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「ラッセル関係文献紹介(2012)」

2013年 2014年 2015年

索引(未作成)(-出版年順 著者名順 書名の五十音順)

「ラッセル関係文献紹介」は,ラッセル研究書や研究論文等(ただし,専門的すぎるものは原則として除く)についてご紹介するものです。「R落穂拾い」の方はラッセル関係文献とは言えないもの,たとえば書名や論文名等に「ラッセル」の文字がでてこない,気がつきにくい(落ちこぼれやすい)文献・情報を「落穂」のごとく拾って紹介するものですが,「ラッセル関係文献紹介」の方は,あきらかにラッセルに関係していると分かる文献や情報をご紹介するものです。

  • B. C. バーント,R. A. ランキン(編著),細川尋史(訳)『ラマヌジャン書簡集』(シュプリンガー・フェアラーク東京,2001年6月刊)(2012.12.26)
    * B. C. バーント(Bruce C. Berndt
    , 1939~ ):1975からイリノイ大学数学科教授。
    * R. A. ランキン(Robert A. Rankin, 1915-2001):元グラスゴー大学教授。
    * 原著:Ramanujyan: Letters and Commentary. American Mathematical Society, c1995.(History of Mathematics, v.9)
    [pp.57-60:ラッセルからオットーライン・モーレル婦人(→ オットリン・モレル夫人)
          への手紙 1913.2.2]


     日曜日・深夜
     愛する君へ
     ・・・(中略)・・・。
     ・・・。ホールで合(→会)ったハーディ(G. H. Hardy, 1877-1947)リトルウッ(J. E. Littlewood, 1885-1977)は大変興奮していました.というのも彼らは第2のニュートンを発見したというのです.その第2のニュートンというのは,マドラス在住のヒンドウー教徒で年収20ポンド程の事務員です.彼は手紙で独学で得たいくつかの結果をハーデイに伝えてきたのですが,ハーディは,それがすばらしい結果であり,しかも普通教育しか受けていない人間が発見したものとすればなおさらのことと考えています.ハーディは,ただちにこの男を当地に招聘したい旨を伝える手紙をインド局(Indian Office)に送ったそうです.目下のところこの件は内密なのですが,私もそれを聞いて大変興奮しています.
     学期中に物質の問題を考えるための時間を確保するのは大変難しいことです.ロンドンから戻ると,私には,ロイスのこと,校正,前書きの執筆,講義,昼食,ワードとの散歩などが待ち構えています.さらにヴィトゲンシュタインや他の人たちがひょっこり訪ねてきたりするのです.その結果,金曜日の夕刻まではほんのちょっとした休憩をとることも難しく眠くなってしまうのです.そしてこんなことが土曜日まで続いてしまうのです.
     ・・・(中略)・・・。仕事のことを考えると,年月はおそろしいほど早く進んでしまいます.人というのは本当の仕事を成し遂げる前に死んでしまうものなのではないでしょうか.一方,感情のことを考えるとまったく違ってきます.それを考えると人生はおそろしく長いものにみえてしまいます.人はいくつもの結末を迎え,そして新しい始まりを迎えるものですが,仕事について言えば,人はいつも入り口に立っているようなものです.私の人生観について言えば,私自身,年々成長し広い心を持てるようになり,因習的な考えにとらわれなくなっていることがわかりました.これは心地よいことです.特に私自身広い心を持ち因習的思想の奴隷状態から開放(→解放)されるために,おおいに苦学していたのでなおさらのことです.
     私は,大変幸せです.人生は充実し活力にみちています.親愛の人であるあなたからお手紙が届くのを心よりお待ちしています.私の愛のすべてはつねにあなたとともにあります.心をこめて.
     あなたのB

    <訳者による注釈>
     この手紙は,著名かつ何かと物議をかもした哲学者バートランド・ウィリアム・アーサー・ラッセル,O.M.,F.R.S.,すなわちアール・ラッセル3世(1872-1970)からオットーライン・ヴァイオレット・アン・モーレル夫人(1873-1938)に送られたものである.・・・(中略)・・・。
     上の手紙は,ラッセルがオットーライン・モーレルに送った千通以上もの手紙の中の1つだが,上記のグリフイス氏(→グリフィン)の著書(→ ニコラス・グリフィン「編著」の『ラッセルの書簡集』)には掲載されていない.オットーライン・モーレルは,自由党国会議員であるフイリップ・エドワード・モーレルの夫人である.彼女は,ガージントンおよびロンドンの有名な文芸サークルのパトロンでもあった.ラッセルは,1890年にケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学し,1893年に第7位のラングラーを獲得した.さらに翌年,倫理科学トライパス(Mora1 Sciences Tripos/松下注:「倫理学」ではなく「哲学」)で首席を獲得した.彼は生涯を通じて70以上の著書と小冊子を著した.彼の最高傑作は,アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)との共著の全3巻の記念碑的著書『プリンキピア・マテマテイカ』である.これは,アリストテレス以降の論理学に対する最大の貢献である.この研究の試みは完全に成功したとはいえないが,それは数学全体を論理学に変える試みであった.・・・(後略)・・・。

    [訳註]
    * O.M.は,メリット勲位(Order of Merit) の略である.F. R. S.は,王立協会フェロー(Fe11ow of the Royal Society)の略
    * 手紙の日づけ2月2日は実際には書かれてはいなくて,これまでに判明している当時のラッセルの行動から推定したものである.そして,この日づけから,ラマヌジャンの1月16日づけの第1の手紙が,遅くとも2月1日までにはケンブリッジに届いていたことがわかる.興味深いことに,ハーディはラッセルに会ったとき,すでにインド局への手紙を発送している.ラッセルの手紙に現れる他の人たちに関しては,グリフィスの著書に書かれている.この著書には,オットーライン・モーレルに宛てた他の手紙も掲載されている.この手紙を書いていたとき,ラッセルは物質論を研究していた.第2段落の最初にこの問題にふれている.

