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「無は無(存在しないもの)ではない」という命題は無意味? 

zero_empty-set 「空集合」に関して,また一般的にいって「無」の概念に関して,非常に大きな困難がある。「無」のような概念が存在すること,また,ある意味で「無」は何かあるものであることは,明白である。事実,無は無(存在しないもの)ではない」という命題は,疑いもなく,それを真とする解釈が可能であり,その解釈はプラトンの『ソフィスト』で議論された矛盾を生ずる。記号論理学においては,「空集合」とはまったく項を含まない集合である(のことをいう)。また,記号論的には(記号論理学においては?),そういったような観念を導入することは是非必要である。(そうして)我々は,当然のごとく生ずる矛盾を避ける事ができるかどうか,よく検討しなければならない。

TP-PoMGreat difficulties are associated with the null-class, and generally with the idea of nothing. It is plain that there is such a concept as nothing, and that in some sense nothing is something. In fact, the proposition nothing is not nothing is undoubtedly capable of an interpretation which makes it truea point which gives rise to the contradictions discussed in Plato’s Sophist. In Symbolic Logic the null-class is the class which has no terms at all; and symbolically it is quite necessary to introduce some such notion. We have to consider whether the contradictions which naturally arise can be avoided.
出典: The Principles of Mathematics, 1903, Chap. VI. Classes: §73]
詳細情報:http://fair-use.org/bertrand-russell/the-principles-of-mathematics/s73

[寸言]
集合論において「空集合」を認める(仮定する)ことによって、数の定義が容易になる。即ち、「ゼロ」というのは、「空集合」(要素をひとつも含まない集合)であり、「ゼロ」の後者を「」(要素をひとつだけ含む集合の集合)とすれば、「」は(要素を2つ含む集合の集合)として定義できる。即ち「n」は(要素をn個含む集合の集合)ということになり、全ての自然数を定義できる。

数学に恋するが、ユークリッド幾何学における公準の前提に不満

euclid 11歳の時私は,兄を先生にして,ユークリッド幾何学を学習し始めた。これは私の生涯において非常に重要な出来事の1つであり,初恋と同様幻惑的なものであった。この世にこのように素晴らしいものがあろうとは,私はそれまで想像したことがなかった。私が第5公準を学んでから,兄はこれは非常に難しいと一般には考えられていると言ったが,私は少しも難しいとは思わなかった。これは,私が何らかの知性を持つ’きざし‘が現れた最初であった。この時から私が38歳の年にホワイトヘッドと「プリンキピア・マテマティカ(数学原理)」を完成するまで,数学が私の主な関心事であり,主な幸福の源であった。けれども,幸福といわれるもの全てがそうであるように,純粋な幸福というわけではなかった。私は,ユークリッドがいろいろな事柄を証明したと聞いていたが,兄が(証明なしで)公理からスタートしたので,大変失望した。最初,私は,もし兄がそうする理由を説明できないならばそれらの公理を受け入れることはできないといったが,兄は,「もしお前がそれを受け入れなければ先に進むことはできない」と言った。私は数学の学習を続けたかったので,気が進まなかったが一時的に認めることとした。その時感じた数学の前提に関する疑問が私に残ることになった。(松下注:ここではユークリッド幾何学が,5つの公準=前提から出発していることをいっている。因みに、非ユークリッド幾何学では,第5公準の平行線公準を仮定しない。)そうしてそれがその後の私の勉強の方向を決定した。

TPJ-PMAt the age of eleven, I began Euclid, with my brother as my tutor. This was one of the great events of my life, as dazzling as first love. I had not imagined that there was anything so delicious in the world. After I had learned the fifth proposition, my brother told me that it was generally considered difficult, but I had found no difficulty whatever. This was the first time it had dawned upon me that I might have some intelligence. From that moment until Whitehead and I finished Principia Mathematica, when I was thirty-eight, mathematics was my chief interest, and my chief source of happiness. Like all happiness, however, it was not unalloyed. I had been told that Euclid proved things, and was much disappointed that he started with axioms. At first I refused to accept them unless my brother could offer me some reason for doing so, but he said: ‘If you don’t accept them we cannot go on’, and as I wished to go on, I reluctantly admitted them pro tem (=pro tempore). The doubt as to the premisses (premises) of mathematics which I felt at that moment remained with me, and determined the course of my subsequent work.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-290.HTM

