ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.18

 生理学は解剖学より遅れて発達し,血液循環の発見者ハーヴェー(William Harvey, 1578-1657:イングランドの解剖学者,医師。1628年に血液循環説を発表)ともに科学的になったと見てよいだろう(may be taken as)。彼はヴェサリウスと同様宮廷医(侍医) -最初はジェームズ一世の,その後チャールズ一世の- であったが,ヴュサリウスとは異なり,彼はチャールズ一世が亡くなった時でさえも迫害を受けなかった(注:when Charles I had fallen: 「fallen 亡くなった」を荒地出版社の訳本では「退位した時」と誤訳している)。その間の世紀(注:ヴェサリウスとハーベイとの間の期間)に,医学上の問題に関する意見は,ずっと自由になった。特にプロテスタント諸国においてそうであった。スペインの諸大学では,血液の循環は18世紀末においてさえ否定されており,また,解剖は(も)その時でもなお医学教育に加えられていなかった。  古い神学上の偏見は,かなり弱められたが,何らかの(何か)驚くほど新奇なもの(startling novelty)によって覚醒されると,再び現れた。天然痘に対する種痘(=天然痘の予防接種)(inoculation against smallpox)は,神学者たち(divines)からはげしい抗議を引き起こした(注:津田氏は divines を牧師たちと訳出)。ソルボンヌ大学は神学的根拠からそれに対し反対意見を公表した。英国国教会のある牧師は説教集を出版し,その中でヨブの出来物(腫れ物)(Job’s boils)は疑いもなく悪魔による接種のせいだと言っている。また,多くのスコットランドの牧師たち(ministers)は,種痘は「神の審判をくじこうとする努力である」という宣言(の発表)に加わった。けれども,(種痘の)天然痘による死亡率を低下させる効果(結果)がとても顕著であったので,神学的恐怖もこの病(天然痘)の恐怖を凌駕することは出来なかった。さらに,1768年には,エカチェリーナ2世(1729-1796)(注:ドイツ語のカザリン,英語のキャサリンの表記もあり)及び彼女の息子は種痘をうった。彼女は,もしかすると道徳的観点からではないかも知れないが,世俗的な(あの世ではなくこの世の)思慮分別が必要な問題における信蹟できる案内者と考えられた。  種痘の是非論に関する論争は消え始めていたが,予防接種(vaccination:ワクチン接種)の発見(注:予防接種が効果があることの発見)はその論争を復活させた(注:津田氏は vaccination 予防接種一般」を「種痘(天然痘に限定した予防接種)」と訳している)。聖職者たちは(また医者たちも),予防接種を「天(神)自体に,さらには,神の意にさえ反抗するもの」と見なした。ケンブリッジ大学においては,(ある)大学説教でも予防接種への反対が唱えられた(説教が行われた)。1885年になってさえも(そんなに時代が進んでも)モントリオールで天然痘が発生した時には,住民の内カトリック教徒たちは,牧師たちの支持の下に,予防接種に反対した。ある司祭(priest 神父)は次のように述べている。「もし,我々が天然痘にかかるとしたら,それは昨冬謝肉祭(注:カトリック教で行われる祭りで,四旬節(=復活祭前の四十日間)に肉を断つので、その直前三日ないし一週間をにぎやかに祝うもの)をやり,その時にごちそうを食べ肉体を喜ばせて主(神)を怒らせたからだ」。(また)「感染地区の中心にある修道院の神父たち(The Oblate Fathers)は予防接種を非難し続けた。(また)信者は,いろいろな種類の献身的な祈祷(devotional exercises 勤行/ごんぎょう)に頼るように熱心に勧められた。 全聖職団の裁可(the sanction of the hierarchy)のもと,聖母マリアへの厳粛な祈願をこめた聖歌大行列を行なうことが命ぜられ,ロザリオ(注:聖母マリアへの祈り「アヴェ・マリア」を繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具)の使用も明細に指示された。」〈原注:ホワイト「前掲書」第2巻 p.60参照)

