不変な「物自体」などというものはない(個人の脳内現象にすぎない)

 第二に,直接体験(経験)される感覚的対象,即ち,我々が椅子やテーブルや太陽や月などを見るときに我々が見るものは,我々の精神の諸部分であって,我々が見ていると思っている物理的対象の全体あるいは部分(そのもの)ではない。(また)私が(今)言っているこの部分は新しいものではなく,バークリーから出て(に由来し),ヒュームによって補強されたものである。けれども,私がこの考えを支持するために使っている議論(論拠)は,厳密に言うとバークリーのもの(と同じ)ではない。多くの人が単一の対象を異なった角度から眺めれば,彼らの視覚的印象は,遠近法(laws of perspective)や,光の投射する仕方によって異なることを指摘したい。,従って,視覚的印象はいずれも,彼らのすべてが自分が見ていると思っている中立的な「物 “thing”」ではない(のである)。また,物理学は対象から発して我々の感覚器官に達する因果連鎖(causal chains)を信じこませることを,また,この因果連鎖の最後の(連鎖の)環が最初の環と正確に同じだったとすれば大変妙だということを,を指摘したい。(注:「link 環」というのは,たとえば,多くの丸い環(わ)を数珠つなぎしていったようなイメージ)

Second: sensible objects, as immediately experienced, that is to say, what we see when we see chairs and tables and the sun and the moon and so on, are parts of our minds and are not either the whole or part of the physical objects that we think we are seeing. This part of what I am saying is also not new. It comes from Berkeley, as reinforced by Hume. The arguments that I should use for it, however, are not exactly Berkeley’s. I should point out that if a number of people look at a single object from different points of view, their visual impressions differ according to the laws of perspective and according to the way the light falls. Therefore no one of the visual impressions is that neutral “thing” which all think they are seeing. I should point out also that physics leads us to believe in causal chains, starting from objects and reaching our sense organs, and that it would be very odd if the last link in this causal chain were exactly like the first.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter180.HTM

<寸言>
同じものを見ても,人によって,見る角度によって違って見える、といったことだけでなく、いずれも各個人の脳内現象にすぎない,ということ。

事象に対立する物(物質)(の存在)は,不要な仮説

私が明らかにしようと試みてきた理論(説)は,人々が非常に誤解しやすいものであり,誤解される場合にはその説は馬鹿げたものになる(見える/思われる)ということを経験は示している(注:ラッセルが馬鹿げた・不合理なことを言っているように思われてしまう,ということ)。それゆえ,新しい言葉遣い(new wording)によってもっと明らかになるようにとの期待のもと,その主な点(論旨)について要約して述べてみよう。

第一に,世界は変化する状態をもつ物(物質)から成り立っている(構成されている)のではなく,諸事象から成立っている(構成されている)。あるいは,むしろ,我々が世界について述べる資格のある全ては,存在するのは事象のみであり物(物質)は存在しないという仮定(仮設))に立ってのみ述べることができる(といったほうがよいであろう)。
 事象に対立する物(物質)(の存在)は,不要な仮説である。私が言わなければならないこの部分は,既にへラクレイトス(注:ギリシア時代の自然哲学者)によって言われているので,厳密には新しいことではない。けれども,ヘラクレイトスの見解はプラトンを悩まし,そのゆえに,それ以降,それほど紳士的には考慮されてこなかった。今日のような民主主義の時代においては,そのような考慮によって我々は驚く(脅かされる)必要はない。ヘラクレイトスの見解を採用すれば,二種類の想定された実体は,解消される。即ち,一方では人間,他方では物質的対象(の二種類の実体)の解消である。文法は,あなたと私とが変化する状態を有する多少とも永続的な実体であることを暗示するが,永続的実体(の仮定)は不要であり,変化する状態は我々が物(質)について知っている全てのことを言うのに十分である。厳密に同種類のことが物理的対象(物的対象)にあてはまる。あなたが店に入り,パンの塊を買うと,家に持ち帰ることができる「物」を買ったとあなたは考える。(だが)あなたが実際に買ったものは,一定の因果法則によって連結されたできごとの系列である

Experience has shown me that the theory which I have been trying to set forth is one which people are very apt to misunderstand, and, as misunderstood, it becomes absurd. I will therefore recapitulate its main points in the hope that by means of new wording they may become less obscure.
First: the world is composed of events, not of things with changing states, or rather, everything that we have a right to say about the world can be said on the assumption that there are only events and not things. Things, as opposed to events, are an unnecessary hypothesis. This part of what I have to say is not exactly new, since it was said by Heraclitus. His view, however, annoyed Plato and has therefore ever since been considered not quite gentlemanly. In these democratic days this consideration need not frighten us. Two kinds of supposed entities are dissolved if we adopt the view of Heraclitus: on the one hand, persons, and on the other hand, material objects. Grammar suggests that you and I are more or less permanent entities with changing states, but the permanent entities are unnecessary, and the changing states suffice for saying all that we know on the matter. Exactly the same sort of thing applies to physical objects. If you go into a shop and buy a loaf of bread, you think that you have bought a “thing” which you can bring home with you. What you have in fact bought is a series of occurrences linked together by certain causal laws.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter170.HTM

<寸言>
日常生活において常識は大事だが、理論においては常識は危険。

肉体が消滅したあとの心(精神)?

