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一柳富夫「バートランド・ラッセルの認識論と現代」

* 出典:『倫理学年報』n.21(1972年)pp.167-180.
* 一柳富夫(ICHIYANAGI Tomio:1929~1979)氏は当時、専修大学教員。

* 本論文は、『理想』1970年9月号に掲載された「ラッセルの認識論と現代」の後を承けるもの。
*『専修大学人文科学研究所月報』第69号(1979年11月)は、一柳氏の追悼号となっている。目次を参考にご紹介しておく。
(一柳富夫教授追悼号)故一柳富夫教授追悼のことば(芥川集一)/一柳君を偲んで(藤野登)/一柳氏遺稿「日本における1945年以後の主要な哲学的諸展開(方法・問題・解決)/一柳富夫君のこと(市倉宏祐)/同志よ(三輪芳郎)/くたびれて宿かる頃や……―ある往生の不思議―(田島俊雄)/優しい一柳君に(今井淳)/一柳君とコウジン会のことなど(林田新二)/一柳さんとすみれと(山崎勉)/あるエピソード(川野洋)/もう一度帰ってきてくれないか!(大西洋三)/私たちを見守り続けてほしい(佐藤英一郎)/子育てなかばにして(樋口淳)/終に伺えなかったこと(久重忠夫)/「眼人間と耳人間又は缶詰と刺身」(小林保則)/先生の声―一柳先生の追悼―(菊地健三)/一柳富夫教授略年譜


1.認識と事実

 ラッセルはすでに1930年の『幸福論』において、つぎのように書いている。
幸福な人とは客観的に生きる人のことである。とらわれない情愛と広い関心をもつ人のことである。このような関心と情愛によって、また逆に、それらが彼を多くの他の人達の関心と情愛の対象にするという事実によって、彼の幸福を確かにする人のことである*2。」(傍点筆者)
 では、「客観的に生きる to live objectively」とは、どういうことであろうか。問題は、ラッセルにとって客観性の基準がどこにあったか、ということである。彼の認識論もこの問題をめぐって展開されているわけであり、ここに彼の認識論と実践論をその内的連関において支えている支点が考えられる。彼は終生この支点を追求した。彼の哲学は終始一貫した体系性がなく、多様性と矛盾をはらんで絶えず発展していったが、それにもかかわらず終始一貫して彼が求めたものは、1959年に彼自身が書いているところによれば、「われわれがどれだけのことを、またどの程度の確かさまたは疑わしさをもって、知っているといえるか*3」ということであり、ここに彼の認識論が展開され、その上に彼の実践論が築かれていったのであった。彼の哲学の多様性と矛盾は、彼が生きた時代そのものの多様性と矛盾にほかならなかった。しかも、時代がこのような多様性と矛盾に充ちていればいるほど、彼はこの多様性と矛盾の内から、かえってそれを超えた確実なもの、統一的なもの、「人間生活の外側にあって畏敬の感情に値いするようなあるもの*4」を摸索し続けた。それはほとんど全身的な、エモーショナルなものであった*5。青年(時代の)ラッセルは、まずそれを数学の中に求めた。彼のプラトニズムがここにある。しかし、時代に誠実に対応して生きようとすればするほど、人間世界の多様性と矛盾から目をそらすことを、彼の醍めた知性は許さなかった。次第に「非人格的・非人間的 (impersonal non-human) 真理は妄想であるように思われ*6」、確実性への要求を「1つの知的悪徳*7」とさえ後には断言せざるをえなかった。彼のヒューマニズムがここにある。プラトニズムとヒューマニズムの緊張関係、ここにわれわれはラッセルの基本態度を認めることができるのではなかろうか。彼の70年にわたる精力的な哲学的営為の秘密を、われわれはこの精神的緊張の中に求めざるをえないであろう。彼の認識論も実践論も実はこの緊張の中から生み出されているのであり、そして両者の内的支点として彼が終生追求した客観性の基準こそ、この緊張関係を成立させるものにほかならないであろう。彼にとって、人間を超えた確実性や統一を断念することは、他方において、人間以外を認めようとしない人間中心的なヒューマニズムをも拒否することを意味していた。問題は、非人格的・非人間的真理と人格的・人間的世界との関わり方にあるのである。この関わり方の理論的追究において彼の認識が成立し、この関わり方の主体的遂行において、彼の実践論が成立しているとみられるのであり、われわれは、ラッセルの姿を「非人間的真理を求めるヒューマニスト」として描き出すことができるであろう。しかし、本論文は彼の実践論の積極的な展開を意図するものではない。彼の認識論の理論的追究を通して、右の関わり方を明らかにし、それが現代に生きるわれわれにとってどのような意味をもっているかを解明しようと試みるにすぎない。