[寸言]
BR-REVRS 数学は、ラッセルが最重要視する「明晰な思考」のお手本のようなもの。数学が正しいことを証明する過程で「ラッセルのパラドクス」の発見で窮地に陥ってしまう。それも「タイプ理論」により一応の理屈付けは可能となり、算術については数学は記号論理学によって導出できた(正しいことが証明できた)が、結局は、ゲーデルによる不完全性定理の発見へと導き、間違っているとは証明できないにしても、正しいとも証明できないものが数学にはある、ということがわかってしまった。
そうだからと言って、数学は役に立たないわけではなく、最強の武器であり続けている。相対性理論や量子力学に不備があるとしても、真理探求の有力な理論であることに変わりはないのと同様である。

理屈を言っても理解されない場合は、寓話で表現するのが最良

TP-NOEP 私が小説を書くことに対する弁明は -もし弁明が必要とするならばだが- 要点(自分が伝えたいこと)をわかってもらうためには,寓話が最良の方法であることにしばしば気付いた(発見した),ということである。1944年にアメリカから帰国した時,私は,英国哲学が非常におかしな状態にあることに気付いた。また,英国哲学は専らとるにたらないことばかりに注意を集中しているように思われた。英国哲学界の誰もが,「日常的な用法」(通常の用法/’common usage’)について,無駄なおしゃべり(論議)を続けていた。このような哲学を私は好まなかった。学問のあらゆる部門がそれぞれそれ特有の語彙(用語集)をもっている。なぜ哲学だけがこの楽しみを奪いとられなければならないのか,理解できなかった。そこで私は,この「日常的な用法」礼賛をからかった多くの寓話を織り込んだ短い評論を書き(松下注:「日常的な用法」礼賛」the cult of common usage は,みすず書房から出されている『ラッセル自伝的回想』に収録されている。),こう批評した。「日常的な用法」(’common usage’)という言葉で哲学者たちが本当に意味しているのは,談話室での言語使用法(’common-roomusage’)である」,と。この評論が発表された時,その「日常的な用法」の主犯(注:Gilbert Ryle のこと)から手紙を受け取った。手紙には,私の意見に賛成する,しかしそのような「日常的な用法」礼賛者は一人も知らないので,私の反論が誰に向けられているのかわからない,と書かれていた。けれども,その時以後,「日常的な用法」に注意を払う者がほとんどいなくなったことに気付いた。

TP-SSMy defence for writing stories, if defence were needed, is that I have often found fables the best way of making a point. When I returned from America in 1944, I found British philosophy in a very odd state, and, it seemed to me, occupied solely with trivialities. Everybody in the philosophical world was babbling about ‘common usage’. I did not like this philosophy. Every section of learning has its own vocabulary and I did not see why pbilosophy should be deprived of this pleasure. I therefore wrote a short piece containing various fables making fun of this cult of ‘common usage’, remarking that what the philosophers really meant by the term was ‘common-room usage‘. I received a letter when this was published from the arch offender saying that he approved, but that he could not think against whom it was directed as he knew of no such cult. However, I noticed that from that time on very little was paid about ‘common usage’.
* babble (v):(小児などがわけもわからぬ)片言を言う、ぺちゃくちゃしゃべる;たわいもないおしゃべりをする
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-300.HTM

