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久野収「第一次大戦とラッセル」
みすず書房版「ラッセル著作集・月報」より(第7回配本付録)

*久野収氏(1910-1999.02.09)は、哲学者で、当時、学習院大学講師


 バートランド・ラッセルが第一次世界大戦に反対し、ケンブリッジ大学の教職をうばわれ、六ヵ月の刑の宣告をうけて投獄されたことはよく知られている。ラッセルはその間のいきさつを、たとえば『自伝的回想』の「ある平和主義者の第一次大戦の経験」「論理学から政治学へ」といった文章の中で、感情をおさえながら、散文的に回想している。彼の異常とも見られる'戦争体験'を語る態度は、いかにもラッセルらしく平静であり、理性的であって、この態度はただ年月のへだたりだけのせいにするわけにはいかないだろう。
 しかしそれだけにかえって読者のわれわれは、もっとくわしく事情を知りたいという関心にかられるのである。

 ラッセルとならんで戦争に非協力的であったインテリたちは、ラッセルの左側にいた行動派的CO(Conscientious Objector:良心的戦争反対者)、たとえば'徴兵反対友の会'(NCF)グループと、ラッセルの右側にいた書斎派的CO、たとえば'ブルームズべリーグループ'とに大別される。'ブルームズべリー・グループ'については、最近翻訳の出たJ.M.ケインズ『人物評伝』の一章、「私の初期の信条」に、その思想的立場がよく説明されている。G.E.ムーアをはじめ、ケインズ、リットン・ストレイチー、レオナード・ウルフ、クライブ・ベル、E.M.フォースター、すこしはなれて、オルダス・ハックスリーといった人々が、オトリン・モレル夫人のパーティーを中心に集っていたのであって、ケインズ自身の言葉をかりれば、ケムブリッジの'合理主義とシニシズム'を代表する戦争超然派である。
 オルダス・ハックスリーは、『クローム・イェロー』(Crome Yellow)を書いて、このグループとバーティー(=ラッセル)を風刺したのであった。もっともこのグループからも、レオナード・ウルフ「国際政府論」(一九一六)のようなすぐれた平和文献が出たことも忘れられてはならないだろう。
 ラッセルは戦争勃発後もこのグループと深い接触をたもちつづけたが、彼らのように、戦争に背をむけて、学問や芸術を中心とする、おたがいの精神の交わりだけに没頭することをいさぎよしとしなかった。業績と権威からすれば、そうする口実を一番持っていたはずのラッセルが、性格と気質のまったくちがうD.H.ロレンスと組んで、きびしい戦争反対の宣伝活動の重荷をあえて回避しなかったのは、どう説明してよいか、ケインズとの皮肉な相互批評のやりとりなどを見ると実に興味がある。ラッセルは、自己矛盾だというケインズの批評に答えて、COでありながら、戦時の大蔵省に協力し、アスキス、ロイド・ジョージその他の政界名士と知りあって楽しんでいるかに見えるケインズこそ、'最少の費用による最大の殺人計画'への協力者ではないかときめつける手紙を書いたという。

 ラッセルはこうして他方、積極的な反戦宣伝運動のために国民の憎悪の重荷にあえいでいた'徴兵反対友の会'グループともよろこんで協力し、第一次大戦にそなえて、戦争反対のために全世界労働階級がゼネストに出ることを提案した有名な労働党の指導者、ケア・ハーディの創刊した雑誌『レーバー・リーダー』(Labour Leader)へも毎回寄稿をおしまなかった。ラッセルの名声とペンの力がこれらの運動にどれだけ寄与したかは、ほとんどはかることが出来ないほどであったろう。
 ラッセルの最初の受難は'アーネスト・エバレット'事件である。COのエバレットは、軍隊に入隊させられ、命令不服役のかどによって、重労働二年の刑を受けたが、'友の会'は抗議のリーフレットを発行し、六人の会員が配布中に逮捕された。ラッセルは『タイムズ』に手紙を出し、このリーフレットを執筆したのはラッセル(自分)だから、他の誰よりも自分が責任者なのだと名のり出た。陛下の軍隊の徴募と士気に悪影響をあたえるという理由で起訴され、一九一六年、六月、裁判にかけられ、有罪、百ポンドの罰金という判決を受けた。
 裁判の進行状況とラッセルの自己弁解に使った論理を'友の会'はレポートとして出そうとしたが、政府に脅威をあたえるほど有力であったため、政府によって禁圧された。彼が反戦の意志を表明してから、ケムブリッジでは昼食の時、誰一人ラッセルの席に近づかないほど険悪な状況にあったのは、ラッセル自身が回想しているとおりである。ケムブリッジからラッセルを追う試みは、これを機会に、マクターガートを手段に実現され、トリニティ・コレッヂ委員会は全会一致でラッセルの追放を決議したのであった。

