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[(第3)回ラッセル研究会講演要旨]
由良君美「平和論をめぐるラッセル,ロレンス,ヒューム」
『ラッセル協会会報』n.9(1967年12),pp.2-6.

由良君美(ゆら・きみよし,1929-1990.8.9)は,執筆当時,東大助教授。(四方田犬彦『先生とわたし』の「先生」とは由良君美のこと)
* 講演の録音(カセットテープ)デジタル化したもの
* 柴田多賀治「D. H. ロレンスと B. ラッセル」



 (1967年末現在)95年に余るラッセルの生涯の歩みは長大であり,その歩みのなかで鍛えあげられた彼の思索もまた強靱である。従って,彼の思索のどの局面をとりだして扱うにしても,息の長い彼の歩みの全過程のなかで見究められるべきであり,静止した観念の体系として扱うことや,最近の時論的発言の一結論のみを切り取って云々することは危険であろう。とくに,彼の思索を促した個々の時代背景と知的雰囲気を理解し,個々の状況に対して彼が投げかえした解答を歴史の文脈のなかで判断することが大切であると思われる。そのような理解と判断に資するため,ラッセルの平和思想の出発点となった,第一次大戦における彼の思想的態度をとりあげ,これをめぐって起った論争を,今回の論題にとりあげてみよう。登場人物が多岐にわたるため,この論争にかんしては,これまで十分な検討がなされていないが,ラッセルの生涯の軌跡がようやく現代史の射程内に入るかに思われる今日,あえて取りあげる価値があるであろう。

 第一次大戦において,ラッセルが良心的反戦論の立場を貰き,「徴兵反対同盟」(NCF)の中心的人物として活動し,そのためにケンブリッジ大学講師の職を追われ,はては1918年5月以降,投獄せられたことは,多くの人の知るところであろう。ラッセルの平和運動の端緒はここに始まるのであるが,この端緒には複雑な経緯がまつわっていた。とりわけ,ラッセルがそれまで生活してきた思想的環境とは全く異る世界に育った2人の顕著な個性との衝突を,彼はこの時,経験しなければならなかったのである。文学者 D.H.ロレンスと文学的思想家 T.E.ヒュームという2つの鮮やかな個性との激突である。
 舞台は第一次世界大戦が勃発してから6カ月後の,1915年1月頃のことである。かねてラッセルと親交のあった貴婦人オトライン・モレルは,当時ようやく文壇に頭角をあらわそうとしていた炭坑夫の息子である新進小説家 D.H.ロレンスを,価値ある精神と認め,ラッセルに引き会わせる仲介の労をとった。ラッセルは43才,ロレンスは30才。イギリス屈指の名家の生れであり,秀才の誉れたかい大学講師のラッセルと,たえず自分の低い出生階級を気にしながら,いずれは20世紀イギリス文学最大の新星の一つとなるべく闘志に燃えていたロレンスとは,おなじ反戦の志のもとに,この時,出会ったのである。ロレンスは妻のフリーダが,ドイツ貴族リヒトホーヘン男爵家の娘であり,かつ妻の先夫からの離婚がまだ正式に認められない不安な状態にあった。妻の生国であるドイツを相手とする第一次大戦に,ロレンスはいためつけられ,反戦の気持を強く持っていた。最初の出会いの正確な月日は明らかではないが,2人は反戦の志をおなじくする者として,互いに感銘の浅からぬものがあったようである。ラッセルは直ちに,自分の周囲のケンブリッジの同僚たちに,ロレンスを紹介したようである。3月始めに,哲学者 G.E.ムア,数学者ハーディー,経済学者ケインズは,ラッセルにより,ロレンスに紹介され,談合をしている。しかし,これらの会合は,いずれもロレンスの世慣れない態度のために,失敗に終った。しかし,重要なのは,ラッセルとロレンスとの交友がその後も続き,翌1916年3月に2人の文通が途絶えるまで,平和論をめぐって2人の論争が取り交わされ,貴重な資料を今日に残していることである。
