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[研究発表要旨] 日高一輝「バートランド・ラッセルの恋愛と結婚」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第19号(1971年10月)pp.2-7.
* 日高一輝氏は当時,日本バートランド・ラッセル協会常任理事


ラッセル協会会報_第19号
 1.


 ラッセルの初恋は,一八八九年夏,ケムブリッジ大学入学の前年,十七才の年であった。ロロ叔父さんと一緒にハインドヘッド('Hindhead')で暑中休暇を過ごしていたラッセルは,或る日曜日,叔父さんに連れられて散歩に出た。そして訪れた家が,アメリカのペンシルヴァニア州から移住して来ていたクェーカー教徒のピアーサル・スミス家であった。そこへちょうど,米国ブリン・マー大学の女子大生だった娘のアリス(Alys Pearsal Smith)が夏休みを両親と一緒に暮すべく来ていた(松下注:アリスはラッセルより5歳年上)。ラッセルは心からアリスにひかれた。アリスの魅力をラッセルの言葉から探ってみると次の諸点であった。


I.彼女はとても清楚な感じの美人であった
II.それまで知り合ったどの女性よりも解放的であった
III.親切心が深く積極的にもてなしてくれた
IV.クェーカー教徒としての信仰の強さをもっていた
V.禁酒運動に参加するほどの行動的な迫力があった
VI.不思議な因縁めいたものを感じた-すなわち,自分が当時賛美してやまなかった米国の詩人ウォルト・ホイットマンとアリスが親友だったこと,それから,彼女と初めて逢ったその日の朝に読み終えたばかりのドイツ語の本「エックハルト」を,彼女と初対面の席でいままで読んだことがあるかとアリスにきかれたこと
VII.彼女も自分と同じ自由恋愛論者だった
VIII.自慰の悪癖に耽ったり,野蛮な性行為を夢みたりしていた自分を極度に恥じ,悔悛の情が深まっていたところへ,アリスの心境が,真実の愛のない性行為は不潔であり,男女の性交は男性の獣性の現われで好ましくないものであり,たとえ結婚をしたとしても子供はぜったいに生みたくないというところにあったので,それがむしろ崇高なものに思えた等々。

 ラッセルは心からの情熱を燃やしてアリスに求婚した。彼女の方は,初めは承諾するでもなし,断わるでもなし,成りゆきにまかせるという態度であった。けれども真向からの反対が祖母アガサ叔母さんから出た。その理由は,

1.彼女が米国からの移住者の娘であるということ
II. 英国の伝統を教育されていないということ
III.下層階級の山師の家庭で育って,作法を知らず,美しい感情を少しも持っていない
IV.未熟な青年をだまそうとする幼児誘拐魔にひとしい,
等々。

ラッセルとアリスの写真  そうして,二人の間をさくため,親しい間柄のパリ駐在英国大使ダッファリン卿に頼んで大使館員の地位を与えてもらう。ラッセルは祖母との調和を考慮し,三ケ月間だけという条件でパリに赴任する。祖母は,そうしている間にアリスにたいするラッセルの情熱も冷めるにちがいないと考えていたのである。ところがラッセルは三ケ月経つとさっさと英国に帰って来た。そしてセィント・マーティン・レーンのクェーカー礼拝堂でアリスと結婚した。一八九四年十二月十三日,ラッセルが二十二才,アリスが二十七才の年であった。結婚の翌年,ラッセルはアリスを伴って訪独(経済学とドイツ社会民主主義研究のため),その次の年にはアリスと共に訪米,アリスの母校ブリン・マー女子大やジョン・ホプキンス大学で講義をしたり,アリスの親友ウォルト・ホイットマンを訪問したりする。
 アリスとの結婚は順調に見え,数多くの著述もその間に為されたが,結婚生活の内容は年をふるにしたがって困難さをまし,アリスとの調和を保とうとするラッセルの努力が九年間も続けられることになる。ついに一九一一年,別居生活を余儀なくされるが,正式離婚にはさらに十年を要した。恋愛で結ばれた二人であったが,その様に仲たがいを生じてきた原因はどこにあったか。

