ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.5

(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) 
<1888年4月9日 月曜>
  ・・・私は(人間の)生命が永遠であったらと(強く)願う。(I do wish I believed in the life eternal.仮定法「if I believed」の「if」が省略された形か?) というのは、人間は単なる一種の機械であり、(しかも)自分自身にとって不幸なことに(unhappily for himself),意識を与えられている(機械である)と考えることは、私をまことにみじめな気持にさせるからである(訳注:意識がなければ不幸に感じることはない)。しかし,(人間機械説以外の)他のいかなる理論神の全知全能(説)(the complete omnipotence 完全な全能) -これは科学が十分に明らかにしていると私は考える- と両立しない。こうして,私は,無神論者となるか,不死を信じない者となるか、どちらかをとるより他ない(のである)。第一のもの(無神論者)を私が採ることは不可能であるので、不死の否定を私は受けいれ、そうして私は誰にもそのことを知らせずにおく。こういった人間観は失望を与えるものであるかもしれないけれども、神が(世界の)始めに,単なる星雲状物質の塊- 恐らく宇宙のその部分に拡がっているエーテルにすぎないもの- に働きかけることによって、我々自身のような生物を、即ち,自らの存在を意識するだけでなく,ある程度まで神の神秘を推測する生物を生みだすことのできる法則を創り出すことができると考えることは、神の偉大さについての素晴らしい観念を我々人間に与える(のである)。(そうして)これら全てのことは神が(更に)まったく手を加えることなしになのである! さて,この自由意志の否定説(不存在説)がそれほど不合理か(馬鹿げているか)どうか考えてみよう。もし我々が誰かにその説(自由意志不存在説)を語れば、聞かれた人々は自分の足を蹴るか、他の何かそういったようなことをして、応えるであろう(訳:「このように、私には自由意志があります」と)。しかし,この場合も(自由に蹴っているのではなく)そうせざるをえないからである。なぜならばこの場合その人はそれをせざるを得ないことを証明するものを持っており、従ってそれがその人が足で蹴るということの動機を与えているからである。このようにして,我々が何をなす場合においても,我々は常に何らかの動機を持っており、その動機が我々を決定しているのである。ここでもまた、シェイクスビアやハーバート・スペンサーやパプアニューギニア人(パプア人/土人)との間に明確な境界線はないのである。しかし(我々の眼には)二人(=シェイクスビア及びハーバート・スペンサー)とパプア人との間の相違(差)はパプア人と猿との相違(差)ほど大きいように見える。

Chapter 3: First Efforts, n.5

(From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. Apr. 9th Monday, . … I do wish I believed in the life eternal, for it makes me quite miserable to think man is merely a kind of machine endowed, unhappily for himself, with consciousness. But no other theory is consistent with the complete omnipotence of God of which science I think gives ample manifestations. Thus, I must either be an atheist or disbeliever in immortality. Finding the first impossible, I accept the second and let no one know. I think, however disappointing may be this view of man, it does give us a wonderful idea of God’s greatness to think that he can, in the beginning, create laws which, by acting on a mere mass of nebulous matter, perhaps merely ether diffused through this part of the universe, will produce creatures like ourselves, conscious not only of our existence but even able to fathom to a certain extent God’s mysteries! All this with no more intervention on his part! Now let us think whether this doctrine of want of free will is so absurd. If we talk about it to anyone they kick their legs or something of that sort. But perhaps they cannot help it, for they have something to prove and therefore that supplies a motive to them to do it. Thus, in anything we do we always have motives which determine us. Also, there is no line of demarcation between Shakespeare or Herbert Spencer and a Papuan. But between them and a Papuan there seems as much difference as between a Papuan and a monkey.
 Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.  
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