知的戯言の概要(1943) n.61(完)

 そういった信仰が、冷徹な科学によってすっかり置き換えられてしまえば、恐らく世界は、その興味のいくつかと多様性を失うことであろう(Pehaps + would)。もしかすると(Pehaps)、私達は、アブセダリアンズ(Abecedarians)のことを喜ぶことを自分自身に許してしまうかも知れない。彼らは、あらゆる冒涜的な(profane 神聖を汚す)学習を拒否し、ABCを学ぶのは邪悪であると考えたために、そう呼ばれたのである。そうして、私達は、ナマケモノがノアの洪水以後どうやってアララト山からペルーまでの旅 -大洪水以降、旅行は、移動の極度の遅延によってほとんど信じられないほどになった(はずである)- ができたのか疑問に思ったイエズス会士の当惑を楽しむかも知れない。
賢明な人間は、豊富に供給される財貨(goods)を享受するだろうし、知的なゴミのようなもの(財貨)からも、 他の時代と同様、現代においても、豊富な食事(味わうもの)を見つけるだろう。
(参考:助動詞のmayの意味を使い分ける!知っておくべきポイントとは?
→ https://kimino-school.com/study/post-2660/)

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.61
Perhaps the world would lose some of its interest and variety if such beliefs were wholly replaced by cold science. Perhaps we may allow ourselves to be glad of the Abecedarians, who were so called because, having rejected all profane learning, they thought it wicked to learn the ABC. And we may enjoy the perplexity of the South American Jesuit who wondered how the sloth could have traveled, since the Flood, all the way from Mount Ararat to Peru — a journey which its extreme tardiness of locomotion rendered almost incredible. A wise man will enjoy the goods of which there is a plentiful supply, and of intellectual rubbish he will find an abundant diet, in our own age as in every other.

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知的戯言の概要(1943) n.60

私は特に1820年頃、ニューヨーク州北部の湖畔に住んでいたある女予言者を称賛している。彼女は無数の信者達に向かって、自分は水の上を歩く力をもっていると宣言し、そうして、ある朝の11時に水の上を歩くことにしようと提案した(proposed to)。決められた時刻になると、信者達が何千人も湖畔に集まった。女予言者は信者達に話しかけ、次のように言った。「皆さんは、私が水の上を歩くことができると、本当に信じていますか?」。彼らは一斉に「はい、信じています」と答えた。「それなら」・・・「私が水の上を歩く必要はありません」と彼女は宣言した。そうして、彼らは皆大いに啓発されて帰宅した(とのことである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.60
I admire especially a certain prophetess who lived beside a lake in Northern New York State about the year 1820. She announced to her numerous followers that she possessed the power of walking on water, and that she proposed to do so at 11 o’clock on a certain morning. At the stated time, the faithful assembled in their thousands beside the lake. She spoke to them, saying: “Are you all entirely persuaded that I can walk on water?” With one voice they replied: “We are.” “In that case,” she announced, “there is not need for me to do so.” And they all went home much edified.

