女性によって影響を受けることーオットリン・モレル夫人との恋愛

ottoline オットリン(モレル夫人)は非常に大きな影響を私に与えたが,ほとんどの場合,有益なものであった。・・・。彼女は,私の自己中心的なところや,独善的なところを少なくしてくれた。・・・。彼女は,私の禁欲的(清教徒的)なところをかなりなくし,また他人に対し批判的なところ(人に難癖をつけたがるところ)を,以前よりかなりなくしてくれた。・・・。
女性によって影響を受けることを怖れる男性が多いが,私の経験による限りでは,これはばかげた怖れである。肉体的と同様に精神的にも,男は女を必要とし女は男を必要とする,と私には,思われる。自分のことを言えば,私はかつて愛した女性たちのおかげを非常に受けており,彼女たちがいなければ,私は今よりもずっと狭量な人間になっていたであろう。

Ottoline had a great influence upon me, which was almost wholly beneficial. … She made me less self-centred, and less self-righteous. …
Many men are afraid of being influenced by women, but as far as my experience goes, this is a foolish fear. It seems to me that men need women, and women need men, mentally as much as physically. For my part, I owe a great deal to women whom I have loved, and without them I should have been far more narrow-minded.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 7: Cambridge Again, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB17-050.HTM

<寸言>
ottoline_seymour_cover-jacket ラッセルは,若い時に5歳年上のアリスと結婚したが,しだいに気持ちが離れていき,結局,結婚生活は失敗に終わり,長い別居期間を経て、離婚に至った。(二人の間に子供がいれば、また違った展開になったであろう。ラッセルは早く両親が病没したことによる孤独感から,子供を持つことを熱望していたが、アリスは子供が産めない身体であり、ラッセルの強い希望も立たれた。)

そのような時にラッセルの孤独感を救ったのは、オットリン・モレル夫人((1873-1938,ラッセルの1歳年下)であった。オットリン(注:ポートランド公爵の義理の妹)のことをラッセルは幼児の頃から知っていたが、ラッセルがオットリンに急速に接近したのは、オットリンの夫が自由党から立候補したのを応援したのがきっかけであった。そうして、二人は恋人同士になった。

知性や感受性は「競争におけるハンディキャップ?」ーアベノミクスの本質

trump_and_abe_iwanka 若者の精神を形成する影響力のある大部分のもの(人やメディア)によって,金銭面での成功の理想像が若者の前に示される。映画では,若者たちは贅沢を表現したものを見る。金持ちは大理石の大広間を持っており,大広間には華麗な衣装をまとった美女が集まっている。映画の主人公は,たいてい,最後には成功した階級の仲間入りを成就する。芸術家でさえ,稼いだ金額で判断されるようになる。金銭で計れない価値は,見下されるようになる。あらゆる感受性は,競争におけるハンディキャップであるため,失敗の烙印(焼印)と見なされる。

The ideal of financial success is set before the young by most of the influences that form their minds. In the cinema they see representations of luxury, where plutocrats own marble halls and beautiful ladies in splendid dresses. The hero generally succeeds, in the end, in belonging to this successful class. Even artists come to be judged by the amount of money they make. Merit not measured in money comes to be despised. Every kind of sensitiveness, being a handicap in the struggle, is regarded as a stigma of failure.
出典: Hope and Fear, Oct. 7,1932. In Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:https://russell-j.com/HOPEFEAR.HTM

<寸言>
知性や感性よりも「意志の力」が重視され,あらゆるものが,「金銭の尺度」ではかられる現代世界・・・。

carrot-and-stick 「一億総活躍」の名のもとに,また「何度でも活躍できる」(真意=努力すれば,一定の割合だけ助けてあげるよ)との誤魔化しのもとに,競争にあけくれる現代人。競争に敗けた者(負け組)に対しては、「お情けで」ほんの少し税金を使って助ける振りをするが,全員に大してではなく,ここでもその「お情け」を手に入れるための競争をさせる。その際の弁解は「国民の血税だからばらまくことはできない」といったものだが,為政者がやりたいことには血税をヘリコプターマネーのように世界中にばらまく大企業に対してもいろいろな優遇措置を与えるが,大企業が富めばそのおこぼれが全国民にいく(いわゆるトリクル・ダウン・セオリー)とでもいった説明をする。トリクル・ダウン・セオリーの観点に立ってはいないと最近では言っているが,これまでその考え方を吹聴してきたことについてはなんの責任も感じておらず、そんなことは言ったことはないと開き直る。

