女性を従属的な地位に置くことでなされた害悪-親の因果が子に報い・・・

how-to-meet-and-date-a-shy-girl しかし,こういう男性(注:臆病な女性を好む男性)の息子たちは,母親から恐怖心 を受け継ぎ, --もしも,父親が母親を(臆病なものと)見くびりたいと望まなければ,決して失う必要がなかった-- 勇気を取り戻すために,あとから訓練を受けなければならなくなってしまった。女性を従属的な地位に置くことでなされた害悪は,はかり知れない。こうした恐怖の問題は,その害悪のありがちな一例を提供しているにすぎない。

But the sons of these men have acquired the terrors from their mothers, and have had to be afterwards trained to regain a courage which they need never have lost if their fathers had not desired to despise their mothers. The harm that has been done by the subjection of women is incalculable; this matter of fear affords only one incidental illustration.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-120.HTM

[寸言] How-to-Meet-and-Date-a-Shy-Girl.jpg
手痛いしっぺ返し
か弱い女性を保護したいという優越感がまわりまわって自分の息子に気の弱さや恐怖心を植え付け・・・。
母親も謂れ無き(不合理・非合理な)恐怖心を持つべきでなく、女性にも勇気が必要だというラッセルの主張

「女は弱しされど母は強し」(Les Miserable ビクトル・ユーゴー)という名言を引いて、だから大丈夫だと言っているあなた、甘すぎませんか?

年をとっても活力を失わないようにしたいもの

play_with_older-chidren 活力(Vitality)があれば,何ら特別に楽しい事情がまったくなくても,生きていると感じることの中に喜びが存在する。‘活力’は喜びを高め,苦痛を減少させる。‘活力’は,どんな出来事にも興味を持つことを容易にし,しかも,興味を持つことによって,精神の健全さ(正気であること)のために不可欠であるところの客観性を促進する。

Where it(vitality) exists, there is pleasure in feeling alive, quite apart from any specific pleasant circumstances. It heightens pleasures and diminishes pains. It makes it easy to take an interest in whatever occurs, and thus promotes objectivity, which is an essential of sanity.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-110.HTM

[寸言]
活力にあふれた子どもは幸福そう。
大人も同じであろうが・・・。(他人を苦しめるような権力者の活力は不要

ラッセル『幸福論(幸福の獲得)』(1930年刊)に対する世間の評価

tp-coh 翌年の1930年には,『幸福の獲得』The Conquest of Happiness/いわゆる『幸福論』)という本を出版した。それは,不幸の気質的な原因を克服するために,社会的・経済的制度の変革によってなしうることに対照する(向かい合っている)ものとして,各個人が何をなしうるかということに関する常識的な助言から成っている本であった。

この本は,3つの異なった階層の読者によって異なった評価を受けた。素朴な読者は -本書はそれらの人向けに執筆されたものだが- 本書を愛読した。その結果,大変な売れ行きを示した。これと反対に,インテリぶる連中は,この本を軽蔑すべき金儲けのための,現実逃避の本であり,政治以外になされるべきあるいは言われるべき有益なことがあるのだという虚偽(みせかけ)を支持する本だと見なした。しかしながら,またさらに別の階層,即ち専門的な精神科医のレベルにおいては,この本は非常に高い評価を勝ち得た。

いずれの評価が正しいのか,私にはわからない。はっきりしていることは,この本が書かれたのは,もし自分が我慢できる程度のいかなる幸福を維持しようとしても,大変な’自制心’や’苦い経験から学んだ多くのことを必要とした,そういった時期だったということである。

In the following year, 1930, I published The Conquest of Happiness, a book consisting of common-sense advice as to what an individual can do to overcome temperamental causes of unhappiness, as opposed to what can be done by changes in social and economic systems. This book was differently estimated by readers of three different levels. Unsophisticated readers, for whom it was intended, liked it, with the result that it had a very large sale. Highbrows, on the contrary, regarded it as a contemptible pot-boiler, an escapist book, bolstering up the pretence that there were useful things to be done and said outside politics. But at yet another level, that of professional psychiatrists, the book won very high praise. I do not know which estimate was right; what I do know is that the book was written at a time when I needed much self-command and much that I had learned by painful experience if I was to maintain any endurable level of happiness.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 4: Second Marriage, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB24-100.HTM
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[寸言]
そういった意味で,ラッセルにとって,また多くの人にとっても,「幸福」とは向こうから(「棚からぼた餅」のように)やってくるものではなく,努力して’獲得’するものであった(である)。そこで,ラッセルは書名を The Conquest of Happiness (幸福の克服=獲得して得ること)としたのである。