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知的戯言の概要(1943) n.59

 しかし、(話が)真面目になり過ぎつつある(ようである)。 迷信は、常に暗くて残忍なものであるわけではない。 迷信はしばしばが人生に陽気さをつけ加える(add to)。 私はかつて、(自称)オシリス神(注:the god Osiris 古代エジプトの死と復活の神で冥界の支配者)から連絡(a communication)を受けたことがあり、彼の電話番号が書かれていた。彼は当時ボストンの郊外に住んでいた。私は彼の崇拝者仲間に加わらなかったが(enroll myself)、彼の手紙は私に喜びを与えてくれた。私はしばしば自分はメシア(救世主)だと名乗る人達から手紙を受け取ってきているが、彼らはこの重要な事実(救世主であること)を私の講演のなかで言い忘れないようにと促していた。(米国で)禁酒法が施行されていた期間、聖餐式(the communion service)はブドウ酒(ワイン)ではなくウィスキーで祝福されるべきだと主張する一派(セクト)があった。この教義(tenet)は彼らに強い酒をふるまう法的権利を与え(注:信仰の自由!!)、この宗派は急速に成長した。イングランド(英国のイングランド)には英国人は(イスラエルの)失われた十支族だと主張する一派があり、またそれよりももっと厳格な宗派があり、彼らは英国人(の源流)はエフライム族とマナセ族にすぎないと主張する。これらのどちらかの派に属する人に出会うたびに、私は他方の信奉者のふりをする(profess myself)。すると、多くの面白い議論が生まれる。私はまた、大ピラミッドの神秘的な伝承を解読しようとして(deciphering its mystical lore)、大ピラミッドを研究する人達も好きである。この問題については 大著が多数執筆され、そのうちの何冊かは著者から私に贈呈されている(贈呈していただいている)。当該書籍は、大ピラミッドが常にその本が出版された日までの世界の歴史を正確に予言しているが、その本の出版以後(の世界の歴史)について)信頼性が低くなるというのは、特異な事実( a singular fact)である(訳注:著者は、その本の出版日までに起こったことは大ピラミッドの伝承とつじつまのある解釈を施すが、出版以後はそれがかなわなくなるという皮肉か?)。以後は信頼度が低くなる。 一般的に言って、(大ピラミッド本の)著者は、(大ピラミッドが建設されて)すぐに、エジプトに戦争が起こり、それに続いてアルマゲドン(注:新約聖書「ヨハネの黙示録」16章16節に記述された、終末に行われる善と悪の最終決戦)と反キリストの到来が続くと予想するが、この頃までに非常に多くの人々が反キリスト者として認識されてしまっているため、読者は不本意ながら懐疑主義に駆り立てられる(のである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.59

But we have been getting too solemn. Superstitions are not always dark and cruel; often they add to the gaiety of life. I received once a communication from the god Osiris, giving me his telephone number; he lived, at that time, in a suburb of Boston. Although I did not enroll myself among his worshipers, his letter gave me pleasure. I have frequently received letters from men announcing themselves as the Messiah, and urging me not to omit to mention this important fact in my lectures. During prohibition, there was a sect which maintained that the communion service ought to be celebrated in whiskey, not in wine; this tenet gave them a legal right to a supply of hard liquor, and the sect grew rapidly. There is in England a sect which maintains that the English are the lost ten tribes; there is a stricter sect, which maintains that they are only the tribes of Ephraim and Manasseh. Whenever I encounter a member of either of these sects, I profess myself an adherent of the other, and much pleasant argumentation results. I like also the men who study the Great Pyramid, with a view to deciphering its mystical lore. Many great books have been written on this subject, some of which have been presented to me by their authors. It is a singular fact that the Great Pyramid always predicts the history of the world accurately up to the date of publication of the book in question, but after that date it becomes less reliable. Generally the author expects, very soon, wars in Egypt, followed by Armageddon and the coming of Antichrist, but by this time so many people have been recognized as Antichrist that the reader is reluctantly driven to skepticism.

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知的戯言の概要(1943) n.58

 集団的な恐怖(心)群れの本能(群衆本能)を刺激する。そして、その群れの一員とみなされない人々に対する凶暴性(残忍さ)を生み出す傾向がある。フランス市民革命においても同様であり、革命時、外国の軍隊に対する恐怖(心)は、恐怖政治を生み出した(のである)。ソビエト政府は、(政権樹立後の)始めの数年間にあれほどの敵意に会わなければ、狂暴さはよりすくなっていたであろう。
(注:。Unpopular Essays(1950年刊)に収録された時には、「ソビエト政府」に関する一文に差し替えられているが、第二次世界大戦中の1943年に始めて出版された時には、次の一文が挿入されていた。
And it is to be feared that the Nazis, as defeat draws nearer, will increase the intensity of their campaign for exterminating Jews.)
恐怖心は残酷な衝動を生み出す。そうして、それゆえに、残忍行為を正当化すると思われるような迷信を助長する。 強い恐怖心の影響下では、個人も群衆も国家も、人道的に振る舞ったり、正気でものを考えたりすることは、信頼できない。そういうわけで、臆病者(poltroons)の方が勇敢な人間よりも残忍になりがちであり、また迷信に陥りがちでもある。私がこのように言う時、私の考えているのは、ただ死に直面した場合だけでなく、あらゆる点で勇敢な人のことである。多くの人が、勇敢に死ぬ勇気を持っているだろうが、自分が死ぬことを求められる理由(大義)は無価値のものであると言ったり、あるいはそう考えたりさえする勇気は持っていないだろう。恥辱(Obloquy)は大部分の人々にとって死よりも苦痛である。これが、集団が興奮している時に、支配的な意見にあえて反対する人がほとんどいないの一つ理由である。カルタゴ人でモロク(崇拝)を否認したものは一人もなかった。それはモロクを否認することは戦闘において死に直面するよりもさらに多くの勇気を必要としたであろうからである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.58