[寸言]
TPJ-SS ラッセルの創作(小説・詩等)を集めたものとして The Collected Stories of Bertrand Russell (George Allen & Unwin Ltd., 1972) がある。単行本としては、Satan in the Suburbs, 1953 及び Nightmares of Eminent Persons, 1954 の2冊がある。前者は『ラッセル短篇集』(中央公論社,1954年)として邦訳がだされたが、随分昔に出されたものであり現在古本としてもほとんど出まわらないために、日本ではラッセル研究者といえども読んでいない人が多いようである。

「否定(not)」の存在証明 -安倍首相が得意になって言った「悪魔の証明」

Einstein_Russell_Goedel_Pauli 私たち(ラッセル一家)は,アメリカ時代の最後を,プリンストンで過ごした。プリンストンでは,湖畔に建っている小さな家を手に入れた。プリンストン滞在中に,アインシュタインの人となりをかなり知るようになった。私は,週に一度アインシュタインの家を訪ね,彼やゲーデルやパウリと議論した。議論はいくつかの点で期待を裏切るものであった。というのは -この3人ともユダヤ人で,亡命者で,’世界市民’のつもりであったが- 形而上学に対するドイツ人的な先入感をもっており,お互い最大限努力したにもかかわらず,議論を展開する共通の前提に到達することがなかった(訳注:ゲーデルはユダヤ人ではないらしい。ただし,サルトルが『ユダヤ人』(岩波新書)で指摘するように,「ユダヤ人」の定義は難しそうである)。ゲーデルは,結局,純粋のプラトン主義者であることがわかった。そして明らかに,★永遠の「否定(‘not’)」が天国には保存されおり,有徳な論理学者は死後(来世)に天国で永遠の「否定」に出会うことを期待できると信じていた★
(参考:否定神学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6 )。
プリンストンの社会はきわめて心地よいものであり,全体的に見て,私がアメリカで出合った他のどの社会集団よりも心地よいものであった。
表紙画像:順番に、アインシュタイン、ラッセル、ゲーデル、パウリ/因みに、著書のタイトルとなっている「マーサー・ストリート」とは、ニューヨークのマンハッタンの南側にある通りの名前でニュヨーク大学の東側を走っている。)

The last part of our time in America was spent at Princeton, where we had a little house on the shores of the lake. While in Princeton, I came to know Einstein fairly well. I used to go to his house once a week to discuss with him and Goedel and Pauli. These discussions were in some ways disappointing, for, although all three of them were Jews and exiles and, in intention, cosmopolitans, I found that they all had a German bias towards metaphysics, and in spite of our utmost endeavours we never arrived at common premisses from which to argue. Goedel turned out to be an unadulterated Platonist, and apparently believed that an eternal ‘not’ was laid up in heaven, where virtuous logicians might hope to meet it hereafter. The society of Princeton was extremely pleasant, pleasanter, on the whole, than any other social group I had come across in America.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-090.HTM

[寸言]
(ゲーデルは)否定(not)に出会うことを期待」と書かれた部分がよくわからないかも知れませんが,次の例が参考になるのではないでしょうか?(即ち)

安倍首相が,2月3日(2016年)の国会の予算委員会において,民主党の岡田代表が質問(甘利氏側への政治献金によってTPPなど政策が影響を受けたのではないか,そうでないとしたらそれを証明せよと主張)したのに対し、首相は「ない(影響を受けていない)ということをない、と証明するのは★悪魔の証明★だ。あるものをあるんだ、と言うんだったら、ある(影響を受けている)ということを主張してる側に立証責任がある。当たり前だ」と応じた

この応答自体には間違いはない。即ち、この宇宙(TPPの問題の場合はこの現代世界)をくまなく、一度に、その証拠を探すことはできない以上、「~でない」ということは証明できないことは確かである。2チャンネルなんかでは、哲学好きな投稿者がそのことを得意になっているのが散見される。
岡田代表の論理的思考能力が少し弱かったということであろう。しかし、金権政治がはびこる土壌は現代の日本の状況にはあふれており、論理的思考能力を高めて追求していく必要がある。岡田代表の追求の弱さを指摘するだけで、自分の論理的思考能力の高さを自慢するような視野の狭い人間になってはならない。

