ラッセル『結婚論』第二章 母系社会n.1:結婚の慣習における3つの要因

第二章 母系社会 n.1

 (社会的制度としての)結婚の慣習は,常に,3つの要因の混ざったものであり,それらは,それぞれ,大ざっばに,本能的,経済的,宗教的と呼ぶことができるであろう。私は,これらは ー結婚以外の分野(領域)でも同様であるが- 明確に区別することができると言おうとしているのではない。日曜日には閉店する(商売しない)という事実には宗教的な起源があるが,現在では,それは(宗教的な意味合いは消え)経済的な事実である。性に関する多くの法律や慣習についても,同様である(同じことが言える)。宗教的な起源を持つ有用な慣習は,有用であるがゆえに,宗教的な基盤が崩れ去ったあとも存続する(生き残る)ことが多い。
宗教的な(起源を持つ)ものと,本能的な(起源を持つ)ものとの区別もまた,なかなかつけにくい。人間の行為に対し非常に強い影響力(支配力)を有する宗教には,通例,本能的な基盤が存在している。けれども,宗教は,(その宗教における)伝統の重要性,及び,本能的に可能な行為がいろいろある場合における特定の種類の行為への優先権の付与(のあり方に)よって,特徴づけられる。たとえば,恋愛と嫉妬(心)は,ともに本能的な感情であるけれども,宗教の定めるところでは,嫉妬(心)は,社会が支持すべき道徳的な感情であるのに対して,恋愛(注:”love” は性を越えた愛情ではなく,主として異性愛の愛情=恋愛感情)は,せいぜい許せる程度のものとされてきた(されてきている)。

Chapter II Matrilineal Societies

Marriage customs have always been a blend of three factors, which may be loosely called instinctive, economic, and religious respectively. I do not mean that these can be sharply distinguished, any more than they can in other spheres. The fact that shops are closed on Sundays has a religious origin, but is now an economic fact, and so it is with many laws and customs in relation to sex. A useful custom which has a religious origin will often survive on account of its utility after the religious basis has been undermined. The distinction between what is religious and what is instinctive is also a difficult one to make. Religions which have any very strong hold over men’s actions have generally some instinctive basis. They are distinguished, however, by the importance of tradition, and by the fact that, among the various kinds of actions which are instinctively possible, they give a preference to certain kinds ; for example, love and jealousy are both instinctive emotions, but religion has decreed that jealousy is a virtuous emotion to which the community ought to lend support, while love is at best excusable.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM02-010.HTM

<寸言>
現代社会においては、結婚は一つの法的制度であり、国や社会の歴史から大きな影響を受けている。結婚には本能的な基礎や経済的な基礎及び宗教的基礎の3つの大きな要因があり、それらの関係を解きほぐして考える必要がある。

ラッセル『結婚論』序論 n.8:現行の性倫理批評における二つの課題

 以上列挙した全ての観点から吟味された後でなければ,いかなる性倫理(注:sexual ethic。ethics と複数形なら「倫理学」)も,しっかりした根拠に立って,その是非(正当化できるか,不適切とするか)を決めることはできない。(性倫理の)改革者も反動家も,同様に,問題の一つの側面かあるいはよくても二つの側面しか考察しない癖(傾向)がある。特に,個人的な観点政治的な観点とが組みあわさっている場合(両方の側面から検討されていること)は稀である。このうちの一方が他方よりも重要であるとは絶対に言えないにもかかわらずである(注:and yet それは「~にもかかわらず。https://reibunpo.com/yet/yet-and-yet.shtml)。また,個人的な観点から見て良い制度は,政治的な観点から見ても良い制度であるとかその逆も真である,という確信を,我々は,アプリオリ(注:経験に依存せず・先見的)に抱くことはできない

私自身の信念は,大部分の時代及び場所において,人びとは,ぼんやりとした心理的な力に導かれて,まったく不要な残酷さを伴う制度を採用しており,この状況は,現代の最も文明の進んでいる民族の間でも現在においても(いまだ」)変わっていない,というものである。