Collective fear stimulates herd instinct, and tends to produce ferocity toward those who are not regarded as members of the herd. So it was in the French Revolution, when dread of foreign armies produced the reign of terror. The Soviet Government would have been less fierce if it had met with less hostility in its first years. Fear generates impulses of cruelty, and therefore promotes such superstitious beliefs as seem to justify cruelty. Neither a man nor a crowd nor a nation can be trusted to act humanely or to think sanely under the influence of a great fear. And for this reason poltroons are more prone to cruelty than brave men, and are also more prone to superstition. When I say this, I am thinking of men who are brave in all respects, not only in facing death. Many a man will have the courage to die gallantly, but will not have the courage to say, or even to think, that the cause for which he is asked to die is an unworthy one. Obloquy is, to most men, more painful than death; that is one reason why, in times of collective excitement, so few men venture to dissent from the prevailing opinion. No Carthaginian denied Moloch, because to do so would have required more courage than was required to face death in battle.

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知的戯言の概要(1943) n.57

 強い恐怖(心)の影響下では、ほとんどの人が迷信的になるヨナ(注:旧約聖書なかの予言書の一つであるヨナ書の主人公/ここでは「ヨナ書」そのもの)を船外に投棄した船員達は、ヨナの存在が嵐の原因であり、自分達の船を難破させようとしていると想像した(のである)。これと同様の精神状態で、日本人は東京の震災(注:関東大震災)の時、朝鮮人と自由主義者(例:大杉栄)を虐殺をした。ローマ人がポエニ戦争(注:紀元前264年から146年の間に、三次にわたって行われた、ローマとカルタゴの戦い)で勝利した時、カルタゴ人は、自分達の不運は、モロク崇拝(注:Molochは、古代の中東地域で崇拝されたとされる神格で、主にカナン人やその周辺の民族によって崇拝され、子供の生け贄を捧げる儀式を行っていた)に忍び込んだある種のだらしなさ(laxity)によるものだ、と確信するにいたった。 モロクは子供を犠牲として捧げられることを好み、貴族の子供をより好んだ。しかし、カルタゴの貴族の家族は、自分達の子供のかわりに平民の子供を使うという慣行を採用した。これが神の不興を買った(機嫌を損ねた)と考えられたのである。そうして、最悪の瞬間においては、最も高位の貴族の子供達でさえ、火のなかで適切に(duly)焼かれてしまった。 不思議なことに、ローマ人は敵側におけるこのような民主的改革にもかかわらず勝利したのである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.57
Under the influence of great fear, almost everybody becomes superstitious. The sailors who threw Jonah overboard imagined his presence to be the cause of the storm which threatened to wreck their ship. In a similar spirit the Japanese, at the time of the Tokyo earthquake took to massacring Koreans and Liberals. When the Romans won victories in the Punic wars, the Carthaginians became persuaded that their misfortunes were due to a certain laxity which had crept into the worship of Moloch. Moloch liked having children sacrificed to him, and preferred them aristocratic; but the noble families of Carthage had adopted the practice of surreptitiously substituting plebeian children for their own offspring. This, it was thought, had displeased the god, and at the worst moments even the most aristocratic children were duly consumed in the fire. Strange to say, the Romans were victorious in spite of this democratic reform on the part of their enemies.

