(貴族の次男である)ラッセルが(5歳年上の平民の米国人女性)アリスに求婚

ALICE-P 私(注:1893年,21歳の時)が、その当時の慣習に従って、はっきりと(5歳年上の米国人女性アリスに求婚するにいたったのは、際限のない躊躇と心配のあげく、ようやく朝食の後のことであった。プロポーズは、承諾もされなかったし、拒絶もされなかった。私は、彼女にキスをしようとも、また手を握ろうとさえしなかった。お互い、継続して会い続け、文通を引き続き行うことで合意し、結婚するかどうかは、時(間)に解決させることにした(写真:ウェディング・ドレスを着たアリス,1894年12月13日)。
すべてこうしたことは屋外での出来事であったが、私たちがついに昼食のため戻って来た時、彼女は、 --禁酒に関する説教の支援をしてもらうため、彼女をシカゴ万国博覧会(松下注:1893年開催)に招待するという --レディ・ヘンリー・サマセット(Lady Henry Somerset,1851-1921)からの手紙を見つけた。禁酒の美徳は、当時のアメリカでは、十分普及していないと考えられていた。アリスは、母親から熱烈な絶対禁酒’の信念を受け継いでおり、この招待に非常に大得意だった。彼女は勝ち誇ったようにその手紙を読み上げ、熱狂的にその招待を承諾した。そのことで私は、かなり肩身の狭い思いをした。というのは、それは数ケ月間の彼女の不在と彼女の興味あるキャリアの開始であろうことを意味したからである。
自宅(Pembroke Lodge)に戻ってから、私は、一部始終を家族に話した。すると彼らは、型にはまった因襲に従い、反応した。彼らは言った。アリスはレデイ(淑女/貴族の娘や妻)ではない、幼児誘拐魔だ、下層階級のやま師だ、私の未熟につけいろうとしている女だ、いかなる上品な感情も持っていない人間だ、作法知らずのために私(ラッセル)を一生恥ずかしめるような女だ、と。しかし私は父から相続した約2万ポンド(注:現在の物価に換算すると、4~5億円か?)の財産をもっていたので、家族の言うことには全然耳をかさなかった。彼らとの間柄は非常に緊張したものとなり、それは私の結婚後まで続いた。

It was only after breakfast, and then with infinite hesitation and alarm, that I arrived at a definite proposal, which was in those days the custom. I was neither accepted nor rejected. It did not occur to me to attempt to kiss her, or even take her hand. We agreed to go on seeing each other and corresponding, and to let time decide one way or the other.
All this happened out-of-doors, but when we finally came in to lunch, she found a letter from Lady Henry Somerset, inviting her to the Chicago World’s Fair to help in preaching temperance, a virtue of which in those days America was supposed not to have enough. Alys had inherited from her mother an ardent belief in total abstinence, and was much elated to get this invitation. She read it out triumphantly, and accepted it enthusiastically, which made me feel rather small, as it meant several months of absence, and possibly the beginning of an interesting career.
When I came home, I told my people what had occurred, and they reacted according to the stereotyped convention. They said she was no lady, a baby-snatcher, a low-class adventuress, a designing female taking advantage of my inexperience, a person incapable of all the finer feelings, a woman whose vulgarity would perpetually put me to shame. But I had a fortune of some £20,000(pound) inherited from my father, and I paid no attention to what my people said. Relations became very strained, and remained so until after I was married.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 4: Engagement, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB14-120.HTM

[寸言]
Downton_Abbey NHKで現在放映されている「(英国貴族の館)ダウントン・アビー」からもわかるように,第一次世界大戦前の貴族の子弟が平民の女性と結婚するようなことはほとんどまったくといってよいほどなかった(考えられないことであった)。従って、英国名門貴族の子弟のラッセルが平民の、しかも5歳も年上の米国人女性にプロポーズしたと聞いた家族(といっても両親はラッセルが幼児の時に亡くなっていたので祖父母であるが)は驚天動地のごとくあわてて絶対に阻止しようとしたであろう。
紆余曲折の後、家族の反対を押し切って二人は結婚したが、幸せな結婚生活は10年も続かなかった。1911年に別居し、正式に離婚したのは、裁判で決着する1921年のことであるが、1901年には既に結婚生活は完全に破綻していた。

