「知性」とは知識を獲得する知的能力や獲得したいという感性(があること)

「知性」という言葉は,正確に言えば,すでに獲得された知識よりも,知識を獲得する知的能力をさしていることは,疑問の余地はない。しかし,この才能は,ピアニストや曲芸師の才能と同様,訓練なしに獲得されるとは考えられない
abe_under-control もちろん,知性を鍛えないやり方で情報を伝達することは可能である。可能なだけではなく,容易であり,現にしばしば行なわれている。しかし,情報を伝えずに,あるいは少なくとも知識を獲得させようとしないで,知性を鍛えることはできない,と私は信じている。しかも,知性なしには,複雑な現代世界は存続することができないし,進歩することはなおいっそう可能でない。
それゆえ私は,知性の涵養教育の主目的の一つと考える。これは,陳腐な言い方と思われるかもしれないが,実はそうではない。正しい信念だとみなされているものを教えこみたいという欲求のために,教育者は,知性の訓練に対してあまりにもしばしば無関心になった。

abe_rekisi-netuzo_self-deceptionNo doubt the word ‘intelligence’ properly signifies rather an aptitude for acquiring knowledge than knowledge already acquired.; but I do not think this aptitude is acquired except by exercise, any more than the aptitude of a pianist or an acrobat. It is, of course, possible to impart information in ways that do not train intelligence; it is not only possible, but easy, and frequently done. But I do not believe that it is possible to train intelligence without imparting information, or at any rate causing knowledge to be acquired. And without intelligence our complex modern world cannot subsist; still less can it make progress. I regard the cultivation of intelligence, therefore, as one of the major purposes of education. This might seem a commonplace, but in fact it is not. The desire to instil what are regarded as correct beliefs has made educationists too often indifferent to the training of intelligence.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2 The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-180.HTM

<寸言>
知識人」というのは,単に知識をいっぱい持っている人を指すわけではない。知識をいっぱいもっていても「知性」を感ずることができない人は少なくない。百科辞典的な知識を多くもっている人よりも,発想力・理解力にすぐれ,難しい物事をわかりやすく他人に説明できる人こそ「知性」があると言える。
それにしても,「知性」や「智恵」のある「知識人」は少なくなり,似非知識人が増えつつあるように思われるが気のせいだろうか。過去の偉大な人間に学ぶよりも,まず自分の考えを主張したがる人間が増えてきている。たとえばブログの流行は,「読む人よりも書く人の方が多い」現実?を例証していると言うひとがいるが,いかがであろうか。