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知的戯言の概要(1943) n.56

 最も洗練された宗教は -たとえばマルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius. 121-180 後期ストア派の哲学者)やスピノザの宗教ー 依然として、恐怖心の克服に関心を持っている。 ストア派の教義は単純だった。(即ち)それは、唯一の真なる善は徳(美徳)であり、いかなる敵も私(自分)から徳を奪い取ることはできないと主張した。その結果、敵を恐れる必要はまったくない(ということになる)。困難な問題は、誰も徳(美徳)が唯一の善であるとは信じることができなかったということであり、マルクス・アウレリウスでさえもそうであり、彼は皇帝として、自分の臣下を有徳的たらしめようとしただけでなく、彼らを異邦人(barbarians)、悪疫(pestilences) 及び飢饉から保護しようと努めたのである。スピノザもいくらかこれと似た教義を教えた。 彼によれば、我々の真の善(幸福)は世俗的な運命(運不運)に対して無関心であることにある。アウレリウスもスピノザもともに、肉体的苦痛のようなものは真の悪ではないと装うことによって、恐怖心から逃れようと努めた。これは恐怖から逃れる立派な方法である。しかし、依然として誤った信念に基づいている。そうして、仮に心から(本当に)受け入れてしまえば、人は自分の苦しみだけでなく、他人の苦しみに対しても無関心にさせるという悪い結果をもたらすであろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.56

The most refined religions, such as those of Marcus Aurelius and Spinoza, are still concerned with the conquest of fear. The Stoic doctrine was simple: it maintained that the only true good is virtue, of which no enemy can deprive me; consequently, there is no need to fear enemies. The difficulty was that no one could really believe virtue to be the only good, not even Marcus Aurelius, who, as emperor, sought not only to make his subjects virtuous, but to protect them against barbarians, pestilences, and famines. Spinoza taught a somewhat similar doctrine. According to him, our true good consists in indifference to our mundane fortunes. Both these men sought to escape from fear by pretending that such things as physical suffering are not really evil. This is a noble way of escaping from fear, but is still based upon false belief. And if genuinely accepted, it would have the bad effect of making men indifferent, not only to their own sufferings, but also to those of others.

知的戯言の概要(1943) n.55

A woman with medium length red hair, wearing a pink shirt, light blue leggings and gray shoes, kneels on a kneeler with soft beige cushion, as she closes and bows her head to pray, both hands together in praying position and resting on top of a beige confessional, that is separating her from a seated priest with balding gray hair, wearing a black clergy gown, white collar, a violet stole worn around his neck, black pants and black shoes, both of his eyes are closed in concentration

正統派キリスト教は、”信仰の時代“に、魂の救済のための非常に明確な規則を定めた。(即ち)第一に、洗礼を受けなければならない。次に、あらゆる神学上の誤りを避けなければならない。最後に、死ぬ前に罪を悔い改め、許し(赦免)を受けなければならない。これらのことはみな、あなたを煉獄(注:purgatory 煉獄 = 浄罪界 = カトリックにおいて、罪を犯した人の霊魂が火で清められる場所)から救いはしないだろうが、最後にはあなたが天国に行きつくことを保証するであろう。 神学を知ることは必須ではなかった。ある著名な枢機卿は、もしあなたがその臨終の床(死の床)において「教会の信ずるところを私は全て信ずる、(また)私が信ずるところを教会は全てを信ずる」と呟けば、正教派の要件は満たされるであろうと、権威を持って述べた。こうした非常に明確な指示(directions)は、カトリック教徒が天国に至る道を見つけることを確実にするはずであった。 それにもかかわらず、地獄についての恐怖は根強く残り、最近では、それが誰が呪われるべきか(対象)についての教義の大幅な軟化をもたらしたのである。現代の多くのキリスト教徒が公言している、全ての人が天国に行くであろという教義は、死に対する恐怖をなくすはずである。しかし、実際には、この恐怖心は本能的なものであり、容易に打ち負かす(克服する)ことはできない。 F. W. H. マイヤーズは -彼は心霊主義(注:スピリチュアリズム:死者が生者と交信可能であると信じること)によって来世を信じるようになったがー 最近娘をなくしたある女性に、あなたの娘の魂は どうなったと思うかと尋ねた。その母親はこう答えた。「そうですね、 娘は永遠の祝福を受けていると思いますね、 でも、そんな不愉快な話題はお話にならないでください」。 神学でできることは全てやっているにもかかわらず、天国は、依然として、大部分の人にとって「不愉快な話題」のままである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.55
Orthodox Christianity, in the Ages of Faith, laid down very definite rules for salvation. First, you must be baptized; then, you must avoid all theological error; last, you must, before dying, repent of your sins and receive absolution. All this would not save you from purgatory, but it would insure your ultimate arrival in heaven. It was not necessary to know theology. An eminent cardinal stated authoritatively that the requirements of orthodoxy would be satisfied if you murmured on your death-bed: “I believe all that the Church believes; the Church believes all that I believe.” These very definite directions ought to have made Catholics sure of finding the way to heaven. Nevertheless, the dread of hell persisted, and has caused, in recent times, a great softening of the dogmas as to who will be damned. The doctrine, professed by many modern Christians, that everybody will go to heaven, ought to do away with the fear of death, but in fact this fear is too instinctive to be easily vanquished. F. W. H. Myers, whom spiritualism had converted to belief in a future life, questioned a woman who had lately lost her daughter as to what she supposed had become of her soul. The mother replied: “Oh, well, I suppose she is enjoying eternal bliss, but I wish you wouldn’t talk about such unpleasant subjects.” In spite of all that theology can do, heaven remains, to most people, an “unpleasant subject.”
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知的戯言の概要(1943) n.54