知的誠実 -ケンブリッジ大学で身につけた真に価値ある一つの思考習慣

logicomix_br-lecture 私がケンブリッジで身につけた真に価値ある一つの思考習慣は,知的誠実ということであった。この美徳は,単に友人たちの間ばかりでなく,教師たちの間にも,確かに存在していた。私は,学生の誰かが先生の誤りを指摘した時,指摘されたことに憤慨した教師の実例を一つも思い出せないが,学生がこのような手柄をなしとげることに成功した機会は,かなりの数,思い出すことができる。ある時,流体静力学の講義中に,若い学生の一人が講義をさえぎってこう言った。「先生はフタにかかる遠心力を忘れていはませんか?」と。その講師は驚いて息を止め,そうしてこう言った「・・・私は20年間この例をそういう風に扱ってきた。しかし君の方が正しい」と。
 第一次世界大戦中,ケンブリッジ大学においてさえ,’知的誠実さ’に限界があることを発見したのは,私にとって打撃であった。それまでは,私は,どこに住んでいようと,ケンブリッジ大学だけがこの地上において安息所(我が家)とみなせる唯一の場所であると感じていた。

The one habit of thought of real value that I acquired there was intellectual honesty. This virtue certainly existed not only among my friends, but among my teachers. I cannot remember any instance of a teacher resenting it when one of his pupils showed him to be in error, though I can remember quite a number of occasions on which pupils succeeded in performing this feat. Once during a lecture on hydrostatics, one of the young men interrupted to say: ‘Have you not forgotten the centrifugal forces on the lid? The lecturer gasped, and then said : ‘I have been doing this example that way for twenty years, but you are right.’
It was a blow to me during the War to find that, even at Cambridge, intellectual honesty had its limitations. Until then, wherever I lived, I felt that Cambridge was the only place on earth that I could regard as home.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-340.HTM

[寸言]
 「誠実」にもいろいろな種類がある。”他人の信頼”を裏切らない「誠実さ」(そのためには嘘をつくこともある。いわばヤクザの誠実さ)もあれば、なんであれ”言ったことを否定しないという(人に対するというより発言に対する)「誠実さ」もある。
しかし、自分の言ったことに「誠実」といっても2種類ある。自分が言った以上(それが間違ったことであてっても)「否定」しないで責任をとるという「誠実さ」もあれば、自分が間違ったことを言ったらすぐに修正する(したがって「変節」もありうる)という、真理や真実に対する「誠実さ」もある。
abe_underf-control_people 欧米人には後者の意味での「誠実さ」を大事にする人が少なくないが、日本人にはそういった意味での「誠実さ」を大事にしない人が少なくないのではないだろうか? だから、論理的に矛盾したことを言ってもあまり気にしないことになる。政治家に多いタイプであろう。自分は「ぶれない」「ぶれていない」と主張することを売りにして、従って過去の矛盾するような発言について苦しい弁解をすることになる。
 間違っていることがわかれば、すぐに発言を訂正して反省し、出なおしてもらいたいが・・・。安倍総理、あなたのことですよ!

秘密の学生団体「使徒会」 ”The Apostles”