  • ハワード・レヴァイン,ハワード・ラインゴールド(著),椋田直子(訳)『コンピュータ言語進化論-思考増幅装置を求める知的冒険の旅』(アスキー出版局,1988年3月刊)(2012.12.24)
    * ハワード・レヴァイン(Howard Levin
    , 1947~ ):著作家,コンサルタント。全米科学財団科学知識普及プログラムの責任者を務めたことがあるよし。
    * ハワード・ラインゴールド(Howard Rheingold, 1947~ ):思考補助(支援?)ソフト開発に携わる。
    * 原著:The Cognitive Connection: Thought and Language in Man and Machine, 1987.
    [pp.101-118:メタ論理学,パラドクス(パラドックス),そして計算可能性の理論]

    (p.116) ゲーデルによる不完全性の証明(注:不完全性定理)と同様に,チューリングの証明もきわめてこみいっている。が,証明の核になるのは自叙のパラドックス(注:自己言及のパラドクス/いわゆるラッセルのパラドクスである。
     ・・・中略・・・
     矛盾に行きつくこの推論連鎖のなかでは,「決定可能性プログラムが存在する」という前提が唯一の仮定であるから,そのようなプログラムは存在し得ないことになる。つまり,普遍的チューリングマシン(そして,論理機械は)決定不可能である。・・・。
     嘘つきのパラドクスの一種が,またもや数学的大発見の鍵を握っていたわけである。ラッセルは嘘つきのパラドクスから出発してラッセル集合を想定し,集合論が数学の基礎になり得ないことを証明した。ゲーデルは嘘つきのパラドクスと証明可能性の概念を結合して,ラッセルとホワイトヘッドの論理機械が不完全であることを証明した。チューリングは嘘つきのパラドクスと計算可能性の概念を結合して,論理機械が決定不可能であることを(アルゴリズムを通じて知ることのできない真理があることを)証明した。しかし,こうした業績は結果として,形式的思考と形式的言語を強化することになった。これこそ,究極のパラドクスというべきだろう。ボビー・バーンズのいうとおり,
    それゆえに,パラドクスに
    揶揄(やゆ)されながらも心慰められて
    人生は失敗に終わったと見えた瞬間から 成功に転じる
    のである。ラッセルらは論理機械の限界を明らかにすることによって,計算可能性の理論を誕生させ,コンピュータを生みだした。いよいよ,限界が明らかでありながら問題解決能力の面で無限の可能性を秘めるコンピュー夕の登場である。

  • ピーター・J・ベントリー(著),日暮雅道(訳)『<ビジュアル版>数の宇宙-ゼロ(0)から無限大(∞)まで』(悠書館,2009年1月刊)(2012.12.16)
    * ピーター・J・ベントリー(
    Peter John Bentley, 1972~ ):コンピュータ科学者,著作家,ユニヴァーシティ・コレッジ・ロンドン名誉研究員。
    [pp.97-101:数学の土台を解体する]
    (p.97) 2進数,パンチカード,自動計算機,ブール論理がそろって現代コンピュータの設計へつながっていった一方で,数学界全体をおびやかすような発見が,コンピュータの背景にある理論をつくりだした。
     ブール(George Boole, 1815-1864:英国の数学者・哲学者で,ブール代数の提唱者)の死から6年後,バートランド・ラッセルがウェールズに生まれた。・・・。そしてラッセルは,ケンブリッジのトリニティ・コレッジで数学と倫理学(→「哲学」の間違い)の教育を受けた。(松下注:ラッセルはトリニティ・コレッジにいたとき,3年間数学を,4年目に moral sciences のなかの「哲学」を学んでいる。当時,自然科学を natural science と呼び,人文・社会科学を moral sciences と呼んでいた。単数形の moral science は教義の意味では「倫理学」であるが,当時は人間や社会に関する科学を moral sciences と言っていたので,ここで「倫理学」という訳語は不適切。ただし,哲学の一部としての価値の哲学(「倫理学」)は当然学んでいる。) 彼の倫理観と個人的信念は,成人してからの人生を通じて重要な役割を果たすことになる。二つの世界大戦に積極的に反対運動をして(注:第2次世界大戦の時は,ヒトラーに対抗するために途中から賛成にまわっている。),いくつもの大学でさまざまな仕事を辞めさせられ,その信念ゆえに刑務所暮らしさえしたのだった。だが,ラッセルはメリット爵位(注:ラッセルは第3代ラッセル伯爵を継いでいるが,メリットは爵位ではなくあくまでも「勲位」・「勲章」)もノーベル文学賞も授与されているし,1955年には友人のアルバート・アインシュタインとともにラッセル=アインシュタイン宣言を発表して,核兵器削減を呼びかけた。長い一生のあいだ,時の政権に受けがよかろうが悪かろうが,その強い信念と倫理観を貫き通し,それが公人としての名声を高めることとなったのだった。
     強い倫理観をもちながらも,ラッセルのおもな研究分野は数学と論理学だった。彼は,数学が論理学に還元することを証明してみせた(松下注:ここでは,1910~1913に刊行された『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』ではなく,1903年に刊行した『数学の原理(The Principles of Mathematics)』のことを指していると思われる。下記に「続いてパラドクスを発見」と書かれているからである。)--つまり数学上のあらゆる研究成果は論理学表現に書き換えられるということだ。これはすばらしい発見だった。その上に数学が築き上げられている基本的な真実を,私たちがくまなく理解する助けとなるからだ。ところが彼は,続いてパラドックスを発見する。真であると同時に真ではないというものもあるのだった。<1>の章でみたように,否定による証明はこの種のものを頼みにしている --同時に真でもあり偽でもあるらしいものがあるとすれは,その証明は不完全に違いないということを意味する。ところが,ラッセルのパラドックスは,「数学全体が不完全」だと示唆しているように思える(次ぺ一ジのコラム参照→省略)。これでは何もかもぶちこわしではないか!
     数学者たちが心底ぞっとしたのは,これで数学の土台にある疵(きず)のように見えたものが,はっきりとつきとめられたからだった。何世紀にもわたって,数学上の概念も証明も,すべては一連の基本的な土台となる真実の上に築き上げられてきた。ところが,ラッセルのパラドックスは,もはやどの証明も信用できないと言わんばかりだ。デカルトが信じていたように,数学とは真実を完全に知ることのできる唯一の分野であるという考えは,もう妥当とは言えなくなってしまった。
     この研究は,この問題を確定しようとする動きを引き起こした。ところが,ラッセルのパラドックスを取り除くどころか,事態は悪化する。1931年,ひとりの数学者が,数学はつねに不完全であることをきっぱりと証明したのだ。その数学者の名を,ゲーデルという。・・・。