もしこの(私の)理論(説)が正しいとすれば,精神と脳(物質)との間の一定の結びつき(連鎖)は不可避である。たとえば、記憶に対応して,にいくらかの物理的修正がなければならないし(注:何かを新しく記憶すれば脳にそれに対応した痕跡が残るはず),精神生活(知的生活)は脳組織の物理的特質(特性)と結びついていなければならない。実際,我々の知識がもっと豊富であったならば,物理学的陳述と心理学的陳述とは同じことの違った言い方にすぎないことがわかるであろう(見て取れるであろう)。精神(心)の脳(物質)への依存,あるいは,脳(物質)の精神への依存についての古くからの諸問題は,このようにして,言語的利便性へと還元される(注:都合によって,どちらの説明の仕方をしてもよい,ということ)。
我々が脳(物質としての)についてより知っている場合には,精神を従属的なものとみることが便利であろうが,精神についてより知っている場合には,脳(物質としての)を従属的なものとして見る方が便利であろう。どちらにしても,実質的な事実は同じであり,その相違は単に我々の知識の程度に関するものだけである。
 上述したことがもし正しいのであれば,肉体から分離した精神(心)というようなものは存在しないと絶対的に断言できる,とは思わない。心理学の法則によって結合された(結合した)事象群はあるが,物理法則に元づいて結合された(結合した)事象群がないならば,肉体から分離した精神が存在することになるであろう。死んだ物質は物理法則によって配列され,心理学の法則によって配列されていない事象群からなりたっていることを,我々は躊躇なく信じている(信じる)。そうして(それならば),反対のこと(注:上述の,肉体から分離した精神)が生じないというアプリオリな理由はないようにみえる。我々はその(肉体から分離した精神が存在することの)経験的な証拠を持たないと言うことができるが,それ以上のことは言うことはできない

If this theory is right, certain kinds of connection between mind and brain are inescapable. Corresponding to memory, for example, there must be some physical modifying of the brain, and mental life must be connected with physical properties of the brain tissue. In fact, if we had more knowledge, the physical and psychological statements would be seen to be merely different ways of saying the same thing. The ancient question of the dependence of mind on brain, or brain on mind, is thus reduced to linguistic convenience. In cases where we know more about the brain it will be convenient to regard the mind as dependent, but in cases where we know more about the mind it will be convenient to regard the brain as dependent. In either case, the substantial facts are the same, and the difference is only as to the degree of our knowledge.
I do not think it can be laid down absolutely, if the above is right, that there can be no such thing as disembodied mind. There would be disembodied mind if there were groups of events connected according to the laws of psychology, but not according to the laws of physics. We readily believe that dead matter consists of groups of events arranged according to the laws of physics, but not according to the laws of psychology. And there seems no a priori reason why the opposite should not occur. We can say we have no empirical evidence of it, but more than this we cannot say.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter160.HTM

<寸言>
(理論上は)ラッセルが全否定はできないと言っている「死んだ後に残る精神(心)」には何ら神秘的なものはない。なぜなら,精神(こころ)でも物質(もの)でもない中立的なものでこの世界は成り立っているという「中立一元論」の立場にたてば,常識が精神と物質とを別物だとする考えは否定され、精神と物質との違いは視点や見方やまとめ方の違いにすぎなくなるからである。

精神と一片の物質とはともに(順序を有した)事象の集まり

 もし私が(今)言っていることが正しければ,精神と脳(物質)との相違は,それらを構成する素材にあるのではなく,素材のまとめ方にある精神と一片の物質とはともに事象群(事象の集まり),あるいはむしろ事象群の系列(注:順序を有した事象の集まり)と考えられるべきである。一定の精神を構成するようにまとめられた諸事象は,私の理論(説)によれば,それらに対応する(物質としての)脳となるようにまとめられた諸事象とまったく同じである。あるいは,それらは脳を構成する諸事象の一部である,というのがもっと正しい(適切な)言い方だろう。重要な点は,精神(心)と脳(注:物)との相違は,質の相違でなくて配列の相違だということである。それは,郵便局のディレクトリー(住所氏名録)においてなされている(ところの),住民の地理的順序による配列とアルファベット順による配列との相違に似ている。同じ人(住民)が2つの場合(方式)で配列されるが,それらは全く違った脈絡(文脈)においてである。同様に,視覚の,物理学に対する脈絡(文脈)は,物理的であり,それ(その文脈)は脳の外にある。後戻りすれば,それはあなたを(物理的な)眼のところへつれてゆき,次に光子のところへつれてゆき,次にいくらか遠いところにある対象における量子遷移へと連れてゆく。視覚の,心理学に対する脈絡(文脈)は全く異なっている。たとえば,視覚があなたが破産したことを告げる電報の視覚(電報をあなたが見ること)であるとしてみよう。多くの事象があなたの心の中で心理学的因果法則に従って起るだろう。そうして,あなたが頭の毛をかきむしったり,大声をだして泣き叫ぶような純粋に物理的結果がおこる前に,長い時間が経過するであろう。