人生の幸福の総量?

man_eats 善い生活においては,諸活動の間にバランスがなければならず,そうした諸活動は,どれ1つとして,その他の活動が不可能になるまで押し進められてはならない。(たとえば)大食漢‘(暴飲暴食をする人)は,食べる楽しみのためにその他の楽しみをすべて犠牲にし,そうすることによって,彼の人生の幸福の総量を減らしている。
出典:ラッセル『幸福論』第11章「熱意」
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA22-050.HTM

In the good life these must be a balance between different activities, and no one of them must be carried so far as to make the others impossible. The gormandiser sacrifices all other pleasures to that of eating, and by so doing diminishes the total happiness of his life.
From:The Conquest of Happiness, 1930, chap.11:Zest

[寸言]
TV(マスコミ)では,「大食い選手権」などの,’大食漢’を褒めたたえるような娯楽番組をかなりの頻度放送します。私はそういった「大食自慢の人」も,それをはやし立てるTV(マスコミ)も,そういった番組を好んでみる視聴者にもあまり良い印象をもてません(はっきり言えば嫌いです)。
若いうちは暴飲暴食をしても具合が悪くなることはないかも知れないですが,過去の暴飲暴食が年をとってから大きな影響を与えます。後悔先に立たず。
暴飲暴食者の一食でアフリカの飢餓者がどれだけ救われるかなどと言えば,せっかく人(多くの人)が楽しんでいるのに無粋な奴だと思うかも知れませんが,やはり,「小人閑居して不善をなす」という思いが強くなります。

狭い範囲のものや事柄にのみ強い興味・関心を抱くことの危険性

are-you-a-fanatic 何がその人の興味・関心を起こさせるか,事前に推測することはできないが,大部分の人は,何らかのものに強い興味を持つことができるし,いったんそういう興味が呼び起こされれば,その人たちの人生は退屈から解放される。しかし,非常に’特殊化された興味‘は,人生に対する一般的な熱意ほどには幸福の満足すべき源泉にならない。なぜなら,そういった興味で,ある人の時間のすべてを満たすことは可能ではなく,また,彼の趣味となった特定の事柄について知るべきことはすべて知り尽くしてしまう,という危険が常にあるからである。
出典:ラッセル『幸福論』第11章「熱意」
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA22-040.HTM

It is quite impossible to guess in advance what will interest a man, but most men are capable of a keen interest in something or other, and when once such an interest has been aroused their life becomes free from tedium. Very specialised interests are, however, a less satisfactory source of happiness than a general zest for life, since they can hardly fill the whole of a man’s time, and there is always the danger that he may come to know all there is to know about the particular matter that has become his hobby.

[寸言]
funny-pictures-cat-cancels-today_out-of-interest 興味が持てるものがない,全てが虚しいという心境になっている人でも,やはり どのような状況においても,興味を持てるものはなにかあるだろう。そういった興味・関心を持てるものが増えていくにつれて,つらい境遇にある人も生きづらさへっていくだろう。 ただし,サッカー「しか」興味が持てないとかいうように,◯◯「しか」興味が持てない,というように「特殊化された」興味は非常に危険なものとなりうる。何らかの原因でそういったものにさえも興味が持てなくなったら最悪となる。・・・。

老人だけでなく、若い人でも活力が衰えると外界に興味を持てなくなり・・・

depression_in-the-elderly 人間は,(しだいに活力の衰えとともに)自分のことに注意を奪われ,見たり聞いたりすることや自分に直接関係のないものに興味を抱くことができなくなるこれは,人間にとって非常に不幸なことである。なぜなら,それは,よくて退屈を,悪くすれば憂鬱症を伴うからである。

