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対日戦勝記念日(VJデー:1945年8月15日)とその直後の総選挙は,私たちがその家で暮らしている間にあった。『人間の知識-その範囲と限界』の大部分を書き上げたのもまたその家だった。私は,ケンブリッジで幸わせになれたはずだったが,ケンブリッジのご夫人がたが,私達を尊敬に価する人物とは考えてくれなかった。(そこで)私は,美しい絶景を望める北ウェールズのフェスティニオグに小さな家を一軒購入した。その後私達は,ロンドンにもフラットを借りた。私は,欧州大陸への講演旅行に多大の時間を費やしたが,この頃の数年間は,重要な仕事はしなかった。1949年に,妻のピーターが,もはや私を必要としないと決心をした時,私たちの結婚生活は終わりをつげた。。
VJ-day and the General Election which immediate]y followed it occurred while we were living in this house. It was also there that I wrote most of my book on Human Knowledge, its Scope and Limits. I could have been happy in Cambridge, but the Cambridge ladies did not consider us respectable. I bought a small house at Ffestiniog in North Wales with a most lovely view. Then we took a flat in London. Though I spent much time in visits to the Continent for purposes of lecturing, I did no work of importance during these years. When, in 1949, my wife decided that she wanted no more of me, our marriage came to an end.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB31-020.HTM
<寸言>
この記述の少し前で、「文書による名誉毀損罪に関する法律があるのではっきり書けない場合ある」と書いています。なぜパトリシア(愛称ピーター/旧姓 Patricia Helen Spence, 1910-2004)と破局して離婚せざるを得なくなったか、真相は当事者でないとよくわかりません。ただし、ある程度は想像することはできます。
オックスフォードを卒業して間もないパトリシア(当時25歳)と結婚した時(1935年)のラッセルの年齢は63歳でした。年の差は38歳なので、「犯罪もの」です(笑)。それほど年の差があれば、長くうまくいくのは難しいと考えるのが普通です。
パトリシアはラッセルと結婚する前、ラッセル夫妻(ラッセル+ドーラ)の二人の子どもの家庭教師兼保母をしていました。その頃、パトリシアは失恋して意気消沈していたとのことです。時間的前後関係は不詳ですが、多分、ラッセルはパトリシアの恋愛相談にのっていて、いつの間にかパトリシアが好きになったのだと想像されます。ラッセルは、『自伝』でも、「当時、パトリシアに恋していた」と書いています。それには、ドーラとの夫婦仲がよくなくなったことも影響していたと考えられます。
1935年に再婚したパトリシアとの間に生まれた次男コンラッド・ラッセル(1937.4.15-2004.10.14: パトリシアから見れば長男)は、後に、英米の諸大学(ロンドン大学やエール大学他)で政治史の教授となり、そこそこ有名になりました。そうして、ラッセルの長男のジョン・ラッセル(John Conrad Russell, 4th Earl Russell, 16 November 1921 - 16 December 1987 )が亡くなった後、第5代ラッセル伯爵となります。
そうして、コンラッド亡き後、その長男が第6代目を、2014年に次男(John Francis Russell, 7th Earl Russell:1971年11月19日生まれ)が7代目を継いで今にいたっています。独身なので、ラッセル伯爵家は消滅の可能性大です。7代目のジョン・ラッセルはフリーランスの写真家及び慈善活動家をしています。
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