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.18
Physiology developed later than anatomy, and may be taken as becoming scientific with Harvey (1578-1657), the discoverer of the circulation of the blood. Like Vesalius, he was a Court physician – first to James I and then to Charles I – but unlike Vesalius he suffered no persecution, even when Charles I had fallen. The intervening century had made opinion on medical subjects much more liberal, especially in Protestant countries. In Spanish universities, the circulation of the blood was still denied at the end of the eighteenth century, and dissection was still no part of medical education. The old theological prejudices, though much weakened, reappeared when awakened by any startling novelty. Inoculation against smallpox aroused a storm of protest from divines. The Sorbonne pronounced against it on theological grounds. One Anglican clergyman published a sermon in which he said that Job’s boils were doubtless due to inoculation by the Devil, and many Scottish ministers joined in a manifesto saying that it was “endeavouring to baffle a Divine judgment.” However, the effect in diminishing the death-rate from smallpox was so notable that theological terrors failed to outweigh fear of the disease. Moreover, in 1768 the Empress Catherine had herself and her son inoculated, and though perhaps not a model from an ethical point of view, she was considered a safe guide in matters of worldly prudence. The controversy had begun to die down when the discovery of vaccination revived it. Clergymen (and medical men) regarded vaccination as “bidding defiance to Heaven itself, even to the will of God” ; in Cambridge, a university sermon was preached against it. So late as 1885, when there was a severe outbreak of smallpox in Montreal, the Catholic part of the population resisted vaccination, with the support of their clergy. One priest stated : “If we are afflicted with smallpox, it is because we had a carnival last winter, feasting the flesh, which has offended the Lord.” “The Oblate Fathers, whose church was situated in the very heart of the infected district, continued to denounce vaccination ; the faithful were exhorted to rely on devotional exercises of various sorts ; under the sanction of the hierarchy a great procession was ordered with a solemn appeal to the Virgin, and the use of the rosary was carefully specified.”(note: White, op. cit., Vol. II, p. 60. )
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-180.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.17

Andreas Vesalius by Edouard Hamman (1819-1888). (Photo by: Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images)

 これまで見てきたように,中世時代を通して病気の予防と治療は,迷信的あるいはまったく恣意的な(arbitary 原則によらず勝手な)方法で試みられた。解剖学及び生理学なしには(当時)より科学的なもの(予防や治療)はまったく不可能であり,そうしてこれらの科学も教会が反対する解剖を行なわないでは可能ではなかった。解剖学を初めて科学的なものにしたヴュサリウスは,皇帝チャールズ五世 -彼は自分が愛顧している医者を失ったら自分の健康は害されるかも知れないと恐れていた- の医者(侍医)だったので,暫くの間,公的な非難を首尾よく免れていた。チャールズ五世の治世下,神学者会議は,ヴュサリウスについて助言を求められ,彼らの意見として,解剖は神物冒涜(sacrilege 罰当たりな行為)ではないと回答した。しかし,(チャールズ五世ほど)病弱でないフィリップ二世は一人の被疑者(a suspect 嫌疑をかけられた者)を保護する理由を認めなかった。(そうして)ヴュサリウスはそれ以上解剖のための死体を得ることができなかったキリスト教会(カトリック教会)は,人体の中には復活(再生)する肉体の核となる一つの(頑丈なため)破壊できない骨があると信じていた。ヴュサリウスは,そのことを問われ,そういった骨を未だかつて発見したことがないと告白した。これは具合わるいことだったが,おそらく,それほど悪いものではなかった。ガレヌス(Galen – Claudius Galenus, 129年頃 – 200年頃:ローマ帝国時代のギリシアの医学者で,彼の学説はルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった) の医学上の弟子たちは -物理学においてアリストテレスがそうであったように,彼らは医学の進歩において大きな障害になった- ヴュサリウスを無慈悲な敵意をもって追求し,そして遂に(at length)彼を破滅させる機会を見出した。(即ち)彼が,親族の者の同意を得て某スペインの大公(grandee 最高位の貴族)の遺体を調べている時,(執刀用)ナイフの下で(その貴族の)心臓が動いている徴候を示しているのが観察された - あるいは彼の敵たちがそう言った。彼は殺人の罪の疑いがかけられ,異端審問所に告発された。王が影響力を行使することによって,彼は聖地への巡礼により懺悔する(罪の償いをする)ことを許された。しかし,巡礼からの帰路,彼は難破に遭い,岸に達したけれども,疲れ切って亡くなった。だが,彼の影響力は生き残った。即ち,彼の弟子の一人のファロッピオ(Fallopius = Gabriele Falloppio ガブリエレ・ファロッピオ, 1523-1562:イタリアの16世紀を代表する解剖学者で医師)は顕著な仕事をした。そうして,医療専門職たちは,徐々に,肉体のなかにあるものを発見する方法は(外から眺めるだけでなく,実際に)人体の中に存在するものを視線を向けて見る(look and see)ことだと確信するようになった。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.17
Throughout the Middle Ages, as we have seen, the prevention and cure of disease were attempted by methods which were either superstitious or wholly arbitrary. Nothing more scientific was possible without anatomy and physiology, and these, in turn, were not possible without dissection, which the Church opposed. Vesalius, who first made anatomy scientific, succeeded in escaping official censure for a while because he was physician to the Emperor Charles V, who feared that his health might suffer if he were deprived of his favourite practitioner. During Charles V’s reign, a conference of theologians, being consulted about Vesalius, gave it as their opinion that dissection was not sacrilege. But Philip II, who was less of a valetudinarian, saw no reason to protect a suspect ; Vesalius could obtain no more bodies for dissection. The Church believed that there is in the human body one indestructible bone, which is the nucleus of the resurrection body ; Vesalius, on being questioned, confessed that he had never found such a bone. This was bad, but perhaps not bad enough. The medical disciples of Galen – who had become as great an obstacle to progress in medicine as Aristotle in physics – pursued Vesalius with relentless hostility, and at length found an opportunity to ruin him. While, with the consent of the relatives, he was examining the corpse of a Spanish grandee, the heart – or so his enemies said – was observed to show some signs of life under the knife. He was accused of murder, and denounced to the Inquisition. By the influence of the king, he was allowed to do penance by a pilgrimage to the Holy Land ; but on his way home he was shipwrecked, and although he reached land he died of exhaustion. But his influence survived ; one of his pupils, Fallopius, did distinguished work, and the medical profession gradually became convinced that the way to find out what there is in the human body is to look and see.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-170.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.16