 イギリス経験論の伝統に立ち、ヒュームの後を継ぐラッセルにとって、近代認識論の基本構造である主観と客観、内と外の区別は動かすことができない。しかし、近代人のこの自己意識から出発する限り、主観・内は、決して客観・外に達することができないことを、ヒュームは正確に見究めていたのであり、ラッセル自身の言葉をかりれば、彼(ヒューム)は「1つの袋小路 a dead end *8」を示している。しかし他方、彼はまた、ラッセルからみれば、「18世紀合理性(主義)の破産を表わしている*9」のであり、われわれはこの袋小路をなんらかの仕方で打開しなければならない。われわれが現に常識や科学を信頼して日常生活を営んでいるとすれば、実践の問題としてこの信頼を基礎づけなければならない。ラッセルはヒュームのように、理論と実践を使い分けることを「不誠実*10」と感じ、理論の中だけで懐疑論を振り廻す態度に「軽薄な不誠実の要素*11」を見出したのであった。科学的知識を基礎づける一般法則が個別的な事実の観察からの帰納・一般化によって現に成立しているのであるならば、その帰納・一般化を許すような、なんらかの原理が現にある。われわれの日常生活は現にそのようにして営まれている。この日常生活を肯定し、この日常生活を基礎づけること、これがラッセル認識論の地平なのである。その動機は、どこまでも日常的な実践の問題にあるのであって、理論そのものの厳密性や斉合性の追究にあるのではない。彼にとって、理論的にヒュームを説得することは不可能であった。しかしまた、実践的にヒュームにとどまることも許されなかった。このような理論と実践のギャップ埋めるものは、それ自身もはや理論的でもなく実践的でもなくて、論理的に論証不可能なものでしかありえないであろう。「18世紀合理性の破産」を救う途は、このようなものを認めるかどうかにかかっている。ヒュームの懐疑論そのものは帰納法の否定にあったわけであるが、その克服の本質的な問題は、単に帰納法の可否にあるのではなくて、帰納法そのものを基礎づけるような原理の確保にある。ラッセルによれば、単なる常識とは違って、「科学的推理は論証不能な論理外的な諸原理 indemonstrable extra-logical principles を必要とする。*12」この意味で、彼にとって知識とは「非論証的推理 non-demontrative inference」に基づく「蓋然的知識 probable knowledge」以外のものではありえないのである。
 このようなラッセル認識論の非論証的蓋然性は、既述のように、彼が近代認識論の基本構造である主観と客観、内と外の区別の上に立ち、ヒュームの後を承けてこの区別を越えがたいものとするところに成立していた。彼によれば、主観、人間の内にあるものが「信念」であり、客観、人間の外にあるものが「事実」である。「非人間的真理を求めるヒューマニスト」の認識論は、「事実」の問題がその非人間的側面を示し、「信念」の問題がその人間的側面を示しており、両者の間のある関係において「真理」が成立する。すなわち、真理とは、信念が指し示しているもの――ラッセルのいわゆる対外指示 external reference ――に対応した事実が存在する場合に、その信念とその事実との間に成立する関係であり、その事実がその信念の検証者となる。彼はこの関係を、配偶者をもっている人妻と、もっていない未婚女性との区別になぞらえてさえいる。*13つまり、人妻は真であり、未婚女性は偽である。このようにして、彼はヒューム以来の難問、人間の内側と外側の結びつきの問題を1つの対応関係という形に把え直してゆくのである。そして、この真理論を、彼は「1つの対応論 a correspondence theory*14」と呼んでいる。しかしこの対応関係・真理が非論証的・蓋然的にしか示されえないところに、プラトニズムとヒューマニズムの緊張関係が成立するのにほかならないであろう。この非論証的蓋然性に耐えながら、具体的な実験や行動において不断に真理を確かめてゆかねばならない緊張において、彼の認識論も実践論も内面的に1つに結びついている。これが、非人格的・非人間的真理と人格的・人間的世界との唯一の関わり方なのである。知識はどこまでも「程度の問題*15」なのであり、従来の認識論の重大な誤謬はこの事実を見落したところにある、と彼は考える。彼によれば、知識のこのような本質、蓋然的な程度の領域を脱し切れない曖昧さは、知識の人間的側面を構成する「信念」の曖昧さに基因するのであり、それは「アミーバーからホモ・サピエンスに至る」すべての動物の間の「精神的発達の連続性」による曖昧さにほかならない。彼にとって、信念は「知性以前でありえ、動物の行動において発揮されうる或物」として、肉体的要因と精神的要因の区別なしに考えることのできる「有機体の1つの状態」なのである*16。従って,ラッセルにおいては、絶体的な客観性は成立しえない。しかし、絶対的でないということは、逆になんらかの絶対的なものが予想されるところにおいてしか成立しえないであろう。それが「事実」にほかならない。彼によれば、事実とはなによりもまず、「世界の中にあるすべてのこと」であり、いわばむき出しの裸のままのものとして人間の外側にあるものであって、「直示的に ostensively」しか定義されえないものである。それは「誰かがそれが存在すると考えようと、考えまいと、存在する或物」であり、常識的にみても、大抵の事実はわれわれの意志からも生存からも独立している。ラッセルにとって、われわれの認識活動全体が、生物学的にみれば、このような事実に対するすべての生物の適応過程の一段階にほかならない。従って、単なる動物的行動と知識との間に精密な区別を立てることは不可能なのである*17このようなものとしての「事実」は絶対的に客観的なものという以外になく、従って、われわれにとって客観性とは、このような事実と信念との対応関係において成立する真理性にほかならないのであり、「客観的に生きる」とは、この対応において、真実に生きることにほかならない、と理解することができるであろう。「客観性の基準」がラッセルの認識論と実践論の内的支点とみられる理由がここにあるのであり、そしてこの規準こそ「事実」にほかならないといえるであろう。
 