私は,また,医学や公衆衛生(衛生学)の進歩は,個人的観点及び公共的観点の両方から見て,性倫理の諸変化を望ましいものとしてきているとともに,他方,上述したとおり,教育における国家の役割が増してきたために,次第に父親は過去の時代ほど重要ではなくなりつつある,と信じている。
従って,今日の(現行の)性倫理を批評する場合,二つ(二重)の課題がある。即ち,一方では,しばしば潜在意識になっている迷信(的要素)を除去しなければならないし,他方では,現在の知恵ではなく,過去の時代の知恵を愚かであるとするような,まったく新しい要素を考慮しなければならない。

既存の制度に関する展望(視野)を得るために,まず,過去に存在していた,あるいは,現在もあまり文明の進んでいない種族の間に存在している制度を考察することにする。次いで,今日,西欧文明の中で一般的になっている制度の特徴づけを行い,最後に,この現行の制度の改善すべき点と,そのような改善が行われるとよいと望む根拠を考察することにする。
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO070.HTM

No sexual ethic can be either justified or condemned on solid grounds until it has been examined from all the points of view above enumerated. Reformers and reactionaries alike are in the habit of considering one or at most two of the aspects of the problem. It is especially rare to find any combination of the private and the political points of view, and yet it is quite impossible to say that either of these is more important than the other, and we can have no assurance a priori that a system which is good from a private point of view would also be good from a political point of view, or vice versa. My own belief is that in most ages and in most places obscure psychological forces have led men to adopt systems involving quite unnecessary cruelty, and that this is still the case among the most civilised races at the present day. I believe also that the advances in medicine and hygiene have made changes in sexual ethics desirable both from a private and public point of view, while, as already suggested, the increasing role of the State in education is gradually rendering the father less important than he has been throughout historical times. We have, therefore, a twofold task in criticising the current ethics: on the one hand we have to eliminate the elements of superstition, which are often subconscious; on the other hand we have to take account of those entirely new factors which make the wisdom of past ages the folly instead of the wisdom of the present.
In order to obtain a perspective upon the existing system, I shall first consider some systems which have existed in the past or exist at the present time among the less civlised portions of mankind. I shall then proceed to characterise the system now in vogue in Western civilisation, and finally to consider the respects in which this system should be amended and the grounds for hoping that such amendment will take place.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO080.HTM

<寸言>
現行の性倫理の良し悪しを考えるためには、性倫理の歴史及び社会による性倫理の相違についてよく比較検討して見る必要がある。

ラッセル『結婚論』序論 n.7:性倫理の人口問題への影響

 次に突き当たるのは,(性倫理の)人口問題(への影響)である。これは,それ自身大きな問題であり,様々な角度から考察しなければならない。(即ち)母親の健康の問題があり,子供の健康の問題があり,また,子供の多い家族及び少ない家族がそれぞれ(が)子供の性格に及ぼす心理的影響の問題がある。これらは人口問題の衛生的側面と称してよいものであろう。それから,(人口問題には)個人と公共の(両面に)関わる経済的な側面がある。(即ち)家族の大きさや社会の出生率から見て,家族あるいは社会の一人あたりの富はどれくらいか,という問題である。このことと密接に結びついているのは,人口問題と,国際政治および世界平和の可能性との関連である。最後に,社会の階層(注:sections規模な集団から大規模な集団まで)に応じて出生率と死亡率が異なるために,種族/血統(stock)が改善したり劣化したりすることに関する優生学的な問題がある。

We come next to the question of population. This is in itself a vast problem which must be considered from many points of view. There is the question of the health of mothers, the question of the health of children, the question of the psychological effects of large and small families respectively upon the character of children. These are what may be called the hygienic aspects of the problem. Then there are the economic aspects, both personal and pubic: the question of the wealth per head of a family or a community in relation to the size of the family or the birth-rate of the community. Closely connected with this is the bearing of the pqpulation question upon international politics and the possibility of world peace. And finally there is the eugenic question as to the improvement or deterioration of the stock through the different birth and death rates of the different sections of the community.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO070.HTM