  • 足立恒雄『無限の果てに何があるか-現代数学への招待』(光文社,1992年5月刊)(2012.12.7)
    *
    足立恒雄(あだち・のりお, 1941~ ):早稲田大学名誉教授。代数的整数論及び数学史専攻。
    (p.227) しかし,ある性質を持った要素の「全体」というものを厳密な思考の対象にしたとき,「お化け」が出現したのである。次の項でこのお化け=「ラッセルのパラドックス」を解説するが,その前に予行演習として,ラッセル自身が日常的な用語で翻案した「村の床屋のバラドックス」というこっげいなバラドックスを紹介しておこう。・・・省略・・・。
    (p.229) この(ラッセルの)パラドックスは,1902年にB.ラッセル(1872-1970)が提起したものであるが,これをきっかけにパラドックスがぞくぞく発見され,さしもの強力な道具と思われた集合 論も重大な危機に瀕することになった。集合論自身有力な道具ではあるが,さらに,ヒルベルトの『幾何学の基礎』以来,諸理論を公理化する場ともなっている。数学をより厳密に展開するための場に矛盾を生じたのでは,たまったものではない。・・・。
    (p.231) 巨人ヒルベルトはこうした事態をクロネッカーの亡霊を見るような思いで憂えていたが,ついに,ある意味では直観主義との妥協をはかって,数学の危機を救おうと決心した。彼の『無限について』の一節を引用して,どういう方向ヘヒルベルトが数学界を率いていこうとしたのか,と同時に数学界の動揺の深刻さを,直接に知ってもらうことにしよう。
     こうしてフレーゲ,デデキント,カントル(カントール),この三人の偉大な共同作業によって無限は王座に上る日を迎え,最高の栄誉に輝くことになった。無限は最も大胆な飛翔を経て,目もくらむような高みに引き上げられることになった。
     反動は起こるべくして起こった。それも極めて劇的に現れた。・・・なかでもツェルメ同とラッセルによって見いだされた逆理(パラドクス)は,それが数学界に知られるやただちに破局的な作用をもたらした。これらの逆理に直面したデデキントとフレーゲは自分たちの立場を事実上放棄し,手を引いてしまった。デデキントはその画期的な著作『数とは何か,また何であるべきか』の再版を許可することをながらくためらったし,フレーゲもまた彼の著書『数論の基本則』のあとがきにおいて,その書物におけるやり方を誤ったものと認めざるをえなかった。そしてカントルの考え方に対するきわめて激しい攻撃が,あらゆる方向から加えられた。これらの反対運動はあまりに激烈であったので,数学におげる最もありふれた考え方や,最も単純で重要な推論に至るまで疑いの目が向げられ,その使用が禁じられるにいたった。・・・。
     ここで声を大にして訴えたいのは,われわれが種々の逆理に直面している今日のこの事態か長く続くのは耐えられない,ということである。思っても見よ。厳密さと真実との規範ともいうべきこの数学において,誰もが学び,教え,そして使っている概念構成や推論か不合理を導くのである。数学的思考でさえ役に立たないとすれば,厳密さと真実とをどこにもとめればよいのであろう。(「無限について」/ヒルベルト『幾何学の基礎』所収)
    (p.240) 無矛盾性の問題に決定的と思われる仕事が,K.ゲーデル(1906-1978)によって1931年になしとげられた。その結果は数学にとどまらず,哲学の世界にまで衝撃を与えた。ゲーデルは,もちろん,ライプニッツの「論証の算術化」という構想を意識していたとは思えないが,結果としてはライプニツの構想を証明論において実現したのである。それはひとことで言えば「自然数論を含むような数学的体系の無矛盾性を,その体系内で証明することはできない」ということである。・・・。

  • ウィル・バッキンガム(他・編著),小須田健(訳)『哲学大図鑑』(三省堂,2012年2月刊)(2012.11.25)
    *
    ウィル・バッキンガム(Will Buckingham, 1971.9.28~ ):哲学者,小説家で,現在英国ド・モンフォール大学の教員。
    * Original title: The Philosophy Book. Dorling Kindersley Limited, 2011

    Bertrand Russell の画像
     出版社による紹介文には,「著名な思想家たちを誕生年順に配列した,編年史スタイルの哲学図鑑。図解(マインド・マップ)付きで哲学理論を解説。執筆者が核と考えるテーマひとつに絞って,ひたすらそれを論じるという手法を採用。各章の冒頭に,思想的背景を示す年表を掲載」,と書かれています。
     ラッセルは自分の社会思想を純理論的な哲学とはまったく別の種類の仕事であると峻別しています。その意味では,ラッセルの「哲学」とは言えない,『怠惰への讃歌』という,「怠けること(怠惰でいること)」の積極的意味合いを説いた社会評論・エッセイをラッセルの(広義な意味であったとしても)代表的な「哲学説」として紹介することは適切であるとは言えません。しかし,上記の出版社の紹介文を善意に受けてとめてながめれば,(まだ中身をあまり読んでいないので早計かもしれませんが)この本はそれなりの存在意義はあるだろうと思われます。
     もうじき衆議院選挙があります。マスコミ報道によれば,国民の第一の希望は「景気をよくすること」ということですが,それが他の重要なことを犠牲にしたものであったり,他者(や他国)に優位に立つため(弱者や他国をいじめるため)の「競争をあおる」こと(またそのために役立つ「教育」制度づくり,生活を犠牲にした「競争」促進)を目指したものであっては困ります。ここは労働のあり方,人間の幸福のあり方をよく考えた上で一票の投票権を行使したいものです(M)。

    p.236-239:幸福へいたる道は,労働(時間)の組織的な減少のうちにある(バートランド・ラッセル)

    (p.236) イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは,並はずれて勤勉だった。・・・。だとすると,なぜこのもっとも活動的であった思想家が,もっと働かないようにすべきだと示唆するのだろうか。
     ラッセルの論文『怠惰への讃歌(In Praise of Idleness)は最初1932年に出版されたが,ときは1929年のウォール街での大暴落につづく大恐慌の真っ只中だった。世界中で,地域によっては失業者数が就業人口の3分の1にまで達しようかというときに,怠惰でいることの美徳を推奨するなど,神経を逆なでするふるまいのように思われよう。だがラッセルの考えでは,当時の経済的混乱は,それ自体が労働にたいする一連の根深い誤った態度の帰結であった。・・・。