Cambridge_Apostles 私のケンブリッジ大学時代における最大の幸福は,会員の間では,ザ・ソサエティ(The Society/学会)という名で知られていた --この会のことを知っている外部の人たちは,使徒(会)(The Apostles)と呼んでいた-- ある団体に結びついていた。(注:以下,「使徒会」という訳語をあてます。)使徒会は,小規模の討論会(討論を目的としたグループ)であり,平均して各年(毎年),1,2名ずつ入会しており,毎週土曜夜に会合をもっていた。使徒会は1820年以来存在しており,創設以来,ケンブリッジ大学の人間で,何らかの分野において知性に優れている人は,ほとんど会員になっていた。使徒会は秘密ということになっているが,それは,会員候補として検討(対象)となっていることに当該人物が気づかないようにするためである。私がそのように早く,最も知り合いになる価値のある人々を知るにいたったのは,この’使徒会 の存在のおかげであり,(また)ホワイトヘッドが会員であり,彼が若い会員たちに,サンガーと私が提出した奨学金請求論文をよく研究した方がいいと,薦めていたからである。ごくまれな例外を除いて,会員はすべて,いずれかの時期,個人的に親密な友人であった。
Nevile'sCourt-Cloisters 議論にあたっての原則は,何のタブーも設けないこと(どのような主題や事柄も議論の対象となること),何の制限も設けないこと,どんなことを言われてもショッキングなこととは考えないこと,絶対的な思索の自由にいかなる障壁も設けないこと,であった。我々はあらゆる種類の事柄を論じあった。もちろん疑いもなく未熟さはあったが,(会を離れた)後にはほとんど不可能な’公平さ’と’興味’をもって議論を行った。例会は通常いつも深夜1時頃に終わった。そうして,そのあと私はいつも,1人か2人の他の会員とともに,ネヴィルズ・コートの回廊(写真:Nevile’s Court の回廊を行ったりきたり,数時間歩いたものである。我々は,たぶん,自分自身に対しかなり厳格であったように思う。なぜならば知的誠実という徳性は,自分たちが保持すべきもの(守るべきもの)であると考えていたからである。疑いもなく我々はこの徳(性)を,世間平均以上に,成就しており,そうして私は,ケンブリッジ大学の最良の知牲は,この点において顕著であり続けたと考えたい。私は第2学年の中頃にこの会の会員に選ばれた。だが,そのような会が存在することは全然知らなかったが,会員は皆すでに私と親しい間柄にあった。

Nevile'sCourtThe greatest happiness of my time at Cambridge was connected with a body whom its members knew as ‘The Society’, but which outsiders if they knew of it, called ‘The Apostles’. This was a small discussion society, containing one or two people from each year on the average, which met every Saturday night. It has existed since 1820, and has had as members most of the people of any intellectual eminence who have been at Cambridge since then. It is by way of being secret, in order that those who are being considered for election may be unaware of the fact. It was owing to the existence of The Society that I so soon got to know the people best worth knowing, for Whitehead was a member, and told the younger members to investigate Sanger and me on account of our scholarship papers. With rare exceptions, all the members at any one time were close personal friends. It was a principle in discussion that there were to be no taboos, no limitations, nothing considered shocking, no barriers to absolute freedom of speculation. We discussed all manner of things, no doubt with a certain immaturity, but with a detachment and interest scarcely possible in later life. The meetings would generally end about one o’clock at night, and after that I would pace up and down the cloisters of Nevile’s Court for hours with one or two other members. We took ourselves perhaps rather seriously, for we considered that the virtue of intellectual honesty was in our keeping. Undoubtedly, we achieved more of this than is common in the world, and I am inclined to think that the best intelligence of Cambridge has been notable in this respect. I was elected in the middle of my second year, not having previously known that such a society existed, though the members were all intimately known to me already.
[From: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
http://russell-j.com/beginner/AB13-250.HTM

[寸言]
東大始め、著名な大学にはこういった秘密の学生団体がありそうである。ただし、英米と異なり、日本の場合は、大学や大学のOBが裏でかかわっていそうである。たとえば、東大法学部には土曜会という保守で右翼っぽい人間の集まり(読書会)があったが、今でも別の形で存在していそうである。
ちなみに、土曜会には次のマンバーが過去に在籍していた。

若泉敬、佐々淳行、粕谷一希、谷内正太郎ほか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E5%9C%9F%E6%9B%9C%E4%BC%9A

大学で自分より知的に優れている人を見つけたい-希望・失望そして自信

BR-1891 ケンブリッジ大学時代の最初(の瞬間)から、私は、恥ずかしがり屋であったにもかかわらずとても社交的であった。(写真は1891年,ラッセル19歳の時)そうして私が(学校にいかずに)家庭でずっと教育を受けてきたことは何ら障害にならないことがわかった。しだいに私は、気の合った者同士のつきあいの影響のもと、しだいに生真面目でなくなった。自分の考えたことを言うことができ、またそれが怖がられもせず、あざけりもされず、あたかもかなり分別あることを言ったかのように応答されることを発見し、私は最初は、興奮した。長い間私は、まだ会ったことがなくあえばすぐに私よりも知的に優れていることわかるような、本当に頭の良い人間がこの大学のどこかにいるだろうと、想像していた。しかし学部2年生の時すでに、大学で最も頭のいい人達をすべて知りつくしてしまったことがわかった。それで私は失望すると同時に、自信が増した。