 ラッセルはロレンスとのこの論争を生涯忘れていない。『自伝的回想』(Portraits from Memory and Other Essays, 1956)のなかで,一章を割いて,ラッセルはロレンスを忘れ得ぬ人の一人にかぞえ,この平和論論争を回想しているのである。反戦を契機とする短かい急激な接近と互いに一歩もゆずらぬ久しい喧嘩とを,この交友は生んだのであった。ロレンスがラッセルに宛てた手紙は23通。ラッセルのロレンス宛ての手紙は現存しないが,ラッセルの送った講演要旨だけが残っている。意気投合した2人は,共同講演を行い,反戦運動を実りあるものにしようとする計画を抱いていたのである。
 ラッセルもロレンスも,当時のイギリスを病める状態と考え,何らかの革命を要するものと考える点では,当初は一致していたようである。1915年2月2日のロレンスの手紙では,国家革命の必要が述べられており,経済問題からの解放,土地・工業・報道機関の国有化,賃銀(賃金)制度の福祉化の問題が論じられている。しかし,ロレンスの「革命」とは,実は人間革命であって,男女関係に真の人間性を回復することが前提となっており,単なる社会体制の革命ではなく,よりよい生の充足のヴィジョンを含む革命であった。この点,2人には微妙な食い違いがあったが,反戦の情熱で一致していた2人にとっては,さほど重大な差異とは思われなかったようである。第7書簡(1915年3月29日)になると,ロレンスは,政治革命の必要を変らず唱えながら,現在は全き闇2人を距てている絶望的環境であるがこの闇ののちに復活が生れるであろうこと,今は神の感覚・絶対の感覚を持して,1つの信仰・1つの戦いに結ばれていることを信じようと訴える。個人的理由からロレンスほどの絶望感を持たなかったラッセルにとっては,ロレンスの平和思想が,このような宗教的地平に深まって展開されたことに,若干の疑義を覚えたことであろう。6月中にだされた2つの手紙には,第一次大戦の長期化を見抜くロレンスの言葉が述べられ,当時,短期終結を安易に期待した知識人たちとの落差がうかがわれ,また徴兵制に踏み切ったノースクリフ卿に対するラッセルの論難に同情しながらも,より大きな戦いに潜念すべきことをすすめる言葉がみられる(参考:ノースクリフ卿創刊のデイリー・メール紙の功罪。7月中にだされた3つの手紙には,ロレンスの民主主義批判が顕著である。ロレンスは「秋になったら一諸に声を大にして叫ぼう」と言い,共同反戦講演会への期待をのべ,自分がキリスト教倫理を放棄したことを語り,ラッセルには,人民を信ずると(して)も民主主義は捨てよ,と迫っている。この点で,7月15日の手紙は重要である。ラッセルが国家論につき講演を予定していることに関して論評した手紙であるが,特に講演では「現在の民主主義」を批判せよ,と求めている。ロレンスは第一次大戦が最後の労使間の争闘となることを期待し,第2のフランス革命になり終ることがないよう,労働階級に「より高い目的」を与えることの必要を力説し,ラッセルに対し,「君はあまりにも旧式である,批判ばかりしている。新しい国家の理念を君は作るべきである。万人が高い理想に従って投票し,魂の最高善・無限・絶対の充足に向って努力しうるような理想を掲げるべきである」と説く。「直接民主制にもとづく貴族的独栽制」の時期をロレンスは期待していたのである。イギリス人らしく市民的自由を中心に据えて,反戦・反徴兵制を唱えていたラッセルに対して,ロレンスは,衆愚制に堕すことのない民主主義を,直接民主制にもとづく革命的独裁主義段階として構想し,そこに個人の魂までも充足する政治形体の実現を夢想していたのである。ここにおいて,ロレンスは生れ遅れたバブーフの理想を実践していた観がある。「愚かな大統領を頂く衆愚共和国を造るな。男性が生の産業面を,女性が生の家庭面を支配しうるような,平等の選出制にもとづく独裁制を作れ」と説くのである。ロレンスのこの時点における民主主義批判と反戦論との二重映しは,すでにラッセルにとっては,全く理解できないものとなっていたであろう。9月から12月に至る6通の手紙は,半面の反戦と民主的自由の擁護に意を集中するラッセルにとって,恐らく最も空想的と思われる種類のものであったろう。当時ロレンスは,彼の立場の共鳴者を集めて『署名』と題する同人雑誌を発刊し,それを基礎に,アメリカにユートピアを建設しようとする計画に専念していたのである。批評家マリ,小説家マンスフィールドを有力な同人とするこの雑誌は,ロレンスの構想する『ラナニム』というユートピアの実現を目的とするものであった。