 レッキー(Lecky,William Edward Hartpole, 1838-1903)は,魔女術の問題を彼の「合理主義の歴史」の中で詳細に扱っており,ブラック・マジック(黒魔術/黒呪術)に対する信仰はこの問題に関する論証によってでなく,法の支配に対する信仰の普及により打ち負かされた,という興味深い事実を指摘した(している)。彼は魔女術に関する詳細な議論において,論証の重み(づけ)魔女術(が存在すること)を支持している者の側にあるとさえ主張しているほどである(even goes so far as to say )。このことは,もしかすると,魔女術(の存在)を支持する者たち聖書を引用しうるのに反し,反対者たち(魔女術の存在を否定する人たち)が聖書の全てを例外なく信ずるべきではない(常に信ずるべきということではない)とあえて主張することはできなかったことを想起すれば,驚くにあたらないことかも知れない。さらに,すぐれた科学的精神の持主たちが通俗的な迷信に関わらなかったのは,ひとつには彼らがもっと積極的な(前向きな)仕事を持っていたからであり,一つには彼らが敵意を喚起するのを恐れたからであった。この出来事(the event)は彼ら(科学的精神の持ち主たち)は正しかったことを示している。ニュートンの著作は,神は最初に自然を創造し,そうしてキリスト教の啓示のような重大な機会以外は(神が)新たに介入することなく神が意図した結果を自然法則が生み出すように命じたのだ,と人々を信じさせた。プロテスタントは,(神による)奇蹟は西暦1世紀あるいは西暦2世紀に起ったが,その後は止んだのだと考えた。もし,神が奇蹟による介入をしないなら,悪魔にも奇蹟を起こすことを(神が)許すということはほとんど考えられなかった。科学的な気象学についての期待が存在しており,科学的気象学はもはや嵐の原因としてのほうきに乗った老女の存在などを認める余地はなかったであろう。しばらくの間,雷光や雷音に自然法則の概念を適用することは(神に対する)不敬であるとずっと考えられていた。それらは神が特別になさることであるという理由からであった。この見解は,避雷針対する抵抗(反対)のなかに生き残った。そうして,1755年にマサチュセッツが地震で揺れた時,尊師プライス博士は,本になって出た説教の中で(in a published sermon),それらの地震は「聡明なるフランクリン氏(注:Benjamin Franklin, 1706- 1790:米国の政治家で気象学者)により発明された鉄針」のせいだとして,次のように言っている。ボストンではニューイングランドの他のどこよりも(避雷針が)多く立っているので,ポストンは他のどこよりも恐ろしく揺れたように思われる。おお! 全能の神の御手から逃げ出すことはまったくできない(のだ)」。この警告にも関らず,ポストンの人々は「鉄針」を立て続けたが,地震(発生)の頻度は増加はしなかった。 ニュートンの時代以後,プライス博士のような観点はますます迷信的香りがするように感じられるようになった。そうして,自然の行程への奇蹟による干渉への信仰は死に絶え,魔女術の可能性に対する信仰もまた必然的に消滅した。魔女術の証拠は決して反証されることはなかった。ただ,魔女術の証拠を吟味する価値があると思われなくなったのである。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.16
Lecky, whose History of Rationalism deals at length with the subject of witchcraft, points out the curious fact that belief in the possibility of black magic was not defeated by arguments on this subject, but by the general spread of belief in the reign of law. He even goes so far as to say that, in the specific discussion of witchcraft, the weight of argument was on the side of its upholders. This is perhaps not surprising when we remember that the Bible could be quoted by the upholders, while the other side could hardly venture to say that the Bible was not always to be believed. Moreover, the best scientific minds did not occupy themselves with popular superstitions, partly because they had more positive work to do, and partly because they feared to rouse antagonism. The event showed that they were right. Newton’s work caused men to believe that God had originally created nature and decreed nature’s laws so as to produce the results that He intended without fresh intervention, except on great occasions, such as the revelation of the Christian religion. Protestants held that miracles occurred during the first century or two of the Christian era, and then ceased. If God no longer intervened miraculously, it was hardly likely that He would allow Satan to do so. There were hopes of scientific meteorology, which would leave no room for old women on broomsticks as the causes of storms. For some time it continued to be thought impious to apply the concept of natural law to lightning and thunder, since these were specially acts of God. This view survived in the opposition to lightning conductors. Thus when, in 1755, Massachusetts was shaken by earthquakes, the Rev. Dr. Price, in a published sermon, attributed them to the “iron points invented by the sagacious Mr. Franklin,” saying : “In Boston are more erected than elsewhere in New England, and Boston seems to be more dreadfully shaken. Oh! there is no getting out of the mighty hand of God.” In spite of this warning, the Bostonians continued to erect the “iron points,” and earthquakes, nevertheless, did not increase in frequency. From the time of Newton onward, such a point of view as that of the Rev. Dr. Price was increasingly felt to savour of superstition. And as the belief in miraculous interference with the course of nature died out, the belief in the possibility of witchcraft necessarily also disappeared. The evidence for witchcraft has never been refuted ; it has simply ceased to seem worth examining.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-160.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.15

