電子掲示板(過去ログ2006年10〜12月)  過去ログ索引
 無料掲示板は一定の件数を越えると削除されていきます。そこで、古い書込は、電子掲示板の「過去ログ」としてここに掲載します。
 (新しい記事から古い記事の順番となっています。)


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ありがとうございました 投稿者:ソナリス 投稿日:12月31日(日)15時17分21秒

理解できたと思います。
ありがとうございました。
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Re:それでは 投稿者:φ 投稿日:12月30日(土)23時59分37秒

 3変数を並べて組合せを考えるだけだと、もちろん、2×2×2で8通りですね。
 ただ、関数というのは、3変数の単なる組合せのことではありませんよね。3変数の組合せ8通りを個別に取り出しただけでは「関数」は決定されないので。

 zの割り当てはx、yの4通りそれぞれについてバラバラにでなく、一斉にやる。その「やり方」が個々の関数。
 「4通り【すべて】に対して二値を割り当てる仕方がいくつあるか」ですから、2の4乗ということになります。
 x、yペアとzとのセットを個別に考えるだけでは関数にならず、「パターンの数」を見なければならないのですね。

 xとyの繋がりを考慮したというより、wの決まり方2通りの振り分けを考えた、ということでしょう。「振り分け方」を考えずともよいなら、2×2×2です。
 確かに難しいですね。図の力を借りられるので、言葉での説明はスペース制限に合わせてしまったところがあります。

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 ところで、たまたま同頁にケアレスミスがあるのです。以前、読者からの指摘でわかったのですが、p.136、下段、左から5行目に a とありますが、これを一つ左にズラさねばなりません。
 真=f(真) 真=f(偽)ではなく、ひとつ左の
 真=f(真) 偽=f(偽)
 の上に a をズラし、 b と隣り合ったところに置かねばなりません。

p.137の図と本文の対応がズレていたということです。わかりやすくしようと付けた工夫が不正確だったというお粗末でした。
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それでは 投稿者:ソナリス 投稿日:12月30日(土)22時11分31秒

こちらに失礼いたします。

まず、疑問点の場所は『論理学がわかる事典』初版のp136,137の
{真,偽}を{真,偽}に変換する? ▲真理値と真理関数」 第5段落以降の記述です。
ここでは、  w = f( x , y ) という形の真理関数を話題とし、
関数中の3変数の{真}{偽}の組み合わせに関して
 引用A 「x,yのペアとして4通り」
 引用B 「その4通りの各々について w の決まり方が2通り」
 引用C 「(そのため,)2を4回掛け合わせて16通りの関数があることになる」
とおっしゃっておられます。

私は引用C内の『4(回)』という数字に違和感を覚えました。
変数は3個であり、その組み合わせは2の3乗から8通りではないか、と。

その後、同ページに付してある表などから、
3変数に加え、変数xと変数yのつながり(「かつ」もしくは「または」)を考慮したために,
“2を4乗して16通り”という結果になったのだろうと予測をしているのですが、
このような考え方であっているでしょうか?
Re:はじめまして 投稿者:φ 投稿日:12月30日(土)03時07分34秒
ここでもメールでも、どちらでもどうぞ。
ただしメールだと、よほどわかりやすい件名にしていただかないと一日200件以上のスパムといっしょに削除してしまうおそれがあるので、ここのほうがよいでしょう。みなさんもご覧になれますし。
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はじめまして 投稿者:ソナリス 投稿日:12月29日(金)18時44分29秒

議論の腰を折り、失礼いたします。

三浦先生の御著書『論理学がわかる事典』の中の記述に疑問点があるのですが、
こちらで質問をしたのでよろしいでしょうか?

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難問といえば難問 投稿者:φ 投稿日:12月29日(金)01時16分26秒
 そうですね、可能な最低金額が決まっている場合は、確実に問題を成立させることができなくなる(封筒に入れる金額がありえなくなる)、という抜き打ち試験的状況が生じそうです。
 ただしそれは、選ばなかった封筒Bの中身が、選んだ封筒Aの中身より多いという方向へバイアスがかかるという意味なので(つまり小さな金額ほどありえそうにないという推論を作動させるので)、「交換すべきである」という結論(パラドクシカルな結論)を強めることになります(抜き打ち試験的状況を、「最低ラインのリミットに近いほど確率が小さい」と解釈できるかどうか疑問はありますが)。
 よって、「交換のパラドクス」は成立します。

 実際には、交換して有利になるかどうかは五分五分のはずなので、パラドクスなわけですね。この「パラドクス性」だけが重要です。

 『心理パラドクス』問056のこの問題は、すべての中でけっこう厄介な部類に入る問題でしょう。
 倍数を2でなく、百万とか一億とかに設定すれば、逆に「あまり大きな金額は日本国と国民の全資産も超えてしまう」という考慮から上限が想定され、反対の封筒のほうが小金額でありそうだ(交換すべきでない)という推測が始動しそうです。
 ただ、いずれにせよこれらは、この問題の本質とは関係ないので、適度な倍数の設定で、金塊の重さが書いてある紙、くらいに考えるのがよいのでしょう。限界効用逓減の法則など(ある程度のメリットが入手できていれば妥協した方が得、等)、いろいろまたノイズが出てきそうではありますが。
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(続き) 投稿者:クリスティアン 投稿日:12月28日(木)02時19分29秒

これが成り立つとすると、

封筒Aを開けて4円入っていた場合、

「封筒Bの中味が2円だとすると、『仮に私が封筒Bを選択していたら、封筒Aの中味は1円ではありえない(問題が成立しない)ので封筒Aの中味は確実に4円である』が確実に言えてしまうので、問題が成り立たない」

よって封筒Bの中味は8円である。

も成り立ってしまい、
(3円,5円,7円,...等から出発すれば)封筒A/Bの中味は任意の金額に結論づけられてしまいます。

これは抜き打ち試験や死刑囚、壜の中の小鬼などのパラドクスに類する問題だと思います。

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「端数が説問の企図するところとは無関係」ということには同意いたします 投稿者:クリスティアン 投稿日:12月28日(木)01時44分4秒

「2つの箱に入っている金塊の質量」のような連続値をとる量にすれば、私が気にしたようなひねくれた疑問点がなくなり、より適当であると思います。(Auの原子数が奇数個だったら…というような疑念を持ったりしたら、きりがありませんが)

それとは別に、金額のような離散値のケースで、「暗黙の内に両方の封筒とも偶数円ということが仮定されている」といえるかどうかについては議論の余地があります。
仮に封筒Aを開けて2円入っていた場合、「封筒Bの中味が1円だとすると問題が成立しない。よって封筒Bの中味は確実に4円である」が成り立つかどうか…

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(無題) 投稿者:φ 投稿日:12月22日(金)00時43分39秒

↓バスに2回乗ったら1円割引する、はちょっと変な譬えだったかな?
他の人といっしょに乗った場合に割引を分かち合うとしなければダメか。夫婦のように財布を共有していれば完璧だが。

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Re:「交換のパラドクス」(続き) 投稿者:φ 投稿日:12月22日(金)00時39分56秒

 金額の半端の可能性は、問題の本筋には関わらないと思われます。

 第一に、問題として成立させようという意図が「交換ゲーム主催者」にあるとすれば、暗黙に、封筒二つともが偶数円入れてあるという制約の下でなされていると理解すべきだからです(はじめに奇数円がプレイヤーに決して渡らないように)。
 第二に、奇数円だからといって半分にできないわけではありません。バスに2回乗ったら1円割引する、といったサービスを受ける資格を得るというような形で、0.5円を表現できるので、この問題を困難に陥れるほどのものではないと思われます。

 二つのリンゴと三つのリンゴを合わせたらいくつ? という問いに、食べちゃったら、とか、落として無くしちゃったら、という可能性を考えても問題に関係ないのと同様だと思うのですが、割り切りすぎですかね?
以上は、新着順21番目から40番目までの記事です。

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「交換のパラドクス」(続き) 投稿者:クリスティアン 投稿日:12月21日(木)14時10分44秒

仮に、少ない方の額を全くランダムに決めるとすると、

封筒A 封筒B
2n 4n
2n+1 4n+2
4n 2n
4n+2 2n+1

の4つの場合があり、最初に奇数円の封筒を選んだ場合は 2/2=1 の確率で交換した方が有利、 最初に偶数円の封筒を選んだ場合は 2/6=1/3 の確率で交換した方が不利ということになります。

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『心理パラドクス』の問056「交換のパラドクス」で 投稿者:クリスティアン 投稿日:12月21日(木)13時09分17秒

選んだ封筒の中味が1001円など奇数円だった場合、*必ず*封筒を交換した方が有利になります。(50銭玉などは入っていないものとして)
ということは、偶数円だった場合には、一般には交換した方が不利という結論になります。
実際問題としては、500円、1000円、20000円などのキリの良い金額(一般に偶数円)が封筒に入っている可能性が高く、1001円とか3794円とかいった半端な金額が入っている可能性は低いと考えるのも、ヒューリスティック的には自然だとは思いますが。

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re:人間原理に関する話 投稿者:φ 投稿日:12月15日(金)02時01分6秒

>少なくとも私は、人間原理に関する話が聞きたくてここへ来ているのです。
 ↑私自身もです。

 連載とは別に、フェイクドキュメンタリーを論じたフェイク学術書で目下「人間原理」を a sort of peeping として(シリアスに)提示したところですが、1月刊予定に間に合うかどうか――

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賛成です 投稿者:Σ 投稿日:12月14日(木)22時33分0秒

>−−ここは最先端の哲学や論理学についての話が聞けるほとんど唯一といえる掲示板だ、ということをどの程度ご理解いただいていますか?少なくとも私は、人間原理に関する話が聞きたくてここへ来ているのです。−−−<

まことに然り。賛成です。三浦先生の興味の中心、人間原理の最先端の話題が宜しいですね。
ちなみに、その中で、メタ論理学が登場する時にはカント・ヘーゲルも宜しく!
永井さんも呼んできませうかと思います。

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営業です 投稿者:S・K 投稿日:12月14日(木)00時04分11秒

 今日も一杯でした。まだ酔っ払っていますが悪しからず。

>宮元啓一教授の著書『ビックリ! インド人の頭の中』

 読む気にもなりません。

>ブッダの「無記」が「カントの発見」との共通性から解釈されたものがあれば、是非お教え下さい。

 無記(業務機密)です(←おもわせぶりで申し訳ありません)。

>ラッセル以前の哲学の話のみならヤフーの掲示板等いくらでも適当な場所がありますよね。

 三浦さんには申し訳ありませんが、ラッセルは問答の相手を間違えたのだと思います。ウィトゲンシュタインではなく、有能な図書館司書を相手にするべきだったのだと思います。
そうすれば、エッセンスをゲーデルにパクられることもなかったのではないかと思います。三浦さんを見込んでの書き込みであります(←うぬぼれだよな)。

 大乗仏教一時経論の立場から西洋の所謂「標準論理学」の土俵で記述することは、骨が折れそうになることです。折れては元も子もありません。一時経論の骨や髄は、宝物のようにして墓場まで持っていきたくなるもの(のよう)です。
 標準論理学を土俵にしても皮の部分は記述できますが、それ以上となると、土俵を再構築しなければなりません。

 血肉の部分は「実用論理思考術・発想術研修」として提供いたします。派遣ブローカー(事務所)経由20〜30万円/日のところ、直受けで半額以下の価格で承ります(交通費・資料代別途)。セッションを分割しての勤務終了後のワーク・ショップ形式は別途お見積もりいたします。美しく仕事をしている企業はより美しく、そうでない企業もそれなりに向上することを請合います。

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>お岩Uです 投稿者:ハム 投稿日:12月13日(水)22時43分2秒

>これはプラグマティズムという名で括られた集合の要素が、比較的自由に入れ替わることの証左に他ならないでしょう。いわんや量化など「不可思、不可議」です。

プラグマティズム?
カント?

そういう哲学の古本に関する話題が悪いとはいいませんが、そればかりでは困るんですよ。
ここは最先端の哲学や論理学についての話が聞けるほとんど唯一といえる掲示板だ、ということをどの程度ご理解いただいていますか?
少なくとも私は、人間原理に関する話が聞きたくてここへ来ているのです。
ラッセル以前の哲学の話のみならヤフーの掲示板等いくらでも適当な場所がありますよね。

>辻斬りしたり、けしからんことです。お岩にたたられますよ。

「辻斬り」などと心外です。
そのような理不尽なマネをしたことはありません。
ご長老の方々の昔話がチト長びきそうなのでちょっと斬り込んでみただけです。
ご老体のお岩さんなど見たくもありません。

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現代仏教界の哲学状況 投稿者:Σ 投稿日:12月13日(水)21時24分26秒

>−−私の仏教研究によれば、証明不可能な概念について言及する際には、「不可量、不可説にして…」と断りをいれるのが礼儀というか、作法となっている傾向があるように思います。「カントの発見」も東洋では二千年、あるいはそれ以前からの常識であります。−−<

あなた様の仏教研究がどの程度のものか存じあげませんが、日本の現在の仏教学会においてすら、残念ながら「カントの発見以前」であることは明白です。
また、宮元啓一教授の著書『ビックリ! インド人の頭の中』においても、「カントの発見」が全く宮元氏にとって常識でないことは、明らかです。また、その点は、彼との直接ウェブ対話で確認済みです。
ブッダの「無記」が「カントの発見」との共通性から解釈されたものがあれば、是非お教え下さい。

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お岩Uです 投稿者:S・K 投稿日:12月13日(水)02時05分9秒

 ちょっと一杯の季節になりました。亀レスで恐縮です。

>概念は何であれ関数とみなすことができます。

 アメリカ、並びにアメリカ国民が葉巻型UFOの使い手に祝福されんことを!

>この他に概念(関数)の命題化には、量化があります。

 概念を量によって記述することが可能だとしても、必要条件としてまず概念の集合の要素を特定し、十分条件としてその量を推定(=推量)しなければなりません。原子爆弾がNT火薬量に容易に換算できるのも、爆発する部分の集合の要素が決定され、その量を推量できるからに他なりません(もちろん原子爆弾の場合、命題が先立っていたのですが)。

 例えば「プラグマティズム」という概念を例にとって、まずその集合の要素を特定してみてください。(化学の世界では、元素のHが3つあるか4つあるかで毒性の有無が左右されたりしますが、それは大目に見て)集合の要素が概ね一致しなければ、つまりそれがプラグマティズムか否かを判別できなければ、xもyも量化もへったくれもありません。

 私の仏教研究によれば、証明不可能な概念について言及する際には、「不可量、不可説にして…」と断りをいれるのが礼儀というか、作法となっている傾向があるように思います。「カントの発見」も東洋では二千年、あるいはそれ以前からの常識であります。

 プラグマティズムという概念に私は随分と頭を悩まされました。しかし創始者であるパースにしてからが、当初自分が想定した趣旨から外れてこの用語が使用され始めたため、後に「プラグマティ<シ>ズム」という新たな用語を創作したと言います。
 すべからく、これはプラグマティズムという名で括られた集合の要素が、比較的自由に入れ替わることの証左に他ならないでしょう。いわんや量化など「不可思、不可議」です。

 論理学入門の「はじめに」によれば、フランスを中心とした欧州の、人を煙に巻くような大言壮語の哲学がアメリカで批判され始めたそうで、私は胸の透く思いをしました。しかしながら、古来の仏教的な慎重さと謙虚さから見れば、そのアメリカの現代哲学でさえ、まだまだ人を煙に巻くような啖呵的、賭博師的なものでありましょう。
 命を宿す地球という惑星を賭博場のようにしてしまった現代文明にあっては、寒々しい限りです。三浦さんのような方の活躍に期待するばかりですが、その書を悪用したり、田中さんを辻斬りしたり、けしからんことです。お岩にたたられますよ。

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Re:たびたび失礼します 投稿者:にゅ 投稿日:12月12日(火)09時11分27秒

地力に任せ、勘で勝負。
結果主義、即物的で家族的。

天賦の才に頼りすぎだったんだよ。

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たびたび失礼します 投稿者:メタ 投稿日:12月10日(日)14時57分7秒

「太陽」は「恒星である」→「恒星」は「自ら発光する天体」→「発光する」(話をわかりやすくするため「熱」「放射」「天体」等のその他の恒星についての概念は保留にして とりあえず「発光する」だけを取り上げます)とは「光を出すこと」。
ムムム まてよ 「発光する」と「光を出すこと」は同じ階層に位置する言葉だから これ以上分割出来ませんか?
この辺の事柄を理解するためには、クワインのホーリズム等を勉強した方がよいのでしょうか?

素人なので的外れなことを言ってたらスイマセン。

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>概念と定義 3 投稿者:ハム 投稿日:12月10日(日)13時03分38秒

>−−ラッセルの記述理論、あるいはカントの超越論的論理学で、例えば「神」という概念を命題化するとどうなるのでしょう?>−−

記述理論によって、「神」の記述が唯一に定まる、ということではありません。
「神」という概念を想起した人の想起内容を明確に記述できる、ということです。

例えば、唯一の「神」であれば、
∃x(Gx∧∀y(Gy⊃x=y)) G:神

八百万の「神」であれば、
∃x(Gx) G:神

といった具合です。
もちろん、他に書き方はいろいろあります。

記述理論は外国語と一緒で、自由に表現できるようになるには訓練が必要です。
私は、記述理論検定3級といったところです。

メタさん

>・・・という概念(関数)があり、無限に連鎖が続くということですか?

そうではなくて、概念を命題化できる、という説明です。

おっしゃるような無限連鎖云々ということについては、概念を表現したときのあいまいさが原因ですから、記述理論によって明確に表現すれば無限連鎖することは防げるはずです。

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横から口出してスイマセン 投稿者:メタ 投稿日:12月10日(日)12時11分10秒

>太陽を関数Sとします。これは概念の関数化です。
>次に変項に「大洋ホエールズである」を代入します。
>これが命題化です。
>S(大洋ホエールズである)=偽
>もちろん、S(恒星である)=真、です。
「太陽」「地球」などの単語には、「恒星である」「惑星である」という概念(関数)が含まれてますが、「恒星」「惑星」も「光や熱などを放射して自ら発光する天体」「自らは発光しない天体」という概念(関数)があり、無限に連鎖が続くということですか?

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勝手な独断論 vs 客観的妥当性を有する論理 投稿者:Σ 投稿日:12月10日(日)11時17分50秒

ハムさまへ

お岩さんのリンク切れ、残念です(笑)

S・Kさまへ

>−−ラッセルの記述理論、あるいはカントの超越論的論理学で、例えば「神」という概念を命題化するとどうなるのでしょう?>−−

カントの思想を斟酌して「神」概念を命題化するならば、

神とは、(現象の起因基体としての)物自体(=直接認識不能な対象それ自体)を創造・維持・破壊消滅させる能力を持つ超越的主体、として、(我々に)思念されるもの、

とでもなりましょうか(笑)。

さて、このように、「神概念を命題化できた」としても、形而上学的な概念に関しては、その真偽を判定することができない、ということが根本的な問題点なのですね!
  (ああ、これが真である、と判定できれば、全く、宗教家の私に何の苦労がありましょうや!)

これにつき、カントは、「それら(形而上学的な概念)」については、無理やり「論理思考で真偽判別しようとしても無駄である」ことを、なぜなら、その試みは必ずアンチノミーに陥るのであることを、ゆえに、ここにこそ「純粋な理性」活動における本質的・本有的な「限界」が有るのである、ということを、彼は「発見」したのです。

この発見は、「人間分析」における、人類史的な画期的発見でありました。
そして、(洋の東西を問わず)人類の哲学史においても圧倒的に画期的な発見でありました。
中世キリスト教世界での「この衝撃」は大変なもので、「神の存在証明の不可能性」として、爾来、明確に位置づけられることになります。

(にも拘らず、日本仏教界においては、今まさに現代においてすら、石飛一派などが格好事例ですが彼らの如く、カントのこうした画期的業績に無知な人々が、相も変わらず、カント以前のスタンスで、仏教を形而上学的な「独断論のまどろみ」の中で論じているから、全く以て、呆れ果てているのですが!)

カントはこのように、「純粋理性」の活動がしばしば陥るところの「越権的な暴走をするケースと傾向」を「批判」して、「純粋理性」が如何にして客観的妥当性の範囲内で思念活動することができるか、また、それを担保するにはどうしたらよいか、を真摯に考究したのです。

そうして「発見」されたのが、カントによる「12項目のカテゴリー表」であり、現代論理学は、この、カントの「12項目のカテゴリー表」にこそ、その発祥と基盤を得て、現在の「分析哲学(科学哲学)」に到るのだ、と言えると思います。
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>概念と定義 2 投稿者:ハム 投稿日:12月 9日(土)23時17分0秒

>概念が持つ内包を命題化できない、できても真偽が問えないから、概念のままであるのでしょう。

概念は何であれ関数とみなすことができます。
述語が関数になるのはいいと思うのですが、主語も関数になります。

太陽を関数Sとします。これは概念の関数化です。
次に変項に「大洋ホエールズである」を代入します。
これが命題化です
。 S(大洋ホエールズである)=偽
もちろん、S(恒星である)=真、です。

この他に概念(関数)の命題化には、量化があります。
先に挙がった「現在のフランスの王様」を「あるxがあって、そのxは現在のフランスの王様であり、すべてのyについて、もしyが現在のフランスの王様ならば、yはxと同一である。」と分析するのが量化です。
具体的には、「ある・・があって」、「すべての・・について」というのが量化のための量化子です。

真偽が問えない概念(関数)も上記のように命題化し、真偽を問うことができます。

「論理学がわかる辞典」(三浦俊彦著)参照

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カントの「コペルニクス的転回」とは 投稿者:Σ 投稿日:12月 9日(土)18時29分12秒

カントの「コペルニクス的転回」とは次のようなものです。(カントの言葉より)
(1)「これまで人は、我々のすべての認識は対象に従わなければならないと想定した。」
  −−この方法だとすべての哲学は失敗に帰しているので、次の方法をカントは提案します。
(2)「対象が我々の認識に従わなければならないと想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを一度試してみてはどうだろう。」

つまり、「認識」とは、我々が脳内で合成加工することで創造的に構築・構成される「関連付けられ意味付けされた諸データの関係性」だと考えるのです。大雑把にたとえるならば、松本清張の「点と線」のようなものです。
その脳内構築作用が、恣意的に勝手気ままの主観として暴走するに任せたなら、お馬鹿な認識が構築され、客観的な外的世界との齟齬が生じます。
たとえば、「太陽」と聞いて、「大洋ホエールズ」を即座に思い浮かべる元渋谷ギャルがいたとします(←いるかナ?)。
この場合、「太陽」概念は、この元パラパラギャルにおいて、完全に錯誤されています。
このことは、−−−「太陽」という指示記号により「大洋ホエールズ」が思念されている−−という形で、その錯誤性を論じることができます。
 そこで、そうした主観の恣意性に左右されない「客観的妥当性」を有した「主観的認識構築」は如何にして可能か?  が問題になります。
  そして、この問題は、ウィトなどの「論理写像」問題に関連する主題です。(ウィトは哲学史勉強嫌いのカント知らずで大損をしているように思います。)

さて、カントにおいては、「物自体」と「現象」を峻別しました。
主観的認識の対象となるのは、「現象」に過ぎない、と。
なぜなら、五感という限られた枠組み(たとえば、人間の聴覚も視覚も、感知できない高波長の超音波や赤外線・紫外線などには反応しない)の窓口から感知できる「限定的な(ある意味で歪んでバイアスがかかった)センス・データ」しか取り込めないからです。
ゆえに、「対象それ自体」は直接認識不可能だ、と。
如何なる努力と工夫をしても、「対象それ自体」の直接認識は五感では不可能であるとすると、我々が「観測」しているものは、「現象」という、偏向を必然的に内包した(選択効果を必然的に随伴した)センス・データに過ぎない(はずである)、と。

ゆえに、カントにおいては、「太陽それ自体」と、「太陽概念」は、全くの別物として峻別されます。
命題云々と論じることができるのは、後者ということになります。

人間が絶滅したり、概念構築する知性体(宇宙人など)が絶滅したと仮定すると、
「太陽概念」は消滅しますが、「太陽それ自体」が、それに随伴して消滅する、とすべき必然性は全く存在しない、ということになります。
この点で、カントは、純粋な観念論者では決してありません。経験論的実在論を並立的に彼の現象概念の中に「半ば」内包している(現象の発生原因として)、といえます。

但し、現代の量子論からすると、「観測作用による収縮現象」を肯定する場合、観測作用が絶無の時には、「存在は不確定性の曖昧状態にとどまる」、という解釈もあります。尤も、その不確定性は、「不在」とは全く異なる状態と解されるので、これは不確定性の実在論といえましょう。

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可能な限り物事を厳密に捉えるには 投稿者:メタ 投稿日:12月 9日(土)15時27分59秒

「論理実証主義」は、哲学の科学化を標榜し 言語によって物事を厳密に捉えようとしました。
その方法として 命題を有意味なモノと無意味なモノに分類して、検証可能な命題のみを有意味な命題として その真偽を問いました。
例えば
1、ミレーの絵画は美しい。
2、地球の公転周期は365.25636日である。
3、木星は太陽系第5惑星である。
4、ウィトゲンシュタインは髭を生やしてない。
という4つの命題があります。
一見、1だけが個人の主観に関わる問題で検証不可能なため無意味な命題で、2〜4は有意味な命題に思われます(話を単純にするため「全ての人間は死ぬ」等の全称命題を避け 特称命題を例に挙げました)。
しかし、2〜4の命題も それぞれ若干性質は異なれど究極的には検証不可能な命題に思われます。
2は、1日が24時間という定義のもとで成立する事柄であり、もしも今後 「1日を12時間としよう」という風になったら 地球の公転周期は約730日になります。
3は、火星と木星の間に新惑星が発見されれば 木星は第6惑星になります。
4は、ほんの少しでも髭剃り跡があったり、肉眼では確認できない産毛程度でも髭と認識するかによって捉え方が異なると思います。
論理実証主義は、その後カルナップ、クワイン等が欠点を補充しながら継承していき「分析哲学」と呼ばれるようになりましたが(カルナッフとクワインを同列に捉えたり、論理実証主義の進化形を分析哲学とするところには批判もあると思いますが、その辺はあまり詳しくないので便宜的に述べてます)、言語を通して物事を厳密に把握するには限界があり 完全に曖昧さを払拭するのは不可能であると思います。

それでも 自分は この世界を出来る限り正確に(近似的)認識したいと思っております。

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(無題) 投稿者:一読者として 投稿日:12月 9日(土)00時29分20秒

Σ さん

カントには詳しくないのでお教えいただきたいのですが、
「=」を意味(内包)が同じということにすると、

太陽=我々人間が住む惑星である地球が公転軌道するその公転軌道の中心としての恒星

ということなんでしょうか、それとも

太陽=「我々人間が住む惑星である地球が公転軌道するその公転軌道の中心としての恒星」が、それを指示する当該記号の名称によって(今まさに)思念されている

ということなんでしょうか。

前者だと、「太陽は公転軌道の中心ではない」という反実仮想が矛盾になるので(「公転軌道の中心が公転軌道の中心ではない」)不可能ということになりませんか。また後者だと、たとえば人類滅亡後の「誰にも考えられていない太陽」というのが不可能になりませんか。

ここで「メタ論理的記述」というのを出されてますが、何のために出されたのかよく分からないのです。概念だけではなく事物(概念でも後でもなく、公転軌道中心にあるあのガスの塊)も記述すれば文になりますし、ともかく記述すれば何でも文になりますよね。文を使って記述すれば文になる、というのは論点先取なのではないかと思いました。

もともとの議論はメタではない一階のレベルで文か概念かって話ではなかったのでしょうか。私の誤解でしたらすいません。

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>「太陽」概念の統覚による認識 投稿者:ハム 投稿日:12月 9日(土)00時08分10秒

>というわけで、「文」でない概念など、「無い」のではないでしょうか?

ようするにつまるところ、概念も文だと?

そして、だから、思考単位は文だと?

ものすごく思弁的な感じがします。
それは概念と文の概念をあいまいにしてしまいます。(ん? 概念と文の概念、って概念or文?)

今までの議論は、文と概念を峻別して論じてきたはずです。

問題は概念の意味なのだと思います。
「太陽」といったとき、Σさんのいう意味の他に、「彼女は太陽だ」というときの「太陽」もありますし、
「太陽(株)」の「太陽」もあるでしょう。
それらの違いを明確に記述するのが、ラッセルの記述理論なのだと思います。

つまり概念に関する意味論的かつ語用論的な考察をあいまいにしないで明記すれば、やれ文だ概念だという不毛な論争に決着がつくでしょう、っと。
まあ、そういうことなのだと思います。

いずれにしろ、やれ文だ概念だという不毛な思弁は、哲学専門の古本屋のカビ臭い赤茶びた思弁だと思います。

>お岩さんのスライドショー、見たいです(笑)。

私も皆さんにお見せしようと思って確認したら、すでにリンクが切られていました。 残念です。

S・Kさん
>その本は読みましたが、・・・

明日、私の記憶を確認して投稿できると思います。

※すいません、今日も脳みそアルコール漬けなので、 ←って、だったら書き込むな。

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お岩です 投稿者:S・K 投稿日:12月 8日(金)23時18分17秒

>ラッセルの記述理論で命題化できるでしょう。

その本は読みましたが、私、頭が悪い上に論理学は初学者みたいなもので…

ラッセルの記述理論、あるいはカントの超越論的論理学で、例えば「神」という概念を命題化するとどうなるのでしょう?

あるいは「神」だけでは概念になり得ないのでしょうか。

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「太陽」概念の統覚による認識 投稿者:Σ 投稿日:12月 8日(金)22時01分30秒

■「太陽」という概念それ自体は(文・命題ではないので)真でも偽でもない、という主張に対して。

(1)カントの超越論的論理学(メタ論理学)の立場からすると、「主観の客観的妥当性」が問題になります。「太陽」というのは、個人の曖昧模糊で不確かでいい加減な主観概念ではなく、万人に通用する「客観概念」であるので、次のように解釈規定され得ます。

すなわち、

 「我々人間が住む惑星である地球が公転軌道するその公転軌道の中心としての恒星」が、それを指示する当該記号の名称によって(今まさに)思念されている、と。

 −−これが「太陽」に関する一つのメタ論理学的な記述です。そして、これは「文」であり命題になっていますし、真偽を問うことができ、この文は、「真」と評価されます。

以上、以前投稿した以下のものの敷衍形として書き込みしてみました。

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超越論的統覚 投稿者:Σ 投稿日:12月 2日(土)15時45分3秒

「単独の概念は、文ではない」

カント曰く−−−どのような単独の概念であっても、必ず、「I think that・・(当該概念)」(私は・・・と考える)、という意識が随伴する。

また(もや)、メタ・レベルの話をしてしまいましたが・・・(笑)

因みに、ハムさまへ、是非、お岩さんのスライドショー、見たいです(笑)。

というわけで、「文」でない概念など、「無い」のではないでしょうか?

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>概念と定義 投稿者:ハム 投稿日:12月 8日(金)09時36分12秒

>概念が持つ内包を命題化できない、できても真偽が問えないから、概念のままであるのでしょう。

ラッセルの記述理論で命題化できるでしょう。

お願いですから、「ラッセルのパラドクス」(三浦俊彦著)ぐらい読んでください。

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概念と定義 投稿者:S・K 投稿日:12月 7日(木)23時50分0秒

 どんな定義も文ではあるでしょうが、問題は命題と呼べる定義か否かでしょう。概念が持つ内包を命題化できない、できても真偽が問えないから、概念のままであるのでしょう。
 スピノーザの定義のように、概念名そのものを主語にとった定義なんて、概念の内包を命題化したとは、とても言えないのではないでしょうか。ちょっとおませな小学6年生の屁理屈みたいですよ。

 葉巻型UFOが神であるという定義づけは無理でも、スピノーザのやり方を使えば、神を「葉巻型UFOの使い手」であるという定義づけは可能なように思いますが。

 「ユビキタスは…を実現し、…」みたいな言語明瞭・意味不明な文が日常には溢れていて、私は仕事がら疲れてしまうことが少なくありません。
 
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西洋思想のバック・グラウンド「神概念」 投稿者:Σ 投稿日:12月 7日(木)21時23分35秒

S・K様のご指摘を受けて、以下、ご参考までに2点ほど。

(1)日本人とユダヤ人の類似点を列挙した本があります。本当に、他の民族でこれほどの類似点を持っている民族はいないことがこの本を読めば納得できるのではないか、と思います。
  後日、書棚をひっくり返して書名をお伝えしましょう。

(2)>>−−−ところが、これが「神」となると思考のフレームさえあやふやになって、概念としか言いようがなくなります。明晰な思考単位になり得ないから神とは何かを問う人がいるのでしょう。(・・・)主語が命題関数化した言明とは言えても、明晰な思考・言明であるとは言えないからです。シミュレーション・アーギュメントによれば、ゴッドが葉巻型UFOである可能性もある訳ですし。>>−−−

  スピノーザは『エチカ』の冒頭において、「神」の概念を定義しています。
しかし、「神の概念定義」は、「定義6」にはじめて「神とは・・」と登場します。
なぜなら、「神とは・・」とその定義に使用する用語概念を、まずもって定義しておく必要があるからです。それをした上でその用語を使用して、神概念を定義します。

  (定義6)神とは、絶対に無限なる実有、言い換えれば、おのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。

 「無限」「属性」「実体」という用語が定義されないと、上記の定義も意味不明となります。

(定義3)「実体」とは、それ自信のうちにあり、かつそれ自信によって考えられるもの、言い換えれば、概念を形成するのに、他のものの概念を必要としないもの、と解する。
(定義4)「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
(定義2)同じ本性の他のものによって「限定」されうるものは、「自己の類において有限である」と言われる。
(定義1)自己原因とは、その本質が存在を含むもの、或いは、その本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。

−−−−−−
ゆえに、神を葉巻型UFOである可能性を考えるためには、それなりに「筋が通っていそうな、まともな」神概念の構築から始める必要があります。しかし、それは簡単ではないでしょう。そしてそれができない場合、上記のような伝統的な神概念から出発するのが常識的作法といえるでしょう。
そして、その場合、神が葉巻型UFOでありえる可能性は皆無と論理的にいえます。

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議論を蒸し返すようで恐縮ですが 投稿者:S・K 投稿日:12月 7日(木)01時51分11秒

 昨日6日、テレビ東京が「みのもんたの歴史ミステリースペシャル」を放映しておりました。テレ朝の20年前、日テレの30年前のような番組構成で、小学校で歴史を学び始めた頃に読んだ「小学6年生」の記事を思い出しました。
 ジンギスカン義経説はなかったようですが、出てましたねー「日本のルーツは古代イスラエル?秘密組織直撃&ソーラン節の謎」。ニュースを見ながら、ちらっちらっと見たのですが、ソーラン節の謎を見逃しました。残念。人類ユダヤ人化計画でもあるのでしょうか。

 さて、明晰な思考単位になり得ないから概念と言うのではないでしょうか? もちろん概念と、理論や公理や集合を明確に峻別することは困難だと思いますが、理論名、公理名、集合名となり得ないものは観念、または中性的に概念と言わざるを得ないでしょう。
 下記は「論理学入門」のP19の記述ですが、「太陽」「恒星」「円周率」「実数」のうち太陽は確定的な記述とも言えますが、それ以外は概念でしょう。しかしながら、概念であると同時に公理化した専門用語でもあります。

 ところが、これが「神」となると思考のフレームさえあやふやになって、概念としか言いようがなくなります。明晰な思考単位になり得ないから神とは何かを問う人がいるのでしょう。また概念の本質を曖昧にしたままの概念を含む言明に、我々はしばしば煙に巻かれます。
 大勢の支持者の前で、ゴッド・ブレス…と叫ぶヒラリー・クリントンは、つまるところ妄信的キリスト教原理主義者と変わりません。主語が命題関数化した言明とは言えても、明晰な思考・言明であるとは言えないからです。シミュレーション・アーギュメントによれば、ゴッドが葉巻型UFOである可能性もある訳ですし。

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『命題は、真か偽であるという性質を持つ。逆に、命題以外のものは真にも偽にもなれない。(太陽や富士山や恐竜や円周率は真でも偽でもない。「太陽は恒星である」「円周率は実数である」のように何事かの主張に使える形をした命題のみが真か偽でありうる。)ときには、相対性理論や進化論のように、命題の集合体である「理論」も真とか偽とか言われることがあるが、それは理論の趣旨を構成する諸々の命題の真、偽を転用した言い方でる。』

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Re:人間原理のパラドクス 投稿者:φ 投稿日:12月 6日(水)19時14分58秒

 人間の固有名詞が、人間原理では「この宇宙」という指示句にあたります。

 次の次の回(連載第4回)において、8つのテーマの同型関係を明らかにする予定です。
「多手品説によるタネ明かし」(11月号、第1回に提示)
「多予言説による予知能力否定」(第1回に提示)
「多発問の指摘による一発問(超難問)批判」(第2回に提示)
「多宇宙説によるファインチューニングの説明」(第2、3回に提示)
「遺伝的多様性による適応進化の説明」
「多惑星説による生命発生の説明」
「生命の発生した多惑星による文明惑星の説明」
「多精子による受精(私の誕生)の説明」(私の誕生の確率は、「終末論法」へ繋がる)

 まだ思わせぶりですみませんが。乞御期待。
 
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人間原理のパラドクス 投稿者:ハム 投稿日:12月 6日(水)13時23分13秒

「現代思想 12月号」より

「私はなぜ他の誰でもなく、○○なのか?」(○○:自分の名)

語用論的独立性の要請:問いがデータから独立していない。

全体的証拠の同定:固有名詞をこの問いの誘発に不可欠のデータとすることは、全体的証拠の同定を不可能にする。

まてよ、人間原理はどうなるの? だからパラドクス? という疑問がわいてきますが次回以降で説明されるのだと思います。
たぶん。

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差異性の前提としての「基体」 投稿者:Σ 投稿日:12月 5日(火)21時52分50秒

田中先生へ

議論も一段落のようですので、ペンディングの以下の点につき、再掲します。

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「共通のプラットホーム」 投稿者:Σ 投稿日:11月26日(日)22時56分21秒

>>−−空間、時間、温度、色その他多数の性質を究極まで考慮に入れる、ならば、まったく同じ現象、同じ存在物は二つとない。事物の最小構成単位にいたるまですべて個性的であり、独自の法則をもつ。>>−−

田中先生の考察に対して僣越ながら一言申し述べさせて頂きます。
スピノーザは、「一切共通項がない二者を比較することはそもそもできない」と述べました。ヘーゲルはこの主張を受けて、彼の論理学を作りました。

田中先生が仰る、「事物の最小単位に到るまですべて個性的」とは、個性的という、他との差異を見いだしての「個性」「独自性」のはずです。
しかし、ヘーゲルの反省論理学によれば、たとえば、人間の男女の差異は、男女に分岐した部分を除いた「人間としての共通のプラットホーム」があって、そこに、男性/女性という分岐的な枝葉的な差異がある、とみます。
これが、ヘーゲルが述べるところの、「差異における同一性」です。

田中先生が「事物の最小単位に到るまで個性としての差異がある」と叙述した時点で、この命題には、「差異における同一性」としての比較のための「共通プラットホーム」が想定されていなければなりません。

以上の点につき、田中先生の論理学的ご見解をお伺いできれば幸いです。

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>  そもそも「記述」については私の「解釈」ではなくて、ラッセルの論文(原典)の要点をそのまま引き写してるだけなのですから、争ったり、余計な解釈(特に理論に寄与しない解釈)をすることはナンセンスです。

なんだかなぁ。ある人がそう語っているってことだけなのですか…(何となく拍子抜け)。

> ラクシュンさまが正当にご指摘されるように、「現代フランス王」という概念を主語にする、ということではなくて、命題関数という「文」(日常の意味の)ではxを主語にして概念を性質としてそれを述語として理解するのです。

誤解のないように言っておきますけど、私が言っているのは、確定記述の分析を真と仮定すれば、という意味ですからね。
#何処となくグンモウゾウヲナデルみたいなぁ。(^^;

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で、命題関数は文ではないのは分かりましたか?

これが分からないようであれば、議論は先に進みませんので、これで打ち切りとさせていただきます。

これは希望ですが、このφ研究室(この掲示板)に出入りするのであれば、最低限φ様の著作は読んでください。
そしてここでの話題はなるべくφ様に関する話題を選び、他の投稿者の話題を尊重してください。

最後に、議論に関係のない個人の人格を卑しめるような発言は控えてください。

以上です。

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 論理学の専門用語としての論理式の「解釈」をご存知ですか?

 「文」というのは専門用語でもあるのです。これは常識です。
 そして、現代論理で真偽が問えるのは、専門用語としての「文」(閉式)のみです。

 一読者さまが、おっしゃってることも正しくて、それは正当な理解です。

 記述理論が現代のフランス王の「本質」を解明した、という理解は、勉強したうえでの間違った理解ではなくて(勉強したうえでの間違いは、気づけば有益です)、勉強せずにあてずっぽを言ってるだけなのは明白でしょう。

 ハムさんの今までの発言がほぼ全部まとはずれ、(e.g.「記述」と哲学用語としての「本質」、「概念」の関係の理解、等々)なのは、論理学や哲学について多少知ってる人なら、振りかえって読めば明白だと思います。

 ラッセルの『西洋哲学史』を何回か読んで、特にアリストテレスの項目を読む(十回くらい)のがよいでしょう。

 昔の学生は大量・多様な本を読んだあと、哲学の本を一冊決めて、20回くらい読んだものでした。
 
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関数 投稿者:ハム 投稿日:12月 3日(日)16時11分36秒

まだダメなようですね。

>命題関数の解釈は専門用語ではなく日本語(のみならず英語でも)の文法では、概念ないしは語ではなくて、「文」です。

いいですか?
命題関数は文ではありません。

述語なのです。
「論理学がわかる辞典」(三浦俊彦著)のp.157にこう書いてあります。
「命題関数とは、主語(しばしば複数の)を決定すると、値が真偽どちらかに定まる関数、ということになります。つまり、述語のことなのです。」

やれ、文だ概念だというお話がお好きなようですが、現代では「関数」ですよ。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:12月 3日(日)10時54分12秒

 そもそも「記述」については私の「解釈」ではなくて、ラッセルの論文(原典)の要点をそのまま引き写してるだけなのですから、争ったり、余計な解釈(特に理論に寄与しない解釈)をすることはナンセンスです。

 面倒なのでいちいち言わなかったのですが、論理学の「専門用語」としての「文」は閉式のみを指します。
 命題関数の解釈は専門用語ではなく日本語(のみならず英語でも)の文法では、概念ないしは語ではなくて、「文」です。
 この文において概念は主語にすら絶対になりません。

 >>そのxは現在のフランスの王様であり>>
 これが命題関数なのです。そして文法の分類としては文です。概念ないしは語でなく。

 >>「現代フランス王」を主語とする解釈は間違っているということになりますね。

 ラクシュンさまが正当にご指摘されるように、「現代フランス王」という概念を主語にする、ということではなくて、命題関数という「文」(日常の意味の)ではxを主語にして概念を性質としてそれを述語として理解するのです。

 伝統的論理学は「概念(語)そのもの」を基礎にして、推理しました。

 整理すれば、
 現代論理では「専門用語」としての「文」は閉式のみをいう。
 計算単位はすべて(論理主義の数学も)日常の意味での「文」である。
 
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フランスの王様 投稿者:ハム 投稿日:12月 3日(日)01時43分53秒
 
ラッセルのころ流行っていたマイノング主義によると、存在というのは性質だったようです。
この世にあるもののうちで少数が存在という性質を持っている、という考え方です。
この主義だと「現在のフランスの王様」は存在という性質を持たないで、ただ「ある」ものだということになります。

この主義からいうと、「現在のフランスの王様はハゲである」は真偽判定が不能になりますね。
「現在のフランスの王様」が存在しないでただ「ある」ものならば、それがハゲかどうか判断のしようがありません。

この問題をラッセルの記述理論が解決します。
ラッセルによると、「現在のフランスの王様」は「あるxがあって、そのxは現在のフランスの王様であり、すべてのyについて、もしyが現在のフランスの王様ならば、yはxと同一である。」と記述されます。
このxとyに存在するものの何を代入しても「そのxは現在のフランスの王様であり」は偽になります。

「現在のフランスの王様」という言葉には、「存在」と「唯一」が含まれているという分析です。

「ラッセルのパラドクス」(三浦俊彦著)によると、下記の点で画期的な進歩が遂げられたと書いてあります。
1.否定概念の統一的理解
2.文構造の詳細な分析方法の提示
3.副詞句一般の作用を体系的に捉えられるようになった
4.純粋に論理学から生まれた分析が、「存在の問題」に新発見をもたらしうる実例

私も、4.には大変に興味を持っています。

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無題 投稿者:ラクシュン 投稿日:12月 3日(日)00時26分4秒

>φ⊂B
は真ですが、「現代フランス王であり、しかもハゲだ」という対象が存在しないので、 x∈φ かつ x∈B
は偽だ、ということになりましょう。こう考えると整合的だと思えるのですが、いかがでしょうか。

『論理学をつくる』で確かめてみましたがだいたいそんな感じのようですね。
しかしそうすると、「現代フランス王」を主語とする解釈は間違っているということになりますね。
って自分で書いたことですが、あまり興味はありません。
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(無題) 投稿者:一読者として 投稿日:12月 2日(土)22時39分21秒

ラクシュンさんが疑問を次のように理解しました。

「Xは現代フランス王だ」を満たす対象は存在しない:φ(空集合)
「Xはハゲだ」を満たす集合:B

このとき、空集合は任意の集合の部分集合なので、次が成り立つ。
 φ⊂B
これが「現在フランス王はハゲだ」と解釈できるのではないか、という疑問として理解しました。

ところで「aはFである」というのは普通は
a∈F
(対象aはFであるような対象の集合に属する)
となりますが、一方、⊂の方は対象-性質ではなくむしろ概念-概念、性質-性質間の関係ですね。「人間は哺乳類である」のように。

田中氏(およびラッセル)の記述理論の要点は、「現代フランス王はハゲだ」の「現代フランス王」は、対象の名前ではなく述語だ、という点にあるかと思いました。この場合「現代フランス王」の集合は空集合であり、「ハゲ」の集合に含まれるので
φ⊂B
は真ですが、「現代フランス王であり、しかもハゲだ」という対象が存在しないので、
x∈φ かつ x∈B
は偽だ、ということになりましょう。こう考えると整合的だと思えるのですが、いかがでしょうか。
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ところで 投稿者:ラクシュン 投稿日:12月 2日(土)21時35分5秒

>ラッセルは
「現在のフランスの王様はハゲである」という文において、(確定記述を使って)「現在のフランスの王様」はいねえから、偽だ!といったのです。

個人的には、主語が空でも述語の部分集合として真という現代論理学の考え方との整合性がよく解りませんでした。

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超越論的統覚 投稿者:Σ 投稿日:12月 2日(土)15時45分3秒

「単独の概念は、文ではない」

カント曰く−−−どのような単独の概念であっても、必ず、「I think that・・(当該概念)」(私は・・・と考える)、という意識が随伴する。

また、メタ・レベルの話をしてしまいましたが・・・(笑)

因みに、ハムさまへ、是非、お岩さんのスライドショー、見たいです(笑)。

というわけで、「文」でない概念など、「無い」のではないでしょうか?

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本質 21 投稿者:ハム 投稿日:12月 2日(土)00時10分21秒

>ラッセルは
「現在のフランスの王様はハゲである」という文において、(確定記述を使って)「現在のフランスの王様」はいねえから、偽だ!といったのです。

た・な・か・さん

あれほど、わたくしめ、が、申し上げたところの正論に、ま〜だイチャモンつけるのですかぁ。

>なお、タルスキが明らかにしたように、
> 彼の「方法」は(厳密な公理の方法とか、定義の方法)は、「形式化された言語」にだけ適用できて、日常言語には適用できないことを念頭におくべきでしょう(日常言語の運用に役立つのは言うまでもないが)。

あのっすねぇ。
こう↓なのですよ。
>「自由変項を含む表現(一般に「開放文」と呼ばれる表現)は文と見なさないので、それに対するモデルにおける真理概念の定義も与えられていないことに注意されたい。」
(論理的帰結関係と真理概念 ── タルスキを基礎にした言語哲学的諸問題の研究 ── 橋本康二)

つ・ま・り・ 明晰な思考の最小単位はですね、文ではないってことなのですよ。

開放文なのです。
開放文は命題関数なのです。
で、開放文とは概念の関数化なのですよ。

つまり、明晰な思考の最小単位は、概念だったのです。 ね、いい加減、ご理解くださいな。

・・・ったく、斬っても斬っても、お出ましになる。
あなたは、四谷怪談の、お岩さんですか。

お岩さんは夏の風物詩なのですよ。

もう、冬です。  来年の夏までお控えください。

って、チョットすいません。
早めの忘年会だったんで、明日シラフになったら、正式に書き込めると思います。

(ちなみに、お岩さんのスライドショーって、すごいですよ。見ます?)

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無題 投稿者:ラクシュン 投稿日:12月 1日(金)22時11分0秒

法律が絡んでいたのでもしやと思ったのですが、やはり「田中」違いでしたか。

>よろしかったら、ご見解を「少しだけ」お聞かせ下さい。(場違いですが)

「場違い」もさることながら、まず質問の相手を間違っていると思います。何か書きたいのですが、生憎私にはそんな難しいことは解りません。(^^ゞ
(ちなみに私はあそこについては書き込み禁止状態)

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教育バウチャーについて 投稿者:田中 投稿日:12月 1日(金)21時22分39秒

http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/jimusyo/151NY/INDEX.HTM

教育バウチャーについては、上記をご参照して下さい。
以上は、新着順61番目から80番目までの記事です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:12月 1日(金)20時44分28秒

ラクシュンさま、
ご紹介の「ブログ」拝見したのですが、
 私はアメリカのアファーマティヴアクションに興味があるのですが(法律家・小市民として)(特に経済学的観点から)よろしかったら、ご見解を「少しだけ」お聞かせ下さい。(場違いですが)

 私は(特に)ゲイリー・ベッカーなどが主張してる、教育バウチャーがこの問題の最善の解決法であると常々考えている次第です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:12月 1日(金)20時38分0秒
 ラクシュンさま、「田中」違いです。

 ラッセルの記述の理論のほうへ、話の軸がいくのもいいのですが、

 認識の問題に答えてください。
 
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無題 投稿者:ラクシュン 投稿日:12月 1日(金)19時49分27秒

どーでもいいようなことですが、↓ブログの田中さんが気になります。
まさかねぇ…(^^;
http://macska.org/article/160#comments

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(無題) 投稿者:般若 投稿日:12月 1日(金)18時28分17秒

 一口にいうと、彼(ラッセル)の論理学は従来の伝統的な論理学が、無意識のうちにうけていた一面的な、文法的な彎曲と混乱とを組織的に否定し、一切の存在論や形而上学的解釈から解放された厳密な形式化と合理化とをもちうるように再編成されている。このような論理学は伝統的なアリストテレス=スコラ的な形式論理学と並んだ、一つの新しい論理学というようなものではなくて、伝統的な論理学の形式化の領域を含んで、さらにそれ以上の従来では結びつかなかったような新しい多くの領域をもおおうところの、より進んだ形式であるということに対して、現在ではもはや疑いをさしはさむ余地はない。
 ところで人間の物の考え方をよく分析してみると、われわれが全く自然に事物について考えていることが、実はわれわれの言語や論理を反映している、ということがわかる。たとえば、ある事物の本質は何かとか、その実体は何か、などと考えるとき、本質とか実体とよばれているものが恰も独立して存在しており、これをわれわれが把握するのだ、というようなイメージをもつだろう。このイメージは本質とか実体の存在を認める一つの存在論を前提としているのであるが、この存在論をさらに注意ぶかく分析してみると、われわれが日常いろいろな事がらについて語る文のなかでの主語−述語という区分の仕方に関係していることがわかる。ところで普通、われわれは主語はあるものを指し、述語はそのさされたものについて何かを言及する、というように考えているが、一体、主語が指すものはどのようなものだろうか。たとえば、「円い四角は存在しない」という文の主語は「円い四角」であるが、この主語が指すものが存在しているといえるだろうか。
 「現代のフランス王は利口である」という文では、現代フランスの王様は存在しないのだから、主語「現代のフランス王」は一体なにを指したらいいのだろうか。
 このような一連の問題の分析はラッセルの1905年の作文 "On Denoting" の主題になっており、これらの問題の解決のためには、従来文法的な主語と考えられていたものが論理的にはほんとうの主語ではなく、ほんとうの論理的な主語は命題関数Fxのなかの主語変項x、即ち「なにかあるもの」、「それ」、「これ」といったものであって、これを論理的主語として論理的に構成された表現が「円い四角」だとか「現在のフランス王」などという表現である。ラッセルの論理学のなかで有名な記述理論 theory of the definite descriptions はこのような文法的表現を論理的に構成するやり方を述べているのである。
 ラッセルの新しい論理学にもとづいた考え方で事物を見るときの考え方の基本的な型、あるいはラッセルの論理学に対応する存在論はいわゆる「論理的原子論」(logical atomism)であり、これは実体−偶性の区別の上に成り立つアリストテレスの存在論とことなり、xを主語として作られる最も単純な命題の表す事実を原子として、これから論理的に構成される多くの他の事実の世界をその対象としている。勿論、ラッセルの論理的原子論にはまだ不十分なところがあって、その後のより進んだ解釈をまつのであるが、ともかくも新しい論理学にもとづいた新しい存在論なり認識論、包括的にいえば新しい哲学を建設しようとしたラッセルは単なる論理学の専門家ではなくて哲学者であるといわなければならない。ただ彼の哲学が客観的な学としてより新しい進歩した論理学にもとづいている、というところにラッセルの思想の真の生命力と意義とがあると思われる。彼の思想は既成のイズムやイデオロギーで単純にわりきって理解さるべきものではないし、もしそのように理解されたとすればそれはラッセルの本当の考え方を理解していることにはならないだろう。たとえ最後の大まかな結論がいかに既成のイズムやイデオロギーと同じようなものであったとしても、そこに到達するまでの彼の思考の歩みは、彼の論理学的な思考にそってなされているのであり、この新しい論理的思考の発想法を理解しなくては、彼の真価を理解したことにはならないだろう。特に、人間が「何を考えたか」ではなくして、「如何に考えたか」が大切であるとすればなおさらのことである。ラッセルのより通俗的な論評、たとえば結婚論や幸福論や、或いは彼のキリスト教に対する態度やコミュニズムに対する態度、平和の理論などは彼の論理的思考からすべて直接に由来したものではないとしても、このような思考的態度の総括的な結論であったり、また要請であったりする場合があろう。論理というものは間接的であるかも知れないが、最も深い所で人間のあらゆる思考の方向を決定しているものだともいえよう。そしてラッセルの偉大さの最も根本的な側面の一つが、彼の論理学の領域における研究と、これを実際のより多くの問題についての思考のなかに生かしてきた彼の哲学的な包括力であるともいえるだろう。(了)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:12月 1日(金)17時23分19秒

  橋本という人が言うように解放文は文でない、というのはありでしょう。
 しかし、文の形式が(現代)論理学でも数学(論理主義において)でも計算単位です。

 タルスキの客観的真理論の功績は、主観的な真理観を排斥して、真理の対応理論(真理を客観的なものと、つまり諸理論の属性とみなす理論)を救ったことです。

 簡単にいえば、対象主語とメタ言語との区別がひとたびわかれば、言明と事実がいかに対応しうるか、を「理解」するのは、それほどむずかしくない、ということです。

 なお、タルスキが明らかにしたように、
 彼の「方法」は(厳密な公理の方法とか、定義の方法)は、「形式化された言語」にだけ適用できて、日常言語には適用できないことを念頭におくべきでしょう(日常言語の運用に役立つのは言うまでもないが)。
 
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(無題) 投稿者:田中 投稿日:12月 1日(金)16時44分45秒

 フランスの王様の本質なんて、ここでは問題になってないと言ってるでしょう。

 そもそもこの問題はアリストテレス的発想の対極で、語(概念)に対応する普遍者の存在を決め付けない、という点が重要なのです。

 そして、学問の要求から、いかなる状況・ものについても語れる「文章法」を試みたのです。

ラッセルが使用した例は

「現在のフランスの王様はハゲである」と「スコットは『ヴェイヴァリ』の著者である」

なのですが、そんなことは、どうでもいいことなんです。

 理解を促進するために対立意見にふれましょう。ストローソンという人(非常に論理的思考能力が高い人です)がですね、ラッセルとおお揉め(議論)して、大昔話題になったことです

(簡単に言うならば)ストローソンは

 明らかにフランスの王様なんて、いねえ、だから、フランスの王様について語るのは有意義だけど、偽と言うのはナンセンスだ!

ラッセルは
「現在のフランスの王様はハゲである」という文において、(確定記述を使って)「現在のフランスの王様」はいねえから、偽だ!といったのです。

 ― 哲学において、修正されねばならないのは語彙よりもむしろ文章法である。われわれが用い慣れている主語−述語の論理が便利なのは、地球上の普通の温度では、ほぼ恒常な「物」が存在するという事実によるのである。このことは、太陽のような高温の状態では真ではないであろうし、またわれわれの慣れている温度においてもほぼ正しいというにとどまるのである。
 
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(無題) 投稿者:通りすがり 投稿日:12月 1日(金)08時12分12秒

268 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2006/03/03(金) 18:05:25
>>
解離的近代の二層構造論 東浩紀

二層構造論は「非政治的」、というより、もっと積極的に「反政治的」である。・・・それは、この二層構造論の枠組みでは、「政治」そのものが、人間的欲望の層における現象のひとつとして相対化されてしまうからだ。・・・僕たちが関心を向けるべきなのは、そのようなうわさ話が上部構造でのシミュラークルに変えられてしまったあと、脱政治的=脱人称的な秩序形成がどのように進化するかだ。

もしかしたら「まつりごと」としての政治は残るのかもしれない。そして僕たちは相変わらず、政治家のスキャンダルや派閥争いを注視しているのかもしれない。しかしそれは、mixiで友人の日記を読み、ワイドショーで有名人のうわさ話に耳をそばだて、サッカーでナショナルチームの勝敗に一喜一憂するのとあまり変わらないレベルの現象になるだろう。というより、僕たちはそのような脱政治的な社会を目指すべきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう(間接民主制というのはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の積極的帰結のひとつである。

「戦争」「暴力」の問題はどうなんだ、という反論がありうるかもしれない。・・・これに対する僕の答えは、今後の社会秩序は友敵の区別を必要としない環境管理型権力によって維持されるはずで、それは実際にセキュリティの全面化というかたちで試みられている、というものである。・・・僕は、情報技術を駆使すれば、セキュリティの確保を友敵区別の再構築から引き離すことは、可能なのではないかと思う。というよりも、環境管理型権力の概念は、まさにそういうものとして考えられている。
<<

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とにかくですね 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月30日(木)22時27分11秒

人間は言語の外には立てないのですよ。そして意識の外にも立てません。これだけは絶対です。

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開放文 投稿者:ハム 投稿日:11月30日(木)17時58分46秒

>タルスキTarski・真理truth・充足satisfactionで検索してみてください。

検索してみました。

これらの↓問題も書いてありますね。
>「日本の首都は東京である」は真である ⇔

>「xは東京である」は真である ⇔

で、こう↓書いてありますよ。
「自由変項を含む表現(一般に「開放文」と呼ばれる表現)は文と見なさないので、それに対するモデルにおける真理概念の定義も与えられていないことに注意されたい。」
(論理的帰結関係と真理概念── タルスキを基礎にした言語哲学的諸問題の研究── 橋本康二)

はやりこれ↓は説明が必要ですね。

>開放文「・・・は王様だ」もタルスキの充足使えば真偽が定義できますよね。

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(無題) 投稿者:一読者として 投稿日:11月30日(木)17時32分39秒

タルスキの真理定義はラッセルの記述理論と並んで現代論理学ではもっとも基本的な成果じゃないですか。「メタ言語」とかって聞いたことないですか?ラッセルの「記述について」が入ってる勁草書房の基本論文集がありますが、あの第二巻にタルスキの論文も入ってますよ。

私より田中さんの方がお詳しいでしょうから下手な解説はやめておきます。googleでタルスキTarski・真理truth・充足satisfactionで検索してみてください。

ハムさん、論理の話と認識論の話区別してますか。真偽をどうやって判定するかなんて論理学の問題ではないでしょうに。

文(閉鎖文)の真を定義しましょう。「日本の首都は東京だ」という文はどういう場合に真になり、どういう場合に偽になりますか。つまり「⇔」を双条件法として、次の右辺には何が入りますか。

  「日本の首都は東京である」は真である ⇔

右辺で左辺、つまり文に対する真を定義するわけです。同様に、開放文の真を名前(対象)と述語(性質)によって定義するために導入されるのが充足です。

  「xは東京である」は真である ⇔

充足を使うと、開放文の真が(判定ではなく)定義できます。右辺がどうなるかは考えてみてください。

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>お願いします 投稿者:ハム 投稿日:11月30日(木)09時14分46秒

>開放文「・・・は王様だ」もタルスキの充足使えば真偽が定義できますよね。

これ、知りません。
開放文ですから自由変項を含む表現ですよ。
どうやって、真偽判定するのですか?
できれば、解説していただけるとありがたいのですが。

>お二人が「現代論理学」というので何を考えてらっしゃるのかはっきりさせた方がいいんじゃないですか。なんだかごちゃごちゃしているので。

申し訳ないです。 私の予想ですとあと少しで終わると思います。

立脚点の明確化ですが、歴史が立脚点になっています。

揚げ足取りについては、議論に矛盾がある証拠だと考えてください。

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お願いします 投稿者:一読者として 投稿日:11月30日(木)01時52分24秒

田中さんハムさん

開放文「・・・は王様だ」もタルスキの充足使えば真偽が定義できますよね。
述語論理とか考えれば、意味論的な最小単位は文ではなくて名前と述語でしょう。「名前aはこれこれの対象を指示する」って意味を与えて、述語Kは開放文なので充足で真偽を定義すればいいのでは。

お二人が「現代論理学」というので何を考えてらっしゃるのかはっきりさせた方がいいんじゃないですか。なんだかごちゃごちゃしているので。

念頭においているのが命題論理なのか一階の述語論理なのか、etc.etc...
命題論理が基本といっても、教育的な順序から言えば基本というだけで、理論としては述語論理の方が基本で、命題論理はその部分でしょう。

あと意味論の話をしているのか構文論の話をしているのか、それとも論理学の技術を使った言語哲学の話なのか。そろそろ整理しません?お互い揚げ足取りになってるようなので。

「揚げ足取りじゃない!!まず入門書を読め!!」とか言いたくなるでしょうがこの際それは括弧に入れて、とりあえずご自身の立脚点をはっきりさて下さいな。

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本質 20 追記2 投稿者:ハム 投稿日:11月30日(木)00時17分39秒

心配なのでちょっと解説します。

>なぜ、現代論理学が最小単位を文とするか、と言いますと、文でないとホントとかウソとか言えないからなのです。

現代論理学が最小単位を文としている、というのは間違いです。
例えば、Kを王様だとして、Kx と書いたときこれは文とはいえません。
開放文と呼びます。
入門書に書いてあることですのでお調べになるといいと思います。

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本質 20 追記 投稿者:ハム 投稿日:11月29日(水)23時50分32秒

>これは、そもそも、「フランスの王様」、という意味の式である、ということではない、のはご理解できますか?

>なぜ、現代論理学が最小単位を文とするか、と言いますと、文でないとホントとかウソとか言えないからなのです。

「フランスの王様」というラッセルが格闘した難問を例を出したことで、田中さんが誤解しそうなのでちょっと後悔しています。

田中さん、今は、例えば「フランスの王様」という概念を考察して本質にいたった例があるということだけに注目してください。

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本質 20 投稿者:ハム 投稿日:11月29日(水)22時31分53秒

>「フランスの王様」は言うまでもなく、概念です

ということは、先にあげたラッセルの「フランスの王様」に関する考察は、概念に関する考察になりますね。

つまり、「フランスの王様」という概念のみで明晰な思考になったわけですよね。
そして、「フランスの王様」という概念の本質にいたれたわけです。

>「フランスの王様」、 「ハゲ」 という概念のみでは明晰な思考にならない

などという古いお考えは改めたほうがいいと思いますよ。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)21時27分20秒

「フランスの王様」は言うまでもなく、概念です。

フランスの王様は文でないのは明白でしょう。

∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス人

これは、そもそも、「フランスの王様」、という意味の式である、ということではない、のはご理解できますか?

フランスの王様が存在する、という命題(文)です。

なぜ、現代論理学が最小単位を文とするか、と言いますと、文でないとホントとかウソとか言えないからなのです。

「フランスの王様」という概念に対しては、ホントとかウソとか言えません。
フランスの王様は存在する、という文なり命題にしてはじめて、そういうことが言えるのです。

現代論理は概念を関数の文に変化させて、計算単位を全部、文にするのです。

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本質 19 投稿者:ハム 投稿日:11月29日(水)19時36分56秒

>ハムさんが説例でご使用になられた
>∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス

>で、概念にあたるのは、K:王様、F:フランス です。

田中さんは、11月28日(火)09時00分52秒 の投稿でこう↓主張しましたね。

>「フランスの王様」、 「ハゲ」 という概念のみでは明晰な思考にならないのはご理解できますか?

こんどは、「フランスの王様」は概念ではなく文だと主張しますか?

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)18時36分6秒

 言うまでもなく、(念のため)「性質」については「集合」を基底として解釈・実践したほうがよいといえます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)18時02分31秒

 それから、ここで確定記述について話題になっていますが、これは仮説ではなくて、記述の方法であり(だから反証うんぬん言ってもナンセンスなのです)、私が言ってることは論理学に通じてる人が常識としていることです。

 少し気になるのですが、質問に答えないで、
 勉強しないで、論理学に関してでたらめばかり言ってるのに、誤りを認めないのはマナー違反です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)17時54分52秒

どうでもいいことですが、
ハムさんが説例でご使用になられた ∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス

F:フランスはフランス人でした。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)17時39分56秒

これは、日常言語で言えば、xはFなる性質もつものである
      ↓
これは、日常言語で言えば、xはFなる性質をもつものである

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)17時37分55秒

ハムさん、

>>ラッセルによると「フランスの王様」というのは下記のように分析されます。

∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス

「フランスの王様」という概念は上記のようにバラバラに分解されるのです。
(私はこれが、「フランスの王様」という概念の本質だと思っています。)>>

>>ラッセルにおいては(確定記述のような)概念を明晰な思考の最小構成単位としていますよね。>>

 してません。論理学を勉強してください、と言ってもしないのでしょうから、軽く説明します。

 ハムさんが説例でご使用になられた
∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス

で、概念にあたるのは、K:王様、F:フランス です。

 ここでの分析の単位はFxみたいなものです。

 王様とかフランスのように伝統的論理で概念とされたものを、現代論理では「性質」として捉えます。

 そして、Fxみたいなもののことを、普通「命題(文)関数」というのです。

 これは、日常言語で言えば、xはFなる性質もつものである、という関数文なのです。

 関数の文なのです。

 これを単位として命題論理の諸規則を使用して(一階)述語論理は計算するのです。

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本質 18 投稿者:ハム 投稿日:11月29日(水)12時12分40秒

ま〜だ理解できないのですか?

>ラッセルは意味があって、フランスの王様はいないから、これは本当でない(偽だ!!)といいたかったのです。

その程度しか読み取れませんか?

ラッセル以前では、「フランスの王様」のような確定記述に対して決定的な解釈がなかったのですよ。
それをラッセルが初めて決定的な解釈を明示したのです。
これは称えても称えきれないラッセルの功績です。

田中さんはこう↓いいましたね。
>明晰な思考の最小構成単位は概念(語)でないのはご理解できますよね?

ところが、ラッセルにおいては(確定記述のような)概念を明晰な思考の最小構成単位としていますよね。

つまり、田中さんのご主張は反証されたのですよ。

こんなことも理解できなければ、ここから先の議論など理解できるわけがありませんよね。

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ハムさんへの宿題 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)10時15分3秒

∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス

答えを言われてしまうと、学ぶ人は学べなくなる、ということがあります。

仮に私が教師である、とするならば、

ハムさんに対して、論理学の文脈で Fx  みたいなものは、何と呼ばれて、どのような機能をはたしているか、と言う点について、複数の文献を調べて、自分で理解する、

 ということを宿題としてこなすことを要求します。

 これは頭の良し悪しの問題である、ということではなくて、知的廉直性の問題です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)09時39分36秒

 ハムさん、
 論理学についてまず通説を暗記してください。

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通りすがりさまへ、ハムさまへ 投稿者:田中 投稿日:11月29日(水)09時37分10秒

 通りすがりさまへ、貴重な参考文献の情報ありがとうございます。

 批判的に検討させていただきます。

 >>思考を構成しているのが文(言語)なのか概念なのかというのも、盛んに論じられています。

 その点については十分に検討ずみですが、たとえ、概念のみで何かしら意味することができても、それはそれが使用される「状況」によるものです。

 たとえば、ここで私がハムさまに「論理学」!!!!!!と叫ぶ、ならば、私が言いたいことが何かは伝わる(ことを祈る)でしょう。
 ここでは、状況が概念を補完して、われわれは文(もしくは文類事物)として理解するのです。

「明晰な」!! 思考、思想等(問題提起、可説の提示等)の最小単位は文です。

 ハムさま、>>ラッセルによると「フランスの王様」というのは下記のように分析されます。

∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス

「フランスの王様」という概念は上記のようにバラバラに分解されるのです。
(私はこれが、「フランスの王様」という概念の本質だと思っています。)>>

 それで、何がいいたいのですか?

 勉強しないで直観でものを言うのやめなさい。
 フランスの王様の本質なんてここでは無関係なんですよ!!

 現在フランスの王様なるものは明らかにいない。
 いないものについて真偽を問えるか?という問題なんですよ!!

 対立する陣営は無意味だ!と言いました。
 ラッセルは意味があって、フランスの王様はいないから、これは本当でない(偽だ!!)といいたかったのです。

 これはどっちを採用するかはおかれた状況と、実利的な観点からきめるべきで、両陣営の見解をおぼえておしまいにすべきものなんですよ(反本質主義的訓戒=意味の問題に力み「過ぎず」事実の問題にとりかかれ)。

 これはわき道なのですよ!!
 哲学の問題に答えてください。

 ハムさん、

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田中様 投稿者:通りすがり 投稿日:11月29日(水)02時32分50秒

途中で失礼します。気になることがありましたので。

「フレーゲ以降の現代論理学がアリストテレス以来の伝統的論理学より決定的に優れている」という論理観は、言語哲学の方で80年代頃から盛んに再検討されています。下記の文献をご参照下さい。

飯田隆「現代論理学が伝統的論理学よりもすぐれていると考えるのはなぜだろうか」,藤田晋吾・丹治信春編,『言語・科学・人間』,朝倉書店,1990年.
Fred Sommers, The Logic of Natural Language, Oxford, Clarendon Press, 1982.

思考を構成しているのが文(言語)なのか概念なのかというのも、盛んに論じられています。以下をお読みになると「文が明確な思考の最小構成単位だ」ということはそれほど自明ではないことがよく分かります。

Gareth Evans, The Varieties of Reference, Oxford U.P., 1982.

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本質 17 投稿者:ハム 投稿日:11月28日(火)15時17分26秒

>フランスの王様なんてどうでもいいことです。

この発言で田中さんがラッセルを理解していないことが分かります。
ラッセルは「フランスの王様」のような確定記述を重要視しました。
それは彼が目指す数理的な哲学(論理学)に大切だったからです。

>教えてください !!!

ラッセルによると「フランスの王様」というのは下記のように分析されます。

∃x(Fx∧Kx∧∀y(Fy∧Ky⊃x=y)) K:王様、F:フランス

「フランスの王様」という概念は上記のようにバラバラに分解されるのです。
(私はこれが、「フランスの王様」という概念の本質だと思っています。)

これは概念に対するラッセルの鋭い考察です。
こういう概念に対する思考が現代論理学へと発展していくのです。

これらの理解があれば、これ↓はとんでもない愚論だと分かるはずです。

>明晰な思考の最小構成単位は概念(語)でないのはご理解できますよね?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)15時15分59秒

 ハムさん、

 記述理論については三浦さんの本がうまく説明してるから、実践上、それで必要十分だし、それを読んで、私がちょこっと補足したことだけ知ってれば、それでおしまいにすべきものです。

 これはわき道です。議論の本題に戻りましょう。
 あたまが良い哲学者たちが皆そろいもそろってあいまいにごまかして、ラッセルとかが否定した「本質」の問題に。

 認識論の重要な問題です。私はただ、知りたいのです。
 汗牛充棟たる書物を読んできたのですが、なっとくできる答えは見たことがなくて、ラッセル、ポパーその他が正しいように私には思えるのです。

 ご見解をお聞かせください。

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記述についての補足 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)13時59分21秒

 >>例えば、「フランスの王様」とは何か?
という思考がラッセルの確定記述論でしょう。
これがラッセルの記述理論へ発展していくわけです。>>

 フランスの王様」とは何か?
という思考がラッセルの確定記述論である、ではなくて、

 ここで、認識目的上・実践上重要なことは、「どんな状況でも、すべてのものについて語ることができるような言い方の方法だ」ということです。

 フランスの王様なんてどうでもいいことです。

 これは、わかりきった常識なのですよ。

 本質認識についてのご見解をお聞かせください。わからなければそれでもいいです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)13時43分57秒


 私が言ってないことを言わない、  論理学について本(専門書)に書いてあるわかりきったことはいちいち調べて発言・意見する、
 間違いはさっさと認めて、先に進む、

 そして、問題に答える、ことを要求します。

 私は現代論理学が文の関係の数学的把握につきることを論証しました。

 本質の問題について、論証してください。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)13時37分58秒

 The discription についての答えをいうと、
 宇宙人でもフランスの王様でも、川端でもなんでもいいのです。

どんな状況でも、すべてのものについて語ることができるような「記述の論理(すなわち語り方の論理)」ということです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)13時29分59秒

>>ラッセルの記述理論をみれば、概念に関する思考だということが分かるはずなのですがね。

 概念に関する思考でない、など一言も言ってませんよ!

  >>先に挙がった「フランスの王様」とは何なのか?
    ラッセルはどういっているかご存知ですか?

    教えてください !!!

 記述理論と本質についてさっさと答えてください。

 質問に答えなさい !!!!!!

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本質 16 投稿者:ハム 投稿日:11月28日(火)13時15分45秒

ラッセルの記述理論をみれば、概念に関する思考だということが分かるはずなのですがね。

田中さんはラッセルの記述理論を勉強されていないのではないですか?

先に挙がった「フランスの王様」とは何なのか?
ラッセルはどういっているかご存知ですか?

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再補足 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)12時53分2秒

 なお、誤解がありうるのですが、これは普遍論争の判断については無関係(判断をしていない)であります。

 どんな状況でも、すべてのものについて語ることができるような「記述の論理(すなわち語り方の論理)」を必要とする、われわれの学問の必要から生じた「方法論」です。

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)12時35分47秒

あるXが存在する、((そのXは現在のフランスの王様である、かつ、すべてのYについて次のことが言える、すなわち((Yが現在のフランスの王様である、ならば、YとXは等しいものである、)かつ、Xはハゲである))

 何かの普遍的概念を最初から独立した存在者と決め付けないで、論理的な主語-述語から構成してゆこう、という立場なのです。

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The discription 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)12時21分6秒

 まず、概念を軽視とか尊重とかそういうこととは無関係です。

 論理学について、思いつきで発言しないで下さい。論理学を勉強してください。
 私は手厳しい言い方をしますが、ハムさんは、論理学の入門の入門の域を出ておりません。

 ハムさんが、大学の先生なのか、お医者さんなのか、ビジネスマンなのか、学生さんなのかは存じませんが、論理学をよく勉強したほうがよい、とアドヴァイスさせていただきます。

 文が明晰な思考の最小構成単位である、というのは記述文で示すのが最適です。これは強調しなくてはなりません。論理学革命の最大の成果の一つです。

 出版物の形で、日常言語でわかりやすく説明してある日本語文献を見たことがないので、説明してあげましょう。

 現在のフランスの王様はハゲである。

 この文の概念を分解して、それぞれ文にすることにより、構造を明確にするのです。

あるXが存在する、((そのXは現在のフランスの王様である、かつ、すべてのYについて次のことが言える、すなわち(Yが現在のフランスの王様である、ならば、YとXは等しいものである、かつ、Xはハゲである))

 となるのです。概念を思考の明晰な思考の最小単位である文に還元するのです。

 軽視とか関係ないです。

 あなたは問題に答えないで、ずっと、論理学に関して、間違いを認めず、無知によるまとはずれなことを言って、私に論理学の解説をさせてるのですよ。

 問題に答えてください。

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本質 15 投稿者:ハム 投稿日:11月28日(火)10時06分8秒

まだ理解できないようですね。

>「フランスの王様」、 「ハゲ」 という概念のみでは明晰な思考にならないのはご理解できますか?