(ところで、「悪魔の証明 devil’s proof」だという反論は、答弁書を書いた理屈好きの官僚か、あるいは、御用学者が事前に安倍総理に吹き込んだものと想像される。なぜなら、「安倍総理の知性」では考えつかないだろうと思われるからである。「考えつかない」なんて主張するなら、「考えつかない」と証明しろと言われても、それは「悪魔の証明」だから、私にも証明できませんがね、安倍さん。

(無難な書き方をした)『西洋の知恵』よりも(先入観を否定しない)『西洋哲 学史』 の方を好む

TP-HWP 私は喜んでこの哲学史(注:『西洋哲学史』)を書いていた。なぜなら私は,歴史は’縮小しないで’書かれるべきだとずっと信じていたからである。たとえば,ギボン(Edward Gibbon, 1737-1794:イギリスの歴史家で『ローマ帝国衰亡史』の著者)が扱っている主題は,『ローマ帝国衰亡史』よりも簡略な本や,数冊の本で扱っても十分ではないだろう,という考えを私はいつも抱いていた。『西洋哲学史』の前半は,文化の歴史という観点で考察した。しかし,科学が重要になってくる後半においては,この’わく組み’にピッタリあてはめることは,一段と難しい仕事であった。私は最善をつくしたが,成功したかどうかは確信がもてない。
TPJ-WW1 私は,時々批評家から,私は真実の歴史を書かず,書こうと恣意的に選んだ(歴史上の)出来事に偏った説明を加えている,といって非難された。しかし私の考えでは,何らかの先入観(偏見)をもっていない人間は -もしかりにほんとうにそのような人間が存在するとして- 興味深い歴史など書くことができないだろう。私は,先入観(偏見)がないふりすることは,単なる’ごまかし’にすぎないと考える。さらにいえば,本というものは,他のいかなる著作同様,そのよって立つ観点とともに,考えられるべきものである。これが,多数の著者による論文集が,一人の著者の本よりも,’1つの統一体’としてより面白みのないものになりがちな理由である。私は,先入観(偏見)を持たない人間は存在しないと思っているので,★大規模の歴史と取り組むにあたってなしうる最善のことは,まず人間の先入観(偏見)を認めた上で,不満な読者のためには反対の先入観(偏見)を表明している他の著者を探してやることである,と考える。どちらの先入観(偏見)がより真実に近いかは,後世にゆだねなければならない。歴史(書)執筆に関するこのような観点から,私は(1959年に出した)『西洋の知恵』よりも『西洋哲学史』(注:両方ともラッセルの著作)の方を好む。『西洋の知恵』は『西洋哲学史』をもとにして執筆したものである。しかし,『西洋の知恵』の中にあげてあるイラスト(挿絵)は好きではあるけれども,(紙数の関係で)議論のあるところは調整するとともに表現を和らげている。

I was pleased to be writing this history because I had always believed that history should be written in the large. I had always held, for example, that the subject matter of which Gibbon treats could not be adequately treated in a shorter book or several books. I regarded the early part of my History of Western Philosophy as a history of culture, but in the later parts, where science becomes important, it is more difficult to fit into this framework. I did my best, but I am not at all sure that I succeeded. I was sometimes accused by reviewers of writing not a true history but a biased account of the events that I arbitrarily chose to write of. But to my mind, a man without a bias cannot write interesting history if, indeed, such a man exists. I regard it as mere humbug to pretend to lack of bias. Moreover, a book, like any other work, should be held together by its point of view. This is why a book made up of essays by various authors is apt to be less interesting as an entity than a book by one man. Since I do not admit that a person without bias exists, I think the best that can be done with a large-scale history is to admit one’s bias and for dissatisfied readers to look for other writers to express an opposite bias. Which bias is nearer to the truth must be left to posterity. This point of view on the writing of history makes me prefer my History of Western Philosophy to the Wisdom of the West which was taken from the former, but ironed out and tamed although I like the illustrations of Wisdom of the West.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-080.HTM