Human beings are prone to become absorbed in themselves, unable to be interested in what they see and hear or in anything outside their own skins. This is a great misfortune to themselves, since it entails at best boredom and at worst melancholia;
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-110.HTM

[寸言]
官庁で高い役職についていた人の中には、定年退職後に、結局部下が自分に従っていたのは(自分の実力というより)ただ役職(権限)のおかげだったのだと気づき、定年後の暮らしが在職中とあまりにもかけ離れていることに「気落ちする」人が少なくないようである。(ひどい場合は「定年うつ病」あるいは「高齢者うつ病」になる人もいる。ただし、かわいい孫がいてその世話をできる人はあまり病気にかからない。)

その事を予想する者のなかで抜け目のない人間は、定年になるだいぶ前から、定年後も関連機関や監督企業などの理事ポストなどになんとか天下りできるように、その人事権をもっている人間(あるいはその上司)に働きかける。しかし、天下りポストは数が限られているので、多くの人の場合は、監督下にあった企業に「お荷物」として受け入れてもらい、環境や仕事があわずに数年でやめていく。(人事系の官僚で最も評価されるのは,天下りポストを新たに創ることに成功した者であるらしい。ある組織が古くなったので廃止するように勧告が出されると、その組織の人間を別の組織が吸収したり、別の組織から人を移して新しい組織を創ったりして、結局は、旧い組織よりもより大きな組織にして役職ポストを増やすことに成功することは稀ではない。いわゆる「焼け太り」いや、彼らにとっては「災い転じて福となす」である。)

天下りはできそうもない人でも、職場の仕事だけでなく、自分のライフワークを持つことができれば、そのような老人性憂鬱症にかからないようにすることができるであろう。ただし、定年退職が近づいてからでは遅すぎる。少なくとも、定年より10年以上前から準備する必要がある。

neet_hikikomori しかし、外界に関心が持てなくなるという問題は,現代においては、年配の人間だけのものでなく、ごく小数とは言えない一部の若い人の問題ともなっており、「ひきこもり」とか、NEET(ニート)とか呼ばれている。これは社会との関係だけでなく、親との関係においても起こりうることであり、結局は、自分ができることで本当にやりたいことを見つけれらないということが大きな原因となっている。

若者は全員、自衛隊の体験をしたほうがよいと言う稲田防衛大臣

(国民のためというより,国家のためにとるに足らない理由で喜んで人を殺したり殺されたりする男を作ることが男子教育の目的の一つだと考えている人びと(注:愛国心教育や国防教育を最重要視する人々は、明らかに、拡散した形での親の愛情に欠けている。

Those who regard it as one of the purposes of male education to produce men willing to kill and be killed for frivolous reasons are clearly deficient in diffused parental feeling;
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE02-090.HTM

[寸言]
inada_kokumin-minna-jieitai-keiken 戦場においては上官の命令は絶対であり,敵国人を躊躇なく殺害しなければならない。兵士は、そのような状況において上官の命令に従っただけであり、たとえ敗戦となっても、自分には責任はないと主張する人が少なくない。
官もより上の上官の命令に従っただけである。太平洋戦争は「聖戦」であり、天皇が最高司令官であった。A級戦犯だけは死刑になったが、米国が「使える」と思った(故)岸(安倍総理の祖父)は、釈放され、後に総理大臣にまでなっている。

つまり、戦争においては「愛国無罪」であり、国(国民ではない!)のために闘った兵士は「英霊」として称えられ、敵国人をたくさん殺せば殺すほど評価される。それならば、「愛国無罪」をさけぶ中国人をどうして非難できようか?
(実際は「無駄死であるので、自国に攻め入って来ないかぎり戦争はすべきではないが,戦争指導者はそれでは困るので、多数の敵国人を殺害したものも「英霊」として称えて誤魔化す。)

どこの国においても、為政者(国家指導者)は、兵士は国(=実際は、国家指導者たち)のために自分の命のことなど気にしないで敵国人と闘ってもらいたいと望む兵士だけでなく、国民の多くが従順であることを望むだから、稲田国防大臣のように、国民はみんな若い時に自衛隊を体験したほうがよいなどと言い出す人間が少なくない。