 けれども、魔法(magic)は恐怖心を遠ざける(避ける)方法としては粗雑な方法(a crude way )であり、その上、あまり有効な方法ではなかった。というのは、常に、意地悪な魔法使いの方が善良な人々よりも強力だということが判明する(証明される)可能性があるからである(might 可能性)。15, 16, 17世紀には、魔女や魔術師(sorcerers)に対する恐怖心から、これらの罪で有罪判決を受けた何十万もの人々が火あぶりの刑(火刑)に処せられた。しかし、より新しい信仰、特に来世での生活についての信仰は、恐怖心と戦うもっと有効な方法を探し求めた。 ソクラテスは、(毒杯を飲んで)死ぬ当日、(もしプラトンの言うことを信れば)、自分は来世において(古代ギリシアの)神々および英雄達と共に、自分の果てしない論証(argumentation)に決して異議を唱えない公正な魂にとりかこまれて、暮らすだろうという確信を表明した(とのことである)。ブラトンは、(著書)『国家(共和国)』のなかで、来世についての明るい見方は、それが真実だからという理由ではなく、兵士達がもっと進んで戦いで死ぬようにさせるためという理由で、国家によって強制されなければならないと主張している(laid it down that)。彼は黄泉の国(Hades 死者が暮らす世界)についての伝統的な神話は何一つ語ろうとはしなかった。なぜなら、そうした神話は、死者の霊(魂)を不幸なものとして表現しているからである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.54

Magic, however, was a crude way of avoiding terrors, and, moreover, not a very effective way, for wicked magicians might always prove stronger than good ones. In the fifteenth, sixteenth, and seventeenth centuries, dread of witches and sorcerers led to the burning of hundreds of thousands convicted of these crimes. But newer beliefs, particularly as to the future life, sought more effective ways of combating fear. Socrates on the day of his death (if Plato is to be believed) expressed the conviction that in the next world he would live in the company of the gods and heroes, and surrounded by just spirits who would never object to his endless argumentation. Plato, in his “Republic,” laid it down that cheerful views of the next world must be enforced by the State, not because they were true, but to make soldiers more willing to die in battle. He would have none of the traditional myths about Hades, because they represented the spirits of the dead as unhappy.