小利口だが知恵の乏しい人間-ゆっくり考えることを許さない社会風潮

DOKUSH34 今の世の中には,時間のゆとりがほとんどないが,それは,昔よりも人々が忙しく働いているからではなく,楽しみを持つことが仕事同様に’努力を要する事柄’になってしまっているためである。その結果,人間は小利口にはなったが,知恵が少しずつ’蒸留’される’ゆったりと考える時間(余裕)’を持てないために,知恵は減少してしまった。

In the modern world there is hardly any leisure, not because men work harder than they did, but because their pleasures have become as strenuous as their work. The result is that, while cleverness has increased, wisdom has decreased because no one has time for the slow thoughts out of which wisdom, drop by drop, is distilled.
出典:Mortals and Others; Bertrand Russell’s American Essays, v.1
詳細情報:https://russell-j.com/MEDITATE.HTM

<寸言>
ichioku-sokatuyaku_abe 知性や知恵を身につけることを目指す者よりも、権力に従順で小利口な人間が多くなっている現代為政者や権力を保持し続けたい人間にとってそういう傾向は都合がよい。政治家にとっても,近視眼的な経営者や資本家にとっても,「一億総活躍」の号令にのっかってくれる人間が増えることは,自らの力を保持し続けるために大変ありがたい風潮であろう。

ゆっくり考えることを許さない社会
ゆっくり,ぼんやりしてたら,落ちこぼれになるか,自分は落ちこぼれではないと思っても落ちこぼれだとレッテルを貼られたりされしそう・。
みんな忙しそうに働き,小利口に振る舞い,みんなが言いそうなことを言っていれば孤立することなく無難ということで・・・。
哲学なんかを研究していると言えば,「変わり者」というレッテルを貼られてしまう。
にかく,成果をあげなくちゃ,実績を積まなくちゃ,怠惰はいけない,グローバリズニに乗り遅れるな,小学校から英語教育を・・・,愛国心教育が重要などなど
・・。気がついたら墓場が近くなり・・・,自分が決めた人生を歩んできたのかと反省してももう遅い・・・。

「協力」する際の3種類の動機 -愛,恐怖心,強欲(不正利得に対する)

abe_susitomo01 人と協力するには三つの理由がある。一つは相手を愛するからであり,一つは相手を恐れるからであり,もう一つは不正な利得にあずかりたいと望むからである。これらの三つの動機は,人間の協力が必要なそれぞれの領域において,それぞれ異った重要性を持つ。第一の動機は’生殖’を支配し,第三の動機は’政治’を支配する。

(Now) there are three reasons for which you may co-operate with a man: because you love him, because you fear him, or because you hope to share the swag. These three motives are of differing importance in different regions of human co-operation: the first governs procreation, and the third governs politics.
出典:Mortals and Others; Bertrand Russell’s American Essays, v.1
詳細情報:https://russell-j.com/COWARD.HTM

<寸言>
自分を反省してみて,権力や権限をもっている人に対し,どのような態度で応対(「協力!」)することが多いでしょうか?
ラッセルがあげた3種類の「協力の動機」なかでは,第一番目の理由が望ましいわけですが,勤め人(経済人)であれば,そうでない場合も少なくありません。
abe_20160926-yorokobigumi 特に政治の世界では第三の理由で(不正な利得にあやかるために)「協力」する場合も少ないとはいえないですが,今日の日本では,第二の理由で(主流派で権力を持っている者を恐れるために)「協力」する場合がかなりあるように思われます。

「結果が全てだ」としてプロセスを軽視する人々 ー政治家とスポーツマン

result-and-process (生産)過程に喜びがあるところにはスタイルがあり,生産活動は,それ自体,美的特質を持つに至るだろう。しかし,人間が機械に同化し,仕事自体ではなく仕事の結果のみを価値あるものとするならば,スタイルは消え,機械に同化した人間には(同化していない人間)よりも自然に思えるが,実際はただより野蛮なものがそれに取って代わる。

Where there is delight in a process, there will be style, and the activity of production will itself have aesthetic quality. But when men assimilate themselves to machines and value only the consequences of their work, not the work itself, style disappears, to be replaced by something which to the mechanised man appears more natural, though in fact it is only more brutal.
In praise of artificiality, Sept. 9, 1931. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
https://russell-j.com/ARTIFICI.HTM

