、私が住む世界W1について、友人が知っている10個
の事実のうち6個だけを知っており、他の4つは知らないとします。
この時、世界W1では、6個の命題は真ですが、他の4つの命題は
真である状態と偽である状態の重ね合わせです。そして、6つの
命題に論理的加工を施しても、「|L>であって、|R>ではない」は証明
できないとします。この時、私が住む世界W1では、|L>+|R>という
重ね合わせのままであり、|L>+|R>→|L>という波動関数の収縮は
起きていません。

友人の視点に立つと、世界W2では|L>+|R>→|L>という波動関数の
収縮が起きているため、ついつい世界W1でも、|L>+|R>→|L>という
波動関数の収縮が起きているのに、私が|L>か|R>かを知らないだけ、
と考えてしまいます。そう考えると、[量子観念論仮説]ではなくなり、
[量子実在論仮説]になってしまいます。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月13日(金)19時09分6秒 返信・引用
> No.2677[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(10)/SumioBaba(馬場純雄)

> 馬場さんと私の違いは、
> マクロなレベルで身辺に違いが生じているときに「その情報が私
>の心身のどこにも存在していない」場合が珍しくない、と馬場さん
>が想定しているのに対し、私はそういう場合はめったにない、と想
>定していることです。
> ニュートン力学的には、一度分離してしまったマクロな状態は、
>たいていの場合(とくに誰かの周到なコントロールがなされない日
>常の場合)、違いはカオス的に伝播する一方であって、違いが収斂
>してまったく同じ状態に合流するなどということはごくごくきわめて
>稀です。
> そして、よほど混濁した意識でないかぎり、正常な人間の意識は、
>外界の微細な変化に反応してしまいます。
> 今回、馬場さんが連投された記事のどれもが、マクロな分岐から
>の収斂を珍しくないこととしているので、
> そこに絞って、改めて以下考えてみます。


「マクロな分岐からの収斂を珍しくない」と言っているのではないで
すよ。「ミクロな差異がマクロな差異に拡大しても、どのマクロな状態
がどのミクロな状態と対応しているのかを知る術が無い場合、1つの
マクロな状態が2つ以上のミクロな状態に対応してしまうので、分岐
さえしていない」、です。

前にも書いたように、二重スリット実験で、1個の素粒子がどちらを
通ったか観測せず、スクリーン上で|L>と|R>が干渉する場合がそれ
です。|L>のときのスクリーンを|SL>、|R>のときのスクリーンを|SR>と
すると、|L>と|R>というミクロな差異が、|SL>と|SR>というマクロな差
異に拡大したはずなのに、|L>+|R>という重ね合わせのままで、干渉
が起きます。その理由は、私の心が、「|SL>と|SR>とを見分け、|L>と
|R>のどちらだったのかという情報に結び付ける術」を知らないから
です。実際、スクリーン上の様々な位置S1、S2、S3、・・・のどこで素
粒子が観測されようと、|L>だった可能性と|R>だった可能性の両方
が有り、どちらだったのかを見分けることができません。

|L>と|R>というミクロな差異を、|SL>と|SR>というマクロな差異に拡
大させただけでは、私の心M1の中に「|L>か? |R>か?」という情報は
入って来ないため、|L>と|R>、そして|SL>と|SR>とは分岐していない、
という訳です。

では、分岐させるにはどうするか? 私の心が「|SL>と|SR>とを見分
け、|L>と|R>のどちらだったのかという情報に結び付ける術」を知って
いれば良いのです。そのためには、|L>と|SL>、|R>と|SR>が1対1で
対応し、素粒子が到達した後のスクリーン|S>を見て、「これは|SL>だ
から|L>だったはず」「これは|SR>だから|R>だったはず」と判断できる
工夫をすれば良いのです。その時スクリーンは、ただの「スクリーン」
ではなく、「観測装置」になります。

自然界には、量子力学的にミクロな重ね合わせ状態が発生し、ミク
ロな差異がマクロな差異に拡大する現象が、いたる所で発生してい
ると思います。しかし、その殆どは「スクリーン」の方であり、「観測装
置」の条件を満たす自然現象は数少ないのではないか?と考えます。

> 友人は、Lを見た場合に私をある仕方で叩き、Rを見た場合には
>別の仕方で叩くが、私はそのいずれなのかを知らない、という馬場
>さんの設定に戻って考えましょう。
> 友人がLを見るかRを見るかによって部屋の空気などが変化す
>る、というような、友人による認識後の因果線が私に影響する場合
>だけでなく、友人による認識前の因果線を過去に遡って論じること
>もできます。
> たとえば、部屋の物理状態(因果関係の具体的現われを決める
>物理的配置)として、次の二つの可能性(仮言命題)を考えます。

> A「もし友人がLを見たら、合図として私を叩き方αで叩く」
> B「もし友人がRを見たら、合図として私を叩き方αで叩く」
>AとBにおいてαはまったく同一の特殊な性質を指すものとします。
> LかRかによって友人は叩き方を変えるというのがルールですか
>ら、AとBがともに真、ということはありません。


友人はここで、AまたはBを選択する訳ですね? Aを選んだ世界を
WA、Bを選んだ世界をWBとしましょう。多世界解釈の話なので、WA
とWBの両方が発生します。

友人は自分で選んだのだから、友人の心M2はどちらを選んだかを
知っており、WAにいる友人AとWBにいる友人Bとは、友人A≠友人B
となって、どちらか一方の視点に立てるだけです。つまり、友人が住
む世界W2は、W2=WAまたはW2=WBです。友人Aにとっては「Aだけ
が真」、友人Bにとっては「Bだけが真」であり、「AとBがともに真」とい
う友人はいません。

しかし、私の心M1は、友人がAとBのどちらを選択したかを知らない
ので、私が住む世界はW1=WA+WBという重ね合わせのままです。

>ただしここではルールの話ではなく部屋の因果的物理状態の話を
>していますから、厳密に言うと、友人が叩き方を間違える場合も想
>定せねばなりません。なので、正しくは次のように言うのがいっそう
>正確でしょう。
> 「ニュートン力学的には、ある出来事が起きると、論理的に可能な
>後続出来事のほとんどすべてが物理的に排除されるので、αが何
>であれ、命題A、Bの両方ともが真という確率はほとんどゼロである
>(前件がともに成り立たない場合は別として)」。……★


量子力学の多世界解釈について議論しているのに、どうしてここで
「ニュートン力学」の話になるのでしょうか? ここでも多世界解釈に
従うべきです。

友人が住む世界W2=WAまたはW2=WBの中では、「命題A、Bの両
方ともが真という確率はほとんどゼロ」でしょう。でも、私が住む世界
はW1=WA+WBであり、WAでは「命題Aが真」、WBでは「命題Bが真」
なので、確率1/2ずつで「Aが真」または「Bが真」です。

> A、Bの対偶をとりましょう。
> A「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はLを見なかった」
> B「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はRを見なかった」

> さて、友人から叩きの合図がありました。合図があったのですか
>ら、その条件のもとでは、次の命題Cは真です。
> C「友人はLを見た、または友人はRを見た」
> つまり、「友人がLを見なかったならば、友人はRを見た」「友人が
>Rを見なかったなら、友人はLを見た」
> これをA、Bと合わせると、A、Bは次のように書き直せます。
> A「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はRを見た」
> B「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はLを見た」

> さて、友人の合図は、叩き方αではなかったとします。私の心も
>刺激がαでないことを認識しました(αという特殊な叩き方はどの
>ようにでも選べるので、ここは問題視する必要はありません)。
> さて、ここから何が帰結するでしょうか?
> 「友人は叩き方αをしなかった」が真ですから、A、Bに前件肯定
>をそれぞれ適用した命題
> 「友人はRを見た」
> 「友人はLを見た」
> のいずれかが偽となります。
> なぜなら、この両者が真だとすると、A、Bのいずれもが真となり、
>★に反するからです。


それは、世界W2=WAまたはW2=WBにいる友人の話です。私が住
む世界はW1=WA+WBなので、「友人はRを見た」と「友人はLを見た」
とが確率1/2ずつで重ね合わせのままです。

> さて、A、Bの真理値を決めているのは、環境の物理的状態でしょ
>う。その状態をKとします。
> Kは、実験直前の実験室内の状態すべてであるのみならず、それ
>を決めるに至った因果連鎖のすべてです。Kのさまざまな側面が重
>なって、AかBのいずれかを不可能にしています。


そう言ってしまうのであれば、ここですでに[量子実在論仮説]の立
場に立ち、「心に認識されていないところでも、物質世界の物理状態
は客観的に確定している」と考えていることになります。

[量子観念論仮説]の立場に立ち、私の心M1が住む世界W1につい
て考えるのであれば、私の心M1が認識している情報はKのごく一部
K1だけです。K1の中に「Aか? Bか?」を判断できるだけの情報が有
るか無いかは、一概には決められません。

>そしてKという物理的状態の全体の影響は、過去何年にもわたって
>(少なくとも何億年にもわたって)その影響が広がり、私の心身に
>影響しています。あるいは駄目押しのように実験開始後、友人から
>の合図を得るまでの数十分間にわたって、私にいろいろな影響を
>与えています。
> つまりKは(あるいはKを決定した過去の事象のさまざまは)、言
>い換えればA、Bの真理値の少なくとも一方が偽であるという情報
>は、私の心身に長年にわたって刻印されています。


そういう言い方には、かなり無理が有ると思います。物質世界の中
では、もちろん人間の脳の中を含め、常に多数の量子乱数サイコロ
が振られており、不確定性原理により、物理状態がどう時間発展して
いくかは確率的にしか予言できません。私の心M1は、私が住む世界
W1の中で、友人の脳を観察していないので、AとBのどちらをどういう
方法で選ぼうとしているのか全く知りません。つまり、世界W1の中の
友人の脳はあらゆる脳状態の重ね合わせであり、多世界解釈だと、
Aを選ぶ友人Aと、Bを選ぶ友人Bの両方が、確率1/2ずつで生じるの
は必然です。

コインを投げて表か裏かを予想する時や、サイコロを投げて1~6
のどの目が出るかを予想する時でさえ、ニュートン力学では予測不
可能であり、不確定性原理により、投げてみないと結果は判らない、
と考える人が多いようです。質点が3つ以上相互作用する系の場合、
ミクロな差異がたちまちマクロな差異に拡大してしまう「カオス」が生
じます。コインやサイコロを構成する個々の素粒子は、位置座標rや
運動量pが正確に定まらず、△r>0、△p>0の不確定性を持ってい
るため、微妙に異なる状態の重ね合わせであり、そのわずかな差異
がすぐにマクロに拡大することで、マクロな差異を持つ多数の物理
状態に時間発展してしまう、ということですね。

友人がAかBかを選ぶ時、その時の気分次第で決め、それは脳内
の量子乱数に依存していたと考えれば、「何年も前から、AとBのどち
らを選ぶか確定していた」とは、とても言えないでしょう。逆に、何年
も前から友人が決めていたという状況も有り得ますが・・・。

> というより、そもそも私の心が因果連鎖の中で「このようなものと
>して」成立しているという事実そのものが、AかBのいずれが不可能
>であるかをすでに決定しているのです。

> こうして、
> 私の心はKという情報を持っており、AとBの少なくとも一方が偽
>であることも潜在的に認識しており、
> ゆえに、私の観点からして、友人がRを見た、Lを見た、の両方が
>真である(私は重ね合わせにいる)ことは不可能だということになり
>ます。


私の心M1が持つ情報は、Kのごく一部であるK1のはずです。ただ
し、それでも潜在的に「Aか? Bか?」という情報を持っている場合は
有るだろうし、持たない場合も有るでしょう。どちらが正しいと、断定
はできませんね。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月11日(水)03時23分20秒 返信・引用
> No.2673[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

>
>  要するに、頭の叩かれ方により、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」
> という情報が、私の心身状態の中に入った、と想定した訳ですね。
> だとしたら、
>              [量子観念論仮説]の主張
>     私の心M1が住む世界W1において、L+R→Lという波動
>     関数の収縮が起きるためには、M1が「Lは有り得るが、
>     Rは有り得ない」という情報を持つこと(私の心身状態
>     をくまなく調べた時、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」
>     という情報がどこかに見つかること)が必要条件である。
> に対し、反論しているのではなくて、支持してくれた訳ですよね?
>  反論するのであれば、
>                    [反論]
>     M1が「Lは有り得るが、Rは有り得ない」という情報を
>     持っていなくても(「Lは有り得るが、Rは有り得ない」と
>     という情報が私の心身のどこにも存在していなくても)、
>     私の心M1が住む世界W1において、L+R→Lという波動
>     関数の収縮は起こり得る。
> という具体例を挙げるべきですし・・・。
>

もちろん、私は「[量子観念論仮説]の主張」に賛同しております。

そのことは、私が「シュレーディンガーの猫」は真正の重ね合わせの例である、とすでに認めていることからもおわかりいただけると思います。

(詳しくは、この掲示板での直前、蝉さんとのやりとりをご覧ください。)

多世界解釈を信じる人は、みな、「[量子観念論仮説]の主張」に賛同するだろうと思います。のみならず、前に述べたように、多世界解釈を信じなくとも「宇宙の広大さ」を信じる人の一部も、「[量子観念論仮説]の主張」に賛同するだろうと思います(「一部」と言ったのは理由があります。それについてはまたいずれ機会を改めて)。


馬場さんと私の違いは、

マクロなレベルで身辺に違いが生じているときに「その情報が私の心身のどこにも存在していない」場合が珍しくない、と馬場さんが想定しているのに対し、私はそういう場合はめったにない、と想定していることです。

ニュートン力学的には、一度分離してしまったマクロな状態は、たいていの場合(とくに誰かの周到なコントロールがなされない日常の場合)、違いはカオス的に伝播する一方であって、違いが収斂してまったく同じ状態に合流するなどということはごくごくきわめて稀です。

そして、よほど混濁した意識でないかぎり、正常な人間の意識は、外界の微細な変化に反応してしまいます。

今回、馬場さんが連投された記事のどれもが、マクロな分岐からの収斂を珍しくないこととしているので、

そこに絞って、改めて以下考えてみます。


友人は、Lを見た場合に私をある仕方で叩き、Rを見た場合には別の仕方で叩くが、私はそのいずれなのかを知らない、という馬場さんの設定に戻って考えましょう。

友人がLを見るかRを見るかによって部屋の空気などが変化する、というような、友人による認識後の因果線が私に影響する場合だけでなく、友人による認識前の因果線を過去に遡って論じることもできます。

たとえば、部屋の物理状態(因果関係の具体的現われを決める物理的配置)として、次の二つの可能性(仮言命題)を考えます。


A「もし友人がLを見たら、合図として私を叩き方αで叩く」

B「もし友人がRを見たら、合図として私を叩き方αで叩く」

AとBにおいてαはまったく同一の特殊な性質を指すものとします。

LかRかによって友人は叩き方を変えるというのがルールですから、AとBがともに真、ということはありません。ただしここではルールの話ではなく部屋の因果的物理状態の話をしていますから、厳密に言うと、友人が叩き方を間違える場合も想定せねばなりません。なので、正しくは次のように言うのがいっそう正確でしょう。

「ニュートン力学的には、ある出来事が起きると、論理的に可能な後続出来事のほとんどすべてが物理的に排除されるので、αが何であれ、命題A、Bの両方ともが真という確率はほとんどゼロである(前件がともに成り立たない場合は別として)」。……★


A、Bの対偶をとりましょう。

A「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はLを見なかった」

B「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はRを見なかった」


さて、友人から叩きの合図がありました。合図があったのですから、その条件のもとでは、次の命題Cは真です。

C「友人はLを見た、または友人はRを見た」

つまり、「友人がLを見なかったならば、友人はRを見た」「友人がRを見なかったなら、友人はLを見た」

これをA、Bと合わせると、A、Bは次のように書き直せます。

A「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はRを見た」

B「友人が叩き方αをしなかったなら、友人はLを見た」


さて、友人の合図は、叩き方αではなかったとします。私の心も刺激がαでないことを認識しました(αという特殊な叩き方はどのようにでも選べるので、ここは問題視する必要はありません)。

さて、ここから何が帰結するでしょうか?

「友人は叩き方αをしなかった」が真ですから、A、Bに前件肯定をそれぞれ適用した命題

「友人はRを見た」

「友人はLを見た」

のいずれかが偽となります。

なぜなら、この両者が真だとすると、A、Bのいずれもが真となり、★に反するからです。


さて、A、Bの真理値を決めているのは、環境の物理的状態でしょう。その状態をKとします。

Kは、実験直前の実験室内の状態すべてであるのみならず、それを決めるに至った因果連鎖のすべてです。Kのさまざまな側面が重なって、AかBのいずれかを不可能にしています。そしてKという物理的状態の全体の影響は、過去何年にもわたって(少なくとも何億年にもわたって)その影響が広がり、私の心身に影響しています。あるいは駄目押しのように実験開始後、友人からの合図を得るまでの数十分間にわたって、私にいろいろな影響を与えています。

つまりKは(あるいはKを決定した過去の事象のさまざまは)、言い換えればA、Bの真理値の少なくとも一方が偽であるという情報は、私の心身に長年にわたって刻印されています。

というより、そもそも私の心が因果連鎖の中で「このようなものとして」成立しているという事実そのものが、AかBのいずれが不可能であるかをすでに決定しているのです。


こうして、

私の心はKという情報を持っており、AとBの少なくとも一方が偽であることも潜在的に認識しており、

ゆえに、私の観点からして、友人がRを見た、Lを見た、の両方が真である(私は重ね合わせにいる)ことは不可能だということになります。


★を否定できれば話は別ですが、

馬場さんは主観的意識を越えた情報どうしの組み合わせによる演繹的結論も情報に含めるということですから、「私は★を知らなかった」というだけでは、★を排除するのには不十分でしょう。

★を支持する証拠・科学的知識のネットワークから成る環境の中に私はいるのですから、意識しているかどうかは別として、私の心身に★または★の膨大な諸帰結たる諸刺激は刻印されているはずなのです。


★を否定するということになると、ニュートン力学的な因果連鎖から私の心が外れているという、根源的な観念論を採用せねばならないと思われます。

そのような観念論は普通の伝統的な観念論であり、多世界を必要とはしないでしょう。


(無題)
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月10日(火)21時15分16秒 返信・引用
三浦俊彦様(9)/SumioBaba(馬場純雄)


「多世界説」(多世界解釈)の立場に立ち、3つの異なる世界をWp、
Wq、Wrとします。[量子観念論仮説]では、私はWp+Wqに住み、友人
はWq+Wrに住む、という場合があり得ることの説明です。

以上

=======================================================



          <<クオリア統一理論(70)>>


           ー 擬似パラドックス2 ー



           2011.01.10  馬場純雄



「多世界説」(多世界解釈)の立場に立ち、3つの異なる世界をWp、
Wq、Wrとします。[量子観念論仮説]では、私はWp+Wqに住み、友人
はWq+Wrに住む、という場合があり得ることの説明です。



             擬似パラドックス2


ある物体Xを、排反的な3つの量子状態|P〉、|Q〉、|R〉の重ね合わ
せ|P〉+|Q〉+|R〉にしたとします。まず私は「|R〉であるか否か」を観測
し、「|R〉ではない」という情報を得たとすると、私にとって物体Xの状
態は、|P〉+|Q〉です。次に友人は「|P〉であるか否か」という観測をし、
「|P〉ではない」という情報を得たとすると、友人にとっての物体Xの
状態は、|Q〉+|R〉です。

もし、波動関数の収縮が「客観的」なものであるなら、私と友人とが
互いに情報交換しなくても、物体Xの状態は|Q〉に決定します。「|P〉
または|Q〉」と「|Q〉または|R〉」とを両方同時に満たし得るのは、|Q〉
だけなのですから。

ところが、波動関数の収縮が「主観的」なものであるなら、私にとっ
ての物体Xの状態は|P〉+|Q〉のままであり、友人にとっての物体Xの
状態は|Q〉+|R〉のままであり、どちらも正しく、かつ、どちらも|Q〉に収
縮しない、という場合が有ります。

これもパラドックスに見えます。もし|P〉なら、|Q〉+|R〉であると思って
いる友人は間違っていることになりそうだし、もし|R〉なら、|P〉+|Q〉だ
と思っている私は間違っていることになりそうだからです。


2人が話し合って情報交換すると、私も友人も、相手が与えてくれ
る情報により、物体Xの状態はどれか1つに収縮しますので、2人は
顔を見合わせたまま、黙り込んで見つめ合っているとしましょう。

まず私は、「|R〉であるか否か」を観測し、「|R〉ではない」という情報
を得たと考えました。しかし正確に言うと、「|R〉である」という情報を
得て|R〉状態にいる私(R)と、「|R〉ではない」という情報を得て|P〉+|Q〉
状態にいる私(P+Q)とに分岐した、と考えねばなりません。同様に友
人の方も、友人(P)と友人(Q+R)に分岐した、ということになります。

私と友人とが話をし、お互いの持つ情報を相手に与え合うことによ
り、私にとっての物体Xも、友人にとっての物体Xも、状態がどれか1
つだけに収縮する状況を見てみましょう。



                |P〉の場合

私(P+Q)と友人(P)との会話になります。


  友人(P) ・・・ 実は私、「|P〉であるか否か」という観測を


       すでに行い、|P〉であることを知っていました。


  私(P+Q) ・・・ ああそうですか。私は「|R〉であるか否か」


       を観測し、|R〉ではなかったので、|P〉か|Q〉のど


       ちらかである事は知っていました。そうか、|P〉だ


       ったのか。
2人とも観測は失敗していなかったし、間違ってもいませんでした。
友人(P)は、「|P〉であるか否か」という自分の観測で、|P〉であること
を知っていたのに対し、私(P+Q)は、友人(P)が教えてくれた情報に
より、私(P+Q)→私(P)と、状態が収縮しました。



                |Q〉の場合

私(P+Q)と友人(Q+R)の会話になります。


  私(P+Q) ・・・ 実は私、「|R〉であるか否か」という観測を


       すでに行い、|R〉ではない事が判ったので、|P〉と


       |Q〉のどちらかである事を知っていました。


  友人(Q+R) ・・・ 実は私も、「|P〉であるか否か」という観


       測をすでに行い、|P〉ではない事が判ったので、


       |Q〉と|R〉のどちらかである事を知っていました。


  私(P+Q) ・・・ という事は、|P〉でもなければ|R〉でもない、


       つまり|Q〉だということですね。


  友人(Q+R) ・・・ そうです。|Q〉に決定しましたね。
2人とも観測は失敗していなかったし、間違ってもいませんでした。
互いに相手が教えてくれる情報により、私(P+Q)→私(Q)、友人(Q+R)
→友人(Q)と、状態が収縮しました。



                |R〉の場合

私(R)と友人(Q+R)との会話になります。


  私(R) ・・・ 実は私、「|R〉であるか否か」という観測をす


       でに行い、|R〉であることを知っていました。


  友人(Q+R) ・・・ ああそうですか。私は「|P〉であるか否


       か」を観測し、|P〉ではなかったので、|Q〉か|R〉の


       どちらかである事は知っていました。そうか、|R〉


       だったのか。
やはり2人とも観測は失敗していなかったし、間違ってもいませんで
した。私(R)は、「|R〉であるか否か」という自分の観測で、|R〉であるこ
とを知っていたのに対し、友人(Q+R)は、私(R)が教えた情報により、
友人(Q+R)→友人(R)と、状態が収縮しました。