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知的戯言の概要(1943) n.53

恐怖心を遠ざける(避ける)方法には二つある。一つは、我々は災難を免れていると自分を説得することによってであり、もう一つは、真の勇気を奮うことによってである。後者は難しく。そうして、ある一定の点までくると誰にとっても不可能となる。従って、前者が常に後者よりも人気があり続けてきた。原始的な魔法には、敵を傷つけるか、あるいは、お守り(護符)、呪文(spells)、もしくは顕現(incarnations)によって自分自身を守るかして、安全を確保するという目的がある。 本質的な変化なしに、そのような危険を遠ざける(避ける)方法への信仰はパピロニア文明の時代を通して存続し、バビロンからアレクサンダー帝国全体に広がり、そうしてローマ人がヘレニズム文化を吸収する過程において、彼らによって獲得されたのである。(その後それは)ローマ人から中世のキリスト教世界及びイスラムの世界に伝わった。科学は、今日、魔法への信仰(belief in magic)を弱めたが、多くの人々は、公言する以上に、マススコット(注:幸運をもたらすお守り的なもの)を信じており、また、魔術(socery)は教会によっては非難されているが、依然として公的には可能性がある罪(a possible sin:実際に罪とされるかどうかは文脈や社会的な価値観に依存するもの)なのである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.53
There are two ways of avoiding fear: one is by persuading ourselves that we are immune from disaster, and the other is by the practice of sheer courage. The latter is difficult, and to everybody becomes impossible at a certain point. The former has therefore always been more popular. Primitive magic has the purpose of securing safety, either by injuring enemies, or by protecting oneself by talismans, spells, or incantations. Without any essential change, belief in such ways of avoiding danger survived throughout the many centuries of Babylonian civilization, spread from Babylon throughout the empire of Alexander, and was acquired by the Romans in the course of their absorption of Hellenistic culture. From the Romans it descended to medieval Christendom and Islam. Science has now lessened the belief in magic, but many people place more faith in mascots than they are willing to avow, and sorcery, while condemned by the Church, is still officially a possible sin.

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知的戯言の概要(1943) n.52

自尊心の他に(besides ~に加えて)、それ以外の情熱も過ちの一般的な源泉(common sources ありふれた源泉)である。それらのなかで恐らく最も重要なのは恐怖心であろう(注:perhaps を使っているので断定まではしていない)。恐怖心は、時には、戦時に大惨事の噂を捏造(ねつぞう)したり、あるいは、恐怖の対象、たとえば幽霊、を想像したりすることによって、直接的に作用する。また時には、なにか慰めになるもの、たとえば不老不死の霊薬(elixir of life)といったものへの信仰とか、我々自身のための天国や我々の敵のための地獄への信仰を創り出すことによって、恐怖心、は間接的に作用する。恐怖心には多様な形態がある。死に対する恐怖(心)、暗闇に対する恐怖(心)、未知なものに対する恐怖(心)、群衆に対する恐怖(心)、及び、もっと具体的で明確な恐怖(specific terrors)から自ら隠している(目を隠している)人達に訪れる漠然とした一般的な恐怖心である。自分自身へのその人固有の恐怖(心)を自分で認めるまでは、また、そうして、それらの恐怖(心)の持つ神話造りの力に対して、困難な意志の努力によって自分自身を守るまでは、非常に重要な多くの事柄、特に、宗教的信念に関係するような事柄について、 真に考えることを期待することはできない。恐怖心は迷信の主要な源泉であり、また残酷さの主要な源泉の一つである。恐怖心を克服することは知慧の始まりである。それは、真理の探究においてもそうであるし、また価値ある人生態度をとろうとつとめる場合においても同様である。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.52

Other passions besides self-esteem are common sources of error; of these perhaps the most important is fear. Fear sometimes operates directly, by inventing rumors of disaster in war-time, or by imagining objects of terror, such as ghosts; sometimes it operates indirectly, by creating belief in something comforting, such as the elixir of life, or heaven for ourselves and hell for our enemies. Fear has many forms — fear of death, fear of the dark, fear of the unknown, fear of the herd, and that vague generalized fear that comes to those who conceal from themselves their more specific terrors. Until you have admitted your own fears to yourself, and have guarded yourself by a difficult effort of will against their mythmaking power, you cannot hope to think truly about many matters of great importance, especially those with which religious beliefs are concerned. Fear is the main source of superstition and one of the main sources of cruelty. To conquer fear is the beginning of wisdom, in the pursuit of truth as in the endeavor after a worthy manner of life.

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2022年はラッセル生誕150年