[寸言]
ラッセルの『西洋哲学史』『幸福論』とともに、一般の読者にもっとも愛読されている著書であり、どちらも米国でベストセラーになり,また、現在でも世界中でよく売れている。しかし、林達夫のように、『西洋哲学史』をあまり評価しない識者もいる。そういってけなしている学者や評論家で、ラッセルの『西洋哲学史』と同等程度に価値のある著作を書いている人を私は知らない。
このBARNES-A本は、ラッセルがその自由思想のために米国で魔女狩りにあい、決まっていたニューヨーク市立大学の教授職も(某キリスト教徒による「不道徳者に娘の教育はまかせられない」という告訴により、裁判にまけ)失い、経済的に困窮している時に、バーンズ博士(バーンズ美術館で著名)から救いの手が差し伸べられ、バーンズ財団の一般公開講座で話すためにまとめられた著作である。従って、誰にでもわかる言葉遣いで、聴衆をひきつけるような冗談がところどころに入れられている。
大学で定職につき、(いわば「安全地帯」で)無難な論文を書いて生活費を稼いでいる研究者には、まねのできないことであろう。

口述したものがそのまま本になる- 某教祖の(中身のない)霊言集とはわけが違う!

beetle_and_wedge  私は,1914年の春に米国ボストンにおいて,ローウェル記念講義を行うとともにハーバード大学で哲学の短期非常勤講師を務めるように,との招請を受けた(注:Abbott Lawrence Lowell, 1856-1943: 当時ハーバード大学学長),。私は,ローウェル記念講義の主題(「外部世界に関する人間の知識」 )を公表したが,何を話したらよいかまったく思い浮かべることができなかった。私は,(テムズ川上流にある)マウルスフォードの ‘The Beetle and Wedge’のパーラー(上記写真)によく座り,「外部世界に関する人間の知識」 --このテーマで近い内に一連の講義をしなければならなかった。-- について,話すべきこととして何があるだろうかと,思案した。
私は,1914年の元日に,ローマからケンブリッジに戻った。そうして,本当に講義の準備をしなければならない時期が来たと思ったので,その翌日に速記タイピストに来てもらうよう手配した。ただし,彼女が来たら何を言うか,その時はまったく何の考えも持ちあわせていなかった。彼女が部屋に入って来た時に,私の考えはしかるべく定まった。そうしてその瞬間から仕事が完結するまで,完璧に整然とした順序で,口述した(注:このように,口述したものを速記タイピストに打たせ,ほとんど修正しないで出版するやり方は,専門書ではない,いわゆる ‘popular books’ の大部分に以後採用されるようになる)。私が彼女に口述したものは,後に単行本として,「哲学における科学的方法の一適用分野としての,外界についての知識」(1914)という書名で出版された。

I was invited to give the Lowell lectures in Boston during the spring of 1914, and concurrently to act as temporary professor of philosophy at Harvard. I announced the subject of my Lowell lectures, but could not think of anything to say. I used to sit in the parlour of ‘The Beetle and Wedge’ at Moulsford, wondering what there was to say about our knowledge of the external world, on which before long I had to deliver a course of lectures. I got back to Cambridge from Rome on New Year’s Day 1914, and, thinking that the time had come when I really must get my lectures prepared, I arranged for a shorthand typist to come next day, though I had not the vaguest idea what I should say to her when she came. As she entered the room, my ideas fell into place, and I dictated in a completely orderly sequence from that moment until the work was finished. What I dictated to her was subsequently published as a book with the title Our Knowledge of the External World as a Field for Scientific Method in Philosophy.
出典:The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 7: Cambridge Again, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB17-120.HTM

