三浦俊彦「文明の終焉と非同一性問題−「世代」「種」を超える倫理へ−
情報誌『岐阜を考える』1999年記念号(岐阜県産業経済研究センター)所収
*この論文は、岐阜市のホームページ(https://www.gpc.pref.gifu.jp/infomag/gifu/100/2-miura.html)にも掲載されています。
(p.1)
序 「文明の終焉」 の相互関係
 「文明の終焉」 という場合、 少なくとも五つの異なる意味がある。 これまでに文明という呼称のもとに続いてきたものが、

 (1)物理的にも現象的にも消滅もしくは衰微する (核戦争、 環境汚染、 資源枯渇など)
 (2)物理的に継続し、 現象的に転換する (価値観のパラダイム変換、 画期的技術革新など)
 (3)現象的に継続し、 物理的担い手が変わる (他種族、 コンピューターなどによる代行的継承)
 (4)物理的または現象的に継続しながらも、 文明と認知されなくなる (遙かに高度な異文明との邂逅など)
 (5)物理的または現象的に継続しながらも、 文明という概念が変質もしくは無効化する (哲学的なパラダイム変換)

 (1)〜(3)は実質的終焉、 (4)(5)は名目的終焉と呼ぶことができよう。 本稿では、 比較的現実性のある(1)と(2)の論理関係を考察する。 (1)についての我々の態度 (危機管理思想から通俗的終末予言のたぐいに至るまで) が、 (2)を引き起こすことがあるかもしれない。 しかしより重要なのは、 (2)が(1)の意味に新たな洞察をもたらす (しかもその結果(5)が生じさえするかもしれない) 可能性であろう。
 (2)として近く起こりうる変化のうち、 最も根本的なものはたぶん、 生命観の変化だろう。 医療と生命操作技術の発達に伴って、 胎児や脳死者など 「人格以前」 「人格以後」 の生命の地位が問い直されるだろうが、 物言わぬ胎児や脳死者よりむしろ、 実際に我々と意思疎通をすることのできる高等動物が、 一種の人格的存在として倫理的考慮の主対象となるかもしれない。 人間と他の動物種との完全な平等を実現する 「人間中心主義文明の終焉」 が可能かどうかはともかく、 条件付きの 「動物の権利」 はすでにかなり公認されつつある。 一方では、 自然保護と種の保存にかかわる運動。 他方では、 動物個体に対する虐待、 とりわけ 「動物実験」 に反対する運動がある。 前者のマクロ的運動が、 人類の未来の福祉にかかわるエコロジー運動と理念的かつ実践的に連動していることは容易に見てとれよう。 後者のミクロ的運動は、 理念的には人種差別・性差別など人権運動の拡張として理解できるが、 実践的に(1)とどのように繋がっているのか明白ではない。 (次ページに続く)