2.力への信仰に抗して

 このように、ラッセルの求める非人間的真理を保証するものが「誰かがそれが存在すると考えようと、考えまいと、存在する或物」としての「事実」であり、ここに客観性の基準が置かれるならば、主観を一切の中心に据え、一切の客観をその上に構成しようとしたカントは、その限りにおいて徹底的に排撃される。カント認識論の結論は、端的にいえば、「もし諸君がいつも青い眼鏡をかけていれば、諸君はすべてのものが青く見えることを確信できるだろう*18」ということになる、とラッセルは批判する。しかし、世界は人間の認識とは無関係に存続しているのであり、科学的常識からみれば、知られているのは「宇宙の極微の部分にすぎない」のであって、「宇宙的にも、因果的にも、知識は宇宙の取るに足らない造作の1つである。」従って、世界の記述を人間の知識の本性から限定しようとするのは誤りであり、「世界を記述するのに、主観性は1つの悪徳である。」人間を宇宙の中心に引き戻したという意味においての限り、カントはむしろ「プトレマイオス的反革命」について語るべきであった*19。また、つぎのようにも書いている。「私はカントのように、星の輝く天空と同じ平面に道徳法則を置くことはできない。アイデアリズムと称する哲学の基礎にある、宇宙を人間化しようとする企図は、その真偽の問題とは全く別に、私にとって不快である*20」このようなカント批判そのものの当否は別として、上述のように、彼にとって、人間を超えた或物への要求はほとんど全身的な、エモーショナルなものであったのである。ところで、もしもカントの本質を人間中心主義においてみるならば、それはカントもそこから生れ出て来たところの近代思想そのものの全般的な性格であるといわねばならないのではあるまいか。つまり、カントに対するラッセルの批判は、実は近代思想そのものに対する批判を含んでいるのであって、自体的には近代思想そのものを乗り越えてゆこうとするラッセルの方向を、われわれはそこに見出すことができるであろう。しかし、ラッセル自身は必ずしも自覚的に自己をそのように位置づけてはいない。「知は力なり」として無限に自然を征服してゆこうとするべーコンも、彼にとっては近代科学の根本問題・帰納法の追究者として、全く理論的・方法論的興味からのみ受け取られ、「知は力なり」という命題の含む思想的意味は特別に追究されなかった。*21しかし、「知識は宇宙の取るに足らない造作の1つ」とする彼の立場からすれば、ベーコンの命題は決して看過できないものであったはずである。しかも方法論思想は決して別のものではない。帰納法における仮説の重要さがそれほど強調されていない点、科学における演繹の重要さに気付いていない点など、ベーコンの方法論に対する彼の批判は*20(既出)、自体的にみれば、彼が批判してやまない主観主義とも結びつく問題であって、近代思想そのものの批判につながるものであったにもかかわらず、この点を充分解明せずに残しているところに、われわれはラッセル自身の限界を認めざるをえないであろう。ラッセルの主観主義批判は、デカルトに始まる近代哲学一般について行われているが、とくにカント以後は、人間中心主義という意味が含まれ、その批判はデューイに至って頂点に達する。ラッセルによれば、彼が批判するこのような傾向は、とくに産業革命において発揮された機械力を経験することによって、人間が「力への新しい信仰」をもつようになったところに決定的な動因をもっている。この力は、第1自然に対する人間の力であり、第2人間に対する支配者達の力である。その結果、すべてが可変的となり、自然も人間も原料となる。このようにして現代においては、人間の力の限界に対する信仰を表わすような神や真理という古い概念は消え去ろうとしている。人間を結びつける新しい倫理を打ち出すためには、人間以外の環境に対する人間の力の必然的な制限と、人間相互に対する人間の力の望ましい制限とを承認することが不可欠であろう。自然と人間とに対するほとんど無制限の力への信仰に対処できる哲学を形作ることこそ、現代のもっともさし迫った課題なのである*22。このような観点から、ラッセルはファシズムやマルキシズムやプラグマティズムを批判する。これらの中に、彼はある重大な危険、「宇宙的不敬 cosmic impiety」とも呼びうる「力への陶酔」「ある狂気」を感じるのである*23
