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子どもの遊びの心理学 -時が来れば実現したいと願い・・・

sekai-no-asobi 子供は,身体上の要求に気を配ってもらっているかぎり,現実よりもゲーム(遊戯)のほうがずっとおもしろいと考える。ゲーム(遊戯)においては,子供は王様である。実際,子供は,いかなるこの世の(世俗的な)君主にも勝る権力をもって自分の領土を支配する。現実においては,彼は一定の時刻になれば寝なければならないし,うるさい教え(言いつけ)をたくさん守らなければならない。子供は,想像力のないおとなが,よく考えもしないで彼の「舞台装置」(mise-en-scene)に介入すれば,激怒する。子供がせっかく,どんなに大きな巨人も登れないよう城壁を築きあげた時(あげたのに),あなたが不注意にもそれをまたいだりすれば,彼はロムルス(注:紀元前771年ー紀元前717年:ローマの建国神話に登場するローマの建設者)がレムス(注:紀元前771年-紀元前753年:ロームルスの双子の兄弟)に腹を立てたように,立腹する。
の人たち(年上の人たち)に対する子供の劣等感は正常であり病的ではないことからすれば,その劣等感を空想で埋め合わせすることもまた正常であり,病的ではない。子供のゲーム(遊戯)は,ほかのことにもっと有益に使える時間の全てをつぶしている(費やしている)わけではない。
仮に,子供の時間の全てがまじめな目的のためにあてられたとしたならば,子供の神経はじきにまいってしまうだろう。夢想にふけっているおとなには,それを実現するために努力せよと言ってやればよい。
しかし,子供は,持っていて当然であるような夢をまだ実現することができない。子供は,自分の空想を,現実世界の永遠の代用品だとは考えていない。それどころか反対に,時が来ればその空想を実現したいと熱望しているのである。

Truth is important, and imagination is important ‘, but imagination develops earlier in the history of the individual, as in that of the race. So long as the child’s physical needs are attended to, he finds games far more interesting than reality. In games he is a king : indeed, he rules his territory with a power surpassing that of any mere earthly monarch. In reality he has to go to bed at a certain time, and to obey a host of tiresome precepts. He is exasperated when unimaginative adults interfere thoughtlessly with his mise-en-scene. When he has built a wall that not even the biggest giants can scale, and you carelessly step over it, he is as angry as Romulus was with Remus. Seeing that his inferiority to other people is normal, not pathological, its compensation in fantasy is also normal and not pathological. His games do not take up time which might be more profitably spent in other ways: if all his hours were given over to serious pursuits, he would soon become a nervous wreck. An adult who indulges in dreams may be told to exert himself in order to realize them ; but a child cannot yet realize dreams which it is right that he should have. He does not regard his fancies as a permanent substitute for reality ; on the contrary, he ardently hopes to translate them into fact when the time comes.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE05-050.HTM

[寸言]
子どもには大人のような能力がないので「まねごと」によってあたかもできているかのようにふるまおうとする。いずれ大きくなってできるようになれば、「まねごと」でやったことが参考になって、実現できるようになる。

遊びと学習 -子どもの「まねごと」と大人の白昼夢は同じではない!

