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杉森孝次郎「最善級の社会思想読本: バートランド・ラッセル(著),塚越菊治(訳)『産業文明の前途』について

* 出典:ラッセル(著),塚越菊治(訳)『産業文明の前途』(早稲田大学出版部,1928年4月 9+5+421p. 19cm.) pp.1-9 所収
* 原著:The Prospects of Industrial Civilization, in collaboration with Dora Russell (London; Allen & Unwin, 1923. 283 pp. 19 cm.)
* (故)杉森孝次郎氏(1881~1968)略歴
* 右イラストは、1982年11月28日、松下宅で開催された第34回「ラッセルを読む会」案内状より


 機械時代に入って、なおかつ個性を保存しうる人のいかに稀れなことか。わがラッセル氏は、幸いなるかなその一人だ。「わが」とは、人情、思想の大見地からの発語だ。

 機械以前には、比較的に、各人が個性保存者であった。しかし、それは主として環境の功績であった。それだけにまた、その多くの、もしくは各人的、個性は浅弱であった。
 社会は、久しからずして、機械を使用する、即ち、いまのように機械に使用されない、新状態に移るだろう。その暁には、各人の個性保存が再び新たに、未曾有に恵まれた厚寵、社会的厚寵を反映し、それによって支持されたかたちにおいて始まるだろう。しかし、それもまた主としては環境の功績に属する。それだけに、その時代がきたからとて、各の素質の自由暢達(ちょうたつ)が期待されるほどには、各の素質がいいわば天才であろうことは期待されない。後者は比較的に常に偶然であり、比較的に常に稀有だ。

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 ちょうど現代のような機械支配時代においてなおかつ機械を使用する見識を示しうる人こそ、真に厚く恵まれた個性所有者だといわねばならん。そして、現代が、その歴史的過渡を最も安全に、そして豊果的に経営するために最も深く必要とするところのものは、そうした個性所有者にこそあることは、なに人によっても、洞察もしくは思考だけを条件として、首肯されるほかない1つの絶対的真理だと私は明信する。

 題して「産業文明の前途」と限られてはいるが、客観すれば、それは実に一つの、唯一のでなく、単に一つの妥当題稱たるにすぎない。この書の実質と真価は、偉大なる多くの題稱を自由に値いする。この書は、最善級の社会読本と呼ばれることもできる。最も進んだ部類の哲学書ともそれは立派に見られる。それが現代文明に対する最も成功した批判書の筆頭階級に算えられべき一書であることも極めて、確実だ。その他、この書をば、良心的、理性的愛にもとづいて、ああも呼びたし、こうも呼びたしと、かなりいろいろに想名される。
 「この」、即ち特殊の一書をさえ読めば、他に読書の必要なしというようなことは、いかなる一書に対しても決して言断すべきでないことはいうまでもない。いわんや、ラッセル氏の、ここに露出された、原著に対して、私自身の全き批判を必要とする場合に際会するならば、私は、そこに、満足以外の評価意識をも自然、当然、発表するであろういくらかの自覚をさえ現に持ちうる。しかし、それは一つの事実だ。現代人が、他にどんなに多くの書を読もうとも、この一書を読み通し見ないならば、それは真に一つの惜たらしいことだと私が明信するという自覚を現に持ちうることは、前の事実と両立しうる別の一事実だ。
 この書のさらに詳しき内容がなんであるかは、ここで私によって試述される必要がない。それは、私が信頼する塚越君の訳が、いまや江湖諸賢が、いやしくも日本語を解される男女大衆が、自由に試読されることを熱望していよいよ印刷されるまでに完成したからだ。
 人性と時務を総合的に知る必要はいかなる時代のなに人にも存すること勿論だが、この書は、現代の一書として、その必要に最も能率高く、資格豊かに、責任強く、奉仕しうる質的稀書に属する。時代の最高聡明はこの書において一つの成功した象徴を形成した。
 この書の殊勲は多元だ。その一は、対象論理の一実示だ。社会的、もしくは人性的現実を材料として、自然的論理をそこに発見し、著者自身の論理をそれに加与することにおいて、この書は実に驚嘆、讃美を強取する程度に成功している。この論理法こそ新論理、新哲学の生命的特徴であらねばならぬことを憶思するとき,この書の真正哲学創造にむかう現代的首途に於ける位置はかなりに大きい。この点、しかし、著者にどれほどの自意識があるか、またはないかは、全く別の問題だ。著者における自意識の有無乃至如何にかかわらず、その功績は客観的に有だ。認識の自由、知の権威、思想の主観的満足と客観的強制と、これらはこの書の支配調に属する一性質であると同時に、現代を解放する手法の一先駆を意識的にのみならず、無意識的に殊に構成する。
 思索、論理、推究、知識、想及び情が、常に客観の最も活きた現実と相抱し、共息し、空間的にも、時間的にも、その間に寸隙なき創造的一元態、それの進行過程は、実に読者をして文字通りにいきをもつがせない概がある。ラッセル氏の主観の展開か、世界の反省か、どちらとも自由に取れる主客融合の芸術的思想書の一としての価値がそこには十分に発揮されている。認識の無限的自由の一面と、世界を反映し、反省し、しばしば世界の自己表現そのものに化し去る他の一面との間は天衣無縫の境に入っている。
 この書は、まさしく、現代が最も必要とする、しかしながら最も欠乏している批判的社会科学、哲学的現実考察の新運動に大臆なる一刺戟と一体現を自身供給するものだ。
 資本主義と社会主義とは、各、それの十分に評価されたかたちにおいて、機械産業主義に還元、総合され、その機械産業主義が最も総合的な人性全、社会全、本質的文化全の見地、興味点から自由に、正当に批判され、再総合をこの書において有力に指導されている。いかなる圧倒的現実、興味、問題、事件も、それの十分なる深さ、広さ、強さにおいて評価されながら、いやしくもそれが真全価そのものでない限り、ついに著者の価値展望のパースペクティブにおいて、ただそれに適当なだけの位置を与えられ、それ以上の専制的、越権的位置をば与えられない。この点、著者が理性に与える安心率は異常に高い。産業主義の各種形、民族主義の各種形、これらは、かくして、全き評価を享けて部分的位置に安置される。
 ただ、そのパースペクティブさえ抹殺せんとする威勢を時あってか示す一怪物がある。それは著者の知力信仰だ。著者の知力は、実に、著者をして知を真全価そのものと断じ去らしめがちであるほどにも強大であることをも、著者が有意義に、時代的に殊に有意義にまた自任する精神分析の著者に対する適用は恐らくは示す。
 量においては眇(びょう)たるこの一巻が、質と実力と真価において現代に有する地位は、実に一つの創造的所有の単位、中心の巨中巨に属するものとしてのそれだ。
 訳者及び訳出版者から、訳に関する一言を求められるを機会として、私は、以上の言をなした。
 昭和3年(1928)4月11日 杉森孝次郎