ロレンスはこの姿勢から,ラッセルを攻撃し,ラッセルの平和論は「尤もらしい嘘にすぎない」こと,銃剣で次々に人を小突き,「これも平和のため」と称する「兵隊」にすぎないこと,「平和の天使づら」をするにすぎない者として痛烈に批判し,ラッセルの「基底の自我が窮極の平和を望んでいるというのは嘘である」,ラッセルは本職の「数学」に戻るべきであり,我々も昔の,互いに見知らぬ者同志に戻ろう,という。しかし,フロリダにユートピアを建設する希望を語り,このユートピアでこそ,人間は「知性」ではなく「血の知識」で結ばれた共同体を造るであろうから,ラッセルもこれに参加して,その「会長」たれと迫った。すでに,このあたりで,ラッセルはロレンスとの思想上の距たりが,あまりにも大きいことに驚愕を覚えたことであろう。ロレンスはしかし,ラッセルをあくまで同志として遇し,2月11日になっても,ラッセルの講演会のことを気づかう手紙をだしている。しかし2月19日の手紙は,ロレンスの立場とラッセルの立場との埋めようもない距りを物語るものとなった。ロレンスはいう。今は社会の無法者となるべき時期である。ラッセルのように教師・説教者に止まるべき時ではない。群を離れ,その群に爆弾を投ずべき時である。ラッセル君は講演で「教育」を云々したそうだが,「無意識」をこそ重視すべきである。「意識」などは人間の首にかかる「石臼」である。君の得意とする数学も石臼だ。「自我」であることを止めて,ただ「在る」べきだ。道を知り,被造物に徹せよ,と説く。これに追い打ちをかけるように,最後の手紙には,「思考することからは,何ものも生れない」という言葉が見られる。こうして,1916年3月9日の手紙を以て,2人の文通は途絶えることになったのである。
 それから40年。84才のラッセルは『自伝的回想』のなかで,ロレンスを想い出の人に数えてこういった。ロレンスの反戦的態度にひかれ,初めは接近したが,ロレンスのなかの「悪への積極的な力」を知り,2人の根本的に相容れざる点が明らかになった。私は民主主義を信じたが,ロレンスは政治家よりも早くファシズムの全哲学を抱懐し,独裁制の夢を抱いていた。しかし,ロレンスから「おまえが究極の平和を望んでいるというのは,全くの嘘だ」ときめつけられた時には,見透かされたように思い,ほとんど1日間,自殺を考えた。幸いに,その病的な気持を脱し,私はロレンスの批判に屈せず本を出版したが,あの本(『社会再建の原理』Principles of Social Reconstruction, 1916)は,ロレンスの批判をうけなかったら,多少とも悪いものになったと思う,と回想した。ロレンスの方もラッセルを忘れなかった。ユートピア計画は実現しなかったが,その後の半生を国外放浪の生に賭けて終った彼は,1920年の作品『恋する女たち』(Women in Love, 1920)のなかで,ジョシュア卿という人物を登場させてラッセルを形象化し,「博識なドライなウィットある有爵士,荒々しく哄笑する超然たる人」として描いた。そして1923年の作品『カンガルー』では,ユートピア建設の夢が,オーストラリアの擬似右翼団体によって破られ,夢破れた主人公がアメリカに渡るという筋を中心として,第一次大戦で嘗(な)めた彼の思想的経歴を,恐ろしい孤独地獄をみつめた者の眼を通じて,結晶させたのであった。
 さて,その頃,死後には遺稿『思索録』で20世紀のモダニズム芸術連動の予言者と仰がれる筈の T.E.ヒュームは,1915年3月,フランス戦線で傷ついた身を養うべくロンドンに帰っていた。彼は32才であった。ロレンスと異なり第一次大戦に信念を抱いて参戦した彼は,悲惨な戦場をみずから経験し,戦傷の身をベットに横たえる者の立場から,ラッセルの反戦運動を目撃し,その甘さに怒りを覚え,雑誌で論争を試みたのである。ヒュームの戦争論は7篇残されており,いずれもラッセルを中心とする反戦主義者にたいする理論闘争の内容をもっている。ヒュームは哲学上はベルグソン,芸術哲学上はヴォーリンガー,社会理論上はソレルに負い,独得のカトリック的態度を基底としてこの3者を融合する思想を打ちだしていた。