gokko-asobi 遊びの教育的な価値について言えば,新しい能力を身につけるような種類の遊びは,誰もが賛美するだろう。しかし,‘まねごと’をするような遊びには,多くの近代人(現代人)は懐疑の目を向けている。おとなの生活においては,白昼夢は,多かれ少なかれ病的であり,現実の世界における努力の代用品だと考えられている。白昼夢にあびせられた不信のうちのいくらかが,子供のまねごとの方にこぼれ落ちてきているが,私の考えでは,これはまったく間違っている。
モンテッソーリ式教育法を用いる教師は,子供が自分が使っている用具(遊具)を列車や蒸気船などに見立てるのを好まない。これは,「混乱した想像力」と呼ばれている。確かに,そのとおりである。なぜなら,子供たちの目には遊びとしか映らなくても,彼らのしていることは,実際には遊びではないからである。用具は子供を楽しませるが,その目的は教育にある。楽しみは教育の一手段でしかない。
一方,本物の遊びにおいては,楽しみが主要な目的である。「混乱した想像力」に対して向けられた異議が本当の遊びにまで持ちこまれるのは行きすぎであると思われる。同じことは,子供たちに妖精や巨人や魔女や魔法の絨毯などの話をして聞かせることに対する異議についてもあてはまる。私は,真理の禁欲主義者に同感することはできない。同様に,他の種類の禁欲主義者にも同感できない。
子供はまねごとと現実との区別がつかないとよく言われるが,そのように信ずぺき理由はほとんど見いだせない。私たちはハムレットがかつて実在したとは信じていない。しかし,ハムレットの芝居を見て楽しんでいるときにそのこと(ハムレットは実在しなかったこと)を絶えず思い出させる人がいたら,きっと腹を立てるだろう。子供たちも,へたに現実を思い出させる人には腹を立てる。しかし,子どもは,自分の作りごとに少しもだまされているわけではないのである。

As regards the educational value of play, everybody would agree in praising the sort that consists in acquiring new aptitudes, but many moderns look with suspicion upon the sort that consists in pretence. Day-dreams, in adult life, are recognized as more or less pathological, and as a substitute for efforts in the sphere of reality. Some of the discredit which has fallen upon day-dreams has spilled over on to children’s pretences, quite mistakenly, as I think. Montessori teachers do not like children to turn their apparatus into trains- or steamers or what not : this is called “disordered imagination “. They are quite right, because what the children are doing is not really play, even if to themselves it may seem to be nothing more. The apparatus amuses the child, but its purpose is instruction ; the amusement is merely a means to instruction. In real play, amusement is the governing purpose. When the objection to “disordered imagination ” is carried over into genuine play, it seems to me to go too far. The same thing applies to the objection to telling children about fairies and giants and witches and magic carpets and so on. I cannot sympathize with the ascetics of truth, any more than with ascetics of other kinds. It is commonly said that children do not distinguish between pretence and reality, but I see very little reason to believe this. We do not believe that Hamlet ever existed, but we should be annoyed by a man who kept reminding us of this while we were enjoying the play. So children are annoyed by a tactless reminder of reality, but are not in the least taken in by their own make-believe.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-040.HTM

[寸言]
kokisin 大人は普通、仕事と遊びを区別する。子ども(特に幼児)の場合は、大人のような「働く義務」はないので遊んでいればよいが、成長するにつれて、単なる遊びではなく、学習(教育を受ける義務)の要素が増していく。

子どもも少しでも早く大人と同じことをできるようになりたいので、学びたいという意欲は旺盛であるが,できるだけ面白い(遊びの要素がある)ものであってほしいと思う。これに対し大人(親や教師)は子どもが大きくなるにつれて、遊びの要素を少なくしてできるだけ世間に出た時に役に立つようなことをたくさん学んで身につけてほしいと希望するようになる。そうして、退行的に見える「まねごと」をいつまでもやっていたり,実用的でない知識ばかり得ようとしていると、我が子の心(精神)の発達が他の子どもよりも遅いのではないかと心配する親も出てくる。

案ずるより産むが易し。好奇心をいろいろな対象に持てることが一番重要であり、好奇心を奪うような、促成栽培的な教育(詰め込み教育など)は、知識をたくさん得られるとしても、それは一時的なもの(すぐに忘れてしまうもの)であり、長い目でみれば非効率かつ弊害を生むものとなるであろう。