 彼によれば、この狂気、力への陶酔は、フィヒテと共に哲学に侵入して、国家主義的全体主義の哲学を築き上げた。しかし、一見これと全く対立的とみられるマルキシズムもプラグマティズムも、それぞれの認識が究極的に人間の「力」を基礎に置いている点において軌を一にしている。まず、いわゆる唯物史観は真理の非常に重要な諸要素を含んではいるが、「文化の大よその輪郭」について適用できるにすぎない、と彼は考える。しかも、マルクスの論点が大きく真であるのは、極めて通常の意味での哲学、つまり「理性外的諸決断 extra-rational decisions の有機的総体」としての哲学、に関してなのである。ラッセルによれば、慣例的に哲学と呼ばれているものは極めて異った2要素から成っており、1つは一般的な一致が可能な科学的または論理的な問題であり、他はいかなる確実な証拠も不可能な情熱的関心の問題として、純粋な理性が沈黙していても懐疑的な傍観的態度を保ちえないような問題である。*24哲学のこのような第2の要素に関してこそ、マルクスの論点は大きく真となるのである。しかし、この「理性外的」な要素を科学的真理として主張するとき、マルキシズムは直ちに不寛容の害悪に陥る。このような観点から、ラッセルは、マルキシズムを既成諸宗教と同列にみる。「世界のすべての大宗教――仏教、ヒンズー教、キリスト教、イスラム教、そして共産主義は、真でもなく、有害でもある、」と彼は考え、共産主義の教条的不寛容が齎す(もたらす)害悪を、中世の宗教裁判と同性格のものと断じるのである。「キリスト教共産主義とを互いに両立不可能にしているのは、両者の間の類似点にほかならない。*25」この類似点の源泉を、彼はアウグスチヌスとマルクスの教説をつぎのような形で対比することによって描き出している。

 ヤハウェ = 弁証法的唯物論
 メシア  = マルクス
 選民   = プロレタリアート
 教会   = 共産党
 再臨   = 革命
 地獄   = 資本家達の処罰
 千年期  = 共産主義社会

 彼によれば、この対応関係は「マルクスを心理的に理解するために」必要なのであり、上側は下側のエモーショナルな内容を示しており、このキリスト教ないしユダヤ教的な内容こそマルクスの終末論を支えているのである。そして彼は、さらにナチスについても似たような対応関係が成立するであろうが、ただこの場合は、マルクスの場合よりももっと純粋に旧約的であり、そのメシアはキリストよりもマカベ族に類比できるという。*26 要するにラッセルは、宗教と同様にマルキシズムやファシズムにも潜んでいるファナチシズム(狂信主義)を批判するのであり、さらに理論的にいえば、このファナチシズムを担っている主観主義を批判するのである。そしてこの主観主義は、マルキシズムの場合、人間中心主義という形で現われる。つぎのマルクス批判はこの点を端的に衝いている。「純粋に哲学者として考えれば、マルクスは重大な欠点をもっている。彼はあまりにも実践的であり、その時代の諸問題にあまりにも凝っている。彼の視界は地球というこの惑星に限られている。しかもこの惑星の内でも人間というものに限られている。コペルニクス以来明白であるように、人間というものは、以前に借称していたような宇宙的重要性をもっていない。この事実を会得しえなかった者は、誰もみずからの哲学を科学的と呼ぶ権利をもたないのである。……マルクスは無神論者と自称したが、しかし有神論者のみが正当化しうるような字宙的楽天主義を保持していた*27
 人間を超えて存在する「事実」を一切の基準とするラッセルからのこの批判は、プラグマティズムにもそのまま当てはまる。「神を仮定することが、もっとも広い意味において満足的に働くならば、それは真である」というジェームズに対して、これは神の実在の問題を切り捨て、神への信仰がこの矮小な惑星に住む被造物に及ぼす効果だけを問題にしているとラッセルは批判し、ジェームズの誤謬は帰するところ「一切の人間外的な諸事実 all extra-human facts を無視しようとする試み」から発生するのであり、これは大部分の近代哲学の特徴であるところの「主観主義的狂気の一形態」にほかならないと断じる。*28 ニーチェのような力の崇拝はないにしても、極端に個人主義的なこの真理論は「本来的に力への訴えと結びつく」といわざるをえない、と彼は考えるのである。*29デューイもその例外ではない。デューイが真理を探求 inquiry で置き代えようとするところで、ラッセルは決定的に快を分つ。真理は人間を超えてどこまでも厳然として真理なのであり、デューイの理論の難点は、ある信念とその信念を検証する事実との関係を切断してしまうところにある。デューイの世界は人間しか想像されていない世界であり、彼の哲学はニーチェのように個人の力の哲学ではないが、やはり1つの力、社会の力、の哲学であって、この力こそ産業革命以来の自然力に対する制御の担い手であり、また、これが彼の道具主義の魅力を支えているものにほかならない、とラッセルはみるのである。*30 そしてこの点で、社会的実践・変革を認識の中核とすることによって、理論と実践の止揚を目指すマルクスも、実は道具主義に近いとみられている。*24(既出)しかし、この惑星の彼方のより大きな世界を憧れ、人間の全能を倣慢と感じ、ナポレオンの支配よりもストアの自由を望む者にとっては、「一言でいえば、人間を崇拝するにふさわしい対象とは認めない者にとっては、プラグマティストの世界は狭く、ちっぽけに見えるであろう。というのは、それは人生に価値を与える一切を人生から奪い取るからであり、また人間が瞑想する宇宙からその一切の輝きを剥ぎ取ることによって人間自身を卑小化するからである。*31