<寸言>
ここはまず検討すべき項目をあげているだけ。

ラッセル『結婚論』序論 n.6:法律と性道徳との関係

 法律は,二つの異なる方法(仕方)で性と関わりを持つ。(即ち,)一方では,何であれ(どのようなものであれ)当の社会が採用した性倫理を強制することであり,他方では性の領域における個人の通常の権利を保護することである。後者には,二つの主要な分野がある。一つは,女性や未成年者を暴行(強姦など)や有害な搾取から保護することであり,もう一つは,性病を予防することである。これらのどちらも,通例,純粋にその(本来の)価値に従って(on its merits 価値によって)取り扱われていない。そのために,いずれも期待されるほどの効果(as it might be 可能性としてある効果)を挙げていない。前者について言えば,非黒人売春婦売買(White Slave Traffic)についてヒステリックな(反対)運動をした結果,プロの悪党(悪徳業者)が容易にかいくぐれるような(抜け道のある)法律を通過させる一方,罪のない人びとをゆする機会を与えてしまっている
後者に関しては,性病は罪に対する正当な罰であるという見解(注:不道徳な行為をしたのだから病気になって苦しんでも因果応報という見方)のために,純粋に医学的な根拠に立った最も効果的であろう方策(措置)をとることがさまたげられており,他方,性病は,恥ずかしいものだという一般的な態度によって隠されているために,迅速に,あるいは適切に,取り扱われていない。

The law is concerned with sex in two different ways: on the one hand to enforce whatever sexual ethic is adopted by the community in question, and on the other hand to protect the ordinary rights of individuals in the sphere of sex. The latter have two main departments: on the one hand the protection of females and non-adults from assault and from harmful exploitation, on the other hand the prevention of venereal disease. Neither of these is commonly treated purely on its merits, and for this reason neither is so effectively dealt with as it might be. In regard to the former, hysterical campaigns about the White Slave Traffic lead to the passage of laws easily evaded by professional malefactors, while affording opportunities of blackmail against harmless people. In regard to the latter, the view that venereal disease is a just punishment for sin prevents the adoption of the measures which would be the most effective on purely medical grounds, while the general attitude that venereal disease is shameful causes it to be concealed, and therefore not promptly or adequately treated.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO060.HTM

<寸言>
法律は原則として後追い状態のものになりやすい。現行の法律の欠点や限界があきらかになれば「改正」させるが、どうしても抜け穴をなくすることはできない。悪徳業者などは、その法律の穴を見つけることによって、処罰を受けずに、社会的に非難を受けることをやって金儲けをする。そうして、「法律は犯していない(法律にふれていない)」と言って開き直る。
官僚の多くは法律の知識に長けており、時の権力者に気に入られて、よいポストを得て自ら権力をふるったり、高給を得たり出来るようになる。
風俗営業(企業)からでも政治献金をもらう政治家はいる。いや、賭博その他、社会的に評判の悪い産業だからこそ、より多くの献金やワイロをもらうことができると言うのが実態であろう。