私(P+Q)の視点に立つと、私(P+Q)→私(P)になる可能性と私(P+Q)
→私(Q)になる可能性の両方が存在した訳ですから、確かに|P〉と|Q〉
は重ね合わせのままだった事が解ります。

友人(Q+R)の視点に立つと、友人(Q+R)→友人(Q)になる可能性と
友人(Q+R)→友人(R)になる可能性の両方が存在した訳ですから、
確かに|Q〉と|R〉は重ね合わせのままだった事が解ります。


物体Xの状態が、|P〉である世界をWp、|Q〉である世界をWq、|R〉で
ある世界をWrとします。さらに、それぞれの世界にいる私を、私(P)、
私(Q)、私(R)とし、それぞれの世界にいる友人を、友人(P)、友人(Q)、
友人(R)とします。今の話では、次の状態が生じたことになります。


  私(P)=私(Q)≠私(R)


  友人(P)≠友人(Q)=友人(R)

私(R)は、自分がWrにいる事を知っています。私(P)=私(Q)は、自分
がWrにいない事だけは知っていますが、私(P)=私(Q)であるがゆえ
に、自分がWpとWqのどちらにいるかを判断できないため、Wp+Wqと
いう重ね合わせの中にいます。

友人(P)は、自分がWpにいる事を知っています。友人(Q)=友人(R)
は、自分がWpにいない事だけは知っていますが、友人(Q)=友人(R)
であるがゆえに、自分がWqとWrのどちらにいるかを判断できないた
め、Wq+Wrという重ね合わせの中にいます。

その後2人が話し合い、情報を与え合うことで、3人の私はみな異
なるようになり、3人の友人もみな異なるようになり、自分がWp、Wq、
Wrのどの世界にいるのかを知るようになりました。


このように、波動関数の収縮が「主観的」なものであるとするなら、
私は、|P〉+|Q〉の重ね合わせのまま、友人は、|Q〉+|R〉の重ね合わ
せのままであり、しかも2人が情報交換しない限り、どちらも1つに
収縮しない、という状況が有り得ます。

私にとっての外界と、友人にとっての外界とは、完全に一致する
必要は無いばかりか、一方が他方を完全に含む必要も無く、全く独
立した状態であり得る、ということです。

もっとも、両者の間に共通部分が無い場合には、私の知覚する世
界に友人は存在せず、友人が知覚する世界に私は存在しないこと
になるでしょう。「多世界説」では、このような事も有り得ます。

=======================================================

以上


                参考文献

・本論(1)~本論(97)↓
◇会議室 :【挑戦】定説への挑戦

トピック:クオリア統一理論

http://folomy.jp/heart/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=21734


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月10日(火)19時53分36秒 返信・引用
> No.2669[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(7)/SumioBaba(馬場純雄)

> 干渉を消すには、「LとRのどちらだったのかという情報に結び付
>ける術」を知る必要はないでしょう。どっちかわからないまま、違い
>に影響されていればよいのです。たとえば、到達点のスクリーンの
>状態を、発火装置に結びつけて、LかRの一方の場合に私の目前
>に火がつき、他方の場合には火がつかないように設定しておくと
>します。どちらで火がつくのか私は知りません。装置の設定は一週
>間前に友人にやってもらい、その設定がLかRのいずれを発火装置
>に結びつけた作業かによって部屋の様子(椅子や机の並び、ホコリ
>の位置など)が相当変化するものとします(変化の仕方は不規則
>で、私や友人の一存では統制できないものとします)。
> 私が部屋に入ったときには、すでに部屋に変化が起きています。
>この変化はすでに不可逆なマクロな変化なので、私が知らぬまま、
>LかRのいずれを発火装置に結びつけたかが決定しています。私
>はすでにいずれかの世界に住んでいるのです。装置設定と部屋の
>様子との間には私の知らぬまま特定の因果関係が成立している
>ので。


発火するのがLだった場合の設定を「設定X」、発火するのがRだっ
た場合の設定を「設定Y」とします。さらに、「設定X」だった場合の部
屋を「部屋X」、「設定Y」だった場合の部屋を「部屋Y」とします。

「部屋X」と「部屋Y」の状態をそれぞれ1つだけ選び出してX1とY1と
し、これだけを比較すると、X1とY1とでは部屋の様子(椅子や机の並
び、ホコリの位置など)が相当違うのは確かですから、私が部屋に
入った瞬間、X1とY1の場合において、私の身体の物理状態にすぐ
差異が生じるのは解ります。

しかし私から見ると、「部屋X」という状態自体がX1、X2、X3、・・・、
Xnと無数の重ね合わせだし、「部屋Y」という状態自体もY1、Y2、Y3、
・・・、Ynと無数の重ね合わせです。そしてこれら2n種類(n→∞)の状
態において、部屋の様子(椅子や机の並び、ホコリの位置など)は、
みなランダムに異なるのです。もし完全にランダムなら、私の身体が
部屋から受ける物理的作用の中に、「「設定X」か? 「設定Y」か?」と
いう情報は何も無いはずです。2n個の部屋の状態の中の1つが与え
られ、その部屋に私が入った時に、「「設定X」か「設定Y」か判るか?」
と問われるのと同じで、全く判らないはずです。

> さて、実験を開始し、火がついたとしましょう。私は当然、LかRの
>いずれが起きたのかを知る術はありません。それでも、部屋の様子
>によって装置の設定が決まっているわけですから、いずれか一方
>だけが起きたことになり、私はすでに重ね合わせの中には居ませ
>ん。


なぜ、「すでに重ね合わせの中には居ません」と言えるのでしょう?
友人はすでにどちらの設定をしたか知っていますから、「設定X」をし
た友人Xと、「設定Y」をした友人Yとは分岐して別世界(WxとWy)にい
ます。でも、私の心M1はその情報を持たないので、私の心M1が住む
世界W1はW1=Wx+Wyのままなのではないでしょうか? そして、友人
にどちらの設定をしていたのかを教えて貰った時に初めて、W1もま
たWxとWyのどちらか一方に、波動関数が収縮するのではないでしょ
うか?

以上


三浦俊彦様(8)/SumioBaba(馬場純雄)


量子力学には、解らないことだらけです。


                【質問1】


  1個の素粒子が左の穴を通った状態を|L>、右の穴を


  通った状態を|R>、どちらを通ったかを観測装置で観測


  し、「左を通った」と表示している観測装置の状態を|OL>、


  「右を通った」と表示している観測装置の状態を|OR>と


  します。


  絡み合い状態|L>|OL>+|R>|OR>になると、|OL>か|OR>


  かを人間が知覚・認識しなくても、|L>と|R>が干渉しなく


  なるのはなぜでしょうか?

絡み合い状態|L>|OL>+|R>|OR>になっているのに、もし時刻t1に、
|L>と|R>が干渉するのを私が知覚・認識すると、時刻t1において、
|L>+|R>という重ね合わせ状態であったことが確定してしまいます。
それなのに、その後の時刻t2(>t1)に、観測装置が|OL>か|OR>かを
調べることで、時刻t1における素粒子の状態もまた|L>だったか|R>
だったかが判明してしまい、矛盾になります。だから、「時刻t1に、|L>
だったのか? |R>だったのか?」を私の心M1が知り得る方法が残って
いる限り、M1が住む世界W1において、時刻t1に|L>と|R>は干渉でき
ない、・・・というのが1つの答だとは思いますが・・・。

どう答えますか?

以上


(無題)
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月10日(火)14時29分11秒 返信・引用
三浦俊彦様(6)/SumioBaba(馬場純雄)


[量子観念論仮説]が主張する、「意識」=「波動関数の収縮」の補足
説明を、folomyから引用します。

以上

=======================================================



          <<クオリア統一理論(65)>>


          ー 量子観念論仮説(7) ー



           2011.01.09  馬場純雄



「多世界説」(多世界解釈)の立場に立ち、


  「意識」=「波動関数の収縮」
と見なすのが[量子観念論仮説]の本質です。違いを「意識」したから
「波動関数の収縮」が起きたのであり、かつ、「波動関数の収縮」が
起きた時には違いを「意識」したことになり、両者は必要十分の関係
と見なされます。そして、心が「意識」(認識)している領域だけ物質世
界の物理状態が確定する、という意味で[観念論]です。


人によって、情報の認識能力が異なる場合を考えます。例えば2つ
の世界WrとWgにおいて、物体Xの色が、Wrでは赤、Wgでは緑、だと
します。それ以外の部分では、WrとWgは全く同じ世界だとしましょう。
(「r」はred、「g」はgreen、の意味)。

正常な色覚を持つA氏は、赤と緑の違いを識別できるので、自分が
WrとWgのどちらにいるのかという情報を認識できます。しかし、赤と
緑の違いを識別できない色盲のB氏は、自分がWrとWgのどちらにい
るのかという情報を認識できない場合が有ります。この時、


  A氏にとっては波動関数が収縮したが、B氏にとっては


  波動関数は収縮していない。
と考えるのが合理的なのです。

WrにいるA氏をAr氏、WgにいるA氏をAg氏とすると、A氏は赤と緑を
識別できるがゆえに、両者の心身状態に差異が生じ、Ar≠Agとなり、
A氏はAr氏とAg氏のどちらか一方の視点に立てるだけです。Ar氏の
視点に立つとWr+Wg→Wr、Ag氏の視点に立つとWr+Wg→Wg、という
波動関数の収縮が起きたように見えます。

WrにいるB氏をBr氏、WgにいるB氏をBg氏とすると、B氏は赤と緑を
識別できないため、両者の心身状態に差異は生じず、Br=Bgのまま
となり、B氏はBr氏とBg氏の両方の視点に、同時に立てるだけです。
つまりB氏は、Wr+Wgという重ね合わせの視点に立てるだけであり、
Wr+Wg→WrやWr+Wg→Wgという波動関数の収縮は起こりません。


「多世界説」の立場に立ち、6つの異なる世界であるW1、W2、W3、
W4、W5、W6を考えてみます。


仮にP氏は、自分が6つの世界W1、W2、W3、W4、W5、W6のどれに
いるのかをはっきり識別できる観測をし、その情報を得たとします。
この時、6つの世界W1、W2、W3、W4、W5、W6に存在しているP氏を
それぞれP1氏、P2氏、P3氏、P4氏、P5氏、P6氏とすると、これら6人
のP氏はみな心身状態に差が生じていることになります。


  P1、P2、P3、P4、P5、P6 の6つはみな異なる。
差が生じているからこそ6人のP氏は、それぞれ自分がW1、W2、W3、
W4、W5、W6のどの世界にいるのかを識別できるのです。差が生じて
いなければ、P氏は自分がW1、W2、W3、W4、W5、W6のどの世界に
いるかの情報を持てず、自分がP1、P2、P3、P4、P5、P6のどれなの
かを識別できません。


もしP氏が、「W1またはW2」「W3またはW4」「W5またはW6」の3つの
中のどの世界に自分がいるのか、という情報だけを認識していると
しましょう。この場合、6人のP氏の心身状態には、


  P1=P2、P3=P4、P5=P6 (これら3つは互いに異なる)
という関係が生じています。そして、P氏は、これら3つの視点のどれ
か1つには立てますが、同時に2つ以上の視点には立てません。仮に
「W1またはW2」という視点に立った場合、自分がW3、W4、W5、W6に
いない事だけは知っているものの、P1=P2なので、P氏は自分がW1
とW2のどちらにいるのかを知る事ができません。すなわち、W1+W2と
いう重ね合わせの世界にいることになります。W3+W4やW5+W6の場
合も同様です。


もしP氏が、「W1またはW2またはW3」「W4またはW5またはW6」の2
つの中のどちらの世界に自分がいるのか、という情報だけを認識し
ているとしましょう。この場合には、


  P1=P2=P3、P4=P5=P6 (これら2つは互いに異なる)
が成立しています。そしてP氏は、これら2つの視点のどちらか一方
には立てますが、両方の視点に同時に立つことはできません。仮に
「W1またはW2またはW3」という視点に立った場合、自分がW4、W5、
W6にいない事だけは知っているものの、P1=P2=P3なので、P氏は
自分がW1、W2、W3のどれにいるのかを知る事ができません。すな
わち、W1+W2+W3という重ね合わせの世界の中にいることになりま
す。W4+W5+W6の方も同様です。


もしP氏が、W1、W2、W3、W4、W5、W6のどこに自分がいるのかと
いう情報を何も持たない場合、


  P1=P2=P3=P4=P5=P6
です。P氏は、W1+W2+W3+W4+W5+W6すべての世界の重ね合わせ
の中にいる視点に立てるだけです。


1つのテーブルの周りに、P氏、Q氏、R氏、S氏の4人が座っている
とします。4人はまるで同一の世界に住むかのように、普通に会話し
ています。しかし、P氏はW1だけの中に住み、Q氏はW1+W2という重
ね合わせの中に住み、R氏はW1+W2+W3という重ね合わせの中に
住み、S氏はW1+W2+W3+W4+W5+W6すべての世界の重ね合わせの
中に住んでいる、という事も有り得るのです。

今の話でP氏は、W1、W2、W3、W4、W5、W6の違いを認識できる人
間を考えました。P氏の代わりに、1個の素粒子を考えると、これは、
自分の外界について何も知覚できず、外界の情報を持つことはでき
ないと思われます。すなわち、1個の素粒子の視点に立つと、「多世
界説」で考える集合{W}のすべての要素がW1+W2+W3+・・・という重ね
合わせのままで、波動関数の収縮は一切起こらない、と言えます。
そう考えるのが[量子観念論仮説]です。

=======================================================

以上


                参考文献

・本論(1)~本論(97)↓
◇会議室 :【挑戦】定説への挑戦

トピック:クオリア統一理論

http://folomy.jp/heart/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=21734


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月10日(火)13時36分35秒 返信・引用
> No.2672[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(5)/SumioBaba(馬場純雄)

>さてしかし、再定式化された量子観念論仮説のもとで、馬場さん
>の次の主張は正しいでしょうか?

>  前回私が述べたことの言い換えになりますが――、私が知って
>いるニュートン力学と、私の知覚内のすべての諸事実とを組み合わ
>せて、法則的に何が演繹されるかを見ることができれば、友人の頭
>の特定の叩き方から、友人がLを見たかRを見たかが確定するの
>ではないでしょうか。
> なぜなら、友人の肩の叩き方の原因はこれこれではありえても
>これこれではありえない、という推論を緻密にやっていけば、友人
>がRを見た場合のどれもが「この叩き方」に繋がる因果線とは矛盾
>する、ということが言えるはずだからです。

>  友人が私とは因果的に隔離された場所にいて、単に電話のベル
>を鳴らすという合図をした、というだけならば、私はL+Rの重ね合
>わせに居続けられるかもしれません。しかし実際は難しいでしょう。
>ニュートン力学のカオス的不可逆的決定論的因果の傾向により、
>友人が見たのがLかRかによって、ベルの鳴るタイミングが異なって
>しまい、私の知覚にそれが反映され、結局、私の持つ情報と物理
>法則から論理的に演繹される情報の中に、「友人が見たのはLだ」
>ということが含まれざるをえなくなるだろうからです。
> 友人の合図のように、マクロな変化が私の身辺に起きてしまうよう
>な設定では、馬場さんの想定するような重ね合わせに私が居続け
>ることは無理だと思われます。


要するに、頭の叩かれ方により、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」
という情報が、私の心身状態の中に入った、と想定した訳ですね。
だとしたら、


           [量子観念論仮説]の主張


  私の心M1が住む世界W1において、L+R→Lという波動


  関数の収縮が起きるためには、M1が「Lは有り得るが、


  Rは有り得ない」という情報を持つこと(私の心身状態


  をくまなく調べた時、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」


  という情報がどこかに見つかること)が必要条件である。
に対し、反論しているのではなくて、支持してくれた訳ですよね?

反論するのであれば、


                 [反論]


  M1が「Lは有り得るが、Rは有り得ない」という情報を


  持っていなくても(「Lは有り得るが、Rは有り得ない」と


  という情報が私の心身のどこにも存在していなくても)、


  私の心M1が住む世界W1において、L+R→Lという波動


  関数の収縮は起こり得る。
という具体例を挙げるべきですし・・・。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月10日(火)02時25分43秒 返信・引用
> No.2671[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

> SumioBabaさんへのお返事です。


>

>私にとってL+R→Lと確定するのは、「Lだけ可

>能性が有り、Rは有り得ない」という情報を私の心が認識した場合だ

>けです。

>


―――という「量子観念論仮説」のもともとの馬場さんの定式を見て、

「その「情報」には、私には主観的にわからなくても、認識した情報から演繹できる情報はすべて含む」という解釈をするのはやや難しいように感じました。が、馬場さんの再定式はたしかに常識的な解釈なので、馬場さんのその再定式に従うことにしましょう。

さてしかし、再定式化された量子観念論仮説のもとで、馬場さんの次の主張は正しいでしょうか?

>
>仮に友人だけがLかRかを観測し、Lだったとします。そして、私が知
>らない暗号で、私にそれを教えるとします。暗号の規則は、
>    Lだったら、私の頭を叩く。Rだったら、私の肩を叩く。・・・(1)
>だとしましょう。友人が私の頭を叩いても、私にとってはL+Rという
>重ね合わせのままであり、Lに確定しません。友人は(1)という規則を
>知っていますが、私は知らず、「頭を叩かれる」→「Lだ」という情報化
>ができないからです。私にとっては、逆対応である、
>    Lだったら、私の肩を叩く。Rだったら、私の頭を叩く。・・・(2)
>の可能性も有るためです。友人が住む世界では(1)に確定していて
>も、私が住む世界では(1)+(2)という重ね合わせだからです。
>


前回私が述べたことの言い換えになりますが――、私が知っているニュートン力学と、私の知覚内のすべての諸事実とを組み合わせて、法則的に何が演繹されるかを見ることができれば、友人の頭の特定の叩き方から、友人がLを見たかRを見たかが確定するのではないでしょうか。

なぜなら、友人の肩の叩き方の原因はこれこれではありえてもこれこれではありえない、という推論を緻密にやっていけば、友人がRを見た場合のどれもが「この叩き方」に繋がる因果線とは矛盾する、ということが言えるはずだからです。


友人が私とは因果的に隔離された場所にいて、単に電話のベルを鳴らすという合図をした、というだけならば、私はL+Rの重ね合わせに居続けられるかもしれません。しかし実際は難しいでしょう。ニュートン力学のカオス的不可逆的決定論的因果の傾向により、友人が見たのがLかRかによって、ベルの鳴るタイミングが異なってしまい、私の知覚にそれが反映され、結局、私の持つ情報と物理法則から論理的に演繹される情報の中に、「友人が見たのはLだ」ということが含まれざるをえなくなるだろうからです。

友人の合図のように、マクロな変化が私の身辺に起きてしまうような設定では、馬場さんの想定するような重ね合わせに私が居続けることは無理だと思われます。


つまり、馬場さんの再定式化(始めから馬場さんの意図した定式化だったので「再定式化」というのは言葉のことですが)では、最初の定式化とは違って、私の身辺レベルではほとんど常に実在論が成立しつづけ、あまり革命的な世界観は出てこないような気がするわけです。

ただし、再定式版・量子観念論仮説のもとでも、マクロなレベルで観念論が成立する場合として、私の身辺に影響の及ばぬ遠くの出来事の変化がありますから、十分通常の世界観とは異なると言えるのですが。

他に観念論が成り立つ場合はもちろん、距離的には近くても影響の遮断されたミクロな変化です。友人を媒介としない「シュレーディンガーの猫」の場合など。扉を開けて私が見るまでは、猫の生きている世界と死んでいる世界にまたがって私は存在しています。


身辺のマクロな変化は、いかに私の意識から遮断されているように見えても、重ね合わせにはならないと思われます。(この点は、『論理パラドクシカ』pp.66~67の一段落で簡単に触れておりますので、いつか御吟味いただければ……)


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月 9日(月)18時40分34秒 返信・引用
> No.2670[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。

三浦俊彦様(4)/SumioBaba(馬場純雄)



           三浦俊彦様(3)の訂正


       (誤) 世界B1  → (正) 世界W1


[量子観念論仮説]についての説明です。

私の心M1が、私が住む世界W1について、10個の事実を知って
いるとします。そして、それら10個の命題に20段論法という難解な
論理的推論を行うと、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」を証明でき
るとしましょう。この場合、あまりにも証明が難しいので、私はその
証明を発見できず、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」が言えるのか
どうか判らずにいることも有り得ます。しかし、「Lは有り得るが、Rは
有り得ない」を証明するのに十分な、10個の事実を情報として持って
いる私の心M1は、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」という情報を
持っている、と見なすのが合理的です。従ってこの場合、世界W1に
おいて、L+R→Lという波動関数の収縮が起きていることになります。
「Lは有り得るが、Rは有り得ない」という命題自体は、M1が直接意識
していなくても、波動関数の収縮は起こり得るということです。


ただし10個の事実は、すべて私の心M1がしっかり知覚・認識して
いることが必要です。「私の心M1は全く知覚・認識していないが、客
観的物質世界の中に「Lは有り得るが、Rは有り得ない」という情報が
存在するのだ」というのはダメです。なぜなら、心による認識なしに
物理状態が客観的に確定しているとする[量子実在論仮説]の仮定
が入ってしまっているからです。[量子観念論仮説]は、心が情報を
認識していない領域の物質世界は、物理状態が何も確定していな
いと考えますから、W1についての情報は必然的に、M1が認識して
いるW1についての主観的情報になります。


M1が持つW1についての情報をすべて駆使しても、「Lか? Rか?」を
決定できないと仮定します。これは、M1の状態をこの状態に固定し
たまま、Lであるような世界WLと、Rであるような世界WRとが、どちら
も物理法則に反することなく、存在し得るということです。多世界解釈
の立場に立つので、存在し得るWLとWRは必然的に存在する、になり
ます。WLとWRにおいてM1の状態は全く同じなのですから、M1は自
分がどちらに存在するかを識別できず、嫌でもM1は、WL+WRという
重ね合わせの視点に立ってしまいます。つまり、


  自分の心M1は、自分の住む世界W1が「Lか? Rか?」と


  いう情報を持たない。


                  ↓


  W1は必然的に、W1=WL+WRという重ね合わせのまま。
が言えます。[量子観念論仮説]が主張しているのはこういう事です。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月 9日(月)14時25分2秒 返信・引用
> No.2669[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦様(3)/SumioBaba(馬場純雄)


私の主張を誤解されているように感じますので、私の主張という
か、[量子観念論仮説]の主張をもう一度書きます。


           [量子観念論仮説]の主張


  私の心M1が住む世界B1において、L+R→Lという波動


  関数の収縮が起きるためには、M1が「Lは有り得るが、


  Rは有り得ない」という情報を持つこと(私の心身状態


  をくまなく調べた時、「Lは有り得るが、Rは有り得ない」


  という情報がどこかに見つかること)が必要条件である。
これに反論するためには、こう主張する必要が有ります。


                 [反論]


  M1が「Lは有り得るが、Rは有り得ない」という情報を


  持っていなくても(「Lは有り得るが、Rは有り得ない」と


  という情報が私の心身のどこにも存在していなくても)、


  私の心M1が住む世界B1において、L+R→Lという波動


  関数の収縮は起こり得る。
反論できますか?