子供の遊びにおける権力志向の現れ -二つの型

遊びには,権力ヘの意志(権力志向)の二つの型が見られる。すなわち,いろんなことのやり方を学ぶことに本質が在る型と,空想にふけることに本質が在る型である。
Bluebeard 挫折したおとなが性的な意味合いを持つ白昼夢にふけることがあるように,正常な子供は権力(志向)の意味合いを持つ’まねごと‘にふけるものである。正常な子供は,巨人とか,ライオンとか,列車(のような力強いもの)になりたがる。まねごとによって,彼は恐怖(感)をかきたてようとする。息子に「巨人退治のジャック」の話をしたとき,私は,息子が自分をジャックに見立てるように試みたが,彼は断固としで巨人のほうを選んだのである。母親が「青ひげ」の話をしてやったとき,息子は自分は青ひげだと言い張り,言うことを聞かない妻を罰したのは正当だと考えたイラスト参照)。
息子の遊びの中には,突然婦人の首をはねるという血なまぐさいものもあった。これはサディズム(人間の加虐性を示すもの)だ,と,フロイト主義者なら言うだろう。しかし,息子は,同様に,小さい男の子たちを食べてしまう巨人の話や,重い荷物をひっばる機関車になることも楽しんでいた。これらの’まねごと’に見られる共通の要素は,性ではなく,権力(志向)であった。
ある日,散歩からの帰りみち,私はまったくの冗談として,ひょっとすると,ティドリーウィンクスさん(Tiddleywinks)という人がわが家を占領して,中に入れてくれないかもしれないよ,と息子に言った。それからというもの,長い間,息子は自分はティドリーウィンクスだと言って玄関の前に立ち,私に向かってよその家へ行くように,と言ったものである。このゲームをするときの息子の喜びようは,際限がないものであり,息子が楽しんでいたのは,明らかに,自分に権力があるかのようなまねをすることであった。

Jack-to-mamenokiIn play, we have two forms of the will to power : the form which consists in learning to do things, and the form which consists in fantasy. Just as the balked adult may indulge in day-dreams that have a sexual significance, so the normal child indulges in pretences that have a power-significance. He likes to be a giant, or a lion, or a train ; in his make-believe, he inspires terror. When I told my boy the story of Jack the Giant-Killer, I tried to make him identify himself with Jack, but he firmly chose the giant. When his mother told him the story of Bluebeard, he insisted on being Bluebeard, and regarded the wife as justly punished for insubordination. In his play, there was a sanguinary outbreak of cutting off ladies’ heads. Sadism, Freudians would say ; but he enjoyed just as much being a giant who ate little boys, or an engine that could pull a heavy load. Power, not sex, was the common element in these pretences. One day, when we were returning from a walk, I told him, as an obvious joke, that perhaps we should find a certain Mr. Tiddliewinks (Tiddleywinks) in possession of our house, and he might refuse to let us in. After that, for a long time, he would stand on the porch being Mr. Tiddliewinks and telling me to go to another house. His delight in this game was unbounded, and obviously the pretence of power was what he enjoyed.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-030.HTM

[寸言]
大人に比べていかに自分は非力なことか、また、早く大人のようにいろいろできるようになりたいと思う。従って、自分を強者に見立て、強者の真似をしたがる。乱暴なこともする。しかしそれは、人間(子ども)における残酷性(サディズム)の現れではなく、あくまでも、強いもの(大人、ウルトラマン、百獣の王ライオン、その他)になりたいという、生物の子ども共通の願いや衝動であろう。