例えば、「フランスの王様」とは何か?
という思考がラッセルの確定記述論でしょう。
これがラッセルの記述理論へ発展していくわけです。

こういう概念に関する鋭い洞察なくして、ラッセルの記述理論はなかったということです。

概念を軽視する田中さんのお考えは、哲学、論理学とは無関係だと思います。

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ハムさまへ 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)10時04分30秒

 どうでもいいことなんですが、 念のため、

 例で使用した「フランスの王様」は「現在のフランスの王様」とか「現在の中国の王様」のほうが明確です。

 日常生活で何気なく使う、「本質」とか、人をだまくらかすために使うレトリックとしての「本質」でなく、

 言語外的実在としての、すなわち、アリストテレスのいう「本質」の認識のしかた、「本質的性質」と「偶有的性質」とを厳密に分ける方法、この大問題について知ってるようですから、教えてください。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)09時28分13秒

 そして、現代論理学は命題論理が基本です。

 答えとして論理学の重要課題を一つ言う、ならば、次のものがある。

 知識はたくさんあるので、それを整理しなければなりません。
 知識が無限個ある場合も含めて、知識の中から代表的なものを選んで、残りのものはすべてそこから引き出すことを、ある分野の知識を公理化(axiomatize)する、と言います。

これは有限的な人間が無限的な全体を把握する試みであり、これが論理学の最重要課題の一つです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)09時19分45秒

 まず基本として、命題論理(最近は文論理の方が一般的)は文にとって大切な意味内容なども、命題論理にとっては雑音に過ぎないとし、とりあえず記号化して、捨象します。  文を記号化したものを命題論理の「論理式」も若くは「式」(well formed formula) (通常 wff)と呼ぶ、のが基本です。(正確な定義は腐るほどあるが、とりあえず)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)09時13分43秒

>>私はそのように理解していません。

 文ではなく、概念を最小単位として、問題提起、問題の解決、理論・仮説の提示、等の明晰な思考の実例を示してください。

 なお、メタ的にいう、ならば、上の質問・問題提起も文です。

 文。
 概念。
 最小単位。.....
 どんなに相手に寛容的に解釈してやっても、概念だけで明晰な思考になるのでしょうか?

 というか、わかりきったことなんですよ!! 答えないでいいです.....

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月28日(火)09時00分52秒

 「フランスの王様」、 「ハゲ」 という概念のみでは明晰な思考にならないのはご理解できますか?

 明白な間違いを言ってるのに気づいてください!!

 「論理学」!!

 「勉強」!!

 「してください」!!

 概念どもだけではヤッホーと叫んでるのと同じだ!!

 フランスの王様はハゲだ。という文になってはじめて、明晰な、思想なり、思考なり、問題が生じるのですよ!!

 確定記述とか指示の因果説でもなんでもいいのですけど、聞きかじりの概念について語るのをおやめなさい!!
 そして、勉強しないで論理学について意見するのをやめなさい!!

 なお、少し評論するならば、確かにラッセルの議論は興味深いのですが、ラッセルが説明した偽なるがゆえの有意味さだと思います。この議論には異論もありたいへんおもしろいのですが、かつて話題になったものです。

 恐ろしいことに、私があなたに論理学を教えてるだけで哲学の議論になってません!!
 問題に答えてください!!

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本質 14 投稿者:ハム 投稿日:11月27日(月)13時45分55秒

>明晰な思考の最小構成単位は概念(語)でないのはご理解できますよね?

私はそのように理解していません。

ラッセルの確定記述、クリプキの指示の因果説、等は概念に対する思考でしょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月27日(月)09時59分33秒

 ハムさん、

 おっしゃるとおり、文は概念、その他によって構成されるのは私にとっても同じく常識なのです。その点については否定も肯定もしてませんが。

 明晰な思考の最小構成単位は概念(語)でないのはご理解できますよね?

 明晰な思考の最小構成単位は文で構成されます。

 現代論理学の推論も文が最小構成単位である、と何度も言ってるのです。

 論理学において、概念を明晰な思考の最小構成単位であると考える本質主義は、ここで決定的にフレーゲその他によって否定されたのです。

 この点について明確にしたのが、フレーゲその他の最大の功績の一つです。

 あなたが論理学についてほとんど知らなくて、三段論法を否定することは演えきを否定することだ、とか、すべての演えきが概念を基礎にしている、とかその他多数の暴論をなさる、のは私にとってはどうでもいいことなのです。
 無限の宇宙の前ではわれわれの知識の差などあってないようなものですし、勉強すればすぐにわかることだからです。

 私が興味があるのは、哲学の問題なのです。
 私は常に、良い理論、方法があれば喜んでそれを受け入れる準備があります。

 論理学についてのわかりきったことや、その多のどうでもいい些細なことではなく、私がたずねた問題についてお答えください。

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本質 13 投稿者:ハム 投稿日:11月27日(月)08時33分58秒

>あらゆる演えきは概念を基礎にする、というのは端的に間違いですよ。

>現代論理学では、全部、文が基礎です。

文は概念によって構成されます。

私にとっては常識なのですがね。

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反本質主義的訓戒 ポパー 投稿者:田中 投稿日:11月27日(月)01時23分8秒

 言葉とその言葉の意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。
 本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題である。

 この自戒の言葉を反本質主義的訓戒と呼んで引き合いに出すことにする。

 この訓戒は、言葉やその意味について悩んだり言い争ったりすることには危険な罠が仕掛けられていると私が最初に意識するようになった時に抱いた感情を明確に表現したものにほかならない。

 言葉やその意味にかかずらうのは、知的破滅への道をたどること必定であり、言葉上の問題のために本当の問題を放棄することであると、私はいぜんとして今なお考えている。

 もろもろの文字は、言葉を表現するうえで、単なる技術的または実用的な役割しか演じない。
 私の意見では、言葉もまた、理論を明確に表現するうえで、単に技術的または実用的な役割を演じるだけである。

 したがって、文字と言葉とは、いずれも、目的に対する単なる手段である。

 そして、知的に重要な唯一の目的は、問題をはっきり表現すること、それらの問題を解決するためにいろいろな理論を試験的に提出すること、さまざまな競合的な理論について批判的に議論すること、である。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月27日(月)01時09分49秒

 念のため、

 すべてのXについて、Xが人間である、ならば、Xは手を2本もつものである、は真偽を問えますよね?

 でも、概念である、「人間」とか、「手を2本もつもの」、はこれだけじゃ、真偽を問えませんよね?

 「人間」という概念のみでは何一つ明確な思想をもてませんよね?

 人間はうんたらかんたら、という文にしてはじめて明確な思想をもてますよね?

 だから、概念を基礎にものを考える、のではなくて、
 文が明確な思考の最小構成単位であり、概念中心的である点で本質主義が破綻している、というのはおわかりですよね?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月27日(月)00時34分39秒

 ハムさん、

  否定したことが暴論とか暴論じゃないとかはどうでもいいことでしょう。

 常識を常識と言わないで、何と言えば良いのでしょうか?

 伝統的論理学が、概念を基礎に演えきする、というのは文字どおり、概念を基礎に演えきする、ということですよ。

 何で勉強しないで、断定するのですか? これは、優秀か、優秀でない、とかの問題でなく、知識に対して、真面目か真面目でないか、という問題ですよ。

 例えば、人間とか、ソクラテスとか、死ぬとか。

 答えをいうと、概念だけでは、真とか偽とか言えないからです。
 例えば、人間は手を2本もつ、という文なら真偽を問えますが、

 あらゆる演えきは概念を基礎にする、というのは端的に間違いですよ。
 概念と言う語について、哲学辞典みたいなものを引いて調べてください。

 現代論理学では、全部、文が基礎です。たとえば、すべてのXについて、Xは人間である、ならば、Xは死ぬものである、とか。ここでは二つの文があるのは理解できますよね?

 フレーゲもラッセルも論理学では概念を基礎に演えきすることを否定してます。というか現代論理学が否定してます。

 フレーゲが数を概念うんぬん言ったのは、概念というあいまいな語を使った点について厳しく批判されてますよ。
 ラッセルが数についてうまい具合に定式化したのはご存知でしょう。

 これも常識だから「断定的」な言い方をせざるをえないのですが、常識です。

 私が教師ならば、勉強しなおせ!!と大声で叱りつけているでしょう。

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本質 12 投稿者:ハム 投稿日:11月26日(日)23時29分30秒

>弁証法的に言うならば、否定して止揚(だめな部分を捨てて、使える部分だけ生かす)したのです。

であれば、はじめから、伝統的論理学は止揚された、とかいえばいいのです。
否定と止揚では意味がまったく違いますよね。
そういう田中さんの(変な)断定が、私からみると暴論に聞こえるのです。

>伝統的論理学では、概念を基礎に演えきするのです。
>本質主義と密接不可分な未熟な方法です。この方法は現代論理学では否定されています。不要です。

「概念を基礎に演えきする」、このような断定では本質にはいたれないとご指摘したと思います。

あらゆる演繹は概念を基礎にするもののはずです。
概念を基礎としない演繹、とはどのようなものなのか明確にしないと意味が伝わりません。

フレーゲもラッセルも「概念を基礎に演えきする」ことを否定していますか?
フレーゲにおいては数も概念のはずですが。

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共通のプラットホーム 投稿者:Σ 投稿日:11月26日(日)22時56分21秒

>>−−空間、時間、温度、色その他多数の性質を究極まで考慮に入れる、ならば、まったく同じ現象、同じ存在物は二つとない。事物の最小構成単位にいたるまですべて個性的であり、独自の法則をもつ。>>−−

田中先生の考察に対して僣越ながら一言申し述べさせて頂きます。
スピノーザは、「一切共通項がない二者を比較することはそもそもできない」と述べました。ヘーゲルはこの主張を受けて、彼の論理学を作りました。

田中先生が仰る、「事物の最小単位に到るまですべて個性的」とは、個性的という、他との差異を見いだしての「個性」「独自性」のはずです。
しかし、ヘーゲルの反省論理学によれば、たとえば、人間の男女の差異は、男女に分岐した部分を除いた「人間としての共通のプラットホーム」があって、そこに、男性/女性という分岐的な枝葉的な差異がある、とみます。
これが、ヘーゲルが述べるところの、「差異における同一性」です。

田中先生が「事物の最小単位に到るまで個性としての差異がある」と叙述した時点で、この命題には、「差異における同一性」としての比較のための「共通プラットホーム」が想定されていなければなりません。

以上が、ヘーゲルを舐めるべきではない所以です。

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論理学 投稿者:田中 投稿日:11月26日(日)19時45分3秒

 Pが言えれば

 P、または、Pということはない、または、神様は存在する、または、(神様は存在する)、ということはない

 ということを、演えきしてよいのです。

 これも三段論法ではありません。

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論理学 投稿者:田中 投稿日:11月26日(日)19時41分9秒

 Pこの文はうそである。

論理学は

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月26日(日)19時37分17秒

 ハムさまがおっしゃるとおり、

・形式化
・論理学の創始
・演繹
 はアリストテレスの偉大な功績です。
 アリストテレスは疑いなくもっともえらい哲学者の一人です。

 私が否定しているのは、演えきとか形式化ではなくて、伝統的三段論法です。
 言ってないことばかりあげて、批判するのは非合理的です。

「伝統的論理学を否定して現代論理学を創始したのだ」とは私は一言も言ってませんが、(重要なことではないので)この場でそれをあらためて認めます。
 フレーゲの著作集の訳書がありますから、じっくり読まれることを希望します。
 弁証法的に言うならば、否定して止揚(だめな部分を捨てて、使える部分だけ生かす)したのです。

 あらためて言うならば、
 伝統的論理学は実践の場で使える、ということはない、だから実践の場で否定しろ、ということです。

 私が言ったことが暴論でも何でも良いのですが(役立つ情報を提供しただけなのですが)、
 私が出した哲学の「問題」に答えてください。

 まず、フレーゲ、伝統的論理学の本、アリストテレス、
 一番手軽なものでラッセルの『西洋哲学史』のアリストテレスの項目を読んでいただきたいと思います。

 答えをいうと、伝統的論理学では、概念を基礎に演えきするのです。
 本質主義と密接不可分な未熟な方法です。この方法は現代論理学では否定されています。不要です。

 伝統的論理学を否定しても、形式化とか演えきとかを否定することにはなりません。

 現代論理学では、根本的に異なるのは、概念を基礎に演えきをするのではなくて、文の関係の数学的把握です。

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本質 11 投稿者:ハム 投稿日:11月26日(日)18時36分24秒

アリストテレスが創始した論理学の特徴を思いつくまま挙げてみます。
・形式化
・体系化(論理学の創始)
・演繹(直接的と三段論法)
・etc

等が挙げられます。
現代論理学からみれば、まだ狭いものですが、現代論理学が否定しているものはないのです。
否定どころか、これらの特徴は現代論理学に脈々と受け継がれています。
三段論法にしても、現代においても正しい推論ばかりです。

それでもまだ、伝統的論理学を否定して現代論理学を創始したのだ、とかいう暴論を主張しますか?

私は田中さんが少なくとも論理学の本質を理解していないと思っています。
ですので、本質についての議論は、論理学が済んでからにしましょう。

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論理学の勉強 投稿者:田中 投稿日:11月26日(日)15時45分50秒

 論理学の本に関しては、飯田隆さんが言語哲学の本でも言ってましたが、日本語で論理学を学ぶということに無反省な本が多いです。

 それから、論理学の初学者段階で本格的にパラドクスに取り組むことは、感心できません。
 初学者段階では、時間の誤用になる可能性が高いでしょう。
 しっかり、論理計算できるように練習することが先決です。
 一週間もあればこれはできる、と思います。
 パラドクスは半永久的に続きます。
 一見簡単で楽しそうなのですが、無限の混乱の入り口であるのですから。

 下手したら、青春を犠牲にする、かもしれません。

 パラドクスに対する警句を、私は書物の形で述べられているのをみたことがありません。

 パラドクスは意味を考えることにより発生するものがほとんどです。

 この文はうそである。という文も意味を考えないで記号化すれば
  P 、これでおしまいです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月26日(日)14時51分6秒

 テスト不可能な形而上学的たわごとを言うならば、万物は一つの存在である。このことを知っても日常生活では何の特もないが、、

 われわれが住む社会はミクロコスモスであり、それより小さいミクロコスモスにたとえば、人体の細胞どものミクロコスモスがある。
 世界を統べる一つの存在の中には、無限の種類のミクロコスモスが無限に存在する。
 それぞれが独自の法則をもつ。

 われわれがいうところの通常の宇宙も実はミクロコスモスであり、それより大きい多宇宙を包含するコスモスがある。

 すべてを統べる一つの存在は構成物として無限のミクロコスモスをもち、無限の時間(もしくは無時間)、無限数の次元、無限の可能世界どもを統べた一つの存在である。
 構成物は絶対的な本質など共有しておらず、類似性のみがある。

 空間、時間、温度、色その他多数の性質を究極まで考慮に入れる、ならば、まったく同じ現象、同じ存在物は二つとない。事物の最小構成単位にいたるまですべて個性的であり、独自の法則をもつ。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月26日(日)13時26分37秒

>>伝統的論理学を否定したのですよね。
 そのとおりです。
 伝統的論理学は論理的思考の実践の場では無価値どころか有害ということです。暴論ではなくて常識です。
 伝統的論理学の三段論法は「歴史的意義」しかないということは繰り返し明言しています。

 自分の勉強不足や誤りは素直に認めなければなりません。
 これは勝負じゃないのですから(そんなことはどうでもいいのですよ、利益になるか、ならんかが最重要です)、よりよい理論や方法がほしいのです。

 「本質」をいかに把握するか?という問題に明確に論証して答えてください。
 これは哲学の「問題」なのですよ。
 この点について、「本質」は厳密な論理分析に到底耐えられない、ということを論証しました。

 なお、本質というならば、性質上、最終的・絶対的なものなのですから、それは人の見方によって相対的に決まるものだ、というのは認められません。

 いくつも難点はあるのですが、さしあたり、次の難点がある。
 @本質主義は事実でなく、語の「本当の」意味に本気で取り組んでいる、ということ。
 A主観主義である、ということ。
 Bそれを把握する方法

 とりあえずBに答えてください。

>>違いがよく解りません。DSがいい加減だということですか?

 ラクシュンさま
いい加減とか、そういう問題ではなくて、伝統的論理学の三段論法とは全然別のものだ、ということです。

 日常言語でいえば、DSは、(念のためですが、この例の内容には特に意味はありません。)

 (前提)
 俺は日本人である、または、俺はアメリカ人である。
 俺はアメリカ人である、ということはない。
 (結論)
 だから、俺は日本人である。

 ここでは、@俺は日本人である、とA俺はアメリカ人である、の二つの文(命題)と、否定子と、選言子のみが前提にあり、(ここでは意味論的アプローチから考慮する。構文論的アプローチが論理学では最重要なのだが)この前提をすべて正しい(真である)と認める、ならば、結論も認めなくてはならない、ということです。

 演えきというのは、前提を真と認める、ならば、結論も真と認めなければならない、ということです。
 対偶も「三段論法」ではありませんが、演えきです。

 周知のとおり、「伝統的論理学の三段論法」は、述語論理があるから不要になりました。
 そして、述語論理においても命題論理の推論規則を用います。
 述語論理の推論規則の定式化で用いられる命題論理の推論規則は、MPだけで十分です。

 これは常識なので、申し訳ありませんがご自分でお調べになってください。

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熱の本質は何か? 投稿者:Σ 投稿日:11月26日(日)01時11分58秒

科学においては、「熱の本質は何か?」論じられて来ました。
「熱の正体は何か?」 と換言しても良いでしょう。

そして、様々な実験と思索の結果、合理主義的にみると、「分子の振動エネルギーだ」
ということになりました。

それが昨今の量子力学になると、「波動関数」レベルの話になります。

そして、それをもう一歩進めると、へーゲル哲学の、「実在としての絶対精神が醸しだす波動」 ということになります。

本質論、健在なり、ということになるのでしょうか?
そういうわけで、私は縦軸に本質論、横軸に反本質論を採る、両立的立場を主張しております。(笑)

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本質 10 投稿者:ハム 投稿日:11月25日(土)19時13分37秒

>それから、私は一言も、現代論理学の三段論法を否定していません。

伝統的論理学を否定したのですよね。

論理学を創始したのはアリストテレスです。
その伝統的論理学が発達して現代論理学になったのです。
伝統的論理学に対する批判や非難、反動といったものが発達の糧になってきたということです。
こういう論理学の歴史は常識だと思います。

伝統的論理学を否定して新しい現代論理学を創始したわけではないのです。
例えていうならば、ライト兄弟の飛行機が現代のジェット機に発達したようなものです。

こういう論理学に対する歴史観があれば、伝統的論理学を否定することは暴論だということがお分かりでしょう。

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? 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月25日(土)17時24分49秒

>現代論理学で三段論法という表現がつく定理は、代表的なものにはDS選言三段論法ありますがこれは伝統的論理学の三段論法とは全然別のものですよ。

というか、違いがよく解りません。DSがいい加減だということですか?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月25日(土)09時47分19秒

S・Kさまから
>>哲学は真のみでなく、善、美についても、その本質に迫ろうとするものである....
とお叱りを受ける点については、私の今までの発言からはご批判はまことに正当なものです。

 私は、(自分なりの)善とか美を追求するのは、宗教、思弁哲学、文学、その他の芸術の重要任務であると考えております。

 古代ギリシア(特にプラトン)、ニーチェ、サルトル、ハイデガーなどは人類文明が誇る最高の言語芸術であります。

 トルストイが『人生論』で世界中の偉大な聖者の思想を読むことをしきりに勧めますが、私は仏教、道教、儒教、キリスト教、イスラム教の思想は人類文明の最高遺産であると考えます。

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(無題) 投稿者:S・K 投稿日:11月25日(土)01時04分31秒

 法律職として老獪の域に達した田中さんの、陽動的言及に惑わされるばかりですが、色々と情報提供頂いているので、若干私の意見を陳述したいと思います。

>>ただ、究極的にはもともとすべては一つだった(と思われる)のですから、世界中の人間のみならず有機物も無機物も宇宙という全体と切り離して考えることはできず、万物は一なりという考えは(究極的には)正しいと思います。(投稿日:11月23日(木)15時50分50秒)

 非常に単純、短絡な思考だと思いますが、そのような思考の元では、本質主義を批判するのは御尤もなことだと思います。<祖霊中の祖霊>とでもいいましょうか、その<一>が、ユダヤ教では、固有名詞化したヤハヴェになるのでしょう。
 ヤハヴェがもし仮りに存在していたとしても、それが解体された故に、私があり田中さんがあるのだと凡人は考えるのですが、<選民>は影を慕いて崇拝の対象にする。ただそれだけの話しでしょう。

 ヘラクレイトスは「万物は一つのロゴスによって統べられる。ロゴスを認識することの内に知恵がある」と言ったそうですが、仏教はこちらに近いですね。大乗仏教は世界は一つだと考えておりませんし(多世界解釈とは異ります)、大統一理論のように一つの法に還元できるかどうか、私の知る限り言及してもおりませんが、法は最も重要な観念です。

 思うに、ロゴスとか法という普通名詞である概念というか観念の、「本質」を求めようとすることが、哲学であり、科学ではないでしょうか。本質を崇拝の対象としたり大前提としたのでは、哲学や科学は成り立ちません。それは単なる妄信になります。
 本質を知ろうと努力するか、または本質かどうかも分からぬものに名前をつけて崇拝の対象とするか、蓼食う虫も好き好きでしょうが、私は前者をとります。

>>批判的合理主義の立場では、可謬主義といって、人は必ず間違うことを前提にして議論を進めます。間違うのが当たり前だから、誤りはすぐに認め、修正します。(投稿日:11月24日(金)12時05分17秒)

 哲学は真のみでなく、善、美についても、その本質に迫ろうとするものであると、私は考えておりますが、可謬主義では、間違っているかどうか、どのように知るのでしょう? あるいは、知る努力をするのでしょう?
 儲けたものが正しい。なぜなら聖典にそれらしきことが書いてあるからというのが、何某とか言う者の、自分でさえ気づいていない根本思想ではないでしょうか? その聖典というのがまた精神分裂病患者の、年代記にもならない妄想録のようなもので、まさに妄信です。

 少なくとも刑法は、述語を分類項として括りなおすべき時代が来ているように思います。素人考えでは、それによって時代的グレー・ゾーンをかなりの程度フォローできるようになるのではないかと思うのですが…

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月25日(土)00時02分25秒

 Σ先生へ

 同年代だから藤原さんの気持ちはよくわかるのですが、思うに、藤原さんは全面的合理主義と非合理主義のカオスの国、しかし自由の国アメリカに行って、アメリカの全面的合理主義に嫌気が差したのだと思います。

 全面的合理主義は人を非合理主義に走らせます。
 だからポパーは「批判的」合理主義を定式化したのです。

 自由を積極的に定式化すると未曾有の混乱が生じますので、
 他社加害原理、すなわち、他人に迷惑かけない限り、それぞれの人がそれぞれの夢・希望・目標・その他、に向かって極限まで自由を追求する、ことを自由と呼べばよいと思います。

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自由に対する理解 投稿者:Σ 投稿日:11月24日(金)22時20分0秒

田中先生へ

>>−−私は、数学者の藤原さんとは自由に対する理解に関して、決定的に決裂してしまうのですが、>>−−−

是非是非、その「決定的決裂」について、もう少し詳しく叙述して戴ければますならば、嬉しく思います。
考え方の「差異」について熟考する糧とさせて頂きたく存じます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月24日(金)19時05分57秒

 昔は、文系とか理系とか関わらず、数学が(かなり)できないと大学に入れませんでした。

 数理論理学・数学は文系・理系問わず、知識職業(筋肉労働以外としておきます)についてる人は、ある程度詳しい知識を持つことが要求されます。

 第一時的には、論理学は思弁的なものとせずに、思考の純技術的な方法と理解すべきです。

 私は、数学者の藤原さんとは自由に対する理解に関して、決定的に決裂してしまうのですが、
 数学的思考に疎い知識人・若者が跋扈することに対する憂い・憂国の気持ちを同じくする次第です。

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ハムさまへ 投稿者:田中 投稿日:11月24日(金)17時29分28秒

 それから、私は一言も、現代論理学の三段論法を否定していません。
 伝統的論理学と現代論理学は根本的に違います!

 頭についてる「伝統的論理学」という語の意味がわからないのに、
 現代論理学についてわざわざよくわかってない人に親切に教えてあげてる人がいるのに、その人に対して暴論とかいいかげんとか言う人がいる、とするならば、算数しか知らない者が高等数学にケチをつける以上の偉業です。

 「伝統的論理学の三段論法」という語が論理学に通じている者の間で何を指しているかをよく勉強してください。そして、それを「現代論理学(記号論理、数理論理学)」よく比較してください。

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ハムさまへ 投稿者:田中 投稿日:11月24日(金)17時11分49秒

>伝統的論理学の三段論法を否定することは演繹推理を否定することだ、
と主張するのは、暴論うんぬん以前にありがちな蒙昧主義による独断によるあてずっぽです。

このような言いがかりは、私にとっては神聖なものを冒涜されたに等しいです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月24日(金)12時05分17秒

 自分がいかなる立場をとろうがいいのですが、議論は論証して進めなければなりません。

 批判的合理主義の立場では、可謬主義といって、人は必ず間違うことを前提にして議論を進めます。間違うのが当たり前だから、誤りはすぐに認め、修正します。

 私はポパー、ラッセルの立場に立って、本質主義の権化である現象学やヘーゲル、アリストテレスを論敵と想定していました。
 ここで要求されるのは、大前提として論敵がどういうことを主張しているのかを把握することです。だから、彼らの思想を紹介したうえで、批判しました。

 そして論理学に関して、このような場で意見を述べるなら、最低限の知識は要求されるべきです。

 本質に関して、それは直観的に把握する、というのならば、
 あなたの直観とわたしの直観が違う場合はどちらの直観が正しいのか、という問題が起こります。
 主観的にしか判断できないものは、主観的にしか決められないと、率直に認めて明らかにしなくてはなりません。
 主観的なものを客観的と装う、または、客観的なものと思いこむ、ことは、批判的合理主義の立場からは主観主義と呼び、厳しく非難します。観主観性についても、それ自体が誤っている可能性が高いことを常に考慮します。

 最低限、ラッセルの西洋哲学史の熟読、そして、論理学の研究をされることを強くお勧めします。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月24日(金)11時24分17秒

 それから、論証して本質把握の方法を教えてください。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月24日(金)11時21分6秒

 わたしがハムさまが論理学を熟知していることを前提にしたのが早計でした。

 アリストテレスの伝統的論理学の三段論法なしでも機能するのは明らかです。

 はっきり言って怒りを感じますよ。あまりの論理学に対する貧弱な理解に対して。

 伝統的論理学の三段論法は定言三段論法と言って、命題論理で表現するならば、P ∧ Q ⇒ Rです。
 現代論理学で三段論法という表現がつく定理は、代表的なものにはDS選言三段論法ありますがこれは伝統的論理学の三段論法とは全然別のものですよ。
  disjunctive syllogism, also known as modus tollendo ponens (literally: mode which, by taking away, affirms) つまり、ラテン語では三段論法とすら呼ばれない論法です。

 Either P or Q.
 Not P.
 Therefore, Q.

 三浦先生が不注意な言い方をするからハムさまの論理学に対する誤解と無理解が解けないのですが、
 三浦先生の但し書は、「現代論理学で三段論法と呼ばれる三段論法なしでは...」という但し書にすべきでした。

下のものはmodus ponens という重要な推論規則ですが、これは定言三段論法ではありません。
普通MPと呼びます。

If P, then Q.
P.
Therefore, Q.

P → Q
 P
 ? Q

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本質 9 投稿者:ハム 投稿日:11月24日(金)10時00分15秒

何事でも同じなのですが、田中さんがするような物事の断定では本質にいたれないと思いますよ。
φ様の説明のように、必ず但し書きが必要です。

>三段論法なしでは現代論理学も機能しないでしょうね。

ということがご理解いただければ満足です。

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三浦先生、ハムさまへ 投稿者:田中 投稿日:11月24日(金)07時57分0秒

>どこにそのような常識があるというのですか?
いい加減なことをいわないでください。>

そんなにむずかしいことではないのですから、全然勉強しないで暴論とかいいかげんと言うのは知的怠慢です。
伝統的論理学と現代論理学を比べながら勉強し直して下さい。

伝統的論理学は述語論理学の未熟な形態というのは常識です。

現代論理学の認識目的上・実践上重要な性質は、公理と推論規則をおいて、そこから定理を導き出すということです。

>>私なら推論によって分けます。>>

ではどんな推論によって分けるのでしょうか?ご教授ねがいます。

本質的性質については、三浦先生の『ラッセルのパラドクス』にヒントがあるので丁寧に読んでください。特に5章、なかんずく86頁〜の「非述語的属性と「家族的類似」」を熟読してください。

三浦先生は明らかにここでは、あきらかに本質主義的立場を採られてないのですが、
たとえば将軍でもゲームでも虚構とか何でもいいのですが、「超厳密(究極まで厳しく考えて)」に考えて、それらのメンバーすべてが共有する「完全に同じ性質」がないというのはご賛同なさりますよね?

勉強は初期段階では、質より量をとるべきです。
幅広く何百冊も本を読むのが大切です。そこから質について本格的にこだわるべきだと思います。

論理学に関しては入門書一冊読んだくらいでは計算技術も身に付きませんし、論理的思考能力の生まれません。完璧な学者・本はないのですから、何冊も読まなければなりません。

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こんな感じ 投稿者:にゅ 投稿日:11月24日(金)05時14分18秒

アキレス=亀の位置
亀=亀の位置+ちょっと
アキレス=亀−ちょっと
ゼノンとピタゴラスはちょっと違ってる。

違ってるけど分からない。
分からないから募集中との噂。

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三段論法について 投稿者:φ 投稿日:11月24日(金)02時25分52秒

「伝統的論理学の三段論法は必要ない」というのは、田中さんの言うとおりでしょう。
三段論法というと、前提が二つ、結論が一つという含みがありますが、現代論理学の観点から言うと、前提が特定の数の文であることには何ら特別な意味がありませんから。四段論法でも百段論法でもよいわけですし、結論だけがある「一段論法」も現代論理学では認めます。
 主語と述語の組合せ形式で何百何十通り分類した伝統論理学の暗唱法なども、現代論理学からすると無意味です。

 ただ、日常的には、2つの文の関係から結論を導くことが多いので、前提が二つ、結論が一つという形になる確率がずば抜けて高いわけですね。現代論理学でも、伝統的な名称を踏襲して、「○○三段論法」と呼ばれるものがけっこうあります。「三段論法」の「本質」が論理形式にあると考えれば田中さんの言うとおり三段論法は必要ないし、「三段論法」の「本質」が運用にあると考えればハムさんの言うとおり、三段論法なしでは現代論理学も機能しないでしょうね。

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本質 8 投稿者:ハム 投稿日:11月23日(木)23時31分4秒

三段論法については「論理学がわかる辞典」p.186、p.194にわかりやすく説明されています。

>伝統的論理学の三段論法が必要ないのは常識です。伝統的論理学は述語論理学により不要になったのですから

どこにそのような常識があるというのですか?
いい加減なことをいわないでください。
「論理学入門」でもp.45以降の随所に三段論法を使った証明が載っています。

>いかなる方法で本質的な性質と偶有的な性質を明確に分けるのでしょうか?

私なら推論によって分けます。

>現代論理学(いわゆる記号論理学とか数理論理学とか呼ばれるもの)はどのくらい勉強されたのでしょうか?

勉強というのは、量より質だと思っています。
勉強量を競うようなことはしません。

>どの哲学者をよく読んだのでしょうか?

最近は、φ様(三浦先生)の著作をよく読んでいます。
φ様のパラドクス3部作はお気に入りです。

書物を読み、良く読解し、良く咀嚼し、自分の思想にすることが重要ではないでしょうか。
誰それがこういったとか、こう書いてあるなどということは、自分の思想ではなく他人の思想のコピーでしかないでしょう。

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ハムさまへ 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)22時18分45秒

 私はハムさまの質問に答えてきましたので、そろそろ伺いたいのですが、

 いかなる方法で本質的な性質と偶有的な性質を明確に分けるのでしょうか?

 現代論理学(いわゆる記号論理学とか数理論理学とか呼ばれるもの)はどのくらい勉強されたのでしょうか?

 通有不可能性に関わる問題なので伺いますが、ハムさまは、どの哲学者をよく読んだのでしょうか?

 私が主張していることは、フレーゲ、ラッセル、ポパー、ドウスビラフ、カルナップ、エイヤー、ミル、ヘンペル、タルスキー、ウィリアムズ、基本的にはこれらの連中の思想が軸です。

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ハムさまへ 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)19時41分52秒

 矛盾を感じさせた点について、繰り返しお詫び申し上げます。

 真理に到達できないのは、総合文です。

 価値判断などの実践判断の真偽は問えません。客観的な善さとか、悪さはないのです。
 実践判断に対して真偽を問う態度はメタ倫理学説上、自然主義とか直観主義と呼ばれて厳しく非難されます。
 そして、方法論は経験に関する総合的知識ではなく実践判断ですから、真偽を問うことがナンセンスです。
 方法に関する問題はそれを採用するか、しないかということです。
 私が本質主義を間違いと言ったのは、
 なくても困らないのだから、不要な存在は増やすなという、オッカムのかみそりと呼ばれる方法論上の鉄則に従い、間違いとみなすべき、と丁寧に言うべきでした。

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三浦先生へ 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)18時39分39秒

>>三段論法は推論の規則としても利用しますが、これを否定して、どのような推論規則を導入するのでしょうか?
また、三段論法を導入しないでどのような推論が可能なのでしょうか>>

 現代論理学すなわち記号論理学を論じている本をよく勉強し直して下さい。
 伝統的論理学の三段論法が必要ないのは常識です。伝統的論理学は述語論理学により不要になったのですから。

 ここで一番論理学に詳しい三浦先生のご高見を受け賜わりたいのですが、教育現場では伝統的論理学の三段論法を現代論理学とならぶ重要な論理学の法則とされているのでしょうか?

 ハムさまが矛盾であるとご指摘なさるのはそのとおりです。わたしが独断的に矛盾したことを発言したのは明白です。大変申し訳ありませんでした。

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本質 7 投稿者:ハム 投稿日:11月23日(木)17時12分35秒

>価値判断とかは気分の表明であることを素直に認めます。

価値判断とか気分の表明は結構なのですが、強弁したり矛盾したりすることは正さなければならないでしょう。

・強弁について
真理には到達できないはずの「本質主義は間違っている」という主張を繰り返し無反省に強調している。

・矛盾について
本質主義は間違っていると主張した直後に、本質主義は真偽を問うことができない、と主張している。
本質主義は間違っているのか、それとも、本質主義は真偽を問うことができないのか?
どちらなのでしょうか?

>伝統的論理学の三段論法を否定することは演繹推理の否定にはなりません。

三段論法は推論の規則としても利用しますが、これを否定して、どのような推論規則を導入するのでしょうか?
また、三段論法を導入しないでどのような推論が可能なのでしょうか?
また、その意義は?

まったく、暴論としかいいようがありません。

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直観と法律 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)17時04分44秒

 直観と法律の問題で私がおもしろいと思うものがあります。

 法律では直観的に導いた結論が間違ってることがけっこうあるのですが、法学部の学生とか司法試験の受験生が読むような刑法の教科書とかを読みながら法律問題を考えるのが案外、広い意味での科学的思考に役立つ(かもしれない)と思います。

 詐欺と債務不履行の問題なのですが、たとえば、飲食店で、支払いの時点になってお金がなかったことに気づいて、やむを得ず、逃げてしまった人がいるとします。
 そしてこの人はすぐにお店の外でお店の人に捕まりました。

 これは、現行犯だから当然に処罰されるだろう、、、と考えると間違いです。

 答えは、法律がないから処罰できない、です。

 法律というのは色々考えられて作られていて、後からお金がないのに気がついて、支払うのを免れようとした、というのは代金債務の履行をしない、債務不履行にすぎません。
 債務不履行を処罰するとなるとお金を返さない人はすべて刑法犯になってしまうおそれがあるのです。これでは処罰範囲が広すぎます。

 債務不履行犯というのは刑法の条文にありません。そしてこれを処罰するとなると今説明した不都合が生じます。
 なによりも、ご承知のとおり、条文がなくとも処罰するというのは危険な考えかたであり、条文がなくてもよいならば、警察とか検察、そして、裁判署らがぐるになって、誰でも何らかの理由をつけて処罰できることになります。

 そうならないように、罪刑法定主義という超重要なルールがあります。

 周知のとおり、私有財産制は憲法(29)で保障されますし、言論の自由も21条で保障されてます。
  法律では様々な原則が体系的に整理されていますので、原則をキチンとおぼえれば、こまかな法的問題も大体原則から考えれば何とかなるので、暇をみつけてまじめに法律を勉強すれば、日本の法システムの根本はこの掲示板を閲覧なさるぐらいの方々ならば、短期間のうちに簡単にマスターしてしまうと思います。

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価値判断と法体系 投稿者:Σ 投稿日:11月23日(木)16時04分51秒

>>−−「君はあの金を盗んだ」といった場合に陳述したであろう以上のことは何も陳述してはいないのである>>−−−

「盗んだ」という用語概念自体に価値判断が混入しています。
「甲氏から乙氏への財物の移動があった」
という命題ならば、その善悪は、全く分かりません。
所有権の侵犯があったか否か、占有権の侵犯があったか否か、
そもそも、所有権とは何なのか?
私有財産を一切認めない共産主義社会があった場合、「私有財産を盗む」という概念すら存在しないことになります。
中国人が鉄道輸送中の貨物に乗り移りその中のものを窃取すること頻繁なりという報道も以前ありましたが、共産主義と無縁ではないかもしれません(笑)。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)15時50分50秒

 われわれは、延々と小難しいことをソクラテスの対話のごとく議論してるわけですが、(議論に参加しなくてもただ批判的に読んでる方々も含めて)

 それぞれ皆、考えが完全に一致することはなく、さまざまな人生ドラマを味わってきて、個としての人間としてはバラバラであり、
(グローバル社会・経済を見据えた上で)基本的には日本国に住むことにより、日本で起こる様々な社会的な現象をつうじて、かろうじて極めてかすかな繋がり(連関)がある(かもしれない)だけですから、われわれは原子論的な個人でありますし、
 事物の最小構成物が何であれ、それによって構成される個体・個物(論理的虚構)はバラバラであり、それぞれが法則をもってると言ってもあながち間違いではないように思われます。

 ただ、究極的にはもともとすべては一つだった(と思われる)のですから、世界中の人間のみならず有機物も無機物も宇宙という全体と切り離して考えることはできず、万物は一なりという考えは(究極的には)正しいと思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)15時17分11秒

 ホーリズム(全体論)で主張されるように、全体は部分や要素に還元できない独自の原理をもつ、という見方は否定できません。そして、還元主義的な見方も否定はできません。
 両方を肯定しても矛盾しないので、この問題は実は矛盾関係ではなくて、ラッセルはヘーゲル主義をすてさった極度の反動(批判)から、誤謬に陥ったのでしょう。

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価値情緒説 エイヤー 『言語・真理・論理』 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)14時48分10秒

...命題に倫理的記号があらわれることは、その命題の事実的な内容には何物をも付け加えない。
 たとえば私が誰かに「君があの金を盗んだとは悪いことをしたものだ」という場合、私はただ「君はあの金を盗んだ」といった場合に陳述したであろう以上のことは何も陳述してはいないのである。
 この行いが悪いということを付け加えることにより、私はその行いに関してそれ以上の陳述をしているわけではない。
 私はただ自分がそれを道徳的に認めないことを明らかにしているに過ぎない。
 ....声の調子や感嘆符は文章の字義上の意味には何物をも付け加えはしない。それはただ、それの表現に話し手のある感情が付け加えられていることを示すのに役立つのみである(吉田夏彦訳)

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ラッセルの「スピノーザ」 投稿者:Σ 投稿日:11月23日(木)14時44分3秒

ラッセルの『西洋哲学史』の「スピノーザ」の解説を読むと、スピノーザの論理的一元論は承認しがたいものだが彼の倫理は崇高だ、という切り口になっています。また、スピノーザにおける論理的一元論からの帰結であるところの一種の「ホーリズム(全体論)」についてもラッセルは首肯しかねる、と反論し、まあ、せいぜい、完全な絶望から来る麻痺の解毒剤程度の効果はあるだろう、とするその言い方は、かなりシニカルだと感じます。
ラッセルはスピノーザ的なホーリズムを拒否して、次のように書きます。

「個別的な出来事はあるがままの出来事であり、全体の中に吸収されることによって別のものにはならない、と私は思う。残忍な行為のおのおのは永遠に宇宙の一部なのであって、のちにどのようなことが起ころうとも、それを悪ではなく善だとすることはできないし、その一部を含んでいる全体に完全性を賦与することもできないのである。」(573ページ)

しかしながら、日本の広島・長崎の被爆体験を事例に採っても、ラッセルなら経験的事実に基づきその悲惨さと残忍や悪性は個別具体的に明白だと位置づけるでしょうが、スピノーザ的なホーリズムからすれば、個々人的には過酷で悲惨極まりないとしても、(日本国家全体として)巨視的に見れば、大人が蚊に刺された程度のものに過ぎず、かえってそれが善い方向に繋がるカンフル注射であった、というような「善悪転換」の評価も可能です。
このように、「価値と意味の賦与行為」は相対的であることが、スピノーザ的な一元論哲学から導出される一つの帰結でもあるのです。

また、スピノーザの一元論哲学では、「多数の実体」は断固否定されます。その唯一性の論証にはかなりの力が注がれているからです。
つまり、このような、ヘーゲル・スピノーザ的な「唯一の実体に立脚する一元哲学」においては、アリストテレス的な「多項的な本質主義」には陥らない、ということが導かれます。

ゆえに、一元論哲学においては、素朴に実在を信じる(ユダヤ賢者としての)ポパーの反本質主義とは、実際のところ、大きな隔たりはないと思われます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)14時22分8秒

 >>三段論法を否定することは、演繹的な推論を否定することにもなります。>>

 伝統的論理学の三段論法を否定することは演繹推理の否定にはなりません。
 三段論法は実践的な価値はゼロです。
 三段論法には歴史的な意義しかありません。

 アリストテレス論理学を否定することが問題なのではなくて、
 それを明確に使えない論理学だ!! と教えないほうが深刻な問題です。
 三段論法は厳しい批判の対象にすぎません。

 三段論法を堂々とあたかも現代論理学と同格に扱う人は自らの無教養を恥じるべきでしょう。

 三段論法においては概念が思考の最小単位になりますが、明晰な思考の最小単位は文以外にはありえません。この点で伝統的論理学は破綻しています。

 総合的な知識に関わる真理には到達できない、というのは批判的・合理的にものごとを考える際の思考方法であり、気に入らなければそれでいいのです。
 合理的思考のもとでは感情とかは無関係であり、没価値的にできることは徹底的に没価値的に進めて、価値判断とかは気分の表明であることを素直に認めます。

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本質 6 投稿者:ハム 投稿日:11月23日(木)13時38分49秒

>本質主義はまちがった方法であり・・・

>本質主義は、葬りさらねばならない、というのは、価値命題ですよ。言うまでもなく真偽を問うことに意味はありません。

本質主義は間違っているけれども、真偽を問うことに意味はない、?
これは、かなり矛盾に近いご主張です。

真偽を問うことに意味はない、のであれば問わなければよろしい。
真偽を問うのであれば、問うことに意味がなければならない。

そして、価値命題は総合命題でしょうから、真理には到達できない、のですよね。
真理には到達できないことを、あたかも真理のように強調することも、矛盾に近い態度だと思います。

あと、これ↓は問題発言です。

>論理学史以外でアリストテレスの論理学など教えてる論理学の先生とか、現代論理学を学んだのに本質主義的に思考している人がいる、とするならば、それらの人は何もわかってないと言われるべきです

アリストテレスの論理学は、論理学の基礎として必ず教えますし、勉強します。
三段論法がそれです。

三段論法は演繹的な推論法の一つです。
三段論法を否定することは、演繹的な推論を否定することにもなります。
これはとんでもない暴論です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)12時31分48秒

 Σ先生へ

 テスト不可能な問題はおのおのが論理の赴くまま自由に考えればよいと思います。
 存在論の問題に関しては経験科学と矛盾しなければ、いかなる立場をとっても問題ないのですから、これは趣味とか希望の問題でしょう。

 形而上学に対しては、明確な論理的誤謬を取り除く、という消極的な作業がもっとも要求される作業の一つであると考えます。
 ただ、私はシミュレーション・アーギュメントに対しては独断的ですが、全くの誤りであると信じます。
 哲学の歴史を振り返れば、奇妙な形而上学は腐るほど現出しております。

>>「自己原因としての存在としての実体」は、一切存在しない、というお立場でしょうか?>>

  端的に答えは間違いなく真か偽でしょう。直観主義的な論理観を排斥するならば。
  そして、問題のしくみ上、素直に答えは絶対に出ないと認めざるをえません。

  >総合的な知識に関する真理は発明するものではなく、発見するものです。

 「マルクス・エンゲルス的な」というのは反本質主義と全くの逆です。
 マルクスは「資本主義の本質」とか「資本主義の矛盾」を暴露しましたが、その点で間違いです。
 マルクスに関しては、ポパーも高く評価するように、本質主義による仮象論理のたわごととしても、キリスト的な人道主義に対してのみ評価を与えるべきです。

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)11時42分45秒

 誤字、脱字についてはご寛容ねがいます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)11時41分20秒

 普遍論争は典型的なアリストテレスの論理学の発想法から生まれた形而上学の枠内での形而上学です。
 人間は世界について、所詮言葉なしでは明確な思想を持てないのですから、世界認識の道具である言葉を、より正確な、「合理的な」論理の形で使用しなければなりません。

 本質主義は素朴な直観に反して、主観主義的な発想方です。
 不正確な言語の論理にもとづいて「実体」とか「本質」とか「真理」について主観的に抽象論を振り回しているのです。

 正しい世界認識は客観主義・合理主義を前提にしなければなりません。
 客観主義・合理主義においては客観的・絶対的な真理に少しでも近づこうとするからこそ、最終的・絶対的な答えを主張する理論は仮説もしくは偽と決め付けます。
 この点については明確な指針を出すべきなのです。

 言語芸術としての哲学は謎めいた(神秘的な)語りも許されますし、むしろ賞賛されるべきなのですが、
 客観的な世界認識の学としての哲学は必要でない限り、謎めいた語り方や、難しい言いまわしは好ましくありません。例えれば、この点でカントやウィトゲンシュタインは失格と評価せざるをえません。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)11時17分51秒

 「実体」についても汗牛充棟たる議論が大昔から繰り広げられてきましたが、一般に分析哲学と呼ばれる哲学の文脈の中では、次のように説明されますことがよくあります。

 「実体と偶性との区別」と呼ばれるものをさまざまな観点からメタ的に分析してみると、
 それは結局、アリストテレスの日常言語の文法における主語―述語を論理化した論理的主語と論理的述語の、「存在の世界」における対応物のことを無条件で前提にしていることが暴露されます。

 これ(実体と偶性との区別)は、われわれがもってる事物についての「概念」は事物(文における名辞)のイデアと一つになろうとするわれわれの強い欲求により、人間の中に生まれるものであり、言語の中の名詞は「真の意味」で「存在」するイデアに対応してる、と考えたプラトンのイデア論の産物です。

 周知のとおり、プラトンのイデアは集合名詞に対応していました。これに対して、アリストテレスでは「真の実体」である「第一実体」は固有名詞に対応する個物である、としました。
 彼は固有名詞のみが、絶対に述語の位置には来ることのできない、「真の意味」での主語と考えました。
 そして述語は多くの異なった実体に共通に言われますので、これに対応する存在は普遍者と思われ、さらに、述語の中でも集合名詞は主語の位置に来ることもできるから、アリストテレスはそれを「第二実体」と呼びました。

 そして、彼は「語(概念)」を通じて、「語(概念)」に対応する「実体」を知ることを事物の「本質」を把握する、呼んだのでした。
 このように「実体」を知ろうとする方法のことを本質主義と呼びます。

 アリストテレスにおいては「多項述語で表される関係の論理」は偶然的なものとして卑しめられてしまいました。これが本質主義の最大の難点の一つです。

 本質主義は常に、彼(彼女)がアリストテレスを好きであろうがなかろうが、もしくは彼の哲学を知らなかろうが、アリストテレスの論理学の思考法の変形に過ぎません。

 フレーゲとかその他大勢が論理学に大革命を起こす前には、ここに明確なしかし、その中にいるので(あまりにも自然過ぎて)気づくことすら不可能に近い限界があったのでした。

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宗教・哲学の「本質論」の本質 投稿者:Σ 投稿日:11月23日(木)10時20分10秒

田中先生へ

「本質」に関するハムさまとのご議論、興味深くみております。
横レス的に一言、申し述べさせて頂きたく存じます。

私はスピノザが大好きです。私には信じられないのですが、三浦教授のお話ではラッセルも、スピノザが好きだったようで、田中先生のラッセル観を延長するならば、なぜラッセルがスピノザを受け入れたのか、不思議な気がします。この齟齬について考究すると、新たな事実が浮かび上がるのではないか、と思っています。

さて、スピノザにおいては、「実体」という概念が立てられます。いわば、存在の本質存在のことです。
自己原因としての存在であり、他から産出されない存在です。
その反対としての、他から産出される存在は、己れの存在発生原因を他の存在に全く依存するので、「その存在自体の中には存在原因がない」と分析されます。
存在原因がそれ自体の中に存在しない存在は、本質的なものが欠如した存在であり、実体がない、と、スピノザは考えました。

ところで、既に、三浦教授と、依存関係の論理について対話したところ、三浦教授においては、メレオロジー的な総和の全体を認める時、全体の中に、自己原因が含まれると考える、というご見解が披瀝されました。
つまり、三浦教授も、「実体は皆無であるとする、虚無の空論」すなわち「世界の一切は自己原因を持たないところの、他に自己存在の産出を依存するところの存在の集合に過ぎない」 という論 に対しては首肯しかねる、というお立場であると推察されます。

田中先生は、「自己原因としての存在としての実体」は、一切存在しない、というお立場でしょうか?
それとも、そのことは、「存在する/しない、は不可知である」、としますでしょうか?
不可知であるとする場合、どちらか一方であると推論することも、「所詮誤謬推論になるから、そうした推論自体無駄である」として、たとえ、存在するか・しないかの二者択一の排中律であっても、両者の仮定を放棄して、不可知の立場を貫くべきだ、とお考えなのでしょうか?

>>々−−しかし、無限の宇宙では人間が感情的に何を考えようが何を欲しようがどうでもいいことであって、人間の願望とは完全に無関係です。だから、真理を最終的なものとする、ならば、それには到達できないと考えるべきであり、漸次的的に発展する科学が役に立ってるのですから、それでいいのです。 >>−−

田中先生のここに見られる基本スタンスは、「素朴実在論」的なものだと拝察されますが、如何でしょうか?
素朴実在論とは、いわば、「他者としての自然」を認める立場であり、その「他者である自然」の方にこそ、人間以上の叡智がひそんでおり、人間叡智は、それをただ発見するのみである、という意味での、科学者的な知的廉直−−−すなわち、ニュートンが「科学者とは真理の大海の岸辺での貝殻拾いをしているようなもの」という態度にみられる、「真理の大海」を「他者である自然」として畏怖するところの知的廉直−−−をも含む哲学であると言えますが・・・・如何でしょうか?
これは、「意味付けするのは人間様だ(けだ)」という「恐るべき知的傲慢」を捨てた知的廉直のことです。「他者としての自然」として、「既に意味付けされシステム化されているもの」を(不器用にか、エレガントにか、の差異こそあれ)それをただ「読み解くだけ」という意味での知的廉直です。

こうした立場が強く一般に流布している(ある程度のコモンセンスになっている)からこそ、「他者としての自然」を読み解いた結果、たとえば、遺伝子操作などをして、新しい形態の生物を生み出す人間の営為について、「神の領域に手を出す、恐ろしい行為だ」とか、「方法論のみを追求して基本倫理や哲学がないまま、人間が好き勝手をするという愚挙だ」というような論も生じるのでしょう。

そうした意味で、田中先生的な反本質主義を突き詰めると、どうしても、マルクス・エンゲルス的な、「唯物論的、社会主義国家的な傲慢さ(たとえば、科学の力で雨を降らせるとか)」へと流れ込んでしまうようで、そうした「方法論の自由(又は無法)暴走」を回避するべきメルクマールとしての「要件」定立が望まれるように思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)08時13分48秒

 本質主義は科学的思考に邪魔なだけでなく、

 たとえば、「自由の本質」とか「真の正義」とか言われると、われわれはいともたやすく、催眠術にかかってしまいます。

 「本質」という語は、様々な観点から見て、まじめな思索の足をひっぱるむだな語です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月23日(木)07時50分40秒

 本質主義は主語と述語の論理学の思考法であり、フレーゲやラッセルの功績により既に科学の世界では「葬り去られている」のですよ。

 役立たずのアリストテレスの論理学の思考法だから本質主義はまちがった方法であり採用すべきでない、といってるのです。
 明らかな誤りは排除すべきでしょう。

 本質主義は、葬りさらねばならない、というのは、価値命題ですよ。言うまでもなく真偽を問うことに意味はありません。

 そして、私が今回発言した、科学の世界で本質主義は葬り去られた、というのは総合文です。だから、これについては本当か本当でないか経験分析できます。

 そもそも、論理学史以外でアリストテレスの論理学など教えてる論理学の先生とか、現代論理学を学んだのに本質主義的に思考している人がいる、とするならば、それらの人は何もわかってないと言われるべきですし、
 普通の人は論理学の思想とか言語に関するメタ理論、倫理学説、科学哲学、などに熟知できるわけがないので、教え広めることのできる環境にいる先生方は教え広めるべきです。

 ラッセルの哲学でとても重要な考えに還元主義というものがあるのですが、常にものごとを何かに還元できないか考えてみるのです。
 すると、哲学について徹底的に還元主義を考慮しながら考察を進めると、すべての哲学は方法論に還元できるということに気づくはずです。すなわち究極的には「いかに生きるべきか」という人生の方法論にたどり着くはずです。

 方法については真偽は問うことがナンセンスです。  しかし、明白な誤りを発見することや、方法についての評価は、いかなる方法を自分の人生で採用するか、という実践的な判断につながるので常に批判的に行わなければなりません。

 相対主義者は誤りであって、彼らが真理を相対的と言うならば、主観主義者の勘違い(たわごと)と評価せざるをえません。
 いやしくも真理(普通の人がこの語について反省する前の意味による)というものならば、絶対的であり、最終的なものであります。
 しかし、無限の宇宙では人間が感情的に何を考えようが何を欲しようがどうでもいいことであって、人間の願望とは完全に無関係です。だから、真理を最終的なものとする、ならば、それには到達できないと考えるべきであり、漸次的的に発展する科学が役に立ってるのですから、それでいいのです。

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本質 5 投稿者:ハム 投稿日:11月22日(水)23時37分57秒

田中さんは、(総合命題は)真理には到達できない。
と主張されました。

そして、本質について、こう主張されています。
>本質主義的定義は伝統的論理学的思考法(概念と三段論法の論理学)の産物であり、伝統的論理学とともに葬りさらねばなりません。

本質主義は、葬りさらねばならない、?

本質主義は葬りさらねばならない、という命題は総合命題でしょうから、真理には到達できない、わけですよね。

真理には到達できない、ところの「本質主義は葬りさらねばならない」という総合命題をことさら主張されるのは矛盾ではないのですか?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月22日(水)19時55分32秒

 補足しなければなりませんが、数学に関する前提として、構成主義をとっています。
 数学はラッセルいわせれば、論理的虚構です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月22日(水)19時37分24秒

 >>カントでは、「数学」は綜合命題だったと思います>>
 
 おっしゃるとおりです。

 わたしは哲学の文脈での一般的な定式つまり、経験に直接に関係するものを「総合」と呼び、
 いわば先天的に人間の中にあると考えられた論理の法則、もしくは人間がつくった論理の法則だけに従って、決定され、拡張される、ような知識に関するものを「分析」と呼ぶ慣習に従いました。
 簡単に言えば、将棋とかのルールも分析的知識であり、将棋のルールの命題も分析命題です。

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たしか・・・ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月22日(水)18時14分4秒

> クワインが分析命題と総合命題をあいまいにして、カントの明晰な思考の結果を未曾有の混乱に陥れましたが、絶対的な真理は分析命題(数学、論理学)にしかありません。

カントでは、「数学」は綜合命題だったと思います。「1」「+」「2」「=」という概念からは「3」という答えは出てこないという理由により。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月22日(水)00時27分11秒

 あいにくなことに、単純枚挙による帰納は、...それが真理に導くよりも誤謬に導く方がはるかに多いということが、証明されうるのである。

 常識を必要とするのであれば、そういう原理は論理学者を満足させうるものではない。     科学と常識との大筋を、真として受け入れようとするならば、われわれは帰納法以外の原理を探さねばならない。

 カントとヘーゲルとの哲学をすてて以来ずっと、私は哲学的問題の解決を、分析の方法によって求めてきた。そして現在それに反対する傾向がいくつか見出されるにも関わらず、私はただ分析によってのみ進歩は可能であると今でも固く信じている。
(ラッセル 野田氏訳 私の哲学の発展 13頁)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月21日(火)23時16分46秒

 何かが「本質的」性質であるかというのは、対象自体の性質だけからは決められません。
 それは認識目的とそれに即して主体的に選択される視点との関連においてのみ、相対的に定まるものです。  だから、対象の「本質的性質」という形而上学的・絶対的な表現を「認識目的上重要な、または、実践上重要な」性質という相対的な表現におきかえれば本質主義の部分的な正しさは(いくらかは)救われます。

 対象の「重要な」諸性質は、すくなくとも第一時的には、対象自体の経験認識から究明されねばなりません。
 このような認識なしに不用意に(無反省に)定義される表現は、学術用語として有効に機能することは不可能です。
 だから、学術用語の定義はヘンペルのいわゆる「経験分析」を十分に考慮しなければなりません。重要な学術用語がその機能をはたしうるには、それの属する領域(業界)での在来の研究の成果を集約的に表現し、将来の研究への有効な手がかりを与えるような方法で定義しなければなりません。
 本質主義的定義は伝統的論理学的思考法(概念と三段論法の論理学)の産物であり、伝統的論理学とともに葬りさらねばなりません。本質主義がもたらした混乱は論理学史をひもとけば容易にみてとれるでしょう。

 現代論理学は関係の数学的把握につきます。  哲学ではラッセル自身みずからの敗北(というか哲学に対する悟り)を認めて述べたのだと思いますが、哲学はすべて大嘘で論理学のみが正しいと言ってます。
 ラッセルの西洋哲学史をよく読めば本質主義のもたらした混乱がよくわかると思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月21日(火)22時52分36秒

>>真理に到達できない、のは総合命題だ、という条件を付けなければならなくなります。>>
 おっしゃるとりです。わたしはこの点については過去の投稿で明言しました。

>>万有引力の法則は真理に到達しているか、と問えば厳密には偽となるでしょう。しかし、万有引力の法則は引力のx%を満たす真理である、と問えば真となるのではないでしょうか。>>
 それはハムさまのおっしゃるとおりであると思います。
 しかし、ここで問題となるのはどのくらい近づいたかは確認できないということです。ですから、実践上、ハムさまのおっしゃった点については頭の中で考慮しつつも、それほど気にしなくてもよいと思います。

 >>真理には到達できない、という命題は総合命題でしょうから、真理には到達できないのではないですか?>>
 これは、正当な疑問であり、素直にこれは厳密な意味での真理ではないことを認めます。
 これは、反証主義とか人間原理とかにもいえるのですが、有効に思考を進める方法の一つにすぎませんから、採用するかしないかは自由です。

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本質 4 投稿者:ハム 投稿日:11月21日(火)22時29分58秒

>トートロジーは分析命題であり、まったく異質なものです。

となると、真理に到達できない、のは総合命題だ、という条件を付けなければならなくなります。

分析命題は真理に到達できる、と主張せずにことさら、(総合命題は)真理に到達できない、とのみ主張する意義が問われることになります。
分析命題よりも総合命題の方が大切だ、というわけではないはずです

総合命題に限らず帰納による推論対象は、観察や実験によって確証の度合を高めていくわけですから、真理に到達するのは容易ではありません。

しかし、本当に真理に到達できないのでしょうか。

万有引力の法則は真理に到達しているか、と問えば厳密には偽となるでしょう。
しかし、万有引力の法則は引力のx%を満たす真理である、と問えば真となるのではないでしょうか。

もう一つ、真理には到達できない、という命題は総合命題でしょうから、真理には到達できないのではないですか?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月21日(火)15時18分46秒

 人間が何かを知るには直観(思弁)と感覚器官による経験しかありません。
 認識の源泉が何であれ、どんなにがんばっても人間の視点からみた世界(科学的世界観であれ、神秘的世界観であれ)しか見れません。
 そこにはっきりとした限界があります。

 実際の現代科学は自然・世界の実態を探るとはいうものの、広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が、科学的観点から見た世界の実態です。

 「無限」の宇宙の真理にはいくらか近づけても到達はできません。直観(思弁)は常に間違ってる可能性のほうがはるかに高いです。

 最終的・絶対的な真理には到達できないと考える「べき」なのです。いかなる方法でも。
 これは批判的でかつ合理的にものごとを進める際の思考の「方法」であり、
 いわば趣味の問題です。
 しかし、切実にものごとをうまく進めたい人は厳守せねばならない思考方法です。

 方法論的唯名論というのは、存在に関する普遍論争でいわれるところの唯名論と明確に区別するために頭に「方法」をつけたのです。
 日本の知識人の大部はポパーを(一部の例外を除いて)完全にスルーしてしまっているので知られていないのですが、科学の方法の定石です。

 クワインが分析命題と総合命題をあいまいにして、カントの明晰な思考の結果を未曾有の混乱に陥れましたが、  絶対的な真理は分析命題(数学、論理学)にしかありません。
 これらは「人間がつくった」ゲームにすぎません。数学をなにやら神秘的なものとして捉えるゲーデルの見方は誤りです。人間がつくったものだからメタ的にゲーデルの不完全性定理みたいなこともできるのです。総合命題は分析命題と完全に異質です。
 だから、分析命題と総合命題を厳格に峻別して考えなければなりません。

 ここで問題となっている万有引力とか世界についての実質的な命題はすべて総合命題です。わたしが最終地点に到達できないと言ってるのは総合命題の問題です。

 トートロジーは分析命題であり、まったく異質なものです。

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本質 3 投稿者:ハム 投稿日:11月20日(月)23時31分0秒

どうも分かりません。

田中さんのご主張というのは、
・真理には到達できない。(本質主義でも、方法論的唯名論でも)
・本質主義は誤りである。

ということでしょうか?

方法論的唯名論なるものに比べて、本質主義が誤っているというご主張は、本質主義なるものが実念論を指すものならば、唯名論側のご主張として当然のご主張だと思うばかりです。
問題は、真理には到達できない、です。

真理には到達できない、のは何故か、証明が難しいとしても納得できる理由はありませんか?

先にあげた、万有引力(F=GMm/r^2)の法則は、真理に到達していないといえばいえます。
アインシュタインの相対性理論により修正されているからです。
このことをもって、真理には到達していないというのであれば、ニュートンの万有引力(F=GMm/r^2)の法則は、静止系の引力において真理に到達している、といえばよい。
つまり、この場合は命題を強くすれば、真理といえるようになるはずです。

そして、命題をうんと弱くすると究極の真理といえるものがあります。
トートロジー(例、p⊃p)です。

トートロジーは、田中さんのおっしゃる真理とは違うものですか?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月20日(月)02時48分35秒

 ハムさまがおっしゃることはほとんど正しいです。

 私がいいたいのは端的に、科学でも哲学でも何かしらを最終的な答えとすることは「絶対に」できない、ということです。絶対的な真理(特に法則)には近づけても、到達できないと考えるのが穏当ではないでしょうか。

 真理を追求するのが大切なのは、当たり前なのですが、
 …とは何か、とか、…の本質は何かとか、真の…とは何か、という問いの下では明確な解答は原理的に出ません。
 問題の主題となる概念は定義(定義に対しては正しいとか、誤りとか言っても無意味です。経験分析や意味分析なら問えますが)されるのみです。

 私が言ってることは本質主義的方法が根本的に誤っているということです。

 自然科学は本質主義的な発想では進歩しません(特に最先端では)。本質主義が科学の進歩を阻んできたことは周知の事実です。

 社会・人文ではほとんどが本質主義的発想なのですが、たとえば、ありがちな問題で「豊かさとは何か」、とか「知識とは何か」という問いにおいて問題となる概念(豊かさ、知識)は問題に取り組むために単に定義するなり、一般にその概念が使用される意味を調査する以外の方法は混乱をもたらすだけです。
 本質主義のやりかたはわかったような気がするだけで結局何もわからせてくれません。なぜなら、実際には概念の「意味」の問題に一所懸命に取り組んでいるだけだからなのです。

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本質 2 投稿者:ハム 投稿日:11月19日(日)23時37分45秒

>科学・哲学においても人生においても「客観的・絶対的な真理はあるか?」という問題提起は時間(人生)を浪費する有害な問題提起の権化です。

>おそらく客観的かつ絶対的な真理はあるし何らかの絶対的普遍法則もある(ように思われる)、がしかし、人間の言葉(数も含んだ)ではそれをすべて表現するのは不可能であるし、期待すべきでもない、と考えるべきです。

真理は有害である。
なぜかならば、真理を表現するのは不可能であるし、期待すべきでもないからである、と?

この考え方は科学(や哲学)とは相反する考え方だと思います。

我々は今、例として万有引力(F=GMm/r^2)の法則を検討してみました。
この法則によって、人工衛星や宇宙探索が可能になったのですが、
これは真理の一部とは思われませんか?
それは真理ではない、無駄なことだ、とお考えですか?

>結局、科学者や哲学者の真意が何であれ、役に立つ範囲で言葉の使用のもと事実の真理に近づくだけです。

役に立つ範囲で、真理に近づくだけ?

真理や本質を追究する、という意志がなければ、真理に近づくことはできなかったはずです。
そして、真理や本質に近づけたから、それに伴って文明が発展してきたのではないでしょうか。

大事なのは、真理や本質を追究するという意志なのではないでしょうか。
どうせ不可能なのだから、もっと役に立つことだけをやっていろ、という考え方で、真理や本質を追究する人がいなくなれば、文明が停滞してしまします。
宇宙の謎も解けませんし、生命の謎も解けなくなってしまいます。
そういう世界を私は望みません。

人はパンのみに生きるにあらず、という言葉もあります。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)19時05分43秒

 Σ先生のご指摘はまことに正当です。

 日本においては哲学は実社会とほとんど無縁の役に立たない学問と一般に認知されているのですが、アメリカでは一部の実業人の間で役に立つ学問とされている事実を広めたかった次第です。

 そういえば、稲盛氏は京都賞を通じてポパーともっともつながりの深い実業人の一人ですね。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)16時15分17秒

 客観的かつ絶対的な真理はあるか?という問いに直観的に答えるならば、
 おそらく客観的かつ絶対的な真理はあるし何らかの絶対的普遍法則もある(ように思われる)、がしかし、人間の言葉(数も含んだ)ではそれをすべて表現するのは不可能であるし、期待すべきでもない、と考えるべきです。

 結局、科学者や哲学者の真意が何であれ、役に立つ範囲で言葉の使用のもと事実の真理に近づくだけです。
 いかなる分析も科学者や哲学者自身の好奇心を満たすという意味で最低限役に立っています。
 そして、科学の問題にしても哲学の問題にしても、無反省な方法にもとづく明らかな間違いはよくあります。
 形而上学で面白いのは、奇想天外なことを主張したものが勝ちみたいな風潮が少し見えることです。直観ははずれる可能性が高いのは当たり前なのですが、論理の赴くまま、直観を無視して、空想世界を建築する哲学者がけっこういます。そして、その手の形而上学は論理のほころびや数学の誤用が多々あるということは肝に銘じるべきです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)15時21分58秒

 科学・哲学においても人生においても「客観的・絶対的な真理はあるか?」という問題提起は時間(人生)を浪費する有害な問題提起の権化です。

 方法論的には、テスト可能性などさまざまな重要なポイントを考慮して、大胆に仮説を提起して検証しておしまいです。
 検証されたものも最終的な答えではなくて、常にひっくり返されるかもしれない(反証される)可能性を素直に認めて、どんどん突き進むのが一番有益な方法です。

 一般に現代日本において、「哲学」の名のもとで、展開されるのは過去の哲学者の思想の「解釈」(特に病弊が激しいのがウィトゲンシュタインのものに関するもの)やニヒリズムやら現象学やら観念論、こころの哲学、形而上学などのようです。
 ウィトゲンシュタインは何やら読み方のルールがあるようなことを主張する人がいるようですが、彼の短い警句みたいなものは、読む人がその深遠さをおのおの午後のひと時にでも味わっておしまいにすべきものです。
 ニヒリズムは単なる敗北主義にすぎないと思います。犯罪者や社会的に疎外されたものにはうけるのかもしれませんが、そういう人や書いてる本人にも虚無主義・敗北主義に走らせるので誰に対しても好ましいものではありません。

 心の哲学に関しては、ある意味では評価できるのですが、この分野の発展を希望しつつ、何かしらの明確な答えはおそらく出ないであろうことを確信しています。

 哲学の名のもとに何をやっても自由なのですが、すべての学、そして人の人生における生き方の基礎づけをこころざすならば、方法論を第一の目的にしなければならないと思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)14時08分55秒

 私などは門外漢だからよくわからないのですが、万有引力は、アインシュタインの重力理論である一般相対性理論(一般相対論)では、重力場の方程式(アインシュタイン方程式)に従い、真空中では光速度で伝わると考えられていて、一般相対性理論では、万有引力はもはやニュートン力学的な力ではなく、重力場という時空の歪みであると理解されるらしいですね。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)13時54分2秒

 なお実念論対唯名論に関しては、三浦先生の『ラッセルのパラドクス』でも展開されている中性的一元論などの観念論的立場も見当した上で、いわゆる実念論は支持できません。
 普遍は理論や書物そして思想の問題の世界(いわゆる世界3の問題)であり、世界1の問題では決してありえません。
 しかし、私は唯名論も受け入れられない考え方であると思います。
 この問題は言語の無反省な使用にもとづく混乱にすぎません。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)13時23分32秒

 事実の問題について、事実だけで解決するのではなくて、道具としての言葉を使わなければならないし、言葉でしか思索できないという点(だからこそ言語に対する徹底的な反省が必要であると主張してるのです)、そして事実から「ある程度の」普遍性を導き出す点についてはまったくハムさまと同意見であります。

 >>万有引力の本質は、F=GMm/r^2 (F:引力、G:万有引力定数、M、m:質量、r:距離)であったとして、この認識の方法が誤りだとは思えません。>>
 計算を詳しくやっていくと、どうしても計算が合わなくなる(天王星とか海王星とかをご想起なさることを期待します)のは周知の事実でしょう。
 万有引力の概念は役に立つのですが、それの本質をF=GMm/r^2なる式として、形而上学的・絶対的・最終的な答えとしてはなりません。物理学の進歩を見れば自明の真理です。

 法則にしても事物の同一性にしても、同じ現象、同じ事物は(時間、空間を考慮にいれるならば)二つとないのですから、安易な帰納から普遍は導けません。

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本質 投稿者:ハム 投稿日:11月19日(日)12時51分38秒

万有引力の本質は、F=GMm/r^2 (F:引力、G:万有引力定数、M、m:質量、r:距離)であったとして、
この認識の方法が誤りだとは思えません。

>万有引力という「語」も理論を説明するための道具としての符号にすぎず、何か生き生きしたものとしてそれを「概念」と呼ぶならばそれは科学的な思考法ではないということです。そして「認識の学」としての哲学の方法でもないということです。

「万有引力」も「F=GMm/r^2」も符号でしょう。
しかし、我々はその符号でしか思索ができないのです。

>本気になって取り組まなくてはならないのは事実についての問題であり、・・・
>本質主義は「一見」事実の問題に取り組んでいるように見えるのですが、「概念」の本当の「意味」について取り組んでいるだけなのです

事実についての問題を、事実だけで解決するようなことは人間以外の動物の解決方法ではないでしょうか。
我々は、事実から普遍性を見出すことで問題を解決していきます。
その方法は符号によってなされざるをえません。
つまり、符号によって生ずる概念をより普遍化すること、
例えば、「万有引力」という概念を「F=GMm/r^2」というより普遍化した概念によって把握する、このことによって現在の豊かな文明が育まれてきたのだと思います。

田中さんはおそらく、実念論対唯名論を念頭において主張されているのだと思いますが、実念論も唯名論も対象の見方の差に過ぎず、目指すところは本質なのではないでしょうか

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)12時09分31秒

 本質主義、反本質主義、方法論的個人主義とか全体主義と関連するのですが、
 たとえば、「人間とは何か」という問いに対しては、それが人間という概念の本質をさがすという意味ならば、客観的(団藤博士にいわせるならば間主体性)・最終的な答えは出ません。
 常に反対意見が出るでしょう。たとえば、人間の本質を私が理性をもつことだ、といってもおおいに反論が予想されますし、言葉を操る点にあるといってもおなじでしょう。  そもそも、そのような発想法は客観的な帰結を原理的に導かないので、主観的な直観主義(哲学の文脈でいわれるところの)にすぎないのです。

 しかし、これこれしかじかの性質を持つものを人間と呼ぶというのならば、それは単なる規約であり、ある特定の場での議論(たとえば医学等)に参加する前提にすぎないことになります。

 哲学者が普通の人よりもはるかに深刻で決定的な危険をもたらすのは、客観的なよそおいのもと主観的な直観を正当化する点にあります。
 最近の哲学者に目立つのは確率の無反省な使用です。
 答えをいうならば、同じ現象は絶対に2度と起きないので(この世界の時間の中では)単純な問題ではなく、複雑な、それこそ哲学者が根本問題と呼ぶものの多くに対しては、確率を安易には使用できないはずなのです。
 徹底的な反省のもとで使用しているにしても、議論を展開するうえで、相手を説得するには明確にしなければなりません。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)11時02分37秒

 イスラエルが科学者を集めてハチ型兵器という極小の兵器を急ピッチで開発しているらしいのですが(なお私はこのような方法で科学を使用するのは道徳的には許容できないと考える)、このような科学の最先端では本質主義は論外であります。

 二番煎じ、三番煎じの「科学者」は最先端の理論を暗記(記憶)すればまったく足ります。しかし、このような科学者ばかりが増えたら、国家の存続に関わるでしょう。

 本質主義哲学は「業界」の人間がそれを生産する点では、生産者に利益をもたらすことがある、かもしれないのですが、ユーザーにとっては言語芸術としての使い道しかありません。
 しかも思弁哲学以外にもほかに素晴らしい芸術がたくさんあります。人生は思弁哲学の仮象論理のまどろみの中で生きるにはあまりにも短いのではないか。

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)10時14分20秒

 フレーゲは本質主義者ではなく、彼の理論はまさにその対極にあるのですが、いくら頭がよい人でも「意味」について本気で取り組むと失敗するということです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)10時11分57秒

 本質主義は言葉の意味について本気になって取り組もうとして力んでいるだけです。
 たとえば、フレーゲが現代論理学にもたらした功績は計り知れないものがあるのですが、彼の言葉の「意味」に関する考察は単に無限の混乱の豊かな源泉になっているだけです(もちろん後知恵だから言えるのだが)。
 言葉は単なる道具であり、語(概念)は単なる符号です。言葉の意味は感覚器官からの刺激が(極度に複雑な経路をたどって)脳に与える化学反応か何かでしょう。言葉の意味はそれぞれの人が今までその人が何らかの形で脳に与えてきた刺激により、多様な「意味」をすくいとれる人もいればそうでない人もいるということです。外国語を学習することによりそのことが切にわかる方が多いと思います。万有引力という「語」も理論を説明するための道具としての符号にすぎず、何か生き生きしたものとしてそれを「概念」と呼ぶならばそれは科学的な思考法ではないということです。そして「認識の学」としての哲学の方法でもないということです。

 本気になって取り組まなくてはならないのは事実についての問題であり、事実についての様々な主張、つまり理論や仮説、そして解決されるべき問題や提起されるべき問題であり、本質主義は「一見」事実の問題に取り組んでいるように見えるのですが、「概念」の本当の「意味」について取り組んでいるだけなのです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月19日(日)09時37分27秒

 本質を追求すること「自体」は否定も肯定もしませんが、何かしらの性質や現象を最終的・絶対的な答えという意味で、「本質」だ、というのは根本的な誤りであり、認識の方法としては端的に間違いである、ということです。
 擬人的・目的論的宇宙観を離れれば、本質も皮相もなくすべての性質・現象は等しく等価値(無価値)です。
 本質というのは人間の意味賦与行為があってはじめて存在する、ということです(問題を徹底的に考えぬくならば)。

 ニュートンの万有引力の発見については「万有引力とは何か」という問いのもと(純思弁的に)で発見されたのではなく、太陽系の遊星間に働いている引力(周知のとおりこれが太陽系の遊星間に働いていることはニュートン以前に既にわかっていたことです)と同じものが地球と地球上の物質間にも働いているのではないかと考えて(万有引力なるものがあるのではないかと仮説をたてた)、地球上で物質が落ちる時の加速度から、月が地球を一周する周期を計算してみたら、それが実際の月の周期と一致したので、天体にも、地球上のものにも、すべての物質には、相互間に逆二乗の法則にしたがう引力が働くことが計算から示されたので、それでその力を、万有引力と「呼んだ」のでしょう。

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方法論的唯名論的な反本質主義? 投稿者:ハム 投稿日:11月18日(土)19時21分40秒

田中さんの直近の書き込みを読んでみたのですが、本質を追求することに批判的なご主張のようにお見受けします。

そこで一つ確認したいのですが、
例えば、ニュートンの万有引力の法則は、方法論的唯名論的なのか、本質主義的なのか、どちらなのですか?