<寸言>
tpp-hantai_jiminto スポーツや政治の世界では,「結果が全てだ」とよく言う人がいます。もちろん,結果は大事です。しかし,それを自分に言い聞かせるだけであれば実害はそれほど大きくないかもしれないですが、家族や第三者など、周囲に強制するならとても大きな害悪を待ちちらします。

通常,「手段」という言葉は,「ある目的を実現するためのもの」という意味合いで使われています。これに対し,プラグマティストのJ.デューイは,個々の目的「より高次の」目的のための「手段」にすぎないとします。
最高次の目的を「人類の幸福」におくことに対しても異論を唱える人はいると思われますが,このエッセイの中でラッセルは,(常識的な意味合いで)人類の幸福を最重要なものとし,(科学技術や機械等の利用において)手段と目的をとりちがえないよう,警鐘をならしています。80年前に書かれたものですが,傾聴に値すると思われます。

「人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因している」

gca_jolly 戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた。それゆえ,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。

Wars, pogroms, and persecutions have all been part of the flight from boredom; even quarrels with neighbours have been found better than nothing. Boredom is therefore a vital problem for the moralist, since at least half the sins of mankind are caused by the fear of it.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 4: boredom and excitement.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM

<寸言>
自分や自分の家族や自分の親しい人に関係にないことであれば、他人や他国のことはどのようなひどいことでも,いやショッキングなことであればあるほど,興味・感心を持って,あるいは面白がって,眺める人間性の闇
マスコミ関係者においては,大事件は起こらないよりも起こったほうがよいと内心思っている人が少なくない政治家どのような国難が起こっても、自分がスポットライトをあびることができるのであれば生き生きとしてくる
bonbon_sekensirazu ラッセルが言うように,「戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部」というのが真実なのであろう。そうでなければ,日本で言えば信長や秀吉のように残忍な行為(信長による比叡山焼き討ち;秀吉による豊臣秀次一族39人及び関係者全員の公開処刑) をした人物が一番人気になるようなことはないであろう。また,そうでなければ,600万もの人間を強制収容所で惨殺したヒトラーを持ち出してヒトラーのやり方を学べばよい」などと、たとえ冗談であっても、言う気にはなれないであろう。

みな虚栄心の塊(歴史に名を残したい!)-トランプ、プーチン,安倍総理

mad-magazine_world-leaders 虚栄心は非常に大きな力を有している動機(原動力)である。子供と多くの関わりを持っている人であれば,彼らは常に何かふざけたことをやっては,「ほら,見て!」と言うのを見知っている。「ほら,見て!」(見て欲しい)というのは人間の心の最も基本的な欲求の一つである。それは,ふざけた行為から死後の名声の追求まで,数限りない形態をとりうる。ルネサンス期イタリアに一人の小公子(小君子)がいて,死の床で聖職者から何か懺悔しなければならないことはないか(あるか)と尋ねられた。彼は,次のように応えた。「はい,一つあります。私は,ある折に,皇帝と教皇との訪問を同時に受けました。私の邸宅内の塔のてっぺんからの眺めを見せるためにお二人を塔のてっぺんに案内しましたが,二人とも同時に投げ落として不滅の名声を自分に与える(不滅の名声を得る)機会を見逃して(怠って)しまいました。」 歴史(書)は,その聖職者がその小公子に赦免を与えたかどうかは物語っていない。虚栄心の厄介なことの一つは,虚栄心がエサとするもの(を食べる)とともに虚栄心も成長して大きくなるということである。

Vanity is a motive of immense potency. Anyone who has much to do with children knows how they are constantly performing some antic, and saying “Look at me”. “Look at me” is one of the most fundamental desires of the human heart. It can take innumerable forms, from buffoonery to the pursuit of posthumous fame. There was a Renaissance Italian princeling who was asked by the priest on his deathbed if he had anything to repent of. “Yes”, he said, “there is one thing. On one occasion I had a visit from the Emperor and the Pope simultaneously. I took them to the top of my tower to see the view, and I neglected the opportunity to throw them both down, which would have given me immortal fame”. History does not relate whether the priest gave him absolution. One of the troubles about vanity is that it grows with what it feeds on.
From: Human Society in Ethics and Politics, 1954,pt.2,chap.2: Politically Important Desires (Nobel Prize Acceptance Speech)
https://russell-j.com/cool/47T-020201.HTM