ラッセル『結婚論』序論 n.5:一夫一婦制も多様也

 けれども,一夫一婦制の家族の中にも,いろいろな種類がある。結婚は,(両)当事者自身で決められる場合もあれば,親が決める場合もある。花嫁が買われる国もあれば,たとえばフランスのように,花婿が買われる国もある。(注:これは,「冗談」です。ラッセルの冗談をそのままとる人がいて困ります。/参考:「フランスで事実婚が多い理由,番長がお教えするぜ」http://fban.blog9.fc2.com/blog-entry-11.html)それから,離婚についても,離婚をまったく認めないカトリック教の(国の)極端なものから,古代中国の法律のように,おしゃべりだからといって妻を離婚することを許すものにいたるまで,千差万別である(ありとあらゆる形態がある)。
性関係における忠実さ(節操),または準忠実さは,人間の間ばかりではなく,動物の間にも見られる。それは,種の保存のためにオスが子育てに参加する必要がある場合である。たとえば,鳥は,卵をあたためるために,抱き続けなければならないし(卵の上に座り続けなければならないし),また,昼間の多くの時間を餌を捜して過ごさなければならない大部分の種類の(鳥)にとって,一羽でこの両方をすることは不可能である。従って,オスの協力が必須である。その結果,たいていの鳥は,貞節の鑑(模範)になっている
人間の間では,父親の(による)協力は,子(子孫)にとって生物学的に非常に有利である。不安定な(動乱の)時代や,乱暴な人々の間では,特にそうである。しかし,近代文明の発達とともに,父親の役割はますます国家によって肩代わりされるようになりつつあり,少なくとも賃金労働者階級においては,父親は,遠からず,生物学的な有利さを失う可能性がある,と考える(考えてよい)理由がある。もしも,このようなことが起こったら,伝統的な道徳は,完全に崩壊すると予想しなければならない。なぜなら,母親は,自分の子の父親が誰であるかを疑いのないものにしておきたいと願う理由がもはやなくなるからである。
プラトンなら,もう一歩進んで,国家が父親の肩代わりだけでなく,母親の肩代わりもさせるようにすることであろう。私自身は,それほど国家の賛美者でもないし,孤児院の楽しさにさほど感銘しているわけでもないので,そのような計画を熱狂的に支持することはできない。同時に,経済力のおかげ(せい)で,その計画がある程度採用されるということも,ありえないことではない。

Within the monogamic family there are, however, many varieties. Marriages may be decided by the parties themselves or by their parents. In some countries the bride is purchased; in others, e.g. France, the bridegroom. Then there may be all kinds of differences as regards divorce, from the Catholic extreme, which permits no divorce, to the law of old China, which permitted a man to divorce his wife for being a chatterbox. Constancy or quasi-constancy in sex relations arises among animals, as well as among human beings, where, for the preservation of the species, the participation of the male is necessary for the rearing of the young. Birds, for example, have to sit upon their eggs continuously to keep them warm, and also have to spend a good many hours of the day getting food. To do both is, among many species, impossible for one bird, and therefore male cooperation is essential. The consequence is that most birds are models of virtue. Among human beings the co-operation of the father is a great biological advantage to the offspring, especially in unsettled times and among turbulent populations, but with the grow of modern civilisation the role of the father is being increasingly taken over by the State, and there is reason to think that a father may cease before long to be biologically advantageous, at any rate in the wage-earning class. If this should occur, we must expect a complete breakdown of traditional morality, since there will no longer be any reason why a mother should wish the paternity of her child to be indubitable. Plato would have us go a step further, and put the State not only in place of the father but in that of the mother also. I am not myself sufficiently an admirer of the State, or sufficiently impressed with the delights of orphan asylums, to be enthusiastically in favour of this scheme. At the same time it is not impossible that economic forces may cause it to be to some extent adopted.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO050.HTM

<寸言>
自分の国の制度や慣習が普通だとおもってしまいがちであるが、江戸時代の妻を離縁する際に妻に「三行半」を渡す慣習をみれば、いかに時代や権力と人民との関係が影響しているかがわかる。

ラッセル『結婚論(結婚と性道徳』序論 n.4

(都合により本日2つ目)

 次に来る(突き当たる)のは、家族(に対する性倫理の影響)の問題である。様々な時代と場所において、多くの異なった種類の家族集団が存在してきたが、家父長制家族が非常に広範囲に優位であり、さらに、しだいに一夫一婦的な家父長制家族一夫多妻的な家父長制家族に対してますます優勢になってきている。キリスト教以前の時代以降,西欧文明の中に存在してきた性倫理の主要な動機は、家父長制家族の存立を不可能にしない程度に、女性の道徳的美点(貞淑さ)を確保することであった。なぜなら,(婚外における性交を禁止しておかないと)父性(誰がその子供の父親か)に確信が持てないからである。(注:当時は,男性の精子によって女性の卵子が受精するということは知られていいなかった。)キリスト教によって、この女性の道徳的美点(女性の貞淑)に、男性の道徳的美点(男性の貞淑)の強調という面(点)で付け加えられてきたものには、心理的に言って,禁欲主義がその源泉があった。もっとも、ごく最近では、この動機は女性の解放とともに強くなった女性の嫉妬(心)によって強化されてきている。けれども、後者の動機は、一時的なもののように思われる。なぜなら、もしも、うわべだけで判断してよいものなら、女性(たち)は、これまで女性だけがこうむってきた(我慢してきた)制限を男性にも課する制度よりも、むしろ、両性に自由を認めるような制度をより好む(選ぶ)だろうと思われるからである。