幼年期の第一の本能的な衝動は(フロイトの言う)リビドーではなく・・・

freud-libido 精神分析学者(精神分析医)の中には,子供の遊びの中に性的象徴を見ようとしたものがいる(注:フロイトなど)。 これは馬鹿らしい考え(たわごと)である,と私は確信している。幼年期の主な本能的な衝動は,性ではなくて,おとな(一人前)になりたいという欲望である。もっと正確に言うなら,力(権力)ヘの意志である。[H・C・キャメロン博士『神経質な子供』 (1924年),p.32以下参照] 子供は,年長者と比べて自分がいかに弱いかを痛感しており,その人たちと対等になりたいと願っている。私の息子は,自分もいつかはおとなになるだろうこと,また,私もかつては子供であったことを知って,とても喜んだことを,覚えている。(即ち,)自分にも成功する見込みがあることを悟り,努力しようとしている様子が見てとれた。子供は,ごく幼いころから,年長者のすることを自分もやりたがるものであり,それは人のまねをする習慣によって明らかである。兄や姉は役に立つ。なぜなら,兄や姉の意図は理解できるし,彼らの能力はおとなの能力ほど手の届かないものではないからである。劣等感は,子供にあってはすこぶる強い。子供が正常で,正しい教育を受けている場合には,劣等感は努力ヘの刺激になるのに対して,抑圧されている場合には,不幸の原因になるかもしれない。

father-and-childSome psycho-analysts have tried to see a sexual symbolism in children’s play. This, I am convinced, is utter moonshine. The main instinctive urge of childhood is not sex, but the desire to become adult, or, perhaps more correctly, the will to power. [‘Cf. The Nervous Child, by Dr. H. C. Cameron (3rd ed., Oxford, 1924), pp.32 ff.] The child is impressed by his own weakness in comparison with older people, and he wishes to become their equal. I remember my boy’s profound delight when he realized that he would one day be a man and that I had once been a child ; one could see effort being stimulated by the realization that success was possible. From a very early age, the child wishes to do what older people do, as is shown by the practice of imitation. Older brothers and sisters are useful, because their purposes can be understood and their capacities are not so far out of reach as those of grown-up people. The feeling of inferiority is very strong in children ; when they are normal and rightly educated, it is a stimulus to effort, but if they are repressed it may become a source of unhappiness.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-020.HTM

[寸言]
フロイトの言っていること(子どもにおけるリビドーの支配力の大きさエディプス・コンプレックス、その他)をそのまま信じている精神科医や心理学者がまだ少なからずいそうですが、「できるだけ早く大人のように一人前になりたい」という生物共通の動因・誘引のほうが大きな支配力を持っているという(ラッセル)意見の方が納得できます。

子どもの遊びを「役に立つかどうか」という観点から制限してはならない

yuugu_asobi-dogu 遊びを好むこと(遊び好き)は,人間であれ獣であれ,若い動物の最もはっきりした特徴である。人間の子供の場合,遊び好きには,(さらに)’まねごと’(ゴッゴ)に対する尽きることのない喜びが伴っている。(注:岩波文庫版の安藤訳では,主語の This を「遊び」ととり,「遊びは,まねごとに対する尽きせぬ喜びを伴う」と訳されている。しかし,主語は,前文との関係から,「Love of play ‘遊び好き’」ととるべきであろう。)
遊びと’まねごと’(ゴッゴ)は,幼年時代の不可欠の必要物であり,子供を幸福で健康にしてやりたければ,そういう活動が何かほかにも役に立つかどうかは関係なく,そのための機会を用意してあげなければならない。

gokko-asobiLove of play is the most obvious distinguishing mark of young animals, whether human or otherwise. In human children, this is accompanied by an inexhaustible pleasure in pretence. Play and pretence are a vital need of childhood, for which opportunity must be provided if the child is to be happy and healthy, quite independently of any further utility in these activities.
 出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-010.HTM

[寸言]
 知育に役立たないようなものは排除するというようなことをしてはいけない、ということ。
幼児に対する先進的な能力教育(促成栽培教育/慶応幼稚舎「お受験」のような早期受験教育/性格教育をおろそかにした知育偏重教育)には,そういったきらいがあり、子供の「総体としての」幸福を減じさせる危険性がありそう。
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(追記)
お医者さんの子ども(だった人)は、他の家庭に比べて、お医者さんごっこをした経験が、格段に多いのでしょうかね?
お医者さんとそれ以外の100人ずつに聞いて、比較すると面白いかも知れません。
「お医者さん100人に子ども時代の遊びについて聞きました。・・・」(TV番組の企画ネタとしても売り込めそうです。)