1.生活を共にしていくうちアリスの複雑な性格があらわになってくる
II.アリスの心が,ラッセルに集中するよりは社会的な活動の方により傾いてきた。絶対禁酒運動や婦人参政権運動に熱中していて外出の機会が多い。ラッセルが初めて彼女に求婚した当日ですら,それにたいする諾否の意志を表明しないまま,たまたまその日届いた米国からのインヴィテーション・レターに応じて禁酒宣伝の会議に出席するためシカゴに発っていってしまったほどだった
III.キリスト教にたいする二人の間の意見が対立して論争がたえなかった
IV.ラッセルは子供がほしくてたまらなかった。けれどもアリスは欲しなかった。それに彼女は,セックスを不潔なものと考えて,女性はそれを憎悪すべきものとした。男性の獣的な色欲こそが結婚の幸福に対する大きな障害であるとした。事実アリスは石女(うまずめ)だった
V.二人の間の性生活が不調であった。初夜のときから困難を感じさせられていた。楽しいものではなくてだんだんと疲労感に悩まされ,やがて彼女に接することを嫌悪する情がつのってくる
VI.アリスの嫉妬心の深さに苦しめられる。しばしば言い争いをしなければならなくなる。ラッセルがパリ駐在の大使館員を辞めてアリスの許に帰ってきた時ですら,パリ滞在中,アリスの妹とよく会っていたということを嫉妬して激しくラッセルをせめたほどであった
VII.ラッセルは,自然を愛していたし,自分の研究と著述の能率をあげるためにも好ましいからというので田舎で暮すことを主張したが,アリスは徹頭徹尾それに反対した
VIII.妥協や粉飾を許さないラッセルの生一本な気質に反して,虚栄のとりことなるアリスの態度が彼にはとてもたまらないものになってくる。ラッセルの言によれば一「アリスは,人間としてはとても不可能なほど,一点の非のうちどころもないほど高潔だと人に思われようとする。そうして偽善に陥いる。自分の寛大さを賞賛させようとの下心から人をほめる。先方に向っては,そちらに諂おうとしてこちらの悪口を言い,当方にたいしてはこちらに良く思われようとして先方の悪口を言う癖がぬけなかった。平然と嘘を言うことがしばしばだった」と。
IX.とてもがまんがならなくなったのは,ラッセルが最も忌み嫌った彼女の母のいやな性癖がアリスにあらわれてきたことだった。自分の主人に話をするときにいかにも主人を軽蔑する口調でしたり,また,他人に主人のことを話すときに主人を侮蔑している態度をありありと示す性癖があった等々。

オットリーン・モレルの写真
 2.

 このような状態にあったラッセルは,一九一〇年(三十八オ),下院に立候補した友人の自由党員フィリップ・モーレルの選挙運動を応援したことからその夫人オットリーン(Lady Ottoline Morrell)と再会し(子供のころ知り合っていた),親しくなる。その翌年,ソルボンヌ大学から講演を頼まれてパリに赴くべく,当時住んでいたバグレイ・ウッド(オックスフォード近郊)を発ってロンドンに寄ったとき,一泊しようと思って訪れたフィリップ・モーレルが,急に所要で家をあけなければならなくなったので,オットリーン夫人と二人だけあとに残される。その夜,晩餐のあと夜ふけまで二人は語り合う-平和,国際問題,政府批判。二人の意見が一致する。それにラッセルは,オットリーンの中に自分と共通する気質性格のあることを発見して歓喜する。

I.まじめではあるが型にははまらない
II.伝統的には貴族に属しているけれども,貴族特有の偏狭さと特権意識を嫌う
III.権力・暴力による支配や残虐さを許さない-弱者や虐げられたものの味方となる等々。そして,やさしくいたわってくれるオットリーンに何とも表現できないほどの心の安らぎをおぼえる。ラッセルは言う-「アリスとの結婚生活の何年間を通じて,少しも味うことのできなかったあるもの,飢えていた何ものかをオットリーンが与えてくれた