We come next to the question of the family. There have existed in various times and places many different kinds of family groups, but the patriarchal family has a very large preponderance, and, moreover, the monogamic patriarchal family has prevailed more and more over the polygamic. The primary motives of sexual ethics as they have existed in Western civilisation since pre-Christian times has been to secure that degree of female virtue without which the patriarchal family becomes impossible, since paternity is uncertain. What has been added to this in the way of insistence on male virtue by Christianity had its psychological source in asceticism, although in quite recent times this motive has been reinforced by female jealousy, which became potent with the emancipation of women. This latter motive seems, however, to be temporary, since, if we may judge by appearances, women will tend to prefer a system allowing freedom to both sexes rather than one imposing upon men the restrictions which hitherto have been suffered only by women.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO040.HTM

<寸言>
お互いを縛るよりも,お互いの自由をより拡大していこうという時代の趨勢。ただし、そのためには、過剰な嫉妬心を抑えるということが男女ともに必要となる。

ラッセル『結婚論』序論 n.3: 多様な視点で考える

性倫理の影響は、この上もなく多様である。(即ち)、個人、夫婦(間)、家族(間)、国家、及び、国際社会、といった多様な面での影響である。その影響は、これらの点(細目)の(それぞれにおいて),ある面では良いが他の面では良くないという場合も、多分よく起こるだろう。(注:”may well happen” If you say that something may well happen, you mean that it is likely to happen.) 特定の制度について、結局(注:on balance; on the balance いろいろ考慮して)どう考えるべきかの結論を出す前に、全ての影響(影響するもの全て)について考察しておかなければならない。
 まず、純粋に個人的側面から考えてみよう。これらは、精神分析によって考察される影響である。ここでは、ある規則(道徳律)によって教えこまれた成人の行動だけでなく、その規則(道徳律)に服従させることを目的とした幼年期の教育をも考慮しなければならない。この個人の領域では、周知のように、幼年期のタブーの影響が非常に奇妙かつ間接的な場合がある。本主題のこの部門(領域)においては,我々は個人の福祉というレベルにある(個人のレベルで論じることになる)。
個人以外の問題の次の段階は、男女関係を考察するときに起こる。ある性的な関係は、他の性的な関係よりも価値があることは明らかである。大部分の人は、性関係は、もっぱら肉体的な関係(注:精神的な要素がほとんどない関係)よりも、精神的な要素を大幅に含んでいる性関係のほうがよりよい,ということに同意するであろう。事実、性関係の中に当事者たちの人格(個性)がより多く入り込めば込むほど、(それに比例して)愛(情)の価値も増していくというのが、詩人たちによって、文明国の男女の共通の意識の中に注ぎこまれてきた見解(物の見方)である。詩人たちは、また,愛(情)をその強さに比例して評価することを、多くの人びとに教えてきた。けれども、これは、議論(論争)の余地のある問題である。たいていの現代人は、愛は平等な関係であるぺきであり、それゆえにこの根拠びとつに基づいても、たとえば一夫多妻制は理想的な制度とみなすことはできない、ということに同意するだろう(注:つまり、多くの異性に強い情愛をもっていることは必ずしもよいことだとは考えない/たとえば、4人までの妻を認めるイスラム社会の制度を欧米人はよいとは考えない)。夫婦関係の領域(注:本主題のこの領域)においては、終始、結婚(婚姻関係)と婚外関係の双方を考慮しなければならないどのような結婚制度が主流であるにせよ、婿外関係も、それに応じてさまざまな形をとるであろうからである。