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月 9日(月)01時37分10秒 返信・引用
> No.2668[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


とりあえず第一には、次の部分が争点として一番大きそうですね。

>
>  例えば二重スリット干渉縞実験で、1個の素粒子が左を通ったLか、
> 右を通ったRかを観測しないと、ついたてに到達した時に、LとRとが
> 干渉を起こします。素粒子がLだった場合のついたての物理状態を
> TL、素粒子がRだった場合のついたての物理状態をTRとすると、
> TL≠TRというマクロな差異に拡大したにも関わらず、私にとっては、
> L+Rという重ね合わせのままだったことになります。なぜでしょうか?
> それは私が、「TLとTRの違いを見分け、それにより、LとRのどちら
> だったのかという情報に結び付ける術」を知らないからです。もし私
> が、「TLとTRの違いを見分け、それにより、LとRのどちらだったのか
> という情報に結び付ける術」を知っていれば、私はLとRの一方だけ
> を観測し、干渉は無くなるすはずです。この時「ついたて」はもはや
> 「ついたて」ではなく、「観測装置」になります。
>


干渉を消すには、「LとRのどちらだったのかという情報に結び付ける術」を知る必要はないでしょう。どっちかわからないまま、違いに影響されていればよいのです。たとえば、到達点のスクリーンの状態を、発火装置に結びつけて、LかRの一方の場合に私の目前に火がつき、他方の場合には火がつかないように設定しておくとします。どちらで火がつくのか私は知りません。装置の設定は一週間前に友人にやってもらい、その設定がLかRのいずれを発火装置に結びつけた作業かによって部屋の様子(椅子や机の並び、ホコリの位置など)が相当変化するものとします(変化の仕方は不規則で、私や友人の一存では統制できないものとします)。

私が部屋に入ったときには、すでに部屋に変化が起きています。この変化はすでに不可逆なマクロな変化なので、私が知らぬまま、LかRのいずれを発火装置に結びつけたかが決定しています。私はすでにいずれかの世界に住んでいるのです。装置設定と部屋の様子との間には私の知らぬまま特定の因果関係が成立しているので。

さて、実験を開始し、火がついたとしましょう。私は当然、LかRのいずれが起きたのかを知る術はありません。それでも、部屋の様子によって装置の設定が決まっているわけですから、いずれか一方だけが起きたことになり、私はすでに重ね合わせの中には居ません。


むろん、そういう設定が何もなく、LかRのいずれが起きたかから生ずる変化を私が何ひとつ知覚していなければ、「シュレーディンガーの猫」と同じことになり、私は実験後もL世界とR世界にまたがって存在し続けます。最初の影響が私の知覚に到達した時点で、私の住む世界はLかRの一方に収縮します(いずれなのかを私が知る必要はありません)。


以上と基本的に同じことを確認するために、馬場さんの次の箇所をひきつづき考えてみましょう。

>
>  仮に友人だけがLかRかを観測し、Lだったとします。そして、私が知
> らない暗号で、私にそれを教えるとします。暗号の規則は、
>     Lだったら、私の頭を叩く。Rだったら、私の肩を叩く。・・・(1)
> だとしましょう。友人が私の頭を叩いても、私にとってはL+Rという
> 重ね合わせのままであり、Lに確定しません。友人は(1)という規則を
> 知っていますが、私は知らず、「頭を叩かれる」→「Lだ」という情報化
> ができないからです。私にとっては、逆対応である、
>     Lだったら、私の肩を叩く。Rだったら、私の頭を叩く。・・・(2)
> の可能性も有るためです。友人が住む世界では(1)に確定していて
> も、私が住む世界では(1)+(2)という重ね合わせだからです。
>


馬場さんのこの見解はハッキリ間違いだと思われます。

馬場さんは、事象を単独で捉えすぎています。

ただひとつのマクロな事象についてなら馬場さんの捉え方も「ナルホド」という感じがしますが、事象というものは複数が物理法則で関係しあっています。

とくにマクロな事象は、互いに不可逆的に影響しあっているので、たとえば「友人が暗号の規則を一方に決めた」という事象と、「頭の叩き方がこれこれの強さだった」という事象とは、物理法則によって、共存が可能か不可能かが決まってしまっています。物理法則が個々の事象をどのように連動させるかは、私の知識とは無関係に決定しているということです。

たとえば、間違って階段から足を踏み外したとか、置き忘れた本を踏んづけてしまったとか、そういった私の心の不意を衝くようなことがしばしば起こりますね。そういった事故についてよく考えてみると「置き忘れたっけな」「靴がすり減っていたっけな」など、辻褄が合っていると判明するものです。

つまり、外界の整合的な連動という私の経験が教えるところによると、おおかた私のまわりの環境は私の知識から独立しており、観念論的でないということです。


なので、友人が特徴的な頭の叩き方をしたら、それは「Lだったら、私の頭を叩く」という友人の意識が筋肉に作用してそうなった、等々の連動があるはずです。

そのような連動を否定するとすれば、物理法則までもが私の心の産物ということになりますが、量子論およびそのマクロな現われであるニュートン力学を認めないようでは、馬場さんの議論のモチーフが崩れてしまうのではないでしょうか?


友人に頭を叩かれた時点で、ある特定の叩き方を私は感知したわけですから、物理法則によって因果的に繋がっているのは、友人の「Lだったら、私の頭を叩く」の方であり、「Rだったら、私の頭を叩く」ではない、ということが決定します。


LとRの違いが友人の意識や叩き方に影響するというのが納得できなければ、もっと情緒的な設定にすればよいでしょう。「Lだったら、私の頭を叩く、Rなら肩を叩く」の指令には女性のヌード写真を、「Rだったら、私の頭を叩く、Lなら肩を叩く」の指令には男性のヌード写真を私自身が貼付しておきます。友人は一方だけを見て、その指令に従うものとします。私は友人がどちらを見たのか知りませんが、どちらを見たかによって心拍数や私への評価などが異なるので、直後の実験による私の頭もしくは肩の叩き方が違ってくるはずです。

私は叩かれてもその叩き方が友人のどちらの意識に対応するのかわからないでしょう。それでも、物理法則が成り立っているかぎり、友人の合図がどちらを示しているかは、そして実験結果がLだったかRだったかは、私にとってどちらか一方でしかないのです。


友人の叩き方と、見たヌード写真との対応が、物理法則的にどちらもありえて、重ね合わせになっている、という反論が生ずるかもしれません。しかしそれは確率的にほぼ不可能でしょう。ミクロ世界のLかRかの重ね合わせのようなわけにはいきません。友人のヌード写真知覚と叩き方の結びつきのような、いったんマクロなレベルへ拡大した違いは、すでに収斂することはなく、量子力学(ニュートン力学)により、私が知らないまま、どちらかに決定しているはずです。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月 8日(日)19時36分27秒 返信・引用
> No.2667[元記事へ]

三浦俊彦様(2)/SumioBaba(馬場純雄)


お忙しい中、さっそくのご返事、有り難うございます。こういう議論
をしてみたいとずっと思っていたのですが、不勉強で、三浦さんの
存在も、つい最近知りました(申し訳有りません。m(_ _)m)。暇な時に
でもご意見をお聞かせ下されば、大変嬉しい次第です。

>  マイナーといってもけっこう重要な違いかもしれず、
>  たとえば馬場さんは、

> Miが情報を持たない領域は何も物理状態が確定しておらず、
>あらゆる可能性


  が重ね合わせのままである。

> といいますが、
> それは言い過ぎでしょう。
>(観念論の成り立つ条件を広く取りすぎです)
> LかRか(1とL小文字が紛らわしいので大文字にさせていただき
>ます)について直接の「情報」は持たずとも、たとえば、Lになった
>ことから帰結する特有の物理的結果が私の心身に影響して私の
>意識内容が変化したら、その時点で私のいる世界はWLに決定し
>ます。問024の答えに述べたように、私のいる世界が決定するた
>めには、LかRかを私が知る必要はありません。
>  ただ、馬場さんの「情報」はそういう間接的な影響も含んでいた
>のかもしれませんね。だとすれば、私は馬場さんとの間に不一致
>はありません。


もちろん、「間接的な影響」も含んでいます。下の方に詳しく書いて
みます。

> 次に、逆の方向への異論を述べます。
> 「まとめ4」は譲歩のしすぎかなと思います。
>(観念論の成り立つ条件を狭く見積りすぎです)
> 多世界説が正しくなくとも、つまり世界がひとつだけだとしても、
>友人だけがLかRかを観測しただけでは、私の心および身体に
>とっても世界はWLかWRの一方だけに確定するとは限りません。
> すなわち、馬場さんが展開している「観念論」は、実は、多世界説
>と同様、一世界説においても成り立ってしまうのです。
> というのも、一世界がとてつもなく広ければ(無限大であれば理想
>的だが)、私の主観的心に相当する互いに区別のつかない心的状
>態が多数回(膨大な距離を隔ててですが)展開しているはずです
>から(一度起きたことは多数回起こる)、そのうちどれが「本当の私」
>なのかは、私自身がLかRかを確かめないと(あるいは確かめられ
>ないまでもLかRに特有の影響を受けないと)決定しないのです。
> 結局のところ、馬場さんの「観念論」は、多世界説に特有のもの
>ではなく、一世界説においてもまったく同様に成り立つわけです。


なるほど、そういう可能性も有りましたか。

> さて、「まとめ5」に

> X(t0)→X1(t1)+X2(t1)→X(t2)と時間発展し、時刻
>    t2に同一の状態X(t2)で一致した場合、

> とありますが、いったんマクロな相違が生じたあとで(友人の記憶
>やその他が分岐したあとで)「同一の状態」に収斂する確率は、
>ほとんどゼロでしょう。私の心的内容に反映される何らかの違い
>が生じてしまっている可能性が大です。したがって、私自身はWL
>かERか知らないまま、どちらかの世界だけに成り立つ特徴を感知
>してしまっており、「主観的には知らないまま客観的に私はWLか
>ERか一方のみに居る(あるいは確率的にほぼ決定した)」ことに
>なるでしょう。


「私自身はWLかERか知らないまま、どちらかの世界だけに成り
立つ特徴を感知してしまっており「主観的には知らないまま客観的
に私はWLかERか一方のみに居る(あるいは確率的にほぼ決定し
た)」ことになるでしょう。」という点が、今後の論点になりそうですね。
この点がものすごく微妙なんです。


例えば二重スリット干渉縞実験で、1個の素粒子が左を通ったLか、
右を通ったRかを観測しないと、ついたてに到達した時に、LとRとが
干渉を起こします。素粒子がLだった場合のついたての物理状態を
TL、素粒子がRだった場合のついたての物理状態をTRとすると、
TL≠TRというマクロな差異に拡大したにも関わらず、私にとっては、
L+Rという重ね合わせのままだったことになります。なぜでしょうか?
それは私が、「TLとTRの違いを見分け、それにより、LとRのどちら
だったのかという情報に結び付ける術」を知らないからです。もし私
が、「TLとTRの違いを見分け、それにより、LとRのどちらだったのか
という情報に結び付ける術」を知っていれば、私はLとRの一方だけ
を観測し、干渉は無くなるすはずです。この時「ついたて」はもはや
「ついたて」ではなく、「観測装置」になります。


仮に友人だけがLかRかを観測し、Lだったとします。そして、私が知
らない暗号で、私にそれを教えるとします。暗号の規則は、


  Lだったら、私の頭を叩く。Rだったら、私の肩を叩く。・・・(1)
だとしましょう。友人が私の頭を叩いても、私にとってはL+Rという
重ね合わせのままであり、Lに確定しません。友人は(1)という規則を
知っていますが、私は知らず、「頭を叩かれる」→「Lだ」という情報化
ができないからです。私にとっては、逆対応である、


  Lだったら、私の肩を叩く。Rだったら、私の頭を叩く。・・・(2)
の可能性も有るためです。友人が住む世界では(1)に確定していて
も、私が住む世界では(1)+(2)という重ね合わせだからです。


結局、私にとってL+R→Lと確定するのは、私が私の心・身状態を
詳しく調べ、「Lだけ可能性が有り、Rは有り得ない」という情報を認識
した場合だけです。私の身体の物理状態を認識しているのも私の心
なので、結局のところ、私にとってL+R→Lと確定するのは、「Lだけ可
能性が有り、Rは有り得ない」という情報を私の心が認識した場合だ
けです。

> 「哲学的ゾンビ」について書かれている部分は、賛成できません。
>哲学的ゾンビは、望遠鏡や顕微鏡のような心なき測定装置として考
>えることができます。測定装置のあり方は、観測がなされた瞬間に
>決定しますから、「重ね合わせの視点に立ったまま」ということはな
>いでしょう。マクロレベルで不可逆の統計的差異が生じてしまった
>時点で、測定装置(哲学的ゾンビも)は重ね合わせから脱して一方
>ずつの世界に分岐移行しています。
> というより、正確にいうと、意識のない存在は始めから重ね合わ
>せ状態になっておらず、個々別々に決定的に分離しているだけだ、
>とも言えるでしょう。重ね合わせ状態になっている測定装置とは、
>意識が捉えた測定装置だけです。観測器そのものは、個々別々
>に始めから在るだけです。

> つまり、
>??「心(意識)」こそが波動関数収縮の原因
> という馬場さんの知見は誤解のもとであって、むしろ
> 「心(意識)」こそが重ね合わせの原因
> というべきでしょう。
>  意識による把握がなければ、世界は(多世界でも一世界でも)
>すみずみまで決定した一個の決定論的全体があるだけだからで
>す。
> 「ここがどのように決定しているかわからない」という「わからなさ」
>は、意識という観点があって初めて成立します。意識がなければ
>「ここ」も「いま」もなく、世界は一義的決定状態でしょうから。


「哲学的ゾンビ」はそもそも意識が無いのですから、「L、R、L+R、の
どの視点に立っているか?」と問うこと自体が無意味かもしれません。
「どの視点にも立てない」が正解でしょう。

ただ、「LかRかを意識できない」→「L+Rという重ね合わせの視点の
立っている」という解釈ができる、ということでしょうね。そして、「L+R
ではなく、LまたはRの視点に立つためには、意識が必要」は言える
のではないでしょうか?

> ともあれ、大筋では馬場さんの論考に私は賛成できると感じま
>した。
> 「観念論」が成り立つ条件の広狭について、二方向のズレがある
>のが最もメジャーな不一致と言えるでしょうか。


最初から完全一致では面白くないので・・・。これからもいろいろ
議論させて下さい。楽しくなってきました。

以上


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月 7日(土)23時44分42秒 返信・引用
> No.2665[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


ここでの3月初頭の、蝉さんとの談義(『論理パラドクシカ』問024~027をめぐる)の系譜に列なる内容で、この分野の本筋を突いており大変有益だと思いました。

ありがとうございます。


馬場さんの見解は、『論理パラドクシカ』問024、025の私の見解とほとんど同じだと思われます。したがって、私は大筋で賛成であり、異論を差し挟むとしたらマイナーな部分になります。


マイナーといってもけっこう重要な違いかもしれず、

たとえば馬場さんは、


Miが情報を持たない領域は何も物理状態が確定しておらず、あらゆる可能性


  が重ね合わせのままである。


といいますが、

それは言い過ぎでしょう。
(観念論の成り立つ条件を広く取りすぎです)

LかRか(1とL小文字が紛らわしいので大文字にさせていただきます)について直接の「情報」は持たずとも、たとえば、Lになったことから帰結する特有の物理的結果が私の心身に影響して私の意識内容が変化したら、その時点で私のいる世界はWLに決定します。問024の答えに述べたように、私のいる世界が決定するためには、LかRかを私が知る必要はありません。

ただ、馬場さんの「情報」はそういう間接的な影響も含んでいたのかもしれませんね。だとすれば、私は馬場さんとの間に不一致はありません。


次に、逆の方向への異論を述べます。

「まとめ4」は譲歩のしすぎかなと思います。
(観念論の成り立つ条件を狭く見積りすぎです)

多世界説が正しくなくとも、つまり世界がひとつだけだとしても、友人だけがLかRかを観測しただけでは、私の心および身体にとっても世界はWLかWRの一方だけに確定するとは限りません。

すなわち、馬場さんが展開している「観念論」は、実は、多世界説と同様、一世界説においても成り立ってしまうのです。

というのも、一世界がとてつもなく広ければ(無限大であれば理想的だが)、私の主観的心に相当する互いに区別のつかない心的状態が多数回(膨大な距離を隔ててですが)展開しているはずですから(一度起きたことは多数回起こる)、そのうちどれが「本当の私」なのかは、私自身がLかRかを確かめないと(あるいは確かめられないまでもLかRに特有の影響を受けないと)決定しないのです。

結局のところ、馬場さんの「観念論」は、多世界説に特有のものではなく、一世界説においてもまったく同様に成り立つわけです。


さて、「まとめ5」に


X(t0)→X1(t1)+X2(t1)→X(t2)と時間発展し、時刻


  t2に同一の状態X(t2)で一致した場合、


とありますが、いったんマクロな相違が生じたあとで(友人の記憶やその他が分岐したあとで)「同一の状態」に収斂する確率は、ほとんどゼロでしょう。私の心的内容に反映される何らかの違いが生じてしまっている可能性が大です。したがって、私自身はWLかERか知らないまま、どちらかの世界だけに成り立つ特徴を感知してしまっており、「主観的には知らないまま客観的に私はWLかERか一方のみに居る(あるいは確率的にほぼ決定した)」ことになるでしょう。

むろん、きわめて遠く離れたところで起こった選択肢分岐であれば、そこから派生する違いを私がひとつも感知できておらず、私が異なる過去の重ね合わせに存在し続ける、ということもありそうです。たとえば百光年の距離で百年前に起きたLorRの影響が、いまやっと私の視界を歪ませれば、その歪みゆえにそこで初めて、LとRのどちらが真相だったかが決定します(私にはどちらかわからない間接的な影響でしかなかったとしても)。

歪みの瞬間までは、私は、WLとWRの両方にまたがって存在しています。WLとWRのどちらに移行するかは最後の瞬間にならないとわかりません。「過去がいま決定する」というのは、だから、さほど不思議なことではありませんね。


「哲学的ゾンビ」について書かれている部分は、賛成できません。哲学的ゾンビは、望遠鏡や顕微鏡のような心なき測定装置として考えることができます。測定装置のあり方は、観測がなされた瞬間に決定しますから、「重ね合わせの視点に立ったまま」ということはないでしょう。マクロレベルで不可逆の統計的差異が生じてしまった時点で、測定装置(哲学的ゾンビも)は重ね合わせから脱して一方ずつの世界に分岐移行しています。

というより、正確にいうと、意識のない存在は始めから重ね合わせ状態になっておらず、個々別々に決定的に分離しているだけだ、とも言えるでしょう。重ね合わせ状態になっている測定装置とは、意識が捉えた測定装置だけです。観測器そのものは、個々別々に始めから在るだけです。


つまり、
「心(意識)」こそが波動関数収縮の原因

という馬場さんの知見は誤解のもとであって、むしろ

「心(意識)」こそが重ね合わせの原因

というべきでしょう。


意識による把握がなければ、世界は(多世界でも一世界でも)すみずみまで決定した一個の決定論的全体があるだけだからです。

「ここがどのように決定しているかわからない」という「わからなさ」は、意識という観点があって初めて成立します。意識がなければ「ここ」も「いま」もなく、世界は一義的決定状態でしょうから。


ともあれ、大筋では馬場さんの論考に私は賛成できると感じました。

「観念論」が成り立つ条件の広狭について、二方向のズレがあるのが最もメジャーな不一致と言えるでしょうか。


Re: 多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 5月 6日(金)21時27分0秒 返信・引用
> No.2665[元記事へ]

SumioBabaさんへのお返事です。


力作の投稿をありがとうございます。


「多世界解釈は必然的に観念論を導く」ということについては私も賛成なので(ただし「観念論」の意味が伝統的観念論とはちょっと異なってきましょうが)、興味深く拝見しております。


只今は時間が乏しいため、検討の上、明日にでも改めてここに返答させていただきます。


多世界解釈→量子観念論仮説は必然か?
投稿者:SumioBabaメール 投稿日:2011年 5月 6日(金)15時01分29秒 返信・引用
三浦俊彦様(1)/SumioBaba(馬場純雄)


参加させて頂き、感謝致します。よろしくお願い申しあげます。

さっそくですが、「多世界解釈は必然的に観念論を導くのでは?」
という論法です。folomyからそのまま引用します。誤りが無いかどう
か、厳しくチェックして頂ければ幸いです。どなたからのご意見も、
大歓迎です。

以上

=======================================================



          <<クオリア統一理論(59)>>


          ー 量子観念論仮説 ー



           2010.12.26  馬場純雄



量子力学の解釈として、「多世界説」(多世界解釈)を支持する人が
大多数になっているようです。そして、「多世界説」の立場を取ると、
自ずと[量子観念論仮説]にたどり着き、[量子実在論仮説]の立場に
は立てないのではないか?という主張です。



             [量子実在論仮説]


  地球上には数十億人の人間の心M1、M2、M3、・・・、Mn


  (nは数十億)が存在しているが、物質世界の方は、心M1、


  M2、M3、・・・、Mnすべてにとって共通な世界Wが実在し


  ている。個々の心M1、M2、M3、・・・、Mnは、Wのごく一部


  を知覚・認識するだけであり、


      M1<W、M2<W、M3<W、・・・、Mn<W


  と表現できる。//



             [量子観念論仮説]


  地球上には数十億人の人間の心M1、M2、M3、・・・、Mn


  (nは数十億)が存在しているが、物質世界の方も、心M1


  が住む世界W1、心M2が住む世界W2、心M3が住む世界


  W3、・・・、心Mnが住む世界Wn、と心の数だけ存在し、す


  べて異なる。(「多世界説」まで考慮すれば、n→∞)。


  心Miが住む世界Wiは、Miが知覚・認識している範囲内で


  だけ物理状態が確定しているが、Miが情報を持たない


  領域は何も物理状態が確定しておらず、あらゆる可能性


  が重ね合わせのままである。WiはMiそのものと見なすこ


  とになり(i=1、2、3、・・・、n)、


      M1=W1、M2=W2、M3=W3、・・・、Mn=Wn


  そして、存在するのはすべての心M1、M2、M3、・・・、Mn


  の集合{M}だけである。//


拙著<<「意識科学」と量子力学(23)>>「量子観念論仮説7」に詳しい
説明をしていますが、記号を少し変えて「まとめ1」~「まとめ5」を引
用します。

二重スリット干渉縞実験で、1個の素粒子が左の穴を通った状態が
|L>、右の穴を通った状態が|R>、1個の素粒子が「左の穴を通った」
と表示している観測装置の状態が|OL>、「右の穴を通った」と表示
している観測装置の状態が|OR>、1個の素粒子が左の穴を通った
世界がWl、右の穴を通った世界がWr、自分の心がM1、友人の心が
M2、です。さらに、友人だけは時刻t1に観測装置を観測したとし、
観測装置の状態が|OL>であることを知った友人が|FL>、観測装置
の状態が|OR>であることを知った友人が|FR>、です。



