人間性の名誉のために-非国民と罵られても抗議の声をあげる

BRAINS-B  このような最中,私は自分の愛国心によってひどく苦しめられたマルヌの戦い(第一次世界大戦初期の1914年9月5~12日,フランスのマルヌ河畔で行われた独仏の戦いでフランスが勝利した。)以前の,ドイツの数々の成功(勝利)は,私にとって,大変恐ろしいものであった。私は,いかなる退役した陸軍大佐にもおとらないくらい熱烈にドイツの敗北を願った。(母国)英国に対する愛情,私のもっている感情のなかで最も強いものであるといってよいが,そのため,そのような時期において,愛国心が沸いてきたらそれをわきに追いやるという,困難な自制の努力をしていた。それにもかかわらず,私は何をなさなければならないかということについて,一瞬たりとも疑いを持たなかった。私は,大戦以前には,時々懐疑主義に陥って無力になったり,時々冷笑的になったり,それ以外の時には無関心になったりしたが,第一次大戦が勃発した時には,あたかも神の声を聞いたかのように感じた。
私の抗議がどんなに無益なものであろうとも,戦争に抗議することは私の役割(責務)であると理解していた。私の人間としての全ての本質が関係していた。
(第一に)真理を愛するものとして,全交戦国の(自国本位の)国家宣伝にむかむかさせられた。
(第二に)文明を愛するものとして,野蛮への復帰にぞっとさせられた。
(第三に)若者たちに対する親としての感情を損なわれたものとして,青年に対する大虐殺に心を苦しめた。(第一次)大戦に反対しても,自分にとって良いこと(自分の利益になること)はほとんど出てこないだろうと思ったが,★人間性の名誉のために★,少なくとも足下をすくわれていない人々は,しっかりと(自分の足で)立っていることを示すべきであると思った。

[寸言}
非国民と言われ孤立することは非常に辛い。そこで、どうしても、戦争に賛成しないまでも、黙認することになりやすい。国民みんながそう思うようになれば、「愛国無罪」ということになり、歯止めが無くなってしまう。ラッセルには、それは「人間性に対する屈辱」に映る。「人間は本来残酷なんだよ」と’大人の態度’で対処しても、戦争に勝利すれば反省することなく(うぬぼれを強くし)、また、負ければ、自分の責任は最小限にして国家(指導者)だけの責任にしようとする(のが人間性!?)

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