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宇宙が味方する経営 投稿者:Σ 投稿日:11月18日(土)17時32分30秒

田中先生へ

ポパー哲学が勝ち組哲学であるというご主張は、ソロス一人を見ての誤謬仮象的な仮説ではないでしょうか?

ユダヤ・キリスト教の(勤勉・倹約・実直、及びタラント倍増の)哲学からこそ、実は、「資本主義原理とその発展運動」およびその社会での成功哲学が導かれることは、マックス・ウェーバーの指摘の通りです。

『宇宙が味方する経営』
元・三井住友銀行常務、現関西アーバン銀行頭取の、伊藤忠彦 著

破綻寸前の銀行を奇蹟的に他に類を見ない優良行にした現役頭取が初めて明かす、運命の大きな流れをつかみ、会社を、人生を成功に導く、思いもかけない方法。誰も書かなかった成功の奥義。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4770040601

著者はクリスチャンという立場から、宇宙観、哲学感を分かり易く解説し・・・。

なお、成功者の一人である稲盛 和夫氏は、臨済宗に出家の仏教徒です。

単なる方法論的唯名論的な反本質主義のみでは、やはりスケールの大きな成功者にはなれない、と私は主張したいと思います。
なぜなら、それが「宇宙の法則だから」です。
このことは、仏教の「無自性」概念を徹底的に考究すれば、スピノザやヘーゲルが叙述するところの、「真の概念(観念)」に突き当たらざるをえないことで、間接証明される、と言えましょう。

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・・・ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月17日(金)23時00分44秒

株の鉄則は、麦わら帽子は冬に買えです。

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re コモン・ノレッジ 投稿者:田中 投稿日:11月14日(火)23時05分44秒

 株式市場において、理論面・実践面で最も成功したのはソロスとケインズです。
 彼らは他の人と異なり、株式市場について数学の多用を避け、「質的」な説明をしました
。  たしかに、表面的には株式市場は「量的」なのですが、実際には「質的」な性格を持っております。つまり、「質的」な考慮に基づく不確実性のもとで意思決定を行う多くの人間によって推進されるということです。

 株式市場とは逆に、
 物体の力学的行動(葉が地面に落ちること、石をかなづちで打ち砕くこと、水しぶきの動きetcを想起してください)は表面的には「質的」な現象が複雑に広がっているように見えます。
 アリストテレスの「物理学」では物体の力学的行動がすべて純粋に「質的」に分析されました。
 ニュートン力学によりすべての現象は数と数学に還元できると示されました。ここでは、外観は質的だったのですが、現実には量的だったのです。

 似たようなことは、身の回りにありふれていると思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月13日(月)23時49分23秒

 本質主義(プラトン・アリストテレス的発想法)は結局のところ、概念(概念というとなんだか崇高な雰囲気がするが実は単なる「語」)の「真の」意味を探すことに煩わされているということです。
 ゴンペルツ父子がするどい分析をしてますが、自然科学の分野では方法論的唯名論的発想法が標準的なのですが、社会・人文科学の分野ではかなりの部分の議論が本質主義的発想法により不毛な議論に陥っているのです。

 確率論の入門書等はあまり述べないのですが、現在の確率の主要な解釈は四つです。
Donald Gillies. Philosophical Theories of Probability参照

1 論理説 確率とは合理的信念の度合いである。
2 主観説 確率とはある特定の個人がもつ信念の度合いである。
3 頻度説 同じ事柄の長い系列において、それが起こる一定の有限な頻度を確率ときめつける。
4 傾向説 少なくとも一つの学派において、確率とは、繰り返される一連の条件に内在する傾向     である。

 なお、確率の傾向説を導入したポパーはいかなる形態の主観説をも認めようとしませんでした。

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コモン・ノレッジ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月13日(月)21時49分31秒

> 状況が意志を持つ関与者を含む時、事象の展開は一つの事実集合から別の事実の集合に推移するのではなく、事実が認識に影響を及ぼし、その認識がまた事実の展開に影響するというようにスパイラル状に展開していく。

“コモン・ノレッジ”の考え方で数理的に解明されたという、株の大暴落などのメカニズムみたいなものかなと思ったのですがハズしてますよね、では。(^^;
#参考文献:『確率的発想法』

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・・・ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月12日(日)22時59分0秒

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 ポパーは「果てしなき探求」で、彼が「反本質主義」とよぶ自分の立場を、当初は「唯名論」の一変種であると考え「方法論的唯名論」とよんでいたと述べている。一方、自分は外部世界の存在を一度も疑ったことはないから「実存」を信じる立場であるが、「実在論」というのが「唯名論」と対立する言葉として用いられていることが問題であるとし、プラトンやアリストテレスの立場を「実在論」ではなく、「本質主義」と呼ぶことにしたのだという。(…)またゴンベルツはポパーの立場をどこからみても「実在論的」であると評したという。
::::::::::::::::::::
http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/page081.html

なんだかなぁ・・・

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カントの両刀使い 投稿者:Σ 投稿日:11月12日(日)11時11分41秒

本質主義と反本質主義の問題は、カントの次の言葉に要約されるかもしれません。
即ち、「形而上学は人間理性の限界についての学である」

理性が己れの守備範囲を越権して思弁的理性が勝手に独断論で暴走して「仮象論理を構築する」ことが一種の「戯論(けろん)」であること−−−この点、反本質主義的に、科学的に役割や機能分析の領域に終始することが、実り豊かであることには、心から同意致します。

そして、カントは、理性の限界(境界)ギリギリの所で思索し、「人間理性にとっての真の深淵」について「覗き見る」ことを−−カントは「覗き見る」ことを知的廉直で次のように放棄します。
「神が世界の統治において目論んでいる意図を推し量ろうとする時、人は暗黒の中にいるのである。」と。
このように、カントは「それを覗き見る」ことを放棄しつつ、しかし一方で、「その実在を深く意識すること」、については、積極的です。仮象を否定して行きその仮面を剥ぎ取る作業の最後が、結局、「何もなくなってしまう」という「虚無的な空見」に帰着するであろう、という見解を拒絶します。
この点は、ポパーも同じでありましょう。

ゆえに、カントは、本質主義を基盤にしつつ、その限界を理知的に弁別して、場面によって、意図的に、目的論的に「反本質主義的考察をする」、という「両刀使い」の立場であったと評せましょう。
哲学の現代に通じる大きな潮流は皆、カントから発せられる、とすら言えるでしょう。
ラッセルの『西洋哲学史』のカント解説は、どうも称賛しかねます。
ところで、「無限公理」についてカントはどのように思ったであろうか?  との疑問があります。
「有限公理」であれ「無限公理」であれ、いずれかを措定することを、カントは、思弁的理性の越権的暴走行為として、パラドックス発生の原因になるに過ぎない、と切り捨てるのではないか、と思うのですが、すると、どのような立場を採るのか?
やはり、数学の「直感主義」的立場がカントのそれになるのではないでしょうか。

なお、ソロスの再帰性概念は、弁証法的に捉えることも勿論できますが、私はシステム論的に、システムの自己保存機能として、エントロピーが過剰に増大した時にそれを排出して縮減する、というオートポイエーシス作用と捉えます。振り子が左右に振れても結局戻ってくるように。

因みに、「オートポイエーシス」のウィキの解説の冒頭には、「オルガニゼーションとは何か」という本質主義的問いの一つの回答として提唱された概念だとあります。(笑)

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訂正 投稿者:田中 投稿日:11月12日(日)09時43分25秒

 方法論的唯名論は科学的な発想法です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月12日(日)09時41分53秒

 方法論的唯名論的には科学的な発想法です。
 たとえば、ひとびとの精神生活に安らぎを与え、ときには争いの元になるところの、神または卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事、に「宗教」という符合をつけるということです。
 通常の経験科学の方法により観察された事実・事象に便宜的に印(符号)をつけるのです。
 聖者や超能力者でない限り、普通の人は概念の本質を超越的な直観(通常の経験科学によらない方法)にたよってつかむことはできません。本質だと思っているものが本質だと確かめる方法すら不明です。これはカントが非常に晦渋な言い方ではあるが主張したかったことでしょう。

 女なども科学的には、「女」の概念の本質を探求するのではなく、女性がもつ性器、体つき、性格傾向、髪、など観察される性質をそなえる人間を「女」と呼ぶだけです。本質をさがすことは無駄でしょう。人はひとりひとりかけがえがなく、個性豊かなので、恋愛するときもその人自体をじっくり観察してうまく付き合うのがよい関係を永く続けるコツです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月12日(日)08時18分27秒

 私は青年時代は完全な本質主義者でしたから、人生とは何か、科学とは何か、人間とは何か、友情とは何か、女とは、何か、哲学、経済、 数学、法律、教育、原子、エネルギー、etc とは何か。 などの発想法で無限の混乱に陥っていたのを思い出します。  方法論的唯名論的な発想の方が、明晰で、楽で、実りがあると確信した時のすがすがしさを他の多くの人も知ってよいと思います。

 それは、さておき

 観測選択効果と弁証法を批判的に併せて考察し、応用することにより、現実を説明することができます。

 思考する参加者からなる社会システムを分析するのにソロスが用いる重要な概念に「再帰性」という概念があります。
 これは、社会システムにおける思考する参加者が社会状況を研究し、分析し、それについての信念や理論を形成するものです。
 これらの信念や理論には、多くの場合そうであると思いますが、誤りや思い違いがたくさんあります。(弁証法でいうところの矛盾はこのようなものを含むでしょう)
 こうした欠陥(矛盾)はさけがたいのですが、信念や理論は参加者の行動に影響を与え、社会システムの発展する方向を決める手がかりになります。社会システムのこの発展が次に、参加者の信念や理論に影響を与え、社会システム自体が相互作用のプロセスを通じてできあがり(まさに弁証法的に)、ソロスはこれを再帰性と呼びます。(私はソロスの弁証法と自分自身の便宜のために勝手に呼んでます)

 このプロセスは自然科学が扱うプロセスとは異なっている。自然科学が問題にするプロセスでは、ある事実の集合の後にハ別の事実の集合が続いている。
 そこには、関与者の認識や思考は介在していない(ただし量子力学では、観察が不確実性をもたらすが)
 状況が意志を持つ関与者を含む時、事象の展開は一つの事実集合から別の事実の集合に推移するのではなく、事実が認識に影響を及ぼし、その認識がまた事実の展開に影響するというようにスパイラル状に展開していく。
 よって、再帰の概念を土台にすると、スパイラル的歴史観が生まれるのである。

 スパイラル歴史観は一種の弁証法と認識する必要があろう。
 ヘーゲルの弁証法的概念とマルクスの弁証法的唯物論を合わせたものと解釈できる。
 思考または物理的な条件がみずから弁証法的に進化していくのではなく、二つの機能の相互作用が弁証法的プロセスを生みだしていく。Soros, G.The Alchemy of Finance, Reading the Mind of the Market,pp.42-43:邦訳54頁

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数とは何か? 本質主義的探究の結果 投稿者:Σ 投稿日:11月11日(土)23時26分5秒

ユダヤの話ばかりしていると顰蹙を買うかもしれないので、
ラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』では、「数とは何か」という本質主義的論考によって、「数」自体に論理主義的な基盤を与える試みをして成功しなかったということが言われます。

「実在的根拠を立てるための、自己自身を含む命題を立てるとパラドックスを生じる」 という現象が示す本質的意味は何か?

私は、それこそ、実在の真相が矛盾的様相をしているからだ、というヘーゲル的な見方が正しいことを示している、と述べたいわけです。
この主張が、論としてあまりにも、大雑把であるにしても・・(笑)。

仏教における「一切〜」という命題に関しても、全く同様のことが言えます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月11日(土)23時17分7秒

 ポパーについては注意せねばならない点があり、その点について多少説明しておきたいと思います。  この点についてソロスが丁寧に説明しているのでみなさまのお役に立つことを期待しつつ引用させていただきます。

 私は当時、カール・ポパー科学的方法に対する考え方に、大きく影響を受けた。私は彼の意見をほとんど受け入れることが出来たが、どうしても納得できないポイントが一つだけあった。「方法の単一性」を強調している点である。自然現象の研究に適用できる方法と基準が、社会現象の研究にも適用できる、とする考え方である。私は、この二つの間に根本的な違いがあると考えていた。社会科学の研究分野では、意志を持って事象に関与する者がいるのに対し、自然科学にはそれがない。その意志を持つ関与者の存在によって、自然科学では起こり得ない問題が、社会科学では発生する。(Soros, G.The Alchemy of Finance, Reading the Mind of the Market,pp11-12:邦訳18-19頁)

 ソロスは独立精神をもって新古典派理論を拒絶し、もっと現実的な市場モデルを展開するのですが、おそらく、この点でポパーの理論が役に立っていると私は考えます。

 なぜならポパ−が常に強調(粘着質的に)していたのは、理論を批判し、もっと「現実!」を表すような新しい理論で置き換えようとする必要だったからです。

 わたしはカール・ポパ−の哲学に負う事を述べておきたい。....カール・ポパ−の哲学は私が人生を見る見方全体を作るにあたって影響を与えた。
 それは私の思考に影響したばかりでなく、行動にも影響した。
 奇妙に聞こえるかもしれないが、それは私のビジネスの成功にも実際役立ったのだ(p1)

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地球を動かすユダヤ人互助会パワー 投稿者:Σ 投稿日:11月11日(土)21時45分11秒

>私は互助会名みたいなもんだと思っております。悪く言えば談合組織名というか。

長嶋ジャイアンツの時、ジャイアンツの諜報機関として活躍した人がその暗部を暴露した『Gファイル』が話題になっていますが、世界史は諜報活動と工作によって、動いているということは、京都大学の中西輝政教授が日々強調し論説している通りですが・・・。

さて、ポパー関連で、その道の最高峰である「専門家による学会」で認定したものが地球におけるその時点での地球人の最高峰の認識である、と位置づけるべきだという立場があります。
三浦教授も言葉の一端からこの説には賛成であるように伺われます。
大方、科学方面はそれでも良いでしょう。(最近は惑星除外問題がありました)

しかし、社会科学ではない宗教問題などの形而上学的オントロジー問題については、「その道の専門家」という範疇自体が信用ならないので、上記の立場は通用しないと思います。
そういう意味で、やはりカント的な意味で、「独断論のまどろみ」に陥らない「学」としての信用できる基盤作りが最優先の課題だと言えましょう。
日本の「仏教学会」は、勿論、現時点では、全然駄目だ、と思っています。
中村元博士や、その弟子、宮元啓一教授をみても、ため息が出てしまいます。
しかし、昨今、ユダヤ人が仏教研究者として参入しているので、彼らが一派を形成し国際的な仏教学会を形成するようになると、流れが大きく替わると思っています。

そもそも、国連といい、色々な分野の専門の学会といい、そうした「社会的権威の中枢を占める組織作り」はユダヤ人の得意とするところです。
何事であれ、「源(水元)を押さえろ」 はユダヤの商法の根本命法です。
ダイヤモンド・プラチナなど鉱石関連、ロシア石油関連、ジャーナリズム関連、等々、なんでも、そうです。
田中宇という人の「国際ニュース解説」を読むと、彼は毎日膨大な英語ニュースを入手解読していますが、彼の結論もまた、「ユダヤ人が世界を動かしている」 というものです。

無論、この掲示板関連でも、「論理学においても然り」、ということになりましょう。
本質主義や反本質主義の問題もまた、ユダヤの文脈で捉え直される時、正しく把握されるでしょう。

さて、関連情報を一つ。 以下、引用は http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/0000isuraeru3.htm より。

アメリカ経済におけるユダヤ人の力は、いわゆる”反ユダヤ本”のなかで”ユダヤ資本によるアメリカ経済支配”が言われているが、はたしてそうであろうか?

  佐藤唯行氏(獨協大学・外国語学部教授)によると、次のとおりである。

  ・ 全米富豪上位400人番付では、84人(21%)がユダヤ人で、その2割強は不動産業であり(by ”フォーブス(実業雑誌・2000年特集)”、 19世紀末に東欧からニューヨーク・ロワー・イーストサイド地区へ移民したユダヤ人の不動産投資ブームに由来する。
  ・ ウォール街の所得長者番付では、最上位25名中11名がユダヤ人で、その多くは、企業買収ビジネスとヘッジファンドに集中している(”ファイナンシャル・ワールド(金融専門誌)・1997”)
  ・ メディア産業では、8大映画会社の所有・経営権の約半分、3大テレビ放送系列の、ABCとCBSの創業社主としての所有・経営を支配してきて、今も健在である。   ・ 情報・通信産業では、パソコン・ソフトのオラクル社のラリー・エリソンは全米第2位の大富豪、マイクロソフト社のCEO(最高経営責任者)スチーブン・バルマーは7位(ビル・ゲイツは非ユダヤ人)、デル・コンピューター社のマイケル・デルは13位など。
  ・ 小売業では、ユダヤ人は19世紀以来多くの百貨店を創設してきたが、20世紀中ごろから、郊外型巨大ディスカウント・ストアの業態を世に送り出した。(ホーム・デポ) その他、婦人服のギャップ・ザ・リミッテド、蒸留酒のシーグラム、化粧品のエスティー・ローダー、玩具のマテル、ハスブロ(全米シェア31%)、など。
  一方、北西欧系白人プロテスタント(ワスプ)の強い商業銀行、保険、公益事業、自動車などの古い製造業にはほとんど進出できなかった。特に、アラブ産油国との友好を必要とする国際石油資本は、現在でもユダヤ人を排除している。

  したがって、アメリカ経済におけるユダヤ人の力は、反ユダヤ主義者たちが吹聴してきたような絶大なものではなく、しかしながら、ユダヤ団体が公表してきたよりはかなり強力で、実像は両者の中間にあるといえる。

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Re:ユダヤ人の定義 投稿者:S・K 投稿日:11月11日(土)01時51分12秒

 私は互助会名みたいなもんだと思っております。悪く言えば談合組織名というか。創価学会もそれ化していて、姉歯事件の根底に創価学会がからんでいるという噂をお聞きになったことがあるでしょう。アメリカの自称ユダヤ人のうち、キリスト教に改宗しているのが2割強いると言いますね。

 マハームドラーの印章は「胡椒と一緒に」説を支持しております。地下鉄漫才みたいになってるだけで、知ってる人はみんな知ってますよ。タブーでもなんでもありません。
 ひどい事件があったからジャーナリストも知ってるはずなんですが、日本のマスコミはタブーでないものまでタブーにしちゃいますから。それともユダヤ人圧力団体は、右翼より怖いんでしょうかね。

 ひところ、アメリカあたりから「ハイアーセルフと繋がろう」とか「ソウルメイトに出会おう」といった本が渡ってきて、一部の若者の間でブームになったりしておりましたが、そんな感じでしょうね。胡椒と一緒に渡ってきたとしたら、魔法の印章のイメージが強力だったかもしれません。

 ただ日本の仏教や神道にも地下鉄漫化していることがあって、国際問題(と言っても東アジアですが)になったりしてますから、他人事のように笑えない話しです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月10日(金)23時56分38秒

 存在措定とはこの世界に何かが存在しているのはわかりきっているのだから、計算のために「便宜的」に何かが存在することを論理学的に明確にしておくことでした。

 Σ先生、ユダヤ人の定義問題はアメリカのユダヤ人の間でも頻繁に提起される問題ですね。彼らにとってはこれこそまさに根本問題の一つなのでしょう。

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ユダヤ人の定義 投稿者:Σ 投稿日:11月10日(金)21時40分20秒
>私は日本で僅少なユダヤ人の一人と自認しているので(笑)

>> 爆笑です。

S・Kさんにウケタのでよかったですが、血脈系統と理解しての笑いだったと思いますので、一応、参考までに、「ユダヤ人の定義」を確認しておきませう。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1504499

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田中様 投稿者:S・K 投稿日:11月 8日(水)23時49分4秒

 アメリカで起きていることが、常に正しいかのような表現は不穏当でしょう。
 インドでワン・オブ・ゼムだった印章が、絶対的な印章であるかのようになってしまうことだってあるのですから。誤謬の元です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)21時56分4秒

上野千鶴子氏
雑誌『テーミス』での人生相談の回答に関して

1980年代に、雑誌『テーミス』(現在廃刊)で人生相談を連載していたことがあり、恋人ができないという悩みを寄せてきた若い男性に対して、「うふふふ、ウブですね〜。女の股を開かせることもできないなんて。(略)どうすればいいのでしょうね。あなたみたいなモテない男がいるから性産業がなくならないのですよね。性犯罪に結び付かなければいいですね」などと中傷を伴う返答をしたため、批判が殺到した。

 これは学者というより普通の人の発言としか言えません。
 わが国の社会学なる学問分野はこのような人でも東大の教授にしてしまうのか。
 社会学なる学問から何を学べるのか?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)21時39分47秒

 このような発言(「女は嫁に行くのが一番だ、と私は信じています」といった個人的信条を犯罪として取り締まるべき)をする人が「学者」(社会学なる学問の)であるということに対して、私は驚きを禁じ得ません。
 ラクシュンさんの誤解があるにせよ、このような人の見解と同視されては困ります。

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ラクシュンさま 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)21時33分51秒

 見解(wikipedia上野千鶴子より引用)?

Amazonの書誌データよりの引用であるが、「2001年4月15日、NPO法人フィティ・ネットの立ち上げを記念して開催された設立記念フォーラム「してはいけないジェンダーフリー?」の際の上野千鶴子と辛淑玉の講演・トークの内容をまとめ」た、『ジェンダーフリーは止まらない!―フェミバッシングを超えて』(松香堂書店.2002)において、上野が、「女は嫁に行くのが一番だ、と私は信じています」といった個人的信条を犯罪として取り締まるべきだと主張した記述があるため、ファシズムではないかと批判が広まっている。

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・・・ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 8日(水)20時05分29秒

>田中さん
> それから、私自身は現象学などの思弁哲学は言語芸術としては、高く評価しているのですが、それとは別に、大変言いにくいのですが、客観的事実として、世界で一番科学技術のすすんでいるアメリカで、

別にこういうことに「言いにく」さを感じる必要はないと思います。そのような<確信>を成立させている人たちがいるというだけのことです。

> 現象学は現代における本質主義の典型です。本質ということばを無意味に使い、明晰な思考から人を遠ざけます。アリストテレス哲学の変形にすぎません。現象学の方法では形而上学の問題を考察できないと思います。

しかし、田中さんとは独立した私の個人的な主観確率からすれば、田中さんがどう<確信>していようとも、現象学を根底から誤読されているような気がします。

> アメリカでは哲学者がハイデガーなどを引用してもジョークとしてしか受け取られません。
 完全に現象学はアメリカの多くの哲学者に相手にされていないのです。
 このようなことをちゃんと読者・学生に伝える日本の哲学者の先生はいらっしゃらないのでしょうか。

まず、現象学を一様に語ることはできないと思います。そして、田中さんがそれまでの態度を豹変させてラッセルのヘーゲル理解を一蹴してしまったように(←あくまでも個人的解釈)、人間に生得的に備わっている誤認(可疑性)という性質を前提すれば、この種の誤認も当然のものとして予測できることではあると思います。ここにはポパーも異論を唱えない(?)と思います。私は入門書のようなものを数冊読んだだけだからこれ以上偉そうなことは言えないので、現象学に対してもし本心から不信感をもっているなら直接現象学者と議論するのが筋かも知れませんね(メール?とかでも)。 それを踏まえた上て、「相手にされていない」についてはどうなんですかね? あれは何でしたか、現象学の立場からある学問分野に対する批判はあったように記憶していますが(ヘーゲルは無関係ですが田中さんも異論を唱えないような内容)…また誤認に基づく批判があるからこその反論ということもあるようです。そういう意味から言えば、既に異論は出ているということでしょう。
ちなみに現象学には、「アリストテレス」が、最も確かな原理、として打ち立てた「矛盾律」と「排中立」に相当する原理があるようで、それを聞けば私のような素人にでもこの原理は生半可なものではないことだけは理解できるのですが…。

……あとこれは身勝手なお願いで恐縮ですが、あまり私を呼び出さないでください。もちろん私には、ミルの「他者被害の原理」を盾に無視を決め込む自由は残されてはいますが。違うか。(笑)
#田中さんに対する興味が失せたこととにくわえ数日前からのディスプレイの調子もあってですね。
#追記:ポパーの原理は双方向ですよね。

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)19時02分11秒

 「技術」といっても大それたものではなく、例えば@の前件に∃xHxをつければ妥当になるということです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)15時40分53秒

 三浦先生へ

 『論理学入門』pp82-87についてお聞きしたいのですが、p82の3行目の@、p85の3行目のAの式に対する先生のアプローチの仕方は極めて斬新ですばらしいのですが、式@Aについては存在措定の「技術」についても論じるべきだったのではないでしょうか?

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)11時40分42秒

(リバタリアニズムは、極限まで自由を追求する思想であり、寛容の思想であり、フェミニズムを包含する思想です。)

 つまり、例えば家族の問題で言えば、一夫多妻制であろうが、同性愛であろうが何であろうが、国家は個人の(主体的な)選択に口を出すな、ということです。

 保守的な人、信心深い人、独身貴族、同性愛者、多様な価値観の人がこの世界には存在します。みんな尊重しろ、ということです。
 私自身は恋愛観・家族観に関しては保守主義者です(もちろんどうでもいいことだが)、が他人のことはとやかく言っちゃいかん、ということです。

 経済の問題に関しても、市場の自制的秩序にまかせろ、ということです。税金は究極まで下げるべきと考えます。個人の財産権を侵害するので。
 もちろん競争によって、(経済的に)不幸になる人も生まれる可能性があります(もっとも、経済的不幸は(現行制度の)不自由社会より少ないことが経済学的には予想されるが)。そこで最低限の社会的セーフティーネットは必要であります。

 このような社会では、批判的合理主義(全面的合理主義でなく)のもとの徹底的な考察による自己決定が重要になるのです。

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加筆修正 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)09時46分50秒

(自己所有権という概念についてぜひとも参考文献をたよりに理解を深めてください。)
             ↓
 自己所有権という語について参考文献をたよりに、どのように使用されているかを様々な観点から(言語)分析して下さい。
 論理分析の最初歩は三浦先生の作品でマスターできるでしょう。言語分析は論理分析のみならず様々な観点からできるのは私の今までの投稿からすでにご理解されていることを祈ります。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)09時19分20秒

 ラクシュンさんに伝えたいのですが、

 私は『知の欺瞞』については、いささか独断的な評価をしましたが、若い人に強調したいのは、読む必要はある(かもしれない)が、読む価値がそれほどないということです。

 リバタリアニズムは、極限まで自由を追求する思想であり、寛容の思想であり、フェミニズムを包含する思想です。この思想の究極原理の一つとして個人の自己所有権があります。自己所有権という概念についてぜひとも参考文献をたよりに理解を深めてください。

 それから、私自身は現象学などの思弁哲学は言語芸術としては、高く評価しているのですが、それとは別に、大変言いにくいのですが、客観的事実として、世界で一番科学技術のすすんでいるアメリカで、基本的に「本質直観」うんぬんなどと言っても新興宗教の一種(もしくは類似物)としてしかとられません(マジで相手にされません)。まじめな哲学者の多くは現象学を本気で扱うことは知識人の反逆罪と考えています。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 8日(水)06時19分1秒

 >誤謬可能性を基礎にして綿密な哲学を築こうとすると、その果てにあるのは狂乱もしくは狂死ではないでしょうか。

 ご懸念なさっていることに関連することを、橋本努氏の論文より引用させていただきます。

例えばソロスは,1983年からファンド・マネージャーとして雇ったジム・マルケス(当時33歳)に対して,一日の取引が終わると厳しい反省会を行なっている.ソロスはマルケスを質問攻めにして,予測の仮説を批判的に検証した.反省会はしばしば深夜にまでおよび,ソロスの批判は,マルケスの行動の自尊心を傷つけるほど厳しく続けられたのであった.このように,ソロスの「可謬性」に対する信仰は,批判的理性を行使するパートナーにもきびしく要求するものであり,ある種の知的格闘技でさえある.「何しろ私は非常に抽象的な人間だし,自分自身について考える場合も含めて,ものごとを外部から眺めるのが本当に楽しいと思っている」.

 ソロスの批判的理性は,しかし単なる知識人タイプのそれではなく,市場社会を生きるための「野性」的な能力でもある.「私は,市場での出来事に対し,ジャングルに生きる動物のように反応する」「精神を集中させるためには,危険を冒すのが最も有効だ.物事をはっきり考えるために,リスク絡みの興奮が私には必要なんだ.私の思考能力にとって不可欠な部分だね.リスクを冒すことは,私が明瞭に物事を考える上で必須の要素なんだ」.

 こうした可謬性に基づく批判的理性は,しかしともすれば過剰になるだろう.ソロスは「可謬性」の概念を,次の二つに分類している.一つは,「開かれた社会」を正当化するために必要なもので,批判的検討によって社会をよりよくしていこうとする穏当な要求である.もう一つは,いかなる精神や制度にも必ず欠陥があるという悲観的な信念であり,社会を不安定化させるような,過剰な要求である.ソロスの再帰性理論は,この後者のような特徴をもつ点で,批判を免れない.というのも再帰性理論は,それ自体が再帰的に作用するという自己破壊的メカニズムをもっているので,本質的な価値への信念をぐらつかせてしまうからである.人々がみなソロスのように行動すれば,市場経済は不安定なものになるだろう.

 「開かれた社会」においては,各人は批判的に認識することを課されているものの,批判の過剰に陥ってはならない.近代社会は,伝統社会を脱却するために,主体の自律的反省を促してきたが,しかしそうした反省が増大するならば,そこに再帰的メカニズムが働いて,社会はかえって不安定化してしまう.伝統社会や閉じた共産社会に対して批判的思考の重要性を掲げたのが「第一近代」のフェーズであるとすれば,増大するリスク(不安定性)に対して主体的・社会的に対処していこうとするのが「第二近代」のフェーズである.第二近代は,自律的反省意識の行為化が孕むリスクの問題を中心としている.その問題圏においては,ますます不安定化するグローバル資本主義に対応して,政治的・道徳的な対処法が求められている.「開かれた社会」とは,まさにこの課題に取り組むための理念である.

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(無題) 投稿者:S・K 投稿日:11月 8日(水)01時32分31秒

>私は日本で僅少なユダヤ人の一人と自認しているので(笑)

 爆笑です。現国王が好んでいるのか、王室が好んでいるのか知りませんが、ネパールの現国王がテレビで会見するときの背景スクリーンに、所謂マハームドラーの印章が使われていますよね。「ネパール人は失われた十支族の一つだ」という本が、ネパールでそろそろ出版されている頃かもしれません。(笑)

 三浦さんは親切かつ真摯な学者として尊敬しておりますが、現代の宗教学者は、どの宗教を専門にしているにせよ、事情はどうあれ十中八九、不愉快なほどに不親切です。例外はありますが。

>田中様

 誤謬可能性を基礎にして綿密な哲学を築こうとすると、その果てにあるのは狂乱もしくは狂死ではないでしょうか。ニーチェはゾロアスター教に慰めを求めるのではなく、仏教を深く学ぶべきだったのかもしれません。

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観測主体の推論 投稿者:φ 投稿日:11月 8日(水)01時04分38秒

kotobazukuriさん

>忍者の子のみが、ベイズ判断を行う。
>生命がある星でのみベイズ判断がされる。
>それは、くじに当たった人だけを探し当ててベイズ判断する
>ということと同じである
>とφさんは言われていると思いますが 合っていますか?

 その通りです。私たち知的生命は、結果的に知的生命を生んだ星を狙ってそこに生まれてくるしかないのだから(当り前です)、そうした偏ったデータ選択では、選ばれなかった星々については何ら帰納的一般化する役に立ちません。

ε さん

>「地球には生命が存在しなかったかもしれなかった」
>と考えるのは明らかに意味があります。

この反実仮想は、結果的に知的生命を生んだ惑星を固定指示してから、何十億年遡って「この惑星に生命が存在しなかったかもしれなかった」と想定しているだけです。ランダムなサンプリングになっていないので、帰納的一般化の材料としては無価値です。

もちろん、「惑星同士は(テレパシーで?)周囲の環境を調査したり他の惑星との連絡をとることができるが、生物と話したり、物質に因果的影響を与えたりすることはできない」という設定なら、地球は、自ら生命を宿したことを見てから「自分は特殊ではなかろうから他の多くの惑星にも生命が宿っていよう」と推測するのは正しいです。しかし現実には、生命が宿るかどうかと独立に地球が自らの意識によって自己選択(自己同定)することはないので(あるとしても人類の観点からはそれが確かめられないので)、譬え話としては意味が薄いのではないでしょうか。

>息子は自分自身のベイズ的判断以外に、
>たとえ母親と話し合うことがなくても、その立場を想像することができます。
>母親に関する様様な情報を得ることにより、
>忍者の母親になった(くじに当選した)と言う意味で特別であっても、
>それ以外に特別なところはないと判断することもありうるでしょう。
>その場合、自分の判断は「忍者の家系は少ない」でなく
>「多いか少ないか判断できない」というものであるため、
>矛盾のない解釈は母親の判断と一致するのではないでしょうか?

 これは違うと思うのです。息子は、「自分の母親」として母親を同定することしかできません。かりに母親が先に疑問を思いついて、息子がつられて同じ疑問を抱いたとしても、やはり息子は息子の観点から観測選択効果の偏りを自覚することでしょう。
 たとえば息子は、自分の指を見て、「この指は平凡な指だ。この指は、多数派に付属しているに違いない。したがって、自分のような境遇の者は多いに違いない」という推論は正当化されません。母親も、ある意味で息子の付属物なので、母親の典型性を息子が知ることで息子自身の推論のベイズ改訂がなされるべきだとは思えません
。  そうした改訂が許されるなら、身の回りを見回してどんどん事後確率が改訂されていきますが、これは不合理でしょう。やはり、息子は自分自身が混血児として生まれたこととは独立のデータによってベイズ改訂せねばなりません。
 地球の場合も、人類のような知的生命の誕生とは独立の証拠によって、地球型惑星の生命発生率を推定せねばならないでしょう。因果的・論理的に人類と連動しているデータは、依然として観測選択効果で偏ったデータですから、いくら集めても生命発生率の推定には寄与しないはずです――。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 7日(火)22時21分46秒

 藤田氏は私がもっとも尊敬する商人(人間)のひとりです。藤田社長は金儲けを通じて社会貢献をなさいました。
 村上被告人や堀江被告人は起訴事実が真実ならば、社会的役割、法の軽視と言う点で商人失格といわざるをえません。こういった現象も含めてわれわれは仮象論理の連鎖的独走・暴走と呼んでもよいでしょう。

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ユダヤと中観派の奥深さ 投稿者:Σ 投稿日:11月 7日(火)22時03分1秒

田中先生へ

私は日本で僅少なユダヤ人の一人と自認しているので(笑)、ユダヤ人やユダヤ関係のあらゆる事柄に関心をもっています。
特に金融においても。ジョージ・ソロスについても、当然のことです。
このような「広がり」が当宗の特徴です。
ユダヤの商人として有名な藤田田氏が死去した時はショックでした。日本語論を研究していた藤田氏に、私の日本語論研究の成果をお知らせする予定だったからです。楽しいひとときが奪われたような無念を覚えました。
金融と言えば、日本人では松本大さんが有名ですね。秋葉原駅で(一方的に)お目にかかったこともあります。そういえば、数日前の土曜日、東京の某書店で、日銀の福井総裁にお目にかかりました。ご夫人も白髪が綺麗で、二人だと目立つ銀髪のご夫妻でした。 そんなことはどうでも良いのですが(笑)、私のメルマガの一本の中に、金融に関して触れたものがあります。
かの、株式市場に大混乱を巻き起こした「ライブドア事件」が起きた時のものです。
メルマガの中程で、この事件に触れています。(その他は女性関連の話題ですので、読みとばして下さい。)
http://www.hannya.net/melmag008.htm

私は「真の偉大なトレーダー」には美しくて強い心が必要だと考えています。
それはポパー的な方法論的・工学的アプローチです。村上ファンド解体のニュースが流れていますが、村上さんは残念ながら、3流のトレーダーでした。結局、運用がうまく行かなかったがために、確実に儲かる「仕掛け」を悪巧みして大儲けし、その大罪で今があり、また、見え見えのその罪を隠そうとして白々しい嘘を厚顔無恥に述べ立てて会見する通産官僚的な「知の欺瞞」の権化としても、実に象徴的な存在といえましょう。

私は縦軸に本質主義、横軸に反本質主義を採るスタンスを奨励します。
このことは、田中先生にも以前、お勧め致しました。
一辺に偏らない中観派の奥深さが、ここに顕れている、と自認しております(笑)。
矛盾の両立こそ、ヘーゲル哲学の神髄です(笑)。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 7日(火)16時31分50秒

 以前日経の夕刊でみたのですが、リップルウッドのCEOは大学でラッセルやクワインを中心に分析哲学を学んでいたと言ってました。アメリカでは商人で哲学(分析哲学)に造詣が深い人が多いと認識しています。
 こういうことを言ったら三浦先生のように学究の世界で真摯に考察を続けている先生方に叱られそうですが、
 私が思うに、一部の商人の世界(特に法学・金融)では実利的な観点から、分析哲学+ポパーの思想は人生という荒波で勝ち抜くための勝者の哲学であると認識されているように思われます。

 原因は価値情緒説的な倫理観、そして、メタ認識能力、強靭な論理的思考能力であると思われます。

 アメリカでは哲学者がハイデガーなどを引用してもジョークとしてしか受け取られません。
 完全に現象学はアメリカの多くの哲学者に相手にされていないのです。
 このようなことをちゃんと読者・学生に伝える日本の哲学者の先生はいらっしゃらないのでしょうか。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 7日(火)13時30分54秒

 Σ先生へ

 先生が以前きびしく批判されていた存在論的反本質主義ですが、先生のご発言には正当な理由があると考えます。
 存在論の問題に関してはヘーゲルもラッセルも共に根本的に間違っていると私は考えます。
 もしくはことばの問題に過ぎないと信じます。  テスト不可能な問題については経験科学に矛盾しないかぎり、如何様にも考えられます。

 ポパー哲学は全然神秘的な哲学ではないのですが、その哲学の実践による生ける神秘とでも形容できる人が存在します。
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic031/html/160.html

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じゃなくて 投稿者:kotobazukuri 投稿日:11月 7日(火)11時04分21秒

当該事態についての因果関係等を共有している可能性、度合いが高いから
偏る のか・・

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すいません 投稿者:kotobazukuri 投稿日:11月 7日(火)10時46分36秒

地球を選んだのが人間がいるからなのだから
猿についての推定もサンプルは偏る
ということですか? たぶん

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訂正 投稿者:kotobazukuri 投稿日:11月 7日(火)10時29分42秒

>生命がある星でのみベイズ判断がされる。

知的生命です。

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レスありがとうございます 投稿者:kotobazukuri 投稿日:11月 7日(火)10時25分43秒
εさん
φさん

疑問に思う点を書きます。とんちんかんな質問でないことを願いつつ。

忍者の子のみが、ベイズ判断を行う。生命がある星でのみベイズ判断がされる。
それは、くじに当たった人だけを探し当ててベイズ判断する
ということと同じである
とφさんは言われていると思いますが 合っていますか?

忍者の子だけがベイズ判断しようとするという場合
『「忍者の家系」というものがある』 ということ自体を 忍者しか知らない
という設定にすべきではないでしょうか?

あとφさん

地球に知的生命がいるからベイズするので、観測選択がかかる
という場合、ベイズはできないが「知性」というようなものはあるらしい「猿」という存在については
人間がベイズ推定できる
従って 猿が地球にいるということは、広い宇宙に猿程度の知能の生物は他にもいるはずだ
という推定は妥当 ということでいいですか?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 7日(火)06時48分41秒

S・K先生のおことばを慎重に受けとめさせていただきます。

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知の欺瞞 投稿者:S・K 投稿日:11月 7日(火)01時42分17秒

>田中様

 文化人類学的に見ると、グレーゾーンの起源は糞尿下血にあるそうです。グレーゾーンを忌み嫌う傾向は人間だけでなく、犬や豚など、知能の高い四足動物にも見られることです。

 私は堀江何某という人が、くさいグレーゾーンに長らく留まっておられず、無意識のうちにしろ、あるいは法律的無知のうちにしろ、結果的にシロ・クロつけることになったというのは、極めて人間的であると思っております。

 ポパーに学んだことがあるということが即、ポパーの意思の継承者を意味すると思うのは大きな誤りでしょう。この掲示板では、その主張すら受け入れられないでしょう。
 グレーゾーンからの知は、所詮偽装され、悪臭を放つ代物に過ぎないのではないでしょうか。少なくとも到底道徳的であると言えるものではありません。

 それ以上のことは、飛子さん一派が見ているかもしれないので差し控えますが、僭越ながら、一見すると実証されたように見える現象の中に、狡猾なカラクリを見い出だそうとすることは、法律家に求められる要件ではないでしょうか。

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観測主体と意識(続き) 投稿者:ε 投稿日:11月 7日(火)01時32分31秒

φさん、丁寧なご解説ありがとうございます。ただ、まだちょっと違和感があるので、もう少しこの立場でがんばってみます。ハムさんやsubstructural logician さんがひっかかっていることも関係するように思いますので。

まず、φさんのレスの前半部に関してですが、母親の立場、意識のある地球の立場、くじに当たった人の立場の違いが今ひとつわかりません。どれも最初から選ばれていたともいえます。くじの例だと当選者だけににインタビュアーが「あなたは当たりくじがどのくらいあったと思いますか?」と聞いたと考えても、当選者の判断やあたりくじの数に影響があるとは思えません。
一方で、どれも外れる可能性があり、その場合は三者のどれも「やはり外れたか」と考えると思います。地球も場合でも、
「地球には生命が存在しなかったかもしれなかった」
と考えるのは明らかに意味があります。実際、数十億年前には生命が存在しなかったわけですし・・

後半部について補足しますと、仮定は「惑星同士は(テレパシーで?)周囲の環境を調査したりや他の惑星との連絡をとることができるが、生物と話したり、物質に因果的影響を与えたりすることはできない」ということにしてください。

さて、息子は自分自身のベイズ的判断以外に、たとえ母親と話し合うことがなくても、その立場を想像することができます(われわれがするように)。母親に関する様様な情報を得ることにより、
忍者の母親になった(くじに当選した)と言う意味で特別であっても、それ以外に特別なところはないと判断することもありうるでしょう。その場合、自分の判断は「忍者の家系は少ない」でなく「多いか少ないか判断できない」というものであるため、矛盾のない解釈は母親の判断と一致するのではないでしょうか?これは人類が地球に関する様様な科学的調査をして、生命が存在する確率を推測することに相当すると思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 7日(火)00時37分32秒

 それから、『構築主義とは何か』というような発想法のことを批判的合理主義の立場から本質主義と言います。つまり、「...とはなにか」という発想法のことをいうのです。方法論的唯名論に対置させて。
 上野千鶴子氏は批判的合理主義の立場からはまさに典型的な本質主義者です。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 7日(火)00時04分17秒

 ラクシュンさま、私が言いたいことは、あなたの発言を法律的観点から分析すると、かなり問題があるということです。ただそれだけです。
 相手が私のような人間だからよいのですが、さまざまな人間がいるから注意したほうがよい(あつかましいのは承知ですが)と強調させていただきます。

 私は若い人のものの言い方はよく知りませんが、最低限の礼儀だけは守らなければなりません。
 上野氏について少し調べたのですが、この人は哲学者ではないと思われます。

 現象学は現代における本質主義の典型です。本質ということばを無意味に使い、明晰な思考から人を遠ざけます。アリストテレス哲学の変形にすぎません。現象学の方法では形而上学の問題を考察できないと思います。

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ラクシュン殿 投稿者:田中 投稿日:11月 6日(月)22時58分58秒

 あなたはホームレスの方々の施設に寄付をしたと発言しました。
 私はあなたの発言により、当該施設に私の「財物」を「交付」しようと思います。
 ご存知のとおり私は慈善活動が好きです。
 ホームレスの人を愚弄するの道徳的に私は絶対に許せません。わが国は法の支配する法治国家です。他人の法益を侵害した者にはほぼ必ず報いがあります。

 参照 刑法246条 1項 人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。

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ラクシュン殿 投稿者:田中 投稿日:11月 6日(月)21時26分37秒

 まともなポパーの解説本はアルバート、碧海純一先生訳の『カール・ポパーの批判的合理主義』のみです。原著を読まなければなりません。
 反本質主義が役立つのはソロス、そしてそのほかの各界の成功者が実証しています。
 全く無関係な上野千鶴子などといういいかげんな人と一緒くたにし、さらに私を愚弄した犯罪は極めて重いことを深く認識しなさい。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 6日(月)20時29分56秒

 知の欺瞞についての犯しがたい真理は、日常的な金儲けや暮らしの向上といった観点からは無価値であり、ポパーの思想の無理解という観点からは有害であり、問題提起の仕方が不道徳的であり、ポストモダンをまじめな論敵として扱っている点で時間の誤用であり、無教養な人を勘違いさせるだけの本と評価できます。

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修正(Re:観測主体と意識) 投稿者:φ 投稿日:11月 6日(月)12時34分21秒

「Re:観測主体と意識」「補足」での私のレスが、
『εさんのP→Qの話が、忍者の母親と同様、地球に意識があると仮定しての話である』のを無視したようなレスになってしまいましたので、以下、2点、修正します。

 ◆
 εさんの言われる
「忍者の母親」の議論から、P→Q
 というのは、地球という物体が生命発生とは独立にランダムサンプリングされたという前提のもとで言えますが、地球をはじめとする諸惑星に意識があったとしても、もしランダムサンプリングされたなら、生命を宿していない惑星が自己選択されて「私には生命が宿らないな……」と思う率が高いかもしれません。
 ではなぜ私たちの話題で地球が選ばれたかというと、「生命がいるから生命の故郷という観点から地球が選ばれた」という理由以外はないでしょう。つまり、P→Qは、地球による推論という外見をとりながら、実は人類の推論になってしまっていますよね。

 忍者の母親の場合は、息子の推論とは独立に生じている(息子が生まれなくても母親がランダムサンプリングされている)という設定でしょうから、P→Qという帰納が母親以外の立場から見ても妥当します。地球の場合は、人類のような生物が生まれなければ、例として取られたという保証が薄弱なわけです。

 ◆
 さらに重要なこととして、
 地球に意識があるとして、P→Qが推論できるためには、
「自分に意識があるのと同様、他の惑星にも意識がある」と信じていなければなりません(これはεさんの設定で P が述べていることです)。そうでないと、自分自身が観測選択された惑星だということになり、そこに生物進化が発生したという事実は、他の(もしかして意識のない)諸惑星における生物進化を推測する根拠になりませんね。
 したがって、P が否定されると、Q が推論できません。

 >Qは客観的事実で、
>その成否に関して意識の存在は因果的に効いてこないので、(P→Q)⇔(〜P→Q)。
>これから、たんにQが推論されます。

 というεさんの(暫定的)見解は間違いだということになります。(観測選択効果を見落としているからです)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 6日(月)11時59分49秒

 橋本氏がソロスをつうじて批判的合理主義をうまく纏めていますので、参考にしてください。

――「開かれた社会」とは,どのような道徳を要求する社会なのだろうか.ソロスはポパーを継承しつつ,「開かれた社会」の思想的基礎を「批判的合理主義」においている.「われわれは,誤っているかもしれないし,正しいかもしれない.そしてお互いに努力すれば,よりよい真理に到達できるだろう」.批判的合理主義はこのように,自らの理性の「可謬性」を承認し,批判的理性の共同行使によって,よりよい社会を模索するという道徳を要求している.ソロスによれば,投資家としての自己と,「開かれた社会」の啓蒙家としての自己を首尾一貫したものにする観点は,こうした「理性の可謬性」に対する信仰にある.「自分が常に間違っているのではないかと考えるんだ.そうすると『不安』になる.不安感があるから,いつも状況に敏感でいられるし,自分の間違いをすぐに正せる.これには二つのレベルがある.抽象的には,自らの誤謬可能性を基礎にして,綿密な哲学を築く.もっと個人的なレベルでは,私は,自分自身についても他人についても欠陥を探し回る,非常に批判的な人間だ」.

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 6日(月)10時22分52秒

 私は大学で法哲学の勉強ばかりしておりました。学才がないことを思い知り、実務家を目指すことを決意し、あわてて試験直前に法解釈学を学びました。実務についてから、英米法を学ぶためアメリカに留学しました。

 ヘーゲルから入りましたが、(決してアメリカかぶれではありませんが)基本的には一般に分析哲学と呼ばれる一連の哲学、そしてポパーの思想が私のバックボーンと考えて下さい。
 私は学者でも学生でもないので、上野氏がどのような方か存じません。
 私は実務家なので役に立つ本しか読みません。
 そのような、観点からは、端的にポストモダン思想が正しいか間違いかの問題以前に私には無価値なのです。
ただ思想的にはアメリカのリバタリアニズムという一連の動向、そしてソロスに注目していることを強調させていただきます。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 6日(月)07時40分53秒

> 端的に、これから、ラクシュンさまが(何かのはずみで)(これからの長い人生で)名誉毀損で訴えられるのではないか懸念したのであります。

有難うございます。
いろいろあるにしても、いちおう思い当たることを書いておきます。「オマエ自身が生物学的牝」については「オマエたち」で上野ら二人を指すつもりでした。訂正しにくかったのでそのままにしておいたのをすっかり忘れていました。この点については田中さんに不愉快な思いをさせてしっまったことを申し訳なく思っております。
もうジャマはしないので議論を続けてください。

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補足 投稿者:φ 投稿日:11月 6日(月)03時01分45秒

念のため、忍者の母親は、忍者に嫁ごうが嫁ぐまいが、いずれの結果をも自ら観測してベイズ推定できるので、嫁ぎ先についてランダムな自己選択サンプルでしたね。
地球は、知的生命が発生しなければ自ら観測せず、ベイズ推定の原点にならないので、結果論的に知的生命を宿したという事実に依存しています。つまり生命発生についてランダムなサンプルではなく、偏ったサンプルです。(地球が意識クジに外れれば、他の当たった惑星が(もしあれば)自己選択されただけです。それも当然、偏ったサンプルです)

 結局、観測結果がいずれでもありうるというのが、ランダムなサンプルである必要条件です。観測結果が必ず一つに決まっている場合(一方の時だけ観測されて他方の時は観測が生じない場合)は、ランダムでないサンプルです。

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Re:観測主体と意識 投稿者:φ 投稿日:11月 6日(月)02時39分33秒

εさん
量子力学だと、観測者には意識が無くても波束の収縮は引き起こせるでしょうから、事実上、「意識」に特権的な意味はないでしょう。
しかし、人間原理では、「観測者」と呼べるものには、意識が必須です。次の二つの理由で。

 1.意識主体だけがベイズ的推論を行なうことができる。
 2.物理系の特定範疇からの★ランダムな★サンプルとして自己を(そして環境を)サンプリングできるのは意識主体だけである。

 太陽は、恒星の中でランダムな(たとえば、ブラックホールになるかどうかという性質に関して)サンプルでしょうか? それは、太陽自身が決めることはできません。人間が決めねばなりません。意識がないと、ランダムサンプリングができないのです。
 よって、ランダムなデータからベイズ推定を行なうためには、データ収集の原点は、必ず、意識主体でなければなりません。もちろん、意識主体が意識なき物体を「最初のデータに」選ぶことはできますが、その前に、当該データを意識して選んだ「自己」のフィルターがかかっています。

 εさんの言われる
「忍者の母親」の議論から、P→Q
 というのは、地球という物体が生命発生とは独立にランダムサンプリングされたという前提のもとで言えますが、ある惑星に結果論的に知的生命が生まれてからその知的生命が故郷を地球と命名してサンプリングしなければなりませんから、事後的な選択になっており、ランダムではありません。宇宙に一つでも意識を宿した惑星があれば(どの惑星に当たるかは意識生命が発生してみないとわからない)当の意識現場でだけベイズ推論ができるので、推論の環境が偏っており、他の惑星における生命発生の率については何も推測できないのです……。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 6日(月)00時52分50秒

>>一つ確認しておきたいのは、「せいぜい名誉毀損で訴えられないように」というのは、私が誰にという意味だったのでしょう?
いまいち腑に落ちないのですが。というのは、あの言い方は挑発という解釈も成り立つと思うので。 >>

 端的に、これから、ラクシュンさまが(何かのはずみで)(これからの長い人生で)名誉毀損で訴えられるのではないか懸念したのであります。
 インターネットに関わる事件が多いのはご存知でしょう。

 私は単なる論理学が大好きな法律家であり、三浦先生の作品のファンであります。
 ポストモダンなるものとは、完全に無縁です。
 ご指摘のソーカル本を熟読しようと思います。

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あ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 6日(月)00時19分37秒

> ご批判やご指摘は有益なのでありがたいのですが、個人的な侮辱は差し控えていただきたい。

これは了解です。

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気になるので一つ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 6日(月)00時15分7秒

侮辱罪が成立しているということはなんとなくレベルで解っているつもりですが、一つ確認しておきたいのは、「せいぜい名誉毀損で訴えられないように」というのは、私が誰にという意味だったのでしょう?
いまいち腑に落ちないのですが。というのは、あの言い方は挑発という解釈も成り立つと思うので。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)23時57分59秒

 告訴というのは冗談ですが、侮辱罪が成立しているということは、肝に命じてください。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)23時53分24秒

 議論というのはラクシュンさまもなさるように相手の矛盾点を、付くことにより、相互に弁証法的発展を目指すものであるべきです。
 ラクシュンさまがお気づきになられたように、>>「男だから〜」「女だから〜」という物言いへの反発の根拠は、ジェンダー・差別という概念を媒介して反本質主義につながります。これはウソでも何でもなくて業界の常識>>なのでしょう。
 しかし、私はまったく別の文脈で議論をしていたのです。
 ご批判やご指摘は有益なのでありがたいのですが、個人的な侮辱は差し控えていただきたい。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 5日(日)23時46分53秒

そういうことでしたか。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)23時26分45秒

 学術的議論の範囲を超えて、人を侮辱した場合は、侮辱罪が成立します。
 ラクシュンさんは、わたくし(田中)に対して侮辱したので、侮辱罪(刑法231条)の構成要件に該当し、証拠もそろっておりますので、明日にでも、いや今夜にも知人の検事に告訴しようと思います。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 5日(日)22時45分25秒

> フェミニズム業界ではいかに使い古されているのでしょうか? 証拠を示してください。そもそも、フェミニズム思想なるものは真面目に相手にするべきでありません。

「男だから〜」「女だから〜」という物言いへの反発の根拠は、ジェンダー・差別という概念を媒介して反本質主義につながります。これはウソでも何でもなくて業界の常識ですよ。
ってか、すでにソーカル本でも触れられていたと思いますけどぉ?

> 法実務にたくさん携わってきたので、もちろん詳しいのですが、冗談なしに、せいぜい名誉毀損で訴えられないように気をつけたほうがよいですよ。

えぇ? いきなり「名誉毀損」と言われても困りますよ。
そこで冗談なしでお聞きしたいのですが、私が何をしたというのですかぁ?
それとも、寄付を頼まれたことで逆ギレして脅しですかぁ?(笑)

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ラッセルの藁人形論法 投稿者:Σ 投稿日:11月 5日(日)22時22分47秒

田中先生へ

ラッセルが『西洋哲学史』においてヘーゲル批判の題材にした「ジョーンはジェイムズの父である」という命題について。

私はこの命題を出した「ラッセルの悪意」を感じます。
なぜなら、ヘーゲル弁証法が該当する事例ではないからです。
もしも、「父であること」という概念であれば、たとえば田中先生が10回人間に輪廻転生して10度父親をやりそれが全部記憶に明瞭に想起される状態であれば、「父親観」も深化するでしょう。この場合には「父であること」の認識の深化は弁証法的だと言えます。仮に、「よき親となるための基本的規範集」というようなものを著述する立場であったとすれば、10回父親をやった人ならば2回やった人よりも深くこのことについて考えられ、その父親観の深化に基づき、父親の回数を重ねるごとに、父親観の概念変化の影響で、その規範集(その体系)も色々書きかえる必要性も生じることでしょう。

しかしながら、ラッセルの「ジョーンはジェイムズの父である」は、論理的原子論の流れで、確定した事態を記述する命題ですから、この命題それ自体について「認識の深化」など問題になるはずがないのにもかかわらず、ラッセルがわざわざこのような例題を出してへーゲル批判をしているわけで、このようなことをするからには、ラッセルは、馬鹿なのか、悪意があるのか、どちらかであり、ラッセルは馬鹿ではないので、後者だと思われます。

ゆえに、ラッセルは自分に都合のよい論法を使い、悪意ある藁人形論法でヘーゲル批判をしていることが確定します。

認識におけるホーリズム的文脈で適切な例題を挙げるなら、次のようなものが良いでしょう。
田中先生の世代だとプロ野球では沢村投手でしょうか? それとも江夏豊投手でしょうか?(笑)
私の世代だとやはり、江川卓投手ですが、とにかく、一流投手の投げる直球は美しくて見ていても爽快感を覚えるものですね。
こうした一流投手が投げる直球は、直線に近い球道を軌跡として描くとして、これを、我々は、直線類似の軌跡として認識します。
しかし、同一慣性系を離れると−−すなわち、地球の外から見ると、地球の自転という回転運動が加わっていますから、日本であれば、投げる方向により軌道が異なって見えますが、北極に向って投げたとしても、その江川卓の直球は、大きく曲がった軌跡を描くように見えます。
さらに離れたところから、地球の公転運動まで加味した地点から見ると、もっと複雑な曲線になります。また、さらに、太陽系とは異なる慣性系の渦の外からみれば、もっと異なる曲線になって見えるでしょう。
このように、「同じ直球」ですら、ホーリズムの立場から、より全体的な視座へと拡大して行くと、弁証法的に、認識が発展して「異なって見えて」行きます。
ヘーゲルの主張することはそういうことであり、ラッセル教授の「ジョーンはジェイムズの父である」という論法での批判は、全くもって、ひどいものであり、トンデモ系の批判であると糾弾ものです。
藁人形論法的な、ひどい「すりかえの誤謬」の典型だと言えましょう。
やれやれ・・です。(苦笑)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)22時02分6秒

 私の個人的な解釈ではなく、論理学・哲学の文脈での常識ですよ。

 フェミニズム業界ではいかに使い古されているのでしょうか? 証拠を示してください。そもそも、フェミニズム思想なるものは真面目に相手にするべきでありません。

 法実務にたくさん携わってきたので、もちろん詳しいのですが、冗談なしに、せいぜい名誉毀損で訴えられないように気をつけたほうがよいですよ。

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♪〜 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 5日(日)21時24分24秒

>「本質主義」というのはアリストテレス的思考法のことをいうのであって、社会的構築物うんぬんとは無関係です。

これは田中さんの個人的な定義と解釈です。現実社会において「本質主義」は私念頭にある「本質主義」においても立派に通用しております。フェミニズム業界ではすでに使い古されている感がありますがぁ…。

それとは別に、寄付の件は宜しくお願いしますぅ♪

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)21時00分6秒

 ポストモダン思想とは無関係だということです。

 「本質主義」というのはアリストテレス的思考法のことをいうのであって、社会的構築物うんぬんとは無関係です。批判的合理主義はそういった思考法の対極に位置するものです。
 本質主義についてはラッセルの『西洋哲学史』のアリストテレスの項目をよく読んでください。

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反本質主義者へ 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 5日(日)20時03分34秒

> どうやら完全に文脈を取り違えているようですね。
  自己責任のもとでは税金で誰も尻拭いをしないということですよ。

何のことやら?

ところで、「本質主義」に猛反対しているのは田中さんなのですが、ホームレスの生物学的牡への偏りは、どうもその個体の生物学的「本質」に由来しているようなのですよね。だとすれば、その「本質主義」にアンチの立場の田中さんなら当然下記↓の振込先に送金してくれますよねぇ♪ 私でさへ送ったくらいですからよろしくお願いしま〜すぅ♪〜

☆http://www.npokama.org/

この性別分布には「自己責任」という境界線などほとんどないんですよ。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)20時00分58秒

 ラクシュンさま
 書籍リストを作りましたので、ひまなとき手軽なものを読まれてはいかがでしょうか。

ミルトン・フリードマン『選択の自由』 西山千明 翻訳
ミルトン・フリードマン『政府からの自由』 土屋 政雄 翻訳
デヴィッド・フリードマン『自由のためのメカニズム』森村 進、高津 融男 翻訳 勁草書房 (2003/12)
スティーブン・ランズバーグ 『ランチタイムの経済学』
フリードリヒ・ハイエク『隷属への道』西山千明 翻訳 春秋社
フリードリヒ・ハイエク『法、立法、自由』 春秋社
ランディ・E・ バーネット 『自由の構造 正義・法の支配』 木鐸社 (2000/07)
ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社
デイヴィッド・ボウツ 著 副島隆彦 訳『リバータリアニズム入門』洋泉社
森村進『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』講談社現代新書

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個人主義のパラドックス 投稿者:ε 投稿日:11月 5日(日)19時55分50秒

田中さん、Σさんの流れには割り込まないつもりだったのですが・・・

わたしが常々感じていたことは、唯物論的な個人主義者、あるいはそれとは違うけれど左翼革命論者がしばしば個人としては宗教者に近い非常に高いモラルを持っているということです。私は70年代に学生だったのでそういう人々を何人も知っています。真善美、秩序の尊重、などというものは決して口にすることはないが行動がそれを示している人です。田中さんも多分そうなのでしょう。たとえば、ポパーのように周囲の流れに抗して国家主義を非難することは決して個人の利益にはつながらない。そういうものとして普遍的な真とか善というものはあるのだと思います。

ラクシュンさん。言いたいことはわかるけどそういう口調で物を言うと変なレスが沸いてきますよ。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)19時21分4秒

>理解できる部分もありますよ。しかし自由奔放な個人の選択の結果として様々な社会制度のお世話にならなきゃならない、その事態をバックアップしなきゃならないのは国民全体の税金ですよ。行き着く先はそのことを(田中さんの念頭にある自由Λ権利追及主義的な)国民が了承するかどうかの問題ですよ。

田中さんは福島瑞穂や上野千鶴子が大好きでしょ?(笑)
生物学的性(セックス)には根拠がない。(笑)
ゆえに、ジェンダーも社会的構築物(本質主義)だぁ〜!(笑)
オマエ自身が生物学的牝そのものだ。(爆笑) >

 どうやら完全に文脈を取り違えているようですね。
 自己責任のもとでは税金で誰も尻拭いをしないということですよ。
 ハイエクの『隷従への道』の熟読を希望します。

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(…) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 5日(日)17時30分19秒

> 私見によれば、野球などにおいて、全体に対して有機体的に融合して機能することも個人主義的な決断によってなされるべきだ、(…)

何が言いたいのか明晰に理解できません。表現がかなり不分明です。
私の理解では「方法論的個人主義」というのは、社会の構成員の個々人の総和が社会だという考え方だと思っています。しかし、私はここには合成の誤謬と分割の誤謬という二つのアポリアが存在していると思っていますが、田中センセイの主張にはそのアポリアの解決策が何一つ提示されていないような気がします。
あるのはただ"理想理念"からの演繹だけ。

> 薬物に関しては、他者に迷惑をかけないことが明らかであれば自己責任にまかせるべきと思います(他者に迷惑をかけない薬物というのはほとんどないのはもちろんですが)。
(…)
> 商売なども、もっと規制緩和して自由競争にゆだねるべきと考えます。規制は既得権益を甘やかし、ひとびとのチャンスを奪います。

はいはい、臓器売買や自殺幇助のキボキアン医師(笑)もね。プッ

> 酒やポルノも同様の観点から問題になりえますが、そのようなものに耽溺することにより、幸福になる人もいるでしょう。自己責任にゆだねるべきです。

理解できる部分もありますよ。しかし自由奔放な個人の選択の結果として様々な社会制度のお世話にならなきゃならない、その事態をバックアップしなきゃならないのは国民全体の税金ですよ。行き着く先はそのことを(田中さんの念頭にある自由Λ権利追及主義的な)国民が了承するかどうかの問題ですよ。

田中さんは福島瑞穂や上野千鶴子が大好きでしょ?(笑)
生物学的性(セックス)には根拠がない。(笑)
ゆえに、ジェンダーも社会的構築物(本質主義)だぁ〜!(笑)
オマエ自身が生物学的牝そのものだ。(爆笑)

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観測主体と意識 投稿者:ε 投稿日:11月 5日(日)15時07分44秒

φさん、このような議論において、観測主体が意識を持っていることが本当に必要なのでしょうか?相対性理論や量子力学(標準的解釈)ではそうではありませんね。もちろん、メタレベル?では、すなわち結果や理論を理解するのに意識を持った人間は必要でしょうけど。
今の場合でも、「もしわれわれが見ることのできる場所にいれば、観測とみなせる物理現象を持つ物体」はそれ自身観測主体とみなせるのではないか、という気がしてきました。

仮に、意識が必要だとしても、次のような議論が可能だと思います:
P:地球のような惑星には観測主体として認められる意識がある。
Q:地球のような惑星上には、生命が多くの割合で存在する。
すると、「忍者の母親」の議論から、P→Q。しかし、Qは客観的事実で、その成否に関して意識の存在は因果的に効いてこないので、(P→Q)⇔(〜P→Q)。これから、たんにQが推論されます。

以上は持論というわけでなく、この2,3日の議論を見て思いついたことなので全然自信はありません。だいいち、人間原理や観測選択を否定することになりますし・・・

Bostromの本は最近入手したのですが、まだ少ししか読んでいません。そういえば、序文に
「最後のページに到達するまで、ジャッジするな(重要なテーマは何度も見直されるから)」というようなことが書いてありましたが(笑)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)14時13分12秒

>>「害」の認定は「他者」に委ねられているから、この「自由」というものも結局は「他者」に依存した「自由」でしかないということでしょうね。
つまり、「法」や他者から自由でいられる自由などというものは無いということですよ。>>
 もちろんそのとおりであります。

 私見によれば、野球などにおいて、全体に対して有機体的に融合して機能することも個人主義的な決断によってなされるべきだ、ということになります。主体的個人としての決断によるチームプレーをすることによる勝利を導くこと自体が彼らの自立した個人としての幸福追求につながると考えます。

 >>自らの身心の健康を害しうるもの、たとえばヘロインによる幸福追求も自由にすべき、だとすると、もしそれを許可すると、社会人として機能しない廃人が大量に発生し、社会が健全に機能しなくなります。喫煙にしても然りで、喫煙による癌発生と死亡の率、早死にしてしまう確率、そして莫大な医療費と、それを補助する国家の保険分の支出などを考えると、「喫煙せずに健康で長生きで医者いらず」という人が増えた方が、社会としてより健全に機能する、ということが言えます。>>

 薬物に関しては、他者に迷惑をかけないことが明らかであれば自己責任にまかせるべきと思います(他者に迷惑をかけない薬物というのはほとんどないのはもちろんですが)。
 喫煙に関しても、他者に迷惑をかけなければ、自己責任で自由にまかせるべきです。タバコにより幸福感を味わう人もいるでしょう。健康を害した人は自ら決断の結果を甘受せねばなりません。
 酒やポルノも同様の観点から問題になりえますが、そのようなものに耽溺することにより、幸福になる人もいるでしょう。自己責任にゆだねるべきです。
 価値観は多様であります。

>>「人が生きている」以上、「他者に迷惑かけない」、という命題が社会的に成立すると思うこと自体が幻想であり、現実から乖離した仮象論理の暴走であると言うべきではないでしょうか?>>
 もちろん、おっしゃるとおりです。私がここで想定しているのは基本的には積極的な害です。

 商売なども、もっと規制緩和して自由競争にゆだねるべきと考えます。規制は既得権益を甘やかし、ひとびとのチャンスを奪います。
 結婚など家族の問題も、やはり自由にまかせるべきです。例えば、同姓婚は積極的に法で保護する必要がないにしても、禁止してはなりません。

 私は人類・人類社会に関しては楽観的な見方をしております。徹底的に自由な社会においては、人間の諸可能性がもっとも開花すると確信しております。
 たとえば、中東、アフリカ、北朝鮮のように自由がない社会では、たとえ、健康で長生きできても(実際はそれすらままならないが)主体的に生きたことにはなりません。
 世界中が自由主義社会になり、政府の規模が小さくなれば、戦争のように巨額のコストがかかるばかげたことは起きなくなると思われます。(国家イデオロギー的にはアメリカと中国が対立していても、ビジネスレベルではおおむね良好な関係です)
 自由主義のもと、経済的・文化的なグローバル化が徹底されれば、人間社会の統合という根本問題の解決に近づくと考えます。

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社会的有機体論 投稿者:Σ 投稿日:11月 5日(日)12時36分26秒

田中先生へ

>>−−個人の自由という文脈では、ホーリズムを決定的に否定する立場であります。  私は他人に害を加えない限り、自分の判断で極限まで自由を追求できる社会が望ましいと思います。他者に害を与えなければ、自らの心身の健康を害しうるものによる幸福追求も自由にすべきです。>>−−

先生が徹底的な個人主義的哲学をお持ちであることは分かりましたが、一つ、卑近な例を持ち出して、その反証と致しましょう。
東京人には嬉しいことですが、ハンカチ王子こと斉藤佑樹君が甲子園で活躍し、早稲田実業高校が夏の甲子園で優勝しました。途中の苦しい試合の場面で選手たちはマウントに集まり、各人が皆、人指し指を一本高く掲げていました。この仕草サインは、「みんなで一人」という意味だそうです。
「素晴らしい!」 と、このチームワーク・スピリットに涙する人も観客にはいたでしょう(笑)。
チームが一つの目標に向って機能する、機能させるべき時には、それぞれの部分(パーツ)は歯車的に、全体に対して有機体的に融合して機能することが求められます。また、その時にこそ、最も効率的なパフォーマンスが発揮されるのです。
野球において、徹底的個人主義で各選手が自分の最大利益と最大自由のために行動したら、そのチームは多分、チームとして充分には機能せず、機能不全を内包した弱いチームの部類に入ることでしょう。
社会においても、これと同様のことが言えるでしょう。
自らの身心の健康を害しうるもの、たとえばヘロインによる幸福追求も自由にすべき、だとすると、もしそれを許可すると、社会人として機能しない廃人が大量に発生し、社会が健全に機能しなくなります。喫煙にしても然りで、喫煙による癌発生と死亡の率、早死にしてしまう確率、そして莫大な医療費と、それを補助する国家の保険分の支出などを考えると、「喫煙せずに健康で長生きで医者いらず」という人が増えた方が、社会としてより健全に機能する、ということが言えます。
一人一人が、「煙草一本ぐらい路上に捨てても大したことない」と思って皆がこれをやれば、その路上は吸殻の山になってしまいます。

「人が生きている」以上、「他者に迷惑かけない」、という命題が社会的に成立すると思うこと自体が幻想であり、現実から乖離した仮象論理の暴走であると言うべきではないでしょうか?

団藤博士の「法のダイナミックス」とは弁証法的スタンスであり、個人が他者(社会)と衝突・軋轢が不可避であるからこそ、その相互調整原理として「法」が要請されて生み出され、日々、新たな衝突が起こり、新たな法が生み出される、というダイナミックな発展運動がある、ということだったと、うっすら記憶しております。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 5日(日)12時11分59秒

> 私は他人に害を加えない限り、自分の判断で極限まで自由を追求できる社会が望ましいと思います。他者に害を与えなければ、自らの心身の健康を害しうるものによる幸福追求も自由にすべきです。

「害」の認定は「他者」に委ねられているから、この「自由」というものも結局は「他者」に依存した「自由」でしかないということでしょうね。
つまり、「法」や他者から自由でいられる自由などというものは無いということですよ。
(3ドア問題の実験は私が替わりにやってあげましたよ。しかし最初の10回にはビックリしましたね。結果は×○○×○○×○○○でしたが、9回までは1/3:2/3の割合で絵に描いたように一致しているでしょう。そして次の10回も同様に○7:×3、その次は○8:×2でした。)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)08時44分4秒

 存在論の文脈でいわれるところのホーリズムについては、判断を差し控えさせていただきますが、個人の自由という文脈では、ホーリズムを決定的に否定する立場であります。
 私は他人に害を加えない限り、自分の判断で極限まで自由を追求できる社会が望ましいと思います。他者に害を与えなければ、自らの心身の健康を害しうるものによる幸福追求も自由にすべきです。徹底的な反省による理性による幸福追求が可能でなければなりません。
 そして、個人主義を徹底することが可能な社会が望ましいです。
 もちろん、個人主義が前提とされるにしても、社会主義のようなものに賛同するものが、自由社会の中にコミューンのようなものをつくるのもまた自由です。

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方法論的個人主義・全体主義 投稿者:田中 投稿日:11月 5日(日)07時49分8秒

 野家氏が

 >>科学史上の事実に徴する限り、主要仮説が否定されることはめったにありません。しかも、補助仮説のなかには「観察者の視力は正常である」や「実験装置は誤作動をしていない」のようなトリビアルな前提も含まれているのですから事態はいっそう複雑になります。決定的な反証が不可能だと言われるゆえんです。>>

 というのはそのとおりなのですが、これらは「語用論的失敗」にすぎず、決定的な反証が極めて困難でも、反証主義が有用なのは変わらないと思います。

 >>−−社会科学において「方法論的個人主義」と「方法論的全体論」との対立軸を形作ってきた問題です。

 この問題を単純に背反的に二つに分けることは、根本的な誤謬です。

 この問題に密接に関連するのが「間主体性」という概念です。
 団藤博士のポパー追悼エッセーの中で使用されているので引用させていただきます。

>>―私は友好的−敵対的協働の意味での間主体性は個人のレベルだけでなく,文化の担い手としての民族のレベルでも考えることが可能で,間主体性は文化と文化,民族と民族の間にも妥当するのではないか,という私見を述べた。私の脳裏には,かつて東北大学で講演した「法のダイナミックス」(法学52巻1号,1988年)の構想があった。博士は間主体性は文化と文化,民族と民族の間にも妥当するということについては,すぐに賛意を表してくださった。

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Re:忍者の家系 投稿者:φ 投稿日:11月 5日(日)04時51分35秒

 冴えた譬え話ですね。

 いろいろ検討してみたいことがありますが、まずは

>息子=人類、母親=地球なのですが、
>この場合のように、
>地球を観測主体とみなすことはできないのでしょうか?

 地球そのものに意識があれば、観測主体とみなすことはできますよね。しかし地球に意識はないですよねえ……。
 文明を宿しているのだから地球全体としても意識があると見なせ、という超ガイア説を採ったとしても、ダメですよね。なぜなら、その場合、地球が意識を持つという認定は、人類の存在と独立でないからです。
 忍者の母親の身許が嫁入り前から一個の人間として同定されていたのに対して、地球の同定は、人類が問うたという事実に依存しています。これは、息子が問うて初めてその母親の身許が生み出される状況に相当しますね。
 母親の問いは、論理的には息子の問いとは独立に生じうるのでなければなりません。ところが、母親たる地球の同定が先ではなく、知的生命誕生という息子の同定から遡るという遡行手続きになっています。よって、地球の生命クジという最も根本的な観測選択効果の問題においては、母親の推論ではなく、息子の推論に軍配が上がるのですね。

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忍者の家系 投稿者:ε 投稿日:11月 5日(日)00時48分16秒

kotobazukuriさん、φさんのレスを見て次のような話に変えてみました:

戦国時代、ある国に忍者の家系がいくつかありましたが、いくつあるかは領主しか知りません。そして秘密保持のため近親婚を繰り返したので弊害が出てくるようになったので、領主は一般の武士や町人、農民の中から知的、身体的、性格的に適した娘を選び、それぞれの家系に娶らせました。
忍者の嫁を選抜するらしいといううわさは流れており、実家との連絡は取れなくなってしまうが、生活は保障されるため、年頃の娘を持つ家では恐れたり、期待したりしていました。

ある忍者の家にそのような結婚から生まれた息子ができ、成長して考えました。
僕のような忍者の息子はどのくらいいるだろうか?僕の母親のような優れた適性を持った娘の大半が忍者の家に入るくらい忍者の家系は多いのだろうか?いや、そうはいえない。忍者の家系が一つしかないとしても、それが僕の家なのだから。

母親は次のように考えます:
私のような適性を持っていた娘はそれほど多くないにしろ、かなりの人数いるはずだ。その中で私が選ばれて忍者の家に入ったということは、忍者の家系はかなりたくさんあるに違いない。

もともとの問題との対応はもちろん、息子=人類、母親=地球なのですが、この場合のように、地球を観測主体とみなすことはできないのでしょうか?