[寸言]
INDECENC ラッセルが1914年に出した Our Knowledge of the External World は,通俗本 (popular books)ではないが、一般の人が理解できるように、読みやすい文体や言葉で書かれている。こういった哲学の本を口述し、ほとんど修正なしにそのまま出版できるラッセルの能力は驚くべきものである。
もっと驚くべきは、哲学以外の幅広い分野・主題に関する専門的な事柄に対する理解力である。ラッセルの著作は、論理学や数学関係の(ラッセルの)専門の分野だけでなく、言語学、また、『相対性理論入門』や『原子のABC』のような物理学の専門的内容を初心者でもわかるように書いたもの、科学論、それから、政治学、経済学、社会学、平和論等のような社会科学関係の本、さらに教育論、2冊の小説など、とても一人の人間が書いたとは信じられない。
もちろん、Principia Mathematica のように論理記号の羅列が延々と続くような多くの人が理解できない著作もあるが、専門的な分野の著作も、ほとんど一般人が読解できるものとなっているおかげで、我々は多くの恩恵を受けることができる。

哲学者の最高の責務(義務)the supreme duty of the philosopher

DOKUSH28 私は今でも、真理は事実へのある種の関係であり、事実は一般に非人間的なものである、と考えている。(また)私は今でも、人間が宇宙的にはとるに足りない存在であり、今とここ[時空)とによって歪められずに宇宙を公平に見渡すことのできる絶対的な存在者 - そういうものが存在するとして ー であるならば、おそらくは書物の終り近くにつける脚注以外では、人間のことにほとんど言及しないでであろう、と考える。しかし、私はもはや、人間的要素が存在する場所からそれらを追い払おうとは望まない。(即ち)私はもはや、知性感覚よりすぐれているとも、プラトンのイデヤの世界のみが「真実の」世界を知らしめるとも、感じない。以前は、感覚や感覚の上に築かれた思想をひとつの牢獄と考え、感覚から解放された思考によってのみ,我々はそこから脱出しうる、と常に考えていた。今ではそうは感じない。感覚と、感覚の上に築かれた思想とを、牢獄の格子としてではなく、窓として考える。我々は、いかに不完全であったとしても、ライプニッツの単子のように世界を映しうる、と私は考える。そして、物を歪めない鏡となることにできるかぎり努めることが哲学者の義務である、と考える。しかしまた、我々の本性そのもののゆえに避けがたい歪みをはっきり認めることも、また哲学者の義務である。そういう歪みのうち最も根本的なものは、我々が世界をここと今(時空)の見地から見て、有神論者が神に帰するような広い公平さで見るのではない、ということである。そういう公平な見方に達することは我々には不可能であるが、それに向って一定の距離を旅することは我々にもできる。そしてこの目標へ向かっての道を示すことは,哲学者の最高の義務なのである。

ANDROMEDI still think that truth depends upon a relation to fact, and that facts in general are non-human; I still think that man is cosmically unimportant, and that a Being, if there were one, who could view the universe impartially, without the bias of here and now, would hardly mention man, except perhaps in a footnote near the end of the volume; but I no longer have the wish to thrust out human elements from regions where they belong; I have no longer the feeling that intellect is superior to sense, and that only Plato’s world of ideas gives access to the ‘real’ world. I used to think of sense, and of thought which is built on sense, as a prison from which we can be freed by thought which is emancipated from sense. I now have no such feelings. I think of sense, and of thoughts built on sense, as windows, not as prison bars. I think that we can, however imperfectly, mirror the world, like Leibniz’s monads; and I think it is the duty of the philosopher to make himself as undistorting a mirror as he can. But it is also his duty to recognize such distortions as are inevitable from our very nature. Of these, the most fundamental is that we view the world from the point of view of the here and now, not with that large impartiality which theists attribute to the Deity. To achieve such impartiality is impossible for us, but we can travel a certain distance towards it. To show the road to this end is the supreme duty of the philosopher.
出典: Bertrand Russell: My Philosphical Development, 1959.
【George Allen & Unwin Ltd., 1959, p.258】
* theist (n):有神論者
詳細情報:http://russell-j.com/cool/54T-1701.HTM