If what I am saying is correct, the difference between mind and brain does not consist in the raw material of which they are composed, but in the manner of grouping. A mind and a piece of matter alike are to be considered as groups of events, or rather series of groups of events. The events that are grouped to make a given mind are, according to my theory, the very same events that are grouped to make its brain. Or perhaps it would be more correct to say that they are some of the events that make the brain. The important point is, that the difference between mind and brain is not a difference of quality, but a difference of arrangement. It is like the difference between arranging people in geographical order or in alphabetical order, both of which are done in the post office directory. The same people are arranged in both cases, but in quite different contexts. In like manner the context of a visual sensation for physics is physical, and outside the brain. Going backward, it takes you to the eye, and thence to a photon and thence to a quantum transition in some distant object. The context of the visual sensation for psychology is quite different. Suppose, for example, the visual sensation is that of a telegram saying that you are ruined. A number of events will take place in your mind in accordance with the laws of psychological causation, and it may be quite a long time before there is any purely physical effect, such as tearing your hair, or exclaiming “Woe is me!”
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter150.HTM

<寸言>
外界から刺激を受けてその情報を脳で処理する時の微細な電流(パルス)の流れや【脳細胞間での)メッセージ物質の発射・受取の様子を電子顕微鏡やMRIなどで見ると、ラッセルの言うことが実感できるのではないか?
NHKの人体シリーズの「脳」を見た方は同意見だろうと思われるが、問題はそれでは終わらない。自然科学は客観的だと言っても、つきつめれば、そういった(正確だとされっる)情報やデータも、間違いやすい個々人が処理したものだということをよく考える必要がある。

常識的には外界は自分と独立していると見えるが実際は脳内現象であり・・

 私は,デカルト学派によって前進された対応説(注:theory of correspondence 精神と物質/心と物との間に因果関係はないが,両者は同時並行=対応しているとの説=理論)よりも好んでいる理論(説)を,証明可能ではないけれども,単純かつ統一的な仮説として,提出したい。
我々は,精神も物質もともに(個々の)事象の系列(注:順序を持った事象の集合)から成立っているという考えに同意した。また,物質を形成している(個々の)事象についても,その時=空的構造以外には何も知らないということで,意見が一致した。私が提出(提案)するのは,生きている脳を構成する事象は,実は,それに対応する精神を構成する事象と同一である,ということである。
 この見解を拒否するために,自然に(当然のように)思い浮ぶ理由は,物質的対象を視覚や触覚において(見たり触ったりして)経験する対象と混同することに依存している。後者は,あなたの精神の一部分である(注:物的対象そのものではなく,その物的対象から発せられた光がその人の目に達し,視神経を通ってその人の脳で再構成された心的現象である)。普通の(常識的な/日常的な)言語を使ってよいならば,今この瞬間において,私は自分の部屋の家具や,風にゆらぐ木々や,家々,雲,青空,それから太陽を見ることができる(と言うことができる)(注:厳密な科学言語で言わなければいけないとしたら,このようには言えない)。(私の/我々の)常識は,これら全ての物は私の外(部)に存在していると想像する。これら全ての物は,私の外部にある物理的対象と因果的に結合している(因果関係にある)と私は信じているが,物理的対象が,重要な点で私が直接的に経験するものと異なっていなければならない(異なっているに違いない)ということを悟るやいなや,また私が物理的対象から出て私の感覚が起る(感覚器官で受け取る)以前に私の脳に達する因果の連鎖(因果関係)を説明するやいなや,物理的因果関係の見地から,私は直接に経験した感覚対象が,私の脳の中にあって(私の)外の世界にないことを知る(注:つまり,脳内現象に過ぎないということ)。カントは,星の満ちた天と(人間の)道徳律とを一緒にしたが,両者とも(彼の/人間の)脳の虚構物(figments 産物/作り事)であるゆえに,彼の考えは正しかった

I wish to suggest, as a hypothesis which is simple and unifying though not demonstrable, a theory which I prefer to that of correspondence advanced by the Cartesians. We have agreed that mind and matter alike consist of series of events. We have also agreed that we know nothing about the events that make matter, except their space-time structure. What I suggest is that the events that make a living brain are actually identical with those that make the corresponding mind. All the reasons that will naturally occur to you for rejecting this view depend upon confusing material objects with those that you experience in sight and touch. These latter are parts of your mind. I can see, at the moment, if I allow myself to talk the language of common sense, the furniture of my room, the trees waving in the wind, houses, clouds, blue sky, and sun. All these common sense imagines to be outside me. All these I believe to be causally connected with physical objects which are outside me, but as soon as I realize that the physical objects must differ in important ways from what I directly experience, and as soon as I take account of the causal trains that proceed from the physical object to my brain before my sensations occur, I see that from the point of view of physical causation the immediately experienced objects of sense are in my brain and not in the outer world. Kant was right to put the starry heavens and the moral law together, since both were figments of his brain.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter140.HTM

<寸言>
我々は日常的には(「常識的には」)自分と外界(世界)とは別だと考えてしまうが、外界は我々(自我)が構成した「構成物」にすぎない。「私」が死ねば「私にとっての世界」は消滅し、「人類」(あるは高等生命)が滅亡すれば「人類にとっての宇宙」も消滅する。
それでは、「感覚を持つ生命体」がまったく存在しない宇宙とはどんなものであろうか? 今我々が見ているような生命や物質にあふれた宇宙ではなく、量子が充満し、ある場所ではそれらの濃度が濃く、ある場所ではそれらの濃度が薄い、カオス宇宙にすぎないのであろうか?