独断論者と懐疑論者 - どちらも社会に災難を引き起こす

logical_paradox (確実かつ有益な)知識は、他の良いものと同じく、困難ではあっても、獲得不可能なものではない。独断論者は(確実な)知識獲得の難しさを忘れ、懐疑論者は(確実な)知識獲得の可能性を否定する。両者は、ともに誤っている。そして、その誤りが世のなかに蔓延すれば、社会的な災難が引き起こされる。

Knowledge, like other good things, is difficult, but not impossible; the dogmatist forgets the difficulty, the sceptic denies the possibility. Both are mistaken, and their errors, when widespread, produce social disaster.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-050.HTM

[寸言]
人は自分の好みにあった情報をより求め、それらの「大量の情報」で自らの偏見をより強固に信じることになる。逆にこれまで提供されてきた「大量の情報」の多くが不十分であったり、嘘であったりしたことを強く感じるものは、全てに疑ってかかることになりやすい。
labelling_retteruhari 両者とも「知識」は正しいか間違っているか、どちらかであると思い込んでいるという点で間違っている。また両者とも、自らが独自に(論理的推論を駆使して)確からしい情報を蓄積する努力をしていない。提供される「大量の情報」について、確信を抱けない場合は、「判断停止」をしておけばよいだけのことであるが、多くの人はそれができず、色をつけてしまう。つまり、レッテル貼りが好きな人が多い自分がレッテル貼りをされるのは極度にいやがるくせに、他人にレッテル貼りをすることはなんとも思わない人が多い。

教育の第一の役割 - 知識への愛や自ら考える力を育むこと

教育が生み出すべきものは、1)知識は、困難ではあるが、ある程度獲得できるものであり、2)いかなる時代においても、知識として通用しているものは多かれ少なかれ誤っている可能性があるが、3)しかしその誤りは’注意’と’勤勉’によって正すことができる、という’信念‘である。

What it (education) should produce is a belief that knowledge is attainable in a measure, though with difficulty; that much of what passes for knowledge at any given time is likely to be more or less mistaken, but that the mistakes can be rectified by care and industry.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-050.HTM
quote-good-life-is-one-inspired-by-love-and-guided-by-knowledge

[寸言]
教育の第一の役割は、国家にとって都合のよいことを「絶対的真理」として子どもに教えることであってはならない。どのような知識もー自然科学の知識も含め-間違う(間違っている)可能性があり、その自覚のもと、より広くかつより正しい知識を自ら身につけたいという心性を育むことが、教育の非常に重要な役割である。

abe_rekisi-netuzo_self-deception そのような視点で考えれば、教科書検定制度などは好ましくない制度であり、正しい,あるいは間違っているという判断は,子ども自らができるようにすることが重要であり、そのためには、間違っていると言われている意見も子どもに知らせ、どこが間違っているか、あるいは本当は間違っていないかについて、子ども自らに考えさせる授業にする必要がある。

過度な懐疑も独断もともにさけるべき

Chinese-eyes_Japanese-eys このように、近代日本は、古代中国と正反対の欠点がある。中国の知識階級(文人)があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対し、日本の教育の成果は、過度に独断的かつ精力的になる可能性がある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。

We have thus in modern Japan a defect opposite to that of ancient China. Whereas the Chinese literati were too sceptical and lazy, the products of Japanese education are likely to be too dogmatic and energetic. Neither acquiescence in scepticism nor acquiescence in dogma is what education should produce.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-050.HTM

[寸言]
共産党政権が成立する前の中国,第二次世界大戦前の日本のことをいっていますが,次のラッセルの言葉に表された中国と日本の国民性の違いは今でもしっかりと残っています。

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abe_under-control「中国と違い、日本は宗教的な国である。中国人は証明されない限り人の言うことを信用しないが、日本人は嘘と証明されるまで信用する
Japan, unlike China, is a religious country. The Chinese doubt a proposition until it is proved to be true; the Japanese believe until it is proved to be false.
出典: The Problem of China 1922, p169 (George Allen and Unwin ed.)]
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2022年はラッセル生誕150年