Graduate_shoutsFrom my first moment at Cambridge, in spite of shyness, I was exceedingly sociable, and I never found that my having been educated at home was any impediment. Gradually, under the influence of congenial society, I became less and less solemn. At first the discovery that I could say things that I thought, and be answered with neither horror nor decision but as if I had said something quite sensible, was intoxicating. For a long time I supposed that somewhere in the university there were really clever people whom I had not yet met, and whom I should at once recognize as my intellectual superiors, but during my second year, I discovered that I already knew all the cleverest people in the university. This was a disappointment to me, but at the same time gave me increased self-confidence.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-150.HTM

[寸言]
人間の(全体的・総合的)能力を測定することは難しい。確かに、数学とか物理学とかか、文才とか、身体能力とかいった、個々の能力の優劣はつきやすい。しかし、知的能力全体を比較し優劣を決めることは難しい。どれだけの知識分野で比べれば十分かもわからないし、IQの得点だけで評価できるものでもない。
ラッセルはかつて、ケインズのことを「これほど頭の切れる人物にあったことがなかった]」と語っているが、それも総合的・全体的能力でラッセルより優れていたとも劣っていたとも測定しようがない。ケインズは数学的能力ではラッセルに劣っていたであろうし、諸科学に対する理解力でも同様であろう。
したがって、大学受験でどの大学のどの学部に受かったかということだけで、人間の知的能力の序列を決めることは馬鹿げている

大学にあがるまで自分は一生不幸な人生を送るだろうと思っていたラッセル

kaisin 私は、大人になったら数学で何か重要なことをなそうという決意によって、精神的に支えられた。しかし、私は、(心から)親しくなれる相手、即ち、いかなる思想であれ、自由に私の考えを述べることができる相手、にめぐり会えるなどとは思わなかった。また、私の人生の一期間でも、大きな不幸からまぬがれることができるだろうとは期待してもいなかった。(漫画:梅田梅太郎氏に提供していただいたもの
★ 漫画の全体 http://russell-j.com/beginner/BR-COMIC.pdf )

I was upheld by the determination to do something of importance in mathematics when I grew up, but I did not suppose that I should ever meet anybody with whom I could make friends, or to whom I could express any of my thoughts freely, nor did I expect that any part of my life would be free from great unhappiness.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 2, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-150.HTM

[寸言]
PHOTO07-W大学に入学し、幸い、生涯の友を得ることができた。そして、ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジが世界中で最も居心地のよい場所であると思うようになったが、それも、第一次世界大戦の時、反戦の署名をしていた同僚の多くが主戦論にまわり、ラッセルは孤立することになって打ち砕かれ、ケンブリッジ大学にも「知的誠実性」に限界があることを知り愕然とすることになる。(写真はラッセルが学んだトリニティ・コレッジの正門、1980年夏に松下撮影)

ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ奨学生資格試験の準備

waidan_ueno-chizuko 16歳の誕生日を迎える直前,私は,当時田舎にあったオールド・サウスゲートの陸軍のクラマー(受験準備のための学校)に入学させられた。私がそこにやられたのは,陸軍に入るための受験準備が目的ではなく,ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジの奨学生資格試験(準備)のためであった。けれども,聖職につこうとする1,2の’地獄行き’の者を除いて,ほとんど全員が,陸軍に入ろうとしていた。私を除いた全員が,17か,18か,19(歳)であったので,私が最年少であった。彼らは皆,ちょうど売春婦のところに頻繁に通いはじめる年頃であり,売春婦通いが彼らの会話の主な話題であった。彼らのなかで最も賞賛されていたのは,以前梅毒にかかったが治ったと主張していた青年であり,そのことは,彼に大いなる栄光を与えた。彼らは車座に座り,猥談をするのを習慣としていた。どんな出来事も,彼らは淫らな話をする機会にしてしまった。ある時,その受験予備校(の教師)が,彼らのうちの一人に,一枚の書き付けをもたせ,近隣の家に届けさせた。戻って来た彼は,みんなに,ベルを鳴らしたらメイド(女中)が出て来たので,彼女に彼が,「手紙(letter はフランス語で’コンドーム’の意味もある)持って来ました」と言ったら,それに対して彼女は,「あなたが’手紙’を持って来てくださり,私は嬉しい。(もちろん彼女はフランス語の’letter’には’コンドーム’の意味もあることは知らないであろう。)」と答えた,と語った。
ある日,教会で,「いざや我がエベネゼル(注:イスラエル人の勝利を記念してサムエルが建てた石の名)を高くかかげん」という賛美歌の中の一句が歌われると,彼らは,「私は今までそのように(男性のシンボルのことを我がエベネゼルと)呼ばれるのを聞いたことがない」と言った。(注:I’ll raise my Ebenezer は,「男性のシンボルを奮いたたせよう!」といった意味にもとれるということか?)