 以上のように、「ある狂気」「力への陶酔」を批判することによって、ラッセルは人間を超え、人間を包んでいる「宇宙」に到達する。人間が自己を中心として自己の内に閉じこもることなく、自己の外の人や物に対して心からの関心を抱くとき、自己と自己以外の世界との対立は消滅し、人間に自己を「生命の流れの一部」と感じるようになるであろう。生命を包みこんだこのような宇宙を感得するとき、人間は自己がまさにそれによってのみ自己でありうることを悟り、従って同時に他の自己もそれによってまさに他の自己として成立していることを認め、自と他との本質的な連帯を自覚することができる。「罪の意識で悩んでいる人は、一種特殊な自己愛で悩んでいる」のであり、「すべての不幸は、なんらかの不統合、または統合の欠如、に基づいている」と彼は断言しつつ、その『幸福論』をつぎのように結んでいる。
幸福な人間とは……このような統一の失敗によって悩まされていない人のことである。その人格がそれ自身に対して分裂してもいず、世界に対して敵対してもいない人のことである。そのような人は自分を宇宙の市民 a citizen of the universe と感じ、宇宙が呈する眺めと宇宙が供する喜びとを自由に楽しみ、死の想いによって心を悩ますこともない。なぜなら、彼は彼自身を彼の後から来る者達と本当に分れているとは感じないからである。最大の喜びが見出されうるのは、生命の流れとのこのような深い本能的な統一においてなのである。」
 認識論において客観性の基準とされた「事実」には、いまや実践論において「宇宙」が対応する。「客観的に生きる」こととは、いまや「宇宙の市民として生きる」ことであるといってよいであろう。
楽観主義も悲観主義も、宇宙哲学としては同じような素朴なヒューマニズムを示している。われわれが自然哲学から知るかぎり、大なる世界は良くもなければ悪くもなく、われわれを幸福にすることにも不幸にすることにも関知しない。すべてそのような哲学は自負心から生じるのであり、これをもっとも良く矯正するには多少の天文学をもってさえすればよい。*32
 この「大なる世界」においてラッセルの認識論も実践論も成立する。理論的にみれば、それは「事実」として人間の外にあるであろう。しかし実践的にみれば、「宇宙」として人間を包んでいる。
 

3.市民精神

 理論的には非人間的真理の上に立って、人間の力を過言する一切の人間中心主義を非斥するラッセルは、しかし同時に、実践的には、人間の人格的自由を追求するヒューマニストであった。彼が力への信仰と終生戦ったのは、認識論的な論争であったと同時に、実は実践論的な自由のための戦いにほかならなかった。ここにわれわれは、「非人間的真理を求めるヒューマニスト」としての緊張に生きる彼の姿を認めざるをえないであろう。彼にとって自由とは、宇宙の中心に置かれた人間の自由ではなくして、なんら形而上的意味をもたぬ日常生活における人間相互の自由にほかならないのである。「自由主義の信条は、実際問題としては、生き――生かせる live-and-let-live という信条であり、公共秩序が許すかぎりでの寛容と自由の信条であり、政治綱領における中庸と狂信不在の信条である。真正の自由主義者は「これは真である」とはいわないで、「現在の状勢ではこの意見が恐らく最善であると考えたく思う」というのであり、このような意見の主張の仕方を、ラッセルは「経験的、試行的、非独断的」なものとしての科学における意見の主張の仕方と同一であるとして、神学における独断的な主張の仕方に対置する。かくて彼はロック以来の伝統に従いつつ、「経験論的自由主義こそ、一方において自分の信念に対してなんらかの科学的証拠を要求すると共に、他方においてあれこれの党派や信条の優勢よりも人間の幸福を願望する者にとって採られうる唯一の哲学である」と考える。このような態度なしには、この政治的に分裂し、しかも技術的に一様化した惑星はほとんど継続しえないであろうとみるからである。*33従って、このような実践論を基礎づけている彼の認識論の地平も、既述のように、われわれの日常生活を担っている常識や科学的知識の基礎づけという形において、この「非論証的・蓋然的」な日常生活を肯定し、この日常生活を基礎づけるところに開かれたのである。このような認識論と実践論に担われた彼の哲学は、どこまでも日常生活の哲学、常識の哲学であって、なんらテクニカルなものでないことを、彼みずから標榜する。A. ウッドの表現を借りるならば、彼の哲学は「本質的に副産物」なのであり、「目的それ自体」ではなかった。*34ウッドも指摘するように、彼はつぎのように書いている。「なんらかの価値をもちうる哲学は、特に哲学的ではないような知識の広く固い基礎の上に築かれるべきである。そのような知識は、哲学の樹がその活力をそこから吸い上げるところの土壌である。この土壌から栄養をを吸い取らない哲学はやがて萎れ、成長を止めるであろう。*35 ラッセルにとって、哲学は広く日常生活を支えている知識、とくに経験科学の上に築かれ、広く日常生活の中に根を下すべきものであって、デカルト、ライプニッツ、ロック、バークレー、ヒュームがそうしたように、広く日常生活の中に生きている。パブリック・一般市民に語りかけるべきものであり、少数のプロフェッショナルにしか理解されえないならば、その価値の多くを失ってしまうのである。*36ここに、われわれはラッセル哲学の市民精神を認めることができるであろう。つねに彼の哲学は日常的な1人の市民の立場から語りかけてくるのであり、彼の実践論が「宇宙の市民」に帰着したのは、彼の哲学のこの基盤・市民精神の昇華にほかならないのであり、またこの昇華が彼の市民的実践論をつねに内面から支えていたのであろう。