1915年11月頃から1916年3月頃にかけて,雑誌『新時代』および『ケンブリッジ・マガジン』に彼の戦争論が掲載された。興味ふかいことに,ロレンスが草稿を閲読して激しく批判したラッセルの例の反戦講演を,ヒュームは傍聴し,批判しているのである。ヒュームの主戦論の内容は,どういうものであったのか。以下,7つの論文から論点をとりだしてみよう。私のみる所では,ヒュームの論点は3つある。1つ自由の問題,2つは欧州におけるドイツの位置の問題,3つは倫理の問題である。ラッセル達の指導する良心的兵役拒否者達は,徴兵制により「市民的自由」が失われることを怖れるのであるが,ヒュームは,この戦争にもし敗れたなら,市民的自由はおろか,本来の自由まで失われることを反戦論者は考えていない,と批判する。この戦争はクリミヤ戦争・普仏戦争とは規模も性質も全く異にするもので,ドイツがもし勝てば,欧州の構造が全く変化するほどの,フランス革命以来最も重大な戦争であるから,市民的自由の喪失ではなく,本来の自由への脅威として認識すべきである,とする。このことは第2の論点に結びつく。ラッセルは進歩の必然を信じ,ドイツの民主主義的成長に楽観的な期待を寄せ,ドイツの野望を理解せず,ドイツの権力規模に見合う植民帝国を許さなかったイギリスにこそ責任ありとし,これを許すことで力の均衡が実現し,ドイツは民主主義路線に従った進歩の道を歩むことであろうと考えている。しかし,それはドイツの現状を知らない者の判断である。ドイツの野望は,欧州に恒久的ヘゲモニーを確立し,一国が植民帝国方式で欧州帝国を確立することを最終的には望むものである。H.G.ウェルズのような職業平和主義者は,「戦争を終らせるための戦争」を唱える主戦論に簡単に転ずるが,自分の主戦論はそうではない。自分はこの戦いによって,欧州が良くなるとも,戦争が将来なくなるとも思っていない。ただ,本来の自由を確保するため,世界の悪がより悪くならないようにするために,主戦論の立場をとる。
 ドイツ民主主義への期待を批判するヒュームのこの思考は,倫理問題につながる。ラッセルは,自由は善であり,従って善は自由の事実から自然に生ずると説き,自由は事物の本性に基づくもので,世界は自由にむかって必然的に進歩する,と説く。ドイツの方角への楽観的期待も,ここに発している。ラッセルは社会再建の原理として,「人格」と「自然的成長」を提唱し,欲望と衝動を区別し,悪は歪んだ成長の結果とし,憎悪は快感の歪みの結果と考えている。しかし,これは誤ったルソーイズムではないだろうか。悪は必らずしも抑圧の結果ではなく,善は規律によって保たれるものでもある。ラッセルは理性と衝動を峻別し,衝動を死と退廃に向けることなく生と成長に向けるべく理性を用いるべきであるという。これはその限りでは正しい考えであるが,倫理観の相違は常に衝動の相違から生ずると彼が説くとき,ラッセルの論理は根拠が薄弱になる。ラッセルは本当の意味で倫理問題に答えていない。もし倫理問題が一切趣味の相違の問題であるとすれば,ラッセルは完全に倫理的懐疑論に陥らざるをえない。ラッセルは客観的倫理概念を欠いている。ラッセルの倫理観が鞏固なものになるには,倫理価値の客観性の確立と個々の価値のなかに新たなヒエラルキーを確立することとが必要になろう。価値に客観性を拒むために,生と人格にのみ意味が与えられる結果になり,人間性にたいする楽観的概念に満足する結果に陥るのである。生に関与するが,しかし客観性と絶対性をもつ倫理価値の体系が必要である。これは悲劇的・英雄主義的な性格をもち,ある意味で非合理的であるが,生を超える価値に根ざす倫理的体系である。冷静な合理的生存のみでは,生存の十全の知覚は成りたたない。理性主義は,英雄主義をとかく,反動と結びつけたがるが,反合理主義的ヒューマニズムと反動主義とは異なるものである。ラッセル的ヒューマニズムが生に究極の価値を置くことに終るのに対し,自分の抱く真の倫理性の立場は,生を否定しないが,「より高い生の担い手としての生」に価値を認めるものである。
