突然生計をたてる手段を奪われるがバーンズ博士から救いの手があり・・・

BARNES-A (ニューヨーク市立大学の招聘の話が消え、また、「不道徳な人間」との評判が全米にたったために、)私が執筆したものはなんであっても,掲載してくれる新聞や雑誌はまったくなくなってしまい,私は,突然,生計をたてる手段を奪われてしまった。(母国の)英国から金を取り寄せることは法的に不可能だったため(注:1938年に第二次世界大戦が勃発),このことは,非常に困難な事態を私たちにもたらした。特に,この時私は3人の子供(注:ドーラとの間に生まれた長男と長女と、パトリシアとの間に生まれた次男)を扶養しなければならなかったため,よりいっそうそうであった。多数のリベラルな考えの教授たちが坑議をしてくれた。しかし彼らは,私は伯爵だから先祖から受け継いだ遺産をもっていて,裕福に暮らしているにちがいない,と想っていた。ただ一人だけ,実際的なことを何でもやってくれた。それは,バーンズ博士であった(上の写真:バーンズ美術館のおけるバーンズ博士とラッセル)。彼は,アージロール(防腐用含銀液)の発明者であり,フィラデルフィア近郊にあるバーンズ財団の創設者であった。彼は私に,その財団で哲学の講義をするよう5年聞の約束をしてくれた。これにより,非常に大きな不安を私から取り除いてくれた。

BR-1940No newspaper or magazine would publish anything that I wrote, and I was suddenly deprived of all means of earning a living. As it was legally impossible to get money out of England, this produced a very difficult situation, especially as I had my three children dependent upon me. Many liberal-minded professors protested, but they all supposed that as I was an earl I must have ancestral estates and be very well off. Only one man did anything practical, and that was Dr. Barnes, the inventor of Argyrol, and the creator of the Barnes Foundation near Philadelphia. He gave me a five-year appointment to lecture on philosophy at his Foundation. This relieved me of a very great anxiety.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-040.HTM

[寸言]
TP-HWP ニューヨーク市立大学教授の招聘の話が消えたため、生計の糧を失い、ラッセル一家は窮地に陥ることになる。しかし、学問の自由のために闘ってくれた同士も、ラッセルは伯爵だから財産はあるだろうということで、誰も経済的に支援してくれる者はおらず、窮地にたたされることになる。
しかし、バーンズ財団創設者であるバーンズ博士から救いの手がさしのべられ、フィラデルフィアのバーンズ財団において、一般市民向けに西洋哲学の歴史に関する公開講座を開くよう依頼され、収入を確保し、窮地を脱することができた。これによって、ラッセル『西洋哲学史』が生まれることになったのである。