                まとめ1


  素粒子が、左の穴を通った|L>か右の穴を通った|R>か


  を観測装置で観測するだけで、観測装置が|OL>か|OR>


  かを人間の心が知覚・認識しなくても、干渉縞が生じな


  くなるのは事実だが、その原因は、|L>|OL>+|R>|OR>と


  いう絡み合いになったからであって、|L>+|R>→|L>また


  は|L>+|R>→|R>という波動関数の収縮が起きた訳では


  ない。


                まとめ2


  素粒子と観測装置の関係を知覚できる自分の心M1が、


  |L>ならば|OL>は必然、|R>ならば|OR>は必然、と認識


  することで、自分の住む世界W1では、


      |L>|OL>+|R>|OR>+|L>|OR>+|R>|OL>


                    →|L>|OL>+|R>|OR>


  まで波動関数の収縮が起きたが、観測装置が|OL>か


  |OR>かは観測していないので、|L>|OL>+|R>|OR>という


  重ね合わせのまま、それ以上は収縮できない。



                まとめ3


  素粒子と観測装置との相互作用においては、素粒子の


  |L>+|R>という重ね合わせ状態が、観測装置までを巻き


  込み、|L>|OL>+|R>|OR>という重ね合わせに拡大された


  だけであり、波動関数の収縮など何一つ起きていない。



                まとめ4


  「多世界説」以外の立場に立ち、「世界は1つ」だとする


  なら、自分も友人も同一の世界Wに住むのだから、自分


  の住む世界がWlかWrかを自分の心M1が知らなくても、


  友人の心M2がWlかWrかを観測し、WlとWrのどちらか一


  方であることが確定した時点で、自分の心M1にとっても


  世界は、WlとWrのどちらか一方だけに波動関数が収縮


  したことになる。→[量子実在論仮説]。



                まとめ5


  「多世界説」の立場に立つと、友人がWlかWrかを観測


  することで友人が2つに分かれ、世界はWlとWrの両方


  が存続する。自分の住む世界W1がWlかWrかを知らない


  自分の心M1は、全く同じ状態でWlとWrの両方に存在し、


  時刻t1に、X1(t1)=|L>|OL>|FL>とX2(t1)=|R>|OR>|FR>の


  2つに分岐したX=「素粒子」+「観測装置」+「友人」の状


  態が、X(t0)→X1(t1)+X2(t1)→X(t2)と時間発展し、時刻


  t2に同一の状態X(t2)で一致した場合、X1(t1)とX2(t1)の


  干渉を観測することになる。つまり、自分の住む世界W1


  がWlかWrかという情報を持たない自分の心M1にとって、


  世界W1は必然的にW1=Wl+Wrという重ね合わせのまま


  である。→[量子観念論仮説]。


友人は、WlとWrのどちらに住んでいるのかを観測したため、Wlにい
る「友人l」とWrにいる「友人r」とは「友人l」≠「友人r」となり、「友人l」
または「友人r」のどちらか一方の視点に立てるだけであり、「友人l」+
「友人r」という重ね合わせの視点には立てません。「友人l」の視点に
立つとWl+Wr→Wlという波動関数の収縮が起き、「友人r」の視点に立
つとWl+Wr→Wrという波動関数の収縮が起きたように見えます。

自分は、WlとWrのどちらに住んでいるのかを観測していないため、
Wlにいる「自分l」とWrにいる「自分r」とは「自分l」=「自分r」となり、「自
分l」+「自分r」という重ね合わせの視点に立てるだけであり、「自分l」
と「自分r」のどちらか一方の視点には立てません。自分にとって世界
は、Wl+Wrという重ね合わせのままです。

ただし、もし友人が「心(意識)」を持たない「哲学的ゾンビ」であり、
1個の素粒子が右の穴を通ったか左の穴を通ったかを観測したもの
の、自分が「友人l」なのか「友人r」なのかを意識できないとしたら、
友人もまた「友人l」+「友人r」という重ね合わせの視点に立ったまま
で、Wl+Wr→WlやWl+Wr→Wrという波動関数の収縮は起こりません。
「心(意識)」こそが波動関数収縮の原因だということです。


我々はついつい、「物質世界は誰にとっても客観的なもの」という
先入観を持っています。だから、自分の心M1は友人の部屋の様子
を知らなくても、客観的世界Wの中で友人の部屋の様子は確定して
おり、単に自分の心M1がそれを知らないだけだ、と考えてしまいま
す。それが[量子実在論仮説]です。[量子観念論仮説]は、この常識
を根底から覆し、自分の心M1が住む世界W1では、友人の部屋の様
子は様々な重ね合わせのまま確定していない、と主張します。

=======================================================

以上


                参考文献

・本論(1)~本論(95)↓
◇会議室 :【挑戦】定説への挑戦

トピック:クオリア統一理論

http://folomy.jp/heart/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=21734



                 追伸

「眠り姫問題」も同一の問題だと思います。コインを1回投げ、表が
出た世界をW1、裏が出た世界をW2とし、自分の住む世界を両者の
重ね合わせとして、a1・W1+a2・W2とすると、自分の心がどういう情報
を持っているかで、a1とa2はどうにでも変わります。

友人だけが結果を知っているとすると、友人の住む世界は「確率1
でW1」(|a1|^2=1、|a2|^2=0)または「確率1でW2」(|a1|^2=0、|a2|^2=1)に
確定しています。

私は結果を知らないので、私の住む世界は、「確率1/2でW1、確率
1/2でW2」(|a1|^2=1/2、|a2|^2=1/2)という重ね合わせのままです。

友人が私に結果を教えてくれる約束で、ただし、70%の確率で結果
を正しく、30%の確率で逆にウソを教えてくれる約束をしているとしま
す。友人が「W1だったよ」と教えてくれた場合、私の住む世界は、
「確率70%でW1、確率30%でW2」(|a1|^2=7/10、|a2|^2=3/10)という重
ね合わせになります。私が住む世界はW1で、友人がそれを正しく教
えてくれている確率が70%、私が住む世界はW2で、友人がウソを教
えてくれている確率が30%、です。

コインを投げる人が住む世界と、眠り姫が住む世界は異なるため、
コインを投げる人にとっては確率「1/2」の事象が、眠り姫にとっては
確率「2/3」の事象となる場合も有り、どちらも正しいことになります。

以上


Re: 確認
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月12日(土)01時35分48秒 返信・引用
φさんへのお返事です。


②の時計の設定で実験内容を予想するとき、観測した文字盤より未来に位置する文字盤の数と、実験で用いられる原子の数は反比例する、というのは、質問時には全く自覚してませんでした。主観的個体の数について確認することばかり考えていたので。

『ゼロからの論証』4-2は、人為的な人類破滅が「生物進化を保証できる時間(T)」とは無関係ということや、「支持の因果説」を前提とした一般化のパラドクシカルな結論等が読んでいて新鮮でした。

もはやただの感想になりましたが、元々の疑問はこれまでの応答を読んで解決することができたように思えます。最後まで応えていただいて、どうもありがとうございました。


訂正版
投稿者:名無しさん 投稿日:2011年 3月11日(金)16時19分53秒 返信・引用
生より死が優れる:馬鹿は死ななきゃ直らない
選択的に生より死が優れる:虎は死して皮を残し人は死して名を残す

名を言葉ととらえる

名を血統ととらえる

名を精神ととらえる
生と死が等価である:馬鹿は死んでも直らない



選択的だが生と死が等価である:虎は死して名を残し人は死して名を残す?

名を精神ととらえる

名を知識ととらえる


不可知論
生より死が劣る:死人に口なし


Re: 確認
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月10日(木)13時36分8秒 返信・引用
> No.2660[元記事へ]

蝉さんへのお返事です。

蝉さんの考えの通りで間違いないと思います。

ただ一点、「場合Aのとき各文字盤を1/nとする必要はないよな」と思ったら、追記で蝉さん自身が但し書きをしていました。


原子1個と多数という設定の比較は、蝉さんの意図はどうだったかわかりませんが、生物進化において知的生物が誕生するまでの「試練(乗り越え困難な壁)」の数の推定に似ていますね。

壁が少数(1個かせいぜい2個)の場合は進化の歴史の真ん中へんで知的生命が生まれ(観測選択がなされ)、壁が多数の場合は進化の歴史の終わりの方でギリギリセーフで知的生命が生まれるはずだ、という推測です。

ブランドン・カーターの推測を受けて、ニック・ボストロムがダイアル錠の喩えで明快な解説をしています。太陽の寿命のちょうど真ん中で人類が観測選択している事実に照らして、進化史での「壁」の数はおそらく1個だろう、と。あるいはもし複数(多数)であれば、進化の期限は太陽の寿命よりずっと短いのだろう(生物は近未来に終わるのだろう)と。

その推論については、『ゼロからの論証』4-2で簡単に述べておきましたが。


追記
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月10日(木)03時19分43秒 返信・引用
②の時計の例は、場合Aで各文字盤を1/nとする必要はありませんね。
場合Bで、場合Aの文字盤の確率分布よりは後の方になる、という趣旨でしたので、時計の進み方は任意でした。


Re: 確認
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月10日(木)02時48分25秒 返信・引用
> No.2658[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>
>時間内に原子がすべて崩壊して毒ガス銃の引き金が引かれる確率が同じであるとき、それが原子1個によるか(場合A)、100個によるか(場合B)の違いは? ということですね。
>

そういうことでしたが、

>
>私の二つの設定★のうち、下の★の設定では、毒ガスが猫を殺すまでの時間が場合Aと場合Bとで同じなので、蝉さんの言う
>
>  猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は場合Bの方が圧倒的に多いが、
>  客観的個体の数は両方とも等しくなる

> は成り立たないようです。
>すなわち、猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は、場合Aでも場合Bでも同じでしょう。もちろん、猫が生きている世界にいる客観的個体の数も、同じです。
>また、猫が死んでいる世界についても同様です。
> つまり、下の★の設定では、場合AとBとで何の違いもありません。確率だけによって主観的個体・客観的個体の数が決まります。
>
(訂正を受けて引用部を変えています)

については場合Aと場合Bの比較を思いついたときに、始めに自分が質問した「シュレーディンガーの猫実験で、原子100個を使い、全ての原子の崩壊を検出した時に猫を殺す実験を考えた時、実験前の観測者が、自分は猫が生きている世界に移動しそうだと予想するのは論理的ですか?」を、「実験を100回平行して行い、猫が1匹は生きている世界に移動しそうだと予想するのは論理的か?」と間違えて下の★の場合を考えてました。だから、「猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は場合Aの方が圧倒的に多いが、客観的個体の数は両方とも等しくなる」というのが成り立たないというのは、その通りだと思います。余計なお手間を取らせて申し訳ありませんでした。
それと併せて、

>
>絶対数はわかるはずがないので(もしかしたら無限大かもしれません)、絶対数の比率、つまり全体の中で占める相対的な比率ですね。普通の確率判断と同じです。
>

ということで、自分の理解は間違ってなかったようなのでなによりでした。


>
> 上の★の設定においてはどうでしょうか。ここでも、猫が生きている世界へと分岐する客観的個体の数は確率だけによって決まります。よって場合Aでも場合Bでも同じ。
> では他方、上の★の設定において猫が死んでいる世界にいる主観的個体の数は?
> 主観的個体の数は知覚内容のバラエティ(死んでいる猫の姿勢の見出され方)で決まりますが、そのバラエティは、場合Aと場合Bとで異なります。
>場合Aでは、猫が死ぬとしたら実験開始直後の瞬間に死にます。場合Bでは、猫は実験開始直後に死ぬかもしれないが、圧倒的な確率で、実験の終わり近くで死ぬでしょう。
>百個のすべてが崩壊するとしたら、百個目の崩壊までにはかなり時間がかかる確率が大だからです。
> したがって、場合Aでの猫の死骸の姿勢はバラエティに乏しく(なにせ短時間内での出来事だから)、
>場合Bでの猫の死骸の姿勢はバラエティに富んでいます(実験時間のどこにおいてでも死が起こりうるから)。
> 客観的個体の数でみると、場合Bでは、遅い時刻に猫が死んだ世界に圧倒的多数が位置するというように、分布に偏りがあるでしょう。
>よって、「この私」がどこに自らを見出すか(私の主観的個体がどこにいるか)は、客観的個体数に比例した確率に従って、時間ぎりぎりに猫が死ぬ世界ということになります。
>もちろん、他のあらゆる確率分布に応じた主観的個体が実在しますが、「この私」は客観的個体の多数派にまたがる主観的個体でしょう。
>
>原子崩壊の量子効果が毒ガス放出の有無に限られるという理想化状態のもとでは(シュレーディンガーの猫の思考実験がもともとそうなので)、以上のようになると思われますが。
>


つまりこういうことでしょうか。

実験の設定の猫を時計に置き換えて、猫の死を時計の停止で表す。(猫が生きている場合は時計が止まらず、実験終了時に観測者は動いたままの時計を観測する。)

場合Aと場合Bの違いは2つ。

①場合A、場合Bの両方で表示時間の精度が同じ時計を用いた場合。

場合Aは場合Bに比べて実験の待機時間が短いため、止まった時計の文字盤の種類は場合Bより少なくなる。

②表示時間の精度を待機時間に比例させる場合(文字盤の種類を同数nにそろえる場合)。

場合Aで時計が止まるとき、止まった時計の文字盤はどの種類も1/nで観測される。
場合Bで時計が止まるとき、100個それぞれの検出器に対応する時計を仮定すると、それらの時計のうち一番最後に止まった時計の文字盤が実験の時計の文字盤に対応するので、待機時間の終わり近くに対応する文字盤を観測する確率が高くなる。



私も訂正
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月 9日(水)22時38分11秒 返信・引用
> No.2658[元記事へ]

前回、蝉さんの趣旨を書き直した


猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は場合Aの方が圧倒的に多いが、

客観的個体の数は両方とも等しくなる


は、

……場合Bの方が圧倒的に多いが……


の書き間違いでした。


論旨にまったく影響ありませんが。


Re: 確認
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月 9日(水)03時16分23秒 返信・引用
> No.2657[元記事へ]

蝉さんへのお返事です。

>
> 下の★の設定で、N=2^100となるように検出器の待機時間を設定した場合を考えて、原子1つで実験を行う場合と、原子100個をそれぞれN=2として実験行う元の場合を比べると、猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は後者の方が圧倒的に多いですが、客観的個体の数は両方とも等しくなる、ということですね?
>


↑これについてちょっと考えてみました。


時間内に原子がすべて崩壊して毒ガス銃の引き金が引かれる確率が同じであるとき、それが原子1個によるか(場合A)、100個によるか(場合B)の違いは? ということですね。

私の二つの設定★のうち、下の★の設定では、毒ガスが猫を殺すまでの時間が場合Aと場合Bとで同じなので、蝉さんの言う



猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は場合Aの方が圧倒的に多いが、


客観的個体の数は両方とも等しくなる


は成り立たないようです。
すなわち、猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は、場合Aでも場合Bでも同じでしょう。もちろん、猫が生きている世界にいる客観的個体の数も、同じです。また、猫が死んでいる世界についても同様です。

つまり、下の★の設定では、場合AとBとで何の違いもありません。確率だけによって主観的個体・客観的個体の数が決まります。


上の★の設定においてはどうでしょうか。ここでも、猫が生きている世界へと分岐する客観的個体の数は確率だけによって決まります。よって場合Aでも場合Bでも同じ。

では他方、上の★の設定において猫が死んでいる世界にいる主観的個体の数は? 主観的個体の数は知覚内容のバラエティ(死んでいる猫の姿勢の見出され方)で決まりますが、そのバラエティは、場合Aと場合Bとで異なります。場合Aでは、猫が死ぬとしたら実験開始直後の瞬間に死にます。場合Bでは、猫は実験開始直後に死ぬかもしれないが、圧倒的な確率で、実験の終わり近くで死ぬでしょう。百個のすべてが崩壊するとしたら、百個目の崩壊までにはかなり時間がかかる確率が大だからです。

したがって、場合Aでの猫の死骸の姿勢はバラエティに乏しく(なにせ短時間内での出来事だから)、場合Bでの猫の死骸の姿勢はバラエティに富んでいます(実験時間のどこにおいてでも死が起こりうるから)。

客観的個体の数でみると、場合Bでは、遅い時刻に猫が死んだ世界に圧倒的多数が位置するというように、分布に偏りがあるでしょう。よって、「この私」がどこに自らを見出すか(私の主観的個体がどこにいるか)は、客観的個体数に比例した確率に従って、時間ぎりぎりに猫が死ぬ世界ということになります。もちろん、他のあらゆる確率分布に応じた主観的個体が実在しますが、「この私」は客観的個体の多数派にまたがる主観的個体でしょう。

原子崩壊の量子効果が毒ガス放出の有無に限られるという理想化状態のもとでは(シュレーディンガーの猫の思考実験がもともとそうなので)、以上のようになると思われますが。

>
> 主観的個体に対応する観測者が、自分の客観的個体の数をどこまで数えることができるのか
>という問題については、知っている限りの情報から考えられる数で十分である、
>となるんですよね?結果的な絶対数は考える必要はなく、
>観測事実から論理的に導ける限りの客観的な個体数を確率的に平等に扱ってもよい、と。
>

絶対数はわかるはずがないので(もしかしたら無限大かもしれません)、絶対数の比率、つまり全体の中で占める相対的な比率ですね。普通の確率判断と同じです。


確認
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 7日(月)23時31分56秒 返信・引用
> No.2656[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>
>各原子が時間内に1/Nの確率で崩壊するとして、箱を開けたとき「この私」が生きている猫を観測する確率は、1-(1/N)^100ということになるでしょう。
>どの客観的個体の集合へと「私」が絞られてゆくかはランダムですから、絶対数の比較からそうなります。実験前にその確率を期待するのは合理的でしょう。
>

>
>これは実験の設定によるでしょうね。
> ★原子がすべて崩壊したところですぐに引き金が引かれて毒ガス放射、という仕掛けであれば、最後に崩壊した原子がいつ崩壊したかによって、
>死の瞬間の猫の姿勢などが異なりますから、箱を開けたときに観測される光景が異なり、かなり多くの主観的個体が対応するでしょう。
> ★原子がすべて崩壊したら時間内の最後の瞬間に毒ガス放射、という仕掛けであれば、最後の崩壊の時刻にかかわらず猫の姿勢は同じですから、
>箱を開けたときに一つの主観的個体が猫を観測するでしょう。
>
> ただし以上のことは、猫の姿勢や箱内の他の見かけに、問題の原子百個による引き金以外の量子効果が影響をもたらさない、ということが前提です。
>実際は、何らかの量子効果がマクロな見かけに違いを及ぼしているかもしれません。その違いに応じて、主観的個体の数は変わるでしょう。
>しかしこれはあらゆる場合に当てはまる背景事情であり、この実験特有の問題としては、上の二つの★だけを考えればよく、但し書きは必要ないでしょうね。
>

シュレーディンガーの猫の良く知られた設定の改編ということで、N=2、下の★の場合での質問のつもりでしたが、その答えに加えて、別の場合についても答えていただいて、ありがとうございました。
別の場合の答えにも考えさせられるところは大きかったです。考えたことがまた思い込みでないと良いのですが。
下の★の設定で、N=2^100となるように検出器の待機時間を設定した場合を考えて、原子1つで実験を行う場合と、原子100個をそれぞれN=2として実験行う元の場合を比べると、猫が生きている世界にまたがる主観的個体の数は後者の方が圧倒的に多いですが、客観的個体の数は両方とも等しくなる、ということですね?

前々回のφさんの書き込みの、

>
>「個体」についていうと、客観的な物理的個体と、主観的な自我個体とを区別すべきでしょう。
> 客観的個体は、多世界の一つ一つの世界に一つ一つ存在します。
> 主観的な自我個体は、それらを意識内容の同一性で束ねた集合体です。
>
> したがって、ランダムにピックアップしてどの客観的個体に当たるか、ということと、
>「私」としてどの主観的個体が観測選択されるか、ということは別の問題です。
>

を読んで、観測者が客観的な個体の数から自分の将来の主観を予想するのは論理的なのか、と思い前回の書き込みの質問をさせてもらいました。
主観的個体に対応する観測者が、自分の客観的個体の数をどこまで数えることができるのかという問題については、知っている限りの情報から考えられる数で十分である、となるんですよね?結果的な絶対数は考える必要はなく、観測事実から論理的に導ける限りの客観的な個体数を確率的に平等に扱ってもよい、と。

以上が誤解でなければ、少しは安心して物理学の章を再読できるのですが。


Re: 量子的多世界と観測者の数え方Ⅱ
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月 6日(日)22時20分6秒 返信・引用
> No.2655[元記事へ]

蝉さんへのお返事です。

>
> シュレーディンガーの猫実験で、原子100個を使い、全ての原子の崩壊を検出した時に猫を殺す実験を考えた時、実験前の観測者が、自分は猫が生きている世界に移動しそうだと予想するのは論理的ですか?
>

各原子が時間内に1/Nの確率で崩壊するとして、箱を開けたとき「この私」が生きている猫を観測する確率は、1-(1/N)^100ということになるでしょう。どの客観的個体の集合へと「私」が絞られてゆくかはランダムですから、絶対数の比較からそうなります。実験前にその確率を期待するのは合理的でしょう。

>
> 上の質問の実験で、猫が死んでいる全ての世界の客観的個体に対応するのは1つの主観的個体ですか?
>

これは実験の設定によるでしょうね。

★原子がすべて崩壊したところですぐに引き金が引かれて毒ガス放射、という仕掛けであれば、最後に崩壊した原子がいつ崩壊したかによって、死の瞬間の猫の姿勢などが異なりますから、箱を開けたときに観測される光景が異なり、かなり多くの主観的個体が対応するでしょう。

★原子がすべて崩壊したら時間内の最後の瞬間に毒ガス放射、という仕掛けであれば、最後の崩壊の時刻にかかわらず猫の姿勢は同じですから、箱を開けたときに一つの主観的個体が猫を観測するでしょう。


ただし以上のことは、猫の姿勢や箱内の他の見かけに、問題の原子百個による引き金以外の量子効果が影響をもたらさない、ということが前提です。実際は、何らかの量子効果がマクロな見かけに違いを及ぼしているかもしれません。その違いに応じて、主観的個体の数は変わるでしょう。しかしこれはあらゆる場合に当てはまる背景事情であり、この実験特有の問題としては、上の二つの★だけを考えればよく、但し書きは必要ないでしょうね。


Re: 量子的多世界と観測者の数え方Ⅱ
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 6日(日)04時35分58秒 返信・引用
> No.2654[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>
>蝉さんは、客観的個体の一つ一つが主観的個体に対応する、と考えていたのでしょうか。
>「この私」は、自分がどの世界にいるか知らないだけで、ただ一つの世界に対応しているのだ、と。
> しかしその考えだと、多世界解釈を採用する旨みがなくなってしまいますね。(量子力学の観測データと食い違ってしまう)
> つまり、2スリット実験で、電子がスリットAを通過した世界と、スリットBを通過した世界と(それぞれが多数の世界から成りますが、
>単純化のため二つの世界としておきます)があって、A世界にいる私、B世界にいる私が別人としてはじめから分離しているとすると、
>「本当のこの私」はA世界の私かB世界の私か、自分が知らないだけで本当はどちらか一方だけに始めから決定していることになります。
> しかしそういうことだと、電子は「私」から見てスリットAかBのどちらかだけを通ったことになりますね。もしそうだとすると、量子力学は古典力学となんら変わりなく、
>無知の部分だけが非決定的なのであって、本当は「私から見て」実在はすみずみまで決定しているはず。
>量子力学特有の重ね合わせは「私から見た物理学」において起こるはずがないことになってしまいます。しかし実際は重ね合わせが計算上起きてしまい、
>物理学者らは一世紀近くも困惑し続けているわけです。
>


まさにおっしゃる通りの誤解をしていたということでした。
多世界解釈の内容と、要請される理由も、(一番の基本でしたが)あらためて説明されると全くその通りだと思います。

反省するに、不確定性原理や量子の波動性については、それ自体に誤解は無かったと思いますので、主観的な観測結果と、客観的な視点からの考えを区別できていなかったために、上のような誤解をしたのだと思います。
前回の書き込みの段階でもその区別は曖昧だったので、

>
>「個体」についていうと、客観的な物理的個体と、主観的な自我個体とを区別すべきでしょう。
> 客観的個体は、多世界の一つ一つの世界に一つ一つ存在します。
> 主観的な自我個体は、それらを意識内容の同一性で束ねた集合体です。
>
> したがって、ランダムにピックアップしてどの客観的個体に当たるか、ということと、
>「私」としてどの主観的個体が観測選択されるか、ということは別の問題です。
>

>
> 多世界解釈によれば、「私」は、スリットA世界にいる客観的個体とスリットB世界にいる客観的個体の合わさった複合体(重ね合わせ)です。
>意識内容は双方同じです。スリットに検出器をつけて、電子がどちらを通過するかを観測すれば、
>スリットA世界にいる客観的個体とスリットB世界にいる客観的個体とは別の観測をすることで意識内容が異なり、分離しますから、
>「本当の私」はもはや重ね合わせではなく、どちらかに移動する(カテゴライズされる)わけです。どちらにカテゴライズされるかは、直前までわかりません。
>それはちょうど、自分がこの世に誰として生まれてくるかが生まれてみないとわからないのと同じことです。
>どういう人々が生まれてくるのかは決定論的に決まっていても、「私」が誰になるかは非決定論的ということです。
> 同様に、多世界解釈の量子力学は、客観的には(グローバルには)決定論的だが、主観的には(ローカルには)非決定論的ということですね。
>
> そのようなメカニズムで、量子自殺が可能になるわけですね。
>

との説明で初めてその区別を自覚した次第です。
今回は正直、応答全体を読んで、おっしゃる通りといった心境なのですが、いっそう正確に理解するために質問させてください。

シュレーディンガーの猫実験で、原子100個を使い、全ての原子の崩壊を検出した時に猫を殺す実験を考えた時、実験前の観測者が、自分は猫が生きている世界に移動しそうだと予想するのは論理的ですか?