「恐怖心」は不幸のもと(源泉/種) - 自由な世界人に子どもを育てる

fear-oikaketekuru わが子の恐怖心を払いのけてあげたいと思うのであれば,あなた自身が恐怖心をもたないようにしなければならない。あなたが雷雨を怖がれば,あなたの前ではじめて雷を聞いた時から,子供も,あなたの恐怖心に感染してしまうだろう。あなたが社会革命を恐れていることを示せば,子供はあなたが何の話をしているのかわからないので,それだけより大きな恐怖心を感じることだろう。あなたが病気のことを心配していれば,子供も病気のことを心配するだろう。
goldfish-courage 人生は危険にみちている。しかし,賢い人は,避けられない危険は無視し,また,避けられる危険は,感情をまじえず,慎重に行動する。あなたは死を避けることはできないが,遺言を残さないで死ぬことは避けることができる。それゆえ,遺言状を書き,自分が死ぬべき存在であることは忘れてしまおう。不幸に対する(抗する)合理的な備えは,恐怖心とはまったく異なるものである。それは,知恵の一部である。一方,恐怖心は全て卑屈なものである。恐怖心を感ぜずにはいられないときには,子供にそれを悟られないようにするがいい。とりわけ,子供に,幅広い物の見方と,多彩な生き生きした関心を身につけさせてあげるのがよい。そういうものは,子供が大きくなってから,自分は不幸になりはしないかとくよくよ思いわずらうことがないようにしてくれるだろう。そのようにして初めて,あなたはわが子を自由な世界人とすることができるのである。

Above all, if you wish to dispel fear in your children, be fearless yourself. If you are afraid of thunder-storms the child will catch your fear the first time he hears thunder in your presence. If you express a dread of social revolution, the child will feel a fright all the greater for not knowing what you are talking about. If you are apprehensive about illness, so will your child be. Life is full of perils, but the wise man ignores those that are inevitable, and acts prudently but without emotion as regards those that can be avoided. You cannot avoid dying, but you can avoid dying intestate ; therefore make your will, and forget that you are mortal. Rational provision against misfortune is a totally different thing from fear ; it is a part of wisdom, whereas all fear is slavish. If you can not avoid feeling fears, try to prevent your child from suspecting them. Above all, give him that wide outlook and that multiplicity of vivid interests that will prevent him, in later life, from brooding upon possibilities of personal misfortune. Only so can you make him a free citizen of the universe.
* dispel (v):追い散らす;払いのける
* apprehensive (adj.):気遣い,心配;理解する
* intestate (adj.):無遺言で
* slavish (adj.):奴隷根性の;卑屈な
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-160.HTM

[寸言]
幼い頃に不合理な恐怖心を身につけると,大人になっても意識下を支配する恐怖心の悪影響を受け続けることがある。そういった恐怖心は親(が持つ恐怖心)から知らないうちに受け継いていることが少なくない。

厳しい世の中(人間関係、自然環境)に対処るすためには「備え」が必要ではあるが、そういった「備え」を一応したからには、勇気を持って世界に出て行くことが望まれる。

恐怖心を抱くものは助けてもらえそうな人や組織にしがみつくことになりやすい。為政者も、汚職や失政などで国民の支持を失うと、外敵(仮想敵国など)の非道さや邪悪さを強調して国民の恐怖心をあおり、そうすることによって国民の支持を再び得ようとすることが、歴史上、たびたびあった。現代日本においても、・・・。

幼児に公平ということを理解させることの重要性

kouhei_zurui ・・・。しかし,満2歳以後は,一日のうちの何時間かは,絵や粘土やモンテッソーリ式遊具などで,ひとり静かに遊ぶことを教えてやることは,よいやり方である。静かにさせることについては,つねに子供に理解できる理由がなければならない。行儀作法は,一つの楽しいゲームとして教えられる場合を除いて,抽象的な形で教えるべきではない。しかし,子供は,わけがわかるようになり次第,親にも権利があること,また,他人にも自由を与えなければならないこと,そうして(その上で)自分も最大限の自由を持ってよいこと,を理解しなければならない。子供は,容易に公平ということを理解し,他の人が自分に与えてくれるものは,喜んで他の人にも与えるようになるであろう。これこそ,よい行儀作法の核心である。