The effects of a sexual ethic are of the most diverse kinds – personal, conjugal, familial, national and international. It may well happen that the effects are good in some of these respects, where they are bad in others. All must be considered before we can decide what on the balance we are to think of a given system. To begin with the purely personal: these are the effects considered by psychoanalysis. We have here to take account not only of the adult behaviour inculcated by a code, but also of the early education designed to produce obedience to the code, and in this region, as everyone knows, the effects of early taboos may be very curious and indirect. In this department of the subject we are at the level of personal well-being. The next stage of other problem arises when we consider the relations of men and women. It is clear that some sex relations have more value than others. Most people would agree that a sex relation is better when it has a large psychical element than when it is purely physical. Indeed, the view which has passed from the poets into the common consciousness of civilised men and women is that love increases in value in proportion as more of the personalities of the people concerned enters into the relation. The poets also have taught many people to value love in proportion to its intensity; this, however, is a more debatable matter. Most moderns would agree that love should be an equal relation, and that on this ground, if on no other, polygamy, for example, cannot be regarded as an ideal system. Throughout this department of the subject it is necessary to consider both marriage and extra-marital relations, since whatever system of marriage prevails, extra-marital relations will vary correspondingly.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO030.HTM

<寸言>
幅広い視点で考えることが重要であること。

あらゆる国の性に関わる制度はいつの時代も迷信と伝統の産物?

 (承継)  社会の性道徳は,いくつかの層から成っていることが見出される(わかる)であろう。まず,法律に成文化されている明確な制度(positive institutions)がある。たとえば,一夫一婦制の国(国々)もあれば,一夫多妻制の国(国々)もある,というようなことである。次に,法律は干渉しないが世論が勢いのある層がある。そして最後に,理論上はたとえそうでないとしても(if not = even if not),実際上は個人の裁量(思慮分別)にまかされている層がある。
ロシアを除いて,性倫理や性に関わる制度が理性的な考慮に基づいて決められてきた国は世界のどこにも(現在)存在しないし,また,世界史においてそのような時代は存在してこなかった。私は,ソビエト・ロシアの性に関わる制度はこの点において完壁であるとほのめかそうとしているのではない。私は,ただ,(ロシア以外の)他のあらゆる国の性に関わる制度は,いつの時代にも,少なくとも部分的には,迷信と伝統の産物であるように,ソビエト・ロシアの性に関わる制度はそうではない,と言っているにすぎない。

社会全体の幸福と福祉の見地から(考えて),どのような性道徳が(その社会にとって)最良であるかを決定する問題は,かなり複雑な問題であり,その答えは,多くの事情(状況)に応じて変わってくるであろう。工業の発達した社会と原始的な農業制度(の社会)とでは,性道徳は異なるであろう。医学と衛生が効果を挙げて死亡率の低下に寄与している場所は,人口の大部分が大人になる前に疫病や流行病のために命を奪われてしまうような場所とは異なるであろう。恐らく,もっと多くのことがわかってくれば,最良の性倫理は気候の違いによっても異なるし,食事の種類の違いによっても異なると言えるようになるであろう

The sexual morals of the community will be found to consist of several layers. There are first the positive institutions embodied in law; such, for example, as monogamy in some countries and polygamy in others. Next there is a layer where law does not intervene but public opinion is emphatic. And lastly there is a layer which is left to individual discretion, in practice if not in theory. There is no country in the world and there has been no age in the world’s history where sexual ethics and sexual institutions have been determined by rational considerations, with the exception of Soviet Russia. I do not mean to imply that the institutions of Soviet Russia are in this respect perfect; I mean only that they are not the outcome of superstition and tradition, as are, at least in part, the institutions of all other countries in all ages. The problem of determining what sexual morality would be best from the point of view of general happiness and well-being is an extremely complicated one, and the answer will vary according to a number of circumstances. It will be different in an industrially advanced community from what it would be in a primitive agricultural regime. It will be different where medical science and hygiene are effective in producing a low death-rate from what it would be where plagues and pestilences carry away a large proportion of the population before it becomes adult. Perhaps when we know more, we shall be able to say that the best sexual ethic will be different in one climate from what it would be in another, and different again with one kind of diet from what it would be with another.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO020.HTM