上の質問の実験で、猫が死んでいる全ての世界の客観的個体に対応するのは1つの主観的個体ですか?




Re: 量子的多世界と観測者の数え方Ⅱ
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月 5日(土)22時35分19秒 返信・引用
> No.2651[元記事へ]

蝉さんへのお返事です。

「個体」についていうと、客観的な物理的個体と、主観的な自我個体とを区別すべきでしょう。

客観的個体は、多世界の一つ一つの世界に一つ一つ存在します。

主観的な自我個体は、それらを意識内容の同一性で束ねた集合体です。


したがって、ランダムにピックアップしてどの客観的個体に当たるか、ということと、「私」として
どの主観的個体が観測選択されるか、ということは別の問題です。

蝉さんは、客観的個体の一つ一つが主観的個体に対応する、と考えていたのでしょうか。

「この私」は、自分がどの世界にいるか知らないだけで、ただ一つの世界に対応しているのだ、と。

しかしその考えだと、多世界解釈を採用する旨みがなくなってしまいますね。(量子力学の観測データと食い違ってしまう)

つまり、2スリット実験で、電子がスリットAを通過した世界と、スリットBを通過した世界と(それぞれが多数の世界から成りますが、単純化のため二つの世界としておきます)があって、A世界にいる私、B世界にいる私が別人としてはじめから分離しているとすると、「本当のこの私」はA世界の私かB世界の私か、自分が知らないだけで本当はどちらか一方だけに始めから決定していることになります。

しかしそういうことだと、電子は「私」から見てスリットAかBのどちらかだけを通ったことになりますね。もしそうだとすると、量子力学は古典力学となんら変わりなく、無知の部分だけが非決定的なのであって、本当は「私から見て」実在はすみずみまで決定しているはず。量子力学特有の重ね合わせは「私から見た物理学」において起こるはずがないことになってしまいます。しかし実際は重ね合わせが計算上起きてしまい、物理学者らは一世紀近くも困惑し続けているわけです。

多世界解釈によれば、「私」は、スリットA世界にいる客観的個体とスリットB世界にいる客観的個体の合わさった複合体(重ね合わせ)です。意識内容は双方同じです。スリットに検出器をつけて、電子がどちらを通過するかを観測すれば、スリットA世界にいる客観的個体とスリットB世界にいる客観的個体とは別の観測をすることで意識内容が異なり、分離しますから、「本当の私」はもはや重ね合わせではなく、どちらかに移動する(カテゴライズされる)わけです。どちらにカテゴライズされるかは、直前までわかりません。それはちょうど、自分がこの世に誰として生まれてくるかが生まれてみないとわからないのと同じことです。どういう人々が生まれてくるのかは決定論的に決まっていても、「私」が誰になるかは非決定論的ということです。

同様に、多世界解釈の量子力学は、客観的には(グローバルには)決定論的だが、主観的には(ローカルには)非決定論的ということですね。


そのようなメカニズムで、量子自殺が可能になるわけですね。

>
> 観測者自身が「重ね合わせ」になっているという書き方は文字通り正しく、
>客観的視点から多数の観測者が重なり合っている訳ではなかったのですね。
> 本来考えていた量子自殺に対する私の見解は、死ぬ世界の私と生きる世界の私は
>実験前も実験後も別の観測者なのだから、
>消滅した観測者を生き残っている観測者と同定する(生き残っている世界に移行させる)には、
>多世界解釈の前提にない基準を新たに導入する必要がある、
>よって量子自殺実験で多世界解釈を確証できるとは言えない、その実証的理由に、
>量子自殺で確証できるとするなら量子不死のパラドクスが生じるじゃないか、というものでした。
>

重ね合わせの私が分離したときには必ず意識のある方へ狭まらざるをえませんから、量子的原因によって「即死」した場合は、主観的に「私」は死なないわけです。

量子自殺の話を聞いてすんなり納得できた人はそれまで多世界解釈を正しく理解できていた人、「なんで?」と思った人は多世界解釈を誤解していた人、と言えるかもしれませんね。


なお、量子不死が実際にはほぼありえない(したがって、量子自殺への反証となるパラドクスではない)ことについては、『論理パラドクシカ』027に述べたとおりです。


訂正2
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 5日(土)20時40分15秒 返信・引用
再度すみません。
『「時間とともに自分が存在する世界の数が減る」の部分を否定して』を、
『「時間とともに自分が存在する世界の数が減るのなら」の部分を否定して』
に訂正します。
いつも訂正、補足、とだらだら続けて、読み直しが行き届いていない証拠ですね。もっと注意しなければ。


訂正
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 5日(土)20時29分36秒 返信・引用
「量子多世界的観測者問題」を「量子自殺」に訂正します。



量子的多世界と観測者の数え方Ⅱ
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 5日(土)20時22分54秒 返信・引用
φさんへのお返事です。

>
>多世界解釈においても時間とともに世界が増えることは決してないので、辻褄は合っていますよね。
>

>
>「何の観測もしていない幼少の頃」というのは、意識は持つ観測主体であって、ただし「シュレーディンガーの猫」の観測はまだ行なったことのない分岐以前の頃、
>というつもりで書いたのでした。蝉さんのもともとの例が「シュレーディンガーの猫に準ずる実験が何度も行われた後」に確率的に居やすいかどうか、ということだったので。
>


前回の書き込みをしたときには、「意識内容の種類(人格)で観測者を同定するとして、自分はどのような観測者でありそうか」という問題を考えるとき、それぞれの観測者である確率が等しいとしたうえで、観測者が実験によって増えていく、というのがφさんの考えだと思っていました。それでは結局、シュレーディンガーの猫に準ずる実験が何度も行われた後(あるいはこれから先の一生のうちに実験が何度も行われる主観?)に居やすいことになるじゃないかと思い、最初の書き込みの最後の疑問を説明した次第でした。
そのような観測者の定義を否定し、多世界の各個体毎に観測者を割り当てるとする私の立場では、「時間とともに自分が存在する世界の数が減るのなら、コペルニクス原理により、最も数の多い世界に自分が存在していた頃、つまり分岐の最も少ない頃の観測者に自分はいるはずではないか?」という疑問に、φさんの用いた説明とは違う説明が必要になるのですが、元々の疑問が、自分は確率的重さの等しい観測者の中からランダムに選ばれるという前提だったので、「時間とともに自分が存在する世界の数が減る」の部分を否定してこの問題は解決できる、と考えたのでした。


と、そのような考えの前回の書き込みでしたが、

>
>意識内容の種類は増えていきますが、個体の絶対数は減っていきますから、相殺して確率的には増減ありません。
>つまり、観測を繰り返した個体のうち、同じ意識内容を共有するものの数は観測ごとに減ってゆきますから、
>「この私という主観的な個体」の母集団は種類としては多くても、本当に「私」である集合のメンバーは逆に少ないからです。
>つまり、歴史的に前の方の「私」は、主観的内容として種類の少ない母集団のうち多くの比率を占める諸個体から形成され、
>後の方の「私」は、主観的内容として多様な(分岐した)母集団のうち少ない比率を占める諸個体から形成されるため、
>諸個体の中からランダムに選択すれば、時間的にどこにいるかはランダムになります。
>

ということで、私の曲解だったみたいですね。つまり、φさんの言う観測者は、それが含む個体の数によって確率的重さが変動するものであって、「自分はどのような観測をしそうか」という問題で確率的に平等に扱われるべきはあくまで個体ということなのですね。こうなってくると、「自分が少数派の観測をする奇跡」はφさんの立場でも生じてきそうにありませんね。
蛇足ですが、「個体」という言葉は確率的に平等なものを表すということで、その定義はかなり厳密なものですよね。同じ主観が宿る脳同士であっても、量子レベルで相違があればそれは別の「個体」であるとされますよね。正確に言えば、「違った構造の個体同士の確率的重さは等しいと言えるような構造の単位」レベルでの合同性が「個体」には求められますね。同時に「違った構造の個体同士の観測内容は異なると言えるような構造の単位」レベルでの合同性も求められるので、「個体」が物理学的世界に含まれるのかは、説明が欲しいところですが。私の立場も、φさんの立場と同じく、違う観測をする者同士は別の観測者としていますし(二つの個体に対して、対応する観測内容に共通した時点が有っても、それ以外の時点の観測内容に相違があれば、共通した時点の個体同士に別の観測者が対応すると考える点で違いますが)。


>
> ここは、多世界解釈を支持する人の中にも混乱している人がいるようです。
>コペンハーゲン解釈がミクロな領域に限定する「重ね合わせ」が実はマクロな領域にまで滑らかに成立し、
>波動関数だけで世界は記述できるというのが多世界解釈ですから、マクロなレベルにいる観測者も、
>ミクロ領域と同様に多世界にまたがって自分自身が「重ね合わせ」になっているわけです。
>諸世界にいる「客観的には多数の個体」が同じ内容の意識を共有する場合、それらが一つになって「主観的な個体」を形成するわけですね。
>『論理パラドクシカ』p.67の最後の文でこのことに注意喚起したつもりでした。
>

ここまで、私が未だに多世界解釈の観測者の数え方を勘違いした風な書き方をしましたが、多世界解釈がそのような数え方をするのであれば、私の思い込んでいた数え方は量子自殺を考える上で不適切でしたね。観測者自身が「重ね合わせ」になっているという書き方は文字通り正しく、客観的視点から多数の観測者が重なり合っている訳ではなかったのですね。
本来考えていた量子自殺に対する私の見解は、死ぬ世界の私と生きる世界の私は実験前も実験後も別の観測者なのだから、消滅した観測者を生き残っている観測者と同定する(生き残っている世界に移行させる)には、多世界解釈の前提にない基準を新たに導入する必要がある、よって量子自殺実験で多世界解釈を確証できるとは言えない、その実証的理由に、量子自殺で確証できるとするなら量子不死のパラドクスが生じるじゃないか、というものでした。別の見方をすれば、量子多世界的観測者問題では「死んだら何もない。自分が死んだら自分は存在しなくなる。」という、一般常識(?)的死生観が維持されるという見解でした。


Re: 量子的多世界と観測者の数え方
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月 5日(土)00時15分46秒 返信・引用
> No.2649[元記事へ]

蝉さんへのお返事です。

>
>複数個体に1人の観測者が対応するという考えは、
>『論理パラドクシカ』の対応箇所を読んでいた時は正直全く眼中に無く、
>カテゴライズという言葉は自分の居る世界を知るという程度の意味だと思っていたので、
>例えば「025 ウィグナーの友人」の「>当の友人全員がウィグナー全員と同じ諸世界に居る。」
>という記述等、ところどころに違和感を覚えて先の質問をした次第です。
>


ここは、多世界解釈を支持する人の中にも混乱している人がいるようです。

コペンハーゲン解釈がミクロな領域に限定する「重ね合わせ」が実はマクロな領域にまで滑らかに成立し、波動関数だけで世界は記述できるというのが多世界解釈ですから、マクロなレベルにいる観測者も、ミクロ領域と同様に多世界にまたがって自分自身が「重ね合わせ」になっているわけです。諸世界にいる「客観的には多数の個体」が同じ内容の意識を共有する場合、それらが一つになって「主観的な個体」を形成するわけですね。

『論理パラドクシカ』p.67の最後の文でこのことに注意喚起したつもりでした。

>
> 意識内容の種類で考えるのなら、ランダムに選ばれた観測者は、
>シュレーディンガーの猫に準ずる実験を何度も観測する人格でありそうだと結論されませんか。
>なにせ、崩壊原子n個分の観測パターンは2^n有るんですから、
>原子多数を同時に使った実験を何度も繰り返す実験者1人の意識内容は、
>実験を行わない他の人全員の意識内容と比べても遥かに多くなるはずなのですが。
>


意識内容の種類は増えていきますが、個体の絶対数は減っていきますから、相殺して確率的には増減ありません。つまり、観測を繰り返した個体のうち、同じ意識内容を共有するものの数は観測ごとに減ってゆきますから、「この私という主観的な個体」の母集団は種類としては多くても、本当に「私」である集合のメンバーは逆に少ないからです。

つまり、歴史的に前の方の「私」は、主観的内容として種類の少ない母集団のうち多くの比率を占める諸個体から形成され、後の方の「私」は、主観的内容として多様な(分岐した)母集団のうち少ない比率を占める諸個体から形成されるため、諸個体の中からランダムに選択すれば、時間的にどこにいるかはランダムになります。

もしも「私」が、歴史の後になればなるほど(観測を重ねて分岐すればするほど)その分岐のすべてを同時に経験することができるというなら、たしかに観測経験を重ねた後の意識内容にヒットする確率が増えるでしょう。しかし分岐のすべてになることはできず、分岐のうち特定の意識内容にしか「私」は行けないため(分離していった私の分身たちはもはや別人であるため)、確率は増えないわけです。

>
> それに、φさんの考えでは平行世界の分身に限らず、同じ世界で同じ主観的経験をする者同士、
>例えば水槽の中の双子の脳に同じ電気的刺激を与え、完全に同じ神経運動をする二つの脳を
>1人の観測者とカウントすることにもなると思うのですが。
>


全くそのとおりです。

多世界解釈の多世界というのは、一つの可能世界(つまり現実世界)における分岐に過ぎませんから、時空的に離れたところで全く同じ主観的歴史が展開していれば、それにはすべて「同じ自我」に属します。

しかし全く同じ意識内容を複数個実現するには、とてつもなく多くの試行が必要でしょうね。記憶や知覚のどこかで食い違うはずです。

この点については、4月3日に行われる「心の科学の基礎論」研究会&人文死生学研究会の合同研究会で発表する予定です。

多世界解釈の多世界とというのは、広い宇宙の中の、時空的に離れた多くの場所、ということであってOKなのです。神秘的なパラレルワールドを想定する必要はありません。

>
> 観測者が何の観測もしていない幼少の頃であることはできて、
>存在しないないことができないというのは二重基準的だとは思います。
>

ここは、どうせ否定する考えだからと、ケアレスな書き方をしてしまいました。

「何の観測もしていない幼少の頃」というのは、意識は持つ観測主体であって、ただし「シュレーディンガーの猫」の観測はまだ行なったことのない分岐以前の頃、というつもりで書いたのでした。蝉さんのもともとの例が「シュレーディンガーの猫に準ずる実験が何度も行われた後」に確率的に居やすいかどうか、ということだったので。

>
>私が前回最後に挙げた疑問は、自分が観測者全体の中からランダムに選ばれることと、
>1つの世界に住む観測者の数は実験の前後で殆ど等しいということが前提で、
>世界が実験によって増えるのはおかしいのではないか、という趣旨でした。
>


多世界解釈においても時間とともに世界が増えることは決してないので、辻褄は合っていますよね。


量子的多世界と観測者の数え方
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 4日(金)18時20分38秒 返信・引用
φさんへのお返事です。

>
>観測した時点で、そのとき自分の「居る」世界がどちらの世界かを知りますが、観測する前に「居た」世界も同様に知っているのです。
>つまり、両方の世界に「居た」のですから。そして箱を開けて見た後は、以前の世界のうちの一方へと自分の「居る」位置が狭まるわけです。
>つまり、自分の居場所についての知識が増えるということはありません。箱を開ける前も後も、自分のいる世界については同じくらい正確に認識しています。
>ただ、箱を開けた後は自分のいる世界の数が半分に減る(減ったことを知る)だけですね。
>

>
>実際は、『パラドクシカ』で表現したように、観測者は常に分身の束として存在し続け(多世界にまたがって存在し続け)、世界の総数は一定のまま、
>「私」の存在する多世界の範囲(部分集合)が狭まってゆくわけです。

>
>人格は個々の分身の個体性ではなく、意識内容の同一性によって定義されるでしょうから、
>


箱を開ける前の段階で、少なくとも2つの世界の実験者の複数個体に、1つと数えられる観測者が対応すると考えるのか、各々の個体にそれぞれの観測者が対応すると考えるのかが、φさん(それに定説?)と私の違いであるように思いました。
複数個体に1人の観測者が対応するという考えは、『論理パラドクシカ』の対応箇所を読んでいた時は正直全く眼中に無く、カテゴライズという言葉は自分の居る世界を知るという程度の意味だと思っていたので、例えば「025 ウィグナーの友人」の「>当の友人全員がウィグナー全員と同じ諸世界に居る。」という記述等、ところどころに違和感を覚えて先の質問をした次第です。

しかし、『>意識内容の種類としては誰もが生涯を通じて「ただ一種類」である以上、コペルニクス原理によっても、どのくらいの多世界に観測者自身が位置しているかについてはニュートラル』とのことですが、意識内容の種類で考えるのなら、ランダムに選ばれた観測者は、シュレーディンガーの猫に準ずる実験を何度も観測する人格でありそうだと結論されませんか。なにせ、崩壊原子n個分の観測パターンは2^n有るんですから、原子多数を同時に使った実験を何度も繰り返す実験者1人の意識内容は、実験を行わない他の人全員の意識内容と比べても遥かに多くなるはずなのですが。
それに、φさんの考えでは平行世界の分身に限らず、同じ世界で同じ主観的経験をする者同士、例えば水槽の中の双子の脳に同じ電気的刺激を与え、完全に同じ神経運動をする二つの脳を1人の観測者とカウントすることにもなると思うのですが。

なお、

>
>「時間とともに自分が存在する世界の数が減るのなら、コペルニクス原理により、最も数の多い世界に自分が存在していた頃、
>つまり何の観測もしていない幼少の頃に自分はいるはずではないか?」という疑問が生ずるかもしれませんが(蝉さんが最後に挙げた疑問とは逆の疑問ですね)
>

については、観測者が何の観測もしていない幼少の頃であることはできて、存在しないないことができないというのは二重基準的だとは思います。
私が前回最後に挙げた疑問は、自分が観測者全体の中からランダムに選ばれることと、1つの世界に住む観測者の数は実験の前後で殆ど等しいということが前提で、世界が実験によって増えるのはおかしいのではないか、という趣旨でした。


Re: 量子自殺について
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月 3日(木)06時12分23秒 返信・引用
> No.2646[元記事へ]

蝉さんへのお返事です。

>
> しかし、「パラドクシカ」の解答は自分の考えていたものと違い、読んでいて疑問が残ったので、ここで質問させていただきます。
>


そうですか、蝉さんの見解も是非伺いたいです。

しかしまずは基本となる「024 シュレーディンガーの猫」を押さえねばなりませんね。

>
> とありますが、猫の生きている世界と死んでいる世界の実験者は、箱を開ける前からそれぞれ存在す
>るのではないですか?
>

まさにそのとおりです。両方とも存在しており、箱を開けたときに世界の数が増えるわけではありません。世界の総数は時間の推移を通じて不変です。

>
>各々の世界の実験者は、猫を観測した時点で自分の居る世界(猫が生きている世界と死んでいる世界と)>を知るのであり、
>

↑これは微妙に疑問な書き方ですね。観測した時点で、そのとき自分の「居る」世界がどちらの世界かを知りますが、観測する前に「居た」世界も同様に知っているのです。つまり、両方の世界に「居た」のですから。

そして箱を開けて見た後は、以前の世界のうちの一方へと自分の「居る」位置が狭まるわけです。

つまり、自分の居場所についての知識が増えるということはありません。箱を開ける前も後も、自分のいる世界については同じくらい正確に認識しています。ただ、箱を開けた後は自分のいる世界の数が半分に減る(減ったことを知る)だけですね。

ですから、以下の蝉さんの言われることは正しいです。

>
>最初から、検出器が作動するまでは全く同様の世界と各々の実験者が少なくとも2つ存在する
>のであって、実験によって1つの世界が2つの世界になるわけではないと思うのです。
>

全くその通りで、よく多世界解釈について「世界の分岐」という表現がされ、観測者の分身が増えてゆくような誤解を招いていますが、実際は、『パラドクシカ』で表現したように、観測者は常に分身の束として存在し続け(多世界にまたがって存在し続け)、世界の総数は一定のまま、「私」の存在する多世界の範囲(部分集合)が狭まってゆくわけです。


「時間とともに自分が存在する世界の数が減るのなら、コペルニクス原理により、最も数の多い世界に自分が存在していた頃、つまり何の観測もしていない幼少の頃に自分はいるはずではないか?」という疑問が生ずるかもしれませんが(蝉さんが最後に挙げた疑問とは逆の疑問ですね)、

人格は個々の分身の個体性ではなく、意識内容の同一性によって定義されるでしょうから、意識内容の種類としては誰もが生涯を通じて「ただ一種類」である以上、コペルニクス原理によっても、どのくらいの多世界に観測者自身が位置しているかについてはニュートラルなのです。


以上、蝉さんと私との間で意見の不一致はないものと察しますが……?