Just before my sixteenth birthday, I was sent to an Army crammer at Old Southgate, which was then in the country. I was not sent to in order to crammer for the Army, but in order to be prepared for the scholarship examination at Trinity College, Cambridge. Almost all of the other people there, however, were going into the Army, with the exception of one or two reprobates who were going to take Orders. Everybody, except myself, was seventeen or eighteen, or nineteen, so that I was much the youngest. They were all of an age to have just begun frequenting prostitutes, and this was their main topic of conversation. The most admired among them was a young man who asserted that he had had syphilis and got cured, which gave him great kudos. They would sit round telling bawdy stories. Every incident gave them opportunities for improper remarks. Once the crammer sent one of them with a note to a neighbouring house. On returning, he related to the others that he had rung the bell and a maid had appeared to whom he had said: ‘I have brought a letter’ (meaning a French letter) to which she replied: ‘I am glad you have brought a letter.’ When one day in church a hymn was sung containing the line: ‘Here I’ll raise my Ebenezer,” they remarked: “I never heard it called that before!’
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 2, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-090.HTM

[寸言]
当時の英国では、貴族の子弟は学校教育を受けることなく、個人家庭教師によって種々の教養を身に着けていました。ラッセルの場合も、幼稚園に通ったのと、大学受験の予備校に通った他は、学校教育を受けたことはありませんでした。
ラッセルがケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジの奨学生資格試験準備のために通った予備校(クラマー)の生徒は大部分が陸軍に行こうとする若者(ラッセルより年上)であり、猥談にあけくれる姿を目にして,青年ラッセルはショックを受けます。
なお、大学教育を受けるのはケンブリッジ大学にあがってからですが、(多くの貴族の子弟も同様でしょうが)ラッセルは,大学に入学する前に既に,(叔父から科学教育を受けたことも含め)今日の大学生が4年間で学ぶ以上の「教養」を身に着けていたことを頭においておいたほうがよいでしょう。

青年期にシェリーの詩を読んで感激

shelley 私は偶然シェリー(P. B. Shelley, 1792 – 1822:英国を代表するロマン派詩人)に出会った。ある日私は,ドーヴァー・ストリートにあるモードおばさんの家の居間で,彼女を待っていた。そこにあるシェリーの詩の本をとって開いたら,「アラスター-または孤独の霊-」の部分だった。それは,私がかつて読んだもののなかで,最も美しい詩だと思われた。もちろん,その詩(アラスター)の非現実性は,私がアラスターを賛美する最大の要素であった。おばさんが家に着いた時,ほぼ半分ほど読んでしまっていたが,私はその本を書棚にもどさなければならなかった。私は,大人たちに,シェリーを偉大な詩人と考えられないかどうか尋ねたが,彼らはシェリーをよく思っていないことがわかった。けれども私は,このことで躊躇せず,私は暇な時はいつもシェリーを読んだり,暗記したりして過ごした。私は,自分考えたり感じたことを話すことができる相手は誰もいなかったので,私はしばしば,シェリーを知るということが何と素晴らしいことだろうか,また,現在生きている人でこんなに共感できる人とはたしてめぐり逢えるものだろうか,と思った。

shelley-sisyuI came upon Shelley by accident. One day I was waiting for my Aunt Maude in her sitting-room at Dover Street. I opened it at Alastor, which seemed to me the most beautiful poem I had ever read. Its unreality was, of course, the great element in my admiration for it. I had got about half-way through when my Aunt arrived, and I had to put the volume back in the shelf. I asked the grown-ups whether Shelley was not considered a great poet, but found that they thought ill of him. This, however, did not deter me, and I spent all my spare time reading him, and learning him by heart. Knowing no one to whom I could speak of what I thought or felt, I used to reflect how wonderful it would have been to know Shelley, and to wonder whether I should ever meet any live human being with whom I should feel so much in sympathy.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 2, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-050.HTM