脳を量子力学の言語で眺めるとどうなるであろうか?

 我々は,いまだ,量子物理学(量子力学)の精確な言語で,人間の脳について語ること学んできていない。実際,我々は,この言語を必要とするには,ほとんど人間の脳について知っていない。我々(人間)の問題に対する,量子物理学の(種々の)神秘(不可解さ)の主要な関係は,それらの神秘(不可解さ)が,我々(人間)は物質についてほとんど知っておらず,また,特に人間の脳についてほとんど知っていないということを,示してくれることにある。
生理学者の中には,まだ,顕微鏡を通して脳の組織(そのもの)を見ることができると想像している者がいる。もちろん,これは楽天主義的な幻想である。あなたが椅子を見ていると思うとき,量子遷移を見ている(量子遷移が見えている)わけではない。あなたは,物理的椅子との非常に長くて複雑な因果的関係(因果的連鎖) -(即ち)光子(光のエネルギーが目に届き),(網膜内の)桿体と錐体(rods and cones),視神経を通って脳に至る関係(つながり) -を有している経験を持っている。これらのすべての段階は,あなたが「椅子を見る」という視覚経験を持つためには必要なものである。あなたは目を閉じることによって光子(の衝突)を止める(目に対する刺激を止める)ことができるだろう。視神経は切断できるであろう。脳の(視覚に対応する)適切な部分(該当部分)は,弾丸によって(弾丸を脳に撃ちこめば)壊せるであろう。もしこれらのいずれかのものが起れば,あなたは「椅子を見る」ことはないであろう。
同様な考察は,生理学者が(今)吟味しつつあると思っているにもあてはまる。彼(生理学者)の中には,彼が見ていると思っている脳と,遠く隔たった因果関係(因果的連鎖)を有している経験が存在している。その脳(観察中の他人の脳)に関しては,彼の視覚に再生されるような構造的な諸要素のみを知ることができる(注:ディスプレイ画面に映しだされる脳の電子画像)。構造的でない(物的でない)特性に関しては何であれ,彼(生理学者)は何も知ることができない。脳(物質)の内容はそれに伴う精神の内容とは異なったものだと言う権利を,彼は持っていない。それが生きた脳であるならば,精神がそれにともなって存在することを,証拠や類推によって彼は証拠を持つが,死んだ脳の場合にはどちらの方面においても証拠に欠けている

We have not yet learned to talk about the human brain in the accurate language of quantum physics. Indeed we know too little about it for this language to be necessary. The chief relevance, to our problem, of the mysteries of quantum physics consists in their showing us how very little we know about matter, and, in particular, about human brains. Some physiologists still imagine that they can look through a microscope and see brain tissues. This, of course, is an optimistic delusion. When you think that you look at a chair, you do not see quantum transitions. You have an experience which has a very lengthy and elaborate causal connection with the physical chair, a connection proceeding through photons, rods and cones, and optic nerve to the brain. All these stages are necessary if you are to have the visual experience which is called “seeing the chair.” You may stop the photons by closing your eyes, the optic nerve may be severed, or the appropriate part of the brain may be destroyed by a bullet. If any of these things has happened you will not “see the chair.” Similar considerations apply to the brain that the physiologist thinks he is examining. There is an experience in him which has a remote causal connection with the brain that he thinks he is seeing. He can only know concerning that brain such elements of structure as will be reproduced in his visual sensation. Concerning properties that are not structural, he can know nothing whatever. He has no right to say that the contents of a brain are different from those of the mind that goes with it. If it is a living brain, he has evidence through testimony and analogy that there is a mind that goes with it. If it is a dead brain, evidence is lacking either way.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter130.HTM

<寸言>
2月4日(日曜)に放映されたNHKスペシャル(人体シリーズ)では「」の特集をしていた。脳の中を電気パルスが走り、メッセージ物質が次から次へと次の脳神経や脳細胞に渡されていく様子が映し出されていた。これほど詳細な映像が撮影できたのは初めてだとのことであるが、もちろんこれは量子レベルの話ではない。
科学によって解明できるのは物質(人体などの生命体も含む)の構造や機能に関することにとどまるので、その哲学的意味合いや解釈は人間に残されている。また、そういったすばらしい科学も間違いやすい人間(個々人)が採取したデータに基づいているという制約がある。(即ち、相対性理論も量子力学も絶対的な真理ではない。)

量子力学を高校で習っているが,日常生活では「量子力学を信じていない」

 この時点で,あなたは怒りだすであろう。(そうして)あなたは,次のように言いたくなるであろう。

いったい(my dear sir),あなたはどうしてそんな馬鹿げたことを言えるのか? 間違いなく,(そういう)あなたでさえ,思考や楽しみや苦痛(などの精神的なもの)は,ビリヤードの玉のように突きまわすことはできないけれども,一方,物質はできることは,知っているはずだ(注:you must know/用例:You must know that your letter makes me always happy. 貴方の手紙は私をいつも幸せにしてくれることを知っているはずだ)。物質は空間の一部を占める。物質は突き通せずに固い(ソフトでなければの話であるが・・・)。思考(という精神的なもの)はそうではない。あなたの思考で,ビリヤードを楽しむことはできない(思考によってビリヤードの玉を突くことはできない)。あなたが思考を捨て去る過程(プロセス)は,警察官によってあなたが立ち退かせられる過程(プロセス)とは全く異なっている。もちろん,あなたは哲学者として,(疑いもなくあなたはそうであろう/そうであり続けるであろうが)『あらゆる人間的情熱を超越している)』 しかし,残りの人たちは,喜びや苦しみを経験し,杖や石(sticks and stone)はそれらを経験しない。これらのことを全て考え合わせると,あなたはどうして精神と物質との差異を神秘化するほど馬鹿なのかわからない(注:その差異は単純で明らかではないか)