<寸言>
kesho-gijyutu-daisinka_world-leaders 4K液晶ディスプレイの精細技術はすさまじく(いずれ8K),大分部の美人女優を駆逐するのではないかと恐れられていましたが、ITの進歩とともに、化粧技術も大進歩しました。富士フィルムまでが化粧品を出す時代です。
「◯◯さんは年のわりに綺麗で若くみえますね」とよく耳にしますが,化粧を落として素顔を見るまでは信用できません。ほんの少しで万単位もする化粧品がいろいろあります。
abe-poster_atugesho 政治家もまけていません。世界の要人(プーチン、トランプ、安倍総理、その他おおぜい)も皆、化粧で誤魔化しています。時々安倍総理の写真で、あまりにも違うものを見受けますが、ひどく写っているのが真の姿だと思ってまず間違いないでしょう。化粧をやりなおしている時間がなくて、化粧が落ちたりした時に撮影されるとこのようなことになってしまいます。
素肌が綺麗で化粧をしなくてもよい人はうらやましいですね。

「非存在」(存在しない)と「存在」,あるいは、主語と存在(実在)

私(バンブロウスキー)おべっか使いの形而上学者達と議論を始めました。

proof_of_the_devil_takaichi 「あなたがたの言っていることは馬鹿げている’」と私(バンブロウスキー)はいさめました。「あなたがたは無の存在こそが唯一の実在だと言う,あなたがたが崇拝している,このブラック・ホール(black hole 宇宙論に言うブラックホールではないことに注意)は存在しているとあなたがたは偽って言う。あなたがたは,非存在(存在しないもの)が存在するということを私に説得しようとしている。だがこれは矛盾だ。それに’地獄の炎’がどんなに熱くなろうとも,私は矛盾を容認するほど,論理学上の存在を堕落させるようなことは決してしません。」
ここでおべっか使いの代表が議論にわってはいってきました。「あなた(バンブロウスキー)はせっかち過ぎる」,と彼は言いました。「あなたは非存在が存在することを否定するのですか?’ だが,あなたが存在を否定しようとするものは何ですか。もし非存在が無であるとするならば,それについての如何なる陳述も無意味となります。従って,非存在が存在しないというあなたの陳述も無意味ということです。あなた(バンブロウスキー)は文章の論理的分析に余りにも少ししか注意を払わなかったのではないかと思います。この事は,あなたが子供の時に教えられているべきことでした。あなたは全ての文には主語があり,もし主語が無だとしたら,文は無意味となることは,ご存じではありませんか。そういうわけで,あなたが高潔なる熱情をもって悪魔-非存在なるもの-が存在しないと宣言するなら,明らかに矛盾したことを言っています(自己矛盾していることになります)」。
私(バンブロウスキー)は答えた。「あなたは,疑いもなく,地獄に来てからしばらく経っていて,やや古風な学説を受け入れ続けています。あなたは文章には主語があるなどむだ口をたたいていますが,そういった話は時代遅れです。私が非存在である悪魔は存在しないという時,私は,悪魔や非存在そのものについて言っているのではなく,ただ「悪魔(サタン)」という語,「非存在」という語に言及します。あなたの誤謬は,私に偉大なる真実を明らかにしてくれました。その偉大なる真実とは,「~でない(否)」という語は必要ないということです。今後私は「~でない(否)」という語は使わないことにします。’

I began to argue with the metaphysical sycophants:
‘What you say is absurd,’ I expostulated. ‘You proclaim that non-existence is the only reality. You pretend that this black hole which you worship exists. You are trying to persuade me that the non-existent exists. But this is a contradiction: and, however hot the flames of Hell may become, I will never so degrade my logical being as to accept a contradiction.’
At this point the President of the sycophants took up the argument: ‘You go too fast, my friend,’ he said. ‘You deny that the non-existent exists? But what is this to which you deny existence? If the non-existent is nothing, any statement about it is nonsense. And so is your statement that it does not exist. I am afraid you have paid too little attention to the logical analysis of sentences, which ought to have been taught you when you were a boy. Do you not know that every sentence has a subject, and that, if the subject were nothing, the sentence would be nonsense? So, when you proclaim, with virtuous heat, that Satan – Who is the non-existent- does not exist, you are plainly contradicting yourself.’
‘You,’ I replied, ‘have no doubt been here for some time and continue to embrace somewhat antiquated doctrines. You prate of sentences having subjects, but all that sort of talk is out of date. When I say that Satan, Who is the non-existent, does not exist, I mention neither Satan nor the non-existent, but only the word ‘Satan’ and the word ‘non-existent.’ Your fallacies have revealed to me a great truth. The great truth is that the word ‘not’ is superfluous. Henceforth I will not use the word ‘not.”
出典: Nightmares of Eminent Persons and Other Stories,
illustrated by Charles W. Stewart.
詳細情報:https://russell-j.com/cool/NIGHT-M4.HTM