JOHNSONBut after the first two years it is a good plan to teach them to amuse themselves quietly part of the day, with pictures or clay or Montessori apparatus or something of the kind. There should always be a reason for quiet that they can understand. Manners should not be taught in the abstract, except when it can be done as an amusing game. But as soon as the child can understand, he should realize that parents also have their rights, he must accord freedom to others, and have freedom for himself to the utmost possible extent. Children easily appreciate justice, and will readily accord to others what others accord to them. This is the core of good manners.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-150.HTM

[寸言]
一人っ子の場合は、できるだけ年の近い子どもと遊ばせるようにしないと、長じてからわがまま(暴君)になりやすい。そうでなければ、シャイになったり、引っ込み思案になったり、内弁慶になったり・・・。

「親の心子知らず」と同じく「子の心親知らず」

A3_Poster_out 私は5歳の時,幼年時代は人生で一番幸福な時期だ,と言われたのを覚えている(当時を思えば,真っ赤な嘘である)。私は,慰めようもないくらい泣き,死んでしまいたいと思い,また,これからの年月,どのようにして退屈に耐えるべきだろうかと思案した。今日では,子供に向かってそんなことを言う人がいるとはほとんど想像できない。
子供の人生は,本能的に前向きである。つまり,つねに,将来可能になるだろうことに向かっている。このことは,子供の努力に対する刺激の一部である。子供の心を後向きにすること,未来を過去よりも悪いものとして示すことは,子供の人生を根元から害するものである。しかし,それは,心ない感傷主義者たちが,以前,子供に向かって幼年時代の喜びを語ることによってやっていたことである。
幸い,彼ら(ラッセルの家族)の言った言葉の印象は,そう長続きしなかった。たいていの場合,私は,大人は勉強しなくてもいいし,好きなものが食べられるのだから,彼らは完全に幸福なのにちがいない,と信じていた。この信念は健康かつ心を活気づけるものであった。

I can remember, at the age of five, being told that childhood was the happiest period of life (a blank lie, in those days). I wept inconsolably, wished I were dead, and wondered how I should endure the boredom of the years to come. It is almost inconceivable, nowadays, that anyone should say such a thing to a child. The child’s life is instinctively prospective : it is always directed towards the things that will become possible later on. This is part of the stimulus to the child’s efforts. To make the child retrospective, to represent the future as worse than the past, is to sap the life of the child at its source. Yet that is what heartless sentimentalists used to do by talking to the child about the joys of childhood. Fortunately the impression of their words did not last long. At most times I believed the grown-ups must be perfectly happy, because they had no lessons and they could eat what they liked. This belief was healthy and stimulating.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-140.HTM

[寸言]
jido-gyakutai_poster02 「躾のために7歳の子どもを山の中に置きざりにした事件」は、無事解決し、父親も深く反省しているということで、この件は一見落着しました。
しかし、「躾」がなっていなくて親になった大人が、自分の子どもに「躾」と称して「虐待」をする事件が頻発しています。自分が我が子と同じ年頃の時にどうであったか(どれだけの理解力があったか、精神の発達はどうであったか)ということを考える想像力がないくせに、自分は子どもを理解していると錯覚している親が多すぎますね。
子どもとともに親は成長する、ということをよく自覚すべきです。