 これに対する私の答えは,あなた(が自分は知っていると思っている)よりもはるかに少ししか物質について(物質とは何か)私は知らない(理解していない)ということにある(という答えの中にある)。私が物質について知っていることの全ては,物質の時-空における分布(状態)についての純粋に論理的属性について,一定の抽象的な前提から推論できることである。一見したところ,これらは(物質の)他の属性については何も語っていない。その上,精神(心)の場合と同じく,物質の場合についても,実体の概念を認めない同一の理由がある。
我々は,デカルトの精神(注:デカルトが論じたところの精神)を出来事の系列(集合)に還元した。そうして,同じことをデカルトの肉体(注:肉体=物質/デカルトが論じたところの肉体=物質)の場合にもしなければならない。物質の一片は,いくつかの物理法則(注:certain of the laws of physics/ certain は of 複数(代)名詞を伴って,「・・・のうちのいくらか」/用例: Certain of of the candidates showed promise. 候補者の幾人かは見込みがあった。) によって結びつけられた出来事の系列(集合)である。これらの出来事を結びつける法則は,近似的かつ巨視的なものにすぎない厳密な量子物理学においては,旧式の物理学において物理的粒子が保持している自己同一性は失われている。私が,「これは昨日のと同じ椅子だ」といいたいと仮定してみよう。(この時)あなたは私が意味しようとしていることを正確に教えることを私に期待してはならない。なぜなら,それを正しく述べるためには何冊もの本を要するからである。
私が言おうとしていることを大ざっばに言うと次の通りである。古典物理学は,-現在は放棄された体系であるが- (時間の流れを越えて)永続する粒子の仮定と連携していた。この概念が生き残っている限り,私が「これは同じ椅子である」という時,それは「これは同じ粒子から構成されている」ということを意味すると,主張できた。量子物理学が出現する前に,粒子は既に時代遅れ(の概念)であった粒子には実体概念が含まれているからである。しかし,やはり粒子を慣性の法則(the law of inertia)や他の類似の原理で互に結びつけられた,ある一定の物的な出来事の系列として定義することができた。ラザフォード=ボーアの原子の時代でさえ,この見方はそれでもなお維持できた。ラザフォードー=ボーアの原子(モデル)は,一定の数の電子と陽子からできていた。電子は蚤(のみ)のように行動した。(即ち)しばらくの間はいまわり,その後,ホップした(跳び上った)。しかし,電子は,跳躍した後にも以前這いまわっていたときと同一のものとして認識できるものであった。
 今や悲しいかな,原子は原子崩壊をこうむるものとなった我々原子について知っている全てのことは,最も楽観主義的な仮説に基づいたとしても,原子は種々の突然の遷移をする(一つの)エネルギーの分布(状態)であるということである。証拠を得ることができるのは原子の遷移のみである。なぜなら,エネルギーを放射するのは遷移においてのみであり,我々の感覚(器官)が影響を受けるのはエネルギーが放射される時のみであり,また,我々が起こったものについての証拠を得るのは,感覚(器官)が影響を受けるときのみであるからである。
ボーア若かった頃の幸福な時代においては,平穏な状態にある原子の中で起こっていること(起こっていたこと)を我々は知っているものと思われていた。(即ち)惑星が太陽のまわりを回るように原子核のまわりをぐるぐる回っている電子が存在した(と考えられていた)。原子が平穏な状態(注:遷移していない状態)にある時の動きについて,我々は今や完全,絶対的で永遠になくすことのできない無知を告白しなければならない。革命以外に報告する値打ちのあるものは何もないと思っている新聞報道陣がそこに住んでいるようなもので,革命がない時に起ることは,神秘に包まれたままである。
この基礎に立つと,異なった時間における同一性は完全に消失する。あなたが「これは昨日見たのと同じ椅子である」という時に物理学で何を意味しているかを説明しようと思えば,古典物理学に戻らねばならない。あなたは,次のように言わなければならない。(即ち)温度があまり高くなく,化学的条件が同じであるならば,旧式の古典物理学によって得られた結果は,多かれ少なかれ正しい,と言わなければならない。そうして,私が「これは同じ椅子だ」という時に意味するのは,旧式の物理学なら同じ椅子であると言うだろう,という意味である。しかし,私は,これは便利かつ不正確な言い方にすぎず,事実,椅子の最小の断片(原子)は全て,十万分の一秒(経過しただけで)で,その同一性を失うことに気がついている。それが同じ椅子だというのは,英国人はエリザべス一世の時代と同一の国民であるとか,あるいは,たとえ,エリザべス女王の死後何百万世代も経ったとしても(if = even if),英国民は同一の国民であると言うのと(言うことと)同じである