↓の補足
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 3日(木)00時28分40秒 返信・引用
蛇足かもしれませんが、
「最初から、検出器が作動するまでは全く同様の世界と各々の実験者が少なくとも2つ存在するのであって」は、「検出器が作動するまでは全く同様の」までが後ろの「世界」を修飾します。
「これは観測結果に反するように思えます」は、「結果」→「事実」でした。


量子自殺について
投稿者:蝉メール 投稿日:2011年 3月 2日(水)23時56分12秒 返信・引用
こんばんは。論理パラドクシカ、私の近所では3/2発売で、早速購入しました。
特に、量子自殺がテーマとして扱われていると知ってから、自分なりに問題を考えていたので、その答え合わせ的な意味で発売が待ち遠しかったです。

で、早速その個所を読んでみました。事前知識に乏しく、有名なシュレーディンガーの猫の実験の猫を自身に置き換え、何度も実験することで量子力学的多世界解釈(仮説?)を確証する(ただし箱に入った者にのみ)、とされている実験の趣旨しか知りませんでしたが、量子不死のパラドクスには気づいており、その解決方法も考えていたので、答え合わせの願望は大いに満たされることになりました。

しかし、「パラドクシカ」の解答は自分の考えていたものと違い、読んでいて疑問が残ったので、ここで質問させていただきます。

まずは導入的質問なのですが、「024 シュレーディンガーの猫」に、

>
>他方、世界は一通りだけでなく、重ね合わせの中に含まれる可能な状態がそれぞれ現実に生じているのだとする「多世界解釈」をとると、 箱内の猫は本当に重ね合わせ状態にある。
>実験者は、箱を開けてみるまでは、猫の生きている世界と死んでいる世界の両方にまたがって存在せざるをえない。
>箱を開けて猫の状態を知った瞬間に、観測者はいずれか一方の世界に移行する、もしくはカテゴライズされる。
>

とありますが、猫の生きている世界と死んでいる世界の実験者は、箱を開ける前からそれぞれ存在するのではないですか?重ね合わせの中に含まれる可能な状態には、箱を開けて猫の生死を確認する実験者も含まれており、箱内の猫同様重ね合わせ状態にあるのでは?各々の世界の実験者は、猫を観測した時点で自分の居る世界(猫が生きている世界と死んでいる世界と)を知るのであり、最初から、検出器が作動するまでは全く同様の世界と各々の実験者が少なくとも2つ存在するのであって、実験によって1つの世界が2つの世界になるわけではないと思うのです。でなければ、コペルニクスの原理から、我々はシュレーディンガーの猫に準ずる実験が何度も行われた後の世界に居るか(これは観測結果に反するように思えます)、そのような世界は量子的多世界には無いと結論されそうなのですが。



Re: 人間原理と進化論 完
投稿者:φメール 投稿日:2011年 3月 1日(火)00時50分40秒 返信・引用
> No.2644[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> 確率では、事実がないので、P(B)=0 としなければ恣意的です。
>

残念なことに今回は、ハムさんの言われることは理解不能でした。

>
> 資料を当ってみても、観測選択にクオリアが必要だという話はみあたりません。
>


観測選択効果を論ずる物理学者が、暗にゾンビを不可能と想定しているだけのことです。

観測選択は主観性による選択ですから、主観的世界を持たぬゾンビは「観測選択できない」ということがその定義に含まれています。定義に含まれないと仮定した場合は(仮説Bを目一杯尊重した場合は)ベイズ的仮説検定によってP(A|E)/P(B|E)>P(A)/P(B)ということです。この論証にお付き合いいただけず残念でした。


人間原理と進化論 完
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月28日(月)18時20分25秒 返信・引用
確率では、事実がないので、P(B)=0 としなければ恣意的です。
そうすると計算不能になってしまいます。

論理式の方は、クオリアの必要性に有効な論証ができません。
資料を当ってみても、観測選択にクオリアが必要だという話はみあたりません。

ですがながくなりましたので、この話はいったん終了とさせていただきます。


いつぞやのフロリダ問題等と2封筒問題
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月28日(月)03時27分44秒 返信・引用
そうだ、お知らせしておかねば。

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2433
でeggmanさんに教えていただいた2人の子ども問題の新バージョンを、昨年9月刊の『本当にわかる論理学』で論じましたが、

さらに詳しく、『論理パラドクシカ』(今日刊行)の問010~012で論じました。

この掲示板での議論が大変役に立ちました。

eggmanさんやkotobazuさんら、議論に参加してくださった方々に感謝します。


とくに、

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2462

の<蛇足2>でeggmanさんがリクエストとしてくれた「2封筒問題」の再論も行ないました。(問019)

〈2つの封筒問題とフロリダ問題との構造的類似と相違〉についても、ちょっとだけ言及しましたので、全般、御批評いただければさいわいです。

私自身としては、2つの封筒問題に対してかなり納得のゆく解決を与えることができたと思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・

なお、『論理パラドクシカ』の目次と付録(穴あけバージョン)はここをご覧ください。
http://tmiurat.cool.ne.jp/paradoxica-mokuji.pdf

http://tmiurat.cool.ne.jp/paradoxica-idx.pdf


Re: 人間原理と進化論36
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月27日(日)04時51分50秒 返信・引用
> No.2641[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

> 再度失礼しました。
> O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
> 1.¬∀x(Ox⊃Qx)
> 2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
> 真.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)
>


前に述べたように、1.が何の役割も果たしておらず、論証として意味不明です。

LxとOxが何の役割も果たしていません。

∀x(Mx⊃Qx)から∀x(Mx⊃Qx)を導いているだけです。

結論は、私たちでない者たちにも言及していますから、結論に ∧Mx というのを入れてはなりません。結論の観測選択主体を2.のMを使って書くのが間違いなのです。

私のもとの論証では、2.ではMは「この私」を指し、結論ではこの私以外の観測選択主体を指し示すはずです。

つまり、記号化が不適切なのです。

確率的推論に対してハムさんの記号化は見込みがありませんから、ベイズ式に切り替えてください。

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2619

↑で提示したこの確率的論証↓が間違いであると示さないと、ゾンビに観測選択できるというのは正当化されません。

>
> > 観測者であるためには、意識は必要ありません。
> > ところが私たちは意識を持っています。
> > このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。
>


念のため、ハムさんの立場は仮説Aより仮説Bを支持するので、

P(A|E)<P(B|E)

P(A|E)/P(B|E)<P(A)/P(B)

P(E|A)<P(E|B)

↑このいずれかで表わされるはずです。

それが正当化できないならば、http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2619 の論証が認められたことになります。


(ハムさんがhttp://8044.teacup.com/miurat/bbs/2623で述べたようにP(B)=0 なのだとすると、P(B|E)も0であることをお忘れなく)


人間原理と進化論36
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月27日(日)02時00分49秒 返信・引用
再度失礼しました。
O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
1.¬∀x(Ox⊃Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
真.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)

要するに、この↓ご主張はトートロジーなのです。
> 観測者であるためには、意識は必要ありません。
> ところが私たちは意識を持っています。
> このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。

ここでは、観測者と観測選択主体を分けていますので、正確な記号化はこう↓なるはずです。
1.¬∀x(Ox∧¬(Ox∧Mx)⊃Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
真.∀x(((Ox∧Mx)∧¬Ox)⊃Qx)



結論の後件が何であっても空虚な真となります。
Re: 人間原理と進化論35
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月25日(金)16時01分26秒 返信・引用
> No.2639[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> 演算し直します。
>
> O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
> 1.¬∀x(Ox⊃Qx)
> 2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
> 偽.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)
>

↑は
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2616

の式と同じではありませんか?


∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)が真であることは、すでに

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2617

で指摘させていただき、ハムさんも

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2618

で認め、そこで再提示された前提が偽であることは

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2619

で確認済みです。


ともあれ、同じことを延々と繰り返していても非生産的なので、

この路線は切り上げて、話を先へ進めたいものですね。


人間原理と進化論35
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月25日(金)09時03分11秒 返信・引用
再開させていただきます。

> ハムさん自身に今、クオリアはあるのでしょう? 観測選択に必要かどうかは別にして。
> 私に今クオリアはある(Eは真である)、というのが前提です。

私に今クオリアはあるが観測選択に必要なのか否か?が今のお話だと思います。
論理的にはクオリアの必要性は導けていませんので、これはお認めになるしかないのではないでしょうか。

> 私には観測選択できているので、やはり、観測選択には意識が必要であり、仮説Aが正しいことになります。はじめから仮説検定の必要もありません。

確率の計算はがい然性のないことはゼロと考えなければ恣意的になりますので、この辺が確率の限界だと思います。

> 「観測者の誰もクオリアを持たない」という偽なる文になっていることをもう一度ご確認ください。
> 「観測者であるためには、意識は必要ありません」の正しい記号化は ¬∀x(Ox⊃Qx) であることはすでに以前確認済みのはずです。

演算し直します。

O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
1.¬∀x(Ox⊃Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
偽.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)

そうするとφ様のこの↓ご主張は偽になります。

> 観測者であるためには、意識は必要ありません。
> ところが私たちは意識を持っています。
> このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月23日(水)19時41分5秒 返信・引用
> No.2637[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> これらのいずれにも10^∞
> が含まれるのでみんな一緒のようですね。
>


自然数の極限としての無限大はどんな無限数列で表記してもOK(同じである)、ということの証明になってるじゃないですか。

うまいですね。


無限大どうしですから、

……9999999=……9999799+200=……9999799 なんですね、結局。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月23日(水)16時53分27秒 返信・引用
> No.2636[元記事へ]

φさんへのお返事です。

11111111・・・・
=1+10+100+1000+・・・
=Σ10^n

2222222・・・・
=Σ(2×10^n)

7777777・・・・
=Σ(7×10^n)

999999・・・・・
=Σ(9×10^n)

ですし、これらのいずれにも10^∞
が含まれるのでみんな一緒のようですね。

色々とありがとうございました。



Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月22日(火)01時39分28秒 返信・引用
> No.2635[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> 10の無限大乗は
> 9999999・・・・
> よりも小さいのでしょうか?
>

いや、自然数に無理に対角線論法を適用するために、一つの数を無限数列で表記しようとすれば、


 ……999……

以外の無限数列はありえないでしょう、というだけのことで、


普通は、無限数列ではなく10の何乗という形で書くわけですね。


だから結局、


 lim n→∞ 10^n



……999……

と同じことです。


要は、

無限数列で表わされる数(つまり無限大)は複数存在はしない、という趣旨を述べたまでです。

表記が数の本性を決めるわけではありません。


整数を無限小数で表わす方法が


.9999999……


.0000000……

の2通りあるように、無限大は


 ……999……


 ……000……

が同値でしょう。


 ……777……


 ……444……

なんてのは絶対ありえないことは自明ですよね。


まあ、無限小数は細かくなって行くので無限に右に伸びても違和感ありませんが、

無限大を表記するのに左を固定して右に伸ばすというのはかなり違和感ありますね。


   書くとしたら右を固定して左を伸ばす


……999


でしょう。


……000


だと、0と区別がつかなくなってしまいますから。


 (左右両側を開いて……にしても0より9の方が適任でしょう)


以上のことは、今回のeggmanさんの御質問に即興で対応した私の素人考えですから、

表記についての正確なことは、数学の先生に尋ねてください。


無限大を ……777…… と書いても lim n→∞ 10^n と同じことだ、と言う先生もいるでしょうし。

どうせ無限に続くのだったら


 ……777777 も ……777977 も ……779977 も ……999999…… もみんな等しい、という考えもありかもしれませんからね。

……777977 = ……777777+200 というのは了見が狭いような気もするので。


いずれにしても、そもそも無限数列で自然数を書くことは出来ないので、上のような議論が必要になることはまずないでしょうね。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月21日(月)22時54分22秒 返信・引用
> No.2634[元記事へ]

φさんへのお返事です。

何度もありがとうございます。
すみませんが、あと1点だけおしえてください。

無限大の自然数を書くとするなら
9999999・・・
しかないとのこと。

例えば、
1   (10^0)
10  (10^1)
100 (10^2)
・・・
・・・
10000000・・・(10^∞)

のような10の無限大乗は
9999999・・・・
よりも小さいのでしょうか?



Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月20日(日)23時00分59秒 返信・引用
> No.2633[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> 自然数は有限である・・・自然数には最大値が存在するということですか?
>

もちろん最大の自然数は存在しませんね。

だからこそ自然数の個数は無限なわけです。


小数表記ではない無限桁の自然数は存在せず、したがって、対角線論法は使えません。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月20日(日)21時38分45秒 返信・引用
> No.2632[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>無限はそもそも自然数ではないのですが、

一番お聞きしたかったことがそれです。
自然数は有限である・・・自然数には最大値が存在するということですか?



Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月20日(日)19時03分4秒 返信・引用
> No.2631[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> 例示なので、記号で書きます。
>
> 1列目:ABCDEFGHI・・・・
> 2列目:イロハニホヘトチリ・・・・
> 3列目:・・・・・・・・・
> 4列目:・・・・・・・・・
> ・・・・
>
>こうやって、無限に列数を増やすことはいいんですよね。
>


ちょっと意味がわかりませんが……。

それぞれの列において、数字が無限に並ぶんですか?

すると、どの列も(あるいは、ほとんどの列は)、無限の大きさを持つ数ということですね。

対角線論法を適用して出来た数も、無限の大きさを持ちますね。

しかし、無限の大きさの自然数が複数存在するということはありえません。


無限はそもそも自然数ではないのですが、

自然数の極限として無限を自然数の一員として認めるにしても、

その無限をあえて数字で表わせば、

99999……

以外には不可能です。

たとえば、9でない数字が一箇所でも現れたとします。

その箇所を9に変えれば、もとの数よりも大きな数が得られます。

しかし、無限はその定義からして、他のいかなる自然数よりも大きいはずです。矛盾。


したがって、数字の無限列で自然数を表わすのは、

7.0000000……

6.9999999……

といった小数の形以外には不可能です。


というわけで、eggmanさんのような表記で自然数を表わすことは出来ません。
かりに0の列をうまく使って表記できたとしても、

そこに対角線論法を適用して出来る数は、

99999……ではない無限数列の形をしていますから、自然数ではありません。(そんな数はありません)。


という次第ですが。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月20日(日)18時04分59秒 返信・引用
> No.2630[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>その並べ方ではダメです。
>すべての自然数を尽くすことが出来ません。
>各々のN桁の自然数につき、1個しか挙げられないでしょう。

>自然数の列挙に漏れがないように並べて、対角線論法を使わねばなりません。

いえ、たまたま規則的に特定の数字が並んでいるように見えますが、
対角線論法が適用できるという条件で、あくまで「任意の数字列からなる任意の桁数の」数字ということで。

例示なので、記号で書きます。

1列目:ABCDEFGHI・・・・
2列目:イロハニホヘトチリ・・・・
3列目:・・・・・・・・・
4列目:・・・・・・・・・
・・・・

こうやって、無限に列数を増やすことはいいんですよね。
そうすれば、自然数はすべて列挙できていますよね。
その上で、対角線論法を用いるとどうなるのかなという質問なのですが。



Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月20日(日)15時43分6秒 返信・引用
> No.2629[元記事へ]

φさんへのお返事です。


補足です。

以下の御疑問に、ちゃんと答えていなかった気がしたので。

> >
> > 実数の集合の場合も、どの実数にも該当しない実数ができてしまうような気がします。
> > すると「実数全体からなる集合」は存在しない?
> >


実数に対して行なう対角線論法では、

実数が自然数と1対1対応できるという仮定から出発します。

つまり、実数をすべて一列に列挙し尽くせると。


しかし、そうすると、その列挙し尽くしたリストにはない実数が対角線論法で作れてしまいます。

よって、仮定が間違いとわかります。

背理法ですね。


対角線論法により、

実数は一列にリストアップできない、つまり

実数の個数は自然数の個数よりも多い

ということがわかったのです。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月20日(日)15時04分7秒 返信・引用
> No.2628[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。


> 例えば
> 1
> 12
> 123
> 1234
> 12345
> ・・・・・・
>


その並べ方ではダメです。

すべての自然数を尽くすことが出来ません。

各々のN桁の自然数につき、1個しか挙げられないでしょう。


なので、そんな並べ方では、順序列に登場しない自然数が作れるのは当たり前のことです。

自然数の列挙に漏れがないように並べて、対角線論法を使わねばなりません。

>
> 実数の集合の場合も、どの実数にも該当しない実数ができてしまうような気がします。
> すると「実数全体からなる集合」は存在しない?
> あるいは「実数全体からなる集合」は集合ではない?
>


実数以上の場合は、すべての要素の「列挙」が出来ないので、

一般対角線論法です。

基数がAの集合Sについて、Sの部分集合すべての集合を作ります。

その集合は2のA乗の基数を持ち、Sの要素ではない要素を持つことについては、

『論理サバイバル』問066をご参照いただければと思います。


対角線論法の妥当性については、一世紀以上前に決着済みで、とくに哲学的議論の対象になるものではないと思います。

対角線論法の妥当性を前提したうえで、何らかのパラドクスが作れれば面白いでしょうが。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月20日(日)10時09分50秒 返信・引用
> No.2626[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>自然数の集合に対角線論法を適用するとは、具体的にはどうやるのですか?

例示された数字ですと、すぐに自然数以外の数になってしまいますので
対角線論法で自然数を作っていくという条件を満たさないように思います。

例えば

12
123
1234
12345
・・・・・・

という自然数全体に対して対角線論法で自然数を作ります(作っていきます)。
(たまたま規則的に特定の数字が並んでいるように見えますが、
対角線論法が適用できるという条件で、あくまで任意の数字ということで)

一桁目を1以外、二桁目を2以外、3桁目を3以外・・・・・
としていくと、
上に挙げた自然数一覧のどの自然数にも該当しない自然数ができてしまう気がするのですが。

なお、φさんの例示は実数の場合と思いますが、
実数の集合の場合も、どの実数にも該当しない実数ができてしまうような気がします。
すると「実数全体からなる集合」は存在しない?
あるいは「実数全体からなる集合」は集合ではない?



Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月20日(日)02時38分7秒 返信・引用
> No.2626[元記事へ]

補足です。

>
>  ここから、対角線の数字を別の数字に入れ換える。
>


これは、0と9以外の数字としましょう。

小数点以下

.9999……

となると、自然数になってしまうので。


Re: 無限集合は存在しない?
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月19日(土)23時28分40秒 返信・引用
> No.2625[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> 「自然数全体からなる集合」に対角線論法を適用すると
> 「自然数全体からなる集合」に含まれない「自然数」ができてしまうのですが。
>
> これはおかしくないのですか?
>


自然数の集合に対角線論法を適用するとは、具体的にはどうやるのですか?

たぶんこうでしょうか。


0.0000……

1.0000……

2.0000……

3.0000……


  :


  :


  :


  :


ここから、対角線の数字を別の数字に入れ換える。


つまり、

小数点以下のあらゆる桁がゼロ以外の数字になる。


その数は、

.0000……とならない無限小数ですから、自然数ではありませんね。


したがって、

自然数の順序列に対角線論法を適用すると、自然数でない数が得られます。

「自然数全体からなる集合」に含まれない「自然数」が得られることはありません。

辻褄は合っていますね。


無限集合は存在しない?
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月19日(土)09時29分37秒 返信・引用
こんにちは

お話の途中で済みません。
(もう終わっているようですが)

また混乱しているので教えてください。
バベルの図書館に対角線論法を適用したみたいに
「自然数全体からなる集合」に対角線論法を適用すると
「自然数全体からなる集合」に含まれない「自然数」ができてしまうのですが。
(実数全体からなる集合でも同じかと)

これはおかしくないのですか?

それとも「自然数全体からなる集合」は存在しない?
あるいは「自然数全体からなる集合」は集合ではない?