 ラッセルの心は強くオットリーンと結ばれ,離れがたいものになった。こうしてオットリーンとの恋愛が始まる。第一次世界大戦を迎えてラッセルは反戦運動に挺身するのであるが,オットリーンの反戦論が大いに彼を勇気づけた。ラッセルが投獄されたときも,彼女はしばしば獄中の彼を見舞った。彼は心からオットリーンの存在に感謝し,賛美してこう言っている-「彼女はわたしの自己本位の考え方や独善的なところを少なくしてくれた。わたしは人のあら捜しの好きな人間であったのをそうでなくしてくれた。わたしには少しく清教徒的なところがあったのをそうでなくしてくれた。婦人から影響をうけることを恐れている人が沢山いるが,それは杞憂である。肉体的と同様に精神的にも,男性は女性を必要とし,女性は男性を必要とする…」と。
 ラッセルは,アリスとの離婚が成立したらオットリーンと結婚したいと思い,そうしようと真剣に決意する。「たとえフィリップが二人を殺そうとすることがわかったとしても…。また,たとえ二人の結びがたった一夜の結びしか許されないとしても…」
 そうしてラッセルは,その旨をアリスに語る。アリスは嫉妬と憤怒にもえ,オットリーンとのスキャンダルを理由として離婚訴訟を提起すると言い張る。正式の離婚手続はラッセルの希望するところであるが,オットリーンの名前を持ち出すことだけはやめてほしいと主張する。姦通の汚名をきせたくなかった。それでもアリスはそうすることを断念しようとはしなかった。ラッセルは,ついに最後の肚を決め,いのちにかえてもそれを阻止しようとする。ラッセルは穏やかに,しかも確乎たる態度でアリスにこう宣言する-「あなたがどんなにそうしようと思っても,わたしは断じてさせません-その前に自分が自殺するからだ」と。ラッセルは後に当時を述懐して「あの時は自分は本当にそうするつもりだった」と言っているし,また,身内の人達も,さらには親友のフェビアン協会のウェッブ夫妻も「ラッセルは本当にそうしただろう-死を決意していたことは確かだった」と語っている。生命がけでオットリーンをまもろうとする彼女への愛情がうかがえる。
 ところがオットリーンの方は,フィリップと離婚してまでという気持にはいたらなかったし,家庭生活の安定性や社会的地位を捨ててまでという気にはなれなかった。それに,彼女には頭痛に悩む持病があり健康のすぐれない日が多くなって,デートの約束もしばしば破られるということが重なった。それから宗教的な問題で二人の意見がくい違うようになり,言い争いがつづくようにもなった。その頃ラッセルはかなりひどい歯槽膿漏をわずらっていたが,オットリーンはラッセルと会うたびに露骨に不快の表情をあらわしたし,また事実どんなにそれが嫌だったかということを後でラッセルに書き送っている。こうして次第にラッセルにたいする彼女の心が冷たくなっていった。せっかくラッセルが,オットリーンとのデートのためにロンドンの大英博物館近くのベリイ・ストリートにフラットを借りてそこからケンブリッジ大学での講義に通うことにしたのに,彼女はさっさとロンドンをひきあげてオックスフォード近くのガーシングトン(注:Garsington ガーシントン)に引き移ってしまった(一九一五年)。オットリーンにたいするラッセルの愛は変らなかったが,彼女の方はこのような変化をみせたのだった。社交好きの彼女は,ガーシングトンに移ってからも,若い芸術家たちを集めていたし,ひんぱんにパーティを催したりしていた。常連の中にはケインズ,ハックスレー,ゴア司教等がいた。時には総理大臣アスクィスも顔を出していた。オットリーンが亡くなったのは,ラッセルがシカゴ大学の客員教授として渡米した一九三八年のことだった。
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 「わたしが彼女のことを思っているほどには彼女がわたしのことを思っていないということを感じた」 こうしてオットリーンの心が冷たくなっていった一九一三年(ラッセル四十一才)の夏,ラッセルは友人のサンガーと一緒にインスブルックからアルプス越えをしてイタリアのプント・サン・ヴィギリオに徒歩旅行をした。とあるレストランで他の一行と同じテーブルについた。その時,離れた他のテーブルに一人の若い女性が坐っているのが目についた。みんなはその女性を観察しているうちに彼女が結婚しているか未婚者であるかについて論じあうようになった。ラッセルは,彼女は既婚者だと断言した。けっきょくどちらの意見が正しいかを確かめることになって,ラッセルがその役を仰せつかった。それが縁で彼女と近づきになっているうち,だんだんと彼女にひきつけられていった。彼女の夫は精神分析家で二人の間には二児があったが,彼女は離婚してちょうどそこへ来たばかりであった。「彼女は若くてチャーミングだった。彼女が好きになって,彼女との子供をつくりたいという欲望にかりたてられた」-こうして急速に親しみが深まった。二人は一緒に遠くはなれた田舎を旅行した。けれどもこれは,旅での短い間の恋でしかなかった。そのとき以後は,二人はついに一度も会うことがなかった。ただ数年間のあいだは,よく彼女からのたよりが届いた。彼女はドイツ人であった。