At this point I fear you will be becoming indignant. You will be inclined to say:
“But, my dear Sir, how can you be so dense? Surely even you must know that thoughts and pleasures and pains cannot be pushed about like billiard balls, whereas matter can. Matter occupies space. It is impenetrable; it is hard (unless it is soft); thoughts are not like this. You cannot play billiards with your thoughts. When you banish a thought, the process is quite different from that of being ejected by the police. You, of course, as a philosopher” (so, no doubt, you will continue) “are superior to all human passions. But the rest of us experience pleasures and pains, and sticks and stones do not. In view of all this I cannot understand how you can be so stupid as to make a mystery of the difference between mind and matter.”
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter110.HTM

My answer to this consists in saying that I know very much less than you do about matter. All that I know about matter is what I can infer by means of certain abstract postulates about the purely logical attributes of its space-time distribution, Prima facie, these tell me nothing whatever about its other characteristics. Moreover there are the same reasons for not admitting the concept of substance in the case of matter, as there are in the case of mind. We reduced Descartes’ mind to a series of occurrences, and we must do the same for his body. A piece of matter is a series of occurrences bound together by means of certain of the laws of physics. The laws that bind these occurrences together are only approximate and macroscopic. In proper quantum physics, the identity which physical particles preserve in old-fashioned physics disappears. Suppose I want to say: “This is the same chair as it was yesterday.” You cannot expect me to tell you accurately what I mean, because it would take volumes to state this correctly. What I mean may be put roughly as follows: classical physics–a system now abandoned–worked with the assumption of particles that persist through time. While this conception lasted, I could maintain that when I said “This is the same chair” I meant “this is composed of the same particles.” Before the coming of quantum physics, particles were already out of date, because they involved the concept of substance. But that did not matter so much because it was still possible to define a particle as a certain series of physical occurrences, connected with one another by the law of inertia and other similar principles. Even in the days of the Rutherford-Bohr atom, this point of view could still be maintained. The Rutherford-Bohr atom consisted of a certain number of electrons and protons. The electrons behaved like fleas. They crawled for a while, and then hopped. But an electron was still recognizable after the hops as being the same one that had previously crawled. Now, alas, the atom has suffered atomic disintegration. All that we know about it, even on the most optimistic hypothesis, is that it is a distribution of energy which undergoes various sudden transitions. It is only the transitions of which it is possible to have evidence, for it is only in a transition that energy is radiated, it is only when energy is radiated that our senses are affected, and it is only when our senses are affected that we have evidence as to what has occurred. In the happy days when Bohr was young, we were supposed to know what was going on in the atom in quiet times: there were electrons going round and round the nucleus as planets go round the sun. Now we have to confess to a complete and absolute and eternally ineradicable ignorance as to what the atom does in quiet times. It is as if it were inhabited by newspaper reporters who think nothing worth mentioning except revolutions, so that what happens when no revolution is going on remains wrapped in mystery. On this basis, sameness at different times has completely disappeared. If you want to explain what you mean in physics when you say “This is the same chair as it was yesterday,” you must go back to classical physics. You must say: when temperatures are not too high, and chemical circumstances are ordinary, the results obtained by old-fashioned classical physics are more or less right. And when I say that “this is the same chair”, I shall mean that old-fashioned physics would say it was the same chair. But I am well aware that this is no more than a convenient and inaccurate way of speaking, and that, in fact, every smallest piece of the chair loses its identity in about one hundred thousandth part of a second. To say that it is the same chair is like saying that the English are the same nation as they were in the time of Queen Elizabeth I, or rather, like what this would be, if many millions of generations had passed since the death of Good Queen Bess.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter120.HTM

<寸言>
量子力学を理解していれば、従来の「実体」の概念を否定するはずなのに、量子力学を否定しないのに、我々は、日常生活においては「実体」の概念を信じているように振る舞っている。

「川床の思考」は条件反射の一つ?

他のあらゆる区別と同様,生きているものと死んでいるものとの区別は,絶対的なものではない専門家がそれについて生きていると言う(呼ぶ)べきかあるいは死んでいると言う(呼ぶ)べきか決められない(ものとして)ウィルス(注:生命の最小単位である細胞をもたないため,「非生物」とされることもある。)が存在するし,また,条件反射の原理は,生きているものに特徴的であるが,他の領域にもその例を見い出せる(注:concerning which = about which ~について・・・)。たとえば,巻いた紙をのばすと(さまたげるものがなければ)すぐにもと通りになってしまうだろう(注:コンピュータ・ウィルスもよい例)。
 しかし,このような場合があるのに,我々は,条件反射を,生命の,特に生命の最高の形態において,また,特に人間の知性の特徴として,扱うことができる精神と物質との関係は,この点でひとつの結論に到る(機が熟する)。記憶に対応する何らかの特徴を持つとしたら,適当な刺激を受けたときに,再現(再生)を示唆するような仕方で,脳に対して起こることによって何らかの方法で影響を受けなければならない。これもまた,無生物の振る舞いによって、より少ない程度で(あるが)例証できる。たいてい乾いた状態にある川床(watercource)は,そこに水が流れるその時には,次第に水路を侵食し溝をつくり,次回に降る雨は,前回の流れを想い出させるコースに従って流れていく。あなたがお望みであれば,川底は冷い流れを経験する時に前回のことを「想い出す」,と言ってもよいかも知れない。それは空想の飛躍だ,とあなたは言うであろう。あなたは,川や川床は思考しないという意見なので,それは空想の飛躍だと言われるかも知れない。しかし,思考以前の出来事による(に起因する)一定の行動の修正から成立っているとすれば,川床の思考は,やや初歩的なものではあるが,川底は考えると言わなければならないだろう。どれほど湿潤な気候であっても,川床に九九の掛算を教えることはできないであろうが(そこまでは不可能であったとしても)。