 西欧諸国において魔女術に対する刑罰が停止されたのには,驚くべき同時性が存在している(驚くほど時を同じくしている)。英国においては,魔女術への信仰は,英国国教徒よりも清教徒(プロテスタント)の間で強固に持ちつづけられていた共和政(注:the Commonwealth = the Commonwealth of England:イングランド共和国/共和制イングランド:イングランド内戦の後にイングランド王国およびスコットランド王国に代わって1649年から1660年まで清教徒のクロムウェル(死後はその息子)が支配した政治体制)の間も,チューダー朝やスチュアート朝の全統治間と同じくらい魔女術(使い)に対する多くの処刑が行われた。(1660年の)王政復古とともに,この問題(魔女術)に対する懐疑主義が流行り始めた。確かに知られている最後の処刑(死刑執行)は1682年に行われた。ただし,1712年になっても(as late as)別の処刑が行われたとも言われている。同じ年に,,(英国)ハートフォード州(注:大ロンドンの北に隣接した州)で,同地域の牧師たちによって扇動されて起こされた裁判があった。裁判官は魔女術の犯罪の可能性を信じておらず,そういう意味で陪審たちを指導した。(つまり)陪審員たちは,それにも拘わらず,被告に有罪の判決を下したが,しかし,その判決は(裁判官によって)取り消された。そして,そのことは牧師たちの激しい抗議へと導いた。魔女の拷問や処刑がイングランドにおけるよりもずっと日常的であったスコットランドにおいても,17世紀末以後はそれらは稀になった。魔女の最後の火刑は,1722年,あるいは1730年に行われたフランスにおいては最後の火刑は1719年に行われた。(アメリカ大陸の)ニュー・イングランドにおいては,魔女狩りのはげしい騒動が17世紀末に起ったが,(それ以後)再び繰返されることはなかった(訳注:現在のアメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村で1692年3月1日に始まったセイラム魔女裁判では、200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑された)。到るところで魔女の俗信(popular belief 世間通念)は続いた。辺境の地域では今日でもそれは生き残っているところがある。イングランドにおけるその種の最後の事件は1863年にエセックスで起こっており,その時には一人の(男性の)老人が男魔術師(魔術使い)だとして隣人によって私刑によって殺害されている(リンチされている)。法的に犯罪の可能性があるものとして魔術使いを認識することは,スペインとアイルランドにおいて一番遅くまで存続した。アイルランドでは魔女取締法は1821年まで廃止されなかった。スペインでは,一人の呪術師が1780年に焼殺された。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.15
There is a remarkable simultaneity in the cessation of punishments for witchcraft in Western countries. In England, the belief was more firmly held among Puritans than among Anglicans ; there were as many executions for witchcraft during the Commonwealth as during all the reigns of the Tudors and Stuarts. With the Restoration, scepticism on the subject began to be fashionable ; the last execution certainly known to have taken place was in 1682, though it is said that there were others as late as 1712. In this year, there was a trial in Hertfordshire, instigated by the local clergy. The judge disbelieved in the possibility of the crime, and directed the jury in that sense ; they nevertheless convicted the accused, but the conviction was quashed, which led to vehement clerical protests. In Scotland, where the torture and execution of witches had been much commoner than in England, it became rare after the end of the seventeenth century ; the last burning of a witch occurred in 1722 or 1730. In France, the last burning was in 1718. In New England, a fierce outbreak of witch-hunting occurred at the end of the seventeenth century, but was never repeated. Everywhere the popular belief continued, and still survives in some remote rural areas. The last case of the kind in England was in 1863 in Essex, when an old man was lynched by his neighbours as a wizard. Legal recognition of witchcraft as a possible crime survived longest in Spain and Ireland. In Ireland the law against witchcraft was not repealed until 1821. In Spain a sorcerer was burnt in 1780.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-150.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.14