Re: 人間原理と進化論34
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月18日(金)14時08分2秒 返信・引用
> No.2623[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

> > クオリアの有無については、クオリアはある、という前提です。
>
> 今はクオリアの必要性について話しているわけですから、それを前提したら論点先取の誤謬になります。
>


基本的な混乱があるようですが、

問題の「クオリアの必要性」は、観測選択のための必要性であって、クオリアが実在するかどうかとはまったく別です。

クオリアが実際に存在するからこそ、それが果たして観測選択に必要なのかどうかが議論できるのです。論点先取などではありません。

ハムさん自身に今、クオリアはあるのでしょう? 観測選択に必要かどうかは別にして。

私に今クオリアはある(Eは真である)、というのが前提です。

>
> P(E|B)=P(E∩B)/P(B)
> ここで、P(E)=1、P(B)=0(事実がない)、だからP(E∩B)=0
> そうすると、空虚な0/0になります。
>


P(E)=1ということは、やはりクオリアは実在する、とハムさんは認めているわけです。

P(B)=0 だとすると、仮説Bは偽ということですから、Bの内容「観測選択には論理性があれば十分である」を思い出していただくと、論理性だけでは観測選択できない、ということになります。

したがって、ゾンビには観測選択できなくなります。


そういうことなら、私も同感なので、ハムさんと意見が一致したことになります。

私には観測選択できているので、やはり、観測選択には意識が必要であり、仮説Aが正しいことになります。はじめから仮説検定の必要もありません。

ちなみに、注釈を二つ。

① 0/0は空虚ではありません。任意の値です。(情報不足で決定できないだけ)

② Eは実際に真ですが、P(E)=1ではありません。この世に意識が存在せず、私が存在しない(意識を持たない)こともありえたからです。


ともあれ、

流れからして、ハムさんは P(B)=0 などと認めてはいけないのですよ。

ハムさんには毎度御投稿ありがたく思っていますが、

クリックする前にもう一考していただけるともっと有難いです。

>
> 1番目の式は「観測者であるためには、意識は必要ありません」の「観測者」を「O」としたときの式です。
> いずれにしろ、結論の∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)はQが何であっても真になりますので空虚な結論です。


1番目の式は、

「観測者の誰もクオリアを持たない」という偽なる文になっていることをもう一度ご確認ください。

「観測者であるためには、意識は必要ありません」の正しい記号化は

¬∀x(Ox⊃Qx)

であることはすでに以前確認済みのはずです。


人間原理と進化論34
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月18日(金)10時56分15秒 返信・引用
> クオリアの有無については、クオリアはある、という前提です。

今はクオリアの必要性について話しているわけですから、それを前提したら論点先取の誤謬になります。

> ハムさんが今この瞬間にクオリアを持っていることは事実でしょう。それをデータEとしてください。
> 観測選択効果の議論は、主観確率のデータとして、主観的事実を採用します。
> 主観的データとしては、私のクオリアを持ってくれば十分です。

> 「このような事実はないわけですから」の意味がわかりませんね……。
> 私には現に今意識がありますから、仮説Bに条件付けたEの確率が0/Nということはありえません。

P(E|B)=P(E∩B)/P(B)
ここで、P(E)=1、P(B)=0(事実がない)、だからP(E∩B)=0
そうすると、空虚な0/0になります。

> なお、ハムさんの論理式は、訂正後のものは、前と同じく前提1が偽ですから、何を証明しようとしているのか不明になっています。

O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
1.∀x(Ox⊃¬Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
真.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)

これは、φ様の↓を論理式にしたものです。
> 観測者であるためには、意識は必要ありません。
> ところが私たちは意識を持っています。
> このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。

1番目の式は「観測者であるためには、意識は必要ありません」の「観測者」を「O」としたときの式です。
いずれにしろ、結論の∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)はQが何であっても真になりますので空虚な結論です。


Re: 人間原理と進化論33 訂正
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月18日(金)00時05分19秒 返信・引用
> No.2621[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。


>
> クオリアの有無が証明できないという事実があって、観測選択という事実があるわけですから、このことだけ見ると観測選択にクオリアは必要ないと考えざるをえませんよね。
>


クオリアの有無については、クオリアはある、という前提です。

ハムさんが今この瞬間にクオリアを持っていることは事実でしょう。それをデータEとしてください。

ハムさんが「自分には今クオリア(意識)はない」と主張するのであれば、べつに結構です(ハムさんは哲学的ゾンビですらなく、特殊な意識障害ということになりますが)。φには今、クオリアがありますから、それがデータEとなります。

観測選択効果の議論は、主観確率のデータとして、主観的事実を採用します。

主観的データとしては、私のクオリアを持ってくれば十分です。


なお、ハムさんの論理式は、訂正後のものは、前と同じく前提1が偽ですから、何を証明しようとしているのか不明になっています。

>
> P(E|B)=(1/N)とすることは無理がありませんか。
> このような事実はないわけですから値を代入するなら、0/Nとするほうが適当だと思います。
> そうすると結果は空虚な∞になります。
>


「このような事実はないわけですから」の意味がわかりませんね……。

私には現に今意識がありますから、仮説Bに条件付けたEの確率が0/Nということはありえません。


人間原理と進化論33 訂正
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月17日(木)11時14分39秒 返信・引用
O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
1.¬∀x(Ox⊃Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
真.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)

↓訂正

O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
1.∀x(Ox⊃¬Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
真.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)


人間原理と進化論33
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月17日(木)11時07分20秒 返信・引用
> 「クオリアがないということは証明不能」という事実に賭けるのは、ゾンビは観測選択できない、と認めてしまっているも同然でしょう。

クオリアの有無が証明できないという事実があって、観測選択という事実があるわけですから、このことだけ見ると観測選択にクオリアは必要ないと考えざるをえませんよね。

O:観測選択、Q:クオリア、P:証明
1.Q⊃¬P
2.O⊃P
真.O⊃¬Q


> P(A|E)/P(B|E)=P(E|A)/P(E|B)×P(A)/P(B)
> =1/(1/N)×P(A)/P(B)=N×(P(A)/P(B))

P(E|B)=(1/N)とすることは無理がありませんか。
このような事実はないわけですから値を代入するなら、0/Nとするほうが適当だと思います。
そうすると結果は空虚な∞になります。

このことは論理で考えても同様で、空虚な真になります↓

O:観測、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
1.¬∀x(Ox⊃Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
真.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)


Re: 人間原理と進化論32
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月16日(水)03時28分49秒 返信・引用
> No.2618[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

> >よって、ゾンビは、意識抜きで「今、なぜ私は論理性を持つのか?」と問うているとき、視点の原点になりえていません。
>
> ゾンビがそのことを記述して、日付とサインをし公表すれば、それが原点であるといわざるをえないのではないでしょうか。
> クオリアがないということは証明不能ですよね。
>

クオリアがあるならば、ゾンビではないでしょう。

「クオリアがないということは証明不能」という事実に賭けるのは、ゾンビは観測選択できない、と認めてしまっているも同然でしょう。

>
> O:観測者、Z:ゾンビ、Q:クオリア、L:論理性、O∧Z:観測選択主体(ゾンビ)
> 1.∀x(Ox⊃(¬Qx∧Lx))
> 2.∀x(Zx⊃(¬Qx∧Lx)))
> 真.∀x((Ox∧Zx)⊃(¬Qx∧Lx))


1.が偽ですけれどね。


さて、

このような観測選択効果を検証するためには、論理式ではなく、ベイズ式の方が適しているのではないかと思われます。


意識を持つ観測者の数/全観測者数=1/N

データE……「私には意識(と論理性)がある」すなわち「今、ランダムにひとつ選ばれた観測選択の原点には意識がある」

仮説A……観測選択には論理性と意識が必要である

仮説B……観測選択には論理性があれば十分である


Eに条件付けてAとBを仮説検定しましょう。

工夫も何も必要ないお決まりの計算です。


P(A|E)/P(B|E)=P(E|A)/P(E|B)×P(A)/P(B)

=1/(1/N)×P(A)/P(B)=N×(P(A)/P(B))


つまり、Eを考慮すると、仮説AはBに比べてN倍も信頼度を増します。

Nが大きければ大きいほど、AはBに比べてますます正しくなると言うべきです。

BよりAを信じるべきであるか、Nが1に近いか、いずれかだということになります。

換言すると、観測選択には論理的機能だけでなく意識が必要であるか、または、論理的機能だけを持ち意識は持たない観測者は存在しない(ほとんど存在しない)、ということになります。


E、すなわち

私たち意識的主体は意識のある瞬間だけ自己の原点になりえている(無意識の時は意識のある時に思い出すか予期するかしかなく、リアルタイムで独自の観測選択ができない)、という事実に鑑みれば、「ゾンビやスーパーコンピュータには観測選択効果が働かない」ことは、ほぼ間違いないのです。

彼らも「私はここにいる」という機能的思考はするでしょうが、それはリアルな現象として選択されたものではありません。


以上のことが、

2011年 1月31日(月)12時52分3秒
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2600
の最後に述べた↓この論証の意味するところです。

>
> 観測者であるためには、意識は必要ありません。
> ところが私たちは意識を持っています。
> このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。
>


人間原理と進化論32
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月15日(火)11時48分21秒 返信・引用
>よって、ゾンビは、意識抜きで「今、なぜ私は論理性を持つのか?」と問うているとき、視点の原点になりえていません。

ゾンビがそのことを記述して、日付とサインをし公表すれば、それが原点であるといわざるをえないのではないでしょうか。
クオリアがないということは証明不能ですよね。

> ∀x((Ox∧Mx)⊃Qx) が偽なのですか?

失礼しました、真でした。
しかし、結論が∀x((Ox∧Mx)⊃Lx)でも真になります。

こう↓考えると観測選択主体(ゾンビ)にはクオリアでなく論理性が必要だとなります。

O:観測者、Z:ゾンビ、Q:クオリア、L:論理性、O∧Z:観測選択主体(ゾンビ)
1.∀x(Ox⊃(¬Qx∧Lx))
2.∀x(Zx⊃(¬Qx∧Lx)))
真.∀x((Ox∧Zx)⊃(¬Qx∧Lx))


Re: 人間原理と進化論31
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月14日(月)03時38分19秒 返信・引用
> No.2616[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> ゾンビや進化したコンピュータ等の機械が「今、なぜ私は論理性を持つのか?」と問えば、それは観測選択が働いているからといえませんか。
>

「今、なぜ私は論理性を持つのか?」と問うだけでは、その瞬間を「選択」できないでしょう。

なぜなら、私たち意識的主体においては、意識せずに「今、なぜ私は論理性を持つのか?」と問うことはできないからです。

かりにできたとしても、意識がないため、「選択」できていません。

あらゆる瞬間の中で相対的に特権的な原点とならねばなりませんんから、意識がないのでは視点の原点として選択されようがありません。

私たち意識的主体にできないことは、ゾンビにもできません。


よって、ゾンビは、意識抜きで「今、なぜ私は論理性を持つのか?」と問うているとき、視点の原点になりえていません。

>
> O:観測者、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
> 1.~∀x(Ox⊃Qx)
> 2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
> 偽.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)
>
> こう↑考えると偽になります。


∀x((Ox∧Mx)⊃Qx) が偽なのですか?

2.が真ならば ∀x((Ox∧Mx)⊃Qx) は必ず真ではありませんか?

(上で1.は何の役割も果たしていません)


人間原理と進化論31
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月13日(日)12時31分2秒 返信・引用
> 「今、なぜ私は意識があるのか?」
> それは、観測選択効果が働いているからです。

ゾンビや進化したコンピュータ等の機械が「今、なぜ私は論理性を持つのか?」と問えば、それは観測選択が働いているからといえませんか。
ゾンビが寝ている時やコンピュータがスリープモードの時に観測選択ができないのは人間と同様です。

> 何の目的のために「ダメ」なのかはわかりませんが、

これ↓の検証です。

> 観測者であるためには、意識は必要ありません。
> ところが私たちは意識を持っています。
> このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。

O:観測者、M:私たち、Q:クオリア、L:論理性、O∧M:観測選択主体
1.~∀x(Ox⊃Qx)
2.∀x(Mx⊃(Qx∧Lx))
偽.∀x((Ox∧Mx)⊃Qx)

こう↑考えると偽になります。


Re: 人間原理と進化論30
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月10日(木)00時36分48秒 返信・引用
> No.2614[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

> その論理性が、自然を取捨選別して有用な情報を選択し、加工して整理するわけです。(これらがプログラムであってもよい)
> これは人間の観測選択からクオリアを除いたものと同等ではないでしょうか。
>


自分がいつ観測選択しているか、省みてみましょう。

必ず、意識のあるときであるはずです。

上の空のとき、睡眠中、一心不乱のとき、等々ではなく、今この瞬間のように、ある程度くつろいで、余裕をもって物事や自分自身を考えられるときであるはずです。

「今、私はここにいる」と考えられるときであるはずです。

そういうとき、ハムさんもφも、主観的意識のある状態であるはずでしょう。


「今、なぜ私は意識があるのか?」

それは、観測選択効果が働いているからです。


ハムさん自身、意識がないときが「選択」されていたことはなかったはずです。

>
> O:観測選択(観測選択主体)と観測者をうまく表現したいのです。
> ∀x((Ox∧Mx)⊃~Qx) M:私たち
>
> ではダメでしょうか?


何の目的のために「ダメ」なのかはわかりませんが、

その記号化は「私たちの誰もが意識を持たない」と述べているだけで、事実に反しているので、何に使えるのかは判断できません。


人間原理と進化論30
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月 9日(水)09時07分37秒 返信・引用
> もし意識がなくても情報だけで観測選択されるなら、どんな混沌とした、ファインチューニングからかけ離れた宇宙であっても、すべて観測選択されていることになってしまいます。

ゾンビの観測選択は、その論理性によって選択されたものですので、岩に偶然できた染みとは明らかに違います。
その論理性が、自然を取捨選別して有用な情報を選択し、加工して整理するわけです。(これらがプログラムであってもよい)
これは人間の観測選択からクオリアを除いたものと同等ではないでしょうか。

> 「観測者であるためには、意識は必要ありません。」は
>  ~∀x(Ox⊃Qx)
> ですかね。

O:観測選択(観測選択主体)と観測者をうまく表現したいのです。
∀x((Ox∧Mx)⊃~Qx) M:私たち

ではダメでしょうか?


Re: バベルの図書館
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月 8日(火)13時02分52秒 返信・引用
> No.2612[元記事へ]

φさんへのお返事です。

ありがとうございました。
とても難しいですけど、これを機会に、基数や濃度の勉強をしてみます。



Re: バベルの図書館
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月 7日(月)22時38分20秒 返信・引用
> No.2611[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

> φさんへのお返事です。
>
>
> 自然数で1から∞までの数字の中には、無限を許容する「あらゆる文字列」に含まれない数字があるということが理解できません。
>
> そもそも、前提として、バベルの図書館には、自然数で1から∞までの数字(本)がある
> と言っているのにその前提を否定するというのはどういうわけ(意味?)でしょうか?
>

そんなことは言っていません。

「いかなる文字の組み合わせも」ある、と述べています。

その中には、「AアAアAア……」のような、あらゆる種類の無限列も含まれています。

そのような文字列を全部集めれば、自然数の数よりもずっと多くなることは確実でしょう。

文字をすべて数字に翻訳してみましょう。

すべての自然数がバベルの図書館の本に対応することは自明です。本の内容を翻訳した結果の自然数にその本が対応することにすればよいのだから。

それに加えて、

「11111111…………」

「22222222…………」

「33333333…………」

この3つだけをとっても、これに対応する自然数はないことがわかるでしょう。

有限列であれば対応する自然数がありますが、無限列に対しては自然数は対応できません。

つまり、バベルの図書館が含むべき本を数に対応させると、自然数ではなく、無限小数に対応するのです。

もう何度も繰り返して申し訳ありませんが、

あらゆる文字列に対応するのは、

自然数ではなく、無限小数(実数)です。


Re: バベルの図書館
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月 7日(月)22時03分59秒 返信・引用
> No.2610[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>> バベルの図書館には、(前提により)自然数で1から∞までの数字(本)があるわけですよね。

> 違います。
> 本として可能な「あらゆる文字列」がそれぞれ実際に本を成している、ということです。

自然数で1から∞までの数字の中には、無限を許容する「あらゆる文字列」に含まれない数字があるということが理解できません。

そもそも、前提として、バベルの図書館には、自然数で1から∞までの数字(本)がある
と言っているのにその前提を否定するというのはどういうわけ(意味?)でしょうか?

問題文の前提が否定されれば問題自体が成り立たないのはわかりますが・・・
否定する合理的理由があるのでしょうか?



Re: バベルの図書館
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月 7日(月)19時05分7秒 返信・引用
> No.2609[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> バベルの図書館には、(前提により)自然数で1から∞までの数字(本)があるわけですよね。
>


違います。

本として可能な「あらゆる文字列」がそれぞれ実際に本を成している、ということです。


「可能な文字列」をすべて列挙すれば(「列挙」できないほど多い、というのがミソなのですが)、無限小数の総数と同じになるでしょう。それは実数の基数です。


つまり、バベルの図書館が含む「べき」本は少なくとも実数冊なのに、一冊一冊数えられる限りは自然数冊しか含むことができない、という、

当為(定義)と可能性とのズレが問題なのです。


Re: バベルの図書館
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月 7日(月)07時52分7秒 返信・引用
> No.2608[元記事へ]

φさんへのお返事です。

実数の話はさておき、
バベルの図書館には、(前提により)自然数で1から∞までの数字(本)があるわけですよね。
にもかかわらず、そのどの自然数にも含まれない自然数が対角線論法より生まれるという論理が理解できないのです。
自然数に含まれない自然数って一体・・・?

R

e: バベルの図書館
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月 6日(日)23時13分52秒 返信・引用
> No.2607[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> 「冊」というからには自然数で十分ではありませんか?
> 1冊2冊3冊・・・・∞冊
> これ以外の冊数が必要でしょうか?
> 自然数以外の数が必要な理由がわからないのですが。
> 本の冊数といえば自然数ですよね。
>


そこがパラドクスであるゆえんですね。

n番目の本とn番目の文字が食い違う本K、というのは確かに可能でしょう?

するとその本Kは、バベルの図書館の本を全部並べても、それらのどの本とも違う本なのです。

本Kを蔵書に付け加えても、同じ操作によって新たな本を作れてしまいます。

つまり、バベルの図書館の蔵書は完成しないわけです。


eggmanさんの言うとおり、本であるからには一冊、二冊と分離していますね。

なので、自然数で尽きているはずです。


しかし、バベルの図書館の定義からして、あらゆる文字列によって本が構成されているために、無限小数と同じだけ本の数があります。つまり、実数と同じ数だけ。

したがって、一冊、二冊と分離した「本」という形態では、可能な文字列すべてを尽くすことができないというわけです。


バベルの図書館が持つべき蔵書全体では、少なくとも無限小数の個数と同じだけの冊数があることはおわかりですよね。

しかし、図書館というものは現実には自然数冊の本しか収蔵できないわけです。現実性は可能性に絶対追いつかないのですね。


図書館の形では自然数の数だけしか揃えられませんが、

何らかの別の形で、実数冊の本というものをかりに揃えられたとしましょう(この想定は、「本」という一冊2冊と数えられるものの集合としては無理がありますが、それでも実数冊揃えられたとしてみます)。それでも一般対角線論法により、可能な本すべてを尽くすことはとうていできないのです。


Re: バベルの図書館
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月 6日(日)20時56分39秒 返信・引用
> No.2606[元記事へ]

φさんへのお返事です。

ありがとうございます。
でも、今一つ理解しかねます。

>もちろん、本の長さを百万文字まで、と限定しておけば、有限冊に収めることができるでしょう。

本の長さに制限はありません。

>しかしバベルの図書館にはそのような限定はなく、無限小数が無限個あるのと同じように、無限の長さを持つ本が無限冊あってもよかったので、はじめから実数冊以上の蔵書があるのです。

「冊」というからには自然数で十分ではありませんか?
1冊2冊3冊・・・・∞冊
これ以外の冊数が必要でしょうか?

>つまり、バベルの図書館は、自然数冊の蔵書から出発しても必ず実数冊の蔵書が構成されてしまい、さらに多くの蔵書が構成される、という仕組みです

自然数以外の数が必要な理由がわからないのですが。
本の冊数といえば自然数ですよね。



Re: バベルの図書館
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月 6日(日)19時23分57秒 返信・引用
> No.2605[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

>
> この対角線論法を前回述べた図書館に適用した場合、作れるのは、どれほど大きかろうとあくまで自然数ですよね。
> 対角線論法で作られた自然数も所詮自然数であり、自然数である限りその図書館に存在する自然数(ゼロから無限大)に含まれるのではありませんか?
>


バベルの図書館にある本は、もともと、実数冊以上なのです。(可能なすべての文字列を集めると、自ずと、実数の基数を超えてしまいます)

『論理パラドクス』017の設定では、


 「AアAアAア……」と2文字だけで無限に続く本もあれば、

と書いてあります。つまり、無限の長さの本がすでに無限冊あります。

もちろん、10文字だけで終わる本、一万文字だけで終わる本、などもありますが、それらは、空白という文字が無限に続く本と考えればよいでしょう。(自然数5を5.0000……または4.999……という無限小数として考えるのと同様に)。

つまり、バベルの図書館は、自然数冊の蔵書から出発しても必ず実数冊の蔵書が構成されてしまい、さらに多くの蔵書が構成される、という仕組みです。


もちろん、本の長さを百万文字まで、と限定しておけば、有限冊に収めることができるでしょう。

また、無限の文字数を持つ本を有限冊までに抑えておけば、自然数冊に収めることができるでしょう。

しかしバベルの図書館にはそのような限定はなく、無限小数が無限個あるのと同じように、無限の長さを持つ本が無限冊あってもよかったので、はじめから実数冊以上の蔵書があるのです。


Re: バベルの図書館
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月 6日(日)17時35分53秒 返信・引用
> No.2604[元記事へ]

φさんへのお返事です。

ご回答ありがとうございます。
でも、やはりわかりません。

>自然数を超えて実数冊の本を揃えたとしても同じことです。

あくまで、自然数で0から無限大という前提で結構です。とりあえず

>『論理パラドクス』017に述べたような対角線論法で、図書館にない本が必ず構成できます。

この対角線論法を前回述べた図書館に適用した場合、作れるのは、どれほど大きかろうとあくまで自然数ですよね。
でも、前回述べたバベルの図書館には、自然数で0から無限大までの数字(からなる本)が含まれます。
対角線論法で作られた自然数も所詮自然数であり、自然数である限りその図書館に存在する自然数(ゼロから無限大)に含まれるのではありませんか?

それとも、ゼロから無限大までの自然数のいずれにも該当しない自然数というものが観念できるのでしょうか?



Re: バベルの図書館
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月 6日(日)15時15分25秒 返信・引用
> No.2603[元記事へ]

eggmanさんへのお返事です。

> こんにちは
>
> φさんの本を読んでいてわからなくなりましたので教えてください。
> バベルの図書館というのは本当にあり得ないのでしょうか?
>

文字でも数字でも同じ理屈が成り立ちますね。

『論理パラドクス』017に述べたような対角線論法で、図書館にない本が必ず構成できます。

自然数を超えて実数冊の本を揃えたとしても同じことです。

『論理サバイバル』066で見た「一般対角線論法」により、蔵書の部分集合の集合によって新たな蔵書を構成すると、必ずもとの蔵書にない本が構成できてしまいます。

バベルの図書館は、静的な実体としてはあり得ないということですね。


バベルの図書館
投稿者:eggman 投稿日:2011年 2月 5日(土)23時34分13秒 返信・引用
こんにちは

φさんの本を読んでいてわからなくなりましたので教えてください。
バベルの図書館というのは本当にあり得ないのでしょうか?

こんなことを考えてみました。
まず、文字を数字に置き換えてみます。アスキーコードでも何でもいいです。
それでも一般性は失わないと思います。
そうすると文章は単なる数列(というか一つの「数字」)に変換されます。
(写真や絵などのイメージはどうする等の細かいことはとりあえず置いときます。考慮しても数値化できる限り本質は同じと思いますが。)

つまり、本の内容は一つの数字に置き換え可能です。
そうすると、0から無限大までの各数字が各々一冊の本に対応します。
こういう無限冊の本を備えた図書館があったとして、この図書館にない本というものが観念できるでしょうか?

このような図書館をバベルの図書館と見なせば、すべての本が揃っているように思うのですが。
対角線論法で否定できるのですか?



Re: 人間原理と進化論29
投稿者:φメール 投稿日:2011年 2月 3日(木)00時42分21秒 返信・引用
> No.2601[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> 人間原理の観測選択は、ディラックの大数仮説の反駁から生れたそうですが、ディラックの大数仮説自体は客観的な仮説ですよね。
> この事態はディラックがゾンビだったとしても変らないはずです。
>


前にも話に出ましたが、

観測選択効果の考えそのものがゾンビによって唱えられることはありますよね。

しかしそういうのは、岩に偶然染みができたのと同じく、誰にも経験されていない情報です。

情報がただ存在しているだけでは、観測選択効果は働かないでしょう。

誰かが主観的経験をして初めて、情報は観測選択されます。


もし意識がなくても情報だけで観測選択されるなら、どんな混沌とした、ファインチューニングからかけ離れた宇宙であっても、すべて観測選択されていることになってしまいます。

いかなる宇宙も、きわめて複雑で精緻な物理法則を組み込んでいるはずですから……。

>
> M:私たち、(O∧M):観測者、としますと、論理的には偽になるようです↓
>
> 1.(O∧M)⊃¬Q
> 2.M⊃Q
> 偽 O⊃Q




これは意味がわかりませんでした。

「観測者であるためには、意識は必要ありません。」と私が言ったのを記号化したものが1.ということでしょうか?