 これに答えるラッセルの反論は『ケンブリッジ・マガジン』に2回にわたり掲載された。ラッセルはいう。倫理観の差は衝動の差から生ずるものである。ヒュームと自分の差も要するに衝動の差であり,性格の差である。ヒュームは防衛戦争のみを承認するのであろうか。もしそうとすれば,第一次大戦は純粋な防衛戦争ではなく,また防衛戦争そのものからして,さほど正当化できるものではなかろう。すべての倫理は主観的なものである。あるものが本来善であることを,どうして論証('論理的に'証明)できようか。世界から残忍・迫害・刑罰・道徳的非難を少くしてゆくことが私の望みであり,倫理の主観化(松下注:倫理を客観化して絶対化しないこと)はそのために資するであろう。ヒュームの論は,戦争が本来善であると言っているように聞こえるが,いかなる善性が戦争にあるのか,教えてもらいたい。ヒュームは生の倫理と英雄主義倫理とを区別するが,これは無意味である。ある倫理観が英雄性をもつのは,それの認める価値によるのではなく,その実現にかける犠牲の大きさによる。私は一切の戦争を弾劾するものではない。ただ,私が価値ありとするものが,戦争によって促進されることは稀であるから,反対しているのである。
 この興味ふかい論争は,戦傷の癒えたヒュームが再び出征し,1917年9月28日に戦死することで,ついに幕を閉じたのであった。ヒュームは自からの主戦論に殉じて戦死し,ロレンスは反戦に徹して世の迫害をうけながら後期の深い宗教的実存の地平を小説に結晶させ,ラッセルは反戦のゆえに投獄されることになったのである。それぞれ立場は異るとはいえ,今世紀イギリスの最も鮮やかな3個性の激突の演じた3つ巴の戦争論議は1960年代半ばを過ぎた世界に生きる我々に対しても,なまなましい意味を以って迫ってくる。
 当時のラッセルには,出生背景も信条も全く異にするロレンスとヒュームの批判を十分に理解する用意がなかったように思われる(松下注:それは,ロレンスやヒュームについても言えることであろう。)。第二次大戦を経過した戦後の今日にある我々にとって,ロレンスとヒュームの予言者的洞察が持っていた内容は,第一次大戦の時点でラッセルに見えていた事柄以上の,ある正しさを証しつつあるように思われる。
 ラッセルは,ロレンスからその疑似ファシズムのゆえに袂を分ち,ヒュームからは,その倫理絶対主義のゆえに袂を分った。しかし,ロレンスはファシストではなく,ロレンスの主張の要点は当面の民主主義の否定であり,宗教的実存の根底に立ち返っての平和の確立にあった。ヒュームの主張の要点は防衛戦争の正否にあるというよりは,むしろ,ドイツの野望の洞察如何にかかっており,また,倫理相対主義の現実的帰結に対する危倶にあったのである。
 ロレンスは,とくに我が国において,しばしば誤認されているような'性の作家'ではない。ロレンスの現代的意義は,形骸化した民主主義に抗する宗教的実存の思想にこそある。1914年を境として,ロレンスの思想は著しい深まりをみせ,彼の晩年の思想体系が確立された。ラッセルとの交友と論戦が生じたのも実にこの時期のことだったのである。この時期に書かれたロレンスの評論は,まだ十分な評価がなされていない。しかし,遺著となった『雑論集』に収められたロレンスの民主主義批判の諸論文は,この時期,すなわち,ラッセルとの論争の時期の所産につながる。ロレンスの晩年の形而上学は,ラッセルが誤解したようなファシズム思想ではなかった。1915年の重要な論文『王冠』のなかで,ロレンスは人間の戦いの意義を形而上的に基礎づけようとする。聖書の『祈祷書』の「獅子と一角獣」の挿話をもとに,ロレンスは,権力と純潔の2つの原理の関係を説く。獅子は百獣の王,一角獣は純潔の守護者。2つは永遠に競い,互いに他を倒して王冠を高く掲げようとする。だが両者が王冠を仲介にして永遠に競うあり方のなかにこそ,両獣の存在理由があり,また互いに他をあらしめる根拠もある。一方が終局の勝利を収めれば他の存在は否定され,それにより己れの存在理由もなくなる。王冠は争奪の対象ではあるが,一方がこれを最終的に手中に収める時,敗者の滅亡はもとより,勝者も存在をやめ,王冠そのものの喪失につながる。王冠は両者の存在の要(かなめ)であるが,抗争の只中では双方に忘れ去られており,互いに他を倒すことが自己目的となっている。しかし,いかに忘れようとも王冠は厳然としてある。この世の我々は出会ってはぶつかり合い,砕けては泡と化し,絶対の極にむかって矛盾し衝突する。この激突は一者を生み,その一者こそ全き成就であり,である。これこそ抗争を超えてあるもの,「我」の分別を超えるものであり,そこにこそ根源の創造の闇が支配し,我はなく,しかも窮極において存在する。この「不断の開花を生む創造」を信じようと説くのである。この立場から,ロレンスは当面の民主主義の幾多の虚偽と安逸を非難し,反戦と個の実存とを悲劇の形而上学の地平で肯定したのである。この立場からみるとき,ラッセルの反戦論が民主主義批判において不徹底であり,形而上学的地平を捨象したものにみえ,積極的再建の原理を欠く,単なる知的批判の思想にみえたのである。