     労働とはなにか
     ・・・。ラッセルの見るところ,歴史は,一生をかけてひたすら労働してようやく自分や家族が生きてゆくだけのゆとりを保てている人びとで溢れかえっている(松下注:日本だけでなく,発展途上国の貧しい国々の人々の生活を考える必要がある)。その一方で,彼らが生みだした余剰分は,軍人や僧侶,無聊(ぶりょう)をかこつ支配階層に搾取される。そして,あきらかに不正なシステムにもっともらしいうわべを施して,「勤労」の美徳が誉めそやされるよう推賞しているのは,システムの恩恵に与っている者たちのほうだこの事実だけでも,私たちが服従しているばかりか自分たちの抑圧を促進さえしている「勤労」をそのまま甘受する代わりに,その労働倫理を評価しなおす気を起こさせるのに十分だ。
     このようにラッセルが社会に与える説明には,階級闘争の強調が含意されているが,それはあきらかに19世紀の哲学者カール・マルクスの思想に負っている。ただし,ラッセル自身はマルクス主義にはつねに居心地の悪さを感じており,彼の論評は資本主義社会への批判であると同時にマルクス主義への批判でもあった。・・・。
     ・・・。ラッセルが示唆するのは,労働を古い時代の遺物にすぎない特殊な道徳的観念に照らして考察するのではなく,豊かで満ちたりた人生を送るのに労働がどう役立っているかという観点で考察することだ。そうすればもっと労働しないですむようになるべきだという結論は避けがたくなる。週当たりの労働時間が4時間しかなかったらどうだろう,とラッセルは問う。現在の社会システムは,一部の人びとが過剰に労働し,それでいて貧困にあえいでいる一方,別の人びとはまったく労働につかず,そのため貧困にあえいでいる。すぐにわかるように,これはだれの得にもなっていない。(松下注:ラッセルの主張は,単純に「雇用を創出」することではない。働き過ぎている仕事を「組織的に」他の人(ただし,対象範囲は「世界」)に与えて(「協働」),人類全体の「総幸福量(もちろん質も)」を増大させることにある。)

     遊びの重要性
     ラッセルは,労働時間を短縮すれば,もっと創造的な関心事を追求する自由が生まれると考える。・・・。ラッセルの考えでは,以前は特権的な少数者にしか知られていなかった余暇こそが,豊かで意味ある人生を実現するのに不可欠だ一日に4時間しか労働しなくなったら残りの時間をどうすればよいか,だれもが困惑してしまうのではないかという反論がありうるが,ラッセルはそれを否定する。もしそのとおりだとしたら,「その非は私たちの文明にある」とラッセルは述べて,遊びや呑気さにたいする私たちのキャパシティが実効性崇拝によって覆いかくされてしまったことを示唆している。余暇を真剣に受けとめる社会は,教育をも真剣に受けとめることだろうとラッセルは考える。なぜなら,教育とは職業訓練につきるものではないからだ。・・・。

     バランスのとれた人生
     ・・・。そうした問題があるとはいえ,自分たちの労働にたいする態度をもっと近くから考察する必要があるというラッセルの忠告は,こんにちでもその重要性を失わない。私たちは,週当たりの労働時間の長さを「当たり前」だと思い,ある種の労働がほかの労働よりも報酬が高いのも「当たり前」だと思っている。多くの人にとっては,労働もレジャーも私たちの期待しているほどの充実感を与えてくれないし,それと同時に怠惰でいることに後ろめたさを感じないではいられない。ラッセルの考えは,私たちには労働生活を吟味してみる必要があるばかりでなく,怠けてすごしたり,遊んで暮らしたり,無為に生きることにも優れた点や有用なところがあるのだということを気づかせてくれる。ラッセルの言うように,「これまで私たちは機械が出現する以前と同じように,精力的でありつづけた。それほどまでに私たちは愚かだったわけだ。だがいまや,この先も永遠に愚か者でありつづけるいわれはどこにもない」。

     
  • 鈴木祥蔵「バートランド・ラッセル-平和教育の先駆者」[白石晃一・三笠乙彦(編)『現代に生きる教育思想2 イギリス』(ぎょうせい,1982年2月)pp.385-424](2012.11.11)
    *
    鈴木祥蔵(すずき・しょうぞう,1919~2009):故人。関西大学名誉教授,社団法人乳幼児発達研究所(現・子ども情報研究センター)初代所長。

     ラッセルの教育に関する著作はたくさんありますが,単行本としては『教育論-特に幼年期における』(On Education, especially in early childhood, 1926)と『教育と社会体制』(Education and the Social Order, 1932)の2冊だけです。On Education の方は副題にあるとおり幼年期における教育が中心であり,個人に焦点があたっていて,社会との関係の考察はあまり深入りしていませんでした。これに対し,Education and the Social Order では,教育を社会との関係のもとで論じています。
     日本においては(英米でも同様かもしれませんが)もっぱら前者(『教育論』)がよく読まれており,後者(『教育と社会体制』)はあまり読まれておらず,専門家以外,言及する人はあまりいません。
     しかし,『教育と社会体制』は教育を様々な側面から考察しており,現在においても大きな意義がある著作だと思われます。ご一読をお薦めします。
     上記の鈴木氏の論文においては,前半で『教育論』を,後半で『教育と社会体制』を扱っています。そこで,後半の最初の部分を以下に引用しておきます。


    1 危機意識から書かれた『教育論』(注:ここでは『教育と社会体制』のこと)

    (p.407~ ) 1920年の終わるころから,資本主義の国々は深刻な危機に見舞われていた。イギリスでは1926年の大罷業(ストライキ)以来,波状的な労働攻勢が次第にその波のうねりを高めてゆき,1929年に初めて労働党が総選挙で大勝を収めた。その年,アメリカのニューヨーク株式は大暴落し,パニックが起こり,それが急激に世界へと波及していった。ルーズベルト(注:現在では通常「ローズベルト」と表記)のニューディール政策がそこで立案され始まる。一方,イタリアではムッソリーニのファシスト党が独裁政権を掌握し,ラッセルがこの本を出版した年(1932年)はちょうどドイツの総選挙でナチスが第一党の地位を獲得した年であった。日本が満州(今日の中国東北地区)に清朝廃帝薄儀を立て,満州国独立宣言を強行させた年であった。国家とか,民族とか,軍備とか,軍縮とか,社会とか,不景気とか,失業とか,デモとか,社会現象にかかわる言葉が世界中の人びとの日常の会話を占領し始めていた。ラッセルは,帝国主義国家間の戦争の危険を誰よりも強く感じとり,何とかこれを防がねばならないと考えているころであった。彼の『教育論』(注:On Ecucation, 1932)に対する批判にも答えながら,ラッセルは『教育と社会体制』(Education and the Social Order, 1932)を発表することにしたのである。
     『教育と社会体制』という書名に用いられた 'Social Order' は普通には「社会秩序」であるが,資本主義社会,社会主義社会,国家,それらと市民,個人との関係を論じた本として,全体の意味から言えばむしろ日本語では'社会体制'の違いと教育との関係についての論述であるので,筆者はそのような書名として訳し出版したのである。社会秩序といえば日本語ではむしろ,犯罪とか,警察という概念との結びつきで用いられる場合のほうが多いからである。