 

 このようなことがあった翌年(一九一四年,ラッセル四十二才),ラッセルはハーヴァード大学からの招聘に応じて渡米した。同大学でのローウェル記念講義とアン・アーボァー大学での講義を終えてシカゴに赴いた時(シカゴ大学での講演のため),彼は或る著名な婦人科医の家に泊った。その婦人科医夫妻には四人の娘と一人の息子があった。その娘のうちの一人が,シカゴに来たらぜひ自分の家に泊ってくれるようにとラッセルに招待の手紙を出していた。その娘(松下注:Helen Dudley 右は Helen の肖像画)は,先にオックスフォード大学で,ラッセルの友人ギルバード・マーレイのもとでギリシァ語を学んでいるとき,ちょうどオックスフォード近郊のバグレイ・ウッドに住んでいたラッセルを二,三度訪問したことがあった。彼女は,ちょうどシカゴに帰っていたので,ラッセルの渡米を知るとすぐに手紙を書いてラッセルを招待したのだった。彼がシカゴの駅に降り立つと,彼女がちゃんと迎えに出ていた。彼は彼女を「何かしら印象に残る娘ではあった」とおぼえてはいたが,ここで再会するにおよんでさらに新たに自分をひきつける強い魅力を感じさせられた。「アメリカに来て会った他の誰よりも彼女との方がより親しみをおぼえ,ほんとうに心から寛いだ気持になれるのを感じた。気持がとてもやさしく,温い情で自分をつつんでくれた。美人という方ではなかったけれども愛矯があり,陽気で情熱的だった。詩をよくし,文学にたいする感情が凡庸でなかった。そうした反面,孤独の哀愁を漂わせるものがあった」。二日間ここに滞在するうち二人はすっかり恋しあうようになった。ラッセルはその二日目の夜,「彼女を得たいとおもう気持がつのって」彼女と肉体的に結ばれる。両親に気付かれないようにとの心くばりから,ほかの娘たちが廊下で二人の寝室の警戒に当るというエピソードもあった。ラッセルは,アリスとの正式離婚が成立次第,ロンドンで正式に結婚しようと彼女に約束をする。彼は英国への帰国の船中でオットリーンに手紙を書いてこのことを知らせる。ラッセルが帰英するとまもなく,彼女は父親を説得して英国に連れてきた。ちょうどその時,第一次世界大戦が勃発し,ラッセルの反戦運動が開始される。やがて彼は,ロンドン市庁での裁判で百ポンドの罰金刑に処されたり,ケムブリッジ大学から追放されたりした。ラッセルにとって悲惨な,そして暗澹たる時期がつづく。一九一八年には禁固刑に処されて,ブリックストン刑務所に投獄される。英国に渡った彼女は,突如として類例をみないほどの奇病にかかってしまう。麻痺状態,平静期そして発狂状態といった順序がくりかえされる一種の精神異常症であった。ラッセルは始終彼女を病院に見舞うこととなった。最後に会ったのが一九二四年,その後はついに彼女は正気に戻ることがなかった。そしてついに結婚にゴール・インすることもなくて終った。彼は言う-「発狂する以前は彼女はまれにみる優れた精神と愛すべき性質をもっていたから,もしも戦争の邪魔が入らなかったら二人がシカゴで作ったプランは,きっとわたしたち二人に大きな幸福をもたらしたことだろう。わたしはこの悲劇を悲しむ気持でいっぱいだ」