Like all other distinctions, the distinction between what is living and what is dead is not absolute. There are viruses concerning which specialists cannot make up their minds whether to call them living or dead, and the principle of the conditioned reflex, though characteristic of what is living, finds some exemplification in other spheres. For example: if you unroll a roll of paper, it will roll itself up again as soon as it can. But in spite of such cases, we may take the conditioned reflex as characteristic of life, especially in its higher forms, and above all as characteristic of human intelligence. The relation between mind and matter comes to a head at this point. If the brain is to have any characteristic corresponding to memory, it must be in some way affected by what happens to it, in such a manner as to suggest reproduction on occasion of a suitable stimulus. This also can be illustrated in a lesser degree by the behavior of inorganic matter. A watercourse which at most times is dry gradually wears a channel down a gully at the times when it flows, and subsequent rains follow the course which is reminiscent of earlier torrents. You may say, if you like, that the river bed “remembers” previous occasions when it experienced cooling streams. This would be considered a flight of fancy. You would say it was a flight of fancy because you are of the opinion that rivers and river beds do not “think.” But if thinking consists of certain modifications of behavior owing to former occurrences, then we shall have to say that the river bed thinks, though its thinking is somewhat rudimentary. You cannot teach it the multiplication table, however wet the climate may be.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter100.HTM

<寸言>
植物状態なら「まだ生きている」と言えるだろうが、どのような状態になったら死んだ状態になるかははっきりしない。最近、NHK総合TVだったか、BS1だったか、脳死状態になっても20秒間は(反応ができなくても)まだ生きた状態にあると紹介があり、某タレントが、「(20秒間は)医者が”ご臨終です”と言っても、故人の悪口(悪態)は言わないほうがよい」と冗談を言っていたのを記憶している。「ご臨終」の状態でも、電気ショックなどでたまに「生き返る」ことがあるが、しかし完全に死んでいれば「生き返る」ことはないので、「死んでいたわけではない」ということになる。
いずれにしても、生命現象は謎の部分が多い。

「記憶にありません」は - 嘘か,真(まこと/痴呆症)か,それとも・・

精神(心)の最も本質的な特徴 --記憶」という語を,過去の経験の現在の反応に対するあらゆる影響を含むように,最も広い意味で使った場合-- 記憶であるというのは正しい,と私は思う。記憶には,通常,知覚の知識(知覚についての知識/知覚したものを知る・理解すること)と言われるような種類の知識が含まれている。あなたが単にあるものを(漫然と)見るにすぎない場合(ぼんやりと眺めている場合)には,それはほとんど知識としてみなされない。あなたがそれを(意識的に)見るとか,そこにそれがあるとかを自分自身に言う(意識する)時には,それは知識となる。このことは,単に(漫然と)見ることに対する内省(反省)である。この内省(反省)は知識であり,それは可能であるので,そのようにして見ること(行為)は ,石に起こるであろうような単なる出来事ではなく,経験とみなされる(のである)。
 過去の経験の影響は,条件反射の原理に具現化されており,それは次のように主張する。(即ち)適当な情況のもとにおいて,もしもAがもともとある反応を起こし,また,Aが頻繁にBと一緒に起こるならば,ついには,Aがもともとひき起こした反応を,B単独で惹き起こすだろう,と言うものである。例をあげよう。たとえば,あなたが熊にダンスを教えようと思えば,あなたは,熊を非常に熱い台の上にのせ,一瞬しか足をつけたままでいられないような状態におき,その間にオーケストラで英国国歌を演奏する。(そうすると)しばらくすれば,英国国歌の演奏だけで熊を踊らせるようになるであろう。我々(人間)の知的生活は,最高の段階ににおいてさえ,この原理にもとづいている(のである)。

I think it would be just to say that the most essential characteristic of mind is memory, using this word in its broadest sense to include every influence of past experience on present reactions. Memory includes the sort of knowledge which is commonly called knowledge of perception. When you merely see something it can hardly count as knowledge. It becomes knowledge when you say to yourself that you see it, or that there it is. This is a reflection upon the mere seeing. This reflection is knowledge, and because it is possible, the seeing counts as experience and not as a mere occurrence, such as might happen to a stone. The influence of past experience is embodied in the principle of the conditioned reflex, which says that, in suitable circumstances, if A originally produces a certain reaction, and A frequently occurs in conjunction with B, B alone will ultimately produce the reaction that A originally produced. For example: if you wish to teach bears to dance, you place them upon a platform so hot that they cannot bear to leave a foot on it for more than a moment, and meanwhile you play “Rule Britannia” on the orchestra. After a time “Rule Britannia” alone will make them dance. Our intellectual life, even in its highest flights, is based upon this principle.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter090.HTM

<寸言>
あなたはパブロフの犬状態になっていないか? 権力者による情報操作にまんまとはまっていないか?