[寸言]
 ラッセルの哲学(基本的な考え方)は一貫しているとも、多くの変遷をしているとも、どちらとも言える。
ラッセルは、生涯、理性や知性に信頼を起き続けたが、徹底的に論理を追求していく過程で、人間の知性や論理的思考能力の限界をも実感するようになった。
だが、人間には(今とここ)に縛られるという宿命があるにしても、「(世界のより正しい理解や認識に向かって)一定の距離を旅することは我々人間にもできるそしてこの目標へ向かっての道を示すことは,哲学者の最高の義務」であるというラッセルのいくらか控えめの態度こそ、哲学者のみならず、多くの学者や研究者が旨とすべき態度ではないだろうか?

命題と命題関数との違いをはっきりと意識しよう!

 命題関数とは、

   常に真であるとき、     必然的な
   時に真であるとき、     可能な
   決して真ではないとき、   不可能な

関数と言ってよいでしょう。

Logicomix-and-Cat 命題関数と命題とを混同したために、多くの誤った哲学が生まれました。非常に多くの伝統的哲学は、命題関数にのみ適用される述語を命題に帰属させることによって、またいっそう悪いことに、述語を個物に帰属させることによって成り立っています。必然的な、可能な、不可能な,という述語は、その良い例です。全ての伝統的哲学では、「様相」の名の下に、命題の性質としての必然性、可能性、不可能性が論じられていますが、実際それらは命題関数の性質なのです。★命題は真か偽であるだけです。
 「ⅩはⅩである」は、「Ⅹ」が何であろうと真になる命題関数、つまり必然的な命題関数です。「Ⅹは人間である」なら可能な、「Ⅹは一角獣である」なら不可能な命題関数になります。
★命題は真か偽のどちらかでしかありえませんが,命題関数には以上3つの可能性があります。様相に関する学説で述べられていることは全て命題関数についてのみあて★る、と私は考えます。

One may call a propositional function

necessary, when it is always true;
possible, when it is sometimes true;
impossible, when it is never true.

Much false philosophy has arisen out of confusing propositional functions and propositions. There is a great deal in ordinary traditional philosophy which consists simply in attributing to propositions the predicates which only apply to propositional functions, and, still worse, sometimes in attributing to individuals predicates which merely apply to propositional functions. This case of necessary, possible, impossible, is a case in point. In all traditional philosophy there comes a heading of ‘modality’, which discusses necessary, possible, and impossible as properties of propositions, whereas in fact they are properties of propositional functions. Propositions are only true or false.
If you take ‘x is x’, that is a propositional function which is true whatever ‘x’ may be, i.e. a necessary propositional function. If you take ‘x is a man’, that is a possible one. If you take ‘x is a unicorn’, that is an impossible one.
Propositions can only be true or false, but propositional functions have these three possibilities. It is important, I think, to realize that the whole doctrine of modality only applies to propositional functions, not to propositions.
* a case in point 良い例,適切な例
出典:Bertrand Russell: The Philosophy of Logical Atomism, 1918.
【 La Salle, Illinois; Open Court, c1985, pp.96-97. paperback ed.】

[寸言]
一見わかりにくいと思うかもしれませんが、ゆっくり冷静によめば、大部分の人にわかる、当たり前のことを指摘しています。命題と命題関数との違いをはっきり区別するようにすると、日頃の思考に大きな進歩があるのではないでしょうか?