 

コレット・オニールの写真  一九一六年,ラッセルは反戦運動で逆境に立たされ,孤独感にうちひしがれ,またオットリーンは彼を去り,結婚を約束したシカゴ娘が発狂して悲嘆のどん底にうちひしがれていた頃,彼の前に登場したのがレディ・コンスタンス・マリソン,すなわち女優コレッティ・オニール(Colette O'niel)であった。彼女は,俳優で劇作家のマイルズ・マリソンの夫人で,その頃人気上昇中の舞台女優だった。自由主義者で,純粋の平和主義者であった。ラッセルがよく面倒をみていたクリフォード・アレン(後の労働党議員,大臣,アレン・オブ・ハートウッド卿)の率いる徴兵反対同盟の事務所に毎日来ては封筒のアドレス書きをしたり,事務の手伝いをしていた。ラッセルはこのアレンの紹介でコレッティを知り,会議,演説会,晩餐会とつづくデートの機会を重ねるうちに恋人同志となった。二人の仲をラッセル自らこう説明する-「コレッティは非常に若くて美しい女優であった。そしてオットリーンと同じくらい素晴らしく落ち着いた勇気をもっていた。勇気こそが,わたしが真剣に愛そうとするほどの女性がもつべき不可欠な要素なのである。-わたしが初めてロンドンのホテルで彼女とベッドを共にしていた夜,外の街頭で突如として獣の咆哮するような叫び声が起こるのを聞いた。わたしはすぐさまベッドから飛び降りた。そして窓から,ドイツのツェッペリン飛行船が焔につつまれて墜落してくるのを見た。大衆は,勇敢な飛行士が苦悶しつつ死んでいく光景を頭に描きながらこの喚声を発しているのだった。 自分は戦争を憎悪し,大衆の犠牲を除こうとして反戦運動を展開しているのに,大衆自らは戦勝に踊り狂い,人の死に歓声をあげている。自分をおそう空虚感と大衆に対する失望感に苦悶した。その時,コレッティの愛こそがわたしの救いであった。頼りのないこの世で,コレッティの愛こそがわたしの支えであり,拠りどころだと思った。しかもそれは巌のように揺がない不動のものだった。当時としては計りがたい貴重なものだった……
 それにしても,コレッティの愛は,ラッセルの真剣な愛に応えうるほどのものだったかどうか。彼女とて複雑な性格の女性であることが,次第にラッセル自身にもわかってくるようになる。「献身的な愛情を示したかとおもうと全く無関心な態度をみせたり,或は熱もすぐ冷めて永久に別れようと言い出すようなしまつであった。このような不安定な彼女を操縦するには実のところたいへん難かしい手練を必要とした…」。彼女は熱中しやすいと同時に多情な面があった。ラッセルと恋愛しながらも,夫マイルズ・マリソンとの間はそのまま保った。ラッセルは子供をもちたいと真剣に願っても,コレッティの方はぜったいに子供は欲しくないという立場を固執する。決定的な瞬間が,一九一八年ラッセル入獄中に訪れる。コレッティが他の男性と恋愛をし,それがラッセルの耳に入る。ラッセルのうけた打撃は非常なものであった。自分の聖域が冒涜されたという気持,平和の同志を失うという焦燥感-何よりも彼を苦しめたのは嫉妬の感情であった。恋愛の自由を説いて,嫉妬を人間感情のうちの最劣等のものと論じた彼ではあったが,「嫉妬のためやつれはててしまい,無力感から狂気のようになった」と告白した。(松下注:その後,経験を積むにつれて,嫉妬に身を焦がすことがしだいに少なくなり,1930年に出版した『幸福論』では,「嫉妬は劣悪な感情であるので,克服しなければならない」と確信をもって言えるようになった。)不眠症が二週間も続いたために医師にかからなければならないほどだった。コレッティともついに訣別せざるを得なかった。
(松下注:恋人関係ではなくなったが,会わなくなったわけではない。)

