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バートランド・ラッセル『怠惰への讃歌』訳者 (堀秀彦・柿村峻) 解説

* 出典:バートランド・ラッセル(著),堀秀彦・柿村峻(共訳)『怠惰への讃歌』(角川書店,1958年刊。210pp. 角川文庫 n.1720)
* 原著:In Praise of Idleness, and Other Essays, 1935.
* (故)堀秀彦氏略歴<

訳者解説-ラッセルの魅力-

 ラッセルの著書の魅力について書こう。著書といっても、私には全然歯が立たない著書がある。彼の代表作の一つといわれている数理哲学のもの(Introduction to Mathematical Philosophy, 1919: 岩波文庫版『数理哲学序説』)だ。私は読みかけたが、判らなかった。むろん、私に数学の才能がなかったからだ。数学の才能が少しもないのにもかかわらず、かつて大学で哲学科に入ったことを、私は当時ずいぶん悲しく思った。数学はなんと言っても一番正確な考え方も(を?)教えるものだ。それなのに、私は数学が苦手だった。私は大学時代あれでも2冊や3冊は、数理哲学のものを読んだろう。だが到頭なに一つ判らなかった。とにかく、そういう意味で、私にとって一歩も近づけない世界がラッセルのなかにはあるのだ。私はこれだけのあきらめをもって、ラッセルの幾つかの評論集や著書を読んだ。いまでもむろん、昔読んだものを何かのはずみに引きずり出して読む。そして読むたびに文字通りおもしろいと思う。痛快だと思う。だが、本当に考えてみると、ラッセルの頭の中にある数学的なものをほとんど理解しないでラッセルの本が面白いとか痛快だとか言うのは、ヒイキのヒキ倒しかも知れない。私にはラッセルの本当の素晴らしさは判っていないのだろうと、ときどき思う。
 数学は抜きにして、なにが私を引きつけるのか
 第一に、その正確な文章だ。いや正確な文章によって、1つ1つ積み上げられる論理の歩みだ。また言葉のひとつひとつについての正確な規定だ。私は何よりもラッセルによって正確さということを教えられた。正確さ(accuracy)という言葉は、彼の本の中によく出てくる。あいまいなもの、いい加減な言い方、それを彼は断乎としてしりぞける。例えば、『精神の分析』(The Analysis of Mind, 1921)のなかの「真と偽」という章の中で、知識の正確さを書いたところがある。2に2をたすと4になるという命題をある子供が知っているとする。ところで、その子供はそれ以外のことを知らない。2を3倍したら、と聞けば、やはり4と答える。これでは、その子供が2プラス2イコール4ということの本当の意味を知っていないわけだ。別の子供に2プラス2を聞く。彼は4と答える。ところが毎朝、この問いを聞いた場合、彼は日によっては3と答え、あるいは5と答える。これではどっち途、算数を知っているとは言えない。例えばこういう言い方をラッセルはしている。何でもない当り前の説明の仕方だと言えば言える。けれども、この比楡もよくかみしめて味わう――例えば、われわれの日常生活の考え方にあてはめてみると、それはたいへん鋭い意味をもってくる。1つのものをいろんな角度から、いろんな仮定的な場合について考えるというやり方を、私は一番強くラッセルによって教え込まれた。もちろん、いろんなものをいろんな角度から考えるとき、私たちはしばしば懐疑論的な気持になり易い。だが懐疑を少しもくぐり抜けなかったような知識がどこにあるか。
 私はこの間偶然にもNHKテレビの海外放送版で、ラッセルの演説している横顔をながめることができた。鋭くとがった鼻、ゆたかな白髪、げっそりと肉の落ちた厳しい顔つき――私は見ながらこれこそながい間の懐疑の風雪によって鍛え上げられた見事な哲人のプロフィル(横顔)だと思った。私はラッセルによって懐疑の仕方を教えられた。
 それにしてもさっきあげた、2プラス2のたとえは、まことに判り易くしかも意表をついた比喩だ。ラッセルの本の面白さは、第2に、そのたくみな引例である。たくみで平易な引例による理論は、しばしば問題を根本的なところからときほぐしてくれるようだ。その意味で、――この『怠惰への讃歌』にも随所に表われているように――私たちは彼の著述のなかで、思わずハッとさせられることがある。「幸福と繁栄にいたる道は、仕事を組織的にへらして行くに在る」という場合、それは一見はなはだしい逆説のように聞こえる。だが、スナオにそして正直に、われわれも自身を反省してみよう。われわれは労働よりも休息が好きなのだ。あんまり働かないで幸福にくらせる、これがわれわれの正直な願いだと思う。つまりラッセルは、はっきりと当り前のことを正直に言う。一定の先入見や偏見なしに読めば、誰もが文句なしに承認せざるを得ないことを、平易な例をひきながら言う。私はそういう点に最も強く引かれる。考えてみれば、私が東大で哲学科にいたころ、学者たちは全部ドイツ観念論派であった。それは文字通り、息抜き一つない概念のくそまじめな羅列であった。私にはそれがたまらなかった。そしてそれだからこそ、ラッセル式の、英米の哲学書に接したとき、私はこれが本当の哲学のような気がしたのだ。それはいわゆる深奥ではなかった。それは日常的な表現で、正確に問題を提起し、解決を与えるものであった。
 第3に、ラッセルの本にはふんだんに歴史的な事実やエピソードの引用が出てくる。そういう彼の面を最も強く表わしたものが『権力』(Power, 1938: 邦訳書は、みすず書房刊)であろう。彼は歴史に通じている。本当にそんなことがあったのかな、と思いながら、私は興味深く読まされてしまう。それにしても、『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945: 邦訳書は、みすず書房刊。全3巻)ほど面白い、ふくらみと厚みのある哲学史が他にあろうか。要するに、ラッセルの著書は生き生きしている。しかも正確な論理と、徹底した合理主義に貫かれている。彼は神を信じない。無宗教である。しかも科学がいま人類を脅かしていることを叫ぶ点で、彼は世界の先頭に立っている。彼は科学万能主義者ではない。彼は右でも左でもない。彼が最も憎んでいるものは、狂信主義と残酷のように見える。彼はどこまでも理性の人のようだ。純粋の理性の人のみをもし「哲人」と呼び得るとすれば、20世紀の最高の「哲人」がラッセルだと思う。

 この翻訳は、柿村氏の手になるものだ。この本は時間的にはもうかなり前のものだ。ところどころにその意味で、古い歴史的事情が引き合いに出されている。けれども、一貫して流れている批判の眼、先見の鋭さ、それは古いどころか、いまもなお真新しい。1人でも多く読んでほしいと思う。怠惰をたたえるのは、英国の場合、なにもラッセル(1人)には限らない。19、20世紀のイギリス人のエッセイを読むと、こういうテーマはいくつも出てくる。例えば「なんにもしないことについて」(On doing nothing)といった題で。だが、それらの「無為」をたたえる東洋風なエッセイとラッセルのそれとの違いはやはり、ラッセルの書き方、考え力の論理的性格にあるように思われる。そういう点で、ラッセルの持ち味は、まったく独自のものなのだろう。
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