1.は「私たちに意識はない」 になっていますね。



「観測者であるためには、意識は必要ありません。」は


~∀x(Ox⊃Qx)

ですかね。


人間原理と進化論29
投稿者:ハム 投稿日:2011年 2月 2日(水)12時51分16秒 返信・引用
観測者と観測選択主体についてのお考えは解りました。
ありがとうございます。

人間原理の観測選択は、ディラックの大数仮説の反駁から生れたそうですが、ディラックの大数仮説自体は客観的な仮説ですよね。
この事態はディラックがゾンビだったとしても変らないはずです。

> 観測者であるためには、意識は必要ありません。
> ところが私たちは意識を持っています。
> このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。

M:私たち、(O∧M):観測者、としますと、論理的には偽になるようです↓

1.(O∧M)⊃¬Q
2.M⊃Q
偽 O⊃Q


Re: 人間原理と進化論28
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月31日(月)12時52分3秒 返信・引用
> No.2599[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。


> > つまりは、私たちの意識・クオリアは、観測者として存在するためにはクオリアは不要かもしれないが観測者として観測選択するためにはクオリアが必要だろう、ということの傍証になっています。
>
> > 観測者であることと、観測選択の主体であることとを、混同すべきではありません。後者は前者の真部分集合なのです。
>
> これがどうもよく解りません。
> 解説願えると幸いです。


物理学的には、AとBの相互作用によって、Bの物理量を反映した変化をAが蒙る場合、「AがBを観測する」と言ってよいようです。

あの多世界解釈の原典であるヒュー・エベレット3世の論文でも、観測というのは意識の介在を必要としないプロセスであり、相互作用のうち特殊なもの(つまり観測体が被観測体の物理量についての情報を表示するような場合)であるにすぎない、と述べられています。


ただ、通常「観測者」というとき、単なる観測体以上の、もっと複雑な反応を外界に応じて行なう生物のような存在を指すことが多いでしょうが、やはり意識を持っていることは含意されません。


観測選択効果は、観測者が主観的にある世界(そしてその中での位置)を結果論的に選択することですから、あくまで主観性が必要です。

「主観的世界」が開けるためには、単なる観測者ではなく、意識を持った観測者であることが必要でしょう。

ゾンビは、その定義からして「主観的世界」を持ちませんから、外界に反応して外界の物理量に応じた表示を行なうかぎり観測者ではあっても、観測選択の主体であることはできないわけです。


観測者であるためには、意識は必要ありません。

ところが私たちは意識を持っています。

このことは、観測選択の主体であるためには意識が必要であることを(あくまで確率的にですが)確証しています。

人間原理と進化論28
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月30日(日)20時31分45秒 返信・引用
> LがOのための十分条件であることを示さないと、ゾンビに観測選択ができる証明にはなりませんよ。

必要条件であることはQがOのための十分条件ではないことで明らかですが、LがOのための十分条件であることはさらに条件が必要なようです。
1.(Q∧¬L)⊃¬O
2.¬(Q⊃O)
∴ O⊃L

> つまりは、私たちの意識・クオリアは、観測者として存在するためにはクオリアは不要かもしれないが観測者として観測選択するためにはクオリアが必要だろう、ということの傍証になっています。

> 観測者であることと、観測選択の主体であることとを、混同すべきではありません。後者は前者の真部分集合なのです。

これがどうもよく解りません。
解説願えると幸いです。


Re: 人間原理と進化論27
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月27日(木)05時50分50秒 返信・引用
> No.2597[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

> 記号で説明します。
> O:観測選択、Q:クオリア、L:論理性、とします。
> (Q∧¬L)⊃¬O
> ↓
> O⊃(¬Q∨L)

なんだかよく分からないのですが……、

LがOのための十分条件であることを示さないと、ゾンビに観測選択ができる証明にはなりませんよ。


O⊃(¬Q∨L)

はLがOのための十分条件であることを述べていないばかりか、必要条件であることすら述べていませんね。


あと、アプリオリには、同様に次のことも言えるはずですし。


(¬Q∧L)⊃¬O



O⊃(Q∨¬L)

>
> 現生人類がそうであるわけですが、将来の進化したコンピュータやロボットの観測選択を排除する論理的な理由がないですよね。
> 論理的にはクオリアはあってもなくてもよいわけですから、認めるしかないのではないでしょうか。
>

「論理的にはクオリアはあってもなくてもよい」からこそ、観測選択のためにはクオリアが必要であることの信頼性が高まるのではありませんか?

なぜなら、私たちはなぜかコンピュータやロボットではないからです。

観測選択にクオリアが必要ないのなら、観測選択している私たちになぜクオリアがあるのでしょう?

私たちがわざわざクオリアを有していることは、確率的に、クオリアが必要である確率的確証になっています。


クオリアが不要ならば、私たちがクオリアを有しているのはなぜか、が謎になってしまいます。

つまりは、私たちの意識・クオリアは、観測者として存在するためにはクオリアは不要かもしれないが観測者として観測選択するためにはクオリアが必要だろう、ということの傍証になっています。


観測者であることと、観測選択の主体であることとを、混同すべきではありません。後者は前者の真部分集合なのです。


人間原理と進化論27
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月26日(水)10時51分43秒 返信・引用
記号で説明します。
O:観測選択、Q:クオリア、L:論理性、とします。
(Q∧¬L)⊃¬O

O⊃(¬Q∨L)

>> ・観測選択できるのは、クオリアがないか、論理性のどちらかである。
>>
>> 論理性が観測選択に必要なのは異論のないところです。
>> ですので、クオリアはあってもなくてもよいわけで必要ないと判断しました。


> 明瞭なクオリアがあり、かつ、明晰な論理的機能が備わっていて初めて、観測選択ができます。

現生人類がそうであるわけですが、将来の進化したコンピュータやロボットの観測選択を排除する論理的な理由がないですよね。
論理的にはクオリアはあってもなくてもよいわけですから、認めるしかないのではないでしょうか。


Re: 人間原理と進化論26
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月26日(水)03時49分51秒 返信・引用
> No.2595[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> こういう↓ロジックなのです。
> ・クオリアがあって論理性のないものは、観測選択ができない。
> ↓
> ・観測選択できるのは、クオリアがないか、論理性のどちらかである。
>
> 論理性が観測選択に必要なのは異論のないところです。
> ですので、クオリアはあってもなくてもよいわけで必要ないと判断しました。


もちろん、そういう判断はできません。







の矢印も、正しい導出になっていません。


論理的機能が観測選択に必要なのは明らかですが、そこから、どう論理をひねっても観測選択にクオリアが不要などということは導き出せません。

論理的機能があれば観測選択に十分、と言えれば別ですが、単に必要ということにすぎませんから。


論理的機能があれば観測選択に十分、と主張するとしたら、ただの論点先取になります。

クオリアがあれば観測選択に十分、と主張するのと大差ない恣意的な主張です。


明瞭なクオリアがあり、かつ、明晰な論理的機能が備わっていて初めて、観測選択ができます。


人間原理と進化論26
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月25日(火)12時12分57秒 返信・引用
>クオリアがあっても観測選択できない、というのは、
> クオリアが必要でないということではなく、十分でないということです。

こういう↓ロジックなのです。
・クオリアがあって論理性のないものは、観測選択ができない。

・観測選択できるのは、クオリアがないか、論理性のどちらかである。

論理性が観測選択に必要なのは異論のないところです。
ですので、クオリアはあってもなくてもよいわけで必要ないと判断しました。


Re: 人間原理と進化論25
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月25日(火)01時16分14秒 返信・引用
> No.2593[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> クオリアのある動物や赤ちゃんには観測選択ができませんよね。
> このことだけでも論理的に観測選択はクオリアが必要でないことがいえてしまいます。
> 論理的な帰結は覆せないのではないでしょうか。
>


ハムさんはずっと勘違いをされているようです。

Re: 人間原理と進化論22

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2588

ですでに指摘させていただきましたが、

前回のハムさんの(引用2行目)

「このことだけでも論理的に観測選択はクオリアが必要でないことがいえてしまいます。」

は、正しくは

「このことだけでも論理的に観測選択はクオリアが十分でないことがいえてしまいます。」

に変えてください。


クオリアがあっても観測選択できない、というのは、

クオリアが必要でないということではなく、十分でないということです。


クオリアと論理性の両方がなければ観測選択できない、というのは、前々からずっと述べてきていることです。

両方ともが必要なのです。


人間原理と進化論25
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月24日(月)12時47分54秒 返信・引用
> 頭の悪い意識生命体も、とてつもない高性能論理機能を持つが意識のない知的生命も、ともに、観測選択はできないでしょう。

クオリアのある動物や赤ちゃんには観測選択ができませんよね。
このことだけでも論理的に観測選択はクオリアが必要でないことがいえてしまいます。
論理的な帰結は覆せないのではないでしょうか。

そして、私がこう書くのは私の論理性であって、私のクオリアは無関係のように感じます。


Re: 人間原理と進化論24
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月22日(土)02時53分57秒 返信・引用
> No.2591[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

> >……というふうに「選択」できているのは、ハムさんやφの意識・クオリアが観測選択しているからです。
> > 意識がなければ、こうやって観測選択されることなく、世界の原点となることもできません。
>
> こういう「選択」はクオリアではなく私の論理性がしていると思うのです。
> 私からクオリアを除いても、全く同じことをするでしょう。
> (その私は面白くも可笑しくもない私でしょうが・・)

>
> クオリアがあって論理性がない動物や赤ちゃんに観測選択はできませんよね。
> ということは、観測選択はクオリアが無関係か、論理性でしょう。
>

……というふうに「選択」できているのは、ハムさんやφの意識・クオリアが観測選択しているからです。(この応答はこれから常に、限りなく)


クオリアと論理性は観測選択のために両方とも必要でしょう。

頭の悪い意識生命体も、とてつもない高性能論理機能を持つが意識のない知的生命も、ともに、観測選択はできないでしょう。


人間原理と進化論24
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月20日(木)13時52分45秒 返信・引用
>……というふうに「選択」できているのは、ハムさんやφの意識・クオリアが観測選択しているからです。
> 意識がなければ、こうやって観測選択されることなく、世界の原点となることもできません。

こういう「選択」はクオリアではなく私の論理性がしていると思うのです。
私からクオリアを除いても、全く同じことをするでしょう。
(その私は面白くも可笑しくもない私でしょうが・・)

クオリアがあって論理性がない動物や赤ちゃんに観測選択はできませんよね。
ということは、観測選択はクオリアが無関係か、論理性でしょう。


Re: 人間原理と進化論23
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月19日(水)02時25分19秒 返信・引用
> No.2589[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> 最近のノーベル賞受賞者は共同研究者が多くなっています。
> 研究所、大学や企業では組織としても研究しています。
> つまり、組織が観測選択することがあるわけです。
>

……というふうに「選択」できているのは、ハムさんやφの意識・クオリアが観測選択しているからです。

意識がなければ、こうやって観測選択されることなく、世界の原点となることもできません。


人間原理と進化論23
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月18日(火)09時33分23秒 返信・引用
> 観測選択のためには、「我はここにいる」と自覚するための自我が必要だし、クオリアがないと、ただ存在しているだけで原点として世界に碇を降ろすことができません。

最近のノーベル賞受賞者は共同研究者が多くなっています。
研究所、大学や企業では組織としても研究しています。
つまり、組織が観測選択することがあるわけです。

こう考えると観測選択にクオリアは必要ないように思います。


Re: 人間原理と進化論22
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月18日(火)03時46分59秒 返信・引用
> No.2587[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> 現象的意識は自然選択の結果でしょうから、人間以外の動物にもあるでしょう。
> ですので、現象的意識は観測選択にとって必要だとはいえないのではないでしょうか。
>


つながりからすると、

「現象的意識は観測選択にとって十分だとはいえないのではないでしょうか。」

となるべきところでしょうか。


たしかに、

現象的意識も、機能的心も、それがあるだけでは観測選択の原点として十分ではありません。

しかし、ともに必要です。


そして、

現象的意識と機能的心がともにある程度以上高度に展開することが、観測選択の原点として必要十分となるでしょう。


犬や猫やチンパンジーでは不十分でしょうね。

私たちがそれらの動物でないのはそのためです。


人間でも、2歳未満では無理でしょう。

私たちが3歳以上である(そして、その頃からの記憶しか持たない)のはそのためでしょう。


> 自我はどうでしょうか。
> 私は自我が観測選択に必要だとは思えないのですが、φ様の文脈ですと自我といえば観測選択に必要ではないでしょうか。
> 自我に論理性は必要ですが、クオリアは必要なのでしょうか。


観測選択のためには、「我はここにいる」と自覚するための自我が必要だし、クオリアがないと、ただ存在しているだけで原点として世界に碇を降ろすことができません。


人間原理と進化論22
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月16日(日)13時00分40秒 返信・引用
> 論理性は観測選択にとって必要ですが、十分ではありません。

> 「私には現象的意識がある」という真なる命題を述べることのできる存在だけが、世界の原点となります。つまり観測選択します。

現象的意識は自然選択の結果でしょうから、人間以外の動物にもあるでしょう。
ですので、現象的意識は観測選択にとって必要だとはいえないのではないでしょうか。

自我はどうでしょうか。
私は自我が観測選択に必要だとは思えないのですが、φ様の文脈ですと自我といえば観測選択に必要ではないでしょうか。
自我に論理性は必要ですが、クオリアは必要なのでしょうか。


Re: 人間原理と進化論21
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月14日(金)03時10分12秒 返信・引用
> No.2585[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> その意識はクオリアではなく論理性なのではないか、という指摘なのです。
> クオリアは自然選択の結果でしょうから全くの偶然です。
> 論理性は観測選択をする意識にとって必然なのではないでしょうか。


現象的意識は、論理性ではありません。

論理性は、構造のことですから、機能的心に対応します。


論理性は観測選択にとって必要ですが、十分ではありません。


「私には現象的意識がある」という真なる命題を述べることのできる存在だけが、世界の原点となります。つまり観測選択します。

ゾンビは、「私には現象的意識がある」と述べたとき、必ず偽なる命題になりますから、観測選択ができません。


人間原理と進化論21
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月13日(木)09時12分22秒 返信・引用
> 「私はゾンビではない」という真なる命題を言える者(つまり意識を持つ者)が参入したときに初めて、観測選択が生じます。

> 「私はゾンビではない」という偽なる命題がいくら言われても、観測選択と呼びうるような選択が現実になされはしません。

その意識はクオリアではなく論理性なのではないか、という指摘なのです。
クオリアは自然選択の結果でしょうから全くの偶然です。
論理性は観測選択をする意識にとって必然なのではないでしょうか。


Re: 人間原理と進化論20
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月12日(水)01時12分59秒 返信・引用
> No.2583[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> > 人間原理・観測選択効果を思いついた学者、たとえばボルツマンやディッケ、カーターらがゾンビでないという証明はできませんね。
>
> その観測選択をゾンビがしているかもしれないのに、我々はその観測選択を認めているわけです。
> そして、私はゾンビではありませんが他の人はゾンビかもしれないわけです。
> このことは、観測選択やその認識にゾンビか否かは無関係だと考えるしかないのではないでしょうか。


ハムさん自身の言う


 そして、★私はゾンビではありませんが★他の人はゾンビかも

というところが致命的に重要です。

「私はゾンビではない」という真なる命題を言える者(つまり意識を持つ者)が参入したときに初めて、観測選択が生じます。


「私はゾンビではない」という偽なる命題がいくら言われても、観測選択と呼びうるような選択が現実になされはしません。


人間原理と進化論20
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月11日(火)13時57分48秒 返信・引用
> 外界の物理や論理から独立していない点では、虚構のキャラクターも人間も同じです。
> 人間をはじめとする知的生命は、外界に依存しているからこそ、観測ができるわけです。

人間は外界に依存しているだけではなく、外界に対して積極的に働きかけます。
虚構のキャラクターは、その虚構に対して積極的に働きかけませんよね。

> 人間原理・観測選択効果を思いついた学者、たとえばボルツマンやディッケ、カーターらがゾンビでないという証明はできませんね。

その観測選択をゾンビがしているかもしれないのに、我々はその観測選択を認めているわけです。
そして、私はゾンビではありませんが他の人はゾンビかもしれないわけです。
このことは、観測選択やその認識にゾンビか否かは無関係だと考えるしかないのではないでしょうか。


Re: 人間原理と進化論19
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月10日(月)05時02分11秒 返信・引用
> No.2581[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> 小説やマンガやゲームのキャラクターの論理性というのは、その小説やマンガやゲームの論理に従っていますので、全体の論理から独立していないわけです。
> 観測選択の原点になりうる論理性を持つものとしては、そのコンピュータやそのゾンビやそのロボットです。
> 人間と同じように自然界から自立しているわけです。
>

外界の物理や論理から独立していない点では、虚構のキャラクターも人間も同じです。

人間をはじめとする知的生命は、外界に依存しているからこそ、観測ができるわけです。

>
> 実際にノーベル賞受賞者がゾンビではないと証明できるのでしょうか。
>


人間原理・観測選択効果を思いついた学者、たとえばボルツマンやディッケ、カーターらがゾンビでないという証明はできませんね。

しかし、確率的にいって、自然法則の一様性が成り立ちますから、知的に正常な人間はゾンビではないと言えるでしょう。

しかし、意識が存在せず、物理学者がすべてゾンビであるような宇宙もあるはずです(論理的には)。

この宇宙では、φに意識がある以上、他の人間にも意識があるわけですが。


かりに、知的生命においてゾンビと非ゾンビが混在しているような非一様な宇宙を考えてみましょう。

たとえば雨が岩に英語や日本語で観測選択の哲学をたまたま書き記すことがありえますが、そこは観測選択の原点とはなりえません。意識がそれを見れば、初めて観測選択効果の内容が観測選択されます。

同様に、

ゾンビである物理学者が観測選択という情報を発信したとしても、非ゾンビの主体がそれを意識しないと、観測選択効果という意味内容は観測選択されません。


現実の宇宙でも、観測選択しているのはブランドン・カーターの脳であって、カーターの論文の紙面(同じ情報を発信してはいるが)ではない、というのと同様です。


観測選択効果を情報として発信する原点は、必ず観測選択の主体でなければならないというのが自然な考えではありますが、必ずしもそうでないのです。


人間原理と進化論19
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月 9日(日)18時14分7秒 返信・引用
> 臨機応変に反応できない、というのであれば、私たちも同様でしょう。反応可能性に物理的制限がある上に、実際になした反応以外の反応が可能だったかどうかについては実証できません。

人間の場合は、脳を麻薬等で麻痺させれば同じ刺激でも違う反応が得られます。
人間は必ずしも論理的な反応をしませんよね。

> 意識・クオリアがないと、主観的に(第一人称的に)開かれる世界の原点が無いことになり、展望が存在せず、何も「選択」されません。ただ存在するだけです。

小説やマンガやゲームのキャラクターの論理性というのは、その小説やマンガやゲームの論理に従っていますので、全体の論理から独立していないわけです。
観測選択の原点になりうる論理性を持つものとしては、そのコンピュータやそのゾンビやそのロボットです。
人間と同じように自然界から自立しているわけです。

実際にノーベル賞受賞者がゾンビではないと証明できるのでしょうか。


Re: 人間原理と進化論18
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月 7日(金)01時00分22秒 返信・引用
> No.2579[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

> 物質なき心霊があるということは実験や観察が可能かもしれませんが、物質なき心霊が行う観測は実験や観察がまったく不可能だと思われます。
>


繰り返しになりますが、心霊自身にとっては実験や観察が可能なのです。

人間の立場を特権視する必要などなく、意識生命体の立場が特権視されればよいことは、人間原理的推論の基本なのです。

>
> 論理的な意識はクオリアがないだけです。
> 対象に対して論理的な反応をします。
> ですので、映画やキャラクターなどは除かれます。
> こういう論理的な意識というか論理性を持つならば人間原理の観測選択の原点になりませんか。
> 観測選択に論理性は必須でしょうが、クオリアはいらないように思います。


これは、論証が必要なところでしょう。

小説やマンガやゲームのキャラクターも論理的な反応をします。

臨機応変に反応できない、というのであれば、私たちも同様でしょう。反応可能性に物理的制限がある上に、実際になした反応以外の反応が可能だったかどうかについては実証できません。

観測選択には、心の機能ではなく、意識・クオリアが必須です。

意識・クオリアがないと、主観的に(第一人称的に)開かれる世界の原点が無いことになり、展望が存在せず、何も「選択」されません。ただ存在するだけです。


人間原理と進化論18
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月 6日(木)11時48分7秒 返信・引用
>論理的に可能だということが、観測選択の反証可能性を構成しています。

反証主義の反証可能性は、実験や観察によって反証される可能性があるか否かを問題にするようです。
物質なき心霊があるということは実験や観察が可能かもしれませんが、物質なき心霊が行う観測は実験や観察がまったく不可能だと思われます。

> 論理的な意識でよいなら、映画やキャラクターも観測選択するし、もちろん心霊も、さらには可能的な心霊ですら(論理的な意識なので)観測選択してしまいます。

論理的な意識はクオリアがないだけです。
対象に対して論理的な反応をします。
ですので、映画やキャラクターなどは除かれます。
こういう論理的な意識というか論理性を持つならば人間原理の観測選択の原点になりませんか。
観測選択に論理性は必須でしょうが、クオリアはいらないように思います。


Re: 人間原理と進化論17
投稿者:φメール 投稿日:2011年 1月 5日(水)01時07分25秒 返信・引用
> No.2577[元記事へ]

ハムさんへのお返事です。

>
> それなら、それはまさに私たち自身ではないのですか?
> いずれにしろ私たちの観測と心霊の観測は分離不能ですよね。
>


私たちは少数派の特殊な心霊かもしれないということです。

心霊一般は、物質のファインチューニングとは論理的なつながりはありません。

心の哲学の現況からもわかるとおり、心の機能から意識は論理的に付随しませんから、逆に、物質なき心霊も論理的に可能と認めるしかありません。

ファインチューニングがなくても、心霊が漂うこともアプリオリに不可能と決めつけられないのです。

たぶん実際には非物質的な心霊は無いでしょうが、論理的に可能だということが、観測選択の反証可能性を構成しています。

>
> その意識なのですが、観測選択に必要な意識はクオリア意識ではなく論理的な意識ではないでしょうか。
> 論理を生み出すには人間のような脳が必須ではなくコンピュータやゾンビのようなロボットも可能でしょうし、ファイン・チューニングなしに、これらは生まれないわけですから哲学のモチベーションは保たれていると思います。


論理的な意識でよいなら、映画やキャラクターも観測選択するし、もちろん心霊も、さらには可能的な心霊ですら(論理的な意識なので)観測選択してしまいます。

すると、観測選択は反証可能であるだけでなく、現に反証されていることになってしまいます。


人間原理と進化論17
投稿者:ハム 投稿日:2011年 1月 4日(火)11時50分16秒 返信・引用
> 私たち自身が、たまたま脳に宿っているだけの特殊な少数派の心霊かもしれないのです。

それなら、それはまさに私たち自身ではないのですか?
いずれにしろ私たちの観測と心霊の観測は分離不能ですよね。

> ファイン・チューニングが観測選択効果の哲学のモチベーションになっている限り、意識を生み出す複雑な有機体が観測選択にとって必須であり、その根拠はあくまで意識の存在にあります。
> 従って、ゾンビは、観測選択を考えるもともとのモチベーションを解除された存在です。

その意識なのですが、観測選択に必要な意識はクオリア意識ではなく論理的な意識ではないでしょうか。
論理を生み出すには人間のような脳が必須ではなくコンピュータやゾンビのようなロボットも可能でしょうし、ファイン・チューニングなしに、これらは生まれないわけですから哲学のモチベーションは保たれていると思います。