 

コレット・オニールの写真  コレッティから去られてしまったラッセルは,やがて知り合うドーラ・ブラック嬢(Dora Black:右写真は18歳の時のドラ)にこそ「真実の女性像」を見出し得たとおもい,彼女との愛を深めようと努力する。はじめてドーラを知ったのは一九一六年(ラッセル四十四才)の夏であった。ケンブリッジでの教え子の一人のドロシイ・リンチ嬢が友達三人を誘って二日間の徒歩旅行を計画するが,それにラッセル先生を招待した。その中にドロシイと同じガートン・コレジの女学生ドーラがいた。ラッセルがドーラにたいして特別の関心を示したのは,その旅行の最初の夜,みんなで「人生で最も望ましいものは何か」というテーマについて語り合ったとき,ドーラだけは一行の意表をついて「どうしても早く子供を生みたい」と言ったことによってだった。それをきいてラッセルは,「彼女はきっと誠実な女性にちがいない」と思ったし,彼女の言が,つねづね子供をもちたいと願望していた彼の心にアピールしたのだった。だんだんと交際を重ねていくうち,自由で,奔放で,野性的で,情熱的な彼女の性格にひかれていった-「自然を愛し,月光を浴びながら水浴をし,露をふくむ草の上を裸足で走るドーラの姿に小妖精のような魅力を感じた」。ラッセルはすぐにも彼女と結婚したいと思った。しかしドーラは,結婚で自分の自由を縛られたくないと言って応諾しなかった,結婚はしたくないが子供はすぐにでもつくりたいというドーラだったので,おのずと二人は同棲生活に入った。それが一九一九年-「夏,海,美しい田舎。ルールワースでのドーラとの同棲生活はとても楽しいものだった。・・・」。パリヘ,ハーグヘと二人は旅をする。ロシヤ旅行は二人別々の旅であったが,一九二〇年の中国への講演旅行は二人連れ立って赴く。ラッセルはドーラのことを「ミス・ドーラ・ブラック」と呼んでくれるよう頼んだが,中国人の方はラッセル夫人として丁重に遇した。この旅行中にドーラが懐妊していることを知る。ラッセルの喜びは異常なまでであり,ドーラをいたわりながら日本,米国とまわって英国に帰る。一九二一年,英国に帰国して間もなく,アリスとの離婚が正式に成立し,ドーラと正式に結婚する。チェルシーのシドニー街に住み,やがて長男ジョーン・コンラッドが生まれる。一九二三年,長女カザリーン(愛称ケート)が生まれる。それにしてもドーラとの生活は,決して平坦なものではなかった。時に言い争いがあり,トラブルも度々だった。はじめから波乱ぶくみといっていいほどのものだった-,

I.ドーラは子供は自分だけのもので,父の権利は認めないと主張した
II.ラッセルはロンア訪問の後,ロシアに対して批判的な論調を展開したが,ドーラの方はロシア崇拝,ボルシェヴィズム一辺倒を変えなかった
III.ラッセルはどちらかというと内向的な性格だったが,ドーラは激情的で時には無軌道ぶりを発揮した-ラッセルは中国に赴く船中で「二人の間のトラブルを解決するためには,この船から大海に飛び込むほかは無い」とドーラに語ったほどだった
IV.ラッセルが二階で著述に没頭しているのに,階下ではドーラがそこを「労働者産児制限協会」の事務所にしたり,社会運動や婦人運動の同志たちのたまり場にしたり,二回下院に立候補して選挙運動を展開するその事務所にした。
V.ドーラは別に二人の恋人をつくり,その恋人らとの間に二人の子供が出来る。ラッセルはドーラの恋人のうちの一人を家に同居させる。妻の恋愛の自由を認むべきであって嫉妬の感情をいだいてはならないというのが自分の理論であったが「しかし実際にはこのような環境に耐えきれなくなった」と言い出すラッセルだった
VI.一九二七年以来,ドーラと共同で実験学校を経営していたのであったが,教育の根本方針において,また経営の方針において本質的相異が二人の間にあり,それが二人の離別に拍車をかける。こうして一九三二年(ラッセル六十才),二人は別居生活に入る。離婚が正式に成立したのは一九三五年であった。