感覚能力のある存在に起こる出来事と生命のない物質に起こる出来事との相違

感覚能力のある存在(人間その他の生命体)に起こる事生命のない物質に起こる事との相違は何であるかという,非常に初歩的な問いをしてみよう。(注:みすず書房版の中村訳では,”happen to” の部分が訳出されていない。/ things はここでは「事,事態」)。 明らかに,あらゆる種類の事(things)が,生命のない対象に起こる。(注:中村訳では,やはり”happen to” の部分が訳出されておらず,”happen to”の意味をよく理解していなかったのか,「Obviously all sorts of things happen to lifeless objects」を「明らかにあらゆる種類の物は,生命のない対象である」と誤訳している。また,’things’はここでは「事(こと)」であり,それも誤訳及び誤解の原因か?) それら(生命のない対象)は動き,いろいろな変形を受けるが,これらの出来事(occurrences)を「経験」しないが,一方,我々(人間)は我々の身に起こる事(things)を「経験」する。(注:どういうわけか,ここにある”happen to” だけは「起こる」と訳出している。注意力散漫?)。

 多くの哲学者は「経験」を,意味内容は明らかであるが定義できないものとして扱った。私はこれを間違いだと考える。私は,その意味は明らかだとは思わない。しかし,定義できないとも考えない。経験を特徴づけるものは,現在の反応に対する過去の出来事の影響である。あなたがが硬貨を自動券売機(automatic machine 自動化された機械)に入れると,その券売機は前に反応したのと全く同じように反応する。自動券売機は,硬貨を入れることは切符に対する欲求を意味することであると知るようにならないし,即ち,とにかく,前と全く同じようにすみやかに反応する。逆に,切符売場の男は,経験から学び,もっと迅速かつもっと直接的な刺激が(券売機よりも)少なくても反応する。これが,我々をして彼(券売所の人間)は理解力をもっていると呼ばさせるようになるものである。こういった種類のものが記憶の本質をなすものである。あなたがある人物と会い,その人はある言葉を述べる。あなたが次の機会に彼に会った時,あなたはその言葉を思い出す。このことは,あなたが固そうなある物体を見る時に,もしそれにあなたが触れれば,あなたはある種の触覚を予想するという事実と,本質的に類似している。経験を単なる出来事とを区別するものは,このような事である。券売機(自動機械)は経験をもたないが,切符売場の男は経験をもっている。このことは,与えられた刺激は,機械においては常に同じ反応をびきおこすが,人間においては違った反応を生じさせる,ということを意味している。あなたが逸話を話すと聞き手は「私が初めてその話を聞いた時に,どんなに笑ったかをご存じでしょう」と答える。けれども,あなたが,冗談を聞くと笑う自動機械を造ったとすれば,きっと前に聞いたことのある冗談をいくら繰返したとしても,その度に笑うことであろう。,あなたは,恐らく,もし唯物論的哲学を採用したくなったら,このことを考えれば,恐らく,慰めを見出すであろう。

Let us ask ourselves a very elementary question: What is the difference between things that happen to sentient beings and things that happen to lifeless matter? Obviously all sorts of things happen to lifeless objects. They move and undergo various transformations, but they do not “experience” these occurrences whereas we do “experience” things that happen to us. Most philosophers have treated “experience” as something indefinable, of which the meaning is obvious. I regard this as a mistake. I do not think the meaning is obvious, but I also do not think that it is indefinable. What characterizes experience is the influence of past occurrences on present reactions. When you offer a coin to an automatic machine, it reacts precisely as it has done on former occasions. It does not get to know that the offer of a coin means a desire for a ticket, or whatever it may be, and it reacts no more promptly than it did before. The man at the ticket office, on the contrary, learns from experience to react more quickly and to less direct stimuli. This is what leads us to call him intelligent. It is this sort of thing which is the essence of memory. You see a certain person, and he makes a certain remark. The next time you see him you remember the remark. This is essentially analogous to the fact that when you see an object which looks hard, you expect a certain kind of tactile sensation if you touch it. It is this sort of thing that distinguishes an experience from a mere happening. The automatic machine has no experience; the man at the ticket office has experience. This means that a given stimulus produces always the same reaction in the machine, but different reactions in the man. You tell an anecdote, and your hearer replies: “You should have heard how I laughed the first time I heard the story.” If, however, you had constructed an automatic machine that would laugh at a joke, it could be relied upon to laugh every time, however often it had heard the joke before. You may, perhaps, find this thought comforting if you are tempted to adopt a materialistic philosophy.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter080.HTM

<寸言>
AIロボットを作り改良していけば、同じ刺激でも過去のデータやノウハウ等の蓄積の変化(増減)によって反応が異なるものを作ることができるであろう。しかし、完全に自分でデータを収集し、自分で判断するAIロボットを作って改良していけば、将来、人間をほろぼしてしまうことも考えられる。そうならないようにプログラミングしておけば、AIロボットの発達も限界がでてくる。
どちらの方向に進むか? 人間をほろぼすAIロボットを作る科学者が現れても不思議ではないが・・・?

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