我が子(子ども)が「死」の問題について質問してきたら・・・

yurikago_kara_hakaba_made これに関連して,難しくて,取り扱うのにかなりのコツが必要な問題がいくつかある。一番難しいのは死の問題である。
子供は,やがて,植物や動物が死ぬことを発見する。子供が6歳にならないうちに,子供の知っている誰かが死ぬだろうということも,死の問題を知る機会である。いやしくも利発な子供ならば,いつか両親も死ぬだろうし,自分自身もまた死ぬだろうということ -(自分の死はより想像するのが難しいことであるが- を思いつく(はずである)。こういった思いは,多くの疑問を生み出すだろうが,それには慎重に答えてあげなけらばならない。
正統的な信仰を持っている人は,死後の生命など決して存在しないと考える人よりも,困難を感じないで済むだろう。もしも,あなたが後者の見解を抱いているならば,その見解に反するようなことを言ってはならない。どう考えてみても,親が自分の子供に嘘をつくことを正当化するものはない。
死は目覚めることのない眠りである,と説明するのが一番よい。このことは,まじめくさった顔をせずに,ごくあたりまえに想像できることであるかのごとく話すべきである。もしも,子供が自分の死について思い悩むようであれば,死ぬのはまだ遠い遠い先まで起こりそうにない,と言ってあげるのがよい。
幼いころに,死をストイック(冷静かつ禁欲的に)に軽く見る態度を教えこもうと試みても,無駄であろう。死の話題は(親から)持ち出してはいけないが,子供のほうから持ち出したときには避けてはならない。死には神秘的なものは何もないと子供に感じさせるように,力を尽くすのがよい。子どもが正常で健康ならば,死についてくよくよ考えこませないようにするには,この方法で十分であろう。
発育のどの段階においても,進んで,十分かつ率直に話し,自分の信じるところを全て語り,死の話題はあまり面白いものではないという印象を植えつけるのがよい(植え付けよう)。老人であれ,若者であれ,死の問題について,多くの時間を消費するのはよくない。

heaven-or-hell_escalatorSome problems, in this connection, are difficult, and require much tact. The most difficult is death. The child soon discovers that plants and animals die. The chances are that somebody he knows will die before he is six years old. If he has at all an active mind, it occurs to him that his parents will die, and even that he will die himself. (This is more difficult to imagine.) These thoughts will produce a crop of questions, which must be answered carefully. A person whose beliefs are orthodox will have less difficulty than a person who thinks that there is no life after death. If you hold the latter view, do not say anything contrary to it ; no consideration on earth justifies a parent in telling lies to his child. It is best to explain that death is a sleep from which people do not wake. This should be said without solemnity, as if it were the most ordinary thing imaginable. If the child worries about dying himself, tell him it is not likely to happen for many, many years. It would be useless, in early years, to attempt to instil a stoic contempt for death. Do not introduce the topic, but do not avoid it when the child introduces it. Do all you can to make the child feel that there is no mystery about it. If he is a normal, healthy child, these methods will suffice to keep him from brooding. At all stages, be willing to talk fully and frankly, to tell all that you believe, and to convey the impression that the subject is rather uninteresting. It lis not good either for old or young to spend much time in thinking about death.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-130.HTM

[寸言]
「死の恐怖」に苛まれ、それが原因で病気になったり、寿命が大幅に縮まってしまうなんてことは、愚かな対応の仕方。だからといって、迷信や嘘を必須とするような宗教に走るのも、知性を持った人間としてはなさけない。

ohkawa-getemno いや、人間の死の問題については、知性ではでなく、心(感性)のほうが重要(心の持ち方が大切)というのが宗教の誘い文句個人として宗教に安心立命をたくすのはいけないとは言えないだろうが、それを他人に対してあたかも「信仰は必須(無神論者は地獄に落ちる!)」などと言うようになったら大きな害を社会に及ぼすようになる。

宗教にはいろいろあり、大きな宗教(キリスト教、イスラム教、仏教などの世界宗教)には無数と言ってよいほどの宗派があり,いがみあっている。そうして、自分が信じる宗教を信じる人(狂信的な人)は「天国」にいけるが、自分がよくないと思っている宗教を信じる人は「地獄」に落ちると言ったりする。