 この基盤に着目するとき、われわれはラッセルの哲学が、彼の批判してやまないカントをはじめ、ジェームズやデューイとも本質的な共通性格をもっていることに気づかざるをえない。たとえば、A.ウッドは、哲学者としてのラッセルの経歴を大ざっぱにまとめれば、「カントからカントヘ」ということができようとし、その根拠として1897年の『幾何学基礎論』と1948年の『人間の知識』とをあげている。*37これに対してラッセルが答えるように、彼の「対応論」がカントの構成論の主観主義を脱していることは認めねばならないであろうし、また確かに、『人間の知識』における「論証不能な、論理外的な」諸要請が、なんら悟性の原理に基づく先天的確実性をもたぬ「科学的仮説」として出されたものであり、日常に生きる1市民ラッセルとしては、これらの要請が「真である」と主張するのではなくて、まさに「経験的、試行的、非独断的」に、「現在の状勢(科学的水準)ではこの意見が恐らく最善であると考えたく思う」というのであろう。しかし、それにもかかわらずわれわれは、ラッド(ウッドの誤植と思われる)と共に、ラッセルの中にはカントに通じる或物を感じざるをえない。確かにカントの先天主義・絶対主義はラッセルにはない。しかし、カントのそれはどこまでもヌーメノン(松下注:noumenon 物自体)とフェノメノン(松下注:phenomenon  現象界)の分離という枠内において成立している。この分離が理論的にいかに不斉合であるとしても、実際上、それはカントの認識論と実践論に1つの根本的な制限を課しており、この制限の冷静な確認において、彼の市民的合理的精神が支えられているといえるであろう。ごのことは、ラッセルが「事実」を人間の外に置くことによって、人間に根本的な制限を課し、その冷静な確認において、彼の市民的合理的精神を支えているのと、実際上、軌を一にしているであろう。ラッセルはカントの理論的な一面――たしかにもっとも根本的な一面に違いないが――のみをみて、単に理論的に批判しているにすぎない。ヌーメノンとフェノメノンの「割れ目」の深淵に臨むカントは、実際上、ラッセルと同様に、「ファナティスムス」を斥け、人間の認識の有限性と「不断の努力」によるその克服とを強調してやまないのであり、また、一般市民・ブープリクウムに語りかける自由、「理性の公的使用の自由」を啓蒙の唯一の必要条件と考えていたのである。さらに、カントの精神を現代の状況の只中において貫こうとしたM.ウェーバーは、「神々の争い」を正面から引き受けつつ、なおそこに科学的客観性の足場を確保しようと試みたが、ラッセルも同様に、現代を「イデオロギーと呼ばれる宗教」の「宗教戦争の時代」*38であることを確認しつつ、なおそこに「経験的、試行的、非独断的」な科学的合理性の地平を保持しようと努めた。彼の倫理学的立場が基本的に情緒主義にあることも、この地平と本質的に結びついているのであろう。個人の自由を尊重することは、個人相互の間の相対性を確認することなしには不可能である。価値の問題を主観的・相対的な情緒の問題とみることによって、その絶対的・独断的主張を拒否し、みずからの主観的なものをみずからの手で突き離す強靱な精神のみがファナチシズムを斥け、「生き――生かせるという信条」を実践して、「客観的に生きる」ことができるのであろう。同様に、プラグマティズムに対してもラッセルはある深い共通性格を潜ませている。すでにみたように、彼のプラグマティズム批判はその真理論に集中しており、人間の内なる「信念」に対して、人間の外なる「事実」を認めるかどうかにその決定的な争点があった。人間の外なる「事実」は彼にとってロック以来の伝統であったが、この内と外、主観と客観の分離の解消を目指したジェームズの根本的経験論は、「事実」について改めて考え直す機縁をラッセルに与えたはずであって、彼自身この点についてジェームズを高く評価するのであり*39、知覚表象――内――から物理的対象――外――への推理を正当化する彼の対応論は、この反省を通して基礎づけられたとみられる。*40デューイに対してラッセルは極めて近親感を抱いており、多くの意見に関して「ほとんど完全な一致にある」と告白することをためらわない。*41従来の認識論の重大な誤謬を知識が「程度の問題」であることを見損っていた点にあると指摘し、われわれの認識活動全体を「事実」に対するすべての生物の適応過程の1段階にほかならないとみる彼の知識論は、結局のところ、彼自身が認めているように、色々な、問題や制限があるにしても、少くとも一般的な法則に関しては進化論的なプラグマティスト理論と結びついているのである。*42従って、プラグマティズムの人間中心主義を烈しく批判するにもかかわらず、反面において、彼にとっても「非人格的・非人間的真理は妄想であるように思われ、」ここに彼のヒューマニズムが成立するのであった。しかも、このヒューマニズムが「宇宙」に帰着したように、ジェームズもデューイも宇宙ないし大自然に帰着する。*43ジェームズ自身としては、「非人間的」ではないにしても「超人間的 superhuman」なものの存在を肯定し、人間を宇宙の主人公にしようとはしない。