 スコットランドにおける魔女対策法は,イングランドにおける魔女対策法を廃止した同じ1736年の法律によって廃止された(注:イングランドとスコットランドは1707年に併合している)。だが,スコットランドにおいては,魔女に対する信仰は依然根強かった。1730年に出されたある法律の専門書で,「魔女は存在するかもしれないし,これまで存在してきた(だろう),また、おそらくそういったものは現在も実際に存在しているだろう,ということよりも明らかなことはない,と私には思われる。私は -事情が許せば(God willing 神許したまわば)- 刑法に関するより大部の著作のなかでそのことを明確にしたい」と述べている。スコットランド国教会(the Established Church of Scotland)のある重要な分派(分離派)の指導者たちは,1736年,その年(1736年)の堕落に関する陳述を公表した。それ(その陳述)は,ダンスや劇が奨励されていることについて不平を言っているだけでなく,「最近,魔女に対する刑法(penal statutes 刑罰法規)が廃止されたが,それは『汝,魔女を生かしておくべからず』という神の法(掟)を明文化したものに反するものである」と不平を言っている(原注:バートン「前掲書」第8巻p.410参照)。けれども,この年以後,魔女術に対する信仰は,スコットランドの教養ある人々の間で急速に衰えた

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.14
The law against witchcraft was repealed in Scotland by the same Act of 1736 which repealed it in England. But in Scotland the belief was still vigorous. A professional text-book of law, published in 1730, says : “ Nothing seems plainer to me than that there may be and have been witches, and that perhaps such are now actually existing ; which I intend, God willing, to clear in a larger work concerning the criminal law.” The leaders of an important secession from the Established Church of Scotland published, in 1736, a statement on the depravity of the age. It complained that not only were dancing and the theatre encouraged, but “of late the penal statutes against witches have been repealed, contrary to the express letter of the law of God — ‘Thou shalt not suffer a witch to live.’ (note: Burton, op. cit., Vol. VIII, p.410) After this date, however, the belief in witchcraft rapidly decayed among educated people in Scotland.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-140.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.13

