第15章 権力と道徳律 n.19

 歴史的な起源を有する宗教に執着する,あるいはそういった宗教はそれ以前にあったものが改善されたものだと考える,いかなる思慮深い人々によっても受け入れられなければならない最小限(最低限)のことは,次のようなことである。即ち,ある意味で何らかの以前の生き方よりも善い生き方は,まず,ある個人あるいは(個人の)集団によって唱導されるが,それは彼らの時代(当時)の国家や教会の教えに反対して唱道された(ものであった)。このことから,個人がその人の時代に至るまでの全人類の判断に反対さえして,道徳問題で立ちあがることは,常に間違っているはずはない(正しい場合もある)ということになる(It cannot always be wrong )。科学においては、今日,誰もが以上述べたものと対応する原理(doctrine 原則/理論/説)を認めている。しかし,科学においては,一つの新説をテストする方法が知られており,その新説(a new doctrine)は間もなく一般に認められるところとなるか,あるいは伝統以外の別の根拠から拒否されるか,のいずれかとなる。倫理学においては,新しい説(doctrine 学説/理論)を(の真偽を)テストできるような,そういった明らかな方法は存在していない。預言者は,自分の教義(教え)を「主(エホバ)はかく語りき(言われた)」という言葉で始めるかも知れない。彼(その預言者)にとってはそれで十分である。しかし,(彼以外の)他の人々が,彼(その預言者)が本当の啓示を得ているとどうやって知るであろうか?(注:みすず書房版の東宮訳では、”he” を他の人と訳している。単数形になっていることから,ここは「その預言者が主から啓示を本当に受けているかどうかを他の人々がどうやって知ることができるであろうか」ととるべきであろう。)。(旧約聖書の)申命記には,実に奇妙なことではあるが,科学において決定的なものとよく考えられているのと同じテスト,つまり,預言の適中(というテスト)を提案している。「(注:以下、日本聖書協会の訳を借用します。)あなたは心のうちに『われわれは、その言葉の主の言われたものではないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起こらない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。」(「申命記」第一八章ニー,二二節)しかし,現代人の精神にとっては,このような倫理説のテスト(方法)はほとんど受け入れがたいものである。

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.19 The minimum that must be accepted by any thoughtful person who either adheres to a religion having a historical origin, or thinks that some such religion was an improvement on what went before, is this: that a way of life which was in some sense better than some previous way of life was first advocated by some individual or set of individuals, in opposition to the teaching of State and Church in their day. It follows that it cannot always be wrong for an individual to set himself up in moral questions, even against the judgment of all mankind up to his day. In science, every one now admits the corresponding doctrine; but in science the ways of testing a new doctrine are known, and it soon comes to be generally accepted, or else rejected on other grounds than tradition. In ethics, no such obvious ways exist by which a new doctrine can be tested. A prophet may preface his teaching by “thus saith the Lord,” which is sufficient for him; but how are other people to know that he has had a genuine revelation? Deuteronomy, oddly enough, proposes the same test as is often held to be conclusive in science, namely success in prediction : “And if thou say in thine heart, How shall we know the word which the Lord hath not spoken? When a prophet speaketh in the name of the Lord, if the thing follow not, nor come to pass, that is the thing which the Lord hath not spoken, but the prophet hath spoken it presumptuously.”(note: Deuteronomy xviii. 2I, 22.) But the modern mind can hardly accept this test of an ethical doctrine.
 出典: Power, 1938.
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