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『ラッセル自伝』12-10(松下彰良・訳)

次ページ 前ページ  第1巻 第2章(青年期)累積版  総目次
* 「マザーグース(ウィキペディア)」
* 「Mother Goose の曲が聞けるサイト  
* 大好き!マザーグース
* 鷲津名都江(Washizu, Natsue,1948年1月生):童謡歌手(4歳の時'小鳩くるみ'としてデビュー)→タレント→現在,目白大学教授(人間社会学部)。NHKの『おかあさんといっしょ』の歌のお姉さんとして活躍。その後目白学園短期大学(現・目白大学短期大学部)講師(英文科)としてイギリス古来の童謡・マザーグースについて研究,1986年〜1990年にはイギリスに研究留学。2004年12月〜05年1月放送の『NHK人間講座』(右写真参照)では毎週月曜日にマザーグースの研究成果を紹介する講義『ようこそ!マザーグースの世界へ』を担当。


 以前こっそりと性に没頭していたにもかかわらず,このような野蛮な形で性にふれたことにより,私は,強いショックを受けた。私の物の見方は非常に清教徒主義的になり,深い愛のないセックスは不潔である,と心に決めた。私は,自分の殻に閉じこもり,できるだけ他人と関係を持たないようにした。しかし彼らの方は,私をからかうのにちょうどいいと考えた。彼らは,よく私をテーブルの上の椅子に坐らせて,私が知っている唯一の歌を歌った。それは次の歌であった。(松下注:以下は,マザーグース−−正確にいうと,「幼児のための押韻詩」−−の一つであると思われるが,いろいろなバージョンがある。たとえば,Old Abraham は,Old Abraham Brown など,Abraham Brown のところがいろいろである。'歌のおねえさん,小鳩くるみの芸名で有名な鷲津名都江氏編著の,NHK人間講座テキスト『ようこそマザー・グースの世界へ』には次のように書かれている。「マザーグースという言葉は,イギリスでは伝承童謡の総称とは認識されていない(p.16)。・・・。イギリスでのマザーグースの呼称は,「ナーサリー・ライム Nursery Rhymes」であることは,第1回目にお話しましたね(p.22)。・・・。今や,作者が誰だったかほとんど忘れられている状況で,このように作者がわかっていても,パロディーが作られたり,多少の言葉の入れ替えが許されたりするようになると,マザーグースの仲間入りをしたと言えるわけです(p.27)。・・・。マザーグースは口伝えで残ってきたものですから,人により,所により,時代により,一つの詩にもバリエーションがいろいろあります(p.84)。・・・。)
老いたアブラハムは死んでしまった
もう決して彼と会うことはない
彼はいつも古い非常に大きな服を着ていた
すべてボタンは前につけられていた
彼はまたもう一着服をもっていた
それは前のとちがっており
ボタンは前についていなくて
ボタンは後ろについていた
 私は間もなく,彼らの注目から逃れる唯一のチャンスは,落ち着いて愛想良くしていることにある,ということに気がついた。一学期後か,二学期後だったか,もう一人いじめられやすそうな少年が新しく入学して来た。彼ら(いじめっこ)にとって,その少年は,いじめやすい上に,都合の良いことに腹をたてた。(←腹をたてるという'長所'があった)。この結果,彼らは,私にかまわなくなった。また次第に,私は彼らの会話に馴れ,ショックを受けなくなった。けれども,依然として,大変不幸なままであった。
 野原をつっきってニュー・サウスゲートに通じる一本のフットパス(歩行者専用の道)があったが,私は,よく一人でそこに行き,日没を眺め,自殺について瞑想した。けれども,もっと数学を知りたかったため,自殺はしなかった。もちろん,家族は,そこで日常的にどのような会話がかわされているかを知れば驚愕したことだろうが,私は数学が上達しつつあったので,概してそのまま滞在していたいと思い,そこがどのような場所か,家族には一言も話さなかった。そのクラマーに来てから一年半たった1889年12月に,スカラシップ(奨学金)の試験を受け,下級スカラシップに合格した。ケンブリッジ大学にあがるまでの10ヶ月間を,私は自宅で暮らし,クラマーが私の教育のために雇ってくれた人から教えを受けた。

 

 

 

 

 

 


In spite of my previous silent preoccupation with sex, contact with it in this brutal form deeply shocked me. I became very Puritanical in my views, and decided that sex without deep love is beastly. I retired into myself, and had as little to do with the others as possible. The others, however, found me suitable for teasing. They used to make me sit on a chair on a table and sing the only song I knew, which was :

の画像
Old Abraham is dead and gone,
We ne'er shall see him more,
He used to wear an old great coat,
All buttoned down before.

He also had another coat,
Which was of a different kind,
Instead of buttoning down before.
It buttoned up behind.
I soon realised that my only chance of escape from their attentions was to remain imperturbably good-humoured. After a term or two, another teasable boy arrived, who had the added merit of losing his temper. This caused them to let me alone. Gradually, also. I got used to their conversation and ceased to be shocked by it. I remained, however, profoundly unhappy.
There was a footpath leading across fields to New Southgate, and I used to go there alone to watch the sunset and contemplate suicide. I did not, however, commit suicide, because I wished to know more of mathematics. My people would, of course, have been horrified if they had known of the sort of conversation that was habitual, but as I was getting on well with mathematics I wished on the whole to stay, and never told them a word as to the sort of place it was. At the end of the year and a half at the crammer's I was examined for scholarships in December 1889, and obtained a minor scholarship. During the ten months that intervened before my going to Cambridge, I lived at home, and coached with the man whom the crammer had hired to teach me.