ラッセル=アインシュタイン声明発表共同記者会見の様子

BR19550709-2・・・。会場は,人間だけでなく,録音機器や放送機材でギューギュー詰め状態であった。
私は,声明(文)及び署名者のリストを読みあげ,そうしてその声明(文)がどのようにして,またいかなる理由でできあがったか,説明した。続いて,私は,ロートブラット(注:1995年にノーベル平和賞受賞)の補佐のもと,会場からの質問に答えた。当然のことながら新聞記者の心(ジャーナリスト魂)は,アインシュタインの署名が私(ラッセル)のもとに届いた劇的な方法(道のり)に深い印象を受けた。それ以後,声明(文)はアインシュタイン=ラッセル声明(あるいはその逆のラッセル=アインシュタイン声明)と名づけられた。
記者会見が始まった当初は,新聞社側からは,かなり懐疑的な見方や冷淡な態度(無関心な態度)が,また数人の記者からは徹底的な敵意も伺われた。
記者会見が続けられていくうちに,あるアメリカ人記者を除いて,新聞記者たちはしだいに好意的になり,同意さえするようになったとようであった。そのアメリカ人は,私が彼からの質問に対して私が答えたことで,自分の母国アメリカが侮辱されたと感じとったのだった。その記者会見は,(核廃絶のための)会議を開催しようとの科学者への呼びかけの成果を多いに期待しつつ,感激とともに,2時間半で終了した。

Russell-Einstein_ManifestoThe hall was packed, not only with men, but with recording and television machines. I read the manifesto and the list of signatories and explained how and why it had come into being. I then, with Rotblat’s help, replied to questions from the floor. The journalistic mind, naturally, was impressed by the dramatic way in which Einstein’s signature had arrived. Henceforth, the manifesto was called the Einstein-Russell (or vice versa) manifesto. At the beginning of the meeting a good deal of scepticism and indifference and some out and out hostility was shown by the press. As the meeting continued, the journalists appeared to become sympathetic and even approving, with the exception of one American journalist who felt affronted for his country by something I said in reply to a question. The meeting ended after two and a half hours with enthusiasm and high hope of the outcome of the call to scientists to hold a conference.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB32-250.HTM

[寸言]
前日には,(ラッセル=アインシュタイン声明発表のための)共同記者会見は中止になるかもしれないと心配されたが、幸いにも共同記者会見は開催でき、世界に向け大々的に報道された。(声明を発表しているラッセルの、向かって左側からの写真を添付)