 ヒュームのドイツ批判の正当性は,当時のラッセルの反戦論が,彼の著書『ドイツ社会民主主義』にみるような,ドイツ民主主義への過大な期待にもとづいていたこと,従って,ヒュームは,第二次大戦を誘発してゆくドイツ・ファシズムの根深い必然性をラッセルよりも正しく洞察していた限りにおいて,今日の時点からみるとき,ヒュームの方にある正しさを認めないわけにはゆかないのである。当時のラッセルは,すべての戦争を否認したのではなく,文明を広める一部の植民戦争のごときものは正当化されるものと考えたのであって,第一次大戦にラッセルが反対したのも,それが何ものにも寄与しない「威信戦争」と考えられたからであった。イギリスの平和主義者が第一次大戦にこのような態度を以ってのぞみ,その甘い判断がさらに,イギリスの戦後処理を誤らせ,従って,第二次大戦前夜の状勢を誤認させ,とりかえしのつかない「宥和政策」に走らせ第二次大戦の惨禍を誘発するに至る道を用意したことは,2つの大戦が歴史の射程に入った現在,多くの史家の認める事実となっている。(松下注:果たしてそうであろうか? ドイツ等,第一次大戦敗戦国に返済不能の多額の賠償金を課したことも大きな影響を与えているのではないだろうか。ヒトラーの出現を許したのもそのような屈辱に対する多くのドイツ国民の感情があったのではないか? 由良氏のような'悪玉論'(諸悪の根源的な考え方)を対立する諸国連合がとるからこそ,紛争はエスカレートするのではないか?) また,ラッセルの倫理相対主義を排したヒュームの主張は,G.E.ムアの影響から倫理上の価値情緒説を当時ラッセルはとりながらも,その後,これがラッセル思想の一つの体系上の難点たることを自覚するに及び,規範倫理の一面を修正的にとり入れ,功利主義的倫理観に回帰しつつ,本来的価値の承認に向うに至ったことを思い合わせる時,ヒュームの批判の鋭鋒を,我々は納得させられるのである。(松下注:由良氏は単に勘違いをしているのか,それともよく理解していないのか? 「G.E.ムアの影響から倫理上の価値情緒説を当時ラッセルはとりながらも」と由良氏は書いているが,事実は,G.E.ムーアの影響でラッセルは当初「直観主義」をとっていたが,G.サンタヤーナの批判を受けて「価値情緒説」に転じ,老年にいたって「倫理的自然主義」に賛成するようになったのは有名な話である。参照:竹尾「ラッセルの哲学的主張の変遷)
 総じて,1915年当時のラッセルはあまりにも,彼の思想を規定していた「ブルームズベリ・グループ」の洗練された知的雰囲気の申し子でありすぎたのである(松下注:ラッセルは「ブルームズベリー・グループ」の人々と親交は深かったが,「申し子」というのはいいすぎであろう。)。良心的兵役拒杏とは言いながら,彼らは,何らかの形で国内勤務に服したのであった。経済学者ケインズも,その例外ではなかった。ブルームズベリ・グループのインテリの一員として反戦の立場をとった彼も,いったん戦争,が始まった以上,これを完遂すべしとして大蔵省に入り,戦争経済の遂行に努力したのであった。ブルームズベリ・グループの反戦主義の知的雰囲気は,アラン・ウッドの『ラッセル伝」の伝えるある挿話が,なによりもいきいきと伝えてくれるであろう。「あるエレガントな青年に路上で会った一老婦人が彼を捉えて,'他の青年たちが皆,文明の救済のために戦っている時に,あなたはそんな恰好をして恥かしくないのか' と詰問したところ,その青年は,'奥様,この私こそ,彼らが救おうとしているその文明なのです' とうそぶいた」というのである。