    2 教育とその目指す人間像-よき個人とは

     この本は全部で16章から成り立っている。
      (→ 『教育と社会体制』邦訳書・目次

     第一章は「個人と市民」で始められ,第一六章が「個人性と市民性の調和」で終わっている。
     ラッセルは,まず最初に,教育は子どもたちを立派な個人に育てあげるべきか,それとも善良な市民(松下注:Good Citizen's Alphabet, 1953 を参照されたし)に育てあげるべきかという疑問を掲げてこの問題から論を進めている。
     へーゲル哲学に従う人たちは,よき個人とよき市民との間には矛盾はなく,対立すると考えること自体誤りだというであろう。しかし,実際の日常生活においては,子どもを「一個人」として考える教育のもたらす結果と子どもを「未来の一市民」として考えて行う教育の結果とはまるで違ってくる。このことが明確に自覚されなければならないとして,彼は「よき個人」と「よき市民」とを俊別して考察することを勧めている。
     ラッセルによれば「よき個人」というのは,ライプニッツのモナドのように,研ぎすまされた知性によって,世界や宇宙をうつし出す人であって,'容易に妥協しない人'である。それは強固な意志によって支えられている。この個人の意志は'かかるものを地上にあらしめよ'という神のごとき意志である。
     哲学者,思想家,芸術家,科学者それに政治家さえも,優れた個人てある人びとは,常に当時の世論や常識にさからって,非難やあざけりや批判にもめげずに自己を貫いた人である。彼らは途中で「よき市民」になろうと妥協してしまったら,おそらく優れた業績をあげて後世のものたちに様々な恩恵をもたらすことはできなかったであろう。「よき個人」とは,「自已自身にたよるもの」であってなんらかの新機軸を打ち出す人である。・・・。

  • 小森健太朗『探偵小説の様相論理学』(南雲堂,2012年5月刊)(2012.8.24)
    *
    小森健太朗(こもり・けんたろう,1965~ ):作家(探偵小説),評論家。本書の姉妹編である『探偵小説の論理学-ラッセル論理学とクイーン,笠井潔,西尾維新の探偵小説』は第8回本格ミステリ大賞(評論研究部門)を受賞している。
    * 本書は三部構成になっており,ラッセルについては全面的に書きおろした第2章(探偵小説と様相論理)で詳しく扱っています。

    (p.143) 固有名詞が,確定記述の束から成るとするラッセルの固有名詞把握は,この還元公理を導人した論理体系から帰結した事柄のひとつであると言える。この,ラッセルの固有名の論に関して,柄谷行人東浩紀に由来すると思われる誤った論があるので,その一例として村上裕一の固有名論について簡単にみておこう。
     村上裕一は『ゴーストの条件』の第一部「固有名の哲学」で,ラッセルの「記述理論」を以下のように説明しているが,村上の言う「記述理論」は,これまでの議論でわかるように,ラッセルの提唱した記述理論とは別物である。
     記述理論の達成とは,それまで固有名と思われていたものを,「確定記述」と「論理的固有名」に分割したことである(『ゴーストの条件』p.103)。
     この村上の記述理論への誤った注解は,柄谷行人以来の,ラッセル論の誤解に由来するとしか言えない。
     村上は同書第一部の第三節「固有名」で,ラッセルの記述理論と固有名把握について以下のように述べている
     例えばアリストテレスはアレクサンダー大王の教師だったと言われている。このとき,彼が実はアレクサンダー大王を教えていなかったという新事実が発見されたとしよう,すると,
    ・「アレクサンダー大王の教師はアレクサンダ大王を教えていなかった」

    という命題が出現することとなる。しかしこれは論理的矛盾にすぎない,一方で固有名を用いた場合にはそうはならない。

    ・「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」 という命題は有意味に成立する。一ゴ条一〇六

     村上による,ラッセルの理論のこの紹介には,少なからぬ歪曲と誤解が含まれている,まず,ラッセルの理論にしたがって固有名を把握していたとして,アリストテレスに関して,アレクサンダー大王を教えていなかった新事実が判明したとしても,それがただちに「アレクサンダー大王の教師はアレクサンダー大王を教えていなかった」という矛盾命題につながるわけではない,なぜなら,アリストテレスという固有名は,「アレクサンダー大王を教えていた」という唯一の確定記述で決定されるものではないからだ。ラッセルの固有名の論にしたがってみても,その新事実が判明すれば,アリストテレスに関するさまざまな確定記述のうちの,「アレクサンダー大王を教えていた」というものだけが訂正ないし除外されることになる。
     ・・・(中略)・・・。
    (p.146) ラッセルの記述理論へのこのような誤った理解は,『探究』などの,柄谷行人のクリプキ思想の紹介が一面的で,もとのラッセルの理論を正しく伝えていないことからくる弊と言える。または,柄谷のクリプキ理解を経由した東浩紀のクリプキ論からくる弊であると言えるだろう。・・・。
    (松下)この後,探偵小説の論理(ロゴスコード)として,「ラッセルの還元公理」でとらえきれない(包含できない)ものをクリプキやデヴィド・ルイスなどの「様相論理」によってすくいとっていこう(包含していこう)とする,本書の主題に入っていきます。読みやすい文章ですので,後は,購読するか,図書館で借りて読んでみてください。(参考:三浦俊彦「日常言語を超える思想―バートランド・ラッセル百周年」)


  • 上木敏郎「杏村の教育論とラッセル」[上木敏郎『土田杏村と自由大学運動--教育者の生涯と業績』(誠文堂新光社,1982年7刊)(2012.4.16)
    *
    土田杏村(つちだ・きょうそん,1891-1934):哲学者,評論家。自由大学運動で有名
    * 上木敏郎(かみき・としお,1922年~ ):成蹊大学等の教員を務める。
    (p.160) 当時杏村の教育論ないし社会改造論に最も大きな影響を与えていたのは,恐らくバートランド・ラッセルであったろう。マルクス主義とアナキズムとの統一といったような着眼もラッセルから学んだものと思われる。
     自由大学において,杏村は教育を宣伝と混同することを厳しく戒めているが,この教育と宣伝との峻別についても,ラッセルの著書から教えられるところが多かったのではあるまいか。大正11年12月号の『文化』の「北窓抄録-読書雑感」で杏村はバートランド・ラッセルの講演を筆記した『自由思想と公的宣伝』(Free Thought and Official Propaganda, 1922)を取り上げ,「全国の学校教師諸君」は「我国のつまらない大きな教育書などを読まれるよりは,此の小冊を読む方がどれだけ豊かに魂の糧となるか知れない。」として推奨しているが,さらに翌大正12年1月号の『文化運動』に執筆した「自由教育の功過」の中でも同書について述べ,「・・・丸善で九十銭で売って居る。我国の大きな教育の本などを読むよりはずっと効能がある。ラッセルは殊に我国の教育を批評して居るのだ。僕は嘗てポオル氏の『プロレットカルト』という本を初めて紹介したことがあるが,今のラッセル氏のは其れよりもう一倍すべての人に読んで欲しいと希って居るものだ。」と言っている。
     右の杏村の紹介文の大要は次の通りである。ラッセルは資本主義国アメリカの教育が,いかに教育の内容に対し,また教育者に対して圧迫を加えているかを指摘している。「其処(注:アメリカ)では,社会変化の理論を論ずるもの,現在の社会制度を肯定しないものは教職を去らなければならぬ法律を制定した。だからラッセルは冷笑する。若しそうだとすれぱ,基督やジョオジ・ワシントンは学校では教えられてはならないことになる。しかし,この圧迫は「資本主義国家にのみ固有の現象ではな」く,社会主義国家,例えぱソビユト・ロシアにもそれがある。「ラッセルは入露した時,ペトログラアドで有名な詩人アレキサンダア・ブロック氏に逢った。ポリシェヴィキは彼に美学を教えることを許した。」かしボリシェヴィキは,其の美学は『マルクスの見地に立って』講義されなげればならない」というのである。「我国のいわゆるプロレタリア文芸論者には大悦びな註文であろう。プロックは飢餓を避げる為めには,リズムの理論をマルクス主義と結び付けて論じなげればならないことになった。「其れが果たして出来る途であるか。ブロックは其の後窮乏の為めに死亡した。」
     杏村によれば教育は,資本主義の教権たると,社会主義の教権たるとを問わず,およそ一切の教権から独立すべきものであった。