Charles Turner (British, Woodstock, Oxfordshire 1774–1857 London) A Witch Sailing to Aleppo in a Sieve, December 1, 1807 British, Mezzotint; Plate: 24 × 18 in. (61 × 45.7 cm) Sheet: 24 3/4 × 21 3/8 in. (62.9 × 54.3 cm) The Metropolitan Museum of Art, New York, The Elisha Whittelsey Collection, The Elisha Whittelsey Fund, 1967 (67.797.44) http://www.metmuseum.org/Collections/search-the-collections/654259

 イングランドよりも魔女の迫害がずっと厳しかったスコットランドにおいて,ジェームズ一世は,デンマークから(スコットランドへ)の航海中彼を悩ませた大暴風雨の原因を発見するのに大いに成功した(beset 悩ます;四方から取り囲んで攻撃する)。フィアン博士とかいう名前の人A certain Dr. Fian)は,拷問を受けて,この嵐はリース(注:現在エディンバラに一部となっている港町)からふるいに乗って(in a sieve)海に出帆した(had put to sea)何百人もの魔女によって生み出されたのだと告白した。 (注:sieve はふるい(漉し器)であるが,。漉し器にのったら水が入ってきてすぐに沈んでしまうはずなので「in a sieve (ふるい/漉し器)に乗って」とはどういうことか私も最初はわからなかった。ネットでいろいろ調べているうちに,go to sea in a sieve という表現があり,google の画像検索によって該当するイラストも発見できた。たとえばこんな詩もついていた。「やがて水が流れこみ ふるいはすっかり水びたし たたんだピンクの紙をだし ぬれないように足つつみ  ピンでしっかり留めといた・・・」とある。また,シェークスピアの「マクベス」にも第一魔女が「亭主はタイガー号の船長やってて,アレッポへ航海中だから, あたしは篩(ふるい)の船で追っかけてやるんだ。」というセリフをしゃべっている。つまり,英国人なら「witches who had put to sea in a sieve 」とあればみな理解してしまうのであろう! 因みに,荒地出版社の津田訳では「海をふるいにかけたリース出の幾百もの女魔法師等によってこの嵐は生み出された」とひどい訳になっている)。 バートン(John Hill Burton, 1809-1881: スコットランドの歴史家)は彼の「スコットランド史」(第7巻 p.116)で述べているように,「この現象((大嵐/大暴風雨))の価値は,スカンジナヴィア側の魔女の協力団体(a co-operative body 協同組合?)により一層増大され,両者(スコットランドとスカンジナビアの喪女)は悪魔学の諸法則に関する決定的な(crucial 重要な)実験を提供した」。フィアン博士はすぐに自分の告白を撤回した。そこで拷問は大いにその厳しさを増した。彼の下肢(足)の骨は幾つかに折られたが彼は屈しなかった(obdurate 頑固な)。そこで,事の成り行き(the proceedings)を見ていたジェームズ一世は,新しい拷問方法を考案した。(即ち)迫害の犠牲者の指の爪ははがされ,針が頭まで突きさされた。しかし,今日の記録にも残っているように,「悪魔が彼の心の奥深くに住んでいたので,彼は以前に告白した全てのことを完全に否定した」。そこで,かれは焼き殺された。(原注:レッキー(著)『ヨーロッパにおける合理主義の歴史』第1巻p.114参照)

Chapter IV Demonology and Medicine, n.13
In Scotland, where the persecution of witches was much more severe than in England, James I had great success in discovering the causes of the tempests which had beset him on his voyage from Denmark. A certain Dr. Fian confessed, under torture, that the storms were produced by some hundreds of witches who had put to sea in a sieve from Leith. As Burton remarks in his History of Scotland (Vol. VII, p. 116): “The value of the phenomenon was increased by a co-operative body of witches on the Scandinavian side, the two affording a crucial experiment on the laws of demonology.” Dr. Fian immediately withdrew his confession, whereupon the torture was greatly increased in severity. The bones of his legs were broken in several pieces, but he remained obdurate. Thereupon James I, who watched the proceedings, invented a new torture : the victim’s finger-nails were pulled off, and needles thrust in up to the heads. But, as the contemporary record says : “So deeply had the devil entered into his heart, that hee utterly denied all that which he before avouched.” So he was burnt.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-120.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.12