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健全な全体論のための覚書 投稿者:Σ 投稿日:11月 4日(土)23時18分58秒

田中先生へ

ラッセルは、『西洋哲学史』の中でヘーゲル哲学のホーリズム(全体論)を批判しているわけですが、ヘーゲル哲学の継承とも言える現代のホーリズムを見ながら、へーゲル批判をするラッセルの批判をしたいと思います。

「ポパー・レターズ」より、現・日本哲学会の会長でもあられる野野啓一教授の「ホーリズムの擁護」という論文から、重要な箇所を抜粋してノートしておきたいと思います。
この論文につき、田中先生のご批判があれば是非伺いたいと思います。
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v9n2noie.html

>>−−「デュエム=クワイン・テーゼ」は、反証の過程においてすら、理論選択を強制する一義的な論理的アルゴリズムが存在しないことを明らかにしました。それでは、論理的基準が存在しないのならば、実際の理論選択はいかなる基準に従ってなされるのでしょうか。クワインはそれに「保守主義」と「プラグマティズム」をもって答えています。つまり、そこでは知識-信念体系の全体をできるだけ乱すまいとする傾向と理論の単純性の追求などの考慮が働く、ということでしょう>>−−

>>−−ここに見られるのは、部分と全体の間の「解釈学的循環」とも言うべき事態であり、部分を全体から切り離すことはできません。したがって、この質量概念だけを相対論的な質量概念で置き換えることはできない道理です。その変更は直ちに理論全体へと波及するからです。その結果、基本語彙や理論の核心部分の変更は部分的な手直しに留まることはできず、理論全体の全面的変更とならざるをえません。クーンの言う「パラダイム転換」がホーリズムの立場と不可分であることがおわかりになると思います。>>−−

>>−−社会科学において「方法論的個人主義」と「方法論的全体論」との対立軸を形作ってきた問題です。ポパーが前者の立場を取っていることは言うまでもあません。それに対してクーンは、一九八六年に来日した折に行われた講演「歴史所産としての科学知識」において、旧科学哲学を「静的アプローチ」、新科学哲学を「発展的アプローチ」として特徴づけながら、前者の見方を批判しています。  旧科学哲学では、知識の担い手は科学者をモデルにした「合理的個人」とされており、そこから科学哲学の目標も、合理的個人が無知の状態から出発して、いかにして仮説を正当化して知識を獲得するかの過程を解明することに置かれます。しかし、クーンによれば、これは科学を「ワンマンゲーム」と見なす立場であり、その背景にあるのは「方法論的独我論」にほかなりません。科学者は白紙状態から研究を始めるわけではなく、科学者共同体によって支えられた研究実践の伝統に帰属することから研究を出発させます。その意味で、研究は「社会的実践」なのであり・・・>>−−

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哲学(ソクラテス以前へ) 投稿者:田中 投稿日:11月 4日(土)20時41分51秒

 哲学は宇宙論及び単純な認識論(cosmology and a simple theory of knowledge)に立ち戻るべきだ、というのが私の信じるところです。
 すべての知的なひとびとの関心をひくところの哲学問題というものが、少なくとも一つは存在します。
それはわれわれの住むこの世界を理解し、そして、この世界の一部であるわれわれ自身及び世界についてのわれわれの知識を理解することがそれであります。
 あらゆる科学は宇宙論である、というのが私の信念であります。
そして、哲学が私の関心をひくのは、端的にそれが世界に関するわれわれの知識を、そして世界に関するわれわれの理論を、豊かにしようと大胆に試みるからにほかなりません。
K.Popper, Conjectures and Refutations, 1963, p.136.

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 4日(土)19時45分53秒

 Σ先生がご使用になられたカントのことばを拝借いたしました。(笑)

 思うにカントにしてもヘーゲルにしても哲学の本当の問題について考察しているのはうすうす感じるのですが、それをうまく理解できないのは論理が原因ではなく、私に霊感がないことが原因かもしれません。

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僣越ながら座布団五枚! 投稿者:Σ 投稿日:11月 4日(土)18時34分39秒

>>−−本質主義による仮象論理の連鎖的独走・暴走によって生み出された混乱の典型です。>>−−

う〜む・・・「本質主義による」という枕詞が実に効いていますね。田中先生、流石にうまい表現です。一本とられました。(笑)

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いろいろありがとうございます(含 訂正) 投稿者:φ 投稿日:11月 4日(土)14時36分5秒

■ε さん いつもながら冷静な立場から、面白い譬え話ですね。ただ、疑問もありますので、ちょっと考えてみます。拙速ながら、末尾に当面の改善案を書きました。

■kotobazukuri さん 一緒に考えてみましょう。ただ、ε さんの意図は的確で、かりに譬え話が不備だとしても、微調整で観測選択効果とくじ引きの区別をとらえる譬え話となるはずです。この投稿の末尾参照。

■田中さん! 田中さんには以前『論理学入門』の記述の不備を指摘していただきましたが、今回、田中さんの引用のおかげで、もうひとつ、不備を発見させていただきました!!

 >三浦先生の言う観測選択効果とは単純に
>「観測者の性質や能力が、観測される対象の層を偏らせてしまう現象」
>『論理学入門』144頁 にすぎません。つまり、一般的に言われるものと同じであり、
>わかりやすく説明してあります。

 『論理学入門』144〜145頁を、以下のように訂正しなければなりません!
 『論理学入門』144頁下から6行目 観測選択効果とは → 選択効果とは
        145頁上から15行目末尾に次の一文を付加
           それを特に「観測選択効果」と呼ぶ。

 「観測選択効果」は、「選択効果」の特殊な場合です(私個人の定義ではありません)。これが一般に認識されず、広義の「選択効果」の意で「観測選択効果」と言われることが多いので、その誤った用法を正すために、私はいつも区別するよう心がけています。

 つまり、■ハムさんの言う
>一般にいう観測選択効果は、
>観察者の性質や能力による観測される対象の偏り、をいいますが、
>人間原理では、観察者の存在自体が必然的に観測される対象を偏らせる、
>という意味が加わっています。

が正しいのです。この区別を、『ゼロからの論証』では自覚的にやっていますが、『論理学入門』では自覚していたもののまだ甘く、田中さんが(皮肉にも肯定的に)引用された箇所の誤記となって露出しました。うっかりミスでした。田中さんがせっかく納得しているものをひっくり返してしまい心苦しいですが、以上のように訂正いたします。面目ない!

 「観測選択効果」とその上位概念「選択効果」の区別は、主に哲学的に重要なだけであって、実際の計算では、影響しないことが多いです。ただし、「観測装置の性能にはいっさいの偏りはない」ことを確かめて、選択バイアスを無視できると信じていると、観測選択効果に足をすくわれます。つまり、観測装置がいかなるものであれ、観測が成立していること自体が、宿命的にデータをスクリーニングしてしまっているのです。
 よって、ほとんどの場合は観測装置の性能の偏りを考慮するだけですみますが(選択効果の補正)、根本的な場合、つまり私たちの存在にかかわる地球の生命クジのような根源的問題においては、観測装置の性能如何にかかわらぬ観測の成立そのものが補正されねばならないのです(観測選択効果の補正)。そうでないと、観測できない部分を含めた客観的状況のベイズ推定ができなくなります。SETIの人たちは、この補正の必要性を知ってか知らずか、知らないふりをして普通の帰納的一般化をしている「自己中」な人たちかなと私は思うわけです。
 「観測の成立そのもの」を「問いの成立そのもの」に置き換えると、ε さんの譬え話になります。貴族の子どものうち、母親を庶民とする者の子どもだけが、疑問を感じるからです。ここに観測選択効果が働きます。
 母親の場合、観測選択効果が働かないようにするには、自分が貴族と結婚しようがしまいが、同じ問いを問う可能性がなければなりません。普通のクジ引きは、外れても問いを問えるからです。ε さんの譬え話のままだと、そこが怪しいので、「母親の世代は、貴族・庶民を問わず事情(もともとの王様の勧告)を知っているが、息子の世代は誰も知らない(ハイブリッド家族の息子だけは事情を聞かされうる)」というような但し書きが必要ではないでしょうか。
 そうすると、母親の推論は観測選択効果の補正を必要とせず、息子の推論は観測選択効果の補正を済ませた推論となり、ともに正しいベイズ推論となります。

 なお、この曖昧さをなくすために、哲学でよく使われる譬え話は、「問いを問う前に大半の人は殺される」といった譬え話です。精子の競争の果てに誕生してきた私たちの存在に関わる観測選択効果の譬え話としてはそちらが近いですが、ε さん流のほうが日常的応用度がありそうです。

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再補足 投稿者:田中 投稿日:11月 4日(土)09時45分1秒

 私は、日本で出版されたほぼすべての論理学関連の本、英語の論理学の本の蔵書を所有してますが、たいていの本は間違いだらけです。
 私の蔵書の中でも三浦先生の「論理学入門」と「論理学がわかる事典」は最高に良い部類に所属していることを強調させていただきます。なぜなら、記号論理についてのみならず、さまざな役立つ方法・概念がたいへんコンパクトにまとめられているからです。私のように何十年も論理学に親しんだ人間ですら学ばされることは多いです。
 論理学の入門書の見極めのコツは私は本の厚さだと確信しています。分厚い本は間違いが非常に多いです。

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月 4日(土)08時17分14秒

 例えば、定義か経験分析か意味分析かを明らかにせずに「可能世界とは何か」という問題提起をするならば端的にそれは無価値(ナンセンス)です。そのような方法は未曾有の混乱を生み出し結局、収穫なしで終わることになります。カルナップもそんなことはしません。
 そして、これは完璧主義の誤謬なるものとは無関係であります。

 本件も本質主義的発想が混乱の根源です。そもそも確率の思想に通説などはないのです。実利的な観点から、企業や科学者・哲学者、その他が方法を採用するのですから、無前提で論じれば混乱を生むのは必然でしょう。たとえ、著名な事例であっても。
 本質主義による仮象論理の連鎖的独走・暴走によって生み出された混乱の典型です。

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(無題) 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 4日(土)07時59分57秒

ε様、田中様、ありがとうございました。

私の説明はε様のようにすっきりしたものではありませんでしたので、 φ様にいろいろと誤解を与えてしまってこちらとしても引っ込みがつかなくなっていました。

誤解の種ではありますが間違いともいえないですし、入門書でもありますので私はもうこの掲示板にこの問題について書くことはやめます。φ様が反論されても返答はやめておきます。こちらの主張の致命的な間違いがもし見つかり、私が納得したならばそれを認める書き込みはします。

それから11月 4日(土)01時46分28秒の発言で書いたいじわるな解釈は捨てて
「観測者の性質や能力が、観測される対象の層を偏らせてしまう現象」
として観測選択効果を素直に理解します。

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おはようございます 投稿者:kotobazukuri 投稿日:11月 4日(土)07時55分27秒

> どちらもそれぞれ主観的には正しいベイズ推論をしているように

以下が正しくないと思われます・・ というか意味が分かりにくいですが(自分には)

> 「いや、そうとは言えないでしょう。一家族でもそうしていたら、その子供が僕のように考えて不思議はないし、それがたまたま僕であって良いわけでしょう。」

僕がたまたま庶民の母親を持っていることからは、庶民と結婚した貴族が多かったと推定するのがベイズ推定ではないのですか?

> つまり母親は、自分が庶民と結婚した可能世界を考え、息子は母親が庶民でない別の夫婦の子供である可能世界を考えて

同じと思われます。庶民と結婚した貴族の割合によって決まってくるので。

もし私が
>それぞれ無差別原理を適用

ここの意味をわかっていなくて誤解していたらすいません

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 4日(土)07時40分50秒

 観測選択効果についてずるいとか主観が入り混じってるというのは端的に間違いです。
 三浦先生の言う観測選択効果とは単純に「観測者の性質や能力が、観測される対象の層を偏らせてしまう現象」『論理学入門』144頁 にすぎません。つまり、一般的に言われるものと同じであり、わかりやすく説明してあります。

 その問題とは別にsubstructural logician 先生もご指摘なさるように、前提が明確にされていない点が問題であります。これはポパーが厳しく戒めるところの瑣末主義や、完璧主義とは別問題であり、正当に問われるべき問題でしょう。記述の仕方や問題提起の仕方が根本的に誤っているから未曾有の混乱を生まざるをえません。
 しかし、見方を転じて、入門書である(入り口にすぎない)と捉えるならば、substructural logician 先生もご宥恕なさるべきではないでしょうか。

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観測選択効果 投稿者:ε 投稿日:11月 4日(土)06時29分49秒

今までの議論を拝見して、次のようなたとえ話を思いつきました:
ある国の王様が、貴族たちに言いました
「お前たちの息子は、妻として庶民を選んだほうがよい。これは古い血統に新しい血を入れてより強くするためなのだからおまえたちのためだ。強制ではないが。」
千の貴族の家系のうちいくつかは王の勧めに従い、またいくつかはそうしませんでした。そしてどの家系がそうしたかは、家族以外には明らかにされることはありませんでした。

やがて息子たちはみな結婚し子供が生まれました。

そのような貴族の子供の一人(母親は庶民だったのですが)が、あるとき疑問を持ちました:
「僕のような境遇の子供は、貴族のうちどれだけいるのだろう。僕という実例があることから何が言えるのだろう。」
母親が答えました:
「私のような平凡な庶民の女が貴族と結婚できたということは、すくなくとも貴族の大半が王様の勧めに従ったに違いない。そうでないとまさに奇跡になってしまう。」
しかし息子は考えて言いました:
「いや、そうとは言えないでしょう。一家族でもそうしていたら、その子供が僕のように考えて不思議はないし、それがたまたま僕であって良いわけでしょう。」

息子の考えが人間原理による観測選択効果、母親はくじ引きの場合に相当すると思います。

つまり母親は、自分が庶民と結婚した可能世界を考え、息子は母親が庶民でない別の夫婦の子供である可能世界を考えて、それぞれ無差別原理を適用したわけですが、どちらもそれぞれ主観的には正しいベイズ推論をしているように思えます。
しかし何組の家族が王の勧めに従ったのかは客観的事実なので、どちらかがまちがいなわけですね。

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最後に 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 4日(土)01時46分28秒

誤解があったらいやなので書きますが、
三浦先生の望みどおり「神様が1個だけ世界を作った(コインを一度だけ投げた)」とすれば、
無差別原理と矛盾せずにコインの表裏は事前確率どおりとなって論理入門の記述が正しいことになります。

そんなことは当然の話として、
スクラッチカード問題はたとえ話だからコインの表裏が五分五分の可能世界の集合を考えるけれど、
地球の問題では神様のなげたコインが全部同じ可能世界の集合を考える、
というように前提が変わっていることを詭弁だと指摘しているのですからね。

観測選択効果を採用したために「神様のなげたコインが全部同じ可能世界の集合を考える」という前提が
追加されて論理入門のような結論が出ているのかもしれませんね。

そうするとハムさんのご指摘どおりに、観測選択効果は客観的な現象ではなくて
主観がいりまじったもので、現象を捻じ曲げるための概念ということになります。

とすると私もハムさんと同様にずるいと叫ばざるを得ません。
ずるいどころじゃなくて科学者からみたら有害な概念ですね。

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訂正 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 4日(土)01時10分43秒

>「無差別原理は暗黙に前提されている」と
>地球の問題で惑星に生命が多いと結論付けるのに必要な「神様がコイン投げでずるをしない」という条件が
>矛盾していると言っているのですよ? 何か誤解してませんか。

地球の問題で惑星に生命が多いと結論付けるための「神様がコイン投げでずるをしない」という条件を論理入門の本が無視して生命が多いというのは嘘だとしていることと「無差別原理は暗黙に前提されている」という主張が矛盾している、
の間違いでした。
こんなケアレスミスばかりしているから三浦先生の誤読を誘うのでしょうか。
すみませんでした。

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ハムさんへ 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 4日(土)00時46分0秒

人間原理でいう観測選択効果についてのハムさんの説明、大変よく納得できました。

ただ、私がφ様と議論していたのは
三浦先生がベイズ推定のための前提を知ってか知らずかずらしたために2つの問題で異なる結果がでているだけなのに、
それと関係ない観測選択効果がどうのこうのといった詭弁を展開しているのではないかという点です。

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三浦先生へ 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 4日(土)00時35分26秒

> というお答えはないでしょう。「1/3で正しいですか?」なんて聞いてません。正しいに決まってるのだから。
> 無差別原理がある以上、もともとの条件明記の必要性主張を撤回なさいますか? と尋ねたのです。

その質問に対しては直接的な解答はしていませんが、

>>「通常、どの問題でも無差別原理は暗黙に前提されている」
>
>とおっしゃるならば、p.208の地球の問題で惑星に生命が多いと
>結論付けるのは間違いだ、と書かれているのと矛盾しますよね。

と書いています。ここから

ずるをしないという条件を明記するのでも無差別原理を前提とするのでもどちらでもいいですよ。
でも、無差別原理を認めるならば地球の問題で三浦先生は矛盾してしまいますよ?

という私の回答を読み取ってくれと期待したのが私の間違いでしたね。

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substructural logician さんへ 投稿者:ハム 投稿日:11月 4日(土)00時31分54秒

あなたとφ様のやり取りをざっと眺めただけなのですが、私が「論理学入門」の「人間原理の論理学」章を読んだときの、煙に巻かれたような不思議な感覚がよみがえってきましたので、ちょっと書いてみます。

人間原理でいう観測選択効果は、一般にいう観測選択効果と意味がちょっと異なっているのです。
一般にいう観測選択効果は、観察者の性質や能力による観測される対象の偏り、をいいますが、
人間原理では、観察者の存在自体が必然的に観測される対象を偏らせる、という意味が加わっています。
つまり、一般にいう観測選択効果は客観的なのですが、人間原理の観測選択効果は主観が加わっているのです。

一般にいう観測選択効果を意味論とすれば、人間原理の観測選択効果は意味論+語用論といえると思います。

私たちは、語用論というのを、ずるく感じますよね。
「あいつはずるい」といったら、そういうことをいうお前がずるくないか、といわれた感じです。

うまく伝わったかどうか不安ですが、私が感じた人間原理の観測選択効果の不思議な感じは、このように理解しています。

substructural logician さんもおそらく、主観としての観測選択効果を想定していないのではないでしょうか?
もしそうなら、主観としての観測選択効果が議論のすれ違いの原因だと思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 4日(土)00時21分43秒

 Σ先生へ

 『西洋哲学史』はもちろんラッセルの偏見に満ちた記述で書かれております。  その点で先生のご見解と多々異なる部分があると思いますが、非常にすぐれた良書である、と思います。

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三浦先生へ 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 4日(土)00時20分40秒

> きちんと計算もせずアバウトな直観に固執するのはlogicianらしくありませんね。落ち着いて計算して御覧になればわかりますが、今回もおっしゃってることが間違ってますよ。いい加減思い込みを捨ててくださいな。仕方ない、以下にふたことだけ。これで最後にします。

いいかげん私の発言を誤読したりしてさも私が間違っているかのように見せかけるのはやめてください。

>「地球の問題では神様のコインの表裏は、神様が1個だけ世界を作った(コインを一度だけ投げた)とすれば、コインの表裏は事前確率どおり」です。(神様が1個だけ世界を作ったというのは、『論理学がわかる事典』が想定する読者層の素朴な前提のつもり)
>
> では、変則的な解釈として(あるいは物理学者の常識?として)、神様が無数の世界を作った(コインを何度も投げた)という前提下では?(つまり多世界解釈を信ずるなら?)
> この場合、事前確率から動きますが、どの程度動くかは他の条件次第です。

あきれた人ですね。
これは私が今まで主張してきたこととまるっきり同じではないですか?
もう一度繰り返すのが面倒だから厳密に書かなかっただけですよ。

先生は私が神様が1個だけ世界を作ったケースでの論証をしたら不自然だといったくせに…

三浦先生はここまで考えて論理入門の本を書いたのかどうか詰問したいですね。
きちんと計算もせずアバウトな直観に固執することはやめてくださいね。
ちなみに私は職業的なlogicianではないです。そう呼んで頂くのは身に余る光栄です。

> >「通常、どの問題でも無差別原理は暗黙に前提されている」
> >とおっしゃるならば、p.208の地球の問題で惑星に生命が多いと
> >結論付けるのは間違いだ、と書かれているのと矛盾しますよね。
>
> 観測選択効果ゆえ矛盾しないと何度も言ったはずですが。

「無差別原理は暗黙に前提されている」と
地球の問題で惑星に生命が多いと結論付けるのに必要な「神様がコイン投げでずるをしない」という条件が
矛盾していると言っているのですよ? 何か誤解してませんか。

よくこちらの言っていることを理解してから返答してください。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 4日(土)00時16分57秒

 三浦先生へ

 私は三浦先生の作品は出版物としては非常に高く評価させていただいていることを強調させていただきます。
 私が不遜にも指摘した箇所については、わかっている人には問題ないが、混乱を招くおそれはない、とはいえないということです。

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う〜む・・2重の誤謬ですか・・ 投稿者:Σ 投稿日:11月 4日(土)00時03分24秒

田中先生へ

今、ラッセルの『西洋哲学史』の「第22章 ヘーゲル」を読んでいるところです。
最後に、ホーリズム(全体論)を批判して、「ジョーンはジェイムズの父である」という例証を挙げていますが・・・う〜む・・・これはひどいと感じます・・・。
哲学史を書く上で、陥りやすい「2重の誤謬」(事実誤認と価値判断の過ち)に、モロにハマッテいるようですね。
あとで、ゆっくり論じたいと思います。

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あとひとこと 投稿者:φ 投稿日:11月 3日(金)23時56分55秒

 付け加えて、一段落とさせてください。

 substructural logician さんは本当にlogicianなのだと思いますが、議論には慣れていないのでしょうか?

 前々回私がお尋ねしたのは、「常識で補完すれば、「司会者はズルをする、しない」に関して但し書きは不要だと思われます。substructural logician さんはいかがでしょうか?」

 ということでした。それに対して、

>モンティ・ホール・ジレンマで司会者がずるをしない条件が無いときに、
>無差別原理にしたがうと解釈するならば、
>P(回答者の選んだドアが当たり|司会者がドアを開けた)=1/3
>となるのは正しいです。で、何が言いたいのですか?

 というお答えはないでしょう。「1/3で正しいですか?」なんて聞いてません。正しいに決まってるのだから。
 無差別原理がある以上、もともとの条件明記の必要性主張を撤回なさいますか? と尋ねたのです。

 これは一例ですが、今までも、substructural logician さんの応答のズレが気になっていました。
 logicianには、専門外の話題でも、正しい議論のテクニックは必要なはずです。

 次に地球の問題でおいでいただくときは、ぜひ、学友か同僚と地球問題で議論を重ねてからおいでください。お願いします。

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もろもろ 投稿者:φ 投稿日:11月 3日(金)23時27分22秒

 ■substructural logician さんへ

 きちんと計算もせずアバウトな直観に固執するのはlogicianらしくありませんね。落ち着いて計算して御覧になればわかりますが、今回もおっしゃってることが間違ってますよ。いい加減思い込みを捨ててくださいな。仕方ない、以下にふたことだけ。これで最後にします。

>ベイズ推定によって
>スクラッチカードではコインの表が多いという結果がでるのに
>地球の問題では神様のコインの表裏のどちらかはわからない、

↑正しくは、
「地球の問題では神様のコインの表裏は、神様が1個だけ世界を作った(コインを一度だけ投げた)とすれば、コインの表裏は事前確率どおり」です。(神様が1個だけ世界を作ったというのは、『論理学がわかる事典』が想定する読者層の素朴な前提のつもり)
 では、変則的な解釈として(あるいは物理学者の常識?として)、神様が無数の世界を作った(コインを何度も投げた)という前提下では?(つまり多世界解釈を信ずるなら?)
 この場合、事前確率から動きますが、どの程度動くかは他の条件次第です。
 substructural logician さんは以上の区別になぜか無頓着ですね。重要な区別を無視するのは、「エンコードのやりかた」云々以前の失着でしょう。
 この点に興味があれば、最低限たった2頁、『論理サバイバル』問102(pp.226-228)をチェックしてくださいな。いい加減お願いしますよ?

>「通常、どの問題でも無差別原理は暗黙に前提されている」
>とおっしゃるならば、p.208の地球の問題で惑星に生命が多いと
>結論付けるのは間違いだ、と書かれているのと矛盾しますよね。

観測選択効果ゆえ矛盾しないと何度も言ったはずですが。

 ときに反直観的である観測選択効果をなかなか理解できないのは決して恥ではありません。
 『ゼロからの論証』は、一つの章(5-1)をまるまる、観測選択効果への無理解丸出し学術書への批判に当てられています。御自身の間違いを知るために、ズバリ御疑問への回答が書いてある5-1を参考にしてください。同じところをグルグル回るのは私もいい加減飽きましたし、モードも変えたし、雑務で忙しくなるので、この件については以後、『ゼロからの論証』の頁&行を明示したコメントのみ受け付けます。

 ■田中さんへ
 おっしゃることは、一々ごもっともなのですが、多少、『論理学がわかる事典』p.267「完璧主義の誤謬」に近いような?
 文脈によっては完璧主義は大切ですけれど、一般には、すべての関連分野の公認諸公理を再提示しながら進む必要も紙数もありませんし、御自分の首を締めるようなことにならなければよいがと……。

 ちなみに、『ラッセルのパラドクス』の冒頭問題は、設問の前提は明示しましたので、御批判はあたらないでしょう。この程度の設問表現が許されないとしたら、現存の学術書も啓蒙書もすべて失格ではないでしょうか。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 3日(金)23時06分22秒

> 実際に実験して検証するのは実際問題として不可能に近いでしょう。だから公理系の展開をして論理的に計算する以外はナンセンスです。

というか、紙に円でも四角でもいいからドアを書いて、あとはサイコロで決めていくんですよ。そして乗りかえた場合の統計をとっていくんですよ。10回もやればダイタイ納得できそうだけど。(笑)
やったことはありませんよ。
まぁ、客がドア3を選んで、司会者がドア1を開けた場合、ドア2が当たりでドア1を開ける確率は1。ドア3が当たりでドア1を開ける確率は1/2というところがポイントのようですね。

> 確率計算にもさまざな方法(思想)があるのはご存知でしょう。

前に何かで読みましたねぇ。
(レスがあってもしばらく遅れます。)

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)22時45分23秒

>>だから言ったように、実際に実験してみれば解ると思うんですよ。 >>

 実際に実験して検証するのは実際問題として不可能に近いでしょう。だから公理系の展開をして論理的に計算する以外はナンセンスです。
 確率計算にもさまざな方法(思想)があるのはご存知でしょう。

 『ラッセルのパラドクス』の冒頭のクイズも、本件もまったく同種の問題(病状)を抱えています。例えば、本書が採用するラッセルの考えによれば、などの前提を置けば解のある問題となりますが、無前提の状態であれこれ議論してもそれはナンセンスです。
 問題の提出の仕方が根本的に誤っているからです。

 >>どちらの条件も命題の真偽を科学的に議論するために必要だから提出されたように見えますが…>>
 おっしゃるとおりであります。
 言明の確率は言明の内容と逆相関的であります。それゆえ言明の確率は内容の測度を構成するために利用できます。内容の測度は言明が偶然によって勝負の決まるゲームについてのものか、または統計についてのものでない限り、せいぜい比較的なものでしょう。

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(無題) 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 3日(金)22時15分5秒

> 反証可能性とは別問題なのですが、端的に 論理学や数学の問題は前提となる公理なしでは真偽を決定できませんし、確率の解釈を一義的にはできないということです。

どちらの条件も命題の真偽を科学的に議論するために必要だから提出されたように見えますが…
別の基準で見れば別問題となるかもしれませんが。

論理学や数学の問題ならば、命題をエンコードするための形式言語を定義して、公理系を設定し、
エンコードされた命題がその公理系の定理として導出可能かどうか調べるというのが王道だというのはわかっていますし、
私の専門(応用論理学)ではそのような方法をとらない限り研究の価値を認めてもらえません。

だからといって実際の問題(スクラッチカード、地球、モンティーホール)で
自然言語で書かれた命題をどうやって形式言語にエンコードするかという問題はなくならないわけで、
適切なモデル化が必要なために、むしろそこが工学などでは一番難しかったりするわけです。

で、そのエンコードのやりかたが三浦先生と私で合意できなかったわけです。
不毛な議論だったかもしれませんが、文体論といって無視してしまえるほど瑣末な問題でもありませんしね。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 3日(金)22時04分18秒

> 6.27の事例でいえば、本件は、たとえば、公理甲では3分の2が正解となりますし、公理乙では2分の1が正解となります。本件のように解釈が分かれうる場合には無前提に一つの解は出ない、と解すべきであります。

この「公理」の意味がイマイチ?ですが、モンティ・ホール・ジレンマの問題では2/3しか正解はないということでしょう。
だから言ったように、実際に実験してみれば解ると思うんですよ。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)20時59分23秒

>>実際に存在し得ないものや観測し得ないものについての確率を語ること
の意味がないということですか? >>
 反証可能性とは別問題なのですが、端的に 論理学や数学の問題は前提となる公理なしでは真偽を決定できませんし、確率の解釈を一義的にはできないということです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)19時56分39秒

 ラクシュンさま

 コイン投げで裏表の割合を計る程度ならば、無反省に行って問題はないのですが、モンティホールジレンマのように多少複雑になると、さまざまな解釈が可能になります。

 6.27の事例でいえば、本件は、たとえば、公理甲では3分の2が正解となりますし、公理乙では2分の1が正解となります。本件のように解釈が分かれうる場合には無前提に一つの解は出ない、と解すべきであります。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 3日(金)19時08分55秒

> (確率の公理の)前提なしにどうやって確証したと確証できるのでしょうか。

確率とは割合のことだと思います。だから簡単なテストでその確率の確からしさが確証(≒確認)できると思ったのです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)18時44分47秒

 >実際簡単な実験で確証できるでしょうに。>
 (確率の公理の)前提なしにどうやって確証したと確証できるのでしょうか。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)18時26分16秒

 論理学、哲学はもとより、諸科学のメタ理論における言語分析は、実在認識のための不可欠の手続きです。

 >だから実験できると書いてあるし、実際簡単な実験で確証できるでしょうに。>
 確率計算の結果を如何に解釈するかを決するには、公理をおかなければならないのです。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 3日(金)18時01分35秒

> 私が主張してるのは、言語外的実在対象として「本質」というものはないということです。この点に関する的確な配慮を欠く議論が、往々、当事者の真剣な意図に反して「ことばの争い」(ロゴマキー)に陥りがちだ、ということは常に念頭におかなければなりません。

センセー、それはアナタです。(ーー

> まず確率の問題で重要なのは確率言明のテスト可能性です。

だから実験できると書いてあるし、実際簡単な実験で確証できるでしょうに。

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田中さまへ 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 3日(金)17時38分9秒

田中さまへ、

私はただの院生ですので、先生と呼ばれるのには恐縮します。
'さん'付けでお願いいたします。

> まず確率の問題で重要なのは確率言明のテスト可能性です。

実際に存在し得ないものや観測し得ないものについての確率を語ること
の意味がないということですか? 反証可能性みたいなものですね。

確かに危うい議論になりがちですが、工学的には意味があります。
例えばスパムメールのフィルタリングにはベイズ推定が使われています。

> 確率言明の可能な解釈の多様性の問題

私は三浦先生が同じ本の2つの問題で異なる解釈を
読者に要求しておられるようですので指摘したわけです。
何が何でも三浦先生が間違っているというわけでなく、
詭弁に近いのではないかという指摘です。

たしかに不毛な議論だと思われますので、もうやめます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)17時18分24秒

substructural logician 先生へ

 まず確率の問題で重要なのは確率言明のテスト可能性です。
 次に、確率言明の可能な解釈の多様性の問題です。
 これらの問題にとりかかるには、そもそも確率計算のための前提となる公理系を展開せねばなりません。
 したがって、pp268-269の説明は不完全であります。あの説明では答えは原理的に出ません。(端的な誤謬です)したがって、私などから言わせれば(さしでがましいのは承知ですが)ご両人とも不毛な議論をしていると言わざるをえません。

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補足 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 3日(金)17時10分8秒

私の定義は'測選択効果'というよりはもっと広い'選択効果'のものですね。
この点は私に不手際がありました。
どちらにしろ観測選択効果という用語を用いなくても私の主張が正しいかどうかの議論は出来ます。

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毎回訂正してすみません 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 3日(金)16時56分19秒

>スクラッチカードではコインの表裏が同確率であるのに
>地球の問題では神様のコインの表裏が同確率でなくなるということはない、

ベイズ推定によって
スクラッチカードではコインの表が多いという結果がでるのに
地球の問題では神様のコインの表裏のどちらかはわからない、

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)16時53分11秒

>>「哲学」とは、近代・現代の潮流の中では、こうした「神秘主義領域」を否定することではなく、それを深いところで肯定した上で、それと「論理世界」の限界的境界論として展開されている、ということです。>>
 この点に関しては先生のご見解に賛成いたします。

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Re:モンティ・ホール・ジレンマ 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 3日(金)16時50分27秒

田中さまへ
> 本質主義的解釈の典型ともいうべき思考パターンです。観測選択効果なる語のみならず、すべての語に固定した意味などありません。
> したがって、いやしくも議論をするなら三浦先生の『論理学がわかる事典』の定義に従わなければならないでしょう。(255頁「観測選択効果とは、観測者自身の存在が環境を限定することによって、観測対象の性質に偏りが出てしまう」選択効果という意味でその語を使用するべきです)

私はすべての語に固定した意味があるなどとは言っていません。
私が定義した観測選択効果を使おうが、
三浦先生の定義(『論理学がわかる事典』からは観測選択効果のいろいろな解釈が可能だと思いますが)
を使おうが同じ結論が出るから調べる気がないと書いたのです。
今までの議論をよく読めば観測選択効果の定義など
私の主張が正しいか正しくないかを論ずるには関係ないということがわかると思います。

三浦先生へ
> ……結局、観測選択効果を理解してないということですね。
>「観測選択効果の話(p.208)なんかは特にひどい」というのでそれなりの期待をもって応対してきましたが、わかりました、対応モードをちょい切り替えさせていただきます。

私の定義は間違っているということですか?
三浦先生の定義と食い違っているからといって理解していないといわれたらかなしくなりますが、
どのような定義であろうと、三浦先生の論理入門本で

スクラッチカードではコインの表裏が同確率であるのに
地球の問題では神様のコインの表裏が同確率でなくなるということはない、

と書かれているのは間違いであるか、もしくは前提を問題によって暗黙のうちにころころ変えるような詭弁だ、
という私の主張を三浦先生に認めていただくことは十分出来るはずです。

私の主張を認めていただけたというならば、
他の問題を論じるために三浦先生の観測選択効果を他の本にあたって調べてもかまいません。

モンティ・ホール・ジレンマで司会者がずるをしない条件が無いときに、
無差別原理にしたがうと解釈するならば、

P(回答者の選んだドアが当たり|司会者がドアを開けた)=1/3

となるのは正しいです。で、何が言いたいのですか?

「通常、どの問題でも無差別原理は暗黙に前提されている」

とおっしゃるならば、p.208の地球の問題で惑星に生命が多いと
結論付けるのは間違いだ、と書かれているのと矛盾しますよね。

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ラクシュン さまへ 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)16時48分59秒

>>例えば、(秋田犬を指されて)「これは何だ?」と問われたら、田中さんだって「犬Λ秋田犬Λ…」だと思うでしょう。その既に知っている概念的な"知"のことを現象学では「本質直観」というのです。>>

 私が主張してるのは、言語外的実在対象として「本質」というものはないということです。この点に関する的確な配慮を欠く議論が、往々、当事者の真剣な意図に反して「ことばの争い」(ロゴマキー)に陥りがちだ、ということは常に念頭におかなければなりません。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)16時27分0秒

>>ウィトゲンシュタイン曰く、「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく,世界があるということだ」 『論理哲学論考』(6・44)>>
 「世界」は抽象物であり、われわれの理性の産物です。ウィトゲンスタインの神秘主義は非合理なものを合理化しようと試行し、かつ、間違った場所で神秘的なものを探しているように思われます。
 彼の哲学は現在も巷で流行しておりますが、非合理で神秘的な主知主義であり、かつ知的病気であり、まじめに取り上げる必要のない病気と評価できましょう。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 3日(金)16時21分37秒

>田中さん >ヘーゲルは別格としても、現象学を標榜する者、一部の分析哲学を標榜する者の文献において「概念」が何か「本質的」、「実体的」なもので、語は単にその「現象形態」にすぎないと考え、

これはたぶん、「本質直観」「形相的還元」などという用語から現象学の本質を洞察したつもりになっている田中さんのドクサでしょうね。
例えば、(秋田犬を指されて)「これは何だ?」と問われたら、田中さんだって「犬Λ秋田犬Λ…」だと思うでしょう。その既に知っている概念的な"知"のことを現象学では「本質直観」というのです。

少なくともこの意味での「本質」認識を否定して人間が生きていられるのですかぁ?(笑)

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)16時19分24秒

>>ウィトゲンシュタイン曰く、「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく,世界があるということだ」 『論理哲学論考』(6・44)>>

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「語り得ぬもの」は「意味や提示」はされ得ないか? 投稿者:Σ 投稿日:11月 3日(金)10時45分29秒

田中先生へ

田中先生の「懸念」は尤もだ、と深く肯定致します。

しかし、一点、押さえておいて頂きたいことは、哲学の潮流を形成している人々の「ユダヤ性」です。
現象学にしても然りです。つまりは、彼らにとって、「科学/宗教」「モーセの十戒と対峙し逃れられぬ人間」というテーマは普遍のものであり、彼らによる「哲学」とは、近代・現代の潮流の中では、こうした「神秘主義領域」を否定することではなく、それを深いところで肯定した上で、それと「論理世界」の限界的境界論として展開されている、ということです。

引用するのも憚られるほど、今や陳腐化している部分ですが、一応、以下にノートしておきます。

まず、私の過去の発言における「訂正」を一つ。
▼(不正確な叙述)
やはり、ウィトの名言−−「世界が存在していること自体が神秘である」−−に尽きるかもしれません。
▼(訂正後の正確な叙述)
ウィトゲンシュタイン曰く、「神秘的なのは世界がいかにあるかではなく,世界があるということだ」 『論理哲学論考』(6・44)

ここで示されている如く、「世界が如何にあるか」を考究するのが「科学」だと言えましょうし、この延長線上に、反本質主義的態度があると言えるでしょう。
そして、ウィトによる「反本質主義に対する辛口コメント」としては、
以下の部分が挙げられるでしょう。

>>−−−「ありとあらゆる科学上の疑問にたいして答が与えられたときでも,人生の問題は以前として手つかずのまま、という実感がある。」(6・52)

恐らく、田中先生が引用したラッセルの考えからすれば、経験的なことはすべて科学的因果関係に収斂することが期待されているわけで、因果の全容が解明された時、人生の問題も科学的に解決されるのでしょうか? 或いは、ラッセルも、「それは科学とは別領域の問題だ」と「区分け」するでしょうか?
もしそのように「区分け」するのだとしたならば、「そうした反本質主義者の態度は、実は、解決できない、人生の本質的な問題は、全部、他の領域へと区分けして、そちらに投げ出して排除しているだけではないか? それが反本質主義者の解決法か?」 との批判が妥当するでしょう。

上記のウィトの感想であるところの、「世界が如何様にあるか」という「機能的・ハウ・トゥー的問題」につき全部を解決を見たとしても、未だ残存するところの、「手つかずの実感」は、ウィトの次のコメントに結実しています。

>>−−−−私はハイデガーが存在と不安について考えることを、充分に考えることが出来る.人間には、言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない。われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。
それにも拘らず、われわれは言語の限界へ向かって突進するのだ。(ウィトの、シュリック家での談話。ハイデガーについて語る)>>−−−

ここでの「あまりにも人間的な、衝動・・・」すなわち、
「それにも拘らず、我々は言語の限界(彼方)へ向って突進しようとする衝動」

では、この無謀とも言える「突進」としての営みは、何処から見ても、ドンキホーテの如き滑稽で非生産的なもの、単なる文学的なものに過ぎない、詩的情緒に過ぎないものなのでしょうか?

ヘーゲルは、彼の強靱な精神の営みの天才によって、この限界が「突破され得るものであること」について、詳細に叙述し、彼岸と此岸の論理連関について精力的に叙述しました。
では、なぜに、厳然と立ちはだかるその限界が、「突破され得る」 と言い得るのか?

ヘーゲルにおいては、「自己言及」と不即不離の「自己反省」によりそれが可能だと言います。
そこまでいわずとも、ウィトゲンシュタインの論法を一部借りて表現するならば−−−
命題の総計が言語であるがその限界へと突進する主体が、限界(世界)と同一であることは論理矛盾なので、世界と同一ではないところの「突進する主体」は、本来、言語の限界(世界)地平を超越した存在であり、それは本来的に、世界の外にある、といわざるをえない−−−と。

「すべての哲学は「言語批判」である」(4.0031)
 −−ウィトのこの命題は、言語や命題を定立し意味付けする、当の(外なる)主体論を含む、という意味での言語批判と考えて結構でしょう。
「哲学は語りうることを明晰に描出することによって,『語りえぬもの』を意味するであろう」(4.115)

というわけで、 【結論】 限界(世界)を超越した「本質」は、「有る」といわざるをえない。

反本質主義者が、「語り得ぬものは存在しない」と主張するのか、それとも「語り得ぬものは科学哲学とは別領域へと投げやるだけ」と主張するのか、そして、田中先生はどちらのお立場なのか、判然としませんが、いずれにせよ、

存在論レベルで反本質主義を主張する人は、
(1)世界と言語の限界へと突進する「主体」   (2)「世界と言語」
この(1)と(2)双方の論理的相互関係(別異なのか同一なのか、など)につき、論理的に提示する必要があります。

しかし、普通、それはできないでしょう。
そして、それが提示できない場合、それが存在論レベルでの反本質主義の「妥当性の限界」ということになりましょう。

但し、ウィトの場合のように、(そしておそらくポパーも)、こうしたことを大前提にした上で、
「哲学は語りうることを明晰に描出すること『のみ』ができる」という知的廉直の立場から、そのことを貫徹することによって、裏面的に、『語り得ぬもの』を炙り出す『目的』で、
(方法論的に)反本質主義的立場を採り、哲学の中から、本質論的な言辞を排除しよう、とするのです。つまり、「本質に迫る」ための戦略的な「表層的方法論」として「反本質主義」を選択するのです。これが、「方法論的唯名論」(という戦略)の本質(目的)でありましょう。
(これを押さえず、表層的に、「方法論的唯名論」の戦略のみが自己目的化してしまい、真の目的が脱落してしまうと、以前述べたような、仏教世界によく居るところの、「邪空に執する空見論者」のレベルに堕してしまいます。)

そして、こうした自覚的・戦略的な、反本質主義的方法論を貫いた時、ウィトは、次のように呻吟せざるをえないのです。
>>−−独我論が言わんとすることはまったく正しい。ただそのことは語られることが不可能なので、只みずからを示すのみである。(5・62)>>−−−−

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修正・補足 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)09時51分38秒

>>認識の学としての哲学>>

 例えば、「虚構」という「語」について議論することは非哲学的な、瑣末なことと思われますが、「虚構」という「概念」について語ることは哲学者に相応しい崇高な使命のような気がします。
 「虚構の概念」の本質を求める場合にはこのことを念頭に置かなければなりません。

 概念という語は、結局多くの同義語を総括するために便宜上用いられる語に過ぎず、別に本質主義的存在論を必要とするような神秘的実体ではありません。このことの洞察こそ、人文・社会科学における明晰な議論の必須条件であります。

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Σ先生へのご返答 投稿者:田中 投稿日:11月 3日(金)09時40分47秒

 私が気になるのは、哲学者の多くが物神的言語観から完全に解放されていない、ということです。
 ここで問題となるのは哲学というものを学問的認識と解するか、または文学、特に詩のような言語芸術や宗教と同次元において捉えるか否か、ということです。
 具体的に言えばHeideggerに代表されるような「概念詩」や「言語幻想」こそ後者の意味で捉えた場合、哲学の極致となりますが、このような哲学観が根本問題(たとえば、ポパーが提起した人間社会の統合は如何にして可能かなどを想起してください)の解決に寄与できるのか、という点で非常に疑問なのです。
 したがって、認識の学としてのしての哲学と思弁哲学・託宣哲学・神秘主義哲学を厳格に峻別せねばならない、と考えています。もちろん、思弁哲学等が民衆に生きる勇気を与えたり、苦難に打ち克つ助けになりうる、ということは否定しません。

 つぎに気になることは「概念」を何か神秘的な実体として扱う傾向です。ヘーゲル哲学において「概念」の背後から一種名状しがたい後光がさしていることは周知の事実であります。ヘーゲルは別格としても、現象学を標榜する者、一部の分析哲学を標榜する者の文献において「概念」が何か「本質的」、「実体的」なもので、語は単にその「現象形態」にすぎないと考え、哲学者の任務は語の持つ卑近で日常的な意味の外皮を貫く眼光を持って、その背後にある「概念」の真の姿を把握することだと信じる傾向が顕著に見られます。これがまさにポパーなどが厳しく戒める「本質主義」なのです。
 これらの哲学者は感覚で知覚されうる個物は真の姿ではなく、そのゆがめられたコピーにすぎないとし、一般者・概念としてのイデアのみが事物の永遠の真相である、と言う思想、そして、個物の感覚的認識は「ドクサ」に過ぎず、イデアの直観的観照たる「真知」よりも価値の低い、信頼できぬものであると言う思想の影響から抜けきれていないのです(そして本人は無自覚である)。

 語が意味を持つのは人間の記号活動の結果です。語の「固有の」または「真の」意味についてかたることはナンセンスです。

 語と概念を区別し、概念について、その「固有の」、「真の」意味が問われると、われわれはたやすく催眠術にかかってしまいます。

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省エネ計算の訂正 投稿者:φ 投稿日:11月 3日(金)04時51分59秒

すみません、ゆっくり考え直したら、
モンティ・ホール・ジレンマ
に書いた「省エネ計算」が変だったようです。以下、訂正です。(これが正しいことを祈ります)

 ………………………………
 無差別原理にしたがって、この二つの「ズル」(意地悪ズルと好意的ズル)が等確率aで生ずると仮定します。つまり、ズル無しの「回答にかかわらず司会者がハズレを開けてみせる」確率は、1−2a
 これで計算すると、回答者が始めに選んだドアが当たりである確率は、司会者がドアを開けた時点で
(a/3+(1−2a)/3)÷(a/3+(1−2a)+2a/3)=1/3
となり、
ズル無しという但し書きのあるモンティ・ホール・ジレンマと一致します。
 …………………………
 結局、省エネをやろうとすると間違えるようです。急がば回れですね。
 機械的にお定まりのベイズ式を作って計算したほうが早いようです。
 正式の計算で、同条件で
  P(回答者の選んだドアが当たり|司会者がドアを開けた)=1/3
となることに変わりありません。本来必要ない部分での訂正でした。

--------------------------------------------------------------------------
因果関係の本質 投稿者:Σ 投稿日:11月 2日(木)22時06分18秒

田中先生へ

>>−−−われわれにとって重要な諸因果法則も理解を完全にすれば、物理学の因果法則に還元されるであろう、と期待する。(ラッセル 私の哲学の発展 164-165頁)>>−−−

ラッセルがこのような考えに固執し、そうした浅墓な期待を抱いて夢想していたのだとするならば、かなり、がっかりするのですが、しかし、本当にそうなのか、何か、しっくり来ませんね。
三浦先生が仰るには、ラッセルはスピノザの『幾何学的秩序によって論証された〜エチカ(倫理学)〜』が好きだったということですし、ウィトゲンシュタインを世に出したのもラッセル教授であったわけですから、単に、すべてが科学的因果関係に収束すると考えていたとは、どうも、しっくりきませんね。

私は何も、「ヘーゲルおじさん」、の所説を「真だと認めろ」とは強制していません。
ヘーゲルの所説を愚論だと決めつける一部の勢力のそのスタンスに対して、反論してヘーゲル擁護をしているだけです−−−「それは横暴だし非民主的であり開かれた社会の敵とも言えるスタンスだ」と。「真の開かれた社会は、異なるスタート公理を互いに認め合い尊重し合うところに成立する。それが思想の自由市場の考え方だ」、と−−−(笑)。
裁判所の正当化根拠の理論の一つとして、「同等の尊敬と関心の原則」というのがあります。
異なるスタート公理に対して、同等の尊敬と関心を持つことができる、そういう「司法の独立」ならぬ、「人間精神の独立」性こそが望ましいでしょう。
私はそういう意味での「自由」を主張しているのです。

ところで、ヘーゲルは因果関係についてしっかりと深く分析しています。ヘーゲルは龍樹を知っていたと私は思います。きっと密かに東洋文献を散策してかなり読んでいたと思います。
しかし、ラッセルはそうではないようですね。

因果関係は、何かを「原因」と決めた時に、同時に、何かが「結果」として想定される、という関係にあります。原因なければ結果もないし結果がなければ原因もない。
長いものを他との比較衡量で「長い」と見た時に、同時に他方が「短い」とされます。
これを「相互依存性、略して、相依性」、と言います。
この点、中観派仏教を碧海流に解説すれば、
「一方がある時、他方がある。一方がない時、他方もない」
と表現できます。

因果関係の本性(本質)はこのような「相依性」なのです。
そして、こうした「相依性」の本質は・・・・・・。
この・・・・・を(存在論的に)明らかに考究して行くことが、哲学の本道なのです。 この・・・については、空王寺サイトで来年あたり、明確に論及し明らかにする予定ですが。

ヘーゲルは、これを、しっかりと深く考究したので、偉大だと評されるのです。 この点、ラッセルは、まだまだ未熟であり反省論理学的視点が不足している、と言ったら、ひどく怒られそうですが・・・・(笑)。

そもそも、ヘーゲル批判者は、ヘーゲルの「反省論理学」という「ヘーゲル流メタ論理学」の視座と内容について、全然知らないし理解もしていない人ではないか、と強く思う、今日この頃です。

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補足 投稿者:田中 投稿日:11月 2日(木)10時50分12秒

 本質主義的解釈とはここでは、
 たとえば、観測選択効果という「概念」の「真の」意味を探求するという意味です。

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substructural logician さまへ 投稿者:田中 投稿日:11月 2日(木)09時54分21秒

 >>観測選択効果にどういう定義がなされているかは知らないですし、そもそもいろんな定義ができそうですね。
それをいちいち調べる気にはなれません。
私が観測選択効果というとき、
サンプリングに偏りがあることが原因で、ベイズ推定の結果が現実の確率分布と異なってしまうこと、
という風に捉えていただければそれで結構です。 >>

 本質主義的解釈の典型ともいうべき思考パターンです。観測選択効果なる語のみならず、すべての語に固定した意味などありません。
 したがって、いやしくも議論をするなら三浦先生の『論理学がわかる事典』の定義に従わなければならないでしょう。(255頁「観測選択効果とは、観測者自身の存在が環境を限定することによって、観測対象の性質に偏りが出てしまう」選択効果という意味でその語を使用するべきです)

 本質主義的解釈という点で関連しますが『ラッセルのパラドクス』@頁以降のクイズの正解も前提なしでは出ません。したがってこのような形でクイズを出すというのは根本的な誤謬であると言わざるをえません。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:11月 2日(木)09時24分19秒

 >>誤訳の件」につき、コメント戴けなかったのは残念です。>>  誤訳ではないでしょう。『法哲学要綱』の文脈では「法則」ではなく、法または法律と訳する、べきでしょう。

 なぜにヘーゲルという一人のおじさんが思いこみ(思弁でも反省でも本質観照でも同じです)で主張する、経験で真偽を確かめることもできない世界についての理論を真と認めなければならないのでしょうか。
 彼の理論はポパーが正しく主張するように、まじめに扱ってはならないものです。(宗教や文学に準ずるものとして扱うなら別ですが)
 ヘーゲルの哲学が混乱してるのは読者のせいではなく、ヘーゲルが意図的に惑わしているからです。

 ――私はカントのように道徳法を星空におくことはできない。「観念論」と名乗る哲学の底にひそんでいるいるところの、宇宙を人間化しようとする意図は、それが真であるか偽であるかの問題とは全く独立に、私の気に入らないものである。

 世界がヘーゲルの、さらには天上におけるヘーゲルの原型の、思索の努力から生まれた、などと考えることを私は望まない。

 あらゆる経験的問題について私は完全な確信をもってではないが、われわれにとって重要な諸因果法則も理解を完全にすれば、物理学の因果法則に還元されるであろう、と期待する。(ラッセル 私の哲学の発展 164-165頁)

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:11月 2日(木)09時06分15秒

 >>誤訳の件」につき、コメント戴けなかったのは残念です。>>

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モンティ・ホール・ジレンマ 投稿者:φ 投稿日:11月 2日(木)05時04分34秒

 ……結局、観測選択効果を理解してないということですね。
 「観測選択効果の話(p.208)なんかは特にひどい」というのでそれなりの期待をもって応対してきましたが、わかりました、対応モードをちょい切り替えさせていただきます。

 前回申し上げたとおり、拙著諸部分(とくに地球の話については『ゼロからの論証』4-2,選択効果と観測選択効果の区別については5-1,5-2)を、あるいは私の本が気にくわなければ、以下の本↓
http://www.amazon.co.jp/Anthropic-Bias-Observation-Selection-Effects-Science-Philosophy-Studies-Philosophy/
dp/0415938589/sr=1-1/qid=1162396832/ref=sr_1_1/250-1042020-3693808?ie=UTF8&s=english-books
 に目を通してから、具体的な箇所に即して御指摘・御質問をお願いします。

 さて、substructural logician さんを単なるクレーマーで終わらせるには忍びないので、今までのところで「?」と思ったところに戻り、私のほうが教えを乞う立場に立とうと思います。(『論理学がわかる事典』pp.206-9の不可能な解釈にまだ固執したいというならば、申し訳ないがお付き合いできませんので、ここで打ち切って、以下の拙文は無視してください)

 モンティ・ホール・ジレンマで、substructural logician さんが必要だと言っている但し書きは、「回答者の選択によらず、司会者がどれか一つのドアをあけてくれて回答者がもう一回選択できる」でしたっけ。
 たしかに私も『論理パラドクス』の出題ではこの但し書きを付けました。しかしこの但し書きは、「無差別原理」を適用すると、必要ないのではないか。
 「司会者がズルをする」のは両方向あって、「回答者が当たりのドアを選んだときだけ司会者はハズレを開けてみせる」「回答者が外れのドアを選んだときだけ司会者はもう一つの外れを開けてみせる」(他のバリエーションもあるが、確率に関係するのはこのどちらかのタイプでしょう)。

 無差別原理にしたがって、この二つの「ズル」(意地悪ズルと好意的ズル)が等確率aで生ずると仮定します。すると、ズル無しの「回答にかかわらず司会者がハズレを開けてみせる」確率は、司会者がドアを開けた時点で
1−(a/3+2a/3)=1−a となります。
 これで計算すると、回答者が始めに選んだドアが当たりである確率は、司会者がドアを開けた時点で
a/3×1+2a/3×0+(1−a)/3=1/3
となり、
ズル無しという但し書きのあるモンティ・ホール・ジレンマと一致します。
 三種の確率の期待値を計算しただけのこの省エネ計算では怪しいとも思い、馬鹿正直に普通のベイズ式を作って計算してみましたが、上の条件の下でやはり
 P(回答者の選んだドアが当たり|司会者がドアを開けた)=1/3
となりました。

これは、ズルだけでなく、ミスや事故などすべての変則事例について言えますから、回答者に有利になるハプニング、不利になるハプニングすべて総合すると、ベクトルはゼロとなり、1/3に落ち着くでしょう。(計算しなくても直観的にわかることではあります)

 無差別原理の前提を明記すべきかどうかは難しいところですが、「司会者はズルをしないものとする」という明記よりは、「ズルやミスがあったとしても一方向に偏らないものとする」という但し書きを付けたほうが一般性があり、実際的のような気がします。しかしそんな面倒な但し書きは、「言われなければ成り立っていると想定するのが当然」なたぐいに属するので、省略も可でしょう。コインやサイコロを問題で使うたびに「イカサマではない」「偏りはない」と言ったとしても、コインやサイコロそのものに偏りがなくても環境に偏りがあったらどうするのか、問題を書いた人間がズルをしていたらどうするのか(substructural logician さんのp.206への言いがかりですよ!)等々、疑えばきりがないので、通常、どの問題でも無差別原理は暗黙に前提されているはずです。
 極端な話、「ただし、司会者はズルをしているものとする」という但し書きがあったとしても、どういうズルかわからない場合は、主観確率の立場では、「ズルをしないものとする」と同じことになり、答えは1/3以外にありえません。
 よって、常識で補完すれば、「司会者はズルをする、しない」に関して但し書きは不要だと思われます。
 少なくとも、「司会者は自分が必ずハズレのドアを選んで開けることを回答者に知らせている」という、確率変化を伴う但し書きのような重要性はありません。(この重要な但し書きを省略している本もときおり見かけます。たしか『バタフライ・エコノミクス』早川書房とか)

 私は以上のように考えますが、substructural logician さんはいかがでしょうか?

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訂正 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 2日(木)00時36分27秒

>私が観測選択効果というとき、
>サンプリングに偏りがあることが原因で、ベイズ推定の結果が現実の確率分布と異なってしまうこと、
>という風に捉えていただければそれで結構です。

ベイズ推定の結果が現実の確率分布と異なってしまう危険性があること

でお願いします。実際に異なっていようがいまいが関係なくて、
アルゴリズムが健全でないということ、ということです。

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Re:Re:Re:ゆゆしきこと 投稿者:substructural logician 投稿日:11月 2日(木)00時29分40秒

記号を比ゆ的に使うということを批判しているのでなくて
使うなら記号のあらわす意味を書いてくれといったわけです。
厳密に定義するのが望ましいですが、数学の問題でない限りそれは困難なので
そこまでは求めません。

設定1が成り立たないというのは認めてい

> ただし結論が正しいための条件としては、
> ■本当に他の諸可能世界が物理的に実在しなければならない。概念的に存在するだけでは、私たちが「生命いっぱい」の世界に住んでいる確率はコイン表の確率から動かず。

なぜでしょう。場合の数に基づく確率を議論するならば他の諸可能世界が実在しなければそもそも議論ができませんが、
主観確率の推定について議論しているのわけですから、生命が多いという結論が出ます。

> ■「生命いっぱい」「生命まれ」の確率(世界の存在比)が、五分五分かどうかはともかく、ある程度以上拮抗していること。実際は、ファインチューニングなどを考えても、「生命いっぱい」の事前確率は極端に低く(世界の数が少なく)、「生命まれorゼロ」の確率が圧倒的に高そうだ。

『「生命いっぱい」の事前確率は極端に低く(世界の数が少なく)』というのはどこから導き出されたのですか?
そもそも事前確率を決めるための情報はないから五分五分にしようといいだしたのは三浦先生だと記憶しています。

> つまり、神様の思考実験の前提は満たされていそうにない。実際には私たちは、「生命まれ」の、スレスレの生存可能宇宙に住んでいる確率が高いでしょう(宇宙観測による証拠も合わせて考えると尚更)。――知的生命の大多数は、「生命まれ」の世界に住んでいるだろうということ。

宇宙観測による証拠を考慮すると論理入門の本では書かれていましたっけ。
'論理を使って考えただけでも宇宙に生命がいっぱいだというのは間違いだ'と
論理入門からは読めます。読者を馬鹿にしているとしか思えません。

> あと、最後の3つの段落を見て心配になりましたが、substructural logician さんはもしかして「観測選択効果」という言葉の意味を誤解してますかね? 念のため言うと、substructural logician さんの神の前提が満たされている条件下では私たちの世界でコインが表であるほうが確からしい、という結論が出てくるのは、観測選択効果のゆえです。
> 万一「え?」と思ったら(そんなことないと思うが)、まあ観測選択効果についてぼちぼち学んでやってください。私のたいていの本には、随所に説明が書かれてます。

観測選択効果にどういう定義がなされているかは知らないですし、そもそもいろんな定義ができそうですね。
それをいちいち調べる気にはなれません。
私が観測選択効果というとき、
サンプリングに偏りがあることが原因で、ベイズ推定の結果が現実の確率分布と異なってしまうこと、
という風に捉えていただければそれで結構です。

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物自体とブラックボックス 投稿者:Σ 投稿日:11月 1日(水)21時47分48秒

田中先生へ、

ラッセルのヘーゲル批判、今週末に楽しみにチェックしてみることに致します。ポパーのような藁人形論法レベルでないことを願っています。
なお、「誤訳の件」につき、コメント戴けなかったのは残念です。

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さて、思うに、カントの「物自体」とは、我々の認識は表面的なもの(=現象)しか捉えられないということを言いたいがための「その裏面的表現」だと思います。(物自体の反対語が現象)
換言すれば、「物自体こそ(客観)存在の本質体だ」ということでしょうか。

たとえば、よく出来た光沢のある机を見たり触ったりした時、その光沢が何の素材か塗料によるものか、わからない人は多いでしょうし、プラスティック製品か木製かすら、判別できない場合もあるかもしれません。そのような「表層的に過ぎない認識理解力」で諸存在を見ても、到底「存在対象のすべてを理解する」というレベルには到達できません。

自動車を運転する我々は、製造現場の一部の人を除き、自動車を一から制作する理解力も認識も持ちません。製造現場の人も、その金属素材や合金素材自体を製造できるだけの認識はないでしょう。また、鉄一つとっても、「Fe」を人工的に造れるわけではないので、なぜそれがそうなのか、人間には謎でありブラックボックスです。

また、男にとって女は、どれだけ観察したり触ってみても、対象として完全に理解することは不可能であるような、「ブラックボックス」ですし(笑)。

それに、科学的還元主義の立場から「物」について分子や原子や素粒子にまで解析を進めても、結局、量子論の世界になって不確定性の世界になったりして、その実体を捕捉することができなくなってしまいます。
そういう意味では、相対的認識世界に生きる我々にとっては永遠に、「物自体=(客観的な)存在自体」が、我々人間からすれば、ブラックボックスであり続ける、ということでしょう。

量子論が知られていない時代に、カントが物自体の認識不可能性を述べたのは卓見だと思います。

やはり、ウィトの名言−−「世界が存在していること自体が神秘である」−−に尽きるかもしれません。

カントは敬虔なるプロテスタンティズムという精神で、神の創造「物」の本質について、たかだか人間などがわかるはずがない、という「敬虔性に基づく知的廉直の精神」によって、「物自体は認識不可能」としたのだとは思います。
つまり、「物自体」とは、プロテスタンティズムの精神と哲学の融合から生まれた概念であるのでしょう。

とまれ、上記のような意味での、「ブラックボックスたる馬上」に乗ってそれをよくわからないまま運転し、ブラックボックス的な世界の中に生きて、その中をねり歩いているのが人間である、ということになりましょう。 人間存在って、何か、ブラックボックスの上にあぐらをかいた存在で、寒いですね・・・ハ、ハ、ハクシュン。(笑)

数学とは、それ自体、何を言いたいのか何を意味するのか、皆目わからない学科だというようなことを述べたラッセルの言葉が、ここで、思い浮かびました・・・・。
やれやれ。(しかし、それだけ自由度が高い、ということでもありましょうが・・・)。

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(・・・) 投稿者:ラクシュン 投稿日:11月 1日(水)20時53分7秒

> ヘーゲルがそれを言いたいというのはわかっているのです。そして、それが根本的な誤り(お遊び)であるという確信をいだいております。

「わかっている」のに「根本的な誤り」?
…あとニーチェも『権力への意思』とかでカントの「物自体」^^;について何か言っているようですね。やっぱあれはオカシいですよ。「物自体」が解らないのは当たり前。だから「物自体」について語っているのはカントだけのような気がするんですけどね。

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Re:神の生死 投稿者:にゅ 投稿日:11月 1日(水)14時46分21秒

正統な者が、正当な手段で、正義を行使するべきだ、
との見方はある。理想論だけど。
王様好きのハードな噂を思い出して、ちょっとね。

関係ないから、根本的な誤り(お遊び)でいいよ。
やれやれです。

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神の生死 投稿者:S・K 投稿日:11月 1日(水)01時28分5秒

>「神は死んだ」とする形而上学的オントロジー否定を強く主張したニーチェ

 「神は死んだ」というニーチェの言明についてですが、西洋哲学では形而上学的な問題だけで片付けられているのでしょうか?

 何の本を読んでいたときか忘れましたが、ニーチェは古文献学者だったそうで、バビロニアの発掘状況が公表される前に、それを知る立場にあった、なんていうことはないのでしょうか?

 高校の世界史の時間、先生から耳にタコができるぐらい、ハンムラビ法典が世界史に及ぼした影響を聞かされたのを覚えております。旧約聖書は、ハンムラビ法典から明らかに大きな影響を受けているのは歴史家や法研究家の一致した見解だそうで…

 私としては、セム・ハム系でもない人が、何ゆえセム・ハム系の氏神と言うか先祖というか、モーゼやアブラハムを敬うのか不思議でしょうがないのですが、しかし旧約聖書に精神的支柱を置いている人ならば、ハンムラビ法典の発掘がショッキングな出来事だったのは理解できるような気がします。

 サダム・フセインは、戦前の日本で言うと、皇紀二千六百年祭みたいなことをやったみたいですし、故ヨハネ・パウロU世はイラク訪問を画策したみたいですし、仏教はゴータマ・ブッタ以前のことは問わないですが、一神教世界の宗教対立は根深いものがあるようです。やれやれです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:11月 1日(水)00時32分40秒

>>だとすれば、その「合理的・論理的」の上に成立する「自由」を可能にする条件がヘーゲルの言う「法」ということになるんじゃないんですかね。>>
 ヘーゲルがそれを言いたいというのはわかっているのです。そして、それが根本的な誤り(お遊び)であるという確信をいだいております。

 なお、私が念頭においている非合理主義者はF氏です。

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(無題) 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月31日(火)16時54分1秒

『歴史哲学講義』(←眠くて苦痛^^;)はともかくとして、ヘーゲルの『法哲学講義(or法の哲学)』(未読)『精神現象学』(未読)『美学講義』(未読)などの主眼は、理想的状態(性善説)をまず設定しておいて、そこから規範を演繹的(or逆算的)に導出するというカント的道徳哲学批判にあるような気がします。この各人が想像(希望的な夢想)はできても現実的にはそこに至る原理がない^^;という“福徳一致のアポリア”にはカントも後(?)で気が付いたらしいですけど。しかしこの思考形式はマルクス主義にも共通性があるかも。

> 自由社会においては徹底的な合理的・論理的な批判的議論・考察の中から自らの生き方を原子論的個人が主体的に選択するのである。

だとすれば、その「合理的・論理的」の上に成立する「自由」を可能にする条件がヘーゲルの言う「法」ということになるんじゃないんですかね。 フランス革命直後に採択された“人権宣言”に謳われている“自由・平等”という、どう考えても相矛盾するものとしか思われない理想理念を可能にすると(あくまでも)思われる手段が「特殊意思」に対する「一般意志」を代表する「法」以外の何にあると言いたいと言うのでしょう。ここにベッカリーアさんでも居れば聞いてみたいですけど(笑)。 そして当然ヘーゲルは革命以降のジャコバン党その他による恐怖政治の実態とかも知っていた訳でしょう…。
 (´-`).。oO(ちなみに私はヘーゲリアンではありません)

あと個人的には、ヘーゲルの弁証法は如何様にでも解釈できそうな面があると思うので、この議論はいつまでたっても終わらないような気がします・・・・

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開かれた社会の論敵 投稿者:田中 投稿日:10月31日(火)09時46分27秒

 情緒が大切で論理は不要という人がいるとするならば、その人は自らの浅学をさらしているだけである。

 数学を尊重して、論理を軽視する者がいるとするならば、それもやはり浅学をさらしているだけである。

 個人の原子論的自由という概念を不要と主張するものがいるとするならば、その者はまさに開かれた社会の典型的な敵と呼ばれるべき存在である。

 「理系」の人間になるには、何だかよくわかってなくても本(科学書)を暗記するだけでなれる。見当はずれの見解を述べる理系人間は「理系愚者」とでも呼ばれるべき存在である。

 自由社会においては他者に危害を加えない限り、それぞれが思うように幸福追求ができなければならない。たとえそれが他者の見地からは愚かな行為であろうとも。

 自由社会においては徹底的な合理的・論理的な批判的議論・考察の中から自らの生き方を原子論的個人が主体的に選択するのである。

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↓ 投稿者:φ 投稿日:10月31日(火)04時12分9秒

長いわりには、ポイントは一つ。
 私の時間序列の設定でも、substructural logician さんの可能世界の設定でも、設定1の読みは【同じ理由で】成り立たない、ということが趣旨です。
 あとはオマケでした。

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Re:Re:ゆゆしきこと 投稿者:φ 投稿日:10月31日(火)03時22分18秒

 まずは記号についてですが、共通前提の程度がおぼつかない状況では、全方位的にアバウトな表記を使うことは、『ネイチャー』あたりでも物理学者はよくやってますね。数学者はどうか知りませんが。哲学者はもちろん、大いにやりますね。そこでは記号は、自然言語と同レベルで比喩的に使っているので、むしろ厳密であるべきではありません。定義を求めるのは的外れです。日本語の初出の文すべての真理条件を定義づけながらやれ、というようなもので。

 それはそれとして、
Pa(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)
 は、14項がPaの作用範囲に入っていることだけを表わすので、可能世界の議論をも表わせます。その場合、設定1のこの表記は、コイン投げだけ共有して、そのあと分岐する諸可能世界を表わします。(もちろん、項の数は、考えたい可能世界の分類にしたがって任意ですが)

 そのモデルはダメだということは、ここで繰り返す必要はないでしょう。「あなた」が当たった企画Nは、A〜Mの兄弟で、それらの存在と論理的に独立でないのに、A〜Mを消去してPa(N)とかPa(A)とか書いてしまってはマズイ、というだけのことです。依存関係にある他の可能世界が消えてますから、データ採取法に誤解が生じます。
 設定2で書けば問題はないです。

 さて、神様のコインの話ですが、言われることは全く正しいですよ。すでに宇宙物理学者や哲学者が広く論じていることです。「生命いっぱい」「生命まれ」という可能世界が半々の比率であるならば、私たちは「生命いっぱい」の可能世界に住んでいる確率が高いです。

 ただし結論が正しいための条件としては、
 ■本当に他の諸可能世界が物理的に実在しなければならない。概念的に存在するだけでは、私たちが「生命いっぱい」の世界に住んでいる確率はコイン表の確率から動かず。
 ■「生命いっぱい」「生命まれ」の確率(世界の存在比)が、五分五分かどうかはともかく、ある程度以上拮抗していること。実際は、ファインチューニングなどを考えても、「生命いっぱい」の事前確率は極端に低く(世界の数が少なく)、「生命まれorゼロ」の確率が圧倒的に高そうだ。
 つまり、神様の思考実験の前提は満たされていそうにない。実際には私たちは、「生命まれ」の、スレスレの生存可能宇宙に住んでいる確率が高いでしょう(宇宙観測による証拠も合わせて考えると尚更)。――知的生命の大多数は、「生命まれ」の世界に住んでいるだろうということ。

 この点については、私はさんざん書いていますし、今も『現代思想』誌上で書きつつあるので、ここで同じことを詳しくというのは勘弁してください。『論理学入門』第2章、『論理サバイバル』問102「多世界説の経験的証拠」、『ゼロからの論証』stage3以降を指示させていただくにとどめます。

 なお、厳密には、生命クジの議論で「可能世界」を直接出してくるのは実は不正確で、一つの現実世界の中の諸宇宙、というところから始めないといけません。『ゼロからの論証』p.254注1を参照。

 あと、最後の3つの段落を見て心配になりましたが、substructural logician さんはもしかして「観測選択効果」という言葉の意味を誤解してますかね? 念のため言うと、substructural logician さんの神の前提が満たされている条件下では私たちの世界でコインが表であるほうが確からしい、という結論が出てくるのは、観測選択効果のゆえです。
 万一「え?」と思ったら(そんなことないと思うが)、まあ観測選択効果についてぼちぼち学んでやってください。私のたいていの本には、随所に説明が書かれてます。

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Re:ゆゆしきこと 投稿者:substructural logician 投稿日:10月31日(火)01時39分57秒

> 失礼ながら、もし本当にわからないとしたら、ゆゆしきことです。
> 常識というより、倫理の問題でしょう。
> なぜ倫理の問題なのか?

あまり言葉尻をつかまえて議論をそらさないで欲しいです。
私の意図は、私が挙げたような直感的に独立だと推測できるより簡単な説明があるのだから、
三浦先生のような遠回りした説明などいらない、ということです。これもオッカムのかみそりといえる?

コイン投げをPとすると断っていても
 Pa(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)
が何を表すのかも定義せずに議論しようとしていることから見ても、
あまり先生は記号を使うことになれていなさそうですね。
使いたいなら定義してから使ってください。常識です。
そんなことだから哲学者が科学や数学に言及するときには間違いをおかしてばかりいるんだと苦情を言いたいところですね。
いくら三浦先生でも記号の使われ方の慣例を知っていればわかるなどといわないと信じています。

そもそも私は、各企画が(同じ世界で)複数回行われたという解釈のもとでは、
各企画が独立だと自然に解釈されるという理由を自分でも挙げて認めたわけですから、
もし先生の説明が独立でないことの説明になっているならば
私が設定1が正しいと思うなどという解釈はありえないですよね?
それこそ「寛容の原則」に反します。

えーと、可能世界の話を議論したかったわけですが、
可能世界を持ち出したことは批判しないようですので、
A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,Nと同じ世界の事象を並べるという
モデル化が自然でないことは理解していただけたわけですね?
本に載っているたとえ話が反実仮定なわけですから可能世界を考えるのが当然ですね。

>これはダメでしょう。現実に推測者はコインの表裏を知らないままなわけですから、二分割された可能世界のどちらに自分がいそうか、最後まで揺れ続けます。だからこそ、その後の証拠によって表裏の確率がベイズ改訂されてゆくのです。二分割された可能世界群のいずれかに固定することはできません。 >こう言い換えてもいいでしょう。番号付きのカードを百万人に配布してから、コインを投げ、十枚当たりか千枚当たりかを決める。それで「あなた」が当たったら……と問題を変えてみます。それでも、当初の設定と同じ問題であり続けるはずです。時間的順序によって可能世界群を固定する考えだと、うまくいかないでしょう。

つまり、たとえ話の話者は可能世界集合の構成のしかたではずるができないといいたいわけですね。
では、先生のお望みどおりコインの表裏も「あなた」が引いたスクラッチカードの当たり外れもばらばらな
可能世界の全集合を考えましょう。コインの表がでた方が裏がでたよりも当たりの数を多くするとしましょう。

『「当たったときに限って譬え話を書いた」という解釈も、文面に矛盾してはいないので(なぜなら、仮説1だろうが仮説2だろうがもともとアタリが低確率である設定で「あなた」が当たったというのだから、怪しいといえば怪しいわけで)』とおっしゃっているから、
話者がサンプリングのやり方でずるをできるという想定のもとでの議論ですよね?

では、コインが裏なのに「あなた」が当たりを引いた世界を多めに
選ぶことにしましょう。そうしたら観測選択効果があらわれます。

こう書くとそんな解釈は常識的でないとおっしゃるでしょうから、
スクラッチカード問題では観測選択効果が現れないと認めるとして、
地球の問題を考えてみましょう。

神様が作りえたかもしれない、可能世界の集合を考えます。
現実世界と地球に生命がいるかいないかが違う可能世界がたくさんありますが、
その比率は惑星にどれだけ生命が存在するかという確率によりますね。
神様がそれぞれの可能世界を作るときにコインの表か裏によって生命存在確率が高いか低いかを決めたとします。

で、われわれがその可能世界のどれかの中の地球という惑星に住んでいるという事実があるわけです。
そのときにわれわれの世界ではコインが表であるほうが確からしいですよね。可能世界の集合の作り方からして。
ではわれわれがわれわれの住んでいる地球のデータを選んでベイズ推定したら・・・やはり同じ結果です。
あれ、観測選択効果はどこにいってしまいましたか?

