歴史(書)の学問的価値と芸術的価値-芸術としての歴史)(2)

(今年最後)
 歴史(学)は科学か芸術かについての,私にはやや無益に思われる,多くの論議が行われてきました。歴史(学)は(これまで)その両者であったことは,全く明らかだと私は考えます。トレヴュリアンの『英国社会史』は,芸術的見地から,疑いもなく賞讃にあたいします。しかし,その中で英国の海洋における偉大さは,ニシンに関する習慣に変化がおこったことによるという趣旨の陳述(文)を見つけたことを記憶しています(注:英国人は朝食にニシンをよく食べる)。私はニシンについては何も知らないので,この陳述(文)を権威あるものとして受け取っています(半分冗談?)。ここで私が言いたいのは,歴史(学)は一つの科学であり,その科学的性格は,トレヴェリアンの業績の芸術的価値を減ずるものではないということです。それにもかかわらず,歴史家の仕事は,科学的動機が支配的であるか,それとも芸術的動機が支配的であるかによって,二つの分野にわけることができます。

There has been much argumentation, to my mind somewhat futile, as to whether history is a science or an art. It should, I think, have been entirely obvious that it is both. Trevelyan’s Social History of England indubitably deserves praise from the artistic point of view, but I remember finding in it a statement to the effect that England’s maritime greatness was due to a change in the habits of herrings. I know nothing about herrings, so I accept this statement on authority. My point is that it is a piece of science, and that its scientific character in no way detracts from the artistic value of Trevelyan’s work. Nevertheless, the work of historians can be divided into two branches, according as the scientific or the artistic motive predominates.
出典:History as an art (1954)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1057_HasA-020.HTM

<寸言>
歴史書には2つの側面があることは明らか。でっち上げの事実をあたかも起こったかのごとく記述して歴史書を執筆することは読者を愚弄するものであるとともに、事実を単につらねた「歴史書」もほとんど価値がない。一番良いのは歴史の多くの事実のなかから、関連をみつけ、大胆に再構成して歴史の流れを感じさせることできる歴史書はすぐれた歴史書と言える。そのような歴史書は多くはないですが・・・。