子どもがいる人は自分の子どもや孫が自分が死んだ後も生き続けるので自分は死んでも自分の分身が生き続けていくと考えれば、自分が死ぬことによってすべてが終わると考えなくてすむ。子どもがない人の場合は、兄弟姉妹の子どもを自分の分身と考えてもよいし、あるいは、人によっては、人類が地球上に生命が誕生してから人間にまで発達した壮大な生命史を考えることによって、なぐさめられる(心の平安を持てる)かも知れない。
いずれにしても、死ねば「天国にいける」なんて(自分が思い込むのは勝手であるが)他人に対して言うことは「出すぎた発言(余計なお世話)」であろう。

(迷信の原因となる)神秘的なものに対する恐怖(心)

DOKUSH56 神秘的なもの(得体のしれないもの)に対する恐怖(心)は,すでに子供の恐怖に関連して,触れている。私は,この恐怖(心)は本能的なものであり,歴史的に見てきわめて重要であると信じている。大部分の迷信は,この恐怖(心)によるものである。
日蝕及び月蝕,地震,疫病,その他この種の出来事が,非科学的な人びとの間に大いに迷信をはびこらせた。迷信は,個人的にも社会的にも,非常に危険な恐怖(心)の形である。だから,若い頃にそれを根絶することは大いに望ましい。
迷信に対する適切な解毒剤は,科学的な説明である。一見して神秘的にみえるすべてについて説明してあげなくてもよい。何回かしっかりした説明が与えられれば,子供は他の場合にも説明がつくと考えるようになり、また,(説明できるはずだが)説明はまだつかないのだと教えることも可能になるだろう。
重要なことは,神秘感はただ単に無知によるものであり忍耐と知的な努力によってなくすことのできるものだという感情を,できるだけ早く持たせることである。初め神秘的な性質のために子供を怖がらせていたものが,恐怖(心)を克服するや否や,子供を喜ばせるようになるのは,注目に値する事実である。

superstition_black-catThe fear of the mysterious has been already touched upon, in connection with childish terrors. I believe this fear to be instinctive, and of immense historical importance. Most superstition is due to it. Eclipses, earthquakes, plagues, and such occurrences, arouse it in a high degree among unscientific populations. It is a very dangerous form of fear, both individually and socially ; to eradicate it in youth is therefore highly desirable. The proper antidote to it is scientific explanation. It is not necessary that everything which is mysterious at first sight should be explained, after a certain number of explanations have been given, the child will assume that there are explanations in other cases, and it will become possible to say that the explanation cannot be given yet. The important thing is to produce, as soon as possible, the feeling that the sense of mystery is only due to ignorance, which can be dispelled by patience and mental effort. It is a remarkable fact that the very things which terrify children at first by their mysterious properties delight them as soon as fear is overcome.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-120.HTM

[寸言]
chimimouryo_gosei 神秘主義(神秘的なもの)に惹かれる人が少なくない。この世の中(宇宙)には人間がまだ理解できないものが無数に存在している。しかし、それはあくまでも人間の相対的な非力さのせいであり、この世の中(宇宙)が神秘的なものであることの証拠にはならない(世界は神秘的でも、平凡でもなく、世界はあるがままのものであろう)。

人間は傲慢になってはいけないが、神秘主義や迷信に陥り、「合理的かつ論理的に思考する努力」をやめてはならない。迷信や神秘主義に陥る者は、周囲に対し偏見や先入観を抱き、非合理的な対応をすることが多く、他者(や多民族や他国)との関係で、不幸な事態を引き起こしやすい。

日本は「神国」(森元首相、日本会議のみなさん)だとか、「美しい日本の」(日本会議のみなさん、自民党の多くの議員)といった枕詞をあらゆるものにつけたりして「思考停止」をするような「反知性的な」人間になってはならない。そういった人間をこの世にたくさん生み出さないためにも、大人は自らの偏見や先入観を子どもに植え付けることなく、(保育の専門家の助けをかりながら)我が子を聡明な人間に育てなければならない。