三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)Q&A
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読者からのメールより抜粋 …… は省略部分
■Q■ (T.S.氏)* 2005年11月1日 1:19
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特に、最終章のモニズムのところは興味深く拝見いたしました。
日本の西田幾多郎の世界観とも似ているように思います。もっとも西田もジェームズの愛読者なので、出所は同じ、ということなのでしょう。
「個人あって経験あるに非ず、経験あって個人あるのである」というのは、「善の研究」の中の最も有名なテーゼの一つですが、中性一元論の考えと共通するものがあると思います。
ちなみに、心理的配列は、西田用語では、「個物的限定(時間的限定)」と呼ばれ、物理的配列は、「一般的限定(空間的限定)」と呼ばれます。個体を属性に還元するという考えも、西田が1920年代から主張している、「主語的論理から述語的論理へ」というテーゼとよく似ていると思います。(そのころから、西田は大学の講義でラッセルを論じ、試験の問題にも出していたようです。)
最後のセッションに書いておられることからすると、時間も空間もセンシビリアの意味内容上の関係から立ち上がってくるものであり、個々のセンシビリア(ないしは私的世界)そのものの間には、実際にはいかなる相互関係もない、ということになりますね。そうであるとすれば、私としては大賛成です。
ヒュームやパーフィットの場合、個我の持続性を否定するといっても意識が一定の時間的順序で生起すること自体は否定していないので、中途半端な感じがします。
西田の場合も、経験は瞬間ではなく持続するものであり、個々の経験の間に連続性や相互関係を設定するために、すべてを包む普遍的な「場所」を要請し、結果的に、汎神論に到達します。
それに比べれば、ラッセルの世界観の方が、私には説得力があるように思われます。
ただ、「ありとあらゆる意識や物体が、ことごとく存在する」、ということは、センシビリアの配列に関してはいえますが、素材であるセンシビリア自体が無限のヴァリエーションを持っているとは限らないのではないでしょうか。(それとも、論理的実在論の立場では、可能なものはすべて存在することになるのでしょうか。)その点を、やや疑問に感じました。
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*重久俊夫……著書に『夢幻論――永遠と無常の哲学』『夢幻・功利主義・情報進化』(ともに中央公論事業出版)
■A■ 2005年11月3日 3:40
いろいろ細かく読んでくださったようで、うれしく思います。
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センシビリア(中性的原子)は、ラッセルの最終的到達点では、個物というより普遍(性質)なので、必然的に存在する、と言っていいと思います。(pp.192-5参照)
可能世界論でも、個物の存在は偶然だが、普遍の存在は必然的、として扱うのが通例なので。
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(付記: ここで「存在する」という語は、ラッセルの語義ではなく、日常言語的な語義で用いています。ラッセルの「存在する」については、第7章を御参照)