天空のティーポット a china teapot revolving in an elliptic orbit

teapot_russell いま一つ例をあげて申しますと,地球と火星の間に楕円形の軌道にのって回転している中国製の陶器製のティーポットがないとは誰も証明することができませんが,だからといって,そういうものがあるということが,実際に十分に計算に入れられるべきだなどとは誰も考えません。私は,キリスト教の神も,ちょうどこれと同じように実在しそうもないと考えます。

To take another illustration : nobody can prove that there is not
between the Earth and Mars a china teapot revolving in an elliptic
orbit, but nobody thinks this sufficiently likely to be taken into
account in practice. I think the Christian God just as unlikely.
* elliptic = elliptical (adj.):having the shape of an ellipse
* ellipse (n):楕円,長円
出典:ラッセル『拝啓バートランド・ラッセル様-一般市民との往復書簡』の中の「(ラッセルは)無神論者か不可知論者か」)]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AGNOSTIC.HTM

[寸言]
有名な「天空のティーポット」の喩えです。「~である」ということは、一つでも実例をみつけられれば証明できます。しかし「~でない」ということは、宇宙の「全て」を「一度に」見ることができない以上、理論的に不可能なことです。従って、「~でないなら、それを証明してみろ!」というのは、不当な要求です。(たとえば、甘利氏が賄賂をもらっていないということは証明できません。だから「身の潔白をはらす」なんてできないんです。)
ウィキペディアにも「ラッセルのティーポット」という見出しで解説が書かれています。
即ち、「宇宙のどこかに地球と火星の間を通って太陽を周回するティーポットがあると主張する者が、それは誤りであると誰も証明できないことを根拠にして、周回するティーポットの存在を信じることを求めるのはナンセンスである。(「神の存在」の証明についても同様である。)」という指摘です。

帰納法(機能的推論)の間違い易さ -人類や地球に対する過大な期待?

foolish-thing_foolish-people・・・。家畜は、いつも餌をくれる人の姿を見ると、餌を期待する。こういった斉一性(一様性)に対するいささか粗雑な期待はすべて、まちがいやすいものだということをわれわれは知っている。雛に生まれてからずっと毎日餌をやってきた人間も、最後には餌をやらずにその首をひねてしまう。このことは、自然の斉一性に関してもっと洗練された見解をもっていた方が雛にとって役にたったであろうということを示している。
しかしながら、そうした期待のまちがいやすさにもかかわらず、やはりその期待はある。あることが何度かくりかえして起れば、それだけで,人間や動物にまたそれが起るだろうという期待を抱かせる。このようにして,われわれの本能は、太陽がまた昇るだろうということを信じさせるが、その場合われわれは、思いがけなく首をひねられる雛より以上の地位にいるわけではないのかもしれない。それゆえ、われわれは、過去にあった斉一性が未来に関する期待をひき起すという事実と、その期待の妥当性についての疑問がだされときになおその期待を重視するだけの合理的な理由があるかどうかという問題とを、区別しなければならないのである。

Domestic animals expect food when they see the person who feeds them. We know that all these rather crude expectations of uniformity are liable to be misleading. The man who has fed the chicken every day throughout its life at last wrings its neck instead, showing that more refined views as to the uniformity of nature would have been useful to the chicken.
But in spite of the misleadingness of such expectations, they nevertheless exist. The mere fact that something has happened a certain number of times causes animals and men to expect that it will happen again. Thus our instincts certainly cause us to believe the sun will rise to-morrow, but we may be in no better a position than the chicken which unexpectedly has its neck wrung. We have therefore to distinguish the fact that past uniformities cause expectations as to the future, from the question whether there is any reasonable ground for giving weight to such expectations after the question of their validity has been raised.
出典: The Problems of Philosophy, 1912, cahpt. 6: On Induction]
詳細情報:http://russell-j.com/07-POP06.HTM

[寸言]
almagedon ラッセルのこの「雛がある日突然首を捻られる」話は、よく引用されるものです。
実験科学(応用科学)は、結局この機能的推論によっており、1,000回予想通りだったとしても、1,001回目も同じとは限らない、という宿命的な限界を持っています。こういった分野においては、確率が重要となります。「哲学の問題は確率の問題だ」とまで言う哲学者もいます。人間(人類)は、大きな目で見れば、家畜が置かれた立場とそう異なるわけではない、とも言えそうです。
地球や人類は(太陽がダメになるまでの)あと数十億年は大丈夫か、それともそれは「幻想」にすぎないか? 、人類の運命やいかに!?