 

パトリシア・スペンスの写真  一九三二年,ドーラと別居してカーン・ヴェールに移り,執筆に没頭するのであるが,その時,マージョリー・スペンス嬢(愛称パトリシア,またはピーター:Patricia Spence)をアシスタントとして雇う。その時パトリシアはまだオックスフォード大学の女学生だった。口述の筆記,調べものの整理,身辺の手伝い等,パトリシアはまめまめしくラッセルに尽した。こうして一緒に仕事をつづけていくうち,ラッセルは彼女を愛しはじめる。ドーラとの離婚が正式に成立した翌年(一九三六年-ラッセル六十四才),パトリシアと結婚する。その明くる年,次男コンラッドが生まれた。一九三八年,シカゴ大学の客員教授として招聘されたラッセルは,パトリシアとコンラッドを伴って渡米する。あとで長男ジョーンと長女ケートも来て合流する。有名な「バートランド・ラッセル事件」が起ってラッセル一家には苦しいアメリカ生活が余儀なくされる。一九四四年,第二次世界大戦末期の危険をおかして一家は英国に帰る。ラッセルは,再びケンブリッジ大学の教壇に復帰し,再び北欧へ,南欧へと講演旅行が忙しくなる。イタリアヘの旅行に際してパトリシアをも伴っていくが,そうした旅行中にも,ラッセルの変転きわまりない生活,広範な交友,取り組む仕事のスケールの大きさと内容の複雑さ,それらがだんだんとパトリシアに重圧を感じさせるようになる。平凡な家庭生活をまもるだけが願いのパトリシアにとって,とてもついていける限界を越えていくのだった。イタリアにラッセルを残したまま彼女は単身英国に帰ってしまう。二人はそのまま別居生活に入り(一九四八年),一九五二年に正式に離婚する。

 

エディス・ラッセルの写真  一九五〇年(ラッセル七十八才),ラッセルはオーストラリアヘ講演旅行,つづいてコロンビア大学から客員教授として招聘されて渡米する。その年,ノーベル文学賞受賞の報をアメリカでうける。ラッセルはニューヨークで当時四十八才のミス・工ディス・フィンチ(Miss Edith Finch)と再会する。ラッセルは前に一九三一年,講演のためアメリカに赴いてブリン・マー大学に行ったとき,同大学教授だったエディスと会ったのが初対面であったが,このたび,未婚のままニューヨークで著述生活にいそしんでいたエディスと再会するのである。エディスは十七世紀にアメリカに渡った由緒ある家柄の出であった。パリ留学の学生時代は,なかなか活発な娘でサーカスに出て裸馬に乗ったりしたこともあった。
 二人の間は急速に親密になっていくとともに,離れがたい心の結びつきを感じるのだった。ラッセルは,たがいの思想や趣味が全く一致していることを知った。思いやりのある,気だてのやさしいエディスと一緒に居るだけで,彼は心の安らぎをおぼえ,満足感にひたった。ラッセルとエディスは,真剣に,そして熱烈に愛し合った。一九五二年(ラッセル八十才),ラッセルはパトリシアとの離婚が正式に成立するとともに,エディスと結婚した。
 エディス夫人は,どちらかというと東洋的なやさしさをたたえ,つねに微笑みをふくみ,影の形にそう如くラッセルにつきそった。トラファルガー広場の集会でも,ホワイト・ホールヘの平和行進でも,国防省玄関先での坐り込みデモでも,逮捕されて囚人護送車で送られるときでも,エディス夫人はいつもラッセルの側を離れることがなかった。そのエディス夫人に残したラッセルの言葉が彼の自叙伝の扉を飾っている。
「今老いて,そして人生の終りに来て,わたしはあなたを知った。そうしてあたたを知って初めて喜びと平和を見出した。あの長い寂しい月日を経て,わたしはいまようやく安らぎを得ている。いま眠りにつくとすれば,わたしは心満たされて眠ることであろう」(出典
 ラッセルは九十七才を一期として,その波乱にとんだ生涯を,エディス夫人にみとられつつ,心満たされつつ閉じたのである。