[寸言]
PLAS03 ラッセルは青年時代にシェリーの詩にであい、感銘を受け、生涯、愛読することになる。シェリーは裕福な貴族の家に(長男として)生まれ、因習を嫌い、オックスフォード大学を追放され、放浪の詩人となる。1811年(19歳)の時に『無神論の必要』 を出すとともに、結婚制度を否定し自由恋愛を信奉する。このように、シェリーはラッセルとの共通点を多くもっている。
ラッセルは晩年、北ウェールズのプラス・ペンリンの自宅で死ぬまでEdith と暮らしたが、その家からはシェリーが住んでいたタニーラルトを眺めることができた。ラッセルはそのことについて、下記のページにある書簡のなかで述べている。(写真:ラッセルの秘書 C. Farley、牧野力教授、ラッセルの4番目の妻 Edith, 全員故人)
「タニーラルトのシェリー」
http://russell-j.com/beginner/DBR5-41.HTM

ラッセルの思春期の思索-性と宗教と数学

青年期の数年間の私は,とても孤独であり,不幸であった。感情生活においても(情緒面においても),知的生活においても,ラッセル家の人々に対して,頑なに秘密を保つことを余儀なくされた私の関心は,性と宗教と数学の間にわけられた。私は,青年期に性に没頭したことを想い出すと不愉快になる。あの頃私が,どういうふうに感じていたかを思い出したくない。しかし,こういうふうであればよかったといった希望的なことはのべずに,事実あった通りを以下述べるよう最善を尽くしてみよう。・・・。

GREEK-EXThe years of adolescence were to me very lonely and very unhappy. Both in the life of the emotions and in the life of the intellect, I was obliged to preserve an impenetrable secrecy towards my people. My interests were divided between sex, religion, and mathematics. I find the recollection of my sexual preoccupation in adolescence unpleasant. I do not like to remember how I felt in those years, but I will do my best to relate things as they were and not as I could wish them to have been.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB12-010.HTM

[寸言]
『ラッセル自伝』(The Autobiography of Bertrand Russell, 3 vols.)には,膨大な量の書簡や日記が収録されています。幼児期のものは少しだけですが、青年期のものは多く含まれています。青年期の日記は祖母などにみられたくないということで、鍵付きの日記帳に「ギリシア語練習帳」とタイトルがつけられ、ギリシア文字で綴られています。(上の添付写真参照) 15歳くらいからいろいろな思索が綴られており、なかでも宗教(キリスト教)に関してできるだけ客観的に検討しようとした努力を垣間見ることができます。この思索の末についに宗教(キリスト教信仰)を捨てることになります。

TPJ-WIC1 ラッセルのギリスト教に対する批判は容赦がなく、キリスト教の信者からは、ラッセルは,(日本の宗教家からさえも)宗教(特にキリスト教)の本質や役割がわかっていないと批判されます。しかし、特定の宗教を信じている人たちは、信じることを決めたらそれ以上の疑問をもたないようにしているだけであり、ラッセルのように宗教や神について疑問に思ったことについて徹底的に「自分の頭」で考えたことがない人がほとんどです。

それに対し、宗教の場合は「信じることが重要だ」と言う人がいますが、それなら「どんな宗教でも信じさえすればよいのか」と言うと、その人(ラッセルを批判する人)が信じている宗教を信じることはよいが、それ以外の邪教を信じることは無宗教よりもっと悪いと言ったりします。

キリスト教とイスラム教の対立も、これでは解決しようがありません。これに対し、日本の場合一神教ではなく多神教(八百万の神の崇拝)だからよいと自分たちの優位性をほこる人も少なく無いですが、(日本会議にみさなんを始め)同様に浅はかな人が多いと言わざるをえません。