  • 下村寅太郎「「イギリス的哲学者」としてのラッセル」[下村『精神史としての科学史』(燈影舎,2003年2月刊/京都哲学選書v.27)pp.21-41 所収](2012.4.6)
    *
    下村寅太郎(しもむら・とらたろう,1902-1995):哲学者(故人)で,科学史家。
    * 下村寅太郎「B.ラッセルのこと」

    (p.22) ・・・。ラッセルは従来「新実在論者」の名前で呼ばれていた。しかし後には「中性的一元論」(Neutral Monism)をみずから標榜している(An Outline of Philsoph, 1927, p.293)。しかし「イズム」は結局,類型を現すだけの概念であり,思想の指標に止まる。重要なのは,それの根拠,根源であり,それを満たしている生命であり,それを形成する論理にある。それゆえ,ラッセルも,否,特に論理家たるラッセル自身は,「論理学こそ哲学において基本的なるものである,従って哲学の学派はその形而上学によってよりもそれの論理学によって特色付けるべきである」と言い,自己の哲学をみずから叙する時,自己の論理学を原子論的と言い,自己の哲学を,「実在論」 --特定の形容詞をこれに冠すると否とにかかわらず-- としてよりは「論理的原子論」(Logical Atomism)として特色付ける(Russell, Logical Atomism, in Contemporary British Philosophy, I, p.359)。-この出発の仕方はすでにラッセルの性格を,ラッセルの哲学の性格を,かなり端的に語っている。論理学を離れてはラッセルの意味はない。それではいかなる論理学であるか。・・・。

  • 市井三郎「分析哲学--論理実証主義を含む運動の歴史と西欧民主主義」[『岩波講座現代思想VI 民衆と自由』(岩波書店,1957年9月刊)pp.315-354所収](2012.4.5)
    *
    市井三郎(いちい・さぶろう,1922-1989):哲学者(故人)。ラッセル協会設立発起人の一人で,ラッセルの Principles of Social Reconstruction(1916) 及び A History of Western Philosophy(1945)及び Unpopular Essays(1950)の訳者。(故)市井三郎のホームページ
    * 本ホームページ上の市井三郎氏の論文・エッセイ等索引
    (p.329) ラッセルは,青年期におけるその高度に学術的な数学・論理学的業績にもかかわらず,また彼のあらゆる偶像破壊的な見解と実践にもかかわらず,その知的活動に烈しい現世的関心が脈打っていることは,ヴィトケンシュタインと著しい対照をなしている。現在(1957年)までにラッセルが公刊した著書は六十冊に達しているが,その半ば以上が政治・社会・文化論として分類しうるものであり,二十四歳の時の処女出版は,『ドイツ社会民主主義』(1896年)だったのである。この方面の彼の活動は,その分析哲学的信念とけっして無縁ではない。論理や認識論に関する彼の見解から,社会問題に対する彼の見解が必然的に帰結される,というのではむろんない。究局的な価値判断については,科学的根拠づけが不可能であると考えるラッセルは,自らの基本的な価値判断そのものを,分析的方法によって正当化しようとしてきたのではない。*1
    *1:価値と認識とのこの明瞭な二元論は,一九一六年の著作 Principles of Social Reconstruction においてすでに定式化されており,これは後年の論理実証主義の主張を先取するものである。(もっともこの二元論は,十八世紀のヒュームによって最初に主張された。) 同じく分析哲学の先駆である旧ケンブリッジ学派の指導者ムーア(G. E. Moore)は,この点で結論を異にしている。

     しかし究局的な目的が何であるべきか,について人々の意見が一致する場合でさえ,その目的を達成するにはどのような手段をとるべきか,について人々の見解は極度に紛糾するものであり,この種の紛糾は原則的に経験科学と論理的分析によって解決しうると考えるラッセルは,その意味で社会問題の論じ方に分析哲学的方法を導入したのである。*2
    *2:しかしラッセルが,自らの究極的価値判断そのものを擁護する説得はしてこなかった,という意味ではない。その種の説得においても,アジ・プロ的要素(注:アジテーション・プロバガンダ的要素)を排除しようとする彼には,なかなか興味ある主張が多い。例えば,「実際上わたしの抱懐する見解は,ライプニッツの共可能性(compossible)の格率に似たものである。たとえどのような欲望であれ,誰の欲望であろうと,わたしは欲望の満足それ自体を良きものと考える。しかしさまざまな欲望は,時には両立しうるが両立しえない場合もある。もしAとBとが互いに緕婚したいと欲すれば,両者ともに満足させることが可能である。だがもし各々が,自分は殺されずに相手を殺そうと欲すれば,少なくとも一人は失望しなければならなくなる。したがって結婚は殺人より艮きものであり,愛は憎悪より良きものである。(B. Russell, "Replyt to Criticism," In: The Philosophy of Bertrand Russel1, ed. by P. A. Schilpp, p.5740))