 

 ラッセルが恋愛に求めたものは,真実に生きるということであった。ラッセルは言う-
「恋愛は真実であり,真剣なものでなければならない。事実である恋愛の情を隠そうとするのも,またそれを認めようとしないのも,それは偽善である。たとえ結婚後といえども,真実の恋愛であるかぎり,それは認められなければならない-しかも夫婦の両方に平等に認められなければならない。それをもって離婚の理由にしてはならない」
 彼は,恋愛は高く評価されなければならないとした-
「恋愛は歓喜の源泉である。恋愛は,音楽とか,山頂の日の出とか,満月下の大海とかいったような最も良い快楽を一層大きくしてくれる。愛し合う幸福な者同志の深い親愛感と,強い共同意識を味わったことのない人たちは,人生にとって欠くことのできない最良のものを見失っている」
 彼は,結婚は真実の恋愛と一致しなければならないとした-「真実の愛のない結婚や,外面をとり繕ろい,利害を打算し,世間をはばかる形式だけの結婚は欺瞞である。愛と幸福のない結婚生活であるならば,みせかけだけの体裁をつくろうよりはむしろ別れた方がいい。その方が自然であり,真実の生き方である…
 良い結婚の真髄は,男女の間の厳粛な愛を,あらゆる人間的経験のうちで最も実り豊かなものにする肉体的,精神的,霊的なあの深い結合であり,相互の人格にたいする尊敬である。このような愛は,あらゆる偉大なものの例にもれずそれ自身の道徳律を要求する。わたしが説きたいとおもう原理は,放縦に類するものではなく自制を要求するものである。自制は,自分の自由を拘束することよりも,他人の自由に対する干渉をさし控えることに多く用いられる
 彼は,嫉妬は人間感情のうちで最劣等のものであるとした-「嫉妬は結婚生活を芳醇なものにするのを妨げてきた。嫉妬は本能的情緒ではあるけれども,正しい道徳的な怒りの表現であるとは考えられない。悪いと思えば抑えることもできるものである。自分の恋人や,夫婦のどちらかが他と恋愛をした場合,自由で喜びに満ちた愛という感情の方を抑制すべきではなく,嫉妬という否定的で劣悪な感情の方を抑制すべきである……嫉妬心のような忌むべき感情のあるかぎり,私達はけっして幸福にはなれない」
 ラッセルは,恋愛と結婚に対する道徳律が必要だとしてこう述べた-わたしの提唱したい道徳律は,思春期の者や成人となったばかりの者に向って,君の衝動の赴くままにせよ,君の好きなようにしたまえと言うことではない。人生には節操がなければならない。他人にたいする思いやりがなければならないし,ある公正な標準がなければならない」(了)

(注)恋愛と結婚に関するラッセルの所論を研究するための参考文献
Principles of Social Reconstruction, George Allen and Unwin, 1916
Marriage and Morals, George Allen and Unwin, 1929
The Conquest of Happiness, George Allen and Unwin, 1930
The Autobiography of B. Russell, 3vols., George Allen and Unwin,1967-1969
・『社会改造の原理』(松本悟朗訳,三協出版社)
・『結婚と道徳』(江上照彦訳,社会思想杜)
・『結婚論』(柿村峻訳,角川文庫/後藤宏行訳,みすず書房)
・「愛と性の位置」(『結婚論』の一部,万沢遼訳,河出書房)
・『幸福論』(堀秀彦訳,角川文庫/片桐ユズル訳,みすず書房)
・『ラッセル自叙伝全3巻』(日高一輝訳,理想杜)