地球の問題で観測選択効果があるという人は、 神様がずるをしてわれわれをコインが裏であるのに地球に生命が存在するような可能世界に送り込んだ可能性があると疑っているわけですね。

地球は孤独でないと発言する科学者のほうが信心深いんだなぁ。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月31日(火)00時19分47秒

 私がはじめて読んだ「哲学」の本はヘーゲルのものでした。
 次に読んだものはラッセルの(市井氏訳の)『西洋哲学史』でした。そこで私はヘーゲルに関してはラッセルの見解が妥当であると納得し、ヘーゲルから離れました。
 邦訳の『西洋哲学史』は値段が高くてなかなか所有している人は少ないかもしれませんが、(アメリカではおそらく一番一般的な哲学史の本だとおもいます)哲学史の本はこれ一冊あれば(一般人は)あとは不要であると確信しております。

 邦訳の一巻で本質という概念に関する丁寧な批判(本質という概念はバカバカしいものであるとラッセルは言ってます170頁)、3巻のヘーゲルに関する項目、この2点を読むことを希望します。

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ヘーゲルの国家観と自然法の位置づけ 投稿者:Σ 投稿日:10月30日(月)21時56分44秒
田中先生へ

>>−−−Vorlesungen uber die Pilosophie der Weltgeschichte,teil(G lesson), S.94 ヘーゲルのこの連文において、かつては「人倫」の第一段階でしかなかった古代が今や「人倫」の完成態となってしまい、個人の主観的自由は国家の客観性へと解消されているように思われないでしょうか?>>−−−−

はい、自信をもって、「思わない」 と答えます。(笑)

既に、以前の投稿で、ポパーによる歴史主義に関するヘーゲル批判が藁人形論法であることは指摘済みですが、今回のご指摘についても、藁人形論法になっていることをお伝えします。

■第一に、ヘーゲルの国家観につき、誤解があります。
ヘーゲル曰く、
「国家が存在するということがこの世における神の歩みなのであり、国家の根拠は自己を意志として現実化する理性の権力である。国家の理念というとき、特殊な国家や特殊な制度を想い浮ぺてはならない。むしろ理念を、つまりこの現実的な神を、それ自身として考察しなければならない。」(Ibid.,S.403)

上記発言に見られるように、
人倫(普遍的公序良俗)の望みうる最高度の現実態としての、ヘーゲルにとっての「国家」とは、過去において実在した国家でもなければ、その同時代に現実にあるどの特定国家をも指しているわけではありません。
ヘーゲルの国家論は、「国家の本質とは何か?」−−という、田中先生のお立場からすれば、無意味な(笑)、「本質論」なのです。
ヘーゲルは、「国家」を「自由の実現態」と見る、そして、「国家」を「神の歩み」すなわち「神の意志の(全的でなくともある程度の一定の)発現態」と見る、そして「国家の正当性根拠」を、個人個人の自己そのものを意志として現実化するために目的的に設置された「理性に基づく権力」と見る−−−ヘーゲルは国家の本質を、このように考えるのです。
(彼の国家観が、プロイセン国家に利用されたとしても、そんなことは彼のせいではありません。)

■第二に、自然法についての誤解。

ハンス・ケルゼンは、こんなことを述べています。(大意)
「自然自体」を創造主の被造物と見る時、「自然法」は神の意志の表現態と言える。この時、自然法は形而上学的性格、すなわち、哲学的根拠を持つ。
一方、自然法について、無神論の立場の合理主義で把握しようとするならば、その時、自然法は「合理性の衣装」をまとって合理主義者の前に現れるが、この場合の自然法は自らの依って立つ根拠を喪失している。なぜなら、「自然自体」は因果で結ばれた諸々の事実のシステムに過ぎないのであり、「自然」に意志はないし、「自然」が人間の特定の行動を指示することはありえない。
すなわち−−−事実から当為(べき論)は推論できない−−−。
ゆえに、無神論の立場による「合理論による自然法の解釈」は詭弁に過ぎないことは明らか。
さて、行動の基準を定めるのは人の意志であり、人の理性は理解し叙述はするものの、「指図」はしない。ゆえに、無神論の立場の者が、自らの行動基準を、理性の中に見出そうとすることも、自然(や合理論的自然法)から得ようとすることも、ひとしく欺瞞に過ぎない。

ヘーゲルの思惟はケルゼンのそれと共通します。自然法を神の意志と見るので、次のようなヘーゲルの言葉になって結実します。
「人間の主観的意志が法則に服することによって、自由と必然との対立が消失する。必然性は理性的なものであり、且つ、本体的なものである。そして我々は、それを法則として承認し、且つ、我々自身の本質の実体としてそれに従うことによって自由である。しかるとき、客観的意志と主観的意志とは融合し、同一不可分の全体なのである。」

上記は、田中先生が引用なさったヘーゲルの「同じ箇所の別翻訳」です。
かように、「法律」と訳されるか、「法則」と訳されるか、で、かくも意味が異なるものか、と唖然とさせられます・・・・・・・。(涙)。我が嘆息の深さ、如何ばかりかと・・・・・お察し下さい。

このように、ヘーゲルは、目っ茶苦っ茶、誤解されています。
どうか、田中先生も、そうした世間が捏造するヘーゲルの虚像に惑わされませんように・・と、心から願うものです。

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ゆゆしきこと 投稿者:φ 投稿日:10月30日(月)17時38分27秒

>コイン投げの演算作用範囲とか
>A〜MがNと分離できないとか
>何のためにもちだしたのかよくわかりませんが、

 失礼ながら、もし本当にわからないとしたら、ゆゆしきことです。
 常識というより、倫理の問題でしょう。
 なぜ倫理の問題なのか?

 ■設定1 コインを一度だけ投げるという設定。コイン投げをPとして、それが企画全回の配布の模様を決めますから、
 Pa(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)

 ■設定2 各回コイン投げから始める独立企画の集合。
 Pa(A),Pb(B),Pc(C),……,Pm(M),Pn(N)

 『論理学がわかる事典』p.206では、設定1、設定2のいずれかが、
 Pa(A)
 と書いてあることになります。  (企画があたかもただ一回だけだったように読めるので、N→Aとなる)

 設定1は、結果的に14項関数となったものを1項関数に書き替えており、ゲームの構造を変えて記述しています。これは企画の現実を映しておらず、データの選択というより、データの改竄になっています。

 設定2は、多くの独立の出来事の中からPn(N)を選択しただけであり、論理構造上、真実を書いていることになります。Pn(N)以外を除去したのは、他の無数の独立の出来事(たとえば「あなた」の朝食)が省略されているのと同じことです。Pn(N)だけを記し、文字を書き直しただけです。

 さて、「「あなた」が当たった場合だけベイズ推定する」ということは、p.206に書かれてないことを思い出してください。
 もしp.206に「「あなた」が当たった場合だけベイズ推定する」と書いてあったなら、設定1と2はともに許容できる解釈です。「データを改竄しました」と正直に明言しているとも解釈できるので。
 しかし、p.206にはそれが書いてないので、設定2だけがかろうじて許容できる解釈になります。設定1だとしたら、p.206の記述は虚偽だということになる。
 設定1がマズイ理由がおわかりいただけたでしょうか?

Pa(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)をPa(A)とデータ改竄して書くと、本来は出てこない結論が導けるかのような詭弁が可能になります。現に、十枚より千枚という「仮説2」が確証されるという、Pa(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M,N)からは出てこないはずの結論がPa(A)から導けてしまうのです。

 このような欺瞞が書かれているものとして『論理学がわかる事典』p.206を解釈するのは、p.210「寛容の原則」に反します。
 逆に言うと、設定1が書かれていると認めることは、データ改竄的な書き方を容認しているという態度の表われです。
 倫理の問題だと私が言ったのはそういう意味です。

 substructural logicianさんがもし統計処理や実験に関係ある人だったら、「そんなことだからデータ捏造事件が無くならないんだよ」と苦情を言いたいところですね。

 さて、可能世界の話ですが、
>配布されたそれぞれのスクラッチカードの
>当たり外れだけが入れ替わっている点だけで
>現実世界と違う可能世界の集合を考えます。

これはダメでしょう。現実に推測者はコインの表裏を知らないままなわけですから、二分割された可能世界のどちらに自分がいそうか、最後まで揺れ続けます。だからこそ、その後の証拠によって表裏の確率がベイズ改訂されてゆくのです。二分割された可能世界群のいずれかに固定することはできません。
 こう言い換えてもいいでしょう。番号付きのカードを百万人に配布してから、コインを投げ、十枚当たりか千枚当たりかを決める。それで「あなた」が当たったら……と問題を変えてみます。それでも、当初の設定と同じ問題であり続けるはずです。時間的順序によって可能世界群を固定する考えだと、うまくいかないでしょう。

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Re:各回独立 投稿者:substructural logician 投稿日:10月30日(月)04時21分37秒

> 主催者が最初に1回だけコインを投げて、それに以後の回がずっと束縛されるという解釈だと、コイン投げの演算作用範囲に、あらゆる回の企画が入ってしまいますね。すると、「あなた」が当たったN回目の企画にいたる前の先行のA〜MがNと分離できなくなります。
> すると、「あなた」が当たったN回目の企画にいたる前の先行のA〜MがNと分離できなくなります。
> これはマズイ読みでしょう。コイン投げとスクラッチカード配布が不可分のセットとして記述されているので・・・
> 各企画を独立に行なって(つまり毎回コイン投げから始めてフルセット行なう)、「あなた」が当たった企画だけを残し、他は一切無かったことにする、という読みが正しいと言わざるをえません。

コイン投げの演算作用範囲とかA〜MがNと分離できないとか何のためにもちだしたのかよくわかりませんが、
企画ごとに毎回コイン投げをしないと、今回の企画で当たった人が前に行われた企画の確率を知っている可能性があって
今回の企画の確率を推測することの意味がなくなってしまうというdefault推論ならばわかります。

しかしですね、「スクラッチカード配布ゲームの候補企画は1回だけではベイズ推定の実行(譬え話の記録実現)が保証されませんから、あなた(=読者)が当たるまで何度も繰り返すのです。」という設定に
「当たったときに限って譬え話を書いた」という解釈のもとではそもそも無理があるのでは?

三浦先生の十八番であろう可能世界を考えた方が自然でしょう(ちなみに私もmodal logicをよく使います)。

配布されたそれぞれのスクラッチカードの当たり外れだけが入れ替わっている点だけで現実世界と違う可能世界の集合を考えます。
その中から「あなた」の引いたスクラッチカードが当たっているものを選んできてベイズ推定したら選択効果がありますよね?
一方、可能世界の集合としてさいころの目も現実世界と異なるようなものを考えると、
同じようにベイズ推定したら選択効果はないです。

こう考えると前者の方が私には自然な解釈に見えますが、三浦先生はいかがでしょう?

モンティ・ホール・ジレンマについては私が示した条件が省略されがちだから挙げたまでです。
「司会者が、すべて知っていて、ハズレのドアを選んで開ける」という条件は私が知っている限りでは必ず提示されていました。

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各回独立 投稿者:φ 投稿日:10月30日(月)02時05分36秒

 「当たったときに限って譬え話を書いた(ベイズ推定をした)」というのはそもそもが無理な読みなので、その読みにしたがって議論しようとすると、思い描く設定に不一致があるのは当然のことでしょう。常識的な読みだったら、ほとんどの読者の思い描く設定は一致するはずで、本来それで十分なのです。

>要するに主催者がコインを投げるのは一回だけという条件(条件Aとする)
>があるかないかで、観測選択効果がなかったりあったりするわけですが、
>その条件は明示していましたか?

 もともとが不自然な変則的な読みで、著者が想定していませんから、その条件は明示してありませんが、変則的な読みをするなら、文面から推して、各回独立が当然ではないでしょうか。
 主催者が最初に1回だけコインを投げて、それに以後の回がずっと束縛されるという解釈だと、コイン投げの演算作用範囲に、あらゆる回の企画が入ってしまいますね。すると、「あなた」が当たったN回目の企画にいたる前の先行のA〜MがNと分離できなくなります。
 これはマズイ読みでしょう。コイン投げとスクラッチカード配布が不可分のセットとして記述されているので、Aだけが完全で、B以降はスクラッチカード配布だけ、というのはまずい。Nの記述の時に、ゲリマンダー的に(真ん中を抜く形で)全体を構成せねばならなくなります。企画Nには、A〜Mのスクラッチカード配布のパーツは入っていないのですから。Nはフルセットまとめて与えられる必要があります。
 各企画を独立に行なって(つまり毎回コイン投げから始めてフルセット行なう)、「あなた」が当たった企画だけを残し、他は一切無かったことにする、という読みが正しいと言わざるをえません。

>今までの議論によって、
>条件を明示しない限り選択効果が現れるか現れないかの判断が難しいという
>私の主張が立証されたわけです…といったら怒りますか?

 「当たったときに限って譬え話を書いた」という解釈も、文面に矛盾してはいないので(なぜなら、仮説1だろうが仮説2だろうがもともとアタリが低確率である設定で「あなた」が当たったというのだから、怪しいといえば怪しいわけで)、そこで「変則的な読み」を許容したわけですが、pp.206-9をどう読んでも、「変則的な読み」は一義的に決まります。つまり、各企画を独立に行なって、「あなた」が当たった場合以外は一切無かったことにする、という読み以外は、p.210の「寛容の原則」に違反しているばかりか、フルセットで書いてある文面と矛盾していますね。

 >惑星の数を3つにした問題や
 >モンティーホール問題の主張には同意していただけたと思ってよろしいですね?

 前も言いましたように、本文では、地球人が自分の惑星を無反省に選んだ設定になっていますから、惑星の数とは関係なく、観測選択効果がかかっていますよね。
 「地球人がランダムサンプリングでたまたま地球を選んだ」という想定は、文面に反しているし、現実に不可能なので、採用できないでしょう。現実の宇宙を考えると、3つから選ぶこと自体(3つから成る母集団に地球を入れること自体)、ランダムではないので。まったく別の章立てをして思考実験で論じるべき問題です。

 モンティ・ホール・ジレンマは、条件をすべて開示しないと正解が異なってくるというのはそのとおりですね。一番問題になるのは、「司会者が、すべて知っていて、ハズレのドアを選んで開ける」という条件が明示され損なう場合でしょう。「知らないまま適当に開けてみせたら、たまたまハズレだった」というのでは、残った二つのドアのうち、解答者がどちらを選んでも当たる確率は1/2となります。

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訂正 投稿者:substructural logician 投稿日:10月30日(月)01時21分17秒

> 要するに毎回主催者がコインを投げて確率を変動させるという条件(条件Aとする)があるかないかで、
主催者がコインを投げるのは一回だけという条件(条件Aとする)

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Re:Re:Re:スクラッチカード 投稿者:substructural logician 投稿日:10月30日(月)01時13分13秒

> 毎回の企画は独立ですよ。アタリが十人の場合とアタリが千人の場合は、各回、事前確率は五分五分です。

それならば観測選択効果がないことに同意します。
私の発言は毎回の企画が独立でないならば偏るというものです。

要するに毎回主催者がコインを投げて確率を変動させるという条件(条件Aとする)があるかないかで、
観測選択効果がなかったりあったりするわけですが、その条件は明示していましたか?
そうならば私の読み落としなので非を認めます。
常識的にわかるといわれたら泣き寝入りしますが。

> 三人称か二人称かなんてのは関係ありません。
> > 関係ないとされては困ります。重要な違いです。

二人称は初回にサンプリングする人を決める方法で、
三人称というのは毎回サンプリングする人を選ぶということですね?
三人称のサンプリング法はさらに
クジが当たっているかいないか誰を選ぶかを重み付けする(条件Bとする)かどうかで
2通りに分類できるわけですよね?

すると、「当たった場合に限って譬え話を」という読みのもとでは
A または B
が観測選択効果の現れる条件になります。

私はAが成立しているならば二人称か三人称かに関わらず選択効果が現れる、と主張し
三浦先生はAが成立していないならば
二人称では選択効果が現れず、Bが成立しているならば三人称では選択効果が現れる、と主張していたわけですね。

今までの議論によって、条件を明示しない限り選択効果が現れるか現れないかの判断が難しいという
私の主張が立証されたわけです…といったら怒りますか?

それから、惑星の数を3つにした問題やモンティーホール問題の主張には同意していただけたと思ってよろしいですね?

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月29日(日)23時32分58秒

 ヘーゲルは自然法論の実質的な社会倫理を「人倫の客観的契機」として自己の体系内に組み入れ、客観的な法への服従と個人の主観的自由を「弁証法的に止揚」し統合しようと試みたと解することができます。

 ―― 法律に服従する意志のみが自由であります。なぜなら、意志は自己自身のもとにあり、かくして自由だからであります。.....人間の主観的な意志が法律に服従することにより、自由と必然の対立は消失します。理性的なものは実体的なものとして必然的であり、われわれはこれを法律として承認し、われわれ自身の存在の実体としての法律にしたがうことによりわれわれは自由なのであります。これにより客観的意志と主観的意志は和合し、純粋な統一態となります。なぜなら、国家の人倫は、私的確信が支配する道徳的で反省的なものではないからであります。後者は近代世界になじみのあるものであるのに対し、真なるもの、古代的なるものは各人が自らの義務を果たすことに根ざすのであります。Vorlesungen uber die Pilosophie der Weltgeschichte,teil(G lesson), S.94

ヘーゲルのこの連文において、かつては「人倫」の第一段階でしかなかった古代が今や「人倫」の完成態となってしまい、個人の主観的自由は国家の客観性へと解消されているように思われないでしょうか。

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訂正 投稿者:田中 投稿日:10月29日(日)22時35分17秒

規範的倫理学を科学の一部門にしてしまいます

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倫理 投稿者:田中 投稿日:10月29日(日)22時33分52秒

 あるものの価値について人々が一致しないで、Aはそれが善いとか正しいとか言う一方、Bはそれが悪いとか不正であると言う場合、どのような議論や探求の方法によって彼らの不一致を解消できるのでしょうか。(C.L.Stevenson,"The Nature of Ethical Disagreements"(orig.1948),is Stevenson, Facts and Values,1963,p.1.)

 なにが善いかについて人々が議論する場合、彼らの不一致は見解上のものでしょうか、それとも態度上のものでしょうか。長い伝統に属する倫理学者たちは、常にそのことを自覚してるかは別問題としても倫理的な不一致が見解上の不一致であることを強く示唆してます。たとえば、自然主義者たちは倫理的判断を何らかの科学的言明と同一視し、そうすることにより規範的倫理学を科学の一部門にしてしまします。科学上の議論は見解上の不一致の典型的な一例なのですから、もし倫理上の議論が全く科学上の議論であるならば、それもやはり見解上の不一致にほかならないことになります。(C.L.Stevenson、op.cit.,p.3.)

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Re:Re:スクラッチカード 投稿者:φ 投稿日:10月29日(日)22時28分19秒

 どうやら誤解の根が深いようです?

>アタリが十人の場合の方がアタリが千人の場合に比べて
>「あなた」に当たりが出るまでに「あなた」が引いた外れくじの数が多いわけです。

 ちょっと意味がわかりませんが……。
 毎回の企画は独立ですよ。アタリが十人の場合とアタリが千人の場合は、各回、事前確率は五分五分です。毎回、「あなた」は百万枚から一枚だけ受け取ります。
 もしかして設定に誤解がありますか。誤解されているといけませんから、確認のため、

 S…… ★「「あなた」が当たった場合に限ってベイズ推定をする」★

 という文Sの読みで、『論理学がわかる事典』の文面と矛盾しない唯一可能な読みを以下に改めて示します。

 『論理学がわかる事典』に譬え話として記録されるべきスクラッチカード配布ゲームの候補企画は1回だけではベイズ推定の実行(譬え話の記録実現)が保証されませんから、あなた(=読者)が当たるまで何度も繰り返すのです。(一回だけでたまたま当たった、というのが「常識的な読み」であることは前述のとおり。その読みでは、外れてもベイズ推定をしたはずです。Sという変則的な読みでは、当たった企画だけ採用してベイズ推定します)
 『論理学がわかる事典』に書かれた要領でコインを投げて、その結果にしたがって、カード百万枚を用意し、そのうち一枚を「あなた」が受け取る。その1回を「一企画」とします。それを何企画もやるのです。あなたの一枚が当たるまで。(念のため、一企画につき「あなた」が複数枚受け取ってはなりません。それは本文に矛盾します)

 「アタリが十人の場合」「アタリが千人の場合」は、「あなた」がアタリを引くまでに、何度か実現されています。そのつどのコインの表裏にしたがって1/2の頻度で。

 たとえば、企画AからMまで各回あなたの一枚はハズレ続け、それぞれ、A、B、E、G、H、J、Mではコインは表(アタリ十枚)、C、D、F、I、K、Lでは裏(アタリ千枚)だったかもしれません。肝心なのは、あなたが当たった企画Nです(Nは固定番号ではありません、念のため)。あなたが参加して外れた企画A〜Mはともかく、あなたがやっとアタリを引いた企画N(これが『論理学がわかる事典』に譬え話として採用された)では、コインは表(アタリ十枚)だったか裏(アタリ千枚)だったか、というのが問いとなります。
 Sの、これ以外の読みはできないはずです。

 ちなみに、無数の企画A〜Ωが、継起的にでなく、同時になされたとしても同じことです。開封順に最初にあなたにアタリが確認されたカード(これを譬え話に採用する)は、アタリ十枚企画の一枚か、アタリ千枚企画の一枚かという問いになります。後者で当たったカードは、前者で当たったカードの百倍あります。当然、「あなたのそのカード」も、そちらに属していそうだと考えるべきです。

 この設定を押さえた上で、それでも「観測選択効果」があったと言われますか?
 企画Nで「あなた」が当たったのは偶然です。あなたは、企画Nでハズレを観測することもありえた。企画Nでの観測は、観測結果の偏りをもたらしません。つまり観測選択効果はありません。
 したがって、企画Nでは、アタリ十枚よりアタリ千枚のほうが正しそうだ、ということになります。もしアタリ十枚だったら、あなたは外れて、次回以降へアタリが繰り越される可能性が高かったでしょう。

>三人称か二人称かなんてのは関係ありません。

 関係ないとされては困ります。重要な違いです。
 「あなた(=読者)」のかわりに、事前に特定されていない「太郎」を持ってきて、「太郎は当たりました。さて、アタリ十枚ですか、アタリ千枚ですか」と読者に尋ねるなら、読者は、「もし太郎が当たっていなかったら、当たった別の人を持ってきたんだろう」と疑う余地ができます(疑う必要もないが、疑うことも可能)。その疑いが正しい場合、つまり太郎は、太郎という固有名で特定されたのではなく「当たった人」という定義で特定されており、事後に選ばれた観測選択効果の産物となり、アタリの枚数の推測には使えません。
 しかしこの三人称の読みは、『論理学がわかる事典』の本文に反するので、採用できません。こうして、地球の例と、スクラッチカードの例は根本的に異なることがわかります。

 一人称と三人称の違いを認められないようだと、観測選択効果を理解しているとは言えないでしょう。
  シミュレーションをやってみるとハッキリするでしょう。「あなた」を主人公にした変則的な読みで、「あなた」が当たったときの企画Nのカード百万枚を調べて、多数の企画Nの統計を取ってみれば、仮説2のほうが仮説1より百倍ほど多く実現しているはずです。

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自然法・自然主義、そして直観主義 投稿者:田中 投稿日:10月29日(日)22時14分37秒

 自然法論がそのトマス的形態においてそうでありますように、「自然法」の認識根拠を「理性の光」や「啓示」に仰ぐかぎりではそのメタ倫理的立場は一種の直観主義と解することができましょう。
 それに対して、「自然」の概念がミクロコスモスとしての「人間の本性」と等値される場合、そこに自然主義的な要素が存在します。
 自然主義のメタ倫理学が論理的に首尾一貫した立場として成立するためには、「事実から価値を」導出できることが厳格に論証されなければなりません。この点に関連する事項は三浦先生の「論理学入門」第14節(112頁以降)にサールの試み(私は完全な失敗と評価します)を通じて論じられてます。
 たいていの自然主義者はこの理論的に最も重要な論点をまったく自覚してないか、あるいはこのような自覚が存在しても「事実」から「価値」への、または「認識」から「評価」への論理的な諸問題の解決に成功しなかったように思われます。

 直観主義(メタ倫理の)についても問題があります。William K.Frankena(フランケナ)はこう言ってます。
――ほぼ2世紀の間道徳哲学者たちの間で標準的見解であった直観主義に、なぜ現在ではほとんど支持者が見当たらないのかについては、数多くの理由がある。まず第一に、それは存在論的あるいは認識論的性質の困難な問題を生じるからである。直観主義者は単純な属性、特殊な非自然的又は規範的な種類の属性、ア・プリオーリ又は非経験的な概念、直観、自明なまたは総合的・必然的命題等を信じぜざるを得ない。これらの信念はすべて現在の一般的思潮にあっては擁護するのが困難である。われわれの倫理的名辞は特殊な非定義的性質を指示するのであろうか。そういう確信を持つことは困難であるし、多くの哲学者たちは自分たちの経験のうちにこのような属性を発見することができないのである。......おまけに、倫理学におけるア・プリオーリな概念や自明の真理に対する信憑を擁護することは、数学者が一般に彼らの領域にこのような概念や真理があるという信憑をすててしまっている以上、はなはだ困難である。
 直観主義は更に、心理学や人類学の通説とも折り合いがつきにくい。...意味の問題や言語の機能・用法に関する、一段と内容を充実された見解もまた、定義論者と同様、直観主義者が信ずるように倫理判断はもっぱら属性帰属の主張である、という見解には疑問を投げかける(杖下隆英訳によりました)フランケナ「倫理学」改訂版1975、培風館 174〜175頁

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う〜〜むぅ 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月29日(日)20時15分45秒

> まさにおっしゃるとおりです。ことばを言明すること自体にかなりの価値判断が入っております。
 ひとことで要点を言うならば、客観的実在(人間の意識と無関係な事物としておきます)は無価値であるということです。つまり、人間がいなければ美しいものも醜いものありません。

<実在>かぁ、、贅沢を言えば、私の(身勝手な)語感とはいまいち一致しないんですよね。
私的には、天上のイデア界が実際に"ある"(見た人はいないけど確かにアルんだー^^;)とか、原理的に不可能な物質の直の知覚、みたいな感じなんだけど…。

ちなみにある辞書では(「実在論」ではなく)
実在:(哲)一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。

(´・ω・`)?.。oO(ハッキリ解らないなぁ…"実在する人物"みたいな♪……ってかもうヤメよっと)

        |彡 パタ

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Re:スクラッチカード 投稿者:substructural logician 投稿日:10月29日(日)19時36分35秒

> 変則的な読み、つまり、「当たった場合に限って譬え話を」したのだとしましょう。
> スクラッチカードを受け取ったのは「あなた」であると特定されていることに注意してください。
> 三人称ではなく、二人称です。ここが重要で、この種の譬え話の常套手段です。

三人称か二人称かなんてのは関係ありません。
どちらも「当たった場合に限って譬え話を」とした時点で観測選択効果が現れます。
「太郎は街角で………」で観測選択効果が現れることは理解されているようですので、
なぜスクラッチカードを受け取ったのは「あなた」であっても観測選択効果が現れかを説明いたします。

> あなたが何回目の企画でアタリのスクラッチカードをもらうことになるにせよ、それまでに、各回、十人または千人の当選者が出ているはずです。その率は五分五分です。ということは、千人の当選者に入っている人のほうが多数派です。あなたが当たったとき、どちらのグループに属していそうでしょうか。そう、十人の当選者ではなく、千人の当選者が出たときに、あなたのアタリが出た可能性が高いのです。

ここを誤解されているわけですね。
アタリが十人の場合の方がアタリが千人の場合に比べて
「あなた」に当たりが出るまでに「あなた」が引いた外れくじの数が多いわけです。
外れは全部無視されるわけですから、両方の場合で無視される外れの数が異なり、
ベイズ推定の結果にバイアスがかかるのが理解できませんか?
それともこれを観測選択効果と呼ぶのはおかしいとおっしゃいますか?

> なお、惑星の数についてですが、今回は詳しく述べませんが、観測選択効果には、母集団数は無関係です。観測選択効果は、あるかないかどちらかです。
> p.208では、惑星の数を一兆個とした二つの仮説を比べています。惑星の数がたとえ3個であっても、地球以外の二つの惑星の生命存在については、地球人は何の結論も導き出せません。(観測選択効果の話に無関係の「宇宙人」は、もうこれ以上持ち出さないように願います――)

さっきの書き込みでは宇宙人でなくても地球人でもよいのです。惑星の数が3個だった場合、
地球人がランダムサンプリングでたまたま地球を選んだのか、身近な惑星である地球を選んだのかを
区別しないと観測選択効果がなかったりあったりするということです。

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合理主義の限界 投稿者:田中 投稿日:10月29日(日)19時32分5秒

 ポパーは、自己の立場を「批判的合理主義」としてこれを「無批判的合理主義」または「全面的合理主義」から区別します。
「全面的合理主義」は自らの方法の限界についての謙虚な自覚を欠くので、さまざまな問題を生みます。たとえば、合理的・科学的方法のみによって倫理的価値判断の問題が解決できないことは、現代合理主義のもっとも基本的な命題のひとつですが、19世紀的な科学主義は多くのすぐれた思想家に幻滅感を与え、彼らを非合理主義にさかのぼらせました。

批判的合理主義は、自らの立場がそれ自体一つの基本的な倫理的決断に、(「理性への帰依」と呼ばれてもかまわないものでしょう)、くわしく言えば、合理的・間主観的な議論によって諸問題の解決をめざす姿勢の主体的な選択に依存するものであること、そして、この決断の妥当性そのものの妥当性は科学的な証明を超えたものであることを素直に認容します。

 なお、合理主義は人間の情念や願望を無視している、というご批判に対しては、まさに人間の生(ある人は実存と呼ぶかもしれません)における非合理的なものこそ人生を生きるに値いするものだ、ということを強調させていただきます。
 最大の合理主義者の一人だったラッセルを想起してください。彼の98年の生涯は、人一倍激しい情念に貫かれた生き様の典型と評価できましょう。若い人は三浦先生の「ラッセルのパラドクス」(わが国に現存する日本語のラッセル入門書の中で最良のもののひとつと評価させていただきます)を手がかりにラッセル哲学を学ぶとよいと思います。
 人間は合理的には行動しないという明白な事実こそまさに現代合理主義の出発点であります。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月29日(日)18時41分34秒

 >>《歴史主義》に対するポパーの論駁が無効であることを論証してきた。ポパーの批判は、素朴な《歴史主義》に対しては有効であるとしても、科学仮説として定式化された洗練された《歴史主義》に対しては無効である。しかしこのことは、洗練された《歴史主義》の科学理論が、実際に反証に耐えうるかどうかについては何も述べていない。もしほとんどの《歴史主義》の理論が反証されるなら、それは研究プログラムとして成立しないことになろう。実際、この意味で《歴史主義》が貧困であると指摘することも可能である。つまり、「《歴史主義》は、方法論としては可能であるが、理論としては不毛である」と指摘すればいいのであり、それは、ポパーが実際に『開かれた社会』においてマルクスの理論を検討したのと同じ仕方である。そして私がポパーを評価するのも、この点においてである。ただ、マルクスの《歴史主義》理論が反証されたとしても、ポパーも指摘するように、このことはただちにその理論を放棄すべきことを意味しない。もし他にすぐれた理論が存在しなければ、マルクスの理論は依然として保持すべきなのである。>>

 >>科学仮説として定式化された洗練された《歴史主義》に対しては無効である。>>と言明する時点で橋本氏の理解が根本的に誤っていると評価できましょう。
 普遍法則などを発見したとのたまうこと自体が不遜であり、誤謬に陥っていると診断されます。
 人間の歴史の「普遍法則」を提出するならそれはすべての人間の歴史でなければなりません。帰納から普遍法則は導けません(単一のものでないかぎり、しかし単一の事物について法則を語るのはナンセンスであるのはいうまでもありません)。一部の部族・社会の歴史から帰納推理することによっては絶対に「人間の歴史の普遍法則」は導けません。
 法則というのは定義上すべての対象物に絶対に当てはまらなければなりません。
 実質的なことを語る以前に論理的考察の時点で完全な誤謬に陥っています。
 社会科学はせいぜい傾向しかわかりません。

 たとえば経済学者は経済予測をしますがみなバラバラなことをいうから結局誰かがあたります。
 法則を主張する主流派経済学者の理論は現場では無価値どころか有害であります。

 ハイエクがいうように市場においては経済主体は取引相手のニーズを見出しそれを満たそうと努力します。その中で競争をし、市場における目標追求に必要な知識の発見を、競争の中に見出します(多用な嗜好や選好、低コスト生産のための投入財の組合せなど)。
 したがって、静態的な「理解」を拒絶するべきということになります。社会科学における普遍法則という発想自体が「知識の発見手続き」という性質を排除してしまいます。

 >>何らかのオントロジー地平を措定することは、「如何に生きるべきか」を考究する哲学においては、必然的な論理的要請であるのです。>>  存在論の問題は例えば、観念論にしても独我論にしても反論することは不可能であります。存在論の問題の大部分はテスト不可能ですから、ひとりひとり好きなように(徹底的に)諸可能性を考えればよいでしょう。しかし「哲学問題」の大部分は言語分析で解消(解決でなく)されるものです。

 いかに生きるべきかは、個人の自由でしょう。哲学者はその助けになる、かもしれない、というだけでしょう。
 人に迷惑をかけないかぎり何をやってもいい、という原則のみが必要です。

>>「等価値」という判断にはすでに価値相対主義的な価値判断が入っているような気がします。>>

 まさにおっしゃるとおりです。ことばを言明すること自体にかなりの価値判断が入っております。
 ひとことで要点を言うならば、客観的実在(人間の意識と無関係な事物としておきます)は無価値であるということです。つまり、人間がいなければ美しいものも醜いものありません。

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↓補足 投稿者:φ 投稿日:10月29日(日)18時18分56秒

言うまでもないでしょうが、変則的な読みで、当たるまで何度も参加する覚悟をしていたら初回で「あなた」がたまたま当たってしまった場合、そこで打ち切りで、それでもかまいません。
外見上、「当たっても外れてもベイズ推定をする」と決めた常識的な読みに一致します。仮説検定の結論も同じです。

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スクラッチカード 投稿者:φ 投稿日:10月29日(日)17時58分50秒

>えーと、補足では「当たったときだけ譬え話をする」という仮定の話ですよね。
>それだったら間違いです。
>「当たったときだけ譬え話をする」と決めたら観測選択効果がかかります。
>サンプルのフィルタリングをしているので偏らないほうがおかしいです。
>p.206の書き方では"常識的"な読みをするならば観測選択効果がかからない
>というならば
>"常識的"の定義によりますが私は同意します。

 いや、この点は、あいにくsubstructural logician さんが間違っておられるようですよ。
 常識的・変則的、どちらの読みでも、仮説2が確証されます。理由は以下のとおりです。

 変則的な読み、つまり、「当たった場合に限って譬え話を」したのだとしましょう。
 スクラッチカードを受け取ったのは「あなた」であると特定されていることに注意してください。三人称ではなく、二人称です。ここが重要で、この種の譬え話の常套手段です。
 あらかじめ特定された「あなた」が都合よく当たるためには、この種のスクラッチカード企画に何度も参加しなければなりません。(1回でたまたま当たった、という「常識的な読み」が排除されているので、確実に当たるまで繰り返さねばなりません。 百万枚のうちアタリが十枚だろうが千枚だろうが、当たる確率は外れる確率より低いからです)。
 「あなた」が初回で当たるとは考えられません。つまり何度もコイン投げがされて、スクラッチカードが配布され、あなたは参加し続けねばなりません。

 あなたが何回目の企画でアタリのスクラッチカードをもらうことになるにせよ、それまでに、各回、十人または千人の当選者が出ているはずです。その率は五分五分です。ということは、千人の当選者に入っている人のほうが多数派です。あなたが当たったとき、どちらのグループに属していそうでしょうか。そう、十人の当選者ではなく、千人の当選者が出たときに、あなたのアタリが出た可能性が高いのです。
 こうして、「あなた」が当たったとき、ベイズ推定により、仮説2のほうが正しそうだということになりますね。
 こうなる理由は、「あなた」が、何回目においても必ずしもアタリをもらうとは限らないランダムなサンプルだったからです。

 それでは、観測選択効果のかかる場合とはどういう場合でしょう。  文面で「あなた」と特定されていなければ、設定として、とにかく初回で当たった人を一人選んで譬え話に使った、という解釈も(不自然ながら)可能です。その場合は、何度もスクラッチカード企画を繰り返す必要はありません。百万分の十だろうが百万分の千だろうが、必ずいるアタリの人を一人選べばいいのです。この場合は、コインの表裏の確率から変わりません。つまり、仮説2が正しい確率は1/2です。どちらの仮説も確証はできず、地球の生命クジと同じことになります。
 しかしこの設定にするなら、それなりの書き方にしなければなりません。三人称の初出の固有名詞で、「太郎は街角で………」というふうに。その書き方なら、「ああ、結果的に当たった奴が太郎ってやつで、そいつを選んできたのかも」と疑う余地があります。あるいはもっと確実露骨に、「いまここに当たった人が一人います。さて、仮説1と仮説2とどちらが正しそうでしょう」などと。(この場合、当たった人のサンプリングは、生命クジでの地球のサンプリングと同じになります)
 実際は、そんな書き方はしていません。p.206,p.208で「あなた」が当たった、と述べているので、初回の当たり外れとは独立に個人が選ばれているとしか読めません。よって、その「あなた」が当たるまで企画を繰り返す必要があります。地球の生命クジと同じになる解釈は不可能なのです。

 いずれにせよ、最も自然な読みは、「乞・本質へ」で述べたように、当たっても外れても、譬え話をした、という読みです。なぜなら、「一枚受け取った」と書いてあるので、「この種のスクラッチカードの企画に何度も参加して、しまいに当たった」という最初の読みですら、やや不自然として却下されるからです。
 いずれにしても、譬え話は虚構ですから、どこかの実在の出来事について書き損ねたのではないか、と疑うのはナンセンスです。最も自然な読みが無条件に採用されるべきです。

 なお、惑星の数についてですが、今回は詳しく述べませんが、観測選択効果には、母集団数は無関係です。観測選択効果は、あるかないかどちらかです。
 p.208では、惑星の数を一兆個とした二つの仮説を比べています。惑星の数がたとえ3個であっても、地球以外の二つの惑星の生命存在については、地球人は何の結論も導き出せません。(観測選択効果の話に無関係の「宇宙人」は、もうこれ以上持ち出さないように願います――)

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Re:Re:Re:乞・本質へ 投稿者:substructural logician 投稿日:10月29日(日)16時31分11秒

>「ひどい」というタイトルで始まったsubstructural logician さんの御投稿なのですから、いかなる文章にも当てはまるコジツケしか述べられないのでは、期待外れになってしまいます。本当に「ひどい」間違いの御指摘はいただけないのでしょうか……?

まあ、問題をwell-definedにしてから語る習慣のついた論理学者や数学者ならば
前提が抜けているというのは「ひどい」ということになるでしょうが、そうでない人にはそう思わないでしょう。
三浦先生は哲学の方でしょうから、もう特定の地球やスクラッチカードの問題の話はやめます。

ただ、well-definedな問題に対して間違った解釈をしている点があるので指摘させてください。

> これは前回も書いたとおり、無理がありすぎです。
> 私たちが住む地球が、宇宙人によってたまたまランダムに選ばれた(生命の存在によって注目されたのではなく)などということは、サンプリングが地球人と宇宙人によって独立に二度なされて偶然一致したということになりますが、それは超天文学的な極小の確率でしか起こらないことで、もしそういう設定なら、「そういう驚くべきサンプリングがなされた場合……」等と明記すべきでしょう。私は明記していないのだから、ごく普通に、私たち地球人が自分の惑星をサンプルにしたと読むべきです。生命クジに当たったことがわかってから、そのサンプルが選ばれたのです。

主観確率を誤解されているのでは?
宇宙人からみて地球が外れる主観確率がゼロでないのは超天文学的な極小の確率で地球がサンプリングされるかどうかとは関係ありません。
情報量の問題です。

> スクラッチカードの譬え話のほうは、「↓補足」で述べたように、観測選択効果がかかっていないこと、p.206の書き方では必ず仮説2が確証されること、についてはOKですよね。

えーと、補足では「当たったときだけ譬え話をする」という仮定の話ですよね。
それだったら間違いです。「当たったときだけ譬え話をする」と決めたら観測選択効果がかかります。
サンプルのフィルタリングをしているので偏らないほうがおかしいです。

p.206の書き方では"常識的"な読みをするならば観測選択効果がかからないというならば
"常識的"の定義によりますが私は同意します。

> 中立なのだから、ゼロと考えるべきでしょう。
> たとえば、私がsubstructural logicianさんにこうして話しかけることが、ちょうど5年後にsubstructural logicianさんが朝食にパンを食べるかどうかにたぶん影響しているでしょう。しかし、促進する方に影響しているのか、阻害する方に影響しているのか、私は判断できません。よって、プラスマイナスゼロで、影響無しとしてベイズ推定すべきです。

だから、極端に高い精度が必要なときと断っているわけで、
話しかけることが5年後に朝食にパンを食べるかどうかを促進する方に影響しているのか、阻害する方に影響しているのかは
精密に決定できることが前提になっています。理論的には不可能とはいえませんよね?

こう書くといつも極端な反例を出してくるとお叱りを受けるかもしれませんが、
極端な反例が存在するならば、他の人の"常識"にあわせて中和した別の反例をとってくることが出来る、
というのを確かめてからやっています。

例えば全宇宙に存在する惑星の数をnとします。
n=3ならば宇宙人が地球をランダムに選ぶというのは超天文学的な極小の確率にはなりません。
そのときにはサンプリングが地球人と宇宙人によって独立に二度なされて偶然一致したというのは十分ありうるので、
アルゴリズムが決定していないとベイズ推定の結果が変わってきます。
これは認めていただけますよね?

で、nをわれわれの宇宙にあわせて大きくしていったときに、
だんだんと宇宙人が地球をランダムに選ぶ確率が小さくなって
地球の問題は観測選択効果がかかるという方に解釈されるのは"常識的"になるわけですが。
nが大きいときの思考スタイルになれてしまって、nが小さいときに前提を抜かしてしまったら困るということです。
モンティ・ホール・ジレンマの問題紹介者の多くがそういうことをやっているわけですから。

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う〜ん 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月29日(日)14時42分59秒

>田中さん
> おっしゃるとおりです。しかしここで注意せねばならないのは客観的な事物は存在する、ということです。

うん、しかしこれも解釈と確信ですよね。
というか、「ドクサ」を叫びたいなら客観存在を前提してはいけないのではぁ…などと(現象学的には)。だから私なんか、基本的には何だってドクサであり得ると思ってますよ。だって実際にそんなことの連続ですよこの社会は。だってみんないい加減なんだから。(笑)

> そして事物は無限種類の(問題を究極まで考えるならば)性質をもっており、そのどれかの性質をなんらかの目的ぬきに特権扱いするのは誤った見方である、ということです。
 これは存在の問題でもありますが、ことばのレベルで完全に処理される問題です。

認識や判断がある特定の観点に依存するのは原理的に避けられないことだと思います。
ルーマンなどは、「観察は盲点に拘束される(観察は盲点の上に成り立つ)」みたいなこと言ってますし。
> 人間という観測主体がいなければすべての性質は等価値であります。したがって、客観的な「事物の本質」、「本性」、「真の姿」を見極めたと思うならばそれは端的な誤謬であります(観測選択効果)。

「等価値」という判断にはすでに価値相対主義的な価値判断が入っているような気がします。
しかしなんつーか、私には哲学用語というのはかなり多義的で限りなく曖昧なものなんですよ、哲学音痴の私にとっては。例えば、実在論(=実念論)にしたって、客観的観念論の立場と唯物論の立場では言ってることがまったく違うんですよね、少なくとも私にとっては。
そこでカント的「物自体」ですが、あれって何が言いたいのでしょう?(笑)

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Re:Re:乞・本質へ 投稿者:φ 投稿日:10月29日(日)14時04分18秒

>「地球の場合、ハズレが観測される可能性はゼロ」と書かれていますが、
>宇宙人からみて地球が外れる主観確率はゼロではないですよね?
>まさか宇宙人の存在が確認されていないからそうならないとはおっしゃいませんよね?

 これは前回も書いたとおり、無理がありすぎです。
 私たちが住む地球が、宇宙人によってたまたまランダムに選ばれた(生命の存在によって注目されたのではなく)などということは、サンプリングが地球人と宇宙人によって独立に二度なされて偶然一致したということになりますが、それは超天文学的な極小の確率でしか起こらないことで、もしそういう設定なら、「そういう驚くべきサンプリングがなされた場合……」等と明記すべきでしょう。私は明記していないのだから、ごく普通に、私たち地球人が自分の惑星をサンプルにしたと読むべきです。生命クジに当たったことがわかってから、そのサンプルが選ばれたのです。
 そもそも、観測選択効果を説明する設定として書いているのですから、観測選択効果がかかっている設定で読んでください。
 突飛な解釈の可能性は、どんな文章にも可能性があります。書かれていない特殊事情があるのではないか、などと。しかし、譬え話はドキュメンタリーではないので、「書かれていない裏の事情」(とくに起こりそうもない事情)を探っても無意味です。
 「ひどい」というタイトルで始まったsubstructural logician さんの御投稿なのですから、いかなる文章にも当てはまるコジツケしか述べられないのでは、期待外れになってしまいます。本当に「ひどい」間違いの御指摘はいただけないのでしょうか……?

 スクラッチカードの譬え話のほうは、「↓補足」で述べたように、観測選択効果がかかっていないこと、p.206の書き方では必ず仮説2が確証されること、についてはOKですよね。

 >中立だといってもゼロではないですよね?
 >だから、どれだけ精度が必要かによって何を考慮すべきかが変わってきますので、
 >極端に高い精度が必要なときには量子情報通信やバタフライエフェクトも
 >考慮する必要があると混ぜ返しただけです。

 中立なのだから、ゼロと考えるべきでしょう。
 たとえば、私がsubstructural logicianさんにこうして話しかけることが、ちょうど5年後にsubstructural logicianさんが朝食にパンを食べるかどうかにたぶん影響しているでしょう。しかし、促進する方に影響しているのか、阻害する方に影響しているのか、私は判断できません。よって、プラスマイナスゼロで、影響無しとしてベイズ推定すべきです。

 「偏ったいかさまコイン」ということだけがわかっているコインを投げて、「表が出る確率は?」と問われたら、ベイズ的主観確率の立場では、1/2と答えるべきです。客観的には1/2ではありえないとわかっていても、表の出やすさについては中立情報だから1/2です。
 この主観確率論の哲学的背景については、『心理パラドクス』問053「ラプラスの悪魔」でごく簡単に述べました。

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当為の論理 と 基盤公理 投稿者:Σ 投稿日:10月29日(日)11時58分41秒

田中先生へ

>>−−近代および現代の科学的な世界像を生み出した過程が、(・・・)「呪術からの解放」(Entzauberung)の過程であり、ケルゼンやトーピッチュのいわゆる「擬人的宇宙観」からの脱却の歴史であります。
>>−−−客観的な本質を認めるということは目的論的宇宙観をとることに帰着します。したがって認められない、というのが反本質主義の解答になるでしょう。

ええっと・・「擬人的宇宙観」「目的論的宇宙観」というご指摘ですが・・・。

まず、カントにおいては、「純粋理性」では超越神は認識不能として「認識や論及は不可能領域である」と断じて、このテーマを論じることを形式的に拒否することになりますが−−(しばしば多くの人がカントを理解する時、ここまでで止まってしまうのですが)−−−、その後、カントが「純粋理性」よりも上位に置いた「実践理性」においては超越神は倫理道徳の実践上、必要不可欠の存在として、「措定されねばならない」という「当為の論理」がカントによって主張されるわけです。
つまり、理論理性領域では反本質主義的思考が論理的であるけれど、それは形式論理学的地平に限るわけで、その他の、「より善く生きる」という「いかに生きるべきか」という人倫に関わるオントロジーの地平や、それに基づく「現実的な行為論」としての「実践領域」においては、(存在論的)「本質主義」的立場が、論理必然的に「要請される」し「要請されねばならない」のです。

「この点(当為の論理要請)を見落としている地平に留まったまま、存在論的な反本質主義」が主張される時、それは、「片手落ち」「一面的にしか物事をみない立場だ」との批判を免れえないものだと、私は考えます。
端的に表現するならば、−−−その点を看過脱落させた存在論的反本質主義「だけ」では、倫理的に善く生きることはできない、という結論がロジックとして成立する、−−−ということです。
以前、田中先生との対話の中で、「無人島で一人生活」の事例を出しましたが、これについてはお返事戴けませんでしたが、その事例はこうした事柄を射程に含むものとして提出した次第でした。

なお、これに関連して、ラクシュンさまが「だからニーチェがいうように全ては解釈ですよ(・・・)「何かあるもの」なんて基本的には関係ないんですよ」と発言なさっておられますが、そこには、ちょっとした(実は大きな)見落としがあるようです。

それは、ニーチェ的ニヒリズムの立場であっても、ニーチェは、「永劫回帰の原理」に立脚していた、という点です。「永劫回帰原理」とはインドの輪廻転生思想のニーチェ版であり、「あがり無し」という設定に変更した双六ゲームの如く、必ず「はい、振り出しに戻ります、またゲームのやりなおしの繰り返しです」という永劫の振り出し回帰と再反復ということが、「措定」されています。この措定は、「存在論レベル」の措定であり、「神は死んだ」とする形而上学的オントロジー否定を強く主張したニーチェがその代償として、どうしても措定しなければならなかった「基本公理」であり、他の人に言わせれば、永劫回帰原理こそニーチェにとっての形而上学的オントロジーであった、というわけです。
つまり、永劫回帰原理という存在論的基盤公理を措定しないならば、ニーチェの哲学体系は、論理的に崩壊してしまう、ということになるのです。 このように、何らかのオントロジー地平を措定することは、「如何に生きるべきか」を考究する哲学においては、必然的な論理的要請であるのです。(一部の「分析哲学」は専門化・蛸壺化によりこの本筋を脱落させて学問されていますが、それは分化による役割分担化にすぎず、やがて本筋と合流しなければ「デラシネ学問」になってしまいます)

ところで、ヘーゲルは、『精神現象学』の中で、「彼の弁証法」について、自分で説明をしているわけですが、そこには、「円環的・有機的統一」という「真理の総体性」の観念、「総体性真理」という観念が立てられています。
どういうことでしょうか?  ヘーゲルの言葉で見てみましょう。
>>−−−花が咲けば蕾が消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。同様に、果実により、花は植物の在り方としては今だ偽であったことが宣告され、植物の真理として花に代わって果実が現れる。植物のこれらの諸形態は、それぞれに異なっているばかりではなく、互いに両立しないものとして排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらは互いに争わないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である。そして、同じく必然的であるというこのことが、全体として生命を成り立たせているのである。>>−−−

田中先生が今の季節に因んで「蜜柑」の例を出されましたが、上記のヘーゲルの「花」を「蜜柑」に置換しても全く内容は変わりません。
「蜜柑のどの性質が本質なのか?」  と田中先生は書かれ、そうした問いは無意味であると否定なさいましたが、ヘーゲルにおいても、そのような問いは決してなされません。
では、どのように問われるのでしょうか?
「蜜柑という存在現象を見る時、蜜柑という存在を規定する概念こそが鍵であり本質であろうから、蜜柑という性質(属性)を規定する蜜柑概念とはどのようなものか?」
こそが問われ、理性によって探究されねばならない、と考えるのです。 こうした「事物の属性規定としての概念」を把握・洞察するためにこそ、事物に穴のあくほどの凝視・分析され、悟性によって「当該事物の規定概念の内実」が捕捉されねばならないのです。

「蜜柑」という存在が有機的・高度情報集積的・遺伝暗号的な、諸分子の構築物としてここに存在するということは、「科学的・客観的事実として有る」わけです。
そして、そうした構築物が無秩序に偶然的に構築され機能していると考えるのは「如何にも不自然」であるから、そこに構築される前段階として、「その設計図」があったはず、と推論するのが自然であり−−−その設計図こそ、「蜜柑という概念」です。「蜜柑概念」とは、その内容が詳細に措定されているところのもの、ということになります。
このような意味で、(プラトンのイデア説的に考えて戴いても、有神論的に考えて戴いても、創造の天使を措定して戴いても結構ですが・・)
とにかく、実在としての「現実の蜜柑」に先立ち、「概念としての蜜柑」が措定されるわけです。

こうした「詳細な諸項目まで入力設定された、諸設定項目の総体としての『蜜柑概念』」
について、その概念の総体こそ、ヘーゲルは「本質」とするのです。

すると、蜜柑の種子から芽が出て木となり花をつけ蜜柑の果実となりそれが地に落ち・・・という変化の諸相(諸形態)の一つ一つは、仮象幻影の如く、ほんの片時のものでありながら、全体として眺めると、それら色々な諸形態は「全体として有機的統一の諸契機」を形成していると観察されるわけです。
「(1)芽と(2)木と(3)蜜柑の果実」の三者はそれぞれ全く「異なる形態」を持つわけですから、外的には形式(外観としての衣)を廃棄しながら、刻々と次の段階へと進んでいます。
これを、「有機的自己同一性」を保ちながら変化展開して行く、「廃棄と保存のアウフヘーベン」、といいます。

ところで、安易・安直な解釈者によっては、蜜柑の木は目的論的に変化展開しているようにも見えます。
しかし、蜜柑の変化の全容は、輪廻的「円環構造」とも言えますので、メビウスの輪のように、あるいは、ウロボロスの蛇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%82%B9
のように、円環として無始無終的であるわけで、始めも終りも無い以上、そこには「如何なる目的性」(一種の価値と意味)をその外側から適切に解釈賦与することもできません。(目的論の否定)

ゆえに、ヘーゲル的な意味での「客観概念(設計図)という本質」は総体性と不可分であるがゆえに、既に「有る物」に関して、後から主観的に価値を賦与する、というような、「目的論的存在論」ではないのです。

同様のロジックにより、「宇宙」という概念が細部まで決定され、「宇宙概念という設計図」という本質(この場合、理念・イデアともよべる)があると考える場合にも、
現実の宇宙の変化の一々の諸形態それぞれは、全容としての有機的統一の各一つずつの契機(モメント)であると見るので、宇宙そのものを一つの有機的統一物として概念するわけです。
このように、現実存在以前の「設計図概念」を本質とするので、「本質が現象する」という言葉に結実しているのです。

そして、こうした存在論的「円環構造」それ自体については、「目的論的存在論」が適用される場面ではありえません。それは、ニーチェが、永劫回帰原理を基盤公理としたように、ヘーゲル哲学における公理と言えるものなのです。
ゆえに、この公理を反本質主義の立場から批判し否定する場合には、その立場からの「新たな基盤公理」が主張されなければなりません。その上での両公理の比較により、そちらの優秀性が論証されてこそ、本当の批判になるということになります。
単なる上辺批判だけで、反本質主義における基盤公理が提出できないならば、それは正当な批判ではない、ということになります。
(これと軌を同じくした主張については、以下の論考
『<歴史主義>批判の貧困』  を参照して下さい。http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v5n1hashimoto.html  )

最後に、『国家の品格』の中で藤原正彦教授が出しているエピソードを紹介します。
藤原家を訪問した英国の高名な(一応、合理主義の権化的な人だとしましょう)が藤原家で夕食をしている時、晩秋の中庭から聞こえてくる音を耳にして、次のように藤原教授に問いかけました。
「あの ノイズ は何だね?」
藤原教授は仰天しました。日本人なら「風流の極み」とも言える「虫の声」を「ノイズ」と言ったからです。「ひぇ〜」ですね。
生命の神秘と幽玄を感じる感性と情緒がすっぽり脱落しているような・・・。

このように、現代合理主義が幅を効かせ過ぎると、「スター・トレック」のスポック博士のような宇宙人になってしまいかねない、と懸念するのは、どうやら、私だけではないようです。(笑)

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Re:乞・本質へ 投稿者:substructural logician 投稿日:10月29日(日)07時28分43秒
地球とスクラッチカードの問題の前提が"常識的"に明らかだと思われるならもうその話はきりあげます。
人によって常識的といえる範囲は変わってくるでしょうから。

論理の入門書の記述ですから、読者の常識を仮定した記述を行うというのはごもっともで、 私の書き込みがそこを殊更批判しているのだと捉えられてしまったならば瑣末な文体論と思われてしまっても仕方ありません。

私が言いたかったことは、たとえあの地球とスクラッチカードの問題では常識によって前提が補完できたとしても、
他の多くの主観確率の問題では前提を明示しないと観測選択効果の議論で食い違いがおきてしまうということです。
例としてはモンティ・ホール・ジレンマが挙げられます。
必ず司会者が一つドアをあけて回答者がもう一回選択できるという条件が 明示されない限りベイズ推定のしようがありません。
実際には省略されることが多いので常識で補完されることが期待されているようですが、 司会者がずるをする方法が簡単に思い浮かぶので、 地球とスクラッチカード問題に比べたら危ういです。
少なくとも数学の問題としては成立していません。

> かりに、スクラッチカードで、「当たったときだけ譬え話をする」と決めたとしても、その当たったカードを含む同じ企画内の同種カード全体では、当たりを多いとする仮説のほうが、当たりを少ないとする仮説よりも、確証されます。 > 地球の譬え話のような「観測選択効果」は働いていないからです。つまり、ハズレが観測される可能性もあるときにアタリだった、という構造は保たれています。(地球の場合、ハズレが観測される可能性はゼロ)
> ですから、当たりのときだけベイズ推定をした、という変則的な読みにおいても、仮説検定の結論そのものは変わりません。(地球の生命くじの場合とは異なります)

主観確率の話をしているわけですよね?
「地球の場合、ハズレが観測される可能性はゼロ」と書かれていますが、
宇宙人からみて地球が外れる主観確率はゼロではないですよね?
まさか宇宙人の存在が確認されていないからそうならないとはおっしゃいませんよね?

地球人から見て「地球の場合、ハズレが観測される可能性はゼロ」を認めるならば スクラッチカードで当たった人から見てスクラッチカードが外れていた可能性がゼロとなることを認めざるを得ないのではないですか?

>なお、量子情報通信やバタフライエフェクトは、生命発生の主観確率を変化(促進か阻害か)させるうえでは中立なので、地球との間の生命の移動可能性がなければ、その惑星はランダムなサンプルと認められねばなりません。

中立だといってもゼロではないですよね?
だから、どれだけ精度が必要かによって何を考慮すべきかが変わってきますので、 極端に高い精度が必要なときには量子情報通信やバタフライエフェクトも考慮する必要があると混ぜ返しただけです。

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ラクシュンさまへ 投稿者:田中 投稿日:10月29日(日)06時56分6秒

 >>だからニーチェがいうように、全ては解釈ですよ。
私は人間の認識は「解釈(=認識システムへの依存)」とそれに対する「確信」しかあり得ないと思っています。『純粋理性批判』的な「何かあるもの」「物自体」なんて基本的には関係ないんですよ。>>

 おっしゃるとおりです。しかしここで注意せねばならないのは客観的な事物は存在する、ということです。
 そして事物は無限種類の(問題を究極まで考えるならば)性質をもっており、そのどれかの性質をなんらかの目的ぬきに特権扱いするのは誤った見方である、ということです。
 これは存在の問題でもありますが、ことばのレベルで完全に処理される問題です。

 人間という観測主体がいなければすべての性質は等価値であります。したがって、客観的な「事物の本質」、「本性」、「真の姿」を見極めたと思うならばそれは端的な誤謬であります(観測選択効果)。

 本質主義は科学の方法でないのはいうまでもないのですが、学としての哲学の方法でもあるべきではありません。

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↓補足 投稿者:φ 投稿日:10月29日(日)05時22分40秒

 一つ重要な補足です。
 かりに、スクラッチカードで、「当たったときだけ譬え話をする」と決めたとしても、その当たったカードを含む同じ企画内の同種カード全体では、当たりを多いとする仮説のほうが、当たりを少ないとする仮説よりも、確証されます。
 地球の譬え話のような「観測選択効果」は働いていないからです。つまり、ハズレが観測される可能性もあるときにアタリだった、という構造は保たれています。(地球の場合、ハズレが観測される可能性はゼロ)
 ですから、当たりのときだけベイズ推定をした、という変則的な読みにおいても、仮説検定の結論そのものは変わりません。(地球の生命くじの場合とは異なります)

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乞・本質へ 投稿者:φ 投稿日:10月29日(日)04時59分45秒

>一方、多くの惑星の候補からランダムに選んでいく場合、
>たまたま地球が最初に選ばれても観測選択効果はないですよね?
>その後に行うサンプリングでは太陽系以外の惑星が選ばれるでしょうから。
>地球の問題の場合、多くの惑星の候補からランダムに選んで
>地球が最初に選ばれたのではないことは常識的にわかると言い切れますか?

これはいくら何でもこじつけでしょう。常識でわかるはずです。
地球以外に知的生命がいることは実証されていないのだから、譬え話として選択の主体に使われるのは地球人しかありません。そして、地球人が全宇宙の惑星のリストからランダムに選んだらたまたま地球にあたった、という可能性はありますが、現在のところ、知られている惑星の数は全宇宙のうち極小部分ですから、ランダムなサンプリングにはなりません。
 但し書きがないということは、現在の科学のステージが背景となっていると理解すべきです。私たちが地球をサンプルに選んだのは、私たちの惑星だからであって、ランダムに選んだらたまたま地球だった、などという選び方はできません。本に、そこまで明記する必要はないでしょう。(空想的な思考実験では、明記の必要が生ずるだろうが)

 スクラッチカードの場合は、「当たりのときだけ話題にすると決意していた」ことも考えられはしますが、そう書いてない以上、当たりでも外れでも同様のベイズ推定ができると解釈してください。そして実際、〈一本当たり、一本はずれ〉の場合というのは本文に明記してあります。その時も、ベイズ推定で一仮説を却下するのに使っているのですから、「当たったときだけ譬え話が成り立つ」というのはあてはまりません。話の本筋を普通に読んでいただければOKです。

 というわけで、以上二つの常識を疑っても、あまり興味のある議論にはならないでしょう。論理や哲学ではなく、文体論の議論になってしまいますね。

 現実のスクラッチカード(当たりでも外れでも、もらったサンプルからベイズ推定ができる)、
 現実の地球(私たちに最も身近だから選ばれた)、

 この二つの違いは、『論理学がわかる事典』の読者層には当然のこととして暗黙に前提されているはずです。
 カール・セーガンが『コスモス』などで大衆の夢に迎合して、「地球で起こったことは、よそでも当然起きている」といい加減なことを言う場合、ランダムなサンプルとして地球が取られていないのに、観測選択効果が無いかのようなエセ帰納法で大衆を惑わしている、そういうことが問題だと私は言いたいのです。
 これについては、もういいでしょうね。常識的な文脈での観測選択効果の是非についての御批判かと思っていました。瑣末な文体論ではなく、できればそちらをお願いします。

 なお、量子情報通信やバタフライエフェクトは、生命発生の主観確率を変化(促進か阻害か)させるうえでは中立なので、地球との間の生命の移動可能性がなければ、その惑星はランダムなサンプルと認められねばなりません。

 人間原理でよく問題になる、データ獲得と仮説形成の関係(時間的前後関係も含む)については(「古い証拠の問題」「全体的証拠の要請」など)、今発売中の『現代思想』11月号に連載第1回として書きましたので、ご覧いただければ幸いです。

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訂正 投稿者:substructural logician 投稿日:10月29日(日)01時57分5秒

>回答者が正解する確率は2/3でなくて1/2、つまり何も情報が無いのと同じになります
回答者が正解する確率は1/2でなくて1/3、つまり何も情報が無いのと同じになります

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Re:Re:Re:Re:観測選択効果 投稿者:substructural logician 投稿日:10月29日(日)01時50分28秒

確認ですが、ベイズ推定の結果を推定したい現実の確率分布に収束させるためには
*現実の確率分布にそったデータ*を*無限個*使うのが理想だが実現不可能なので、
偏りが小さく抑えられるように慎重にサンプリングした有限個のデータを使うわけですよね。
そのようなデータを得るための方法の一つである現実世界からのランダムサンプリングを前提としているわけですね。
蛇足ですが、Monte carlo simulationとよばれる分野ではサンプリングが偏っていることを前提として 偏りを補正しながら結果を得るという方法なども研究されています。
(importance samplingではわざと興味深いところを多めにサンプリングする)

> サンプル数や初期分布は、観測選択効果に疑念を呈されたsubstructural logician さんのもともとの御批判とは関係ないでしょう。

私が疑義をはさみたいのはランダムサンプリングのランダム性をこわすような観測選択効果が現れる条件であって
観測選択効果そのものがいかなるサンプリング法を使おうが錯覚であると主張したいわけではありません。

私の主張は地球とスクラッチカードの問題は同じ構造をしており、
片方で観測選択効果を認めるならばもう片方でも認めなければならないし、
片方で認めないならばもう片方でも認めるわけにはいかないということです。

初期分布の話はたしかに脱線気味なのでやめますが、
任意個のサンプルを使ってベイズ推定する場合を考えたほうが観測選択効果がわかりやすいのです。

> 譬え話ですから、端折って書いただけで、この「当たった場合だけでなく、外れた場合も同じ譬え話が成り立つ」というのは常識として普通理解されるでしょう。
> サンプリングする前にベイズ推定をすることが決まっていたという条件は不要です。当たりかどうか見てから、ベイズ推定をしてかまわないのです。サンプルがランダムでありさえすれば。

「当たった場合だけでなく、外れた場合も同じ譬え話が成り立つ」というのは常識だからといって省略すると混乱を生じます。
この条件がなくて当たった場合だけを意図的に選んでベイズ改訂をするというアルゴリズムを使ったらどんどん偏っていきます。
この条件のもとでベイズ改訂するアルゴリズムを使えばサンプリング数を増やせば増やすほど精度がよくなります。

だからサンプリングする前にベイズ推定のアルゴリズムを定めておくことが重要なわけです。

> 地球の場合はそうではありません。地球は「私たちの住む惑星」として定義されているからです。生命の存否と独立でない定義で決定されています。広い宇宙の中で、何%の惑星に生命が生じようと、生じた惑星の中から地球が選ばれているのです。よってもともとの「何%」に対する推定に使えません。
> 結果がどちらに転んでも(生命が生じても生じなくても)ベイズ推定が成り立った、ということでないことにくれぐれも注意。なにせ地球はベイズ推定を始める現場ですから、生命存在が必須になっています。

地球人が生命の存在する惑星の数をベイズ推定する場合も上の議論と同様です。

地球人がサンプルデータとして身近な惑星である地球や他の太陽系の惑星を選びがちだとすると、
複数サンプリングしても太陽系の惑星が大半を占めて確率が偏ります。

一方、多くの惑星の候補からランダムに選んでいく場合、
たまたま地球が最初に選ばれても観測選択効果はないですよね?
その後に行うサンプリングでは太陽系以外の惑星が選ばれるでしょうから。

両方のアルゴリズムとも地球が最初に選ばれる可能性がありますが、前者には観測選択効果があって後者にはないです。
つまり、観測選択効果が現れることを議論するためには、
サンプリングに使われるアルゴリズムがあらかじめ定まっていなければいけないわけです。

三浦先生の本では、スクラッチカードと地球の問題でそれぞれ異なる前提を暗黙のうちに置いているために違いが出てくるわけです。
地球の問題の場合、多くの惑星の候補からランダムに選んで地球が最初に選ばれたのではないことは常識的にわかると言い切れますか?

> モンティ・ホール・ジレンマの場合は、司会者が当たりを開けてしまうとゲームが終わってしまい有意義なベイズ推定が成り立たなくなるので、スクラッチカードの場合とは違い、地球の場合と同じです。しかし現実にはドアの中から「当たり」が選ばれることが物理的にありうる(地球の場合と違って)ので、「司会者はドアの中を知っていて必ずハズレを選ぶ」という条件が付いているわけですね。

その条件は当然必要ですが、回答者の選択によらず、司会者がどれか一つのドアをあけてくれて
回答者がもう一回選択できるという条件が必要です。
例えば、回答者が外れのドアを選んだときは司会者はそのまま外れというが、
当たりのドアを選んだときに外れのドアを一つ増やしてからドアを変えてもいいと回答者を誘惑するのならば、
回答者が正解する確率は2/3でなくて1/2、つまり何も情報が無いのと同じになります。

> なお、火星に微生物が発見されても、ランダムなサンプルとは認められないでしょう。地球とのあいだに隕石の行き来があるので。地球とは因果的にそのようなことが起こりえない惑星をランダムにピックアップして、もし生物がいたという場合のみ、「惑星には高い比率で生命が存在する」という推定ができます。

程度問題ですね。量子情報通信やバタフライエフェクトのようなものを考えれば距離が遠かったり
情報源が微弱であっても因果関係を否定することはできなくなるでしょう。

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(無題) 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月28日(土)22時48分2秒

だからニーチェがいうように、全ては解釈ですよ。
私は人間の認識は「解釈(=認識システムへの依存)」とそれに対する「確信」しかあり得ないと思っています。
『純粋理性批判』的な「何かあるもの」「物自体」なんて基本的には関係ないんですよ。

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自然法 投稿者:田中 投稿日:10月28日(土)21時26分53秒

 Σ先生の自然法に関するご懸念はまさに正しいものであります。自然法は社会的には措定されねばなりません。  しかし、没価値的に考察を進めるとどうなるか。自然法の実在はみとめられるか。
 あえて標榜するつもりはありませんが法実証主義が実在認識に忠実であることは私には否定できません。

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価値に関する諸問題 投稿者:田中 投稿日:10月28日(土)21時19分49秒

 それ自体において善いもの、また悪いものについての諸問題が科学の領域の外の問題であることは、宗教の擁護者たちが力説するとおりであります。この点について宗教の擁護者は正しいと私は思いますが、さらに、彼らが引き出していないもう一つの結論を主張したいと思います。
 それは「価値」に関する諸問題は全面的に認識の領域の外にあるということです。すなわち、何かあるものが「価値」をもつとわれわれが主張するとき、われわれは自分自身の感情を言い表しているのであって、われわれの個人的な気持ちの如何にかかわらず真であるような何らかの「客観的事実」を表明しているのではありません(Bertrand Russell, Religion and Science,1935,pp.230-231.)

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月28日(土)21時05分27秒

 自然法についての懸念は正しい

 呪術的・擬人的・神話的宇宙観においては、人間の行為とその所産のみならず、日月星辰・森羅万象の一切の動静は価値に充たされた現象として把握されます。
 近代および現代の科学的な世界像を生み出した過程が、すくなくともその重要な一面において、ヴェーバーの意味での「呪術からの解放」(Entzauberung)の過程であり、ケルゼンやトーピッチュのいわゆる「擬人的宇宙観」からの脱却の歴史であります。
 近代科学の想定する没価値的な因果法則の観念は、西欧文明に特殊な発展の所産であり、そぼくな「人間の本性」にとっては「不自然」なものでさえもあります。しかし西洋・東洋関係なしに極限までものごとを正しくとらえようとするなら没価値的に考察せねばなりません。これは方法に関する自覚的な反省の結果はじめて生じます。
正しい方法は客観的にあるがままの事物を人間の何らかの目的のもと認識目的上重要な性質を把握するということであります。
なんらかの性質を本質だと呼ぶのは誤りでしょう。たとえば、みかん(秋なので使わせていただきます)はエネルギーの塊として認識することもできますが、みずみずしい甘すっぱい食物としても認識できます。原子の集積物としても見れますし、水分の塊でもあります。色、形もあります。農家から見れば収入源であります。どの性質が本質なのか。
無限の宇宙(この世界)において無目的(もしくは本質を探すという目的のもと)に「本質」をさがすことに意味はあるのか。
 客観的な本質を認めるということは目的論的宇宙観をとることに帰着します。したがって認められない、というのが反本質主義の解答になるでしょう。

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反本質主義と自然法の関係 投稿者:Σ 投稿日:10月28日(土)19時26分47秒

田中先生へ

一体全体、「反本質主義」とは何でしょうか?

「混同の誤謬」に陥らないために、「ポパーの反本質主義」と、「無神論的非実在論者の反本質主義」、この二者を峻別することを、提案させて頂きます。

「本質」など一切ない、という(存在論的な反本質主義の)主張は科学的事実命題とは言えない(未証明、又は証明不可)でしょうから、一種の「信念」と判断されるべきものでしょう。
(ちなみに、「無神論」自体も、科学的事実命題とは言えないので一種の「信念」と判断されるべきものだと言えましょう。)

仏教においては、「一切(存在)は無自性(実体・本質がない)」と主張する人々がおりますがその中には、本当に、「一切(存在)は非本質的構成物の(ランダムな)集まりでしかない」、という見解の人々がおります。このような人は、「反本質主義者」と言えるのかもしれません。
しかし、すべてが無常で、永遠に(というか、ここでは、始めも終りもなく、と主張する仏教徒は多い)転変し続けるとした場合、本質なしの永遠なる延々の転変が全くランダムに方向性もなく転変し続けるとしたならば、糸の切れた凧の如く、どのような展開になるか全く予測不能で、その無秩序的転変が実際に起こり続けるとしたら、何やら、感覚的な恐ろしさを感じるのは私だけでしょうか?
(恐らくこの感覚は、無際限なエントロピーの増大としてイメージされ、結局は崩壊全滅に向うのでは・・・という学的な、漠たる予想に基づくとも言えましょう。)

存在の転変に、法則性はないのでしょうか?
もし法則性が「ある」のならば、転変は、「一定の公理」に基づく展開、として位置づけることができるでしょう。つまり、立脚する公理を「本質」だと位置づけることができるので、反本質主義は崩壊します。
反対に、もし転変に如何なる法則性も見いだせないのならば、一体、その転変とは何なのでしょうか?