全宇宙に対する人間の関係は、人間と共に住んでいる犬や猫が人間生活の全体に対している関係と同じなのである。*44デューイが自然に対する人間の積極的な働きかけをどんなに強調するにしても、しかし人間自身がその自然の一部なのであり、その働きかけ自体が自然の運行にほかならない。「もし、宇宙がわれわれからではなく、われわれが宇宙から生れ出たと信じるならば、どうして宇宙に挑戦し、空に向って拳を振るべきであろうか」と、高名な判事、O.W.ホームズの言葉をかりている。*45進化論は、着実に地歩を築いていった19世紀中葉の市民階級の合理的世俗的な現実感覚の中に深く根を下し、同時に、「自然における人間の位置」(T.ハックスレー)について新たな考察を呼び起したが、プラグマティズムもラッセルも、まさにこのような精神的雰囲気の中で生れ、それぞれの方向に育てられていったのであった。
 以上のように、ラッセルの哲学は、伝統的な市民精神の上に立つ諸哲学と根本性格を一にするものであり、それ自身典型的な1つの市民精神の哲学にほかならない。いまもし、これにブルジョア哲学というレッテルを貼り代えるならば、たちまちにしてヒューム、カントからプラグマティズムに至るまでの一連の系譜の中に組み入れられて、マルキシズムの図式の中で葬り去られるであろう。たとえば、コーンフォースは、ラッセルが「個人的認識と社会的認識」とを区別しながらも、結局は、いかにして「私的な」感覚所与から「公共的な」物質的世界に到達するかという形に問題を変形してしまうことによって、ヒュームのアポリアに陥っていることを指摘する。「ところが、実際には、認識というものは、……つねに社会的なものであり、その根底を人間の社会的活動のうちにもっているのである。」これがコーンフォースの立場であり、ヒューム、カント、マッハの系譜の中にラッセルは完全に埋葬されている。*46たしかに市民精神には「私的な」個人の自由と独立を中核とするアトミズムがあり、現代においてその克服が最大の課題であることは疑いがない。認識論に関していえば、認識の根底が「人間の社会的活動のうちに」あるという命題は、この課題を果すための基本的指標として動かないであろう。しかし、この命題は必ずしもマルキシズムが独占するものではない。なるほど、たとえば独我論はマルキストが批判するように、ラッセルにとって、単に瞬間的な意味においてではあるが、否定することのできない帰結である。確かに、ここには近代哲学のアトミズムが依然として潜んでいるであろう。しかし、理論と実践とを区別して、単なる理論的懐疑の中にとどまることに、彼はすでに「不誠実」を感じ取っていたように、彼にとって独我論を克服する唯一の途も「誠実」にある。*47ところで、「誠実」は1つの道徳的態度として、すでに認識論を超えた実践論の領域に属するであろう。それはマルキストの意味する「人間の社会的活動」とは同一ではないかも知れない。しかしそれも1つの「社会的活動」として成立するといわねばならない。それは、マルクスを批判するときの既述のラッセル自身の表現をかりるならば、いかなる確実な証拠も不可能な情熱的関心の問題、懐疑的な傍観的態度を保ちえないような問題として、「理性外的諸決断の有機的総体」において成立するものにほかならないであろう。そもそも、知識を「程度の問題」とする彼の認識論全体が、ヒューム以来のアポリアを「誠実」によって打開しようとするものにほかならないといえるであろう。そして、このように懐疑的傍観的態度を保ちえない問題に関わるとき、そこには単なるアトミズムを突破する方向がなんらか示されているのではなかろうか。この意味において、認識の根底が人間の社会的活動のうちにあることを、自体的にはラッセル自身も強調してやまないのである。問題は、「人間の社会的活動」をどのように把えるかにかかっている。そして、これがわれわれに残された課題である。ただ明らかなことは、およそ問題の中に「人間」が入ってくるとき、その問題の解決はもはや決して一義的ではありえないであろうということである。ラッセルは明確にこの1点を洞見していた。彼の70年にわたる哲学的営為を支えていた精神的緊張、プラトニズムとヒューマニズムの緊張関係も、実はこの1点から生じていたのであり、従って、彼の認識論も実践論もこの1点をめぐって展開されたとみることができるであろう。けだし、「客観的に生きる」ための第1の要件は、まずなによりも、決して一義的ではありえない、人間のありのままの姿を受け入れることにほかならないであろう。彼の強靱な市民精神に支えられた「生き――生かせるという信条」がここにあるのを、われわれは認めることができるであろう。しかし、この強靱な市民精神は、もはや単なる「この惑星」上の市民のものではなくして、「宇宙の市民」のものであった。



(1)本論文は『理想』n.448(1970年9月号)に掲載された拙稿「ラッセルの認識論」の後を承けるものである。前論文は彼の認識論の構造そのものを明らかにしようと努めたが、本論文は、彼の認識論が現代の精神的状況に対しても意味を明らかにしたいと願った。従って、認識論の構造そのものに触れた部分、とくに第1章は前論文と重複する箇所が多い。
(2)The Conquest of Happiness (1930), p. 243.