[寸言]
abe_under-control これは,安倍総理が俄仕込みで(誰かに教えてもらったばかりのものを)得意がって国会で説明した「悪魔の証明(非存在の証明の不可能性」に関係したもの。また,言語分析こそが(だけが)哲学の役割だと主張する日常言語学派(オックスフォード学派)に対する批判でもある。
何かが存在するかどうかは、存在するものを一つ発見すればその存在を証明できる。しかし、何かが存在しないということの証明は不可能、。なぜなら、存在しないと言われていても、地球上のどこかに存在するかも知れず、またこの地球上に存在しないとしても、この広大な宇宙のどこかに存在しているかも知れず、存在しないとは「証明不可能」。
「知性無き」、といって悪ければ、「知性の乏しい」総理が、多くの人が知らないことを自分が知っていると得意がって言いたくなるという、幼児性を発揮した事例であった。

「正気」とは,様々な「狂気」のバランスが保たれた状態?

tp-noep いかなる隔離された情熱も,隔離された状態のままでは,(一種の)狂気である。正気とは,種々の狂気を総合(統合)したものとして定義してよいだろう。いかなる支配的な情熱も,(その情熱の対象を)達成できないという,支配的な恐怖を引き起こす。いかなる支配的な恐怖も,時には明白かつ意識的な狂信の形で,時には人を無力にさせる臆病のために,時には夢の中にのみ現れる無意識あるいは意識下の恐怖のために,悪夢を引き起こす。危険な世界において正気を保持したいと思う者は,自分の心のなかで恐怖の議会を招集し,そこにおいて,個々の恐怖を順にとりあげ,他の全ての恐怖によって,不合理であるとして票決されるべきである。

(意訳:「正気」というのは,平凡かつ起伏のない感情の寄せ集めでできているものではない。それぞれの情熱(強い感情)を一つ一つとりあげれば「狂気」に映るかもしれないが,それらの情熱(+の狂気と-の狂気)をまとめると,全体としてみれば,プラスマイナス零となる。そういった状態を「正気」というのであろう。)

Every isolated passion is, in isolation, insane; sanity may be defined as a synthesis of insanities. Every dominant passion generates a dominant fear, the fear of its non-fulfilment. Every dominant fear generates a nightmare, sometimes in the form of an explicit and conscious fanaticism, sometimes in a paralysing timidity, sometimes in an unconscious or subconscious terror which finds expression only in dreams. The man who wishes to preserve sanity in a dangerous world should summon in his own mind a Parliament of fears, in which each in turn is voted absurd by all the others. …
From: Nightmares of Eminent Persons, 1945, Introduction.
https://russell-j.com/cool/46E-INTR01.HTM

[寸言]
br196009-2 この言葉は,ラッセルの2冊めの小説『著名人の悪魔』(Nightmares of Eminent Persons, and Other Stories, 1954)の巻頭に収められたもの(序文代わりのもの)である。明らかに「狂気」とおもわれるものも少なくないが,強い感情であるために、「正気」であるのに「狂気」だと思われてしまうもの(誤解されてしまうもの)も少なくない。ラッセルの核兵器撤廃闘争もそうであった。危機感を感じてない人間にとっては,ラッセルの行動は「極端」で,一種の「狂気」に見えるかも知れないが、起こりうる危機や破局をまざまざと想像できる人間にとっては、「狂気の沙汰」ではなく「正気の沙汰」なのである。大きな戦争や、大きな人災や、大きな災害が起こって初めて、自らの思慮の足りなさに気づく人が多い。
「原発全廃」なども極端な意見だと思う人も少なくないようであるが、そういった人が、原発全廃こそが「現実的」であることに気づくのは福島に続く大きな原発事故が起こってから、それも自分や自分の家族に大きな影響が生じた時、のことであろう。