反本質主義者は、「一切に本質がないというのが本質だ」と主張するかもしれません。
反本質主義は法則性のない転変こそが転変の本質である、というかもしれません。
空見的な無自性論者は、「一切無自性こそ一切の本質だ」と臆面もなく主張します。
私のような中観派からすると、邪空一辺倒の空見論者と、極端な反本質主義者とは軌を同じくするもののように思われて仕方ありません。

公理に依らない転変世界にこそ我々は存在するのだ、と主張する反本質主義者は、人間の「主体的構成力」によって、「一切」に対して「相対的・一時的な付加価値」を与えて「意味づけ」し、「構成化・システム化」するのだ、と主張するでしょう。
つまり、本質とか公理とか、そうした「中核」をもたない、という意味で、「中心(絶対位置)を持たない相対論」を一切の本質だとするならば、−−−−そうした「(人工物でしかない)、人為的構築物」の流れの中に、「倫理」も「法」すらも、「人工的に構築されたもの」として「のみ」存在する、ということになります。
つまり、「自然法や普遍倫理」を否定するのが反本質主義者ということになります。

ところが、
「法体系」の大海で深い洞察をして「法哲学」という深海を旅すると、「法とは人工物のみ、と言い切ることは決してできない」という総合判断に到達することでしょう。この判断は無理のない論理的推論としても下されうる結論と言えるでしょう。
西洋社会(の社会形態)と西洋哲学では、自然法の存在の承認が大黒柱になっております。
一方、日本では自然法の観念が希薄なので、西洋かぶれ的に、安易に反本質主義を主張する場合、本当に薄っぺらな観念になってしまうことが予想されます。
ポパーなどの欧米学者が「反本質主義」を主張する場合、自然法をどう観念しているか、調査して、彼の反本質主義の深度を確かめる必要があると思います。(つまり、用語のみの安易な共感は誤謬を生む可能性に繋がるのでは? ということ)

調べてみると、ポパーは、自分は外部世界の存在を一度も疑ったことはないから「実存」を信じる立場であるが、「実在論」というのが「唯名論」と対立する言葉として用いられていることが問題であるとし、プラトンやアリストテレスの立場を「実在論」ではなく、「本質主義」と呼ぶことにしたのだ、ということです。(『果てしなき探究』)

わが敬愛する団藤重光教授もポパーと親交があり、ポパーの家にお邪魔した際、彼の書棚に哲学者「カント」の書籍があったのを目にしたことを叙述しておられます。
ポパーが実存を信じる、という場合、カントの「物自体」の措定に通じるものがあると思われます。
この点に、私は、私の好きな「ユダヤ人たちの系譜」を感じます。
(ということは、「本質的には」ポパーは反ヘーゲル論者ではない、ということを意味します。)

さて、仏教の中観派のことを、西洋哲学側の人が、「(存在論的)唯名論者(ノミナリスト)だ」と呼ぶことがあるようですが、単なる(存在論的)ノミナリストは、単なる一面主義でしかないので、「中」の観念が生じえません。ゆえに、「真の中観派」は単なるノミナリストではありえません。

ポパーの場合も、方法論的唯名論には立脚するかもしれませんが、存在論的唯名論に立脚しないことは明白であるわけで、そこら辺をしっかり把握し峻別することが重要だと思っています。

これまでのところから感じられるところでは、どうも、田中先生は、ご自身の立場として、「存在論的反本質主義」、的な主張をしておられるように思われるのですが・・・。

もっとも、ポパーと同じ立場である必要はないわけで・・・・この点、田中先生と深く議論を戦わせようという意図の書き込みではありません。(笑)
それでは。

壁|彡 sasasaッ
壁 |・・mu・・

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Re:Re:Re:観測選択効果 投稿者:φ 投稿日:10月28日(土)14時11分40秒

>スクラッチカードの問題の記述からはその条件が明らかでないです。
>たまたま当たったからベイズ推定をしたけど、
>当たらなかったらしないと解釈できます。
>それだと地球の話と同じになってしまいます。

これは別に心配ありません。たまたま当たったら「当たりが多い」というベイズ推定をし、たまたま外れたら「外れが多い」というベイズ推定をすればよい、というのは前回述べたとおり。私が街で実際スクラッチカードをもらって、たまたま当たったから、それをそのまま書いた、と解釈してください。もし外れていたら、外れた例として書いていただけのことです。結果がどっちに転んでも、ベイズ推定は成り立ち、それが仮説検定にとっては重要です。
 サンプリングする前にベイズ推定をすることが決まっていたという条件は不要です。当たりかどうか見てから、ベイズ推定をしてかまわないのです。サンプルがランダムでありさえすれば。
 譬え話ですから、端折って書いただけで、この「当たった場合だけでなく、外れた場合も同じ譬え話が成り立つ」というのは常識として普通理解されるでしょう。

 地球の場合はそうではありません。地球は「私たちの住む惑星」として定義されているからです。生命の存否と独立でない定義で決定されています。広い宇宙の中で、何%の惑星に生命が生じようと、生じた惑星の中から地球が選ばれているのです。よってもともとの「何%」に対する推定に使えません。
 結果がどちらに転んでも(生命が生じても生じなくても)ベイズ推定が成り立った、ということでないことにくれぐれも注意。なにせ地球はベイズ推定を始める現場ですから、生命存在が必須になっています。

 モンティ・ホール・ジレンマの場合は、司会者が当たりを開けてしまうとゲームが終わってしまい有意義なベイズ推定が成り立たなくなるので、スクラッチカードの場合とは違い、地球の場合と同じです。しかし現実にはドアの中から「当たり」が選ばれることが物理的にありうる(地球の場合と違って)ので、「司会者はドアの中を知っていて必ずハズレを選ぶ」という条件が付いているわけですね。

 なお、火星に微生物が発見されても、ランダムなサンプルとは認められないでしょう。地球とのあいだに隕石の行き来があるので。地球とは因果的にそのようなことが起こりえない惑星をランダムにピックアップして、もし生物がいたという場合のみ、「惑星には高い比率で生命が存在する」という推定ができます。

 サンプル数や初期分布については、それはあらゆる統計的推論に共通の問題なので、ここに特有の問題ではありません。正確さはともかく単に仮説の確証のためにはサンプルは1個で十分だし、初期分布はわかっている範囲で決めればよいので、わからなければ(本当に何もわからなければ)一様分布でいいでしょう。サンプル数や初期分布にこだわっても、観測選択効果に特有の問題にはなりません。pp.208-9では、あらゆる統計的推論に共通の問題を論じたわけではなく、論理的な教訓の濃い「選択効果」にしぼって論じていますし、サンプル数や初期分布は、観測選択効果に疑念を呈されたsubstructural logician さんのもともとの御批判とは関係ないでしょう。

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文章の訂正 投稿者:substructural logician 投稿日:10月28日(土)04時12分26秒

1回だけのサンプリングでベイズ推定をしているこれらの例を使ってランダム条件を説明するためには、
サンプリングする前にベイズ推定をすることが決まっていたという不自然な前提を置く必要があるので、
サンプル数や初期分布を先に問題にした方がすっきりするかなと思うわけです。

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Re:Re:観測選択効果 投稿者:substructural logician 投稿日:10月28日(土)04時00分10秒

ランダム条件の話には同意しますよ。
件の本のp.236にも書いてありますし、先ほどの発言はそれをふまえてのものだったんですが…

火星人が地球を調べた結果の生命がいる/いないでベイズ推定するのはランダム条件がみたされていますよね?
「いる」だけでなく「いない」と判明する可能性があり、かつどちらの場合にもベイズ推定を行うという
手続きがあらかじめ決められていたときに正しい結論が出せるということですね。

スクラッチカードの問題の記述からはその条件が明らかでないです。
たまたま当たったからベイズ推定をしたけど、当たらなかったらしないと解釈できます。
それだと地球の話と同じになってしまいます。
(モンティホールジレンマが紹介される場合にも
回答者がどのような選択をしようと司会者が箱を一つ開ける
という条件が省略されがちなのが困ったものですが)

1回だけのサンプリングでベイズ推定をしているこれらの例を使って
ランダム条件の必要性を説明するためには、
サンプリングのアルゴリズムがあらかじめ決まっている必要を言う必要があって煩雑になるので、
サンプル数や初期分布を先に問題にした方がすっきりするかなと思うわけです。

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Re:観測選択効果 投稿者:φ 投稿日:10月28日(土)02時35分20秒

 このテの確率的直観は、ランダムということの意味をはっきり見て取れるかどうかに依存するようですね。
 ランダムとは、デタラメという意味ではありません。注意深く選んだサンプルも、ランダムなサンプルでありえます。たとえば、「私」というサンプルは、自分自身としてあらかじめ特定されていますからランダムな選び方をされていないように見えますが、たとえば、「死因が交通事故かどうか」という性質についてはランダムなサンプルです。

 ランダムなサンプルというのは、「母集団内での分布を調べたい性質と、現に得られたサンプルが得られるかどうかとが独立である」ということです。独立でないと、当該サンプルは母集団内の性質の確率分布について不正確な推測をもたらします。そこを補正しなければなりません。

 >p.206の問題ではスクラッチカードが当たったという
>ランダムでないサンプルデータを使ってベイズ推定をしているのですか?

 p.206のスクラッチカードがあたるかどうかについて、「あなた」はランダムなサンプルです。当たれば、「当たりが多いのだろう」と推測し、外れれば、「ハズレが多いのだろう」と推測する。当たりか外れかはサンプルの選択のあとで初めてわかることで、「あなた」というサンプルが特定されたことは、当たりか外れかという、調べたい性質とは独立です。どちらもともに起こりうるのです。

 惑星という母集団の中で、地球というサンプルは、「生命を宿す」という性質についてランダムではありません。ある惑星が「地球である」と特定されるためには、そこに、観測者つまり生命が居なければならないからです。スクラッチカードの場合と異なり、地球は、生命がいる場合にのみ、サンプルとして選ばれます(観測選択効果)。「ここはハズレだ(生命がいない)」と判明するような選ばれかたは決してありえないのです。

 これは重要な違いですよ。

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観測選択効果 投稿者:substructural logician 投稿日:10月28日(土)02時03分47秒

> ベイズ的確証をするには、データは、ランダムなサンプルでなければなりません。生命の存否という性質に関して地球はランダムなサンプルではありませんから(この惑星に生命がいたからこそサンプルとして選ばれたので)、仮説@を支持するデータとしては役立ちません。事後確率は、事前確率と同じです。

ではなぜ、p.206の問題ではスクラッチカードが当たったというランダムでないサンプルデータを使ってベイズ推定をしているのですか?
本質的な違いはどこですか?

「地球は孤独ではない、生命はありふれている、いや文明だってたくさんある」という主張を批判したいなら、
ベイズ推定の弱点をついた方が良いのではないかと思いますが。

つまり、われわれが地球というサンプルしか知らないために
1. 事前確率には一様確率分布を仮定せざるを得ない
2. ベイズ改訂に使えるサンプル数が極端に少ない(1個だけ)
という制約があり、推定される事後確率は正解に収束しているとは考えにくい、
と反論するということです。

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訂正 投稿者:田中 投稿日:10月27日(金)18時39分37秒

 「意味論的に見ると、仮説演繹法自体は、妥当な演繹的推論なのであ」ります。
              ↓
 「意味論的に見ると、仮説を反証する仮説演繹法自体は、妥当な演繹的推論なのであ」ります。

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ラクシュンさまへ 投稿者:田中 投稿日:10月27日(金)18時35分15秒

 反証された仮説はすてなければなりません。

 この点について関連することが、三浦先生の「論理学入門」の56-57頁が非常にわかりやすく説明してありますが、観測する際、様々な不手際が起こる可能性があります。しかしそれは一言で言えば「語用論的失敗」であって、「意味論的に見ると、仮説演繹法自体は、妥当な演繹的推論なのであ」ります。

 語用論的失敗の可能性も考慮して、反証された仮説を捨てなければならないのは現場では常識でしょう。
 この点について触れずにただ仮説を捨てないほうがよいと批判・指摘する「科学者」や「科学哲学者」は退廃的な売文屋と評価できましょう。

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よくある誤謬 投稿者:田中 投稿日:10月27日(金)09時32分55秒

 反証主義と帰納推理は何ら排斥しあうものではない、ということを強く主張させていただきます。
 帰納から普遍法則を導けるということはない、と言っているだけです。
 帰納が科学という営為において大胆な進歩・発展のきっかけとなることは誰も否定しておりません。
 ポパーはよく誤りから学べと言いますが、このことが明白に示しているように批判的合理主義はまったく直観や帰納推理を否定してはおりません。
 ただ、強く主張し、そして、犯しがたい真理であると思われることは
 「帰納から普遍法則を導ける、ということは絶対にない」 ということであります。

 反証主義を方法論的唯名論や反本質主義と切り離して理解する、というのは根本的な誤りです。 わが国にそのあたりのことをうまく書いてある本はおそらく存在しません。
 科学者や科学哲学者が帰納と反証主義が排斥しあうという前提で論じる記述を読むのは、時間の誤用でありましょう。科学哲学入門書の類は読まないほうがよい、と断言してもよいでしょう。

 原著を読まなければなりません。

 私は三浦先生の人間原理という方法論とポパーの方法論を調和させて、誰も明確にしていない新たな方法論を構築させるべきであると思います。

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Re:ひどい 投稿者:φ 投稿日:10月27日(金)01時20分50秒

『論理学がわかる事典』ですか?
 pp.208-9の「観測選択効果」は、SETIの人たちをはじめ、科学者が自らはわかっていながら(わかってなかったら大変なことだ)、大衆に啓蒙活動するときはわざと知らないふりをして「地球は孤独ではない、生命はありふれている、いや文明だってたくさんある」的なことを言いふらしているので、私はつねづね困ったものだと思っています。おおかたの科学者は大衆をバカにしているのでしょうか。

 仮説@ ほとんどの惑星には生命がある
 仮説A ほとんどの惑星には生命がない
  (ほとんどの惑星の直接観測ができないので、@Aの事前確率は五分五分とします)

 地球という惑星に生命がある、というデータに条件づけた事後確率はどうなるでしょうか? 平凡の原理を無邪気に適用して、仮説@のほうが正しそうだとするのは間違いです。
 ベイズ的確証をするには、データは、ランダムなサンプルでなければなりません。生命の存否という性質に関して地球はランダムなサンプルではありませんから(この惑星に生命がいたからこそサンプルとして選ばれたので)、仮説@を支持するデータとしては役立ちません。事後確率は、事前確率と同じです。
 このあたりは、『ゼロからの論証』pp.137-8をご参照ください。

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ひどい 投稿者:substructural logician 投稿日:10月27日(金)00時00分5秒

着眼点はなかなか良いのだが、不正確な記述が散見される。
論理学の基礎の説明はおおむね正確で、自然言語と関連付けながら論理を説明していて好感が持てる。

問題はこの著者がよく理解していないことについても思いつくままにごちゃごちゃと書き連ねていることだ。
説明をわかりやすくするために正確性が多少失われているのなら許容できるのだがそうではない。

観測選択効果の話(p.208)なんかは特にひどい。
『1/2の確率でP1またはP2のどちらかが当たる確率として選択されるくじがあるとして、今あたりくじを引き当てたとする。そのときP1とP2のどちらが選択されている可能性が高いか』という問題が紹介されている。P2/P1倍だけ確率P2である可能性が高いというのは正しい。

次に、『惑星に生命が存在する確率がP1またはP2のどちらかだとして、今地球に生命が存在するとする。そのときP1とP2のどちらが正しいか』という問題が出されているのだが、今度はP1とP2それぞれが選ばれる確率が与えられていないので解きようがないのだが、人間が住んでいる地球がデータとして特異だから確率が偏ってしまい前の問題と同じ議論ができないとか書いている。

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ラクシュンさまへ 投稿者:田中 投稿日:10月24日(火)21時32分20秒

 念のために確認しておきますが、まじめに学問をしている人間で、だれか一人の高い評価を得ている理論家とまったく同じように考えようとする人は皆無に等しいでしょう。

 いやしくも哲学をするならば、そもそも、哲学者が言うことは間違いだらけだ、ということを常に肝に命じながら考察をせねばなりません。

 >>ポパーさんはこういう考え自体一切受け付けない人なんだそうです。>>

  真偽を確かめたいので経験分析可能な証拠を確かめたいです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月24日(火)20時53分33秒

 >>人間にはその「真知」があるかどうかすら解らないわけでしょう?>>

 それは、すでに明らかになっていることですよ。

 絶対・永遠の真知は「分析的」・形式的なもの(数学、論理学等)に限られ、「総合判断」の分野(実在世界についての実質的情報を含む命題に関して)について真知を問うならば、それは単なることばの問題ということになるでしょう。つまり、総合判断については、絶対的・最終的な真知はありません。

 >>「ある理論が反証のテストを無事に切り抜ければ、科学者は、ごく自然に、その理論はある程度確証されたとみなして、理論のもっともらしさやその主観確率が以前より増したと考えるだろう。もちろん、もっともらしさの度合は、実験の質や結果の意外性など付帯状況に依存する。」>>
 ポパーだろうがアインシュタインだろうが、上述のことを否定する人は、誤っているのは明白でしょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月24日(火)20時43分42秒

 ポパーの影響のもと社会的に高く評価される仕事をなさった人を挙げるとすれば、商売の世界でも学問の世界でも枚挙に暇がないのは周知の事実でありましょう。
 経験的にポパーの哲学は「役立つ哲学」です。

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(無題) 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月24日(火)20時36分23秒

> 実在認識を志向する文はすべて仮説であり、反証の試練に耐えたものが「理論」になります。
 その理論も仮説的性格を完全にぬぐえず、つねに反証される危険があります。
 だから「実在認識」に関するならば、絶対的な「真知」はえることができません。

考え方は解りますよ。

> 多くの哲学者が憧れた(憧れる)「真知」を手に入れることは原理的に不可能です。
 私たちが科学的真理と考えるものは、厳しい経験テストに生き残った「臆見 ドクサ」にほかなりません。

だと思いますよ。おそらくフッサール現象学もそれには反対しないでしょう。

> 確証と同義語でないと問題にすること自体がナンセンスですね。確証する必要性は全くないのです。
 反証理論について上に要約したことを味読することを希望します。

言いたいことは一応解るんだけど。

> 「実在認識」に関する絶対的な「真知」を得ることを否定したからと言って、客観的な法則の存在は全く否定していません。

哲学用語は難しいですけど、そういうことじゃないと思うんですよ。というか、人間にはその「真知」があるかどうかすら解らないわけでしょう?
で例えば、「ある理論が反証のテストを無事に切り抜ければ、科学者は、ごく自然に、その理論はある程度確証されたとみなして、理論のもっともらしさやその主観確率が以前より増したと考えるだろう。もちろん、もっともらしさの度合は、実験の質や結果の意外性など付帯状況に依存する。」、しかしポパーさんはこういう考え自体一切受け付けない人なんだそうです。
だったらはじめっから「法則」性すらも認めていないわけでしょう。

(´・ω・`)?。oO(なのに「確証」と「検証」とを使い分ける拘りって…確証と法則と真知は同義なのかぁ)
板のレベルを落としてしまうので、マジでではでは。
 |彡サッ

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反証理論 投稿者:田中 投稿日:10月24日(火)19時50分32秒

 実在認識の結果は文で言語的に表現されますが、その文は経験科学上の反証可能性を持たなければなりません。
 実在認識を志向する文はすべて仮説であり、反証の試練に耐えたものが「理論」になります。
 その理論も仮説的性格を完全にぬぐえず、つねに反証される危険があります。
 だから「実在認識」に関するならば、絶対的な「真知」はえることができません。
 多くの哲学者が憧れた(憧れる)「真知」を手に入れることは原理的に不可能です。
 私たちが科学的真理と考えるものは、厳しい経験テストに生き残った「臆見 ドクサ」にほかなりません。

 >>ある理論が反証のテストを切り抜けたとき、ポパーはその理論が「裏付けられた(または、検証された)(coraoborated)」といっているが、この言葉の意味は明らかではない。これは「確証」と同義語ではありえない。もし同義なら、帰納についてのポパーの葉反全体が無意味になってしまうからだ。>>

 確証と同義語でないと問題にすること自体がナンセンスですね。確証する必要性は全くないのです。
 反証理論について上に要約したことを味読することを希望します。

 >>「法則」そのもの存在?or意味?を根底から否定している人の主張が法則性についての何の論拠になるのかな、という疑問がチラッと頭を過ってしまうんですよ。>>

 「実在認識」に関する絶対的な「真知」を得ることを否定したからと言って、客観的な法則の存在は全く否定していません。

 そして、反証理論は方法論(科学法則ではなく)ですから、これに反証可能性を要求する必要はありません。
 採用するしないは自由なことです。役立たないと思うなら方法論として採用しなければよいでしょう。

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(無題) 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月24日(火)18時21分35秒

> そして、『「知」の欺瞞』という本はポストモダン批判という観点からは高く評価できるが、学術的観点からは、現代論理学、批判的合理主義の立場からはなんら新しい知見も得られない、ということを申し添えて置く。

そうなんですか? ポパーに対する本質的な批判もかなり含まれていたと思うんですけど。

いちいち引用はできませんけど
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(66)Stove(1982,p.48)にも同様の引用がある。ある理論が反証のテストを切り抜けたとき、ポパーはその理論が「裏付けられた(または、検証された)(coraoborated)」といっているが、この言葉の意味は明らかではない。これは「確証」と同義語ではありえない。もし同義なら、帰納についてのポパーの葉反全体が無意味になってしまうからだ。(…)
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(67) たとえば、ポパーは次のように書いている。「私が提案したこの境界設定の基準はまた、ヒュームの帰納の問題---自然法則の妥当性の問題--- の解決へ導くであろう。……すなわち、この反証の方法が必要とするのは、いかなる帰納的推論でもなく、ただその妥当性に疑問のない演繹的推論の同語反復的変形だけなのである。(…)」
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なんつーか、こういう記述を目にして漠然とイメージする図式は、「法則」≡□≡¬◇¬……∴(仮説演繹法=帰納的推論)⊃(▽仮説演繹法∨¬法則)、みたいな感じなんですけどねぇ。(´・ω・`)?
だとすれば、「法則」そのもの存在?or意味?を根底から否定している人の主張が法則性についての何の論拠になるのかな、という疑問がチラッと頭を過ってしまうんですよ。 あー素人はこれだから困るよなー、とか思われても大体普通の素人はこんなもんだと思いますよ(主観性に基づく帰納的推論)。

> @哲学を含めて学問の核心は真理の探求にあり、そのための必須条件の一つは知的廉直である。
> B学者は常に修正主義的な姿勢を貫かなければならない。

この規範はポパーさんにも当てはまるかも知れませんね。
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(70) ポパー自身、反証にまつわる曖昧さに完全に気づいていたことを強調しておこう。しかし、ポパーは「素朴な反証主義」の利点を活かしつつ、その欠点を補うような代替案を提案するには至っていないとわれわれは考える。
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まぁ所詮は素人の感想なので後は好きに言ってください。
では。
|彡サッ

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訂正 投稿者:田中 投稿日:10月23日(月)22時59分33秒

>>科学者、建設職人、一般人etc はそれぞれの認識目的・実践上の有用性を基礎に(認識対象を)扱うわけです。>>

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現代合理主義 投稿者:田中 投稿日:10月23日(月)22時05分0秒

 カルナプ、ヘンペン、ファイグル、ネーゲル、ラッセル、ポパー、トーピッチュ、アルバートなどの間の重要な差異にも関わらず共通に認められる、最大公約数的な立場を碧海純一は現代合理主義と呼んだ。その特徴は
 @哲学を含めて学問の核心は真理の探求にあり、そのための必須条件の一つは知的廉直である。
 A学問的認識の最大の特徴はその客観性にあり、それらを担保するものは合理的かつ即物的な議論と批判である。
 B学者は常に修正主義的な姿勢を貫かなければならない。
 C「合理論(直観主義)」と経験主義の独特の融合
 D言語分析の重視
 E合理主義そのものの限界と倫理的前提との自覚(19世紀的科学主義との峻別)

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ラクシュンさまへ 投稿者:田中 投稿日:10月23日(月)21時46分4秒

 本質主義的理解のもとでは不毛な議論をして貴重な時間・エネルギーを費やすことになるでしょう。
 「科学とは何か」みたいな問題提起を想起してください。これは用語(ことば)の問題に過ぎません。定義ならば原理的に真偽を問えませんし、経験分析・意味分析ならば真偽を問えます。この点を明確にせねばなりません。
 本質主義的に考えるということは概念で思考するということになりますが、明晰な思考の最小単位は文(命題)以外にありえません。

 事物を現象とか皮相と本質に分けて考えるのは、存在を2重化・3重化することになり、不要な語の誤った使用に基づいた誤った世界の見方を導くことになります。不要な存在はオッカムのかみそりをとぎすまして削除すべきです。
 世界は本質も現象も区別されず、ただあるがままにあるというのが正しい見方でしょう。
 たとえば、科学者、建設職人、一般人etc はそれぞれの認識目的・実践上の有用性を基礎に扱うわけです。
 認識対象がもっている豊かな諸性質は認識主体・認識状況によって重要度が異なるのですからその諸性質のどれかを本質として特別扱いすることは根本的に誤っているのです。

 客観的な本質などはなく、世界はただあるがままにあるということ(達観した見方)を明らかにしたことは高く評価されるべきでしょう。(ただし、本質主義批判はポパーが鮮明な形でしめしただけでほかの者も行ったことは改めて述べる必要はない)

 そして、『「知」の欺瞞』という本はポストモダン批判という観点からは高く評価できるが、学術的観点からは、現代論理学、批判的合理主義の立場からはなんら新しい知見も得られない、ということを申し添えて置く。

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ケチ付けるわけじゃないけど… 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月23日(月)18時38分39秒

ポパーか。 どちらかと言えば私はこれまで肯定的な印象をもっていたのですが、改めて『「知」の欺瞞』(p.83−97)などを読み返してみると、あまりパッとしない感じの人ですね。
大したことは言ってないというのか…。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月23日(月)09時14分33秒

>>外的表層だけを見る機能主義者に過ぎない、という評価になるほかありません>>

 外的表層や比較的明らかな存在を偶然的かつ単なる現象とし、「真の存在」は一般の凡人には隠された(天才や聖人にしか捕らえることのできない)最も真実の存在である、という価値付けをなさるならば、いわば真理は隠されたものであり、答えがたいものが真の存在であり、真理である、ということになりましょう。
 そのような考え方もありうるでしょう。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月23日(月)09時07分3秒

>>外的表層だけを見る機能主義者に過ぎない、という評価になるほかありません>>

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(無題) 投稿者:Transit 投稿日:10月23日(月)01時08分31秒

>「存在論」について「憶測をする自由」は確保されるべきでしょう。
その「自由」は当然、当該主張についての厳正な吟味検証の「自由」と対応すべきです。あらゆるドグマやタブーは破棄され無視されるべきでしょう。
>馬に乗っているのに、馬上の君は・・・。
この種のアポリアへの顛落は「存在論」の宿痾のように思われます。いわゆる「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を思い出します。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)23時27分59秒

 Σ先生へ
 >>「存在論」について「憶測をする自由」は確保されるべきでしょう。>>
 それはもちろんのことであり、私は一言も否定はしておりません。むしろ、Σ先生との対話において私たちは存在論に(言語を反省することにより)密接な関連のある実質的な議論をしてきたのであります。
 言語分析によって解決・解消できる問題・「疑似問題」はたくさんあることを常に自覚せねばなりません。

 水にしても何しても、それを観察することによって得られた結果は厳しい経験的・論理的テストに耐えてきたドクサにすぎないということを自覚すべきです。すなわち、絶対性・最終性を主張するべきでない、ということです。
 絶対性・最終性を認めるならば、進歩・発展はありえませんし、「仮象論理の連鎖的暴走・独走」に陥る可能性があるのは言うまでもありません。

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馬を知らない馬上の君 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)21時51分30秒

田中先生へ

これまで議論して参りましたが、結局、科学哲学の学者たるもの、存在論には手を出すな、ということに尽きるのでしょう。
確かに、「存在論」分野の思想においては、今後、あと千年経ようとも、「最終的に完全解明された明晰なる存在論」に到達することは不可能でしょう。そのようなものは永遠に不可能でしょう。
そういう意味では、「存在論に手を出すな」、という態度は一つの賢明な判断でしょう。

しかし、それにも拘らず、「存在論」について「憶測をする自由」は確保されるべきでしょう。
つまり、その自由について「非効率的」とか「貧困」とか「進歩の阻害要因」だなどと、一方的に罵られるべきものとは思われません。つまり、この点(存在論について考える自由)は、信教の自由に通じる人権ですらある、と主張致します。

「水の本質は何か?」
還元主義的に分析した結果、「水とは、酸素と水素の合成物である」、との見解がえられたわけです。こうした「還元主義的本質探究の方法論」は、センスが悪いと悪口雑言を浴びせられようとも、いつの時代にもその有効性が皆無になることはないでしょう。
「意味を賦与する精神活動の本質は何か?」
反本質主義者にとって、こうした問いをすること自体、センスが悪いし、そんなことは考えるべきではない題材だということになるのでしょう。
しかし、「精神活動をしているという既成事実」の上に乗って、意味賦与行為という思考規定行為があるわけです。思考規定行為は、概念形成作用であり、一種のクリエイティブな作用です。
仏教では「脚下を照顧せよ」という教えがありますが、「思惟規定行為をする創造的行為作用」それ自体について、無疑問・無批判のまま、外的事物に意味を賦与し続けること自体、灯台もと暗しと言えます。
仏教では、馬に乗っているのに、馬上の君は、その馬について何も知らない、とたとえられることがあります。

「思惟規定行為たる創造的行為作用の本質は何か?」
この問いこそ、センスが悪いと罵られようとも、哲学における、永遠の根本問題であり、
「灯台もと暗し状態」が嫌だと感じるすべての哲学的感性を持つ人々にとって、
存在論は、その本質に到達できる、できないは別にして、「考えざるをえないもの」であり、
その意味では、存在論的思考の中で苦慮する人々からすると、ポパー的な反本質主義に対しては、安全地帯でのうのうと、世渡り上手に生きている奸智に長けた、外的表層だけを見る機能主義者に過ぎない、という評価になるほかありません。
たとえ、それが存在論的思考の苦慮の中から吟ぜられるルサンチマン的なものであったとしても・・・。

但し、一部の天才にとっては、そうではありません。存在を看破した存在論的一切知者ということが古代から言い伝えられ、そうした「大賢者に到る出口」が苦慮の果てにはあるだろう、と、一般的哲学者は夢想するのです。聖者の存在は、そうした人々に夢を与える存在なのです。

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分析・総合 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)20時00分26秒

 私はカントの明晰な問題提起は高く評価しますが、絶対・永遠の真理はカントの言う意味での「分析的」・形式的なものに限られ、「総合判断」の分野(実在世界についての実質的情報を含む命題に関して)については、いかにすぐれた(アインシュタインだろうが)学説といえども絶対性・最終性を主張するべきでない、と考えます。
 現代科学の最上の理論であれ、それは基本的には厳しい経験的・論理的吟味に耐えてきた「臆見(ドクサ)」にすぎず、常に新しい発見によってひっくり返されるリスクを含んでます。役立てばそれでいいでしょう。
 しかし、この場合でも「客観性」を放棄しているわけではなく、この場合「客観性」とはポパーなどに言わせれば、事実と論理に基づくところの即物的でかつ間主観的な論議・批判の可能性にほかならず、権力に阿らず、事大主義に毒されず、いかなるタブーをも怖れないところの学問的態度であり、それは、一言で尽くすならば、知的廉直に帰一します。

 ラッセルは「科学は経験的・試行的・非独断的なものであり、確固不動の教義(ドグマ)はすべて非科学的であります」といいます(Bertrand Russell,Authority and Individual,Beacon edition,1960,pp.96-97.)。そしてポパーは自らの立場を「可謬主義」と称していますが、この修正主義・可謬主義的認識論は、決して客観的真理の探求可能性を否定するものではありません。
 むしろ、人間理性の不可謬性よりは、その自己矯正力への信頼を通じて、人間の認識能力を楽観主義的に見た立場だ、ということになります。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)18時04分30秒

 ラクシュンさまにお伝えしたことと関連しますが、「可能世界とは何か」、「虚構の本質とは何か」などの問題提起はまじめに現代論理学、科学哲学、分析哲学を勉強した者からみれば、センスの悪さを露呈している、と診断されるでしょう。

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ラクシュンさまへ 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)17時37分0秒

 >>だいたい「人間」が「理性的動物」として「決定=定義」されるなんてことがあり得るのですかね。というか、こんなことをイチイチ吟味することに何の意味があるんでしょうかね。「定義」であろうが"慣用句"であろうが"同値概念"であることには変わりない訳ですし。
つーか、このような厳密主義的な問題意識からすれば、「同義」の意味の「定義」(?)から必要になってきそうな気もします。>>

 人間の意味賦与行為を離れて言葉に「客観的意味」はありません。(社会的に勝手な意味で言葉を使用することが許されない場面・文脈があるのは言うまでもありませんが)
 したがって、「人間」という言葉で何を指そうが、それは(究極的には)個人の自由です。えらい人が言葉の意味を決めるのではなくて使う人が自由に意味賦与行為をなすのです。
 「人間」を例にしたのは例示にすぎず、特に深い意味はありません。「人間」を本格的に定義しようとしたら、本が何冊あっても足りず、事実上不可能であります。
 しかし、共通の話題を議論するために便宜的に定義をする必要がある場面があるのはご承知のとおりでありましょう。

 「Xの本質とは何か」などの不完全な問題提起は救いがたいほどの混迷をもたらします。われわれの認識が不完全であるという以上に、最初の問題提起が不完全であるならば、問題は解決しません。
 出発点において、問われているものが定義なのか、経験分析なのか、もしくは意味分析なのかが明示され、それに応じて明確な方法論的自覚のもとに議論が行われるならば、生じない問題があるのは明白なことであります。(無反省な言語使用のもとでは不要な問題が生じやすいのです)

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いずれにせよ 投稿者:Transit 投稿日:10月22日(日)17時28分9秒

形而上的諸命題には、批判的吟味追究対象として措定されたものという位置づけを与えておくのが適切な扱いであると考えます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)17時18分10秒

 >>アインシュタインによって、「物質の本質はその質量と光速度を自乗したものの積として換算されるエネルギーである」 と指摘された時、それは、同語反復的な左辺ではなかったのです。
たった1グラムの小石の本質とは、地球を破壊できるほどの爆発力をもったエネルギーがそこに固定化されているものだ、とする発見は、全く新しい見解であり、多くの人々を震撼させるに充分な発見だったのです。>>

 Σ先生、エネルギーを物質の「認識目的上重要な性質」という価値中立的な性質として認定することは全く正しいでしょう。しかし、それを「本質」という絶対的・形而上学的なものとして認めることは妥当ではない、ということになりましょう。(反本質主義の立場からは)

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差異における同一性 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)17時14分21秒

ラクシュンさまへ

そうですね。まさに、ヘーゲルは、異なる2つの間を比較して「差異がある」と言いえるためには、両者に共通性の基盤が必要だと分析しました。その共通性が差異における同一性であるわけです。
たとえば、男と女に違いを論じる場合、男女を分ける遺伝子部分以外が男女共通であるならば、その点において、男でも女でもない(分化していない共通性部分)としての「人間」としての同一性があってこそ、男女の差異が論じられる、というわけです。

もしも万一、一切のそうしたプラットホーム的な共通基盤的同一性がない場合、そもそもそうした2者については「比較不能」となる、とヘーゲルは考えたのです。

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E = m×cの2乗 の意味 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)17時07分15秒

田中先生へ

現代哲学の潮流として言語分析が主題になっているのは承知しております。
精密な議論をするには、いい加減な「道具」をいい加減に無自覚に使用すべきでないのは勿論なので、その点は、全く正当であると考えます。

さて、定義理論の問題に関して、私は、以下のものを本質主義の成果としての、
つまり、反本質主義に対する「反証」として提出したつもりなのですが・・・・。
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アインシュタインによって、「物質の本質はその質量と光速度を自乗したものの積として換算されるエネルギーである」 と指摘された時、それは、同語反復的な左辺ではなかったのです。
たった1グラムの小石の本質とは、地球を破壊できるほどの爆発力をもったエネルギーがそこに固定化されているものだ、とする発見は、全く新しい見解であり、多くの人々を震撼させるに充分な発見だったのです。
彼のこの著名な関係式について−−「唯名論的価値しかない定義に過ぎない」−−と判断し、無視でもしたら、失笑されてしまうことでしょうし、田中先生もそんな判断はなさらないことでしょう。
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総合判断か分析判断か、という二分法自体、実は、明晰なものか、疑問が呈されているわけですし、何が前者で何か後者かについても議論があるわけですから、一概に言えないのですが・・。
一つ言えることは、物質を単に表面的に分析しただけでは、「莫大なエネルギーの固定化されたものだ」とは、自明のものとして分析されることはないわけで、アインシュタインがどのような思考経路でどのような現象分析からこれを導出したか、物理学者なら精通していると思いますが、それが単なる「計算的展開行為」であったかどうか、考察が必要だと思います。
とまれ、この関係式は、物質に、「あらたな意味の付加」のように見えながら、その本質を看破している、ということになると思いますが、如何でしょうか?
唯名論的な定義の記号展開とは、異質のものだと了承して戴けるのでしょうか?

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(無題) 投稿者:ラクシュン 投稿日:10月22日(日)16時35分18秒

> 例えば、「人間は理性的動物である」という場合、この文が「『人間』という用語を『理性的動物』という用語と同義に用いることにしよう」という決定(定義)(定義ならば真偽は問えません)なのか、 「『人間』という用語で指示されている対象は動物であってかつ理性的である」という対象の性質についての主張(経験分析)なのか、
 「『人間』という用語と『理性的動物』という用語は同義に用いられている」という用語法についての叙述(意味分析)なのか、必ずしもはっきりしません。

すんません、これらの違いがよく理解できないのですが。
だいたい「人間」が「理性的動物」として「決定=定義」されるなんてことがあり得るのですかね。というか、こんなことをイチイチ吟味することに何の意味があるんでしょうかね。「定義」であろうが"慣用句"であろうが"同値概念"であることには変わりない訳ですし。
つーか、このような厳密主義的な問題意識からすれば、「同義」の意味の「定義」(?)から必要になってきそうな気もします。

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哲学 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)16時29分40秒

 Σ先生に以前エイヤーの引用を通じて一法律家に過ぎない私が思うところの哲学を仄めかしましたが、思うに、ラッセル、ポパーなどの「大物たち」や「哲学業界」の先生方の多く(ほとんど)が反対するでしょうが、学問としての哲学の本務は「言語の分析」、「役立つ方法論の構築」であるべきと考えます。(業界としてはつまらないでしょうが、社会、一般人、そして教育的観点からです)

 正直、テスト不能の形而上学の問題であるとしても、ポパーの心身問題に関する考察は疑問だらけですし、ラッセルの存在論も同様です。

 認識の学としての哲学は、初期の論理実証主義の方向性がやはり正しかったと考えます。彼らの検証に関する理論をポパーの反証可能性理論と交換させ、反形而上学でなく形而上学も認める寛容性が必要であると考えます。

 人間は所詮、世界認識をする場合において言葉なしには、明確な考えをすることができないのですから、言葉を合理的に整理することが、人生においてより良く、幸せに生きるために必要なのです。
 不正確な言語の使用に基づいて、無反省に「真理」や「本質」、「心と身体」の関係について抽象論を振りかざすのは無用の混乱を招き、有害と言っても過言ではありません。それは単なる言葉遊びに陥っているとは言えないか。

 学問としての哲学は「言語の使用の分析」と「役立つ方法論の構築」をすることにより、社会・科学の発展に貢献すべきである、と考えます。

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Σ氏の 投稿者:Transit 投稿日:10月22日(日)14時16分46秒

主張を、形式論理学段階での誤謬論法のカタログにトレースしてみるのも一興でしょうな。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)13時56分13秒

 >>「明晰な思考を促す論理や文章」が一方にあったとして、そのアンチテーゼとして、矛盾した晦渋な論理や「禅の公案」のようなワケのわからないもの があることについて、それを「悪」だと糾弾し愚論するのではなく、かえって、「そのおかげで〜」という相互依存関係で見るべきだと、私は主張致します。>>

 おっしゃる点について一面の真理があるのは否めません、
 しかし、たとえば、矛盾だらけの文をあやつり、虚無的、悲観主義的な感傷にふける「哲学」に私は全く感心できません。
 たとえば、ハイデガーは不死、無の不安、死の苦痛など「現存在の被没性、死に向う存在」こそ「生の真の意味」だとします。  ヤスパースは「本質的な意味で生きる」ためには危機のうちに生きねばならない、とします。換言すれば「破滅に直面せよ、そうすれば、あなたは生のスリルを感得するであろう」ということでしょう。「限界状況」すなわち実存と無の瀬戸際でのみわれわれは「真実に生きる」。「あなたは失敗を味わうことなくしては、生を味わうことはできない。あなた自身の滅亡を享受せよ」。

 これらは悪党の哲学と評価できましょう。つまり絶対的ニヒリズムは民衆の哲学ではありません。これらの哲学を主張するものは、理性を明渡してしまい、人間性を明渡してしまった秘教的な知識人とでもレッテルづけすべきでしょう。

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訂正 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)13時39分8秒

本屋にいって、哲学と銘うっているもの、社会・人文・自然関わらず、(それらを読めば)この点について無自覚なまま議論を進めているため不毛な議論をしているものが多いでしょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)13時37分0秒

 Σ先生へ

 >>田中先生は、カントの言うところ、「分析判断と総合判断」について考慮なさっておられず、誤解をなさっておられるように思います。>>

 唯名論定義と、上述の点は無関係であります。
 本質主義批判に立脚して定義理論の問題はすでに解決していたもの(数十年前に)と理解しておりましたが、わが国においてはその点について正しく・わかりやすく解説した科学哲学書・論理学書は見ません。(銘うっているものを読みましたが一冊も良書はありませんでした)
 現代論理学の立場からは、(本質主義でなく)関係の数学的考察からはじまる、というのは常識といって差し支えありません。

 C.G. Hempel,(ヘンペル)(Fundamentals of Concept Formation in Empirical Science)の定義理論によれば、まず、定義と定義に関する一見類似する2種類の文を峻別します。それらは事物説明(経験分析)と記号説明(意味分析)であり、混同を厳しく戒めます。
 「Xの本質は何か」というタイプの問題が万人を納得させたことはほとんどありません。
 このタイプの表現は多義的すぎるからです。

 例えば、「人間は理性的動物である」という場合、この文が「『人間』という用語を『理性的動物』という用語と同義に用いることにしよう」という決定(定義)(定義ならば真偽は問えません)なのか、
 「『人間』という用語で指示されている対象は動物であってかつ理性的である」という対象の性質についての主張(経験分析)なのか、
 「『人間』という用語と『理性的動物』という用語は同義に用いられている」という用語法についての叙述(意味分析)なのか、必ずしもはっきりしません。

 この点を区別しなければ、いくら議論をしても、永久に明確な答えがでないのは当たり前なのです。本屋にいって、哲学と銘うっているもの、社会・人文・自然関わらず、この点について無自覚なまま議論を進めているため不毛な議論をしているものが多いでしょう。

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大人の定義(無駄口として) 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)12時39分0秒

>>−−「大人の・・・」などという文句の持ち込みは、論理的真偽等の哲学的追究には何ら寄与しないナンセンスな無駄口です。対人論証の虚偽の一種でしょう。>>−−

ヘーゲル的な弁証法的バランス感覚を強く保持している人ほど大人である、というように、「大人」概念を暫定的に定義するならば・・・・
ヘーゲル的弁証法を嘲笑し裏全体主義を強く主張するポパーよりもヘーゲルの方が否定的なアンチテーゼを許容する「懐の深さ」があるという意味で、人間として、人格的に「大人ではなかろうか」−−−−
まあ、そんな程度の意味です。西郷ドンではないですが、度量が広いっちゅうか・・・。
まあ、まあ、無駄口かもしれませんし、ポパー・フリークの方々には申し訳ない発言かもしれませんね・・・。

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(無題) 投稿者:Transit 投稿日:10月22日(日)12時05分40秒

「大人の・・・」などという文句の持ち込みは、論理的真偽等の哲学的追究には何ら寄与しないナンセンスな無駄口です。
対人論証の虚偽の一種でしょう。

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誤記の訂正 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)11時58分20秒

(表現の誤記) アインシュタインによって、「物質の本質はその質量と光速度を自乗したものの積として換算されるエネルギーである」 と指摘された時、それは、同語反復的な左辺ではなかったのです。

(訂正)それは、同語反復的な右辺ではなかったのです。

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トートロジーと同一性判断と総合判断 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)11時56分9秒

田中先生へ

>>−−−「子犬とは若い犬である」という定義についての科学的見解は、「子犬とは何であるか」ではなく、「私たちは若い犬を何と呼ぶべきか」という問いに対する答えになります。「生命とは何であるか」や「重力とは何であるか」や「質量とは何であるか」等の問題提起は科学では何ら役割を演じません。>>−−−

田中先生は、カントの言うところ、「分析判断と総合判断」について考慮なさっておられず、誤解をなさっておられるように思います。

分析判断の場合には、主語と述語の間には、主語から同語反復的に導出される要素が述語で語られるだけですから、何ら新しい発見はありません。
しかし、総合判断と呼ばれるものの場合には、トートロジーだとは、結果的に後出しジャンケン的に言えるとしても、それがそのように「発見」された当時には、新しい発見なのです。

アインシュタインによって、「物質の本質はその質量と光速度を自乗したものの積として換算されるエネルギーである」 と指摘された時、それは、同語反復的な左辺ではなかったのです。
たった1グラムの小石の本質とは、地球を破壊できるほどの爆発力をもったエネルギーがそこに固定化されているものだ、とする発見は、全く新しい見解であり、多くの人々を震撼させるに充分な発見だったのです。
彼のこの著名な関係式について−−「唯名論的価値しかない定義に過ぎない」−−と判断し、無視でもしたら、失笑されてしまうことでしょうし、田中先生もそんな判断はなさらないことでしょう。

つまり、「これはトートロジーである」という判断は、「対置される二者(二辺)の同一性判断」に基づくものです。
しかし、その「同一性判断」がどのようになされるか、分析するならば、
所与の一辺から(所与の計算能力の範囲では)自明でない場合、それは「最初から同一である」との同一性判断は下されることがないので、そうして発見された新たな同一性関係については、総合的判断ということになります。

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法律家のバランス感覚 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)11時34分47秒

私が語って来たヘーゲルにおける「弁証法的態度」は、
おそらく、法律家であられる田中先生にも、必ず通じるであろう、と思っておりました。

なぜなら、法律家は、日々、法廷での「反対意見」との対峙によって、或いは、極端な法解釈との闘争や公益と私益との均衡の中での人権闘争などによって、「適正適性バランス」について「論理的に」常に考えておられる人々だからです。

ヘーゲルが語る「自由」概念は、法曹人にとっては、親近性があるものだと思います。
リーガル・マインドが、適正なバランス感覚によって主導される時、立派な法曹が育成されるのだと思います。
よき法律家となるためには、広い視野、(もっと言えば不偏中道的視野)が要求される所以でしょう。

以上、結論的には、ポパーよりもヘーゲルの方が視野においては、大人の態度である、と言えると思います。

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アンチテーゼと大人の態度 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)11時24分51秒

田中先生へ

ユダヤ人社会では、多数決の際、「全員一致」「満場一致」は無効になるという慣習があるそうです。批判票(批判意見)がない場合、客観的に善悪を測りがたい「不定状態」に陥ってしまうから、という理由です。ゆえに、一番よい多数決の決議とは、「一人の反対者がいる場合」だとされます。
実に賢い態度です。

ここにおける教訓とは、「客観性を保つにはアンチテーゼが必要だ」ということです。

「明晰な思考を促す論理や文章」が一方にあったとして、そのアンチテーゼとして、矛盾した晦渋な論理や「禅の公案」のようなワケのわからないもの があることについて、それを「悪」だと糾弾し愚論するのではなく、かえって、「そのおかげで〜」という相互依存関係で見るべきだと、私は主張致します。
ここに、「笑い」が生じ、自動車のハンドルの「遊び」のような余裕部分が「無用の用」として「機能する」ということになります。

アンチテーゼを「必要条件」として措定し、悪として排斥することなくかえって「その否定性を必要不可欠の要素」とするような、弁証法的態度こそ、真の包括的全体性への道だと言えましょうし、これこそが「大人の態度」だということになりましょう。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)11時19分56秒

 >>人間存在の多面性を考慮し、論理矛盾なき科学的思考だけが世を支配する、などと考えるべきではありません。幸福のあり方は多様です。>>

 >>そして勿論、キリスト教の本質とは? 仏教の本質とは? という意味での「本質」思考は大切です。
田中先生もポパーの思想の本質(核心)として、反本質主義を主張なさっておられるのでしょうから、その意味では、「本質(核心)主義」の立場での発言とも分析できるわけです。>>

 >>上で「反本質主義一辺倒はもう一つの全体主義だ」と指摘しましたが、自殺事例は、価値観が実利一辺倒になった世界観を持つ(或いは持たされたが)ゆえの悲劇とも言えましょう。>>

 まさに先生のおっしゃるとおりであり正しい分析であります。
 実利一辺倒の世界観は悲劇をもたらすことはありましょう。
 それを原理主義化せず、宗教・哲学・道徳・科学が諸バランスを保つということが大切だ、ということになるのでしょう。

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本質主義と現代科学 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)11時11分27秒

 本質主義的解釈は、定義を「標準的」に(左辺から右辺に)読みます。これに対して、現代科学においては定義は後から前へ(右辺から左辺へ)読まれねばなりません。定義は定義子からはじまり、それに対する貼り札にすぎないからです。

 したがって「子犬とは若い犬である」という定義についての科学的見解は、「子犬とは何であるか」ではなく、「私たちは若い犬を何と呼ぶべきか」という問いに対する答えになります。

 「生命とは何であるか」や「重力とは何であるか」や「質量とは何であるか」等の問題提起は科学では何ら役割を演じません。

 右辺から左辺というアプローチによって特徴づけられる科学的な定義の方法は、本質主義的解釈と対置して、定義の唯名論的解釈とでも呼ぶべきものでしょう。

 現代科学では唯名論的定義のみが略記的な記号や貼り札が長い表現を切り詰めるために導入されるのです。

 したがって、現代科学において定義は何ら重要な役割を担わないということであります。なぜなら、略記的記号は、常に長い表現(定義子)によって置換可能であり、略記的記号はそれを代表するにすぎないからです。

 私たちの科学的知識は、この語が適正に使用される意味でなら、すべての定義を排除しても全く影響を蒙りません。(唯一の影響は正確さではなく、簡便さを失うということです)。

 本質主義的定義はすべての知識が導出される原理ですから、すべての知識を含んでおり、短い式を長くするのに役立ちます。

 これに対して、科学的・唯名論的定義は、いかなる知識も、何ら「憶見」さえも含んでいません。それらは、新しい任意の速記的なラベルを導入するだけなのです。長い物語を短くするだけなのです。

ポパー 「開いた社会とその敵」 11章2節 参照

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多元的価値観と本質主義 投稿者:Σ 投稿日:10月22日(日)11時07分2秒

田中先生へ

>>−−そもそも何を基準としてこの区別を行うべきかという肝心のところで、本質主義は混乱に陥らざるを得ません>>−−−

まず端的に、「還元主義」によって探究して突き当たるものが「本質」である、という考え方がありますが、私は、大概の場合は、その定義でよい、と考えております。
「物質の本質はエネルギーである」というのも科学知識における一つの還元でしょう。
還元主義的な探究とは、「存在の発生面における因果関係の探索」ですから、実利的・功利的・機能的探究とは方向性が違います。それゆえ、縦軸にそれを採りました。

こうした方面での因果の科学的探究を「成果が貧困」と評価して、研究者がより成果があげやすい研究を・・、と思い、「学者としての功績を上げて出世するため」に、「より実りが多そうな分野や方面」に「当たりをつけて」舵を切るというのは、「賢明な態度」ですし、学者は自分の進路選択において、皆やっていることでしょう。
(釣り人が、魚が沢山いそうなポイントを攻略しようとするのと同様の行為でしょう。)

しかし、そうした「学者の進路選択」に適用される論理を、「学」全体に適用しようとするとか、ましてや、すべての本質主義的探究方向を「貧困」と断じ、「科学的進歩の妨げだ」と断じ、「その一切を排斥」し、亡ぼさん、とするような主張態度は、明らかに「行き過ぎ」であると思います。
つまり、それは、形を替えた(もう一つの裏)「全体主義」であり、一つの思想の強制による横暴だと言えましょう。全体主義を痛烈に批判する人は、往々にしてその裏としての裏全体主義の立場に陥ることがあります。
そうではなく、多元的価値観を認めるような、すべてをおおらかに包摂する態度が肝要です。

>>−−仕事や試験がうまくいかなくて、自ら命を絶つ人を私は見ています。>>−−

教育者として、田中先生が、そうした人を一人でもなくそうとし、救いたいと考え、実効性ある思考法を人に勧めるというのは理に合うことです。
しかし、「その人がどうして自殺するか」、と言えば、その自殺者は、「実利主義一辺倒の思考回路」になっており、それゆえに、それに適合できない自分を許容することができず、自殺という選択をしたのであろう、と考えられます。
「駄目なら他の道がある」と考えるだけの多元的価値観を教えられていないのです。

つまり、上で「反本質主義一辺倒はもう一つの全体主義だ」と指摘しましたが、自殺事例は、価値観が実利一辺倒になった世界観を持つ(或いは持たされたが)ゆえの悲劇とも言えましょう。
昨今、学校のいじめで生徒がまたも自殺し、その学校の先生が「いちごの等級」に類比して生徒を呼んでいじめに加担していたという事件がありました。
確かに、田中先生の仰るように 「いちごの等級」をあげるための方法論も大切でしょう。
しかし、教育者たるもの、成績や実利でよい成果をあげる方向だけで生徒を導き、そうした価値観だけで生徒たちを「測る」のは、根本的に間違いだと指摘しなければならないでしょう。
(参考−−「ねむの木学園」で三浦先生の著作などを教えることはそもそも無理です。しかし、彼らの可能性を伸ばす教育がそこでは立派になされ、成功も収めています。)

人間存在の多面性を考慮し、論理矛盾なき科学的思考だけが世を支配する、などと考えるべきではありません。幸福のあり方は多様です。社会の最下層の人々の生活の中に科学はあまりないかもしれません。しかしそこに小さな幸福がある場合もあるでしょう。禅寺の僧侶が存在の本質を求めて日々8時間坐禅し、他者からみれば、「無駄な居眠りに似たり」と思われたとしても、そして、事実、そうであったとしても(笑)、そうした無駄が許容されるべき価値観が大切なのだと私は主張したいと思います。
ここでは「無用の用」という東洋の智恵を主張したいと思います。

そして勿論、キリスト教の本質とは? 仏教の本質とは? という意味での「本質」思考は大切です。 田中先生もポパーの思想の本質(核心)として、反本質主義を主張なさっておられるのでしょうから、その意味では、「本質(核心)主義」の立場での発言とも分析できるわけです。
キリスト教の本質とは?  との疑問をもち、聖書を10回読んだら、キリスト教の本質は分かりますでしょうか?  実はそんなことは全然ありません。
簡単に言えば、「そんなに甘くはない」 のです。
ゆえに、キリスト教の本質探究を20年続けた人などで本当にわかった人に教えを乞い、教導を願うことで、できるだけはやく、その本質を学ぶという「効率性」のために、師弟関係があるわけです。
ヘーゲル哲学についても全く同様です。

ポパーがお笑い番組を見ながらヘーゲルの本を読んだか、ヘーゲルについての三流解説書を読んだかわかりませんが、とにかく、真剣にヘーゲルに向き合おうとしなかったことは明白です。
ヘーゲルについて深く理解する学者と交流をもって謙虚にまず教えを受けて理解したあとで、ヘーゲル批判をしてもらいたかったものです。

ヘーゲル在世時、ヘーゲルの授業は満員御礼状態だったとも聞きます。わかりやすく素晴らしい講義で大人気だったと。そうしたヘーゲルの肉声を伝える「講義録」が昨今、公にされ、そのわかりやすさから、ヘーゲル理解についても大きく変容して来ていることを申し添えておきます。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月22日(日)08時39分7秒

 Σ先生へ

 長年実務をやってる中で、思うのですが、三浦先生の「論理学入門」、「論理学がわかる事典」などを10回くらい読んで、参考文献を手がかりにして、さらに発展的に論理学を学び、ポパーの主張するような方法論を生かせば必ず人生に役立ちます。三浦先生のこれら2冊の本は丸暗記するくらいの価値があります。これら2冊は明晰な思考をするのを必ず助けてくれるでしょう。
 私が思うに、国家試験や入学試験、仕事、人生において必ず現代論理学は役立ちます。

 しかし、ヘーゲルは何度読んでも、人生に役立たせるのは難しいのではないか。
 この点で、実利主義的に考える点がΣ(碧海)先生から私がお叱りを受ける最大の点なのでしょう。役立たないどころか明晰な思考を妨げるように思われてならないのです。
 仕事や試験がうまくいかなくて、自ら命を絶つ人を私は見ています。暮らしに役立つことこそが知識の本道であると考えております。

 本質主義は、世界に関する科学的認識を進めるよりは、むしろそれを阻む方向に働いてきました。
 事物が持つ多様な諸性質のうちで、「本質的」(essential;wesentilich)なものと「非本質的」・「偶有的」(accidental;contingent)なものとの明確な区別が要求されます。しかし、そもそも何を基準としてこの区別を行うべきかという肝心のところで、本質主義は混乱に陥らざるを得ません。

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全体主義と自由の概念 投稿者:Σ 投稿日:10月21日(土)23時29分39秒

田中先生へ

ヘーゲルについて解説しているウェブ・ページの一つを紹介します。

V 歴史哲学
ヘーゲルは、絶対精神の本性を分析する過程で、歴史哲学や社会倫理学といったさまざまな哲学領域に重要な貢献をした。歴史に関していえば、おもに理性と自由について考察している。ヘーゲルによれば、「哲学が歴史の考察にたずさえていくただひとつの思想は、理性についての単純な思想、つまり、理性が世界を支配し、世界史は理性的に進行するという思想だけである」。理性的な過程としての歴史は、人間的自由の発展の記録である。

VI 倫理学と政治学
ヘーゲルの社会的・政治的見解は、道徳と社会倫理の議論において明らかにされる。道徳のレベルでは、正義は個人の意識の問題でしかない。だが、人間はこのレベルをこえて、社会倫理のレベルにすすまなければならない。というのも、ヘーゲルによれば、義務は本質的に個人的な判断の所産ではないからである。個人は、社会関係のうちにあるときのみ完全なものとなる。義務が真に存在しうる唯一の文脈は、社会的文脈である。ヘーゲルは、国家の成員であることを個人の最高の義務とみなす。国家は、倫理的精神の最高の表現である一般意志の体現である。この一般意志への服従は、自由な理性的個人の行為である。
ヘーゲルは保守的な人物だが、全体主義をみとめるわけではなく、国家による自由の制限は道徳的にうけいれがたいとも主張している。

http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20060419WeristHegel.htm

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あまりに当たり前のことですが、「全体主義者ヘーゲル」というタイトルは2チャンネルでもスレッドが立てられるぐらい、まあ、なんとも、ヘーゲルに関する「悪意に満ちた虚像の流布」であるわけですが、それに知らず知らずのうちに乗せられ加担してしまっているのは〜〜〜ポパーまでがそれだとは・・・〜〜〜「ああ、嘆かわしい」の一言です。

ヘーゲル最終講義の法哲学において、ヘーゲルは、「自由は最も内的なものであり、それ(自由)に基づいてこそ、精神世界の全構造が成立するのである」 と述べました。

ヘーゲル哲学の根幹に位置する「自由」概念の重要性を語らないまま、ただ単に、一部の言葉尻だけを引用して「全体主義だ」と決めつけて罵るが如きは、全く以て、人間として、厳に慎まなければならない態度でありましょう。

「悟性は規定し、またその規定に固執する」(ヘーゲル)

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哲学の本質と、本質主義の豊穣 投稿者:Σ 投稿日:10月21日(土)22時54分50秒

田中先生へ

●ヘーゲルは本当に、本来5〜6流の低級学者なのか?
ポパーは、ヘーゲルのような(矛盾だらけの頓珍漢で罪深いインチキ)学者は、プロイセン国家による庇護がなければ有名になることはなかったであろう、とまで言うわけですが、本当にそうでしょうか?  ヘーゲル学会のメンバーは、インチキ学者をありがたがって研究しているのでしょうか?
ヘーゲルの凄味は、真剣に彼の思想と対峙する時、対自的に、見えて来ることでしょう。
ヘーゲルが「反省論理学的なヒュポケイメノン」について論じる時、それは数学的な学として語っていることを その人は知ることでしょう。

●ヘーゲル弁証法について
ポパーは『開かれた社会とその敵』でのヘーゲル批判として、ヘーゲル弁証法を、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼの三肢的〜という三拍子ですべてが進歩し・・・というように、嘲笑的なニュアンスでそれを批判していますが、そのような「図式的三肢統合方式」としてヘーゲル弁証法を理解(誤解)されることこそ、ヘーゲルが最も嫌ったものであることは、既に申し上げましたでしょうか?
    (それとも、他の人との対話でしたか、失念しましたが・・・。)

●ポパーの反本質主義に対して一言。
アインシュタインが提示した同一運動系での静止物質と静止エネルギーの関係は
   E = mc2

で表されます。これは、「物質の本質は、エネルギーである」ことを意味しています。
ヘーゲルにおいては、その「エネルギーの本質は・・・」とまで論及するわけですが、それはうここでは置いておきますが、とまれ、「物質の本質がエネルギー」であるからこそ、今話題の、「核爆弾」が製造できるわけです。(つまり、ある程度は科学的に実証済み、と言えましょう。)
ポパーのような、「物質が何に役立つか」という表層的機能分析行為を永遠にいくら続けていても、アインシュタインのように、「物質の本質がエネルギーであること」を発見するには到らないことでしょう。
このように、本質主義で挑まねばならない事柄も実は多々あるのです。

田中先生は法律家ですから、法律が、極端な解釈を嫌い、多くの局面で、バランスを重視して、
「折衷的立場」が妥当であることが多い、(中道的と言ってもよい)と感じることは多いと思います。
そこで、
横軸(水平的・表層的・機能主義的分析)に、ポパーの反本質主義を採り
縦軸(垂直的・本質主義的分析)に、ヘーゲル的本質主義を採り、
両者を共に尊重するお立場に鞍替えなさると宜しいかと思いますが、如何でしょうか。

●ラッセルの「哲学」観について
 「論理学は哲学ではない」というラッセルの判断のことを、田中先生は引用なさって下さいましたが、哲学とは古来、「考えること一般」すなわち「全学問の父母」としての地位が与えられておりました。すなわち、哲学から論理学も科学もすべて派生流出するのだと考えるのが、古典的な哲学観であり、それを維持するのが相当だと思います。

 「超越論的」という用語があります−−−「その学の地平を離陸し超越的に俯瞰をすることは可能か? 或いは、その地平を離陸できずその地平にはかくかく然々の限界がある」という境界を明確にするための「論」が、「超越論的な考察」です。
 科学とは何か? 論理学とは何か?  その本質を探るという場合、
それは、科学や論理学を超越論的に考察することを意味します。
数学とは何か? こうした数学の本質を見極めるための、「超越論的なメタ数学」の見地からの考察により、ゲーデルは「不完全性定理」を発見し、各界に甚大な衝撃と影響を与えたのでした。
 このように「メタ〜」のレベルで「学」を考える時、実に大きな成果がある場合が多いのはよく知られていることであり、ポパーのいうように、「本質主義が貧困である」いうのは頓珍漢な言いがかりに過ぎませんし、ラッセルのように、哲学を「学」の片隅に押しやる(=哲学を矮小化する)が如き分類にも、全く以て同意致しかねる次第です。

 ちなみに、仏教も、存在の本質を見極める行為によって成立するのであり、機能分析によって彼岸に到れると仏教が説くことは未来永劫、決してありえません。

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歴史の自己への還流の有無 投稿者:Σ 投稿日:10月21日(土)22時02分55秒

田中先生へ

ポパーの『開かれた社会とその敵』におけるヘーゲル批判の部分、本屋の立ち読みレベルですが雑と目を通しました。(購入のつもりだったのですが「そこ」を見て購入を延期しました)
感想を述べるとすれば、「唖然・がっかり」というところです。実に残念でした。
ヘーゲル批判の「第四節」でしたか? ポパー自身、友人たちから「あなたはヘーゲルの偉大さを見る目がない」と指摘されたことを述べ、「それは正しい、なにしろ今に到るまでヘーゲルの偉大さを見い出すことは全くできないのだから」(大意)という書き方がなされていました。そして勿論、「自分なりに体系的にヘーゲルを勉強してみたが・・・無駄だった」(大意)というような口ぶりでした。
そうして、ヘーゲル批判を展開するわけですが、
ヘーゲルを知る人々からすると、ポパーの批判は、まるっきり、的外れで、頓珍漢です。
もし同時代人をこのように批判したら、「名誉棄損罪」で訴訟問題になってもおかしくない、というレベルの「低劣批判」のようにお見受けしました。

たとえて言えば、野球の投手がストライクゾーンに打ち返せない剛速球を投げ込んだつもりが、実は暴投のすっぽぬけであって、バックネット上部に当たって落ちた、というようなもので、打者としてのヘーゲル側としては、「はっ?」というだけで、打ち返すか否かすら問題にもならない、という感じで、「ただ唖然として見過ごすほかなし」、といったところです。

ヘーゲルはポパーよりずっと洞察力がある天才ですから、歴史問題についても、歴史の只中にあってその時間軸から離脱して過去の全歴史を俯瞰するような立場から歴史の普遍法則を述べる、というようなことが理に合わないことはよく承知していました。(ポパーが考えるほどヘーゲルはバカじゃありません)
ヘーゲルは、「精神には過去も未来もない、ただ今があるだけ」と述べ、仏教における「現在時に一切有がある」説と共通した立場で、論を展開するので
−−−−<<ヘーゲルは未来について語らない>>−−−というスタンスなのです。

(私は、弁証法的発展運動からの推論の一例として、「世界統一政府」樹立に向けた世界政治の趨勢が勃興し強まり、そして遂にそうなるだろうと語りましたが、そうした客観的趨勢については検証することが可能です。つまり、世界政府樹立への趨勢が勃興し強まって行くか、或いは反対に、それを消滅させる趨勢が強まって行くのか・・・・という対立する2つの政治的・思想的な力関係を「社会学的に」ウォッチして行くことで、それを「学」として研究することも可能です。ヘーゲルは主観と客観の統一としての「行動」を重視しましたから、「思想行動に基づく歴史的趨勢の分析」はヘーゲル哲学の守備範囲内とも言えます。)

さて、「ヘーゲルは未来を語らない」としたら、歴史について何をどう語るのでしょうか?
(1)歴史を把握するところの「理性」は「精神」(自己の精神)であること
(2)「現実的なものは理性的なものであり、理性的なものは現実的なものである」、というヘーゲルの著名な命題からして、「現在の状態」は、過去の歴史的推移の継承という歴史性を包含し、それに規定(制約)されていること(ヘーゲル的歴史主義)
(3)理性(=神)は世界を支配する (つまりすべてはロジカルであるということ)
 という、以上のヘーゲル思想の思考回路からすると、当然、
−−−<すべての歴史は「自己」へと還流して行く>−−−このように見るのです。

ヘーゲルは決して未来を語ることなく、「自己」を語るのです。
どういうことでしょうか?
ヘーゲルは、「自己」の弁証法的発展を語るのです。つまり、「歴史主義的」との表現が可能な、過去からの遺産継承的な「現在」は、それらの過去の遺産・遺物たる不完全さに「制約されている」がゆえに、歴史として還流し流れ込んで行く先である「自己」も、必然的に、そうした歴史的諸条件に「制約されざるをえない」という限界を持っている−−−とヘーゲルは分析します。
   〜〜たぶん、田中先生は、ここまでは「全く正当であります」と仰って戴けるものと思います。

しかし、そう(した被制約諸限界があるの)ではあるけれど、そうした「時代精神による制約」や「人種的、或いは部族的な諸特徴や諸思想、などに基づく諸制約」という「(一種の個別性たる)特殊性」は、弁証法的発展運動の見地から、徐々に脱皮・脱却される(べき)ものであること、
それであるから、
「歴史的・遺産的な諸特徴に基づく諸条件によって制約されざるをえない自己」が、弁証法的発展運動により、そうした諸々の被制約的諸条件を「段階的に廃棄」し「脱皮」し止揚されて行く時、「自己」はそうした時代精神などから自由になり、「普遍性」に到達し一体となる−−−すなわち「普遍的な自己精神=普遍精神」を顕現する−−−−と、大体、このように説くのです。

ゆえに、ヘーゲルを知る人たちにとっては周知のことですが、ポパーが痛烈に(暴投として的外れに、そして熱心に)批判する「ヘーゲルの歴史主義」というのは、「ヘーゲルの」歴史主義ではないのです。
では、どんな歴史主義なのでしょうか?
それは、ヘーゲルの死後以降の−−それも、ヘーゲルの歴史哲学の根幹をなすところの、「歴史の自己への還流」という意味での弁証法的発展運動による「普遍への運動」を、全く考慮しない、か、否定したところに生じる思想的立場によって唱えられたところの「歴史主義」(←これにはマルクス主義の影響もあるのでしょう)であるのです。 つまり、「自己」への還流を説かない歴史主義をポパーがいくら熱心に批判しても、所詮、藁人形論法であるに過ぎないことは明々白々ということになります。

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ポパーが念頭に置く忠告としての行文 投稿者:田中 投稿日:10月21日(土)10時47分52秒

 「一人の青年の知力を愚鈍にし、彼の頭脳をどんな種類の思想にも向かないようにしようと思うなら、彼にヘーゲルを読むことを勧めることほどそれに適したことはない。なぜなら、相互に打ち消し合い、相矛盾するこれらの怪物じみた言葉の堆積は精神を拷問にかけ、それらの言葉に関連づけて何かを考えようとする試みを無益なものにし、終には精神を全くの疲労困憊から虚脱させるからである。こうしてどんな思考能力も徹底的に破壊されるから、結局、青年は空虚で胡乱な饒舌を真実の思想と取り違えるだろう。後見人は、被後見人が自分の計画にとってあまりにも知的になりすぎるかもしれないと感じると、この災難を防ぐために、ヘーゲルを読むことを罪の意識もなしに勧めるのである」

 「現代全体主義のドクトリンによると、国家そのものが最高目的であるのではない、むしろ、最高目的は血であり、人民であり、人種である。より高等な人種は国家を創建する能力を所有する。人種または民族の最高目的は、自己保存の強力な道具として役立ちうる強力な国家の形成である。この教説は、ヘーゲルに帰せられるものである。彼は次のように書いていた。

 「民族の存在において、その実体的な目的は国家であること、またそのようなものとして自己を保存することである。国家を形成しなかった民族−単なる民族−は、厳密に言って、未開状態で存在した....単なる民族は民族と同じく、歴史を持っていない。民族にとっての出来事は....国家との関連でその本質的意義を持つのである」。

 このような国家は全体主義的であらざるをえない。こうした国家の権力は、人民の一切の活動に至るまで人民の生活全体に浸透し統制せざるをえないものである」

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ヘーゲル用語の基本 投稿者:Σ 投稿日:10月20日(金)22時16分46秒

ハンス・ライヘンバハの『科学的哲学の形成』におけるヘーゲルの引用、誠に有り難うございます。
とても、面白い部分の引用なので、少々、付言させて下さい。

 「神とは実体であり、また無限の力であり、その無限の質量は、自然及び精神生活のすべての根底に横たわる。神はさらに、その質量を運動せしめる無限の形相であり、あらゆる事物がその存在を引き出すところの実体である」
(訳注−へーゲルの「歴史哲学」の序論にでてくる文章です)。

このように、原文の「理性」を「神」に置き換えると、神の特性を述べている文章であることが明確になります。その「神」を「理性」と同値・同義語的に扱っていることで、神の特性として「理性神⇒理性精神⇒絶対(理性)精神」が想定されていることがわかるでしょう。
このように、ヘーゲル哲学においては、全編、「神の特性」が分析されているのです。

田中先生がポパーと一緒に猛反発なさるヘーゲルにおける「本質」という言葉も「概念」という言葉も、
ヘーゲルにおいては、これらに「神」という言葉を代入してもほぼ同じ意味になります。
本質は神であり、神が本質です。概念こそ神であり、神こそ概念です。

こうした「ヘーゲル用語の基本」がわかれば、彼の文章を読んで苛立つことはなくなるでしょう。
ライヘンバッハは、きっと、たぶん、間違いなく・・・無神論者だったのでしょうね。(笑)

ちなみに、上記の点を把握した上で、引用されたヘーゲルの言葉を読んだとしても、
ニュートンやアインシュタインのレベルであれば、苛立つことは全くなかったことでしょう−−−と言い添えておきます。(依って立つその人の立場によって、反応は異なるわけです。)

ゆえに、ヘーゲルを嘲笑するのは幼稚な無神論者だけであって、精神的・社会的・共同体における「大人(うし)」は、そのような低劣な嘲笑は決してしないことでしょう。
『ヘーゲル・大人のなりかた』 という本もあるようで、是非読みたいと思っております

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月20日(金)19時13分19秒

 >>単細胞生物から、現在の人類までの生物学的進化をみたとき、遺伝子構造の複雑化とその発展については科学的に叙述が可能です。その意味で、生物学的進化の最先端に位置する人間という生物は、「進化の歴史の結実体」なのです。
これを認めることは、すなわち、歴史主義でありましょうし、これを認めない人はいないでしょう。
まさに、受精卵から胎児への(生物の系統発生の過程を概括的に反復再現する)母体内での成長の過程そのものが、「歴史主義」を即自的に標榜し表現しているのであって、その事は何人も認めざるをえないだろうからです。>>

 上述のΣ先生のように、歴史主義をいうのであれば、それは問題なく正しいでしょう。
 ヘーゲルの見解からそのような結論がだせるかは別問題として、先生ご自身のご見解として正しいものとさせていただきます。

 問題は、「歴史の普遍法則」を認めることなのです。そんなものはない、または、あったとしても言語で表現不可能であるのです。

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Σ(碧海)先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月20日(金)11時06分5秒

 私は認識の問題に関してはカントの目指した「方向性」が妥当であると考えます。

 ラッセルのことばで私が非常に重要であると思うものがあります。
「哲学とみなされているものの90%は全くのうそであると私は主張します。唯一明確といえるのは論理学ですが、それは論理学ですから、哲学ではありません」

 テスト不能な形而上学的問題については、論理を用いてどのような結論でも導き出され得ると考えます。
 しかし、それは無駄ではなくて、形而上学的問題について考察することは、世界について認識を深め、広げてくれることは、三浦先生のおっしゃるとおり、犯しがたい真理であります。そして、科学的思考、論理的思考を涵養するには最適なトレーニングの一つでありましょう。

 私はそのうえでも、そして何をするにも「方法論」が最重要である、と信じます。
 「...とは何か」、 「...の本質とは何か」、 「真の...は何か」の類の問題提起はそれが、提出する未曾有の混乱の割には明らかに収穫が少ないのです。
 学問のみならず、商売・仕事をするうえでも、人付き合いをするうえでも、本質を追求をする、のではなく、「方法論的唯名論」が有益である、と信じます。

 Σ先生もおそらく、いや必ず、新しい電化製品等を買った時など分厚い説明書を読んで、それらの「本質」を見極めよう、などということはなさいませんでしょう。実際にそれらを使ってそれらがどんな働きをするかを知り、そして、それらを生活に役立たせるはずであります。
 これは卑近な例ですが、ほかのすべてのことについても当てはまる方法論である、と主張します。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月20日(金)09時31分27秒

 哲学を醒めた理性による世界認識の一環と見る立場からは伝統的思弁哲学における言語観にはあまりも問題が多すぎます。

 Richrd von Mises(フォン・ミーゼス)に言わせるならば、
 「伝統的哲学を実証科学とくらべると、その特徴は「事物の本質」、「内在的真理」、「精神化」などという特別につくられた、しかし定義できない漠然としたことばを用いることによって、困難な問題が解決されると信じるところにあります」。(R.V.Mises, Positivism, p34)

Ogden-Richards(オグデン=リチャーズ)はこう言います。
 「19世紀の哲学は観念論的な伝統によって支配されたが、その伝統においては荒唐無稽な記号体系(ヘーゲルの著作はその顕著な一例である)の構築が直接の研究とすりかえられ、関心の中心をなしていました」。(Ogden-Richards、The Meaning of Meaning,p34)
ハンス・ライヘンバハは「科学的哲学の形成」でヘーゲルを引用しながら次のように述べています。

 次の文章は、さる著名な哲学者からの抜粋である。
 「理性とは実体であり、また無限の力であり、その無限の質量は、自然及び精神生活のすべての根底に横たわる。理性はさらに、その質量を運動せしめる無限の形相であり、あらゆる事物がその存在を引き出すところの実体である」(訳注−へーゲルの「歴史哲学」の序論にでてくる文章です)。
 多くの読者は、この種の言語的産物に我慢ができず、それになんの意味も見出せないことから、そんな書物は火の中に投げ込んでしまいたいと思うだろう。このような感情的反応から理論的批判へ前進するためには、博物学者がカブトムシの珍しい標本を調べる時のような中立的観察者の態度で、いわゆる哲学的言語を研究することが必要となる。誤謬の分析は、言語の分析にはじまるのである。
 哲学を研究するひとびとは、通常は曖昧な表現方法に苛立ちはしない。かえって、はじめに引用したような文章を読むと、そのようなひとびとは、この文章を理解できないのは自分のせいだ、とおそらく考えるだろう。したがって、彼らは、幾度も幾度もそれを読んだあげく、なんだかわかったように思える状態に到達する。そうなれば彼らにとって、理性が無限の質量からできていて、その質量がすべての自然及び精神生活の底に横たわるのだから、理性はあらゆる事物の実体であるということが、まったく明白に見えることであろう。このようなものの言い方に慣らされてしまって、「教養」のより少ないひとびとなら言うであろうような文句をすべて忘れてしまったわけだ(市井三郎訳)。(H.Reichenbach,The Rise of Scientific Philosophy,pp3-4)

 そして、「他のどんな哲学よりも、ヘーゲルの体系は科学者と哲学者の分離に貢献した。それは哲学を嘲笑の対象と化し、科学者が哲学と手を切るように仕向けたのである」。(Ibid.,pp.72-73)

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ついでに 投稿者:Σ 投稿日:10月19日(木)22時07分40秒

プロイセン国家が、統治の道具として、ヘーゲル哲学を我田引水・牽強付会して歪曲的に利用したとしても、利用されたヘーゲルの責任ではありません。
また、そうした国家の策略を考えることなしに、プロイセン国家による歪曲版ヘーゲルを真のヘーゲル像だと真に受けてヘーゲルを批評し批判することも、厳に慎むべきであろう、と思います。

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すりかえの誤謬 投稿者:Σ 投稿日:10月19日(木)22時02分6秒

田中先生へ

ポパーは、歴史法則不可捉論を採りつつ、趨勢可捉論を唱えているようですね。

「しかしながら、趨勢というものが諸条件に依存することを見てとり、それらの条件を見出し、またそれらをあからさまに定式化しようとする人々については、どうであろうか? そのような人々には文句のつけようがない、というのがわたしの答えである。 それどころか、趨勢というものが生じてくることには疑いはありえないのであり、したがってわれわれは、できるかぎり立派に趨勢なるものを説明する、という困難な課題をもっている」(194頁)。

「できる限り立派に趨勢なるものを記述すること」−−−−これは科学的だという事ですね。

ヘーゲルにおいては、できる限り詳細に、「現象学的な見地からの『変化の推移』を叙述すること」−−が目的でした。
ヘーゲルの歴史主義とは、その本質を説明すると、たとえば、田中先生が母親の母体の中にいたとき、受精卵から人の胎児の形となるまでの成長過程において、「個体発生は系統発生をなぞり返す」という学者の観察通り、人類までの進化の過程が母体内で反復されるという、まさにそうした意味で、現在は、過去の歴史の集積体である、ということを指しています。
単細胞生物から、現在の人類までの生物学的進化をみたとき、遺伝子構造の複雑化とその発展については科学的に叙述が可能です。その意味で、生物学的進化の最先端に位置する人間という生物は、「進化の歴史の結実体」なのです。
これを認めることは、すなわち、歴史主義でありましょうし、これを認めない人はいないでしょう。
まさに、受精卵から胎児への(生物の系統発生の過程を概括的に反復再現する)母体内での成長の過程そのものが、「歴史主義」を即自的に標榜し表現しているのであって、その事は何人も認めざるをえないだろうからです。

ゆえに、ヘーゲルの歴史主義が部族主義そして、集団狂信主義に繋がるその元凶であることが多いという論は、その論の論理展開における途中部分で、とんでもない「すりかえの誤謬」を犯していることが伺われるように思われて仕方ありません。
つまり、藁人形論法による「濡れ衣」でありましょう。

ヘーゲルにおける「時代精神」とは、過去の人間史が歩んで来た過去の各時代の精神遍歴の紆余曲折の遺産の継承という意味での歴史的重みを内包した、「その時代の精神」を意味します。
たとえ、ある時代に何かの原因で、どこかの国に集団的狂信主義が吹き荒れたとしても、次の時代が来れば「次の時代精神」に移行していることでしょう。
時代精神が弁証法的発展運動により変化推移して行くことを叙述するヘーゲル哲学と、集団的狂信主義とは、何の関係もありません。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月19日(木)10時29分17秒

 >>普遍性とは、全体性を捨象・抽象するところに成立する概念です。捨象するとき、廃棄されるものがありますから、その点を指摘して「普遍史は書けない」というのは、正しい態度とは言えないと思います。>>

 普遍性を求める際に捨象・廃棄されるものが問題となります。

 世界の諸事実の可能的諸側面の無限の豊富さ・多様性により、すべての記述は選択的であります。したがって、選択的観点の回避は不可避であります。

 権力政治史、経済史、技術史等の場合には明確にある観点を提供します。

 しかし、歴史の「普遍法則」は、歴史にとってのいかなる選択原理も統一原理もそして、いかなる観点も明確に提供しません。この場合は「偉人の性格」とか「民族の性格」、「経済的諸条件」等ある意味では普遍法則に類似した観点が必要とされます。
 歴史の普遍法則のまやかしのもと記述された歴史(歴史家に対するヘーゲルの影響を想起してください)より、部族主義(ナチス、パレスチナ、そして北朝鮮等無数の例を想起してください)がおこります。歴史主義は集団的狂信の元凶であることが多いのです。

  「実際に生じたとおりの過去の歴史」は存在しえません。歴史解釈のみが存在します。

 >>ヘーゲルとともに有神論的歴史信仰をする者は歴史(権力史)を舞台(冗長なシェークスピア芝居)とみなすのであり、聴衆は「偉大な歴史上の人物」、もしくは抽象的人類をこの芝居の主人公と考えるのです。
 「誰が芝居を書いたのか?」と問い、「神」と答えれば彼らは敬虔な返答を与えていると考えるでしょう。しかし、これは涜神であります。なぜなら、芝居は将軍や独裁者の監督下の歴史学の教授によって書かれたのだから>>

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月19日(木)09時53分4秒

  >>普遍性とは、全体性を捨象・抽象するところに成立する概念です。捨象するとき、廃棄されるものがありますから、その点を指摘して「普遍史は書けない」というのは、正しい態度とは言えないと思います。>>

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表現の訂正 投稿者:Σ 投稿日:10月18日(水)22時07分53秒

(誤記)普遍性とは、全体性を捨象・抽象するところに成立する概念です。

(訂正)普遍性とは、個別具体性を捨象・抽象するところに成立する概念です。

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世界統一政府 投稿者:Σ 投稿日:10月18日(水)22時03分59秒

田中先生へ

>>−−−人類の普遍史はあるとしても記述不可能であり、そのようなものは主張するべきではないと考えます。それは不遜な態度であると考えます。>>−−−−

「普遍史的類型論」について、少々述べたいと思います。
ポパーは、ナチスドイツの全体主義を超絶的に嫌悪するがゆえに彼の一辺倒に偏った主張をするのでしょうが、彼のその嫌悪自体が、彼自身の心理的根底において「普遍史を肯定している」ことを充分に伺わせるものだと言えないでしょうか?
つまり、「全体主義反対! 開かれた平等社会のために!」という論を彼が打ち出さずに黙っているならば、再び、全体主義の悪夢に人類は脅かされるのではないのか・・・と心配でたまらないのではないでしょうか。
そうしたことを全然危惧していないならば、全体主義も一過性のもの、二度と反復しない一回性のものとして、安心して、時に身をゆだねて、批判もせず安心して放置しておくことができるはずです。
それができずに、粘着気質的に徹底的に全体主義を強烈に批判するのは、
「放っておくと、歴史はまた繰り返す」 という同じ轍を何度も踏むことになるやもしれない・・・、という一種の強迫観念のようなものを彼が強く抱いているからなのかもしれない、と感じられるのです。

『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で有名なマックス・ウェーバーは「普遍史的類型論」の方向性で論じたようですが、彼のように、資本主義全体の「運動」をプロテスタンティズムという切り口で解析するならば、資本主義のゆくえも、ある程度、予測できると考えたことでしょう。

そのような意味で、パワー・バランスについて考えてみましょう。
たとえば、日本という国で見てみると、戦国時代を経て信長・秀吉・家康で天下統一され統一的国家意志が出現するようになるわけですが、これは一つの「雛型」とみることができます。
ゆえに、現在の、地球上の、世界各国の群雄割拠の時代から、幾多の権力闘争を経て、やがては「世界統一政府」ができるであろう、という予言を、普遍史的類型論の見地から、私がしたとしたら、それは不遜な行為でしょうか?
私は必ず、遠い将来、地球上に世界政府が樹立するであろう、と予見しています。
(理由)絶対精神がもしも存在するならば、絶対精神はその捌(は)け口を求めて、より普遍的な国家意志を出現させる方向で、絶対精神自身が動き、各国の国家意志の衝突軋轢を通してそれを一段一段止揚して行き、各国の国家意志に内包される内的矛盾とその補正的運動によって、弁証法的発展運動を行ないながら、やがてより一層の普遍的国家意志を形成して行かないわけには行かない−−それは(絶対精神からすれば)必然的運動である−−−ということが、実存諸存在の「本質」の分析から結論されるからです。

普遍性とは、全体性を捨象・抽象するところに成立する概念です。捨象するとき、廃棄されるものがありますから、その点を指摘して「普遍史は書けない」というのは、正しい態度とは言えないと思います。なぜなら、弁証法においては、外縁を捨象しつつも内実は保存されるようなものが想定されているからです。
内実とは何でしょうか?  名もなき市井の江戸時代の一庶民の一生・・・彼の人生が江戸時代の文化・経済の一翼を縁の下の力持ちの一人として、しっかり担っていたことは充分想定してあげてよいことだと思います。
一人一人の、名もなき庶民の小さな望みは、積み重なって、やがて大きく結実します。 世界人類が平和で一つになりますように−−−−−。
この祈りは、必ずやがて実現するでしょう。
世界統一政府の出現により、国家間の戦争がなくなる日が来ることでしょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月18日(水)07時23分29秒

 「「総体性真理」に向う弁証法的な運動」としての「人類の普遍史」を措定する必要性があるにしても、その歴史はすべての人間の歴史でなければならない、と私は考えます。
 そして、ある者より重要な人間は存在しない以上、すべての人間の普遍史を記述することは、事実上不可能なのです。
 人間はひとりひとり、他人から偉人と評されようが、凡人と評されようが、、ひとりひとり、ドラマがあり、たったひとりの人間の人生史ですら、描くことは困難であります。
 極悪人といわれる者ですら、人に知れない、善行の歴史があることもあります。
 したがって、「人類の普遍史」なるものはあるとしても記述不可能であり、そのようなものを主張するべきでないと考えます。それは不遜な態度であると考えます。なかんずく、人道主義者(仏教徒の方々は正にそうであると考えます)は人間の価値は皆平等(問題を究極まで考えぬくならば)なのですから、なおさら、人類の具体的な歴史という意味での普遍史の如きものは存在しない、と考えるべき、と信じます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月18日(水)06時51分1秒

 Σ先生へ、
 私はポパーの考え方が前面的に正しいとは考えておりません。やはり、ヘーゲル的弁証法的解釈も真理を含んでいるように思われるからです。

 「しかし、「そうしたゴールの非存在」も証明不可であることが明白である以上、そうした究極ゴールを措定した上で、諸「現象・事象」について「逆算解釈法」を施して「見ること」もまた、一つの有力なオプションであると言えましょう。(そうした逆算行為から生み出される弁証法的諸解釈を、一括して「知識人の反逆罪」呼ばわりするならば、それは全くもって妥当とは言えないでしょう。」

 先生がおっしゃるとおり、弁証法的諸解釈を一括して「知識人の反逆罪」とよぶのは妥当でないと考えます。故意に人をたぶらかすのは別問題として、皆それこそ、それぞれの人生観・宇宙観をかけて、真摯に真理を追究するわけですから、真摯な知の営みを一括して「反逆罪」と呼ぶのは不当であると考えます。

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自力本願する宇宙? 投稿者:S・K 投稿日:10月17日(火)23時41分6秒

>仏教には果たしてそういうパワーはあるでしょうか?