(3)My Philosophical Development (1959). p. 11.
(4)The Philosophy of B. Russell (1944). p. 19.
(5)My Philosophical Development, p. 131, 161.
(6)The Philosophy of B. Russell. p.20.
(7)Unpopular Essays (1950). p. 42.
(8)History of Western Philoeophy(1945). Unwin University Books, p. 634.
(9)Ibid., p. 645
(10)Ibid., p. 646
(11)Human Knowledge: its scope and limits (1948). p. 9.
(12)My Philosophical Development, p. 191 / Human Knowledge, pp. 435-436
 かくてラッセルは、科学的推理を基礎づける根本要請として、次の5つを定立する。
(i)the postu]ate of quasi-permanence
(ii)the postulate of separable causal lines
(iii)the postulate of spatio-temporal continuity in causal lines
(iv)the structural postulate
(v)the postulate of analogy (Human Knowledge, p. 506)
これらの要請の説明は、注1の拙論を参照されたい。
(13)Ibid.,p.165.
(14)My Philosophical Development. p. 188.
(15)Human Knowledge, p.174, 444.
(16)Ibid., pp. 160-161
(17)Ibid., pp. 159-160.
(18)History of Western Philosophy, p. 680.
(19)Human Knowledge, p. 9.
(20)My Philosophical Development. p. 131.
(21)History of Western Philosophy, chapter 7.
(22)Ibid., chapter 21.
(23)Ibid., p. 782
(24)Ibid., chapter 27.
(25)Can Religion Cure Our Troubles? (1954)
(26)History of Western Philosophy, p. 361.
(27)lbid., pp. 753-754.
(28)Ibid., pp. 772-773.
(29)Philosophical Essays (1910), revised ed. (1966), p.109.
 さらにpp.109-111 を The Impact of Science on Society(1952)において、なおそのまま引用している。
(30)History of Western Phiiosophy, chapter 30.
(31)Philosophical Essays, p.110-111./ The Impact of Science on Society, pp. 103-104
(32)What I Believe (1925)
(33)Unpopular Essays. pp. 27-34.
(34)My Philosophical Deve]opment, p. 263.
(35)Ibid., p. 230.
(36)Human Knowledge, p. 5.
(37)My Philosophical Development, p.262.
 なお同ページにおいてラッセルは、この批評を承認しがたいとして、2点をあげている。第1に、彼の場合、外的世界と知覚の世界とは相関関係によって結びついているが〔対応論〕、時空を主観的とみるカントにおいて、このことは不可能である、第2に、彼のいわゆる非演繹的推理の諸原理〔5つの要請〕は、確実でもなく、先天的でもなく、科学的仮説であるにすぎない。
(38)Unpopular Essays. p. 29.
(39)History of Western Philosophy. p. 767.
(40)Human Knowledge, pp. 220-225.
(41)History of Western Phiiosophy, p. 774
(42)Human Knowledge, p. 450.
(43)彼等の真理論とこの帰着との理論的斉合性をラッセルは否認するわけであるが、いま問題なのは、彼等とラッセルの精神を背後から支えている共通の母体である。
(44)James: Pragmatism (1907), VIII
(45)Dewey : Experience and Nature, 2nd ed. (1929). p. 418
(46)Cornforth: In Defence of Philosophy (1950),
 花田訳『哲学の擁護』(岩波欝店)、pp.19-23。さらにこの見解を全哲学史を通して拡大しながら論じたものとして、筆者の限られた視界にさえ入って来たものに、たとえば Howard Selsam: Philosophy in Revolution(1957):高桑、中野共訳『哲学の変貌』(紀伊圏屋書店)がある。
(47)Human Know]edge, p.515