     しかし「分析的方法」を社会問題に適用する場合に起こりうる盲点について,ラッセルには明らかな自覚がある。彼自身の語る次のようなエピソードは,その点で象微的であろう。「わたしが非常に若かった頃に,ゴーシェン(Gosche は前世紀末に英国の大蔵大臣をも務めた人物)の『外国為替論』を読んだことを憶い出す。その本は推論の精密さや,そこに提唱された理論が諸事実によって完全に検証されるように見えたことによって,わたしの科学趣味を喜ばせた。仮説的諸命題の体系として,その理論は・・・-純粋数学の真理性を持っている。しかし現実の世界においては,外国為替は権力政治の渦中に捲き込まれてしまって,もはやその科学は存在してはいない。(出典:"Reply to Criticism", op. cit. p.734)」 論理の網目に動き難く捕捉されて,現実の局部的一面のみを細密画のように数理化する危険を,彼は早くから見抜いていたのである。・・・。

  • 鎌田浩毅「ラッセル幸福論」 [鎌田(編著)『座右の古典-賢者の言葉に人生が変わる』(東洋経済新報社,2010年11月刊)](2012.4.3)
    * 鎌田浩毅(かまた・ひろき,1955~ ):京都大学大学院人間・環境科学研究科教授。専門は火山学,地球科学。
    *
    著者のホームページ
    (pp.190-195:『ラッセル幸福論』)
    (p.192)静かな生活が偉大な人々の特徴

     資本主義社会は人々の欲望を刺激し,絶えず興奮状態へ導こうとする。その結果,たいていのビジネスパーソンは,スケジュール手帳が真っ黒になるほど予定を入れないと不安になる。しかし,退屈を恐れて浅薄な興奮ばかりを追いかけていては,人生が確実に貧しくなる,と著者は説く。
     「偉大な本は,おしなべて退屈な部分を含んでいる」(68頁)。そして古典を生み出したソクラテスやカントやダーウィンの共通点として,「静かな生活が偉大な人びとの特徴であり(中略)偉大な事業は,粘り強い仕事なしに達成されるものではない」(70頁)点を指摘する。
     本来,退屈に耐える力は,子供時代に獲得しておくべきものである。著者はこれを「実りある単調さ」という美しい言葉で表現する。「真剣な建設的な目的を持っている青少年は,その途上で必要だとわかれば,進んで多量の退屈に耐えるだろう。(中略)退屈に耐えられない世代は,小人物の世代となる」(71頁)。まったくそのとおりであると私も思う。
     実は,退屈に耐える力が必要なのは,子供たちだけではない。年齢を重ねるほど時の流れは速く感じられるものだから,なおさら「退屈力」が人生の質を決めていく。
     こうした考え方に私が出合ったのは中学3年の秋である。授業中に隣の生徒が熱心に読んでいたのが本書だった。休み時間に尋ねてみると,この「退屈力」の話をしてくれた。
     高校生になると,今度は著者の名前が英文読解のテキストに頻出した。彼の文章は明快でウイットに富んでいる。私は彼のおかげで英語が好きになり,後に米国へ留学した折には,古書店に立ち寄り原書を買い集めた。外国人が学ぶ英文として,著者(Russell)のエッセイに勝るものはないのではないか。

     著者はゆっくりと流れる時間軸で世界をとらえる仕方を私に教えてくれた。「私たちの生は<大地>の生の一部であって,動植物と同じように,そこから栄養を引き出している。<大地>の生のリズムはゆったりとしている」(72頁)。幸福に生きようとすれば,分刻みの仕事に追いまくられている生活を,根本的に考え直さなければならないのである。
    ・・・。
    (p.195) ・・・。本書には,人生を気分や感情に任せるのではなく,理知的に扱おうという姿勢が貫かれている。こうしたドライな人生論は,日本の風土と正反対のものであり,初めて読んだとき,私もびっくりした。
     ここには20世紀初頭に数学原理を作り上げた科学者の思いがある。感情や意志よりも理性の働きを重んじる主知主義の立場に,私は限りなく親近感を覚えたのである。
     著者の割り切った考え方は,ウェットに生きている人にはいささか受け入れ難いかもしれない。しかし,そのような人こそ本書を読み,人生をもっとドライに前向きに歩んでいただきたいと思う。
     私は本書を繰り返し読むことで,ポジティブな人生観が徐々に作られた。中学生のときに合ったのはラッセルであり,太宰治ではなかった。後年,私は太宰の文章に心酔することになったが,知り合う順番はこれでよかったと思う。良書は人生の早い時期に出合うに越したことはないが,巡り合ったときが神様の与えてくださったチャンスなのである。

  • 「政治を動かす・原水爆禁止論 --ラッセル,人類の危機警告」 [『読売年鑑1955年版』第五部「世界の文化」の冒頭](2012.3.23)
    * これは,昨日アップロードした『ラッセル自伝』(
    http://russell-j.com/beginner/AB32-150.HTM)に出てくる「(BBC放送での)ラッセルのスピーチ」に言及しているものです。 → ラッセル「人類の危機(1954年12月23日,BBC放送)
    (p.197)
     ラッセル,人類の危機警告
     イギリスの老思想家バートランド・ラッセルが一九五四年末「水爆からくる人類の危機」と題してBBCから行った放送は,今日の世界思潮の根本にあるものを端的に示しているように思われる。
    「私が今ここでお話しするのは,一イギリス人としてではなく,一ヨーロッパ人,あるいは西方民主主義の一員としてでもありません。一個の人間として,その存続が今や疑わしくなっている『人類』の一員としてであります。」
     このような前置きでラッセルは,現在の世界のさまざまな争いで,どのような立場をとるにせよ「水爆を使う戦争がおそらくは人類を滅亡させるに至るであろう」危険を警告し,「われわれは人類を滅亡させるのでしょうか,それとも人類は戦争を放棄するでしょうか」というおそるべき問題を提起するのである。そして,現在のままではまっしぐらに滅亡の道をすすむ以外にないことを指摘し,次のようにいった。
    「人々は危険の迫っているのがぼんやりと理解された人類というものに対してでなく,彼ら自身(や)彼らの子供や孫に対してであることを,なかなか想像の中では認識できません。だから,近代兵器を禁止さえすれば,戦争をつづけてもよいではないかと思う(思ってしまう)のです。残念ながら,この希望は幻想であると思います。水爆を使わぬというどのような協定が平和の時代に結ばれたにせよ,戦時にはこれが拘束力をもたぬものと考えられ,戦争が勃発するが早いか,どちらの側も水爆製造にとりかかるでしょう。
     中立国の役割を強調
     現在の情勢では,一方だけが原水爆の製造を禁止し,戦争放棄を宣言したところで,それはかえって相手方をつけあがらせ,戦争を促進するかもしれぬ結果になるから,水爆戦争の危険を知りながらも,どちらの陣営でも自己保存のために危険な道をすすまざるを得ない。「こういう場合のただ一つの希望は,双方の側の友人が介人することで,この友人が双方とも同時に同意できる調停を提案することです」とラッセルは,ここで中立国の役割の重要性を強調する。
     中立国といえども水爆戦争の破滅的影響はまぬがれ得ず,戦争が起ればその住民は滅び去るのだから,「もし私が中立国政府を支配する者だったとすれば,自分の国が相変わらず住民をもつようにするのを,かならずや自分の最高の義務と考えるでしょう。そしてそのためのただ一つの道は,鉄のカーテンの両側の相対立する国々に何らかの調停を申し出ることでしょう」といい,個人の感情としては決して中立的ではないにせよ,「人間として」どのような係争も断じて「戦争によって決せられてはならぬ」ことを力説するのである。
     さらに彼は,中立国について具体的提案を行っている。
    「私がぜひのぞみたいのは,一つまたは一つ以上の中立国が,総て中立国の専門家からなる委員会を任命して,水爆戦争が交戦国ばかりでなく,中立国にもどんな破壊的作用を及ぼすかの報告を作成させることです。私はこの報告がすべての大国政府に提出され,この報告の判定への賛否の意思表示をするよう求められることを望みます。かくして,あらゆる大国が世界戦争はすべて,もうどの国の目的にも役だたない(なぜならそれは敵も味方も中立国も,滅亡させてしまうだろうから)という点に同意するようにすることもできると思います」
     このようにラッセルは人類の危険(危機)に警告を発しながらも,また人類にさまざまな欠陥があることを認識しながらも,人類に絶望してはいない。そして,人間が争いを忘れることができぬために,死をえらぶぼどの狂気にはおちいっていないことを信じ,ただ,「人間であることを忘れず,それ以外のことを一切忘れよ」と訴えたのである。」