 住んでる宇宙が違うのかも知れません。
 私なんか浄土真宗の家庭で育ったせいか、宇宙が膨張していると 言われても、なんで吸引されていると考えないんだろう、と疑問に 思うばかりです。車椅子の科学者が「宇宙の果てには膜がある」と 言ったそうで、ならば尚更バキュームされていると考えてみるべき ではないかと思うのですが…。ムラムラした思念を言語化できない だけで、それが多くの仏教徒の潜在感ではないでしょうか。

 キリスト教というのは矛盾した宗教で、創世譚など困ったときに だけ他力本願で論理を構築し、自然を含む他者に対しては、人間は 全能の神から全権を付託されたみたいな詭弁を使って、途端に自力 本願に変貌して振る舞う訳で、一貫性に欠けるというか、謙虚さに 欠けるというか、それがキリスト教の影響を大きく受けた現代科学 にも、如実に現われているように思います。

 ではIDとかシミュレーション・アーギュメントは、そうした矛盾 の現われに過ぎないかというと、三浦さんの仰る通りで、IDは矛盾 ですが、シミュレーション・アーギュメントについては、意識して 探したことがないので分かりませんが、仏教でも類似した説が三時 頃の説としてあるかもしれません。仏様の掌で…、なんていうのも あるぐらいですから。

 キリスト教の地獄は、諸宗教の中でも最も過酷なものだそうです。 何故かと言うと、輪廻がないために未来永劫、地獄の責め苦を受け 続けるからだそうで、あの人は大丈夫か、そう言えばあの人は、と 想起すると、あーおっとろしい、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。仏 教徒でいかったいかったです。まあ、宗教宗派を問わず、この世の 罪は、逮捕されなくてもこの世で償っておいた方がいいようです。

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究極ゴールからの逆算解釈法 投稿者:Σ 投稿日:10月17日(火)22時54分18秒

田中先生へ

ヘーゲルの弁証法運動における終点としての「総体性真理」は、「一切」を包括するものです。
心理主義、観念論、実証主義、現象主義、独我論・・・

何主義でも構いません。すべての対立する主義主張の差異や誤謬を乗り越えて、
それらをいちいち、そしてすべて止揚したところに、「究極の総体性真理」を夢想するのです。

たとえば、わかりやすい例として、もし火星人が存在した場合、火星人の歴史があるでしょう。そこに火星人種族の差異があるならば、種族ごとに群れた歴史もあるかもしれませんし、多種族混合での歴史もあるかもしれません。土星、木星などでも同様のことが言え、このことは、全宇宙における知的生命体(諸宇宙人)にも言えることになります。 このように、諸宇宙人たちの諸歴史−−それすらもヘーゲルにおいては、「総体性真理」に向う弁証法的な運動と捉える(解釈する)わけです。

火星人・木星人など(がいるとして、又は、他の銀河系でもよい、そうした)異なる惑星ごとにそこにいる知的生命体の種類も全く違うかもしれません。そこにどのような共通性(同一性)が見いだせるか、想像すらできないかもしれません。
しかし、それでも、そうした差異を止揚して、宇宙史が全体として発展するとしたならば、それは「究極の総体性真理」に向っての運動である、と夢想されるのです。

つまり、弁証法とは、「究極の総体性真理」から「逆算して、現在や過去を解釈する、という態度(逆算解釈法)なのです。

そうしたゴール(究極の総体性真理)など存在しない、というのが反論者の第一声でしょう。

しかし、「そうしたゴールの非存在」も証明不可であることが明白である以上、そうした究極ゴールを措定した上で、諸「現象・事象」について「逆算解釈法」を施して「見ること」もまた、一つの有力なオプションであると言えましょう。(つまり、ポパー的見方とは違って見えて来るということ、そしてそれでいながら、人類による「素数の発見」のように、「世界3」範疇のヘーゲル弁証法的歴史観として再発見される、ということになります。)
そうした逆算行為から生み出される弁証法的諸解釈を、一括して「知識人の反逆罪」呼ばわりするならば、それは全くもって妥当とは言えないでしょう。
そして、そうした見方を、詩的・文学的見方だとして一概に笑うべきでも唾棄すべきものでもないでしょう。
そしてまた、単なる決定論と決めつけるべきものでもないでしょう。なぜなら、全宇宙史の究極彼岸の、全宇宙的・一切存在的総体性真理がどのようなものなのか、卑小なる人間には推測すら全くできない状況においては、歴史推移について非決定論的価値場を採るのと、さして変わらない、とも言えるからです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月17日(火)11時01分6秒

 三浦先生が正当にも「可能世界の哲学」の冒頭で分析哲学の特徴としてご指摘されているように、私は「歴史」は学問の中でそれほど重視すべきでないと考えます。

 一見知的廉直性に欠けるのですが、明らかに、「人類の普遍的歴史」なるものは実際は存在しないのですから。
 「ラッセルのパラドックス」で飯田氏の見解の根本的ともいえる誤謬を正しくご指摘されたように、言語の私秘性が社会性よりも基本的である、ということはポパーの厳しい批判の対象である「歴史主義」についての一連の考察、そして同じく厳しい批判の対象である「本質主義」と密接不可分の関連があると私は考えております。

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Re:被措定有=プロトタイプID 投稿者:φ 投稿日:10月17日(火)02時25分30秒

 インテリジェント・デザインがまるでダメなのは、「還元主義」に真っ向対立していながら、正当化する論理を提示しないことです。「意図」「計画」のような心理的性質は、脳のような物質が生成して初めて生ずるという圧倒的証拠があるのに、頭ごなしで究極の説明に「神の計画」を据えてしまう。究極の説明ではなく暫定的なメカニズムとして知的生命のコンピュータ操作を置くシミュレーション・アーギュメントは還元主義を保っており、IDとは大違いです。

 私は人間原理をやっている関係上、隣接分野と誤解されるIDはずいぶん読みましたが、かなりまともな議論をしているかと思ったら肝心のところで「神」で終わり、という例があまりに多い。いま読んでいるのは
God, The Multiverse, And Everything: Modern Cosmology And The Argument From Design
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0754651169/ref=sr_11_1/250-1042020-3693808?ie=UTF8
ですが、ズッコケまくりです。ただし、8割はまともな議論(ベイズ主義、人間原理、究極理論の可能性……)で構成されており、ツッコミどころへの批判を考えるという活用ができて重宝ではあります。
 唯一、IDの根拠として新味ある証拠を出してきたのは
The Privileged Planet: How Our Place in the Cosmos Is Designed for Discovery http://www.amazon.co.jp/gp/product/0895260654/ref=sr_11_1/250-1042020-3693808?ie=UTF8
苦肉の策ながら、反論に値する面白い考えを出しています。

IDは全くのエセ科学なのですが、その議論の情熱にはほとほと感心させられるところがあり、真面目に反論するところから結構新たな展望が開けてきたりします。  つまり、ダブルスタンダードとしてではなく、まだまだ宗教は科学を内部から突き動かしている。キリスト教が近現代科学を駆動してきたという伝統は、21世紀にも続いてゆくのかもしれません。仏教には果たしてそういうパワーはあるでしょうか?

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月17日(火)00時23分54秒

 「ポパーが世界を三元的に区分して、世界1・世界2・世界3相互の関係性について解説して相互機能と総体的機能について語る時(参考・松岡正剛さんの既に紹介した書評にもこの三元世界について図式化されたものが載っています)、実は、ポパーは、世界の本質について、そのようなシステムとして理解し提示しているわけです。世界とはこのような本質的システムになっている、と。」

  ポパーは世界を3つにわけて考えていても、基底的なものは世界1と生涯一貫して考えていました。彼は一貫して「実在論(現実の世界があり、知識の問題はこの世界をいかにして発見するかという私の確信)」。
 そして一貫して、心理主義、観念論、実証主義、現象主義、独我論、これらすべては彼がまじめに取り上げるのを拒否した見解であり、これらをまじめに扱うことは「知識人の一種の反逆罪」であり「真の問題に費やされるべき時間の誤用」であると明言しています。

 「UNENDED QUEST」 「果てしなき探求」の15章参照

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歴史主義 投稿者:田中 投稿日:10月17日(火)00時06分55秒

 次のポパーの文章は歴史主義についての理解を助けてくれます。
 「開かれた社会とその敵」25章4節より

 「人類の具体的な歴史という意味での普遍史の如きものは本当に存在しないのでしょうか。そのようなものは存在しません。
 これがすべての人道主義者、特にキリスト教徒の返答でなければならない、と私は信じます。
 人類の具体的な歴史は、もしそのようなものがあるとすれば、すべての人間の歴史でなければなりません。それは、すべての人間の希望、闘争、苦しみの歴史でなければならないでしょう。なぜなら、ある者より重要な人間は存在しないからです。
 明らかに、このような具体的な歴史を書くことはできません。われわれは、捨象しなければならないし、無視し、そして、選択しなければなりません。しかし、だからこそ、われわれは多種多様な歴史に到達するのであります。なかんずく、人類の歴史と喧伝されてきた国際的犯罪と大量虐殺の歴史に到達するのです。.....
権力政治が歴史の核とされてきた理由の一つは、権力者が崇拝されるのを望んだのであり、そして彼らの願望を強制できたということであります。
 あまたの歴史家が、皇帝や将軍そして独裁者の監督下に著述したのであります。」

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被措定有=プロトタイプID 投稿者:Σ 投稿日:10月16日(月)21時23分42秒

田中先生や三浦先生へ

既に引用したポパーの言葉
>>−−−私は誰が最初の倫理的立法者であったかを問わない。私はただ、示唆されたある道徳法則を採用したり拒絶したりすることに対して責任があるのはわれわれであり、またわれわれのみであるこおと、真の予言者と偽の予言者を区別しなければならないのはわれわれであることを主張するだけである。(p.78)>>−−−

からも伺われるのですが、結局は、「自己責任で識別せよ」ということが彼の主張でしょう。至極当たり前のことです。
田中先生のお言葉に
>>−−そして、真の本質かどうか実は不確かなものを真の本質と喧伝して、人類文明全体に強いるということは厳に慎まなければなりません。>>−−−

ここで、「人類全体に強いる」とはどういうことでしょうか?  イスラム教のことでしょうか。それならばよく分かります。しかし、ヘーゲルは自分の哲学を他者に強いることはしません。キリスト教も正しい宗派は決して人々にキリストの教えを強制はしません。イエズスは自説を人々に強制しないために黙々と十字架について、自分を信じたい者だけが信じるようにという一つのオプションを示したのですから。

ポパーが世界を三元的に区分して、世界1・世界2・世界3相互の関係性について解説して相互機能と総体的機能について語る時(参考・松岡正剛さんの既に紹介した書評にもこの三元世界について図式化されたものが載っています)、実は、ポパーは、世界の本質について、そのようなシステムとして理解し提示しているわけです。世界とはこのような本質的システムになっている、と。
恐らくは、客観的本質について不可知の立場を採りつつ(←この点、カントが「物自体は認識不可能」と述べる立場に限りなく近似しましょう)、客観的実在的システムについては解明可能、という立場なのかもしれません。

ヘーゲルにおいては一切存在は「被措定有」と呼ばれます。つまり「存在とは規定されたもの」と見るのです。意図的・意識的にインテリデェント・デザイン(ID)により規定されたもの、と見るわけです。たとえば新宿の高層ビルディングを見て、風雨がコンクリートを作り長い年月をかけて偶然性が無数多重に積み重なって奇跡的にそのような緻密な構造の高層ビルディングとして出現したのだ、とそのビルを分析する人は、まずいないでしょう。そのように分析したら、その人の知性が問われるでしょう。
同様に、森羅万象の「存在」の構造について観察した時、「単なる多重偶然性の産物」と見る見方を受け入れがたいと感じる人にとって、一つのオプションとして、「何らかの知的意識主体により規定されたものとしてそこに出現し存在する」と考えること自体は、似而非科学とは言えないでしょう。
ゆえに、「諸存在即被措定有」と考えるオプションを、(人に強いるものとしてではなく)、そうした選択肢を示しておくことは、「単なる多重偶然性の産物説」のアンチテーゼとして極めて有意義だと、私などは考えるのです。

三浦教授は、IDは怠惰な思考停止だと評価なさるでしょう。確かに、インチキな教説が沢山付加されたIDであればそうでしょうが、しかし、純粋に、出発点として、「諸存在即被措定有」 と考えるプロトタイプIDであれば、それは怠惰な思考停止には陥らないと思います。
前述の、「科学と宗教のダブル・スタンダード」に立つならば、その限りにおいて、この道も一つの極めて有力な論理展開の方向だと思われます。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月15日(日)23時38分23秒

 まず前提として私はポパー、ヘーゲル、ラッセルに限らずいかなる「頭がよい」と目される人の思想でも、まるごと全部、自分(私やΣ先生、そして人類全員)の思想ないし哲学として採用するべきでないと考えていることを述べさせていただきます(彼らの思想は完全ではなく、いうまでもなく誤りもたくさん含まれているからです。)。
 私は人間の歴史は学者(社会科学)がいうのと異なり、文明の盛衰や戦争等(大きな事件等)ではなく、それぞれの人間の日常こそが人間の歴史であると考えます。そして人の思想はそれぞれ独自であるべきと考えます。

 「たとえば、「あの男は本質的に臆病者だ」という語用法があります。その延長で、森羅万象や人類の歴史を観察して、そこに何らかの同一性を発見した時、その本質を指摘する、という表現になります。ヘーゲルにおいては、「絶対精神の自己表現的リーラ(遊戯)」として世界を見るのです。そこに本質を洞察した、ということです。反証可能性の問題は別にしても。
そうした態度を「断固拒否する」のがポパーであるのでしょうか?」

 Σ(碧海)先生が正当にご指摘なさるように、やはり、人類の歴史の観察を通じて、何らかの同一性を発見したとき、本質を指摘するというのは日常的に正しい表現であると考えます。
 しかし、「本質」があるという意味をたとえば、地球文明が滅亡した後、すなわち、一人たりとも事物に意味賦与行為を為す者がいない状況下でも万物(それが物理的であれ、精神的であれ)に存在するような普遍的な「本質」という意味での「本質」を把握するにはどうしたらよいのでしょうか。
われわれ人類がもつ手段としては「本質観照」や「反省」等しかない、ということになりましょう。
 しかし、それらが真の「本質」かどうかは「原理的」に確証できません。人間の生き方としては無駄ではないが、報われない努力に一生を費やす、ということになるでしょう。そして、真の本質かどうか実は不確かなものを真の本質と喧伝して、人類文明全体に強いるということは厳に慎まなければなりません。
 したがって、客観的な本質を求めるのではなく、われわれが、認識目的上・実践上重要な性質を追求すべきでしょう。そして、そのような観点から森羅万象や歴史を観察するべき、と私は考えます。

 「「本質」概念を語るには「表層・唯名・現象」概念が必要であり、「表層・唯名・現象」概念を語るにも「本質」概念が必要になります。
そういう意味で、「そんなものはない」と言うその言い方で、それを認めているのだ、とヘーゲルなら言うでしょう。」
 この文脈で本質について言明するならば、上記の考え方はそれがΣ先生のものであれヘーゲルのものであれ妥当であると考えます。

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否定による肯定 投稿者:Σ 投稿日:10月15日(日)22時56分15秒

田中先生へ

>>−−とりあえず、邦訳の「開いた社会とその敵」でもよいので味読されて、「本質主義」、「合理主義」、「方法論的唯名論」、「歴史主義」、「人種主義」、「思弁哲学」、「形而上学」についてよく読む、そして、ヘーゲルに対する彼の厳しい批判を読んでから、私のわら人形論法を指摘してください>>−−−

了解致しました。昔、パラパラと斜め読みした時にはヘーゲルについて無知な時だったのでポパーのヘーゲル批判も目に留まりませんでしたし、「20世紀における社会思想の書物のなかで最も重要なものの一つ」(碧海純一)と言われるわけですから、よく味読すべきですね。
近々、よく味読したいと思います。

ただ一点、田中先生はヘーゲルの「本質」という言葉を誤解なさっておられるかもしれないと思うのです。既にヘーゲルの「本質」とは同一性と不可分、と申しましたが、たとえば「どのような運動をするか」ということを観察するのは同様です。誰かの行動を観察しその全行動の中に「ある共通性というか同一性」を見いだした時に、たとえば、「あの男は本質的に臆病者だ」という語用法があります。その延長で、森羅万象や人類の歴史を観察して、そこに何らかの同一性を発見した時、その本質を指摘する、という表現になります。ヘーゲルにおいては、「絶対精神の自己表現的リーラ(遊戯)」として世界を見るのです。そこに本質を洞察した、ということです。反証可能性の問題は別にしても。
そうした態度を「断固拒否する」のがポパーであるのでしょうか?

ヘーゲルにおいては、主観と客観が一元的に理解されますから、「客観的本質」という見方はありません。

>>−−ポパ−自身は明確に本質唾棄的です。>>−−−

「世界3」としての「客観的感覚の知識」を論じる時に、本質唾棄的態度を貫いては「世界3」を語ることはできないでしょう。そういう意味で、ポパーがそれほど単純な本質唾棄論者だとは考えられないという私の感想を含ませました。

確かに、ポパーは、
>>−−「民主制」が「真実には」または「本質的には」何を意味するのかを発見しようとするどんな試みをも筋違いのものとして拒絶しよう。(pp.129-130)

>>−−−私の反本質主義的立場についての最初のかなり広範囲におよぶ解説と、唯名論的または観察主義的ではないところの反本質主義の最初の言明・・・『開かれた社会』はヴィトゲンシュタインの『論考』に対するいくつかの批判を含んでいる。(下巻p.27)

>>−−私は倫理法則が、この意味では人間が作ったものだと考えることが、それらは神によってわれわれに与えられたのだとする宗教的見解と両立しないとは認めたくない。歴史的には、すべての倫理は疑いもなく宗教とともに始まる。だが私はいま、歴史的問題を扱うのではない。私は誰が最初の倫理的立法者であったかを問わない。私はただ、示唆されたある道徳法則を採用したり拒絶したりすることに対して責任があるのはわれわれであり、またわれわれのみであるこおと、真の予言者と偽の予言者を区別しなければならないのはわれわれであることを主張するだけである。(p.78)

などの言葉を述べていますが、ヘーゲルにおいては、仏教の龍樹の「相依性」概念と共通のものが採用されています。すなわち、たとえば、「有限」概念は「無限」概念なしには成立しない。有限とは、無限の否定として規定され、無限は有限の否定として規定される、というように。
これと同様に、本質唾棄論を展開する時すら、「本質」概念を語るには「表層・唯名・現象」概念が必要であり、「表層・唯名・現象」概念を語るにも「本質」概念が必要になります。
そういう意味で、「そんなものはない」と言うその言い方で、それを認めているのだ、とヘーゲルなら言うでしょう。

また、ポパーがナチス・ドイツをユダヤ人特有の感性で超絶的に嫌悪し、その流れでヘーゲル哲学をも批判している傾向が認められるならば、ポパーの「否定の剣のふるいすぎ」であり誤謬ということになります。
キリスト教精神は上の権威を神が立てたものとして尊重し従うように教えつつ、その実、その正反対の教えも含むのです。
イエズスが黙って十字架にかかりながらも、生前痛烈にファリサイ派学者たちを批判したのはその顕れです。アメリカがイギリスから独立したのも、上の権威に反抗してのことですが、米国の独立宣言を見ればキリスト教信仰に基づく自由が標榜されています。
矛盾言説を取り扱うヘーゲル哲学の深遠がポパーに理解できないとしても、それは仕方ありません。
たとえば、インドの宗教的土壌では、両親は神さま(の代理または神そのもの)と思って親に従いなさい、と子供に教育します。そうした教育を「全体主義に通じるから宜しくない」と批判するならば、随分極端な見解だという批判が出るでしょう。ヘーゲル哲学についてのポパーの批判もこれと同様のことが言えるような気がする・・・と、一応、このように予測しながら、楽しみに味読したいと思います。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月15日(日)20時33分52秒

 「ユダヤ系の思想家(哲人)の多くは、「宗教と科学を如何に明確に峻別するか?」に意を注ぐのであり、その峻別は宗教の否定を含むものではありません。
そこにはむしろ、宗教の範囲を明確にする、という意図があるのです。」

 とおっしゃりますが、まず、私は宗教についてはΣ先生との対話においては否定も肯定もしてはないのですが。また、私のような考えは宗教と認識の学を明確に峻別することにつながります。
 そして、このこととも関連しますが、

 「「宗教(や形而上学)は麻薬のようなもの」と決めつける唯物論的一元論で反証可能性があるものだけを信奉する立場をとると、必ず、破綻してしまいます。ソ連が破綻したように。。」

 「ソ連が崩壊したのは唯物論的一元論で反証可能性があるものだけを信奉する立場をと」ったのではなく、破綻した最大の原因は国家の宣託的な指導のもとで国家が運営されて、市民に自由がなかったというのが崩壊の最大要因の一つでありましょう。

 そしてさらに、

 私は一言も「唯物論的一元論」などは主張しておりません。ただ、明確に(例えばヘーゲル)たった一人の人間の託宣的世界観に文明社会がしたがわなければならない、という必然性はない、と考えておるだけです。

 「本質唾棄的「実証科学的真実」一辺倒論者でもないわけです。」についてですが、この命題の趣旨が不明確なのですが、ポパ−自身は明確に本質唾棄的です。

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投稿者:田中 投稿日:10月15日(日)17時16分29秒

 わが国の「知識人」の方々はポパ−についての理解が浅い、ないしは、まったくないことを常に痛感しております。
 「開かれた社会とその敵」のはしがきを引用させていただきます。

 本書の中で人類の知的指導者たちのうちでも最も偉大な人たちの幾人かについて厳しい言葉が語られているにしても、私の動機は彼らを軽視したいと言う願望ではないつもりである。それはむしろわれわれの文明を存続させるべきであるとするならば、偉大な人々への服従の習慣を打ち破らなければならない、という私の確信に由来するものである。
 偉大な人々はまた、巨大な誤りを犯すかもしれない。過去の最大の指導者たちの幾人かは自由と理性に対する間断ない攻撃を支持したのであった。
 彼らの影響力は、めったに挑戦をうけることがないままに、文明の擁護を担うべき人々を誤らせ、また分裂させつづけている....その一部の批判をいやがることにより、全体の破壊を助長することになりかねないのである。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月15日(日)16時43分59秒

 本質主義についてはPopper:The Open Society and its Enemies,Princeton University Press,を味読されることを期待します。  本質主義について理解するにはポパーがいうところの「方法論的唯名論」を理解されるのがよいでしょう。方法論的唯名論者は決して「エネルギーとは何か」、「運動とは何か」、「原子とは何か」という問いが物理学にとって重要であるとは考えず、「太陽のエネルギーはどうすれば役立てることができるか」、「惑星はどのような運動をするか」、「いかなる状況で原子は光を放射するか」というような問いを重要視します。
 「何であるか」という問いに答える以前には「いかに」という問いに対して正確な答えを望めないと主張する哲学者たちに対しては、方法論的唯名論者の方法によって達成できる控えめな厳密性のほうが本質主義者の見かけ倒しの混乱よりはるかに好ましいことを指摘することになります。

 ユダヤやらキリストやら西洋の本質主義、東洋の相対主義というのはポパーが厳しく批判するところの「人種主義」に関連する物事の考察方法のあたります。ポパーに賛同するか否か別として、そのような観点から中心的に物事を捉えるというのは価値が低いと評価せざるをえません。

 とりあえず、邦訳の「開いた社会とその敵」でもよいので味読されて、「本質主義」、「合理主義」、「方法論的唯名論」、「歴史主義」、「人種主義」、「思弁哲学」、「形而上学」についてよく読む、そして、ヘーゲルに対する彼の厳しい批判を読んでから、私のわら人形論法を指摘してください。

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宗教/科学というダブル・スタンダード 投稿者:Σ 投稿日:10月15日(日)10時05分47秒

田中先生へ

Ayerやポパーを引くまでもなく、それ以前から、ヘーゲル批判としては、キルケゴールやニーチェなどにより、「本質」を想定することは間違いだと主張する流れがあります。これを「事実存在次元に集約する一元論」的考え方と呼ぶこともできるかもしれません。しかしそれすら、結局は、人間意識の「実存という事実」について目をそむけることはできず「その本質」の考察と対峙さぜるをえないことになります。そうしたことをよくお考え戴ければ・・と思います。

また、唯物論的一元論に立ちながら実証科学を信奉するのも一つの立場ですが、それ一辺倒に執着すると、その「突出したアンバランス」のゆえに、かつての東大左翼系知識人に対して世間が浴びせる批判的眼差しと同様のものから免れることは決してできないでしょう。

田中先生の次のご指摘
>>−−−人間の意味賦与行為をはなれて、事象自体に固有の「客観的意味」や「本質」があるとするならば>>−−−

まさに、「そこ」です。「人間の意味賦与行為」は人間精神の営為であり実存問題に直結します。
一方、「事象自体に固有の客観的意味や本質」を認めるというのは、いわゆる悪名高き「二分法」の所産です。カントは物自体と現象の二分法を立ててヘーゲルから痛烈に批判されましたが、そもそも「客観」とは何か? その「本質」が考察されなければなりません。
そうすると、それすら人間の主体的精神による「意味賦与行為」と不可分であることが明らかになって行くことでしょう。
ゆえに、田中先生が「本質否定論」で主張なさる「批判対象」がズレているため、藁人形論法になっているわけです。

それにもう一点、ポパーもまた偉大なユダヤ人の系譜に数えられる哲人であるわけですから、彼の言説の一部だけを分離抽出して勝手に援用すると、ポパーの思想の「本質」が換骨奪胎されてしまう可能性があります。
実際、田中先生のご主張の流れの中で援用されるポパーは、当然のことながらポパーの一部でしかありませんし、その部分に彼の主張の「核心」があるわけでもありません。 言い換えれば、ポパーは唯物論者では有り得ませんし、本質唾棄的「実証科学的真実」一辺倒論者でもないわけです。
ユダヤ系の思想家(哲人)の多くは、「宗教と科学を如何に明確に峻別するか?」に意を注ぐのであり、その峻別は宗教の否定を含むものではありません。
そこにはむしろ、宗教の範囲を明確にする、という意図があるのです。
ウィトゲンシュタインにおいても「語りえないもの」について「語りえるもの」の限界に迫ることで、その境界を明確化したい(「語りえぬもの」を裏面的・補集合的に語りたい)という意図がありました。
以下に紹介する、ウィトゲンシュタインの「倫理は論理で語れない」という主旨の講演(「倫理学講話」)は、倫理や宗教を否定する論では有り得ず、むしろ、論理的言語体系とは異なる公理系の存在を峻別しつつ(ある意味、積極的に)認容する、という態度であるわけです。
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_lec_et_jp.html

昔、長谷部先生とケルゼンについて対話した時もポパーの話が出ました。
ベートーベンの第九の音楽は、どこに存在するか? 楽譜の中に? 音楽ディスクの中に? 或いは、人の頭の中に?
ポパーは第三世界に存在するという、と。
私見では、ポパーによる「世界三元、区分法」は、「本質」を廃棄した区分法ではないと思います。
『自我と脳』(ポパーとエクルズ共著)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1059.html
上の書評で、松岡さんがいみじくも、次のように自分の書評を締めくくっています。
>>−−−−しかし本書を読んだころのぼくにとっては、これでも充分だった。なぜなら少なくとも、次の4つの考え方をきっぱりゴミ箱に捨てる気になったからである。
(1)万物は世界1である(2)万物は世界2の投影である(3)万物は世界3でしか議論できない(4)万物は世界1でも世界2でも世界3でもあらわせない>>−−−−

ポパーが「世界3」もまた客観的実在であると証明しようとする営為は、田中先生のお立場とは大きく異なると思われます。

以上より、結局、次のようなことが明らかになります。

「宗教(や形而上学)は麻薬のようなもの」と決めつける唯物論的一元論で反証可能性があるものだけを信奉する立場をとると、必ず、破綻してしまいます。ソ連が破綻したように。。
なぜか?
世界存在における事物(物質)の存在自体が−−そもそも科学にとっても神秘なのであり、それを神秘と感じる人間精神の存在自体−−−は更に一層、神秘だからです。
この二種の神秘が神秘であり続ける限り、唯物論的一元論で反証可能性があるものだけを信奉する立場は、常に、それらの神秘によって限界付けられているのであり、制限された狭い世界観であることが間接証明されていることになるからです。
にも拘らず、形而上学的思弁を一切排除・排斥して、唯物論的一元論で反証可能性があるものだけを信奉する立場で「世界存在全体を一元的に説明しきれる」とするならば、そうした態度については、ヘーゲルが鋭利に批判する彼の方式に倣うなら−−−
「(あなた方のそれは)科学や形式論理学を、矛盾が起こらないように無理やり悟性の意志で形而上学化しているのであり、そうした無茶な形而上学化という(形而上学の)次元貶め行為により、具体・具象的諸関係性を捨象抽象しすぎて単純化・図式化し過ぎてしまうがゆえ、そうした思想はレイムダック化してしまう(のであり、それこそが人間悟性の愚挙なのである)」−−−ということになります。

ゆえに、以上の論の締めくくりとしては、偉大な科学者二人を挙げれば充分だと思います。

ニュートンもアインシュタインも、既存の宗派の教義に懐疑的であったわけですが、それでも自分なりの「神」の概念を抱き、その意味で(個人的な)宗教を信奉していました。
しかし、物理や数学の方程式への信奉もまた抱いておりました。つまり、この二人は、科学と宗教を峻別しつつ両者を信奉するという「ダブル・スタンダード」の立場を採ることで、「人間としての総体的な叡智」を体現していたのでした。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月14日(土)23時37分53秒

 Σ(碧海先生へ)、
 私は違法性の本質でも刑罰の本質でもは本質を「客観的な本質」という意味ならば、そのようなものは認識不可能(認識する方法が不明)であり、発想法自体が誤っていると考えます。

 人間の意味賦与行為をはなれて、事象自体に固有の「客観的意味」や「本質」があるとするならば、問題を徹底的に考えぬくならば、何らかの形の「目的論的宇宙観」に還元されざるをえないことになり、究極的には一種の擬人的発想法に立脚することになります。このような宇宙観は学に真摯な態度をとるならば、故意には採用できない宇宙観であります。

 しかし、本質を客観的な本質という意味でなく、認識目的上有用もしくは実践上有用な性質という絶対的・形而上学的意味でない意味で使うならば、正に社会的に有用性が認められます。
 そして、その認識目的上・実践上有用な性質を措定する任務に就いておられるのが刑法学の先生方でしょう。

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ゼロからの論証 投稿者:Σ 投稿日:10月14日(土)21時59分35秒

【補記】
そういう意味で、「否定的統一」として解析・理解されるところのヘーゲルにおける「0(無)」、まさに、ここからヘーゲル論理学は展開されるのです。
そういう意味で、「ヘーゲル論理学」とは、ヘーゲル版「ゼロからの論証」と呼びえる哲学であることは間違いないことでしょう。

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ヘーゲルの否定的統一 投稿者:Σ 投稿日:10月14日(土)20時25分51秒

田中先生へ

一、「ヘーゲル思想には諸所問題がある」についての返答

(1)弁証法の捉え方の立場の差異

  >>−−−端的にその本に書かれていることが実証的に正しいか、そして、役立つかという観点から読むのがよいのではないかと考えます。>>−−

科学的・実証的な見地から、ヘーゲルの(歴史や法や自然)哲学を「把握しよう」とするならば、そうした態度こそが、典型的に、「誤解を招くスタンス」だということになります。
なぜなら、ヘーゲル自身、説明のために「弁証法的運動の形式」を叙述したわけですが、そうした弁証法が「図式化」されて「切取り分離された形」で理解(誤解)され、弁証法が事象に対する「外部からの適用」として観念されることこそ、ヘーゲルが一番嫌ったことだからです。
ヘーゲル弁証法は、事物の運動や変化の「結果」についてのものでは決してないのです。
ヘーゲル弁証法は、事物の運動や変化そのもの−−その内奥・本質における「鼓動・生命・主体・精神」の運動・変化の法則として叙述されているのです。
なお、だからと言ってマルクスが批判するような「主観的観念論」に留まるものでもないのです。
ゆえに、科学的・実証的見地からの批判は、永遠に「外的批判」に留まるため、本質(の)批判になっておらず−−−換言すると、外的なものを観察した結果をみた上での結果論的な(レイムダック的)表象レベルの批判に過ぎないため−−−つまり、ヘーゲル弁証法はそうしたものとは「次元が異なる」ゆえに「そうした批判は当たらない」ということになります。

(2)中核と派生、どちらを重視するかという差異について

ヘーゲル学会の『ヘーゲル哲学研究』 第十一号
【巻頭言】ヘーゲル像を虚像から実像へ…日本ヘーゲル学会代表理事 加藤尚武… 3 というのがあります。いずれ内容を見たいと思いますが、巷間流布している「ヘーゲルの虚像」の誤謬を正して行くことは必要なことだと思います。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/hegel_jp/magazin/2005.htm

さて、ヘーゲル哲学において、歴史や自然を哲学するのは体系の一貫性を示すため「かなり広い範囲に手を出し過ぎ」て無理をしているきらいがあることは否めませんし、「手を広げ過ぎ」という意味で、それらは、ヘーゲル哲学のいわば「派生部分」と評価できます。
ゆえに、そうした派生部分について、実証に耐えうる厳密な論理性を求めるのは酷なことだと思っています。
どんな人間でも不完全な部分はあります。確かに、ヘーゲル哲学の派生的部分についてはご指摘のような難点が多々ある、ということについては、別段、認めることにいささかも吝かではありません。
−−確かに、難点はある。しかし、そうした部分は、「瑣末なもの」に過ぎない、と見るのがヘーゲル・フリークなのです。−−(愛情の有無と言えば、わかりやすいでしょうか)

見られるべき部分、見られ「なければならない」部分は、派生的瑣末な部分の難点ではなく、
ヘーゲル哲学の「中核部分」としての、彼の『論理学』についてです。
この中核部分について、もしも、それが単なる文学的・詩的表現に留まるとすれば、ご不満・ご批判は尤もだということになります。
しかし、そういうことはないでありましょう。

形式論理学においては、「0」は「無」でしかなく、そこには何の生産性もありません。
形式論理学においては、相反する「矛盾」がある場合、それは無意味であり、(忌避されるべき)無である、という「扱い」になるのが常道です。なぜなら、そのように扱わないと、「なんでもあり」を許すことになって形式論理学自体が崩壊してしまうからです。(タブー化)
しかし、ヘーゲル論理学においては、「0」は単なる「無」ではありません。
プラス(+)とマイナス(−)によって、互いに互いを否定する状態としての、「否定的統一」としての「0」と解釈されるのです。
この解釈に対して、田中先生は、「それは文学的・詩的なものに留まる」とか「認識意味はない」と評価なさるのでしょうか。
たとえば、民法における「相殺」概念を是非よくお考え下さい。
或いは、たとえば、一千万円の貯金がある状態で、その銀行から一千万円の借り入れをした場合、その日、その瞬間における「貸借均衡」状態が、「無一文」とは全く異なる現象であることは、至極当然のことだとは思われませんでしょうか?
「無(0)」について、相反する両者の「否定的統一」として「再評価する」論理(学)に対して、「学問的な認識意味はない」と評価なさるならば、それは誤謬判断に該当するのではないでしょうか?

二、刑罰の本質について

恐らく、田中先生の重心は「目的刑論」の方だろうと推察しておりましたが、穏当な折衷的立場を加味し、田中先生が多少なりとも「応報罰」の観念を「肯定なさる」のであれば、刑罰の前提となる「責任」の本質について考察し、応報との関係についても考察する必要がありましょうし、更に言えば、団藤博士のいう「人格形成責任」についても是非とも深く考察を及ぼして頂きたいと思います。

責任の本質を「非難可能性」だとする学説には賛成なさいますでしょうか?
実務家においてはこの点、特段の異論がないないのが普通だと思いますが、その場合、責任本質論における「非難」とは、田中先生のお立場からすると、教育的・目的的なものがメインになることになりましょうから、ゆえに、当然、「社会的な非難」に絞られて行くことになりましょう。
とすると、
(インターネットや電波放送などでの) 人間社会に対する受動的閲覧行為程度はするにしても、こちらからは主体的関わりをもたないような、社会から隠遁して、無人島で死ぬまで一人で生活するというケースを想定する場合、そういう人には、「人としての責任もない」という論にまで流れて行く可能性があると思われます。
もし、そういう論の方向に流れる可能性に対し、明確に反対なさり、
「いえ、人としての(社会的責任「以外」の)責任(非難可能性)はこれこれのロジックから生じるものだ」 と概念するものが何かおありになるようでしたら、是非お教え戴ければ嬉しく存じます。

この論点については、キリスト教やヘーゲルなどの、宗教や有神論的思弁哲学からすれば、責任に関する「非難」の本質には、「神からの非難」を含むという解釈になります。 この場合、「人は神から決して逃れられない」という世界観になりますから−− (たとえ「神の存在措定」が仮象論理の誤謬的幻想であったとしても、このケースにおいて、つまり実践倫理面に限定すれば、さして問題にならないでしょう)−− 無人島で一人隠遁生活をする場合でも、人たるものは(宗教的・倫理的)「責任」論からは免れ得ないということになり、ゆえに人としての責任を全うし道徳的に善く生きたい意志を持つ者は、無人島にあっても、自己の高い格率に従って生きることになる、というロジックになります。

なお、犯罪は保護法益に対する価値否定行為ですから、「否定の否定」論により、「価値否定者に対する価値否定」としての応報刑罰という論が成り立ち得ます。こうしたロジックを導出する思弁的営為に対して、一概に、或いは、全部といわずともその大概について「認識意味無し。ナンセンス。そして、社会科学的にも無価値だ」と、田中先生が評価なさるとするならば、私としては「???」の念を禁じえないという感想を抱くことになると思います。

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Σ先生へのご返答 投稿者:田中 投稿日:10月14日(土)06時48分6秒

 一 刑罰について
 私は「応報罰説か、社会教育刑説」というニ分論で考えるのは現代日本社会においては妥当でないと考えます。
 刑事司法の機能は、国民の利益の保護、特に広い意味での犯罪防止にあります。社会にとって重大な害悪である犯罪を除去し、秩序を安定させて国民によりよい生活を確保するからこそ、「害悪」である刑罰も正当化されうるということになります。
 そして、刑罰は、犯罪防止と犯罪者の再社会化のための道具であります。その意味では、「目的刑論」が妥当であります。
 ただ、このような刑罰の目的を、実質的に達成しようと考えるならば、やはり「応報」という概念が必要となりましょう。
 国民の倫理・道徳観念や規範意識を媒介することなしには、刑罰は機能しません。「人」に一定の行動を期待する以上、国民の規範意識に働きかける必要があります。刑罰の上限を画する意味でも、「応報」は重要であります。
 しかし、そのことと、特定の倫理観・道徳基準を刑法によって保護することとは別問題でありますし、ヘーゲル以来の「自由意志」や絶対的な応報を認めることは別問題であります。

 二 「五流解説書の藁人形論法に騙された結果の誤解であろう」についてのご返答

 世の中に様々な本があります。そのいずれについて階級づけるのはもちろん自由です。私は本に階級付けはいたしません。端的にその本に書かれていることが実証的に正しいか、そして、役立つかという観点から読むのがよいのではないかと考えます。
 論理的観点から、そして倫理的観点からヘーゲル思想には諸所問題(部分的な正しさがあるとしても)があるという評価は確信に近いものがあります。
 まず、本を読む時に論理分析、そして、経験分析が可能な命題か否かを常に確認するべきであります。次いで、ポパ−の著作やラッセルの西洋哲学史、それから、ヘーゲルの原著を読みなおしていただくことがよいのではないかとかんがえます。

 三 思弁哲学について

  私はヘーゲルやハイデガーに代表される思弁哲学が無価値であるとは考えておりません。ただ端的に重要な諸命題の多くに認識意味がないと考えているだけです。
 これらは宗教や文学に準ずるものとみるべきでしょう。思弁哲学はたしかに、文学的・宗教的ないし道徳教育的な意味は十分に認めることができるからです。そして民衆の思想善導を行ったり、人生の苦難に打ち克つための勇気を私たちに与えてくれたり、美的体験をもたらしてくれる、かもしれないというのは犯しがたい真理でありましょう。

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表現の一部訂正 投稿者:Σ 投稿日:10月13日(金)22時54分26秒

(誤記)そして、小国の国家意志よりも、

(修正)そして、そうした小国の国家意志も、

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誤解と藁人形論法 投稿者:Σ 投稿日:10月13日(金)22時45分6秒

田中先生へ

>感情的な反論も予想されますが、

いえいえ、別段「感情的な反論」など致しませんので、ご心配なさらずに。
理由は、2点。第一に、私は相当程度、感情から自由だからです。もし感情的に「みえる」場合には、わざと方便としてそれを目的的に使用する場合がありますが、それのみです。
第二に、私は個人の尊厳のために闘う法務に携わる法曹人を心から尊敬していますので、例外的に、高田延彦夫妻の代理母訴訟問題などで、もし仮に裁判官が馬鹿げた判決を出したら(方便的に)怒るでしょうが、まあ、大方の法曹の理智には信用を寄せております。ゆえに、田中先生の理性に対しても、です。

さて、私も、「理性向上のための論理力強化」という方向性に異議をさしはさむものではありません。

ただ、ヘーゲル哲学が、そうした「論理強化の方向性」を阻害する「害悪だ」とか「似非ロジックだ」という評価が下される場合に限って、それには異議を申し立てるという立場です。

唯物史観が論理的であり、キリスト教神学やユダヤ教神学やカバラー密教が論理的ではないという評価は、全くもって不当でありましょう。
なぜなら、ノーベル賞受賞者の、諸民族に対する比率が一番多いのはユダヤ人であり、彼らはユダヤ神学という形而上学の迷路で思考力・論理力を養ったがゆえに、そのような高度な叡智に到達した、とみることが可能だからです。
たとえば、刑事訴訟法の分野では、イエズス・キリスト在世時、ユダヤ教ラビたちが既に刑事訴訟法的体系を相当程度確立していました。これは当時の刑事訴訟法として世界最高峰のものでした。
また、現在においても法学・法哲学の分野で偉大な功績を残した人の多くはユダヤ人ではないでしょうか。また、マルクスの父親は裁判官、祖父はユダヤ人ラビでした。有神論・無神論の差異はあっても、「すさまじい論理性」は3代に渡って引き継がれたと言えましょう。

さて、田中先生がご指摘なさったヘーゲル批判は巷間よく目にするものですね。
「ヘーゲルはプロイセン国家の御用学者だ」と。

>>−−−結局、個人の「自由」を個人が自分の個別意志を普遍意志の体現者として国家の命ずるところに合致させることとほとんど同義にしてしまいました。この点から評価するとHegelは倫理的にも厳しく非難されるべきと私は評価しております。>>−−−

残念ながら、批判者たちが唱える「ヘーゲル御用学者論」は、キリスト教に無知な人々であることを公に宣言するに等しいもの、と言えます。
牧師になるため神学校も出たヘーゲルはキリスト教を熟知していました。
「真理は汝らを自由にする」とはイエズス・キリストの御言葉であり西欧社会において、これほど有名な名言はないかもしれません。日本の国会図書館の中にもこれと殆ど同内容の言葉が大きく刻まれていたと記憶しています。
(宗教的には、「真理」とこの場合の「イエズス」が同義と解釈され、イエズスがキリストとして人々を自由にする、という霊的意味が込められることになりますが・・・)。
「真理は汝らを自由にする」−−−この文の用法の場合の「自由」は、普遍意志との合致という段階を経て、(弁証法的発展的な)更にその上の、「絶対精神との合致」が見据えられたものです。
(つまり、肉体的なイエズスのことは棚に上げておき、超越神の大御心との一致という意味)
そして、ヘーゲルは、「真理は総体性と不可分」と概念していたので、そうした「崇高な自由」に到るためには、総体性と不可分であるところの「(意志における)普遍性」が不可欠の要件となります。
ところで、国家意志は、個々人の意志より普遍的と言えるでしょう。そして、小国の国家意志よりも、どこかの連邦国家である合衆国の国家意志に比すれば普遍性が劣るものと評価されます。
なぜなら、人口や人種の多様性が多いほど総体性(普遍性)も高まるからです。
このように、ヘーゲルにおいて、「プロイセンの国家意志」と称される場合、弁証法的発展経過の道半ば的な、「半−普遍性」が措定されているのです。
ゆえに、プロイセン国家の意志の尊重という一事をもってヘーゲル批判するのは藁人形論法になります。
キリスト教には、「権威は神が立てたもの。ゆえに、それを最大限尊重し、従うべき」という規範律があります。ヘーゲルの法哲学での主張もその範囲を出るものではありません。
ソクラテスが毒杯をあおって死んだケースにおいても、彼の、「悪法も法なり」との価値判断に基づく「自由意志」による行為の決断でした。
イエズス・キリストが十字架についたのも、同様です。
両者共に、「悪法が自己に適用される段」に当たって、「逃げられるのに敢えて逃げずにそれに従った」、という事実があります。そして、それゆえに、こんにちまで、この両者は、多くの人々から宗教的にも倫理的にも崇敬の眼差しで評価されているのです。

>>−−−Hegelは(・・・)市民社会的自由に憧れる青年たちに対して、その憧れを捨てさせたという点で正に、自由で開いた社会の敵であったと評価できましょう。 >>−−−

「ヘーゲルが自由で開かれた社会の敵ですって?!」
残念ながら、これは、あまりにも、大いなる誤解である、と言えましょう。
なぜなら、自由で開いた市民社会を構築する上での基本思想こそが、英国・米国にあっては、アングロサクソン系のキリスト教精神だからです。
キリスト教には、「権威は神が立てたもの。ゆえに、それを最大限尊重し、従うべき」という規範律がありますが、その一方で、イスラム教とは異なり、表面的には「価値の相対性」を認め、個人の自由意志を最大限尊重した上での「選択の自由」や「思想の自由市場」の概念を信奉するのです。
なぜなら、イスラム教とは異なり、個々人の自由な判断に任せるならば、思想の自然淘汰競争においても、真理は必ず勝ち残り、真理たることが自ずと証明されるという、キリスト教の「不動の自信」が根底にあるからです。
「強制された中で選択」には自由意志が反映しません。ゆえに、自由意志が最大限認められた前提の中で、自らの自由意志でそれを否定し、個人たる自分より高次の普遍性に準ずるという「自己選択」をすることの中に、「真理と自由」がある、との教えが、ユダヤ・キリスト教の根本精神なのであり、ヘーゲル法哲学がそれと異なるもので「あるわけがない」のは至極当然の事です。
「主よ、私の思う通りにではなく、あなたの思う通りになさって下さい」゛

キリスト教のこの崇高な祈りが「倫理的に厳しく非難される」、という論理が西欧社会思想の潮流であるなどという話は、全く聞いたことがありません。
同様の理由により、田中先生の以下のご発言

>>−−−この点から評価するとHegelは倫理的にも厳しく非難されるべきと私は評価しております。>>−−−

は、五流解説書の藁人形論法に騙された(或いは、安直に同化してしまった)結果の誤解であろう、と善意に解釈しておきたいと思います。

なお、「刑罰の本質」について、応報罰説か、社会教育刑説か、どちらに田中先生がくみするものか、お示し戴けると嬉しく存じます。

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説得定義 投稿者:田中 投稿日:10月13日(金)09時47分25秒

 既にのべたとおり、「本質」概念は厳密な論理分析に堪えません。この「本質」という用語が、無用の理論的混乱を生みながらも、今日まで永い間、哲学者や社会理論家によって愛用されてきた理由は、このことばの持つ強い説得力にあるという見方もできます。

アメリカの倫理学者のスティーヴンソンの創唱した「説得定義」(persuasive definition)の理論による、ならば、「説得定義」とは、汎用されていることばに対して、その情緒意味を大きく変えることなしに、あらたな概念的意味を与え、これにより、人々の関心および行動の方向を意識的にまたは、無意識に変えることを目的とするような定義のことをいいます。(Charles L.Stevenson,Facts and Values, Yale Univ.Press,1963,p.32.) Hegelと「説得定義」との関連について考察します。
 Hegelはフランス革命後の新時代の息吹きのなかで青年期を過ごし、自らも社会改革運動に加わろうとしたほどの人物でしたから、「自由」のもつ情緒的な響きに対しては人一倍敏感でした。しかし、他面、彼は、中期の著作である「法哲学要綱」において、個人の原子論的自由を原理とする市民社会を「人倫の喪失態」(der Verlust der Sittichkeit)と決め付け、プロイセンの君権主義的立憲君主制に「哲学的根拠」を与えようとした「学者」であります。(Hegel,Grundlinien der Philosophie des Rechts, 181-199)
 彼は極めて巧妙で有効な説得技術を用いました。「自由」は通常「強制の欠如」と同義に用いられますが、Hegelによる、ならば、自由のこのような理解は「浅薄皮相」であり、正しくない。もっと深く「哲学的に」考察するならば、自由とは「強制の欠如」というような消極的な状態ではなく、「積極的な」ものでなければならぬ。真の意味で自由な意志とは自己自身を決定する意志であり、このような意志は私利私欲に拘束された個人の「個別意志」ではありえず、「普遍意志」(der allgemeine Wille)でなければならぬ。とHegelは説いて、結局、個人の「自由」を個人が自分の個別意志を普遍意志の体現者として国家の命ずるところに合致させることとほとんど同義にしてしまいました。この点から評価するとHegelは倫理的にも厳しく非難されるべきと私は評価しております。
 Hegelは「説得定義」の使用にあたって、「真のx」とか「xの本質」とかいう表現を用いて、市民社会的自由に憧れる青年たちに対して、その憧れを捨てさせたという点で正に、自由で開いた社会の敵であったと評価できましょう。

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Σ先生へ 投稿者:田中 投稿日:10月13日(金)06時12分32秒
 Σ先生の返答の趣旨は間違いだ、といいきることができるようなものでないことはいうまでもありません。そして、罪悪の本質についてのご研究に敬意をはらわせていただきます。

 私の経験を少しだけお話させていただきます。
 ひと昔まえですが、司法試験や大学受験のための寺子屋のようなものを、開いておりました(今は時間的、体力的に無理なのですが)。そこで、私はまず試験科目ではない論理学と、ことばに対する私なりの考えをお話させていただきました。数人しかそこにはおらなかったのですが、皆様目的を達成され、社会に貢献したり、学問に従事していることが予想されます。
 感情的な反論も予想されますが、私は人間のこころというものは、一種のコンピューターのようなものであり、人間の思考というものは一種の計算であるように思われるのです。そして、ある程度は人間社会もコンピューターのように制御できるはずであると考えております。犯罪のようなものがおきるのは、社会の不完全なコンピューター化が原因であり、よりよきメカニズムに進歩させるのが人類の使命であるとおもいます。そして、この点に関連して、思考のしくみを明らかにするまたは合理的な思考をするためのしくみを明らかにする、という役割が論理が果たしうる使命であるのです。
 仮にそのように考えて、行動し、社会がうまくいく、そして、人間力がさらに発揮される社会になる、とするならば、結果的には私たちの社会が弁証法的発展をとげたといえるでしょう(ヘーゲルないし弁証法を意図する意図しない関わらず)。

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覚書補記 投稿者:Σ 投稿日:10月12日(木)23時06分1秒

(外野からの質問)つまり、ヘーゲル哲学はカント以前の「独断論のまどろみ」に逆戻りしたという批判は全く当たらない、ということでしょうか?

(ヘーゲル・ファンの回答)その通りです。フッサールのごとく数学的・ロジカルだと言ってもよいかもしれませんね。

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田中先生への覚書(3点) 投稿者:Σ 投稿日:10月12日(木)21時43分17秒

田中先生への覚書(3点)

3点ほどの感想的メモとして。

(1)自由に輝く天才を(理解しがたい相手を自分の理解の範囲内存在へと取り込み貶めようとして)束縛したがる生真面目凡人の(心の奥底で憧れてしまう、ルサンチマン的な)思い

>>−−Ayerの次のような哲学の任務の説明(・・・)哲学者の機能は、科学上の諸命題を、その論理的関係を明示しかつそこに用いられている諸記号を定義することにより、明晰にすることにある。ゆえに、哲学の性質上、相対立するいくつかの哲学上の「学派」が存在すべき根拠は全くないと私は信ずる。」 >>−−

そのように、勝手に「信じる」のは自由ですが、それを「普遍的真実」と位置づけその論理を他者に強いるならば、そうした行為は批判を免れないと思います。
アルバート・アインシュタインは、「輝かしき直観」を持つ一部の理論物理学者のみが発見できる物理法則について触れていますが、人間の最先端の精神営為においては、「輝かしき直観」が先行し「論理」がその後を追って論理的後付けをして行く、ということがしばしばあります。
その「輝かしき直観」の範囲を、勝手に、権威的に、「この範囲だけが妥当だ」と限定するのは、著しく不遜な決めつけであると思いますし、「高貴な直観」を一方的に束縛限定規定する、直観より上位の外的な別の権威を認めることを意味します。
あたかも、往年の巨人軍の名二番打者である土井元オリックス監督が、イチローが入って来た時、投手方向に上体が移動して(突っ込む)バッティング・スタイルはナンセンスだと決めつけてイチローと意見がぶつかったことがありますが、そのことで、土井さんの堅物的狭量さと能力の限界が話題になりましたが、それと似たケースであるように思われます。
天才の自由意志に基づく、自由な哲学的思索行為を 他者が勝手に束縛する権利が一体どこにあるというのでしょうか。

(2)罪悪と刑罰の本質について、田中先生はどのように考えておられるのか疑問が湧きます。
   まさか、法律家としては、罪悪にも刑罰にも「本質」などない、とか、本質を論じることは無意味だという立場であるとも思えないのですが・・・。
  法律家であれば、「刑罰」の本質について、大別して、団藤重光博士派か、平野龍一博士派か、という区別があるでしょうが、田中先生はそのどちらで刑罰の本質を考えておられるのでしょう?
 また、「罪悪」の本質については、私はウェブで世界最高峰との自称で、それを解説しています。
 興味がおありの場合に限って、一読をお勧め致します。
 http://www.hannya.net/masterFC4.htm

(3)思考作用についての反省的自覚の有無について
  ●(ア)唯物史観論者の言
    「絶対精神を措定すること自体が『仮象論理に基づく誤謬判断の暴走』であり、『独断論のまどろみ』の中にいることの証明なのだ。」
  ●(イ)キリスト・ファンの言
    「絶対精神というものを措定しない、すなわち絶対精神という措定の欠如こそ科学的に正しい見解だと決めつけること自体が、愚かしい誤謬的ドクサに陥っていることの証明であり、それこそが、「仮象論理に基づく誤謬判断の暴走』であり『独断論のまどろみ』の中にいるということの証明なのだ。」
  ●(ウ)カント・ファンの言
    「絶対精神を措定する場合も、しない場合も、どちらも論理としては成立するのであり、それこそが二律背反(アンチノミー)なのである。しかし、それは深刻重大な矛盾を示すものではないことはカント先生が解明した通りである。そうした二律背反を引き起こす論理の前提概念への理解が間違いであるだけで、前提の間違いに気づくと、その背反は、単なる『弁証論』(=口先の屁理屈レベルの議論の意味)的対立に過ぎないものへと『変貌』し『没落』し『地に落ちる』のです。」
  ●(エ)ヘーゲル・ファンの言
    「カント先生がそうした解決方法を、神や宇宙などの存在論に関する限定的な特殊なカテゴリーにおいて『のみ』認めるのは浅墓であるし、カント先生は自分の独断的立論法により、再び独断論のまどろにの只中に没入して行ったのだから、カント先生が『独断論のまどろみ』から目覚めたのは批判哲学を志したほんのひとときに過ぎないのだ、とはヘーゲル先生のお言葉ですが、まことに、ヘーゲル先生が指摘するごとく、我々は、思考作用それ自体による『措定行為自体』が持つアンチノミーに気付くべく、よくよく自己反省し、論理的な反照的自覚を持たねばならないのです。その意味で、絶対精神を措定しないその欠如を自慢したり正しいと強弁すること自体が子供論理だという論理になるのですね。」

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Σさまへのおぼえ書き 投稿者:田中 投稿日:10月11日(水)23時16分48秒

 「(ある意味)真剣・真摯な精神の営為を、「実用的でない」とか「無意味だ」とか、「人類の実在認識に幾許の寄与もなしえない時間の無駄」と断じることは、やはり慎むべきであろう、と思います。」 Σさまのこの点についてのご高見は正に正鵠をついていると受けとめます。

 しかし、大変心苦しいのですが、ヘーゲル、ハイデガーその他によって代表される思弁哲学は、学問的な認識としては認めがたいのです。というのは、それを構成する重要な諸命題の多くが、実在世界について言明しながら、原理的にテストに堪えず、したがって、認識意味をもたないからです。
 しかし、評価の角度を変えて、これらの「哲学」を宗教や文学に準ずるものとみる、ならば、この種の思弁哲学的文献のもつ文学的・宗教的ないし道徳教育的な意味はこれを十分に認めることができましょう。この種の文献は、たしかに、私たちの思想善導を行ったり、人生の苦難に打ち克つための勇気を私たちに与えてくれたり美的体験をもたらしてくれるかもしれないし、その意味でたしかに、存在理由をもっております。しかし、問題はこれらの宗教的託宣や、「概念詩」ないし「ことばの幻想」が学問的認識の仮装のもとに主張されることにあります。学問の厳密性と客観性とを重んずる者は、この種の文献と学問的認識としての哲学とが、常にはっきりと区別されることを要求せざるをえないのであります。

私はAyerの次のような哲学の任務の説明に賛同しております。
 Ayer,Language,Truth and Logic, 2nd revised ed.,1946 p.31-32
「....哲学者の任務は、科学の諸仮説の向こうをはるような思弁的真理を与えることでもなく、また科学の諸理論の妥当性について先験的な判断を下すことでもない。哲学者の機能は、科学上の諸命題を、その論理的関係を明示しかつそこに用いられている諸記号を定義することにより、明晰にすることにある。ゆえに、哲学の性質上、相対立するいくつかの哲学上の「学派」が存在すべき根拠は全くないと私は信ずる。」

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哲学と科学の相違 投稿者:Σ 投稿日:10月11日(水)21時55分15秒

田中先生のご指摘については、大まかに次の3点の返答が挙げられるように思います。
(1)公理の選択の問題  (これは人間の総合力に関わる)
  (説明)−−−公理とは証明できない大前提の命題です。科学も結局は、「自明に思われる」公理を任意に選択してそれに立脚するところで構築されます。この「自明に思われる」という部分に対して「疑義」を投げかける営為こそが「哲学」である、という定義でお考え戴ければ・・と思います。そうすれば、科学と哲学の距離や役割分担についても多少明確になることでしょう。

(2)ヘーゲルの歴史哲学についてポパーの批判に与(くみ)してのご意見でありましょうが、田中先生が挙げたヘーゲル歴史哲学の「2点の根本前提」というものは、本当の根本ではありません。本当のヘーゲル哲学の根本については、すでに触れましたが、次のように解説してみましょう。
我が愛するスピノザはライプニッツに語ったと伝えられる次の言葉
「世間一般の哲学は被造物から始め、デカルトは精神から、私は神から始める」
に端的にみることができるのですが、
「神の存在自体を疑うべからざる自明のもの」として、これを公理として出発するのです。
そのようにして不滅の哲学的古典的傑作『幾何学的秩序に従って論証されたエチカ』が完成したわけです。

ヘーゲルも基本的にはこの態度を引き継いでいます。
ヘーゲルの出発点たる公理は、「絶対精神とは即自、且つ、対自的存在である」 という定義です。

絶対精神(神)は人間社会の尺度からすれば無時間的というか超時間的存在ですが、それが人間社会、或いは、「プラネット・アース(地球・全球)」における霊長類の活動を通して、その絶対精神を「物理相対的な時間軸」の中で順次発展的に−−−換言すれば、水道の蛇口を少しずつ開いて行くようにして−−−「発現」させて行く−−−このような時間軸内の全球(グローバル)的な人間社会の総体性を指す精神について、ヘーゲルは「世界精神」と呼びました。
そして、この「世界精神」は、たとえば、田中先生の家族だけに発現するものではありません。そんなことは有り得ません。それは、「民族精神」という小さい円が、諸民族という小円の群像として群れる中で、その総合としてのインテグラルな「世界精神」を意味します。
ゆえに、民族精神から世界精神へという絶対精神の発現経路というか発展形式という表現がなされるわけです。
その民族精神は、更に細分化することもできましょう。そうして家族までの単位でみることもできましょう。
これらが、弁証法的発展形式における「小円と世界精神ひいては絶対精神」との関係になります。

(3)人間が本質を把握する方法としての、(あくまで一つの)知的登山道としては、ヘーゲル的な意味での「反省(反照)行為」以外にはないでしょう。
つまり、「なるほどポパーの言い分が正しい」と思念する自己がいた場合、外的現象と仮象論理との一致整合性をもって正しいとしている自分がいるわけですが、ニュートン力学から相対性理論への変遷を見てもわかる通り、さらに上位の正しさ(普遍性)が出現すると、それまで正しいと信じていたものは、「十全には正しくないもの」という格下げの憂き目にあうことになります。
このようにして、科学的見解もまた、普遍性(の階梯)における、「より上位の価値」によって、アウフヘーベンさせて部分部分適宜廃棄されて行くのです。
では、そうした発展運動の「究極」にはどのような(究極の)普遍性があるのか?

そこまで、先走って考えてはいけませんか?
やはり、そこまで考えたい人というのは、世の中に、必ずいるものです。
そこまで、考えたいという人、そうして、そこまで考えたその結論を、たとえそれが証明不可能なものであっても、単なる仮説としてだけでも、考えたものを提出したいと思うのが、哲学者という範疇の人間なのでしょう。
そうした人間の、(ある意味)真剣・真摯な精神の営為を、「実用的でない」とか「無意味だ」とか、「人類の実在認識に幾許の寄与もなしえない時間の無駄」と断じることは、やはり慎むべきであろう、と思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月11日(水)17時28分23秒

 三浦先生がおっしゃる  「知性による概念の使用自体が世界に関する事実であり、その使用パターンを構造化する概念分析が、「この世界には何ほどの影響をも与えません」ということは決してありません。整合的な概念地図を意識的に持つと持たないとでは、知的空間の発展経路が大違いだろうからです」
 はまさに正当であり、正しい見解であります。この点について私は仮象論理の独断を犯したようでございます。

 しかし、何が「本質的な」性質であるかというのは、対象自体の性質だけからは決められず、私たちの認識目的とそれに即した私たちが主体的に選択する視点との関連においてのみ、相対的に決まるものであるということは否定できませんでしょう。そして、人間である私たちが本質を把握する方法が問題とされざるをえないということに何らの変化もございません。
 本質と「現象形態」とを分けて考えることは対象の不必要な2重化・3重化を生じ、形而上学的思弁への道をひらくおそれがあります。「Enita non sunt multiplicanda praeter necessitatem 実体を必要以上に増やすな」というオッカムの教訓はここでも有用であります。(K.Popperの厳しい批判の対象であるいわゆる本質主義(essentialism)であります。Cf.Popper,Conjunctures and Refutations, pp. 173-174)

ある事象が「意味」をもつのは、誰かがそれに意義を認めるからであって、人間の意味賦与行為をはなれて、事象自体に固有の「客観的意味」があるとするのは支持しがたいです。なぜなら、事象そのものが「客観的な」意味や価値をもっているという思想は、問題を徹底的に考えぬくならば、何らかの形の「目的論的宇宙観」に還元されざるをえず、このような宇宙観は、窮極において、一種の擬人的発想法に立脚するものです。
 このような考え方はダーウィンの業績により生物進化その他の諸現象を目的論的宇宙観に依拠せずに説明できるようになったことを理解していないように思われることに関連します。

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本質、その他 投稿者:φ 投稿日:10月11日(水)15時45分20秒

 本質が決まるのは、文脈に応じて、でしょう。たとえば、「伝統的な『虚構』」の語義に照らして」といった文脈です。しかしこのような限定はわかりきっているので、省略されます。
 たとえば、「実際に起きた出来事に反した描写がされていてもよい」というのは虚構の本質です。「……でもよい」という本質はたくさんありますが、「……でなけれならない」という本質はあるかどうか。一般にそれが問題で、『ゼロからの論証』3-4では、「虚構が持たねばならない性質はあるか」と問い、「無いかもしれない……、つまり、どんなものでも、虚構として認められるかもしれない」という結論を仄めかしています。  二等辺三角形や無理数、独身者のように、必要条件としての本質がハッキリ規定されている概念もあれば、虚構のように、そうでないものもある。この区別のためにも、「本質」という概念は重要です。「『本質』という概念の本質はなにか?」というメタ考察を誘発されますが、それはそれで結構なことです。
 知性による概念の使用自体が世界に関する事実であり、その使用パターンを構造化する概念分析が、「この世界には何ほどの影響をも与えません」ということは決してありません。整合的な概念地図を意識的に持つと持たないとでは、知的空間の発展経路が大違いだろうからです。
 物理的実体と概念とを峻別して、後者に「世界との不干渉」という特権を認めるのは、裏返した知性中心主義でしょう。
 知性の作り出した操作的対象(概念)も、物理的実体と根本的に違うものではありません。

 なお、「全称汎化」ですが、たしかに、もっと詳しく説明する必要はありますね。ただ、「全称例化」に比べて明示的な使用頻度が少ないので、ついでの説明にとどめた次第です。
『論理学入門』ではスペース上書ききれなかった「全称汎化」の一使用例については、↓をご覧いただければと思います。
http://russell-j.com/kaito173.htm

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月11日(水)14時55分11秒

 「虚構の本質とは何か」(←は語用論的な意味しかありませんね。反証不可なので、実在認識に何物をも付加しません。この世界には何ほどの影響をも与えません)
 ただしくいうならば、「虚構の認識目的上重要な性質は何か」でしょう。このようにいうならば、発想法とことばと論理学に関する無理解が犯している「部分的な」正しさはいくらかは救われましょう。
 このことを理解できないとするならば、「仮象論理の連鎖的独走・暴走」という一流の表現がこの現象を形容する最適の表現といえましょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月11日(水)10時42分57秒

 Σさま、私はカントの認識論が、細かいところでは間違いだらけだが、大体は正しかったと考えております。
 認識における直観の大きな役割は科学史の無数の例が「経験的」に明らかにしております。しかし、このことは直観によって得られた知識がまさにそのゆえに真理であるという、直観主義者(注 論理学のそれではありません)の主張を正当化するものではないでしょう。

 認識の源泉が直観であるか、経験であるか、またはほかの何かということは、いわば心理学の問題でございましょう。

 私たちの認識の結果は文で言語的に表現されますが、その文には経験科学上の反証可能性を持たなければならず、実在認識を志向する文はすべて仮説であり、反証の試練に耐えたものが「理論」になるのですが、その理論も仮説的性格を完全にぬぐえず、つねに反証される危険があります。だから「実在認識」に関するならば、絶対的な本質的な「真知」はえることができず、私たちが科学的真理と考えるものは、厳しい経験テストに生き残った「臆見 ドクサ」にほかなりません。
 そして、それで、良いとかんがえるべきでしょう。

 哲学者は科学的な発言をするならば、
 @その発言はいくらかは反証可能性をもたなければなりません。反証できない問題提起は実在認識に何物をも寄与しません。
 A哲学者は自己の問題提起が最終的な解決案ではなく、試行的なものであることを素直に認めなければなりません。
 B哲学者は自己の発言が、経験的方法によってはうかがえない「高次の」、「深遠な」真理であるという不遜な態度をとってはなりません。
 C哲学者は科学的な知識をもたねばならないでしょう(自分の関連する分野の)。

 とわたくしは考えております。

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Σさま、三浦先生、そしてみなさまへ 投稿者:田中 投稿日:10月11日(水)10時06分57秒

 わたくしは反ヘーゲル主義も反形而上学主義(いかなる主義)も標榜するつもりはございません。

 わたくしが青年時代に学んだことと、Σさまとの対話での論点となったと思われることについて若干のおぼえ書きのようなものをしるさせていただきます。(さらなる人間社会の発展のために、これについて考える、咀嚼するまたは反論を期待します)

 ヘーゲルの歴史哲学は、@「世界史には、現実の個人の意欲を超えた、「客観的な意味」と固有の筋書きとが内在する」、A「この意味と筋書きとは、通常の経験科学の探求方法とは異なるところの、哲学的洞察によってのみ把握されうる」という二つの根本前提に立脚しております。

 @はKarl Popper(この人の思想については「Hans Albert,Der kritisch Rationalismus Karl R. Poppers,」が現存するものでもっともわかりやすく説明していると思います。邦訳、碧海訳 「カール・ライムント・ポパ-の批判的合理主義」 大きな図書館にいけばあるでしょう)のいう「歴史主義」の基本思想です。e.g. 神話における擬人的宇宙観、ユダヤの選民思想、キリスト教の終末論、そしてヘラクレイトスやプラトンにつらなる形而上学に連なるところの発想法の所産であり、学問的な思考とは相容れない想定です。 (疑問点についてはPopperの「開いた社会とその敵」上下2巻、特に「歴史に意味があるか」と題する最終章を読むことを希望します)

 Aは直観主義的な本質論(essentialism)(本質論についてはPopperの「歴史主義の貧困」中央公論社、49〜51、54〜60頁。)の考え方でございます。
 本質論によるならば、経験科学の探求法は事実の皮相面にのみとらわれて、決してその深奥にひそむ「本質」を把握することができないものであり、事物の「本質」に深く参入するには「直観」、「知的洞察」、「本質的観照」、あとはイデアの「追想」みたいなものでなければだめだとなるでしょう。
 そしてこの種の認識論は科学的認識をはばむ方向にはたらいてきました。なぜなら、何が「本質的な」性質であるかというのは、対象自体の性質だけからは決められず、私たちの認識目的とそれに即した私たちが主体的に選択する視点との関連においてのみ、相対的に決まるものであるということを見逃しておるのです(観測選択効果)。
 だから、対象の「本質的」性質という形而上学的・絶対的な表現を「認識目的重要な」とか「実践上重要な」性質という相対的な表現で置き換えさえすれば、古い形而上学的な考えも「部分的な」ただしさは救われるということになるでしょう。

 そして、三浦先生は「本質」はあるとご主張されますが、人間が「本質」を把握する「方法」が問題とされざるをえますまい。そして、上に述べた考えに対していかに答えるかが期待されるでしょう。そうでないならば、「ケチョンケチョン」(非常に不愉快な表現ですが)されざるをえないでしょう。

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自由意思→自由意志 投稿者:ε 投稿日:10月11日(水)01時33分45秒

でしょうね。辞書をみると、意思がintention,意志がwillとなっていて、自由意志はfree willなので。もっともこの微妙な違いがなかなかピンときません。

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形而上学の問題 投稿者:ε 投稿日:10月11日(水)00時08分52秒

といっても、それほど日常生活からかけ離れているものばかりではありません。たとえば、自由意思の問題で、その一つの形は、人間は究極的には物理的存在であるにもかかわらず(つまり、意識も物理的に決定されているはず)なぜ、自由意思などというものがあるのか?というものです。多分法哲学などとも関連するでしょう。

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補遺 投稿者:S・K 投稿日:10月11日(水)00時02分28秒

私も浄土真宗ですから、浄土真宗批判とは受け取らないでください。

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次元の違い? 投稿者:S・K 投稿日:10月10日(火)23時59分20秒

 いつも面白く拝見させて頂いております。飛子様一派も見ているで しょうから、あまり書き込みたくないのですが、仏教ネタで一つ書き 込まさせて頂きます。

 ヘーゲル主義と反ヘーゲル主義の論争と同義ではないし、近似とも 言えませんが、比較に足る論争が仏教にもあります。「教相判釈」が それです。一般的には、その経典が仏陀の生涯のいつ頃語られたもの かの判定と解説されますが、より深遠なものと見ていいものです。

 法華経の信者は、法華経は五時に語られた故に最高の経典であると し、浄土宗や華厳宗は、浄土経や華厳経は一時で語られた故に最高の 経典であるとします。漢訳仏教の「時」という言葉は、日本語のそれ より、意味領域で英語の「time」に近く、「回」だけでなく、「階」 という解釈もある程度成り立ちます。サンスクリット語は印欧語だと 言われていますから当然でしょう。

 私は自分の仮説を抱きながらも、浄土経や華厳経が、何ゆえ一時を 以って最高とするのか探ろうと思い、図書館で、ある浄土真宗系大学 の教授で、僧籍にもある方の書いた、ハードカバーの「浄土経」専門 解説書をちらっと開いてみたことがあるのですが、「仏一時に説く」 という文面の解説に、何と!