ラッセルの倫理相対主義・民主主義にもとづく楽観的反戦論の背景を支えるものは,このような「文明を自称する同族意識」とかなり縁の深いものであったのである(注:ひどい決め付け。ラッセルこそ,ブルームズベリー・グループの「文明を自称する同族意識」を,当時辛らつに批判していた。参考:久野収「第一次大戦とラッセル」。抗戦国の妻を砲えて苦悩したロレンスや実戦に傷ついたヒュームの眼から見た時,当時のラッセルの反戦思想は,浅薄なものに見えざるをえなかったのである。2人の批評が当時のラッセルに,どれだけの影響を残したかは知る由もない。ただケインズは,1938年になって,『私の初期の信条』と題する告白を述べたが,そのなかには,あの知的透明に終始したケインズには珍らしい,苦渋にみちた回想がのべられている。ケインズは1915年当時のロレンスとの出会いに触れ,あの頃の自分はG.E.ムアの倫理観により,価値情緒説を是認していた(松下注: 前述のようにまちがい)。それにより,功利主義から脱却することができたが,思えば,自分のその態度は,同時に18世紀思想の異端の前提を是認することを含んでいることに気づかず,安易な人間の倫理的進歩の必然を信仰することになっていた,と。そして,ブルームズベリ・グループの徹底した合理主義の孕んでいた一面の浅薄さは,ロレンスの嫉妬をふくむ鋭い批判に遭遇し,ほとんど耐え切れないものを覚えたのであった,と回顧した。粗野であったとはいえ,ロレンスとヒュームの眼に映じたラッセルとケインズの平和思想の実体の弱点は,たしかに,ラッセルのその後の思想歴とケインズの告白とによって,ある正しさを証しているといえるであろう。ヴェトナム問題にたいして,あるいはポラリス問題にかんして,老樹をひっさげて立ちあがるラッセルは,尊敬に値する巨人である。しかし,この老樹の内部に,われわれは,一世紀になんなんとする彼の思想の歩みが,その時々の情勢のなかで,幾多の誤謬をはらみながら,なおも強靱な思索によって,可能な限り自己の非を改めようとしてきた部厚い年輪を背負っていることを認め,今日のこの巨樹をあらしめた今は亡き人々の寄与を改めて理解し,そこに'人間の限界'と,また'人間の不滅さ'とを,ともに認識したいのである。(注:価値論における「直感主義」は,「自然主義」と同様,客観的価値は存在し,また認識可能であると考えるが,価値判断に関する'命題'が経験的事実に関する'命題'から演繹可能であるとは考えず,客観的価値は,'直観'によってのみ認識可能とする。これに対し「価値情緒説」は,価値の客観性を認めず,直感によっても認識不可能であり,情緒的なものにすぎないという考え方である。由良氏がなぜそのような両者の基本的な相違を混同しているのか不可解である。この論文の後半は,ロレンスやヒュームの主張を,情緒的に是認した上で,屁理屈をこねているような気がしてならない。その意味で価値情緒説を補強することはあっても,否定する理論とはならない。)

(付記)
 本稿の組版中に笠信太郎先生の訃報に接し,暗澹たるものがある。慎んで先生のご冥福を祈る。なお,主要典拠を以下に掲げる。
1)H. T. Moore (ed.): D. H. Lawrence's Letters to Russell (Gotham Book Mart, 1948)
2)H. T. Moore (ed.): The Collected Letters of Lawrence, 2 vols. (Heinemann, 1962)
3)S. Hynes (ed.): T. E. Hulme; Further Speculations (Minnesota U. P., 1955)
4)A. R. Jones: The Life and Opinion of T. E. Hulme (Victor Gollancz, 1960)
5)J. M. Keynes: Two Memories (Rupert Hart-Davis, 1949)
6)F. R. Leavis: Common Pursuit (Chatto & Windus, 1948)
7)A. Marwich: The Deluge-British Society & The First World (Pelican books, 1967)