 プロテスタントも,カトリックとまったく同じくらい,魔女(女魔術師)の迫害にふけった。この件については,ジェームズ一世(注:Charles James Stuart, 1566-1625:スコットランド、イングランド、アイルランドの王で,スコットランド王としてはジェームズ6世。学識ある統治者として知られた。)は,特に熱心だった。彼は悪魔研究(悪魔学)に関する本(注:Daemonologie, 1597年)を執筆し,イングランド統治の最初の年 -当時,コーク(Edward Coke, 1552-1634)は法務総裁(Attorney-General)で,ベーコン(注:Francis Bacon, 1561-1626:イギリスの哲学者、神学者、法学者。「知は力なり」という言葉で有名)は下院にいた- に,ある法令により魔女(女魔術師)に関する法律(the law)をより厳しいものにするようにさせたが,その法律は1736年まで効力を持ち続けた。多くの告発がなされており,そのなかのある告発の医師立会人だったトーマス・ブラウン卿は,「医師の宗教」(Religio Medici)の中で次のように力説している。「私はこれまで魔女(女魔法師)が存在すると信じてきたし,今もそれを知っている。魔女(の存在)を疑う者は魔女を否定するばかりでなく,霊(の存在)をも否定する者である。また,彼らはごまかしており(obliquely 傾いており),従って,そういった者たちは一種の不信心(者)ではなく一種の無神論(者)である」。事実,レッキーが指摘しているように,「幽霊や魔女(の存在)を信じないことは,17世紀における懐疑論の最も主要な特徴であった。当初懐疑論(懐疑主義)はほとんど公然たる自由思想家たちに限られていた。」(のである) 。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.12
Protestants were quite as much addicted as Catholics to the persecution of witches. In this matter James I was peculiarly zealous. He wrote a book on Demonology, and in the first year of his reign in England, when Coke was Attorney-General and Bacon was in the House of Commons, he caused the law to be made more stringent by a statute which remained in force until 1736. There were many prosecutions, in one of which the medical witness was Sir Thomas Browne, who declared in Religio Medici : “I have ever believed, and do now know, that there are witches ; they that doubt them do not only deny them, but spirits, and are obliquely and upon consequence a sort, not of infidels, but of atheists.” In fact, as Lecky points out, “ a disbelief in ghosts and witches was one of the most prominent characteristics of scepticism in the seventeenth century. At first it was nearly confined to men who were avowedly free thinkers.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-120.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.11

 迫害がその頂点に達した時でさえ,暴風雨,大量のあられ(hail-storms),雷の音(雷鳴)や光(雷光)は本当に女性(婦人)たちのたくらみ(machinations)によって引き起こされるのか(どうか)を危険を冒して疑った勇敢な合理主義者たちが少数ではあるが存在した。(しかし)そのような人々には情けはかけられなかった(shown no mercy)。そうして,16世紀の末頃,トレーブ大学学長で選挙裁判所(electral court)の裁判長のフラーデ(注:Dietrich Flade, 1534-1589:ドイツの法律家)は,数えきらないほどの魔女を糾弾した後に,彼女たちの自白はもしかすると拷問台での拷問を逃れたいという欲求のためかも知れないと思い始めた。その結果,有罪を宣告することは本意ではないと告げた。彼は悪魔に自分を売り渡したかどで告訴され,自分がかつて他人に科した同じ拷問にさらせれた。彼女たち(魔女たち)と同様に自分の罪を告白し,1589年に,首を絞められ,焼き殺された(注:フラーデは男性なので、ー魔女」としてではなく,「魔女使い」として処罰されたとのことです。魔女裁判で有罪となったので女性と勘違いをしている人がいるようです。

Chapter IV Demonology and Medicine, n.11
Some few bold rationalists ventured, even while the persecution was at its height, to doubt whether tempests, hail-storms, thunder and lightning were really caused by the machinations of women. Such men were shown no mercy. Thus towards the end of the sixteenth century Flade, Rector of the University of Treves, and Chief Judge of the Electoral Court, after condemning countless witches, began to think that perhaps their confessions were due to the desire to escape from the tortures of the rack, with the result that he showed unwillingness to convict. He was accused of having sold himself to Satan, and was subjected to the same tortures as he had inflicted upon others. Like them, he confessed his guilt, and in 1589 he was strangled and then burnt.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-110.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.10