     一部に現実逃避の傾向
     水爆の出現,ことに(米国による)ビキニ実験以来,将来もし水爆戦争が起れば結局人類の存続がおびやかされる危険のあることは,多くの科学者や軍事専門家によって指摘された。そして,これを誇大宣伝だとする一部米国当時者の見解にもかかわらず,その危険はかなり広く認識されるに至った。こういう人類の存続にかかわりある危険を前にして,一部に現実逃避やニヒリズムの考えが強まるのも怪しむに足りず,映画やテレビなど大衆娯楽の発達は,現実逃避にふさわしい場所を提供するものである。昨年末おなじくBBCから放送したロージァー・バニスターという若い医者のスポーツ選手は「現実の情勢に直面すれば,事柄の成行きをどうともできぬという無力感が増してくる」とのべた。こういう気持からこの現案逃避傾向が一部にあることは否定できない。
     しかし,それよりもさらに強く主張されているのは,右のラッセルの所論に代表されるように,人類が滅亡か戦争放棄かの二者択一に当面した今日,他の一切の争いにもかかわらず,人間として存続の道をえらぶだろうし,またえらばねばならぬという考え方である。つまり,政治や経済,あるいはイデオロギーの上でどんな対立があろうとも,将来の戦争は水爆戦になって,勝者も敗者もない人類の絶滅になるから,対立を解決する方法として戦争を放棄すべきだという考えである。これは新しいヒューマニズム,中立主義,平和主義などの名でよばれるかもしれぬが,注目すべきは,それが単に今日の世界で有力な思潮であるにとどまらず,現実の政治をも動かしている点であろう。

  • 成田雅美「'常識'と核戦争 --バートランド・ラッセルの平和思想」[『言語社会』(一橋大学大学院言語社会研究科紀要)v.4(2010.3.31)pp.374-386.](2012.3.11)
    * 成田雅美
    (なりた・まさみ,?~ ):本論文執筆当時,一橋大学博士課程学生。
    * 関連情報(日本平和学会・グローバルヒバクシャ)
    * (故)小田実のホームページ
    (p.376) 『常識と核戦争』は,ラッセルが米ソの対立と核開発競争を批判し,平和共存のための具体的な政策について述べた短い著作であり,いわゆる哲学書ではない。本稿は,半世紀前にラッセルが主張した外交政策の先見的な点,つまり現代性を検討するのではなく,それらの言説の背後にある,彼の科学観や平和思想を探ることを目的としている。・・・。

    (p.383) 小田実(おだ・まこと,1932-2007/2012年3月11日現在のウィキペディアの紹介は「中傷」を主目的にしたものと思われ,参考になりません。)とラッセルの平和論の共通点は,一言で述べると,国籍や民族を問わず,全ての個々人が共通して有するはずの,基本的生存権の強調である。ラッセルが「東西両障営にとって第一に最も重要な共通利益は生存であり,これは核兵器の性質によるものである」と述べているように,科学技術の進歩によって大量破壊兵器が登場し,人間を弄ぶように簡単に大量殺戮することが可能な時代に入ったからこそ,あらためて強調される生存権である。小田とラッセルは,左右を問わずイデオロギーを嫌悪し,新しい時代に対応した共通原理を模索する過程で,非イデオロギー的な「生存」という価値を基盤にしようとしたという点において,冷戦期リベラリズムの問題意識を共有していたと言える。
     しかし,両者の相違点は,ラッセルが,次の結論を述べるに至ったことで明らかになる。・・・。
     ★あとは http://hdl.handle.net/10086/18851 に公開されている論文(PDF版)をPCにダウンロードしてお読みになってください。

    (コメント)冷戦期におけるラッセルの核兵器撤廃運動について簡潔にまとめられており,一読をお薦めします。ただ一つ残念なのは,成田氏が次のように書いていることです。
     小田実は,ラッセルと同じく,戦後ベトナム反戦運動を中心に平和運動に従事した作家であるが,ラッセルは小田の存在を知らなかったであろうし,小田の著述の中にラッセルが登場するわけではない。けれども,同様の観点で小田の平和論に注目すると,ラッセルのそれとの共通点が見えてくる。一つ例をあげる。・・・。
     以下のページにあるように,小田実は1967年にラッセルに会うために北ウェールズのプラス・ペンリンの山荘(ラッセルの自宅)に行っています。「・・・である。」ということは,一つ「証拠」をあげればすみますが,「・・・でない。」(ここでは,小田実はラッセルに会ったことがない。」はほとんど証明できないばかりが,間違っていることが少なくありません。従って,わからないことは書かない方がよいと思われます。

    1)小田実「(会見記)ヨダレと微笑-ラッセル」[『文藝春秋』1967年5月号,p.124-126.]
    2)小田実「人間みなチョボチョボや」[『東京新聞』及び『中日新聞』2004年6月28日付]