 ラッセルはそうなって、心にいやしがたい深傷をうけたが、戦争に反対する宣伝はあくまでやめなかった。リットン・ストレッチーは、ラッセルの演説会を傍聴し、彼が何ものにもこだわらず、政府、宗教、法律、財産といった一切のものを将棋だおしになぎたおす姿は実に壮観であったと伝えている。眼前の戦争に対してはラッセルは、双方が妥協しうる条件で出来るだけ早く講和を結べと主張し、このコースにそって、講演をつづけ、書物を執筆しつづけた。一九一六年、彼の執筆した書物が公刊され、陽の目をみることが出来たのは、平和主義者であった出版者『アレン・アンド・アンウィン』社のスタンレー・アンウィンのなみなみならぬ努力のおかげであった。『社会再建の原理』がそれであり、この時結ばれたラッセルとアンウィンとの深い友情は、以後ラッセルの書物の大部分をアンウィン社から出版させることになるのである。
 しかしケムブリッジ追放後のラッセルは、たとえ国際的名声だけは彼の学問と活動によってますますあがっていったにしても、無収人であって、国際的名声だけで喰って生きていくことは出来ない。ハーバード大学で講義するように招かれたが、イギリス外務省が許さない。ラッセルは職業として公開講義をイギリス中にして歩こうというプランをたて'政治の哲学的原理'というコースを準備したが、陸軍省はラッセルやD.H.ロレンスにドイツヘのスパイ行為の嫌疑をかけていたため、一切の沿岸都市での講義を許可せず、やりたければマンチェスターのような奥地の都市だけでやれという。ラッセルやラッセルの聴衆がドイツのUボートに信号を出すことを恐れるのだという。
 この事件は議会で問題となり、チャールズ・トレベリアンがロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1863年-1945年3月26日: 1908 年にアスキスの後任の蔵相、1916~1922に英国の首相)に質問したが、ロイド・ジョージは、ラッセル氏が軍隊の士気をいちじるしく傷けるような一連の講義をしようとしているという情報を信頼すべき筋から入手しているので、許可出来ないと答える。ラッセルは、自分の願うところは'秘密警察'がドイツ人について、自分の関係する場合そうであったよりも、ずっと不精確さをなくするようにしたいというほかに他意はないのだし、害があるなら、なぜマンチェスターだけは許可するのだと抗議しているが、もっともよくドイツを知っているラッセルとして当然の言葉であるといえよう。政府が本当に恐れたのは、ラッセルの演説が軍需産業の労働者に感化を及ぼし、彼らがストライキに立ち上りはしないかという恐怖であった。実際彼の策略と演説は、NCFの仲間から'メフィスト'と仇名されるほどすばらしいものであったから、政府がのぼせあがるのも、まったく見当ちがいだといいさることも出来なかったのである。

 こうしてラッセルは一九一七年の終りごろには、積極的平和宣伝活動から身を引き、戦後の建設的平和を推進する仕事とエネルギーを貯えようと決心するようになるのであるが、ちょうどその時'友の会'の週刊紙『トリビュナール』が第一面の論文の執筆を大至急依頼してきた。ラッセルは'友の会'のためには署名、無署名を問わず、いかなる種類の文章でもよろこんで執筆する習慣を持っていたので、今度もただちに引きうけて執筆した。『トリビュナール』一九一八年一月三日号である。ところがこの論文が当局の急所にふれ、彼は起訴、投獄されることになった。
 法に触れるという口実をあたえたのは、次の文章であった。
 
'平和が早く来なければ全ヨーロッパを飢餓がおそいまわり、……人々は生きてゆくだけの必要物を手にいれるため、相互に殺しあうだろう。'
 さらにラッセルは言葉をつぎ、その時までにイギリスとフランスに進駐するはずのアメリカ駐屯軍がストラィキに出ようとする労働者を威かくする力を持つであろうし、彼らは本国でこうした仕事に慣らされているのだ、と論じ、自分は政府がそんな底意を持っているなどといっているのではない、政府の連中はおよそいかなる思想であれ、底意などといえる思想を持っていそうな証拠は何一つない、彼らは無知とセンチメンタルなダ弁で自らを慰めながら、手から口へのその日暮らしにあけくれているのだ、と結論した。
 ストライキ破りの問題は、議会の公式報告を基礎にして書かれたにもかかわらず、発刊後一カ月、警察は論文の筆者がラッセルだという証言をとった後、彼を起訴し、治安判事ジョン・ディッキンスンは、六カ月間の第二級看房への投獄を宣告した。
 これがラッセルの戦争体験を外側から観察した外的事件のあらましである。ここから二つの教訓が出てくるだろう。その一つは、イギリスの市民的自由の伝統の広さと深さであり、われわれはラッセルの受けた受難にもかかわらず、日本のインテリの戦争体験とくらべて、やはりそう言わないわけにはいかない。もう一つは'常識'の哲学者といわれるラッセルの'常識'は、眼の前の情況にふりまわされる常識ではなく、眼の前の情況と緊張関係に立つのをいとわない常識、現実に対して緊張した態度で、場合によっては戦うことを辞さない常識であるということである。このような常識は、われわれ日本人の連想する常識とは、言葉は同じでも、内容は全然ちがっているということである。(了)