罪人の方が救われる!? -ラッセル(作)「郊外の悪魔」から

tp-ss (注:ボーション氏。小説「郊外の悪魔」の登場人物で,聖書の普及に関係した団体の事務長)は言った。「しかし,こういった書物を熟読することは,若い男,それから若い女もですが,彼らを恐ろしい罪に導くかもしれない,容易ならぬ危険があるのではないでしょうか? 仲間に合っているまさにその時に,自分が金銭的利益を得た行為(注:猥褻本の販売)の結果として,おそらく,どこかで結婚をしていない男女が,いかがわしい喜びを与えるものを楽しんでいると考えると,彼ら(仲間)の顔をまともに見ることができるでしょうか?」

dokush30 マラコ博士は応えた。「ああ,残念ながら,恐らく,我々の神聖なる宗教(キリスト教)には,あなたが十分に理解していないことが,たくさんあります。何ひとつ懺悔をする必要のない九十九人の正しい人間が,神のふところに帰った一人の罪人よりも,天国では喜びを得ることが少ないという寓話を,よくよく考えたことがおありでしょうか? パリサイ人(注:古代ユダヤで立法の形式を重んじた保守派の人々。転じて偽善者)や貢取り(注:古代ローマの収税官吏:みつぎとり)に関する原典を研究されたことはまったくなかったのでしょうか? 悔い改めた盗人(の話)から教訓を得ませんでしたか? 主がパリサイ人の昼食を食べながらとがめた罪が何であったか自問したことはまったくありませんか? 打ちひしがれ罪を悔む心を讃美することを不思議に思ったことはまったくありませんか? モリヌー夫人(注:モリヌー大佐の未亡人)と会う前に,あなたの心が打ちひしがれていた,あるいは罪を悔んでいたと,いずれか正直に言うことができますか? まず罪を犯さなくては罪を悔むことはできないということを,今まで思い浮かんだことはありませんか? さらに,これは福音書ではっきり教えているところです。神を喜ばす心構えに人を導きたいと望むなら,人間はまず罪を犯さなければなりません。疑いもなく,例の出版業者が頒布している本を買った人たちの多くは,あとで罪を悔いるでしょう。そうして,我々の神聖なる宗教の教えを信ずるなら,彼らの方が非の打ちどころのないまっすぐな人間よりも,造物主がお気に召す者になるのです。あなたは,これまでは,まっすぐな人間の立派な模範でしたけれども。」
この論理は私を混乱させ,すっかり困惑してしまった。

But is there not; I said, ‘a grave danger that the perusal of such literature may lead young men, ay, and young women too, into deadly sin? Can I look my fellow men in the face when I reflect that perhaps at this very moment some unwedded couple is enjoying unholy bliss as a result of acts from which I derive a pecuniary profit?’

‘Alas,’ Dr. Mal1ako replied, ‘there is, I fear, much in our holy religion that you have failed adequately to understand. Have you reflected upon the parable of the ninety-nine just men who needed no repentance, and caused less joy in Heaven than the one sinner who returned to the fold? Have you never studied the text about the Pharisee and the Publican? Have you not allowed yourself to extract the moral from the penitent thief? Have you never asked yourself what it was that was blameworthy in the Pharisees whom our Lord denounced while eating their lunch? Have you never wondered at the praise of a broken and contrite heart? Can you say honestly that your heart, before you met Mrs. Molyneux, was either broken or contrite? Has it ever occurred to you that one cannot be contrite without first sinning? Yet this is the plain teaching of the Gospels. And if you wish to lead men into the frame of mind which is pleasing to God they must first sin. Doubtless many of those who buy the literature that my friend’s publisher distributes will afterwards repent, and if we are to believe the teachings of our holy religion, they will then be more pleasing to their Maker than the impeccably righteous, among whom hitherto you have been a notable example.’
This logic confounded me, and I became perplexed in the extreme.
出典: Satan in the Suburbs, and Other Stories, 1953.
詳細情報: https://russell-j.com/cool/45T-0101.HTM

[寸言]
時々街頭で,キリスト教普及団体(「ものみの塔」など)が「信じる者は救われる」とかなんとか言っているのが耳に入ります。これはラッセルが1953年に発表した小説「郊外の悪魔」(Satan in the Suburbs)に出てくる言葉「何ひとつ懺悔をする必要のない九十九人の正しい人間が,神のふところに帰った一人の罪人よりも,天国では喜びを得ることが少ないという寓話を,よくよく考えたことがおありでしょうか?」と同じ趣旨のことを言っています。
つまり,どんなに品行方正な生活をしていてもキリスト教(神)を信じていないとあの世で救われないけれども,罪人でも死ぬ間際に「回心」してキリスト教に帰依すれば天国に行けると言っています。
馬鹿馬鹿しいですが、キリスト教徒だけでなく、多くの宗教が同じような馬鹿げたことを言っています。