数学は(両親なき後)祖母に育てられた孤独なラッセルの希望の星であった

PHOTO4 (幼児期朝は非常に早く目が覚め,時々金星が出ているのが見えた。ある時,金星森の中のランタン(角灯)と見まちがえた。たいていの朝,日の出を見たし,4月の晴れた日には時々家から抜け出して,朝食前に長い散歩をよくした。日没(の太陽)が大地を赤く染め,雲を黄金色に染めるのを見まもった。風の音に耳を頓け,雷の稲光りに歓喜した。(写真:祖父母の自宅 Pembroke Lodge の庭から西方を望む/松下が1980年8月に撮影)
幼少時代を通じて,孤独感がしだいに増すとともに,誰か語り合うことのできる人間に会うことについて(会えないのではないかという)絶望感がしだいに増していった。(そうして)自然と本と(後には)数学が,私が完全に意気消沈するのを救ってくれた。

In the morning I woke very early and sometimes saw Venus rise. On one occasion I mistook the planet for a lantern in the wood. I saw the sunrise on most mornings, and on bright April days I would sometimes slip out of the house for a long walk before breakfast. I watched the sunset turn the earth red and the clouds golden; I Iistened to the wind, and exulted in the lightning. Throughout my childhood I had an increasing sense of loneliness, and of despair of ever meeting anyone with whom I could talk. Nature and books and (later) mathematics saved me from complete despondency.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-210.HTM

[寸言]
br_young11 ラッセルは3歳までに両親が亡くなり、(兄とともに)祖母に引き取られて育てられることになった。しかし、祖母は深い愛情をもってはいたが孫を厳しく育てた。従って,両親に甘えるような愛情を経験することができなかった。(添付写真は11歳の時のラッセル)
この孤独感はラッセルが18歳の時ケンブリッジ大学に入学して生涯の友を得るまで続くことになる。ある意味では、この孤独感は生涯続くが、結婚し、1921年に長男が(再婚相手との間に)生まれることにより、かなりやわらぐことになる。
その後、自殺衝動がたびたび訪れるが,数学をもっと知りたい・研究したいという欲求がラッセルを自殺から救うことになる。

幼児期の恥ずかしい思い出のひとつ - 子供の心、親知らず

Einstein_Imagination 最も鮮明な,幼い時の私の記憶の多くは,恥かしい思い出(記憶)である。1877年の夏(ラッセル5歳),祖父母はカンタベリー大主教(注:英国国教会とその世界的組織である聖公会(アングリカン・コミュニオン)の最上席の聖職者)からブロードステアーズの近くのストーン・ハウスと呼ばれた一軒の家を借りた。そこへゆく汽車の旅は私にはとても長いものに思われた。しばらくして私は,スコットランドに到着したに違いないと考えはじめていたので,次のように言った。

僕たちは今どの国にいる?

祖父母たちはみんな私のことを笑って言った。

海を渡らなくては英国から外に出られないということを知らなかったの?

私はあえて説明しようとはしなかった。そして恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
松下注:言うまでもなく,ラッセルが言いたいのは,英国は,イングランド,スコットランド,ウェールズ,北アイルランドおよび植民地だった自治領等から構成されており,スコットランドは狭義の意味ではイングランドとは別の国のはずだということ。)

Many of my most vivid early memories are of humiliations. In the summer of 1877 my grandparents rented from the Archbishop of Canterbury a house near Broadstairs, called Stone House. The journey by train seemed to me enormously long, and after a time I began to think that we must have reached Scotland, so I said:
‘What country are we in now ?
They all laughed at me and said:
‘Don’t you know you cannot get out of England without crossing the sea ?’
I did not venture to explain, and was left overwhelmed with shame.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-170.HTM

[寸言]

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親からみた場合,子供の発言は,時に想像力豊かに見えたり,幼く見えたりする。親も自己中心的なところや先入観があり,「子供の言うことだから・・・(あてにならない/言葉通りに受け取ることはない)」と言うかと思うと,「子供は(そのようなことで)嘘をつかない・・・」と言ったりして,自分の都合の良い解釈をしたりする。ラッセルの場合も同じであり,親が想像する以上に知的に早熟であるとともに,周囲の大人には理解されない子供らしい感受性も多く持っていた。それゆえ,しだいに内向的になっていくことになる。

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