 呪術(sorcery)は,もともと(当初から),女性特有の犯罪と考えられていたわけではない。それが女性に集中するようになったのは15世紀であり,それから17世紀の終わり頃まで魔女の迫害は広範囲に及び,また,過酷なものであった。イノセント8世は,1484年に,魔女術に対する(against 対抗する)教皇勅書(回勅)を出し,魔女を罰するため二人の異端審問官(inquisitor)を任命した。両者は,1489年に「Malleus Maleficarurn)」即ち「魔女に与える鉄槌(the hammer of female malefactors)」-という書名の,長い間権威があると認められた本を出版した。彼らは,女性の心は生来(生まれつき)邪悪であるので,魔術は男性よりも女性により自然な(natural 生まれつきの/ぴったりした)ものであると主張した。当時,魔女(とされた女性)に向けられた最もありふれた非難理由は,(魔女は)悪天候を引き起こすというものだった。魔術使いの疑いがかけられた女性に対する質問リストが起草され,被疑者は拷問台の上で期待された答をするまで拷問にかけられたドイツだけでも,1450年から1550年の期間に,10万人の魔女,大部分,生きたまま焼き殺されたと見積もられている

Chapter IV Demonology and Medicine, n.10
Sorcery was not, originally, considered a peculiarly feminine crime. The concentration on women began in the fifteenth century, and from then until late in the seventeenth century the. persecution of witches was wide-spread and severe. Innocent VIII, in 1484, issued a Bull against witchcraft, and appointed two inquisitors to punish it. These men, in 1489, published a book, long accepted as authoritative, called Malleus Maleficarum, “the hammer of female malefactors.” They maintained that witchcraft is more natural to women than to men, because of the inherent wickedness of their hearts. The commonest accusation against witches, at this time, was that of causing bad weather. A list of questions to women suspected of witchcraft was drawn up, and suspects were tortured on the rack until they gave the desired answers. It is estimated that in Germany alone, between 1450 and 1550, a hundred thousand witches were put to death, mostly by burning.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-100.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.9

 今日,魔女術(witchcraft)最も真剣な研究者の中には,キリスト教徒(の)ヨーロッパにおいて,魔女術異教徒の礼拝(儀式)キリスト教悪魔研究の悪霊と同一視されるようになっていた異教の神々の信仰(崇拝)の遺物(a survival 残存物)である,と考える者がいる。異教信仰(注: parganism 一神教であるキリスト教の信者にとっての異教信仰及び多神教のことの要素魔法を使った儀式と混じり合うようになった(amalgamated with 融合した)という証拠は沢山あるが,魔女術が主としてこのことに起源がありとするやり方には重大な困難がある。魔法(magic)は,キリスト教以前の古代社会においては,処罰されるべき罪であった魔法を禁止する法律が古代ローマの十二表法(The Twelve Tables in Rome)の中に存在していた。紀元前1100年までずっと時代を遡ると,一部の役人やラムセス三世(注:現在では,紀元前1186年3月から紀元前1155年4月までファラオとして在位したとされているので、紀元前1100年という記述は少しずれている。)のハーレム(後宮/奥御殿)に住む一部の女性たちが,王の蝋製の像を作り,王の死を祈願しながら呪文を唱えた廉で裁判にかけられている(注:were tried for ~の廉で裁判にかけられた)。作家のアプレイウス(Lucius Apuleius, 123年頃 – ?:帝政ローマの弁論作家)は西暦150年に魔法の廉で裁判にかけられたが,それは,彼は裕福な寡婦(未亡人)と結婚し,寡婦の息子を非常に困惑させたからであった。けれども,彼は,(シェークスピア劇の)オセロと同様に,(魔法など使用せずに)自分の生来の魅力を使っただけだと言って裁判官を納得させることに成功した。

Chapter IV Demonology and Medicine, n.9
It is held nowadays by some of the most serious students of witchcraft that it was a survival, in Christian Europe, of pagan cults and the worship of pagan deities who had become identified with the evil spirits of Christian demonology. While there is much evidence that elements of paganism became amalgamated with magic rites, there are grave difficulties in the way of attributing witchcraft mainly to this source. Magic was a crime punishable in pre-Christian antiquity ; there was a law against it in the Twelve Tables in Rome. So far back as the year 1100 B.C., certain officers, and certain women of the harem of Rameses III, were tried for making a waxen image of that king and pronouncing magic spells over it with a view to causing his death. Apuleius, the writer, was tried for magic in A.D. 150, because he had married a rich widow, to the great annoyance of her son. Like Othello, however, he succeeded in persuading the Court that he had used only his natural charms.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-090.HTM