ラッセル『結婚論(結婚と性道徳)』序論

序 論 n.1

scans_244, Thu Sep 08, 2011, 10:51:41 AM, 8C, 8568×10566, (105+773), 150%, bent 6 stops, 1/160 s, R50.7, G36.2, B47.9

古代であれ,現代であれ,社会を特徴づけるものとして二つの要素があり,それらの2つの要素は最高に重要性を持っていてかなり密接に相互に関連している。(即ち)一つは経済制度であり,もう一つは家族制度である。今日,二つの影響力を持つ学派があり,一方は,あらゆるものを経済的な原因(源泉)から導き出すのに対して,他方は,あらゆるものを家族あるいは性的な原因(源泉)から導き出す。前者はマルクス(学)派であり,後者はフロイト(学)派である。

私自身はどちらの学派の信奉者でもない。なぜなら,経済と性との相互の結びつきは,因果的効力(causal efficacy 因果作用)の点から見て,一方が他方よりも優位であることをはっきり示しているとは,私には思えないからである。たとえば,疑いもなく,産業革命は性道徳に深刻な影響を及ぼしてきたし,これからも及ぼすと思われるが,逆に,清教徒の性道徳は,心理的に見れば,産業革命の原因の一部(ひとつ)として不可欠であった

私自身は,経済的な要因と性的な要因のどちらにも優位(性)を与えるつもりはないし,事実,両者をはっきりと切り離すことはできない。経済は,本質的には,食物を手に入れることに関係しているものであるが,人間の場合,食物は個人のためにだけ求められることはめったになく,家族のために求められる(欲せられる)のであって,家族制度が変化するにつれて,経済的動機もまた変化する(のである)。

もし仮に,プラトンの『国家』に書かれているように,子供が両親からとりあげられて国家によって養育されるとしたら,生命保険だけでなく,私的な(個人的な)の貯蓄の大部分の形態はほとんど影を消してしまうであろう。すなわち,もしも,国家が父親の役割を引き受けるとしたら,事実上(ipso facto),国家が唯一の資本家になるだろう。徹底した共産主義者はしばしば逆の主張,即ち,もし,国家が唯一の資本家になるようであれば,我々の知っているような家族(形態)は生き残ることはできない,と主張してきた。たとえ,これは誇張しすぎだとしても,私有財産と家族との間に密接な関係があることは否定できないしかも,この関係は相互的なものであり,一方が原因で他方が結果である・と言うことはできない

In characterising a society, whether ancient or modem, there are two elements, rather closely interconected, which are of prime importance: one is the economic system, the other the family system. There are at the present day two influential schools of thought, one of which derives everything from an economic source, while the other derives everything from a family or sexual source, the former school that of Marx, the latter that of Freud. I do not myself adhere to either school, since the interconnection of economics and sex does not appear to me to show any clear primacy of the one over the other from the point of view of causal efficacy. For example: no doubt the industrial revolution has had and will have a profound influence upon sexual morals, but conversely the sexual virtue of the Puritans was psychologically necessary as a part cause of the industrial revolution. I am not prepared myself to assign primacy to either the economic or the sexual factor, nor in fact can they be separated with any clearness. Economics is concerned essentially with obtaining food, but food is seldom wanted among human beings solely for the benefit of the individual who obtains it; it is wanted for the sake of the family, and as the family system changes, economic motives also change. It must be obvious that not only life insurance but most forms of private saving would nearly cease if children were taken away from their parents and brought up by the state as in Plato’s Republic; that is to say, if the State were to adopt the role of the father, the State would, ipso facto, become the sole capitalist. Thoroughgoing Communists have often maintained the converse, that if the State is to be the sole capitalist, the family, as we have known it, cannot survive; and even if this is thought to go too far, it is impossible to deny an intimate connection between private property and the family, a connection which is reciprocal, so that we cannot say that one is cause and the other is effect.
出典: Marriage and Morals, 1929, Introduction.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM-INTRO010.HTM

<寸言>
Marriage and Morals (1929)には,『ラッセル幸福論』,及び『ラッセル教育論』とともに,岩波文庫に安藤貞雄氏による名訳があります。しかし,残念ながら,『ラッセル幸福論』『ラッセル教育論』ほど売れておらず,新刊書店で見かけることもほとんどありません。
なお,安藤氏の邦訳は,「訳者あとがき」によれば,少し残念ながら,原本テキストとして初版第6刷(1938年刊)を使用しているとのことです。しかし,初期の刷りのものには,誤解をまねく表現(人種差別的な表現)があるとの指摘を友人から受け,(それはラッセルの本心ではないということで)その部分を修正をしています(重要な修正です!)。

「中立的一元論」は精神と物質との関係についての神秘を取除く

第五に,一片の物質(と)は,因果法則,即ち,物理学の因果法則によって結びつけられた事象群である。精神(と)は,因果法則,即ち,心理学の因果法則によって結びつけられた事件群である。(一つの)事象は,その(事象の)内在的性質によって,心的(なもの)あるいは物質的(なもの)のどちらかに帰せられる(翻訳される)ものではなく,因果関係によってのみ,心的(なもの)あるいは物質的(なもの)となる(とされる)のである。(一つの)事象が,物理学に特徴的な因果関係と,心理学に特徴的な因果関係との両方(の関係)を有することは,まったく可能である。その場合は,その事象は,心的であるとともに物質的である(ということになる)。
人間について,パン屋でもあり父親であることに何の困難もないのとまったく同じく,このことについて,まったく困難は存在しない。我々(人間)は,直接経験する心的事象(の内在的性質)を除いて,物理(的)事象の内在的性質については何も知らないので,我々の頭(脳)の外の物理的世界が心的世界と違っているかあるいは違っていないか,どちらであるか言うことはできない精神と物質との関係についての想定(仮定)された問題,(精神と物質の)両方を,事象群としてではなく,(実体的な)「もの(事物)」として,取扱うという聞達ったことから生じる(のである)。私の提示(提出)した理論(注:中立的一元論)によって,(精神と物質との関係の)全ての問題は消失する。
 私が擁護してきているこの理論のために言うべき最も重要なことは,この理論が(精神と物質との関係についての)神秘(性)を取除くということである。神秘(性)は常に人を悩ますものであり,それは通常,明噺な分析が欠如しているせいである。精神と物質との関係は,人々を長い間悩ませてきたが,もし私が正しければ,精神と物質(との関係)は,人間を悩ませる必要はもはやないのである。(終)

Fifth: a piece of matter is a group of events connected by causal laws, namely, the causal laws of physics. A mind is a group of events connected by causal laws, namely, the causal laws of psychology. An event is not rendered either mental or material by any intrinsic quality, but only by its causal relations. It is perfectly possible for an event to have both the causal relations characteristic of physics and those characteristic of psychology. In that case, the event is both mental and material at once. There is no more difficulty about this than there is about a man being at once a baker and a father. Since we know nothing about the intrinsic quality of physical events except when these are mental events that we directly experience, we cannot say either that the physical world outside our heads is different from the mental world or that it is not. The supposed problem of the relations of mind and matter arises only through mistakenly treating both as “things” and not as groups of events. With the theory that I have been suggesting, the whole problem vanishes.
In favor of the theory that I have been advocating, the most important thing to be said is that it removes a mystery. Mystery is always annoying, and is usually due to lack of clear analysis. The relations of mind and matter have puzzled people for a long time, but if I am right they need puzzle people no longer.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter200.HTM

<寸言>
それでも、肉体(もの)は滅びても、精神(こころ)は生き続ける(消滅しない)と考える人がいる。考えたい人は個人的に考えるのはよいが、社会的、あるいは国家として幻想を振りまいてはならない(靖国に眠っている,国家に御霊を捧げた英霊に報いるためにとか・・・。)