「この経典は、お昼の一時ごろに説かれたものであります。インドと いうのは非常に暑いところですから、昼は仕事になりません。そこで お釈迦様のありがたい説法を聞こうと、人々が涼しい木陰に参集して きたのです」

と書いてあって、度肝を抜かれたことがあります。戦後の仏教学は、 学問領域の中でも惨憺たるものがあるようです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月10日(火)09時49分5秒

 「私はよりによってなんで私なのか」 であろうが、「私はよりによってなんで○○なのか」という文を言明するならば明らかに語用論的には無内容ではなく、それこそ多元的に豊かな意味があるでしょう。

 しかし、私は三浦先生の文を理解することにより、オカルトに陥る若者を出さないようにするという効用があると解します。その点で非常に役立つご説明でした。

 哲学的にはやはり、意味の問題や内容の問題は相手の見解を「的確」に批判したりされたりがあるのですが、お釈迦さまのような視点から見れば両者とも有意味であり、無意味ですね(手のひらで踊っているようなものでしょう。そしてそれは哲学の一つの本質でありましょう)。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月10日(火)06時38分41秒

 お答えありがとうございます。

 大変もうしわけありません。(1-15、16)「私はよりによってなんで○○なのか」でございました。
 1-15、16。
 「私はよりによってなんで○○なのか」は知的に害毒をもたらす可能性があるのでしょう(その点については現代思想において吟味させていただきます。
 特に現代論理学入門における全称汎化の説明(解答頁における)では初心者の方にはわかりにくいのではないかと思ったしだいです。

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- 私はよりによって 投稿者:φ 投稿日:10月10日(火)00時20分19秒

「UGの説明」とはなんでしょうか? 全称汎化のことですか?

さて、問題は、
「私はよりによってなんで私なのか」 ではなく(←は無意味というより無内容ですね)、
むしろ 「私はよりによってなんで○○なのか」 でした。(○○には固有名詞が入る)

「私はよりによってなんで○○なのか」 と問うことは有意味です。心理学的には。
ただし、哲学的・論理学的には無意味です。これはハッキリ証明できます。
 この「問い」を真に受けることが、オカルトを信ずるのと同型の錯誤であり、知的に害毒をもたらすことについては、まもなく始まる『現代思想』連載の第1回か第2回あたりで「仮説と証拠の語用論的独立性」に即して解説する予定。心理学的に自然な問いであっても、「勝手に考えてもよい」ことにはならないのです。
 基本的には、『論理学がわかる事典』1-15,16で述べたこととほとんど同じですけれど。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 9日(月)19時30分21秒

 北朝鮮が核実験を実行したようです。偏狭なナショナリズムは私が嫌うところですが、いかにこの危機を乗りきるか、国民皆が論理を駆使して、わが国のこれからの先行きを考えねばなりません。
 国民の知性があがることにより、うまく政治や商売のかじとりがなされ、経済発展と平和という最大の目的達成に近づける可能性が上がるでしょう。そしてその助力になる人を私は尊敬してやみません。

 三浦先生、「論理学がわかる事典」という本を書かれておられたのですね。かなり幅広い啓蒙活動をなさっていらっしゃったのですね。書店で購入し早速読ませていただきました。わが国に現存する論理学関連の本で私は「論理学がわかる事典」を入門書として最大の評価をさせていただきます。知人にすすめさせていただきます。ただし、何点か気になる点がございます。UGの説明があれではわからないでしょう(論理学入門にもあてはまります)。
 「私はよりによってなんで私なのか」と問うことは無意味ではないでしょう。
この文は真偽は問えませんし、人がそのように考えたいならば、勝手に考えてもよいでしょう。

 論理で最重要なのは構文論です。そして、言語の私秘性が社会性より基本的であるならば、意味は規約的なものです。意味論に関する膨大な議論は実地で役に立たないので不用な存在です(オッカムのかみそり)。意味が不明確ならばその場で確認すれば解決します。語(概念)に客観的な意味があると考えるのはことばの誤った理解に基づく誤った世界の見方です。「宇宙の本質は何か」の類の文で主語となる語(概念)はただ定義されるだけです。概念や命題という語はつかわなくても差し支えないし、神秘的な雰囲気がぬぐえないので不用です(オッカムのかみそり)

 人間の「本質」は自然と戯れたり、恋愛をしたり、社会をよくするために議論をしたり、人のために働くことでしょう。そして、これは、私が考える「本質」なので人それぞれ考えが異なりうるでしょう。宇宙についてもあてはまるはずです、または客観的的な「本質」があっても人間には把握できると考えるのは合理的ではありません。私たちが宇宙認識のために役立つものを本質と呼ぶべきです。
 多用な価値観が存在するのが現代自由主義社会です。そして人に迷惑をかけない限り何をしてもよいと考えるべきです。そして、形而上学を行うのは自由です、がしかし解決できないと考えるべきです(平凡の原則)。

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形式か内実か 投稿者:Σ 投稿日:10月 9日(月)17時23分45秒

田中先生へ

▼タレントの向井亜紀さんと元プロレスラー高田延彦さん夫妻が米国女性に代理出産を依頼して生まれた双子の男児の出生届を受理するよう命じた東京高裁決定について、長勢甚遠法相は3日の閣議後会見で「我が国では母子関係は分娩(出産)の事実により発生するということが一般的な考え方で、決定には問題が残っている気がする。決定内容を精査して今後の対応を検討したい」と述べた。(毎日新聞) - 10月3日11時56分
▼法務省は5日、双子の出生届を受理するよう東京都の品川区長に命じた東京高裁決定を不服として、同区に対し、最高裁に許可抗告するよう指示する方針を固めた。(読売新聞) - 10月6日3時51分
▼8日の同区長選で初当選した前区助役・浜野健氏(59)は当選後、読売新聞の取材に「最終的には最高裁の判断を求める必要があるだろう」と述べ、出生届を受理するよう命じた先月29日の東京高裁決定を不服として、最高裁に許可抗告を行う考えを示した。(読売新聞) - 10月9日3時6分

「日本法曹人の悪弊ここにあり」−−ということを満天下に示す「愚かな争い」だと私の目には映ります。分娩事実が母子関係だという一事で押し通すならば、遺伝関係事実がなくても代理腹母が実の母だということになってしまいます。(バカバカシイ)
法律の「規定された形式」は「一時的なもの」に過ぎないがゆえに「常に改定され続けるべき」であり、時代の進歩に歩調を合わせねばならないのに、「古い形式」に固執する愚かしさ。
こういう法曹人たちは「一度ガラガラポンすべき」かもしれません(笑)。

そもそも、日本人は慣れない「成文法化」(そもそも神道系は「言挙げしない」のが原則慣例)で伊藤博文という粗野な人が『明治憲法』を欽定憲法形式で定め、それを日本人は「不磨の大典」と崇めてしまう愚を犯し、(米国の陰謀が裏にある?)鳩山一郎たちによる「統帥権干犯論」の登場、そして文民統制の崩壊・軍部の暴走 という「ニガイ歴史的経験」があります。
日本人は、まことに、(ユダヤ・キリスト教文化圏のような基本聖書との格闘の歴史がない、という意味で)「大典慣れしていない無知な農耕民族」です。ゆえに、「形式の権威に弱い」側面があります。
イギリスが成文憲法を持たない「その精神と叡智」こそ、キリスト教精神の精髄です。
いまだ、日本はそのレベルに文化的に達しておりません。

日本においては、まず法曹界から、形式論理に囚われない、仏教の空の思想、または、キリスト教的内実重視の精神、ヘーゲル的弁証法の精神などを理解し受け継ぐ人材を育てて行かねばならないと思う今日この頃です。
それには微力ながら、私も一役買えるかもしれません(笑)。

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re 教育と市場原理 投稿者:田中 投稿日:10月 9日(月)16時26分44秒

 Σさまのご指摘の中で名前のあがった大学は、一回「ガラガラポン」すべきでしょう。国民の税金で学んだ(遊んだ)のに、(文系において)寄生虫のような官僚貴族や高等遊民的立場の人間や誰も読まない論文を生産する先生方をたくさん生産していると思われるからです。やはり税金の補助の比率が高いのですから、(文系は)卒業後は在野で働くか、在野で研究する、または、税金で研究するならば、国民の役に立つような(少しだけでなくたくさん貢献すべき)教育・研究をしなければならない、と考えます。
 職業選択の自由(憲法22条1項)とからむので難しいでしょうね(笑)

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- 教育と市場原理 投稿者:Σ 投稿日:10月 9日(月)12時25分19秒

「高度な知識の社会還元」に関する話題があったので一言述べます。

フリー哲学者・永井俊哉氏は、東大大学院卒業ですが、教授の受けが悪く、助教授・教授のコースから放逐され、フリーで研究を続けています。「会社の歯車になるより流浪の芸術家のような人生に憧れる」、という自己紹介もプレスプラン社のウェブで述べていますが、やはり大学教授になって研究に励めれば一番だと本人も思っていると思います。
ゆえに、彼は、現状の大学体制について、ルンサチマンとまでは言わずとも、「一回、ガラガラポンすべき」ぐらいに思っているようです。
彼のメルマガの一つに、「末は博士かホームレスか」というのがあります。
http://www.nagaitosiya.com/a/doctor.html

彼の主張は、教育と研究に「市場原理」を導入し、競争主義と淘汰現象をもたらせ、という論旨です。彼の本音は、以下の言葉に集約されるかもしれません。
>>−−学問的に無能な教授ほど、研究に専念する有能な部下よりも、自分のために雑用をやってくれる無能な部下をかわいがる。そして、無能な部下は、出世すると同じことを繰り返す。厳しい市場競争に晒されている企業のトップが、周囲をイエスマンで固めると淘汰されるが、大学は規制と補助金で守られているから、腐ってもなかなかつぶれない。そして問題の根源は、ここにある。>>−−−−

私の知っているラーメン屋さんには、有名企業で半導体の研究者であった人があまりの忙しさに人生疑問に感じて退職し、両親のラーメン屋さんの出前の手伝いをもう5年以上続けている人がいます。ラーメンの出前をバイクで持ってきてくれる青年が、実は半導体の優秀な研究者である(あった)という、これと同種の現象が、今の日本では起きています。実に勿体ないことです。

慶応大学の福田和也教授は、江藤淳さんにその論文が認められ大学に呼ばれなかったら、今なにをやっているかわからない、もしかしたら、本好きのニートになっていたかもしれません。福田氏が大恩ある江藤淳氏については決して悪口を言わない所以です。

よい人材を発見し、市場原理の機能する教育と研究の現場に配置してそこで切磋琢磨させるシステムを作るにはどうすれば良いか?

将来の日本を形作る上でも、重要な問題でしょう。

恐らく、『ブッダ論理学』の問題も、彼女がなぜ教育現場(や出版界)で淘汰されないのか、というシステム的問題を内包しているのでしょう。

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ヘーゲル弁証法 と ゼノンの逆説 投稿者:Σ 投稿日:10月 9日(月)11時27分1秒
田中先生へ

論理に偏らない人間の総合力という見地からすると、私がすごいなと常々思っている法律家の一人に 中津晴弘 弁護士という方がおられます。日本橋本町の倉地事務所から発行されている自費出版雑誌『文人』の主幹であられます。文学的短編や俳句や詩やエッセイ、そして表紙の墨絵などを投稿して多才であり、法律の仕事がなければ作家方面に進出できるだろうと思われる、文芸的にもかなりの実力者です。
私はある筋から時々この『文人』を入手して読むことがあるのですが、最近は入手していないので、中津弁護士がご健在か分かりません。ご健在であることを願っています。
さてその『文人』の中に、中津先生が「わが形而上学」というエッセイを連載で書いており、私は彼のこのシリーズの「諸考察」がなぜかとても大好きなのです。
もう古い号ですが、「わが形而上学(四)〜微分的発想について〜」の中に、「ゼノンのパラドックス」に触れた部分がありますので、以下、抜粋します。

−−−微分に物理学の匂いを嗅いだところで少々寄り道をする。(・・・)有名なゼノンの逆説がある。(・・・・・)ある瞬間には、矢は空間の一点に「いる」という理論は、何さま強固な厚い壁である。この壁を突破して運動を肯定するには、どうしても、飛ぶ矢は、ある瞬間に、空間の一点に「いる」と同時に「いない」という、破天荒な論理−−というよりはむしろ、論理の自殺を敢行しなければなるまい。それを敢行したのが古代インド人であったらしい。たとえば、般若心経の「色即是空・空即是色」という文句は、「存在すなわち非存在・非存在すなわち存在」という意味であるらしいが、これを私は運動現象の説明でもあろうと受け取る。
(・・・)矢を飛ばすための、この、存在即非存在という論理はいかにも破れかぶれの観がある。論理学の最も基礎的な原理である同一律を、これは完全に無視しているからだ。論理を生かせば論理が死に、論理を生かせば運動が死ぬ。 (・・)このジレンマがどこから発生したのかを考えると、どうやら、「瞬間」という概念からではないか、という嫌疑が湧く。ゼノンは瞬間というものをまるで幾何学における点のように認識しているように思える。
(・・・)だからこのゼノンの言いぐさ、実のところ、「飛ぶ矢は空間中のある位置に存在する時は、その位置にある」というナンセンスな同語反復を犯しているのではあるまいか。ここでゼノンは実のところ、時間というものを完全に排除してしまった上で、飛ぶ矢を見ているようである。
(・・・)ゼノンの逆説と正面から相撲をとった哲学者らの中で、ベルグソンは恐らくチャンピオンの位置に位するだろう。
(・・・)ところが、同時代の物理学者は時間というものを(・・・)一つの物理的実体に仕立て上げてしまった。相対論以来、時間は今や一種のエネルギーなのである。時間がどういうエネルギーかというと、モノの変化や運動を可能ならしめる、根源的なエネルギーなのだ。
(・・・)時間というものからして、すでにこういうエネルギーであるとすれば、矢は、そのエネルギーのおかげで空間を飛翔するだけのことであって、ゼノンの逆説の厚い壁も、もはやそこにはない。ゼノンの逆説は近代物理の力技の前に、まことにあっけなく頓死してしまった。−−−−−−−

中津先生のように、運動すべてを「時間エネルギーのおかげ」とするのには「う〜ん」と首をひねる私ですが・・・。
革命的である相対性理論などまだ全くない時代に、ヘーゲルは、
「運動のない物質はなく、物質のない運動もない」
と、真理・真実を看破しており、「時間と空間」については、両者無関係・別物として「分離した扱い」をするのが当時の思想的な通説であった時代に、一人、取り止めの無い酩酊者のおしゃべりの如く(と言われることもある)、ヘーゲルは、かの迷宮的文章の中で、
「空間と時間の相互転化」を説いたのでした。
まこと、すさまじき洞察力であったと、私などは思うのです。
つまり、空間も時間もともに、弁証法の形式の例外ではなく、空間形式や時間形式もまた、その本質は保存されたまま形式(外縁)は廃棄され得る、という「アウフヘーベン運動」と捉えられたのでした。

(追伸)三浦先生のゼノパラの部分、まだ読んでいません。御免なさい。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 9日(月)07時31分48秒

 三浦先生、徹底的に論理が要請されるのは論理学、それからεさまのご専門の数学でしょう。そして、その論理を実際につかう場でもっとも論理を発揮できる場の一つは哲学なかんずく形而上学でしょう。そこで、鍛え上げられた論理をつかって、ブッダ論理学による誤謬を防ぐ以上の、多くの人に関わる形での論理の活用を期待させていただきます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 9日(月)07時12分38秒

 Σ(碧海)さま、本のご紹介ありがとうございます。

 弁証法についてですが、私は日常にも論理を使用する上でも生活する上でも高次の法則として簡単に活用できるものがいくつかあるとおもいます。

 まず、量質転化があげられましょう。量的な変化が質的な変化をもたらし、質的な変化が量的な変化をもたらすという法則です。水を質的に変化させて水蒸気にすると量的に増大するとか、火薬の質を変えてガス化させて爆発させる、何かを練習して、それを上手にできるようになる、学者を集めて共同研究をさせて高水準の研究をさせる(実例は無数にありましょう)。
 論理必然的に真ではありませんが、私たちが生活をする範囲において、論理を使用する上でも、自然においても妥当する信用してよい経験的に正しい高次の法則でしょう。
 量にとらわれて質的な変化を無視したり、質ばかり気にして量的な面を無視することのないように常に意識すべきという生活するうえでの指針にもなりましょう。

 それから、弁証法でいう否定の否定も経験的に重要でしょう。
 卑近な表現をさせていただくならば、1度他のありかたに変えて進行させ、あとでまたもとのありかたにもどすというやりかたこそ、大きな進歩であり、大きな利益をうみだす、そのような法則でしょう。
 たとえば、昔は水車小屋から水車を回し、米つき機械を動かしました。
 これに対して水力発電は水車→発電機→送電線→コンセント→それぞれの電化製品(実際はもっと複雑でしょう)という「媒介関係」に置かれ、まわりみちをとっています。これは機械的な力を1度電気的な力に変えて遠くにはこび、そこでまたもとの機械的な力にもどして使っているところがまわりみちなのですが、かえって、昔の水車小屋よりわたしたちに利益をあげているのです。
 このほかにも私たちの生活の中に例は無数にあるでしょう。
 コペルニクスも天動説をくつがえして地動説を確立したときに「誰かが既に考えておりはしないかどうかしらべるために、手に入る限りの哲学者の書物を読む努力をいたしたわけでございます。」(天体の回転について序文)とあるように、古代ギリシアに立ちかえり、いわば、まわりみちをすることにより、利益をあげました。
 否定の否定は意識してうまくつかってやることにより、私たちの生活に役だたすことができましょう。

 弁証法をちまたにはびこる特権的な貴族階級的知識ではなく、人間全体の利益に役立つようにその応用化を担う方が現れるのは私は期待します。

 Σさまがいかなる法哲学思想をもっているかあえて問いませんが、私は極端な法実証主義や条文科学信奉者ではございません。私は碧海純一は有能な学者の一人と考えておりますが、私と考えを異にする点が多々ございます。
 私には自然法なるものの存在はやはりその存在としては、私たち人間の頭の中にしかないと考えております。そして、残念ながら、一部の人の頭の中には自然法なるものがないとしか思われないと確信せざるをえないのです。
 しかし、やはり、悪法があるならば、悪法は悪法で、根本規範ないしは自然法に反するのでしたがう必要はない(窮極的には)と解しております。

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社会的価値 投稿者:ε 投稿日:10月 9日(月)02時53分1秒

田中さん、
自己紹介が遅れましたが、私は哲学者でも論理学者でもなく、大学の工学部で数学を教えているものです。研究上の専門と異なるポジションにいるため、大学院に進学しない卒研生には私の専門によらず、数学やコンピュータに何らかの意味でかかわる、理論的工学分野をテーマとしてもよいということにしています。

(以下は昨日の15時6分の投稿へのレスです)

さて、哲学の社会的価値という重いご意見のように思います。
哲学者ではない私が答えるべきでないということかもしれませんが、最近、日本の数学についての現状調査と提言を読みましたが(ソースを失念しました。思い出したらまた書きます)、ある意味で同型の問題のように思いますので少し述べてみます。これはかなり膨大な資料を含むものですが、一言で言えば、日本の数学研究はいまだに国際的に高い水準を保ってはいるが長期低落傾向にある。その原因としては、若い研究者の就職難、諸外国に比べた研究費の少なさなどをあげています。そして、

1.抽象的な数学研究へのサポートは数学全体の水準を保つためにも、将来の応用可能性のためにも必要である。
2.特に日本の場合、応用数学の研究者が少ないので、数学以外の分野との一層の交流が必要である。

などを提言していたと思います。これは数学に対する社会的価値について述べたものと考えることもできます。もちろん、数学と哲学とでは社会的なポジションや学問構造が違うので、同列には論じられないでしょうが、上の2つについてはほぼ同じことが言えるのではないでしょうか。

形而上学の問題はほとんど最終的決着はつかないのはおっしゃるとおりでしょうが、まったく進歩がないということにはならないでしょう。論争を通じて諸概念間の関連がより明瞭になるということも一つの進歩です。また、理論物理学などとは異なり、意識や脳、情報科学などがからみあう分野では、形而上学(者)が科学そのものに寄与しうる可能性は高いと思います。

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Re: 投稿者:φ 投稿日:10月 9日(月)02時40分45秒

 そうですね、論理哲学からは、社会的発言がほとんどありませんね。大いに乗り出したいところです。

 ところで、「アロンゾ教会」には笑いました。まあ、その種の間違いは、内容に関わるものではないので、中村元御大の面目にはキズは付いてないと思うことにします。チャーチは専門筋には重要人物でも、格別、有名人ではありませんしね。

 ところで、チャーチといえば、
 『ゼロからの論証』4-1の「ニュートン・アインシュタインをダーウィン化する」というタイトルは、
 David Kaplan(これも専門筋には重要人物だが哲学外では無名)の論文タイトル「フレーゲ・チャーチをラッセル化する」をもじったものです。
"How to Russell a Frege-Church" (1979), em Loux, M. (ed.), The Possible and the Actual――Readings in the Metaphysics of Modality, Cornell U.P.

 なお、この The Possible and the Actual という本は、やや古いですが、現代分析哲学の「形而上学」を知るには恰好のアンソロジーでしょう。

 ところで、社会問題を扱うにしても、学問的にやるには「自分の言いたいこと」を言うわけにはいきません。論理の導きに従った展開を志さねばなりません。
 『ゼロからの論証』では、前半エッセイ、後半論文となるので、前半では言いたいことを言い、後半ではより論証的に抑えているという面があります。3-1で「シミュレーションアーギュメント」について多少独断的に見える書き方をしているのは、あくまでエッセイだからです。(ただしそこでも最低限の論理の枠は示しています)。

 インテリジェントデザインのようなインチキ科学と、シミュレーションアーギュメントのようなまともな哲学とを読者が識別できる助けとなるような、そういう語りを工夫することがこれからの課題だと思っています。

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定義が妥当なら証明済みと同値 投稿者:Σ 投稿日:10月 8日(日)22時48分54秒

若干のリーラ(遊戯)モードでヘーゲル哲学を語ってみましょう−−−

恐るべきヘーゲルは、そうした(誤謬のない誠実な総合判断を志向した)カントの更に上を行きます。

ある賢明な御方、曰く−−−−
>>−−証明において、そのように定義した、というのは空虚なトートロジーだと思うのですが。
だから、証明といわずに定義といえばいいのだと思う。
しかし、証明とはつまるところ、定義のことなのだろう。
その定義が妥当であれば、証明はすでにすんでいることになる。>>−−−

うむ。そうか!
だとすると・・・

ヘーゲルによれば、
「絶対精神(神)」とは、即自的、且つ、対自的存在である。

素晴らしい!
上記の定義は全くもって妥当であるので、証明は既に済んでいることになる・・・・。

ん?  定義が妥当だと、どうしてわかるの?

その理由をウィトゲンシュタインばりに、論じてみよう。
彼の上記の定義が「妥当である」とする根拠は、次のようになるであろう。
即ち、ヘーゲルは、「客観的(即自的)」と「主観的(対自的)」を「且つ(∧)」で結合関連させているではないか。それゆえに、妥当なのである。
つまり、世界には「客観と主観」の二種類しかないのならば(そしてそれは誠実な総合判断としても妥当であろうから)、そうした「客観・主観」の「総合・総体」こそが「すべて」であることは自明であるだろう(し、これを誠実な総合判断としてもよかろうから)、「それ」こそ「世界そのもの」ということになる。
つまり、そのようなものとして「世界一切」は記述される。

おお、なんという単純な統合的論理学であることか!
これが、かの難解・晦渋なるヘーゲル哲学の本質なのか?!

もしそうならば・・そして、多分、きっと、そうなのだが・・
ヘーゲル哲学とは、田中先生が評するように−−−
>>−−いわばヘーゲルの哲学は選ばれた哲人のみにその「本質」が理解可能な極めて高貴な、いわば知識の貴族階級ともいうべき思想>>−−−
であろうとの評価にあるような、「(秘教性ゆえの)知識貴族の独占思想」ではなくて、
まさに、「有るものすべて」を、もっと言えば、「矛盾・対立するもの一般」を「全的に止揚統合」する思想であり、そうした「統合の形式(弁証法)」をひとたび是認し受け入れることさえできれば、「誰でもわかる、本質的には簡素な思想」であり、その意味で庶民「みんなの思想だ」、ということになるでしょうし、「弁証法的統合形式体系の中であらゆる思想を包括してしまう全的思想だ」ということになるでしょう。
ヘーゲル哲学を秘教的として受け入れがたいと思う人々は、上記の−−「矛盾・対立するもの一般」を「全的に止揚統合」する思想としての「統合の形式としての弁証法の論理(というか現象学)」を−−形式論理学的に受け入れない−−ということなのでしょう。 これさえ、ニガイ薬を飲むように「えいっ」と呑み込んで受け入れてしまえば、ヘーゲル哲学の秘教性(つまりヘーゲル神学)の渦中に身を投じることができると思います。(笑)

ヘーゲルの有名な言葉を締めとして一つ−−−「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」−−−。

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人間・国家の品格と論理 投稿者:Σ 投稿日:10月 8日(日)22時28分22秒

田中先生へ
三浦教授が法学系統などの実学に進出すべき、とのご意見はある意味当然かもしれませんね。
高等遊民的立場の人も国家には必要だと思いますが、米国流プラグマティズム的というか、産学協同というか、そういう実務への還元という意味での社会奉仕行為は大切だと思います。

「法律の条文」はほとんど多くの人が「何とかならないか」と思う種類のものですから、是非、三浦教授などの方々が集まって、プロジェクト的に、表現の明晰化、要件記述を明確化する表記手法などを編み出して頂きたいものです。それができれば、後世に名を残す社会的功績になることでしょう。
まあ、それはあまりに「大仕事」なので、やはり無理かとは思いますが・・・(笑)。

私は昔、長谷部恭男・現東大大学院教授が若かりし時、昼食を御馳走になってケルゼンのことなどについて対話したことがあるのですが、彼は、特に分析哲学大好きというお人ですから、三浦教授と憲法その他について対話をすれば、すぐに意気投合して、面白いことになるであろうことは請け合いだと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%83%A8%E6%81%AD%E7%94%B7

三浦さまへ、
というわけで、『戦争論理学』の前に、是非是非、長谷部恭男教授と(出版社の人を介してなどの手段で)一度、会食の機会などを持って頂いて、まずは『憲法論』から切り込んで頂き、「9条論」それから「戦争論理学」という流れになさると、より一層、戦争論も効果倍増だと思います。
どうか、一度ご検討下さい。

田中先生へ
藤原正男教授著『国家の品格』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106101416
薄っぺらい本ですが面白いです。数学者なのに、論理より情緒を強調する。
論理的人間は、論理のスタート台たる公理として「間違った命題」をひとたび選択してしまうと途中の論理が間違わないだけに結論が必ず誤謬となり、とんでもないことになる、と警告。
論理展開のスタート命題として「何を」選択するかは、その人の人間力・総合力・情緒力である、という。特に彼は、新田次郎を父に持つため、文学的情緒の重要性を力説します。また、武士道における惻隠の情なども高度な精神だと力説します。
村上世彰の事例のように、東大から通産官僚というエリートでも、高貴な情緒がなければ、「記者会見でのあのような、見え透いた虚偽の言い訳」などをする人が育ってしまいます。 「論理だけでは駄目」という藤原教授の指摘が、正鵠を射ているように感じられます。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 8日(日)15時06分3秒

 εさま、私が学生時代のころですが非常に明晰に論理的に思考する方がおられました。私は彼の文からさまざまなことを学んだのですが、彼は独我論のようなものをとなえ、私にとっては、論理の誤用による形而上学の病にとりつかれたもののようにうつりました。単なる世捨て人のようにうつりました。
 これに対して碧海純一は分析哲学を法哲学に応用するという画期的なことをしました。  彼は科学的・合理的な考え方を擁護し、あらゆる形の独断や狂信(集団的狂信)に対して忌憚のない批判を続けてこられました。
 高度な論理をもっている方々がいかにそれを使用するかは自由です。忘れてはならないのは彼らが自然に親しんでる論理は世の中の大部分の人は持ち合わせていないということです。とするならば、高度な論理的思考能力をもっているものはいわば、エリートとしての自覚(高慢でなく謙虚な)をもつべきと考えます。
 形而上学的な問題は、人間が一生かけても解決できない問題と考えるのが合理的です。
 そして、形而上学が科学の前衛を担う可能性は現代においては、やはりほとんどないと考えるのが合理的です。
 論理をもっているものはそれを形而上学に用いたり、論理のパズル遊びのようなものに論理を駆使して、学問するのはよいのですが、やはり、それだけではいけないと考えます。
 私は長い実務の中で存在論抜きの論理を用いてさまざまな人間ドラマを見てまいりました。いくらか論理を人のために役だたすことができたと思います。
 青年時代に親しんだラッセルを三浦先生のご著書で思いだし、すたれてしまったと思われた論理学と分析哲学の復活をみたおもいがしました。そして、碧海純一のような人が現れるの期待したのであります。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 8日(日)13時35分23秒

 Σさまのおっしゃる「仮象論理による誤謬判断の連鎖的独走・暴走」なるものの真意は極めて奥深く、わたくしにはその本質をつかむのが非常に困難なのですが、わたくしが懸念していることとほぼ重なるでしょう。

 三浦先生のゼロからの論証を丁寧に熟読させていただいておるのですが、5章は安心して読めるという感想です。宇宙論的な観点もすばらしいのですが、わたくしのような独断に陥りやすい人間にとって、非常にクリティカルシンキング的なものを強化させられた感じがします。ぜひ、先生のような大変高度な論理的思考力をおもちの方に社会哲学方面(非論理がはびこっております)にも進出していただきたいと思ったしだいです。

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アプリオリな総合判断 投稿者:Σ 投稿日:10月 8日(日)09時32分24秒

田中先生のご意見は尤もです。
>>−−私が主張したいことは、論理の使用のもとで絶対主義的な独断に陥ることがありがちなのではないかということと、(・・・)直感はあてにならないがしかし、完全に直感を信じないというのは極端であるということ>>−−−−−、

田中先生の上記の感想はそのままカントの思いでもありました。
ライプニッツの思想を引き継いだその弟子クリスチャン・ヴォルフは、オントロジーとしての一般形而上学と、霊魂論や宇宙論や自然哲学(自然神学)を扱う特殊形而上学の二種類を立て、もっと言えば、論理学・存在論・宇宙論・心理学・実践哲学の五部にして体系化したわけで、これが当時のドイツ思想界でかなり風靡した時代、ヴォルフ流の論理主義が、独断的・専断的に過ぎ、まさに田中先生が言われるごとく、「絶対主義的な独断に陥る」ことを痛感するに到ったのが カントでありました。
そこで、そうした「独断論のまどろみ」から覚醒するべく、「ア・プリオリ/アポステリオリ」「分析判断と総合判断」などの概念を使い、アプリオリな分析判断は当然的な道なりの論理(同語反復的)でしかない(と考察)し、一方、感性的直感に基づく経験的・アポステリオリな総合判断も経験に基づくものだから「ある意味」自然・当然な判断であると考えられるが、しかし客観的な「学」として、仮象論理による誤謬判断の連鎖的独走・暴走という「(独善・専断的)独断論」から脱却するためには、
その折衷・中間としての、
「アプリオリな総合判断は如何にして可能か?」 という命題が立てられ考察される必要がある、という認識に到り、それがカントにより哲学されたわけです。
そして、感性や悟性が、自分の役割を弁えずにそれぞれが「過剰」に判断したり「不足」に判断したりすると、独善的な専断・独断論に陥ってしまうことを カントは指摘しました。

カントはそれゆえに、コペルニクス的転換を哲学にもたらしたと評されます。
それゆえに、とは、それまでの受動的な所与の認知論(模写説)から、人間の感性と悟性による「構成主義的な構想力」によって人は主体的に認識するのだ(構成説)、としたからです。

法律においても、慣用的に使われる「諸点を総合的に勘案して・・」なども、勿論、「誤謬を最大限排除することに意を注いだ総合判断」を志向するものでしょう。

ε様が提出された面白い比喩に、「無限人(永遠の生命を持った人間)の一生」という2時間で終了する伝記映画のケースがあります。
仮象論理レベルでは充分「有り得る」(考えうる)ものですが、実在(現実)的可能性の認識としては破棄されることになります。論理思考の暴走的過剰思考として、破棄されるわけです。
私的には、ここに(とは、人間の構想力に一定の合理的足枷を意図的に設ける)数学的直感主義の立場がオーヴァーラップするのです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 8日(日)07時17分42秒

私は古い人間です。

 私が主張したいことは、

論理の使用のもとで絶対主義的な独断に陥ることがありがちなのではないかということと、

 権威がある先生のいうこと(直感的に明らかにおかしいこと)をただ盲信するならば、それは、戦前のわが国の国民の知的レベルと同じようなものであるということ

 直感はあてにならないがしかし、完全に直感を信じないというのは極端であるということ、

寛容の精神を持って健全にものごとを相対的にとらえるべきということ、

形而上学は重要である、しかし、わたしたちが直面している問題群(環境、経済、外交、年金、平和etc)は重要であるので、すばらしい論理的思考力をもっている諸先生方に(特に論理学、分析哲学方面)ぜひとも重要な問題にも関心をもっていただきたいと切に思っていたしだいでした。

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直観主義、形而上学 投稿者:ε 投稿日:10月 8日(日)02時59分1秒

Σさん、
カントや直観主義の話をしましたっけ?記憶にないのですが・・
というか、カントと直観主義の関連については初めて知りました。
私が直観主義についてある程度知っていることは、以下のことくらいです。
ブラウアーのもともとの形では、形式的に整理されていず、また、多くの数学の結果が(現実に役に立っているものさえ)証明できないので、ほとんど支持を得られていなかったのだが、その一つの後継者であるビショップによる構成主義ではかなり多くの数学の結果が証明できるので、関心を示す数学者も増えてきた。実際どんな数学者でも、数学的対象が単に存在する(非存在から矛盾が導かれる)だけよりも、実際の構成ができたほうがいいと思っているには違いないのですから。
それ以外にもいろいろ立場があるようですが、よく知りません。

それと先生というのはできればやめていただきたい、少なくともここでは「先生」ではないのですから・・

田中さん、
形而上学について、分析哲学のスローガンが形而上学の追放にあった頃の古いイメージで語られているような気がします。英米系の(分析)哲学において、形而上学はむしろ近年非常に盛んに研究されているのではないかと思うくらいです。Wikipediaではあまりよくわからないのですが、Amazonで「metaphysics」で本の検索をかけると、論文集や教科書など最近のものがいくつも出てきます。日本語訳では「現代形而上学論文集」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326199482
というのがあります。ある学問分野の基礎概念を問ういわば手堅いものから、神や第一原理の存在を問う伝統的、思弁的なものまでいろいろな方向があるようです。

存在論に限定すれば、産業への(!)応用として「オントロジー工学」というのが研究されています。実はこの本
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4274200175/sr=1-2/qid=1160242507/ref=sr_1_2/503-6392771-1323925?ie=UTF8&s=books
を半年くらい四苦八苦しながら学生と輪講しているのですが、アリストテレスやパースのカテゴリー論の考え方を生産プラントや機械の働きなどに適用して、知識の共有や故障の診断などに応用しようというものです。また、この分野では「法律のオントロジー」についての論文などというのもあるようです。

そういえば、数年前の「現代思想」にアメリカのソフトウェア会社が「形而上学の研究者」を募集した話が出ていました。これもウェブにある膨大な情報をうまく取り扱うためのセマンティックウェブというのが現在盛んに研究されているのですが、それに関連した話のようです。

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仮象論理による誤謬判断の暴走抑止策の問い 投稿者:Σ 投稿日:10月 7日(土)22時13分13秒

田中様へ

>>−−言語と論理より有効な道具は現実には存在しません。弁証法ですら言語で表現されているのです。したがって、弁証法も学問的な知識であるならば言語と論理にしたがわなければなりません。そして、論理学は排中立を絶対化しているわけではありません。(直感主義を考えてください)>>−−−

以前に、ε先生と対話した時にも、直感主義関連の話題になりました。
「数学的直観主義」は、カント哲学の咀嚼理解とその延長線上にある主義です。
すなわち、カントが、単なる「論理的可能性の認識」に過ぎないものを、いつのまにか「実在(現実)的可能性の認識」と同値的にすりかえてしまう、という(無意識的な)「仮象論理による誤謬判断」の混入を許すことがないように、という注意深い考察のもとに、
「感性的直観」に依存して認識できるものとできないものを峻別したわけです。

そもそも、田中先生が仰るように、「言語と論理」が頼りであるならば、言語と論理を使用して思惟し洞察して行く中で、「仮象論理による誤謬判断」に陥るか陥らないか、について、特別に配慮すべき、、ということが、論理的に思考する者の基本的な「当為(べき論)」になりましょう。

そういう意味で、ウィトゲンシュタインが無批判的に大前提とした論理写像の考え方に対しても、「そもそも実在(現実)の忠実な写像化などできるのか」という問題に直面するわけでしょう。
「仮象論理による誤謬判断の暴走」をどのように抑止するべきか? が考察されるべきではないでしょうか?
その一つの解答をカントがしたわけですが、ヘーゲルによるもう一つの解答は、もっと根本的であり、本質的です。すなわち、「実在(現実)と仮象」という二分法を「愚かしい笑うべきもの」とするのです。

ゆえに、ここで一つの踏み絵が発生します。
「実在(現実)と仮象」という二分法を採用しそれに立脚するのか、それとも、それを採用しないのか?

論理学的思考を始める出発点において、このような問いを発してみては如何でしょうか?

この問いは、「言語と論理」を扱うすべての人々が直面しなければならない問いでありましょうし、これを避けて通ることもできないでありましょう。

空王寺 碧海龍雨(あおみ りゅう)
URL : http://www.hannya.net/

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 7日(土)21時30分47秒

 Σ様、私も弁証法は論理学とおっしゃる意味で次元が違うと考えます。Σさまのおっしゃることはまったく正当であり、正しいです。そして、弁証法と論理学は対立するものではないと思います。弁証法は論理学の使用をする上での、そして、人間の生活する上での高次の法則といえるでしょう。
 しかし、情報を組成するには言語と論理に頼らなければなりません。この言語と論理より有効な道具は現実には存在しません。弁証法ですら言語で表現されているのです。したがって、弁証法も学問的な知識であるならば言語と論理にしたがわなければなりません。そして、論理学は排中立を絶対化しているわけではありません。(直感主義を考えてください)

 私にはそしておそらく多くの人には、ヘーゲルの文が私たちが日々おこなっている行動や生活とどのような結びつきをもつかをはっきりと知ることができません。「人間精神」とか「反省」とか「超越哲学」その他の多くの抽象的な語の「本質的」な意味は凡人には一生わからないでしょう。また、何度か読んでわかった気になってもそれがヘーゲルを「本質的」に理解したか否かは一生わからないでしょう。
 いわばヘーゲルの哲学は選ばれた哲人のみにその「本質」が理解可能な極めて高貴な、いわば知識の貴族階級ともいうべき思想と評価できるでしょう。

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一部の表現の訂正 投稿者:Σ 投稿日:10月 7日(土)20時51分26秒
(訂正)

(誤記部分)−−−たとえば、形式論理学のステージで、無矛盾性を堅持した「排中律」を主張するならば、ヘーゲル哲学側からは、「それは排中律の正当性それ自体を形而上学化している愚挙だ」という批判になります。−−−

(修正文)−−−たとえば、形式論理学のステージで、無矛盾性を堅持した「排中律」を「これこそが論理的に正しく、論理として絶対的だ」と主張するならば、ヘーゲル哲学側からは、「それこそ、排中律の正当性それ自体(という生命なき屍)を形而上学化し(絶対化し)ている愚挙だ」という批判になります。

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矛盾概念 & 本質概念 投稿者:Σ 投稿日:10月 7日(土)20時40分42秒

田中さまへ

>>−−ヘーゲルは同一律や矛盾律を「机は机だ」というように主語と述語の同一性と解釈し、しかも語には必ず物が対応するという解釈を無意識に付け加え、「机は机だ」という文は物の世界の自己同一性を意味し、変化を否定すると考えたのではないでしょうか。そしてこれは矛盾律についての誤った解釈から導かれた誤った考え(i.g.アリストテレスは『形而上学』Γ6、1011B、16で「矛盾する命題が同時に真であることは不可能である」とし矛盾律について「矛盾する命題」と書いているのにヘーゲルは主語と述語の同一性と誤解した)というように理解されるのがいやしくもそしてまがいなりにも哲学の本を多少読んだことがある者の一般的な理解と思いますが。これが一般的な教養人の理解と考えますが。私はヘーゲルの世界の見方は論理と存在との誤った対応のさせ方に基づいた誤った解釈であると考えます。>>−−−

「ヘーゲルが主語と述語の同一性だと誤解した」というように理解するのは、ヘーゲル哲学の「本質」を知らない、ひどい的外れな批判です。ヘーゲルはそんなバカではありません。そのような批判は、粗悪な通俗本での解説ではないでしょうか。

そもそも、ヘーゲル哲学は普通の哲学ではありません。その哲学の体系は超越「論」哲学に留まるものではありません。ヘーゲル哲学の「本質」は「超越哲学」であり、ゆえに、「神学」を含む形而上学的存在論でもあります。

ゆえに、巷によくある定番の批判としては、「矛盾を存在論化した」と言われます。
田中様の批判もその類と同一線上のものだと言えましょう。
しかし、そういう批判者は自分の言う「矛盾」概念の本質についてしっかり定義出来、わかって述べているのかと言えば、実はそうではない−−−という再批判ができますし、事実あります。
恐らく、田中様も、「矛盾」概念について深い考察はしていないのではないでしょうか?(ヘーゲルほどには)。
たとえば、形式論理学のステージで、無矛盾性を堅持した「排中律」を主張するならば、ヘーゲル哲学側からは、「それは排中律の正当性それ自体を形而上学化している愚挙だ」という批判になります。

但し、ヘーゲル哲学は形式論理学を愚弄するものでは決してありません。それを使いながら、それに留まらない「弁証法」的な事柄を説いているのです。すなわち、「人間精神」たる「主体」の「発展形式」の「叙述」を、です。
つまり、形式論理学を取り扱い操作するところの「当の観測者」であり思考者であるところの「主体精神」に関する「反省的な論理学」なのです。
その意味で、「形式論理学」それ自体を「反射・反照的に考察」するという意味での、「メタ論理学」的な、一段階(一次元)上の階梯の論理だと言えるのだと思います。
それが、私が「次元が違う」という表現で使ったことの内容になります。

>>−−(e.g.人間は天体の運動をその瞬間瞬間の位置と状態の記述を通じて正確に予測して、宇宙にロケットを発射させたりしているのにこれが天体の運動をほんとう(本質的)に捕らえていないとしたら、いったいどのようなことがほんとうに捕らえたことになるのでしょうか)>>−−−

ヘーゲル哲学における「本質」概念は「同一性」と不可分です。
「本質は現象する」という彼の表現に端的に顕れています。この表現においては、カントの「物自体と現象」という二分法は取られません。本質「が」現象するのであり、現象する変化の諸相における「差異」は現象の本質的な部分とは「同一ではない」と解析されるので、現象は本質としての同一性と非本質的な差異との矛盾(物・存在)であるという論理になります。

これに関連させてみますと、シヴィリアン・コントロールの桎梏が外れて暴走した旧日本陸軍が醜いという「その現象」の中に、日本人や日本文化の「本質」を見るのか?  それとも、それは「おでき・吹き出物」のような「一時(片時・一瞬)の病気」の如きもので、そうした不健康状態の中には日本人や日本文化の本質はないとみるのか?

「美しい日本」を論じる上で、重要な視点だと思います。
そして、三浦先生が、大東亜戦争を題材にするのであれば、「戦争論理学」を論じる上でも、当然不可欠の視点ではないかと思います。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 7日(土)19時21分44秒

 「ブッダ論理学」というような題名の本が本屋さんにあっても一般的な教養人は相手にしないか、読んでもすぐに間違いだらけのインチキ本ということに(丁寧に批判するまでもなく)気づくでしょう。
 しかし、論理学に詳しい人が、そして、論理に関する良書を書いてる人が詭弁を弄して、論理を駆使して、インチキな世界観を論じるならば、少なからず、まじめに受け取る人も出てくるでしょう。
 一般的に言われる「形而上学」を集約するならば、経験的に分析不能、かつ解決されても一般人の生活に間接的にも影響を与えず、しかも原理的に解決不能なことに思考エネルギーを費やすことといえるでしょう。そして、進化論、ビッグバン理論、そして量子論はここにいう「形而上学」にはあてはまりません。
 「形而上学」をすることにより人生論を導き出したり、悟りを開くことがあるかもしれませんが、進歩した現代科学に貢献すると考える人は「学会一般」でも少ないのではないでしょうか。

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Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日:10月 7日(土)18時05分6秒

 なにに対して「形而上学」というレッテルを貼っているのかは不明ですが、現在、科学と言われているものは、かつてはすべて形而上学でした。
 高名な科学者が、「原子」は実証できないから空虚な仮説だ、と言い張った時期もありました。
 形而上学が蔑まれ続けていたら、進化論も、ビッグバン理論も、量子論もなかったでしょう。
 現在のフロンティア領域――クオリア、多宇宙、生命の起源、超ひも理論など――のうち、どれを「形而上学」として捨て去るのか、本質の規定がなされねば、権威主義に陥るでしょう。

 私は(私だけでなく学界一般は)、ブッダ論理学に対しても、もし現代標準論理を拡げる興味深い知見が見えれば、トンデモなどと決めつけず受け容れる用意があります。あの特定の『ブッダ論理学』はたまたま新しい知見を含まず、明白な誤りが目立っていたので、顧慮に値しないと捨て去っただけでした。論理的に一貫していて、概念地図の整理に役立ちさえすれば、定常宇宙論だろうが超心理学だろうが輪廻転生論だろうが、議論に値すると考えられます。とくにシミュレーション・アーギュメントは、コペルニクス的世界観の正統的な延長上にある仮説ですから、真面目に考えない手はありません。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 7日(土)12時42分44秒

 「法律(哲学、論理学、自然、生命、自由、平和 虚構、可能世界 etc)の本質とは何か」というような問題提起の仕方においてはその文で主語となる名詞は真偽を問えずただ定義されるだけです。このような発想法はアリストテレス的な本質的な実体の存在論の発想法です。

 これに対して、現代論理学や現代科学においては「関係」の数学的把握から始めます。  このようなことが理解できていないとすれば、現代論理学のもたらした思想界への影響も理解できていないことになりますし、ラッセルの本をきちんと読んだと評価することもできません。

 仮にシミュレーションアーギュメントなるものを本気で信じている者がいるとしても、それだけでは社会に悪影響はないでしょう。しかし、論理を悪用したり不明晰な言語の使用のもとで、詭弁を用いそれを説得する者がいるとするならば、社会に悪影響(不用な語による誤った言語使用による誤った世界の見方に一般のまじめに働く人々を陥れる)を与えるのでそのような者は自覚すべきでしょう。
 論理は宇宙論等にもちいる必要はあるのですが、論駁する必要性すら感じさせないような形而上学をとなえるのは論理(学)の悪用であり、インチキなブッダ論理学なるものと同罪と私は評価します。

 私たちはお互い、同じこの社会に住んでいて、政治や経済の動きをもっとよいものにしてゆくために、ものの考え方や言葉の使い方の点で、いかに注意すべきか。それを哲学と論理学の立場から考えていくべきです。形而上学にわずらわされている哲学は退廃的と評価されてもやむをえないでしょう

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 7日(土)08時38分8秒

 本のご紹介ありがとうございます。

 ただ、私は東洋の相対、西洋の本質というとらえかたはこれからの時代はあまり妥当な言い方ではないと考えます。私は相対主義者ではありませんし、ポストモダン関連は読んだことがありませんし、仏教についての知識はゼロに等しいです。
 英米の哲学界では本質など完全に廃れたのではないでしょうか。まともな新しい本を読めばessenceを使用している本は皆無に等しいでしょう。wikipediaでessenceと英米系のつながりをさぐるのもよいかもしれません。

 私が考えるのは本質というのはことばの問題であり、不用でない語であるが、それはその語を使用する者ないしは集団がその内容を決める語であるということです。

 それから、英語圏の新しめの論理学入門書(VSI LOGIC等)はpropositionとsentence等を峻別しておりませんし、わが国の論理学書の多くのものはオッカムの剃刀を使うべき部分が多い気がします。わが国の論理学書や分析哲学を標榜する者の本はウィトゲンスタインの解釈やいたずらに厚いが間違いや削除すべき内容の多い言語哲学の本(しかもそれを誉め合っている)やらが多くて相対的にも絶対的にも向上の余地がたくさんあると考えております。

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すいません 投稿者:田中 投稿日:10月 7日(土)07時31分20秒

 時間がないときに行っているということと、このようなことに慣れていないので誤字が多くなってしまいました。ご寛容ねがいます。

 Σさん、一般的にヘーゲルは「形式論理学」に対して批判をし、弁証法なるものを主張した、と理解されているのではないでしょうか。事実の認識が誤っているように思われます。
 私は哲学は門外漢ですが、「次元が違う」という言語使用に基づいた批判や指摘が普通に許されているとしたら、感心できませんね。そのような営為を哲学と呼ぶならば哲学という語の使用はしないほうが社会的に有用でしょう。それから、相手にレッテルを貼り、それでこと足れりとするのも感心できません。

 ヘーゲルは同一律や矛盾律を「机は机だ」というように主語と述語の同一性と解釈し、しかも語には必ず物が対応するという解釈を無意識に付け加え、「机は机だ」という文は物の世界の自己同一性を意味し、変化を否定すると考えたのではないでしょうか。
 そしてこれは矛盾律についての誤った解釈から導かれた誤った考え(i.g.アリストテレスは『形而上学』Γ6、1011B、16で「矛盾する命題が同時に真であることは不可能である」とし矛盾律について「矛盾する命題」と書いているのにヘーゲルは主語と述語の同一性と誤解した)というように理解されるのがいやしくもそしてまがいなりにも哲学の本を多少読んだことがある者の一般的な理解と思いますが。これが一般的な教養人の理解と考えますが。
 私はヘーゲルの世界の見方は論理と存在との誤った対応のさせ方に基づいた誤った解釈であると考えます。  変化を本当(本質的)にとらえるとか変化を変化そのものとして捕らえるという表現は問題にするべきです(e.g.人間は天体の運動をその瞬間瞬間の位置と状態の記述を通じて正確に予測して、宇宙にロケットを発射させたりしているのにこれが天体の運動をほんとう(本質的)に捕らえていないとしたら、いったいどのようなことがほんとうに捕らえたことになるのでしょうか)

 ほんとうにとか本質的とか「次元がちがう」という語や文の使用を明確にしないで、このような言語を使用し問題を提出するとすれば、おそらくそれらの多くの問題(もしくはすべて)の解決は単なる言葉の上だけで解決できるでしょう。

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相対主義 投稿者:φ 投稿日:10月 7日(土)03時04分51秒

 相対主義は正しいことはもちろんですが、相対性をあえて強調しても得るところはほとんど無かろうと私は思っています。真理が相対的ならどこがどうどれほど相対的なのか、相対性の本質を分析しなければ埒があきません。ただ「真理はすべて相対的」と言うだけなら大して知能はいらないので、怠惰な道に入り込んでしまいがちです。老荘くらいまで徹底するなら別ですが、ほとんどの相対主義思想はわかりきった常識を無難かつ大まかに述べているだけなので。

 結局、価値ある相対主義は、本質主義なのです。相対主義も、相対性の本質を決定する努力を伴わなければ、無価値と言えそうです。せいぜいが、本質主義の行き過ぎに反省を促すサプリメントとしてのみ、使える程度でしょう。

 『ラッセルのパラドクス』p.13で言及し、『心理パラドクス』088,089でも使いましたが、西洋の本質主義vs東洋の相対主義については、↓が教訓的なよい本でした。
http://russell-j.com/westeast.htm

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偉大なヘーゲル 投稿者:Σ 投稿日:10月 6日(金)22時48分58秒

もう一人の碧海として一言申し上げるとすれば、ヘーゲルの「概念」を形式論理学的な「概念」として理解してはならない、ということです。
「すべてのものはそれ自身として矛盾している」
というヘーゲルの命題は、真理を正しく深く洞察した素晴らしい命題です。
無矛盾性に立脚する形式論理学は、ヘーゲル反省論理学とは次元(格)が違います。
あたかも、子供論理と大人論理の如くに。
このように述べると、反ヘーゲル主義者や法律の条文科学信奉者は憤激するかもしれません。
しかし、法律家に対しては次のように述べることで、多少の理解が得られるかもしれません。
ハンス・ケルゼンの「根本規範」であっても、ヘーゲルが分析すれば、それ自体に相反する矛盾が内包されているのだ、と解析されることになる、と。
こうした解析行為は、立派な論理学的行為でありましょう。
尤も、若い弁護士や事務員がこうしたことまで理解したら、レベルが高すぎる法律事務所になってしまうので、大変なことになってしまいますね(笑)。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 6日(金)16時02分11秒

 その意味が明白であり多くの文に対応させられた存在を偶然的な単なる現象とし、その意味が最も捕らえがたいような「概念」に対応する存在を現象の背後に隠された「本質的」なものとして愛知者のみに捕らえられる(凡人には捕らえられない)最も真実な存在と考えるならば、このような思想は主語-述語の思想の進め方である伝統的論理学の影響を抜けきれていない思想の進め方でしょう。
 本質主義(ヘーゲルがその典型でしょう)はラッセルが決別した重要な思想の一つでしょう。
 K ポパーと親交の深かった法哲学者の碧海純一も戒められておりました。
 仮に明晰な思孝の最小単位が概念であると考えるならば、そのように考える人は現代論理学を学んだ効用がほとんどなかったと言わざるをえないでしょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 6日(金)07時54分5秒

 ご答えいただきありがとうございます。

 言語の私秘性が社会性より基本的であるならば、概念(e.g 法律、哲学、科学、経済学、数学、論理学、本質等をめぐる根本的な論点)をめぐる論争の中には定義ないしは規約的なことが争点になっているものも少なくないでしょう。
 そして、言語の私秘性が社会性より基本的であるならば、意味論の諸論点のかなりの部分もやはり、規約的な問題でしょう。
 私はポストモダニズムと呼ばれるのは心外なのですが、最近は(わが国のみならず)事物を相対的にとらえる視点が弱くなっていることに対して危機感をもっております。
 そして、これらの点については、三浦先生から使い古された言い回しとお叱りを受ける点でしょう。

 私は、若い弁護士や事務員に「論理学入門」を買い与えたのですが、「人間原理」の部分は読む必要はあまりないと申しております。「人間原理」部分は先生の「論理学入門」の読者の大部分にとって難しく、理解不能となっている可能性があると思います。しかし、読む価値がないと言っておりません。ひと昔前は存在論抜きの論理学というのがキャッチフレーズのようになっておりましたが、最近の論理学書はその点について触れないまたは逆行している点が言語論的展開以前の形而上学にかかずらわってばかりいた昔の哲学を想起させます。ただし、形而上学を恐れるあまり反形而上学におちいる必要はないということはいうまでもないことでしょう。

 戦争と論理(学)に関する著作が出版されたらたのしみに読ませていただきます。

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Re: 投稿者:φ 投稿日:10月 6日(金)01時48分32秒

 野崎先生のそれは確かに「俺の言いたい」定義なのかもしれませんね。むろん実際は、反実仮想的なあらゆる状況で当該物に当てはまれば、それ当該物にとって「本質的」と言えるので、間主観的に本質は決まるでしょう。程度問題はありますが。

 言語の私秘性は、当然、社会性よりも、言語にとって基本的です。社会というものが自我より高次の(タイプが上位の)構成物であることを考えれば当然でしょう。言語の発生がかりに社会と同時であるとしても、言語にとって社会性が基本であるかのように考えるのは、発生論的な誤謬です。

 大日本帝国が醜いと感じない人は、たぶん、事実を知らないのだと思います。占領地の宣撫が出来なかったのは、やはり現地の人々に日本は醜いと蔑まれていたからでしょう。その点、保護国・植民地の兵を動員して前線で戦わせおおせた大英帝国は大したものだと思います。悔しいが、文化の格が違ったのでしょう。さすがにニュートンとダーウィンの国には、自ずと植民地の人々も敬意を持っていたのでしょう。シンガポールで降伏した英軍にいたグルカ兵は、イギリスを裏切ることはできないと、寝返るのを拒んで日本軍に首を斬られるほうを選んだそうです。

 「美しい国」なんてスローガンも、大日本帝国の醜さが感じ取れない感性で言われても、先が思いやられますね。

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野崎昭弘先生は 投稿者:クリスティアン 投稿日:10月 6日(金)00時27分32秒

「本質的」とは

「俺の言いたい」

という意味だと喝破していました。

非常に本質をついた言葉だと思います。

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戦争の公理 完 投稿者:ハム 投稿日:10月 5日(木)23時21分32秒

戦争は軍部が起こし国民は被害者だ、という見方も、
「白人支配に敢然と立ち向か」った正義の戦争だという見方も共に間違った見方だと思います。

真実は、歴史の必然だったということだと思っています。
当時の日本としては植民地政策を取らざるをえなかったでしょうし、世界としてはそれを許すわけにはいかなかった。
ちょうど今の北朝鮮の核開発と同じです。
北朝鮮としては核を持ちたいでしょうが、世界はそれを許すわけにはいかない。
だから、摩擦や衝突が起こる。
双方の社会の成熟度が同じになるまでは、争いごとは避けられないのだと思います。

>大日本帝国は醜くてかっこ悪い国だと私は感じます。

これは私も同じです。
面白い対比があります。
日本が負けてアジア諸国を去るときには、石や罵声で追われましたが、
アメリカがベトナムを去るときには、たくさんのボートピープルがついて来ました。
日本のスローガンはアジアの開放だったのにです。
日本人には植民地経営は不可能なのでしょう。
戦争に負けなかったとしても、日本の植民地政策は結局破綻したと思います。

ただ、日本軍よりも醜いと感じる軍隊があります。
それは当時のソ連軍です。
ソ連軍は民間人を連れてきて訓練もせずに戦地へ放り込む、しかも銃は二人で一丁です。

一人が銃を持ち、もう一人が弾を持ったそうです。
そして強姦事件が多いのが日本軍とソ連軍だそうです。
イギリス軍は強姦事件が少ないのですがホモが多いとか、
話が下ネタになったら終わりですね。(^^;)

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おうかがいします。 投稿者:田中 投稿日:10月 5日(木)22時29分51秒

 今まで質問させていただいたこととも関連するのですが、先生は言語の私秘性ということに関して窮極的には社会性より基本的な性質とお考えなのでしょうか。これは「ラッセルのパラドックス」においての飯田氏への指摘と関連します。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 5日(木)20時01分36秒

 なるほど、様相的性質を扱うには本質という概念を使用するのが適していますね。
 そして、形式化されていなくても論理(的)ということは許されるうるでしょう。しかし、私が危惧していることは最近の若い人が、「クリティカルシンキング」やら「論理トレーニング」等の非形式的論証を知る反面、形式的な論理学を軽視しているような風潮があることなのです。また、言語の使用に無自覚な哲学書が多すぎるのも気になる点です。そんな中で先生の「論理学入門」はコンパクトしかし様々な論点に触れているという点で最も優れた論理学入門書の1つであると考えます。
 存在措定に関連する議論に触れる入門書は少ないのでその点について触れたことに関しては非常に高く評価しておるのですが、あの点こそが現代論理学と伝統的論理学の本質的な相違をよくあらわす部分なのでその点について形而上学的な観点からではなく論じられてもよかったのではないかと思います。

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論理的 投稿者:φ 投稿日:10月 5日(木)19時01分8秒

p.94で「虚構の本質」と言っているのは、相対的な意味でです。
つまり、実際に虚構がどういうものとして流通しているか、という経験的・偶然的な制限下の事実を記述することを超えて、まだ流通していないものも含めてどのようなものが虚構として認められうるか、認められえないかという潜在性・可能性など「様相的性質」を、実際の虚構からの外挿で探ってみようというわけです。ちょうど、歴史学と詩学が異なり、物理学と哲学が異なるように、虚構作品の社会学と美学は異なり、後者は事実を超えて可能性や必然性を探る。それを「本質」と言い表わしているだけです。
 本質という概念を使わないと、私たちは偶然的な歴史的事実から一歩も外へ出られなくなってしまいます。

 「論理学」は形式的ですが、「論理」は、必ずしも形式化されていなくてかまわないでしょう。「論理的」も同様です。論理学の論証にのっとった構造を示していれば、非形式的でも「論理的」でありえます。むろん、『論理学入門』あとがきに書いたように、「子どもの論理」「消費者の論理」「被爆者の論理」等々、「感性」「主張」「立場」程度の意味をやたら「論理」と言い換えるのが望ましくないことは言うまでもありません。が、論理学の論証的論理に準じていれば、形式化されていなくても「論理(的)」と言うのは許されるでしょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 5日(木)17時21分59秒

 お答えありがとうございます。

 お叱りをうけるところの2段落目から5段落目まではまさに私もそのように考えているところです。

 先生の著作の中で「概念」や「本質」という語が散見されるので、(特にゼロからの論証の3-4にある「虚構の本質」94頁等が気になりました。)最低限それらの語に対していかなる思想ないしは意図をもっているかお聞きしたかったのです。

 「ゼロからの論証」では、7頁で「ステージをクリアしてゆくごとに、論理的思考力がレベルアップしてゆく」とありますが、正直疑問のある表現の仕方であると考えます。ただし、「一種の頭脳トレーニング」になりうるという点については、賛同しています。本書は論理学とは銘打ってはおりませんが「論理的思考力がレベルアップ」を目指す割には非形式的な問題の比率が多いことが気になりました。

 私は「「客観的本質」が無いならばいかなる意味でも本質を認めるのは無意味だ」とは考えません。しかし、すべての本質的なるものは規約的なものであると考えます。

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「客観的意味はあるか」という決まり文句 投稿者:φ 投稿日:10月 5日(木)14時56分3秒

 客観的意味が見つからなければすべて自由、というのは、もはや廃れたポストモダニズムの退屈な主張以上のものにはならないと私は思います。

 たとえば、現在の大学の「物理学」の講義で、道ばたで拾った一片の岩石の組成を事細かに調査して全学期を終えたり、「数学」と銘打った講義で、円周率の百万桁まで暗唱させるのに1年費やす講義があって、講師が毎年それを繰り返していたら、罷免されてしかるべきでしょう。「数学」「物理学」の意味は、学界の分業的構造によって決定しています。

 論理学も同様で、数学や物理学や言語学や社会学とは違う分野として、分業協力体制がとられねばなりませんから、通常、形而上学と呼ばれるべき非形式的論証を「論理学」と銘打って延々やられたら、読者は苦情を言う権利があるはずです。
 話題中立的・普遍妥当な形式的論証、それを担う学問は現代文明に必要であり、今の学問分類の呼称では、「論理学」がその任に当たっているというだけです。

 定義そのものは真偽は問えませんが、どのように定義されているか、という事実を記述した文については真偽を問えます。『ブッダ論理学』は、論理学用語の定義を無視しているので、偽なる言明から成っています。「経験分析に関する文」において間違っているのです。

 「概念に固定した客観的な意味がある」かどうか、と紋切り型にお尋ねですが、「固定した客観的な意味」という言葉に固定した意味があるのでしょうか。学問の分業の中で、論理学の役目は今のところこれこれである、と理解するしかありません。完璧な「客観的本質」が無いならばいかなる意味でも本質を認めるのは無意味だ、とするのは、「完璧主義の誤謬」でしょう。完璧主義者は、「固定した客観的な意味はない」という言い分に客観的な意味があるかのような、自己矛盾に陥っています。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 5日(木)09時38分28秒

 大変申し遅れましたが、仕事が忙しくないときなどこれからも質問等させていただきます。よろしくお願いします。
 先生の「ブッダ論理学」に対する指摘・批判等はまことに正しいと思うのですが(悪書がはびこることによる日本国民の知性の低下の防止という点で)、先生は「論理学」という「概念」に固定した意味があるとお考えなのでしょうか。
「概念」の意味(特に「哲学」や「科学」)というに関する論争はそれこそ汗牛充棟たるものがあるのですが、それらをいかに呼ぼうが定義のような文には真偽を問えないと考えるべきです。真偽を問える文は経験分析に関する文のみと考えるべきです。e.g.○○が論理学を△△と定義したとか、(曖昧ですが)一般的には現代論理学は□□なものである。等については真偽を問う意義ないしは価値があると考えます。
 もちろん、書物や論文等のしかるべき文脈であまりにその学問領域(一般的な)からかけ離れた定義や説明をすべきでないのはいうまでもないのですが(一般読者や専門家の混乱を防ぐため)、「概念」を人がいかに呼ぼうとそれは勝手なことであると考えるべきです。
 先生は概念に固定した客観的な意味があるとお考えなのでしょうか。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 5日(木)07時51分43秒

お答えありがとうございます。
εさん、はじめまして。私は学生時代は論理学の講義を受講しておりませんでした。
教授陣は伝統的論理学を学んでいたと思います(戦前の日本の大学はアリストテレスの影響を受けた伝統的論理学を教えるのが伝統だったようです。)。ただ、分析哲学の影響を受けた哲学者の方は記号論理学を教えていたと思います。学生(法学系)は記号論理学を独習していた者が多かったです。

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人生いろいろ 投稿者:にゅ 投稿日:10月 5日(木)04時39分34秒

愛情豊かで浮き世離れしたトップ。
暴力を嫌い権限を好むミドル。
従順で虚無的なロー。
重責を感じる一部ミドル層が打開を図り、
二重人格じみた不可思議な状況に陥る。
いろいろあるんだよ。

課題もいろいろ、失言もいろいろ。

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アロンゾ教会?日本の論理学史 投稿者:ε 投稿日:10月 5日(木)02時24分34秒

例の「ブッダ論理学」がきっかけで、インド思想関係の本をいくつか眺めるようになったのですが、故中村元氏の「論理の構造(上)」(青土社)を見ていて、仰天してしまいました。

465ページ左から3行目
「・・・そこで、アロンゾ教会がブラウアーの説に味方して述べたように、直観主義者によると・・」

 これは明らかに、チャーチのテーゼなどで超有名な数理論理学者のAlonso Churchの誤訳だと思うのですが、碩学といわれる中村氏でも現代論理学に対する知識はあまりなかったように思われます(まあここで「教会」がでてくるのはどう考えても変ですが、宗教学者の著者はそうは思わなかったかも)。本のあらさがしばかりしているようですが、故人の悪口を言う気は全然なくて、「現代思想」の連載時にだれもチェックできなかったのは驚きです。やはり日本では「現代論理学」と「インド論理学」とはもともと共通部分がないのでしょうか?

そこで気になったのは、日本の文科系の学科において、いわゆる記号論理学が標準的なコースに入ったのはいつごろからなのかということです。また、チャーチはともかくゲーデルや直観主義という名前が一般的になったのは?

田中さん、はじめまして、学生時代に論理学の講義を受講されていましたか?どんな内容だったのでしょう?

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Re: 投稿者:φ 投稿日:10月 5日(木)02時04分24秒

 命題を文に、概念を語に落として統一的に考えられれば理想的です。私もそう思うのですが、構文論と意味論を分けて考える伝統が確立してしまった現状では、なかなかむずかしいでしょうね。ちょうど、クオリアを脳状態に落として考えられるか、という問題と同じでしょう。心の哲学が言語の哲学に、あるいは意識を物理に還元できたとき、命題や概念は不要になるのだろうと思います。
 ただし「本質」の必要性は、意味論を消去できたからといってただちになくなるかどうかは不明です。

 …………
 WW2を人種戦争に還元する見方は、どうも胡散臭くていただけません。WW2で最も残虐かつ執拗な攻撃は、イギリス軍によるドイツ空爆だったり、日本軍のフィリピンゲリラ掃討だったりするからです。人種なんて甘い概念で分析できる戦争ではなかったでしょう。

 大東亜戦争が「白人支配に敢然と立ち向か」った戦争だと言いたいならば、最低限、次のことを説明せねばならないでしょう。

 ●なぜ直接に米英を叩こうとせず、真っ先に中国を侵略したのか。
 ●なぜ仏印を解放せず、ヴィシー政権の統治を認めたのか。
 ●なぜ米英の白人捕虜に対してよりも現地のアジア人に対して残虐行為を多く行なったのか。
 ●なぜ日本は戦時中にアジア諸国の支持を得られなかったのか。

 清水馨八郎名誉教授の著作は読んだことがありませんが、ありがちな感じがしてあまり興味は惹かれませんねえ……。
 私は大日本帝国に対しては否定的ですが、それは、当時のニュース映画などを見るにつけ、その独善的な姿勢がきわめて醜く感じられるからです。自国民の兵士にも市民にも自殺を強要するようなあの国を擁護しようというのは、ちょっと私の美意識が許しませんね。GHQ仕込みというより、生理的に大日本帝国は醜くてかっこ悪い国だと私は感じます。(日本陸軍の行進自体が各国軍に比べて断トツにかっこ悪いんですよ……)
 自国を肯定するのは誰でもやりたがることで、生物学的本能にも合致しており、努力しなくても出来そうなので、私は当面あえて、大日本帝国の恥部を直視する方向で論理を適用することになりそうです。
 もちろん、東京裁判と同時期にベトナムとインドネシアで植民地戦争をやりながら日本軍国主義を偉そうに裁いていた仏蘭の醜悪さなど、欧米の悪を批判することも忘れてはなりません。

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戦争の公理7 投稿者:ハム 投稿日:10月 5日(木)00時00分39秒
現在の日本では、朝日岩波系の史観が主流ですので、私が対米戦は国民の総意だったというとみんなビックリします。
朝日系の史観の特徴は、戦争は軍部が起こした、国民は被害者だ、というものです。
そしてマスコミは軍部に統制されていた、と。

とんでもない。
マスコミなどは、ありもしない戦闘記事を捏造し、国民の戦意を自らが高揚させたりしていたのです。

当時は、植民地政策によって国を富ませることはどの国でも行っていた政策です。
日本が手に入れた朝鮮や満州を手放してもいいと考える当時の日本人などおそらく一人もいなかったでしょう。
できることなら植民地を拡大したいと思わない当時の日本人はいなかったのではないでしょうか。
植民地の経営には多くの資材、機械、人材などが必要です。
朝鮮、満州や中国へは当時大勢の日本人が移住し、そこで富を得ていたのです。
中国残留孤児はそういう人達の子供です。

アメリカは、その中国から撤退しろという、ほとんどの国民は撤退よりも戦争を覚悟したはずです。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 4日(水)23時19分24秒

私は命題論理は文論理とよんでもまったく問題がないと考えております。(講学上の便宜は別として純粋に論理的に思考する上でです。)
本質は人間のような観測者がいない状況ないしは世界でもありうるとお考えなのでしょうか。それこそ観測選択効果なのではないでしょうか。

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GHQ仕込みの転倒史観? 投稿者:Σ 投稿日:10月 4日(水)21時51分7秒

『戦争論理学』関連で、「卑劣の相対性」に触れましたが、「卑劣」という評価語を使用する場合には、よくよく慎重であるべきでしょう。
特に、こうした相対評価が問題となる場合、「因果関係」を法律では相当因果関係に絞り込む操作が施されるのと同様に、一体、どの範囲で一括りにして「卑劣性論理の因果連鎖」を切り取るか? という問題があります。
近視眼的に、「この部分(一部)」だけみると「卑劣だ」・・の如き「短絡評価」を無条件に下すことは宜しくないでしょう。

さて、その意味で、
「もしや、三浦教授の歴史観は、GHQ仕込みの転倒史観ではないか?」

という指摘も今後、受ける可能性があると思われます。
特に、その筋では有名な「清水馨八郎名誉教授」の著書群などについては、三浦教授は、既にお読みになっておりますでしょうか?

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%90%B4%90%85%8A%5D%94%AA%98Y/list.html

清水名誉教授は、アングロサクソンを、たしか「暗黒搾尊」と漢字音写しているほど、白人の卑劣性について、憤激しております。(植民地化のためには阿片も使った?!)
白人が全地球的歴史においてこれまで行ってきた「様々な卑劣な悪事」をマクロ的に眺めるならば、日本が白人支配に敢然と立ち向かい、「黄色人種恐るべし」との感想を白人たちに抱かせ、「有色人種国全部の植民地化(的欲望)」を断念させ、WW2後のアジアで、各国が植民地から脱して独立国と成ることが果たせたのも、その主要な功績は「日本人の白人支配に断固敢然と抗戦した勇敢不屈な戦いぶりにある」という評価もあります。
つまり、日本人戦死者は無駄死にではなかった、ということが主張されます。(白人一極支配から有色人種による多極的統治体制への移行)

占領国仕込みのアベコベ史観にさようなら。 今こそ歴史認識のコペルニクス的転換を!
日本は戦争には負けたが、結局は勝った。
歴史に対する不要な引け目を払拭し、誇りを取り戻せ!
日本人が自らの戦争責任ばかりを責め立て、アメリカの残虐行為を怨まないのは、戦後の占領政策において、周到な検閲による思想統制が行われたからだ。
戦後60年、いまだ当時の検閲を忠実に遵守する大マスコミも少なくないなか、いまこそ、日本人は真実に目覚め、歴史に対する不要な引け目を払拭すべきである。
  −−これは以下の書物の帯びの言葉だそうです。
http://takase-fp.at.webry.info/200604/article_11.html
「「大東亜戦争の正体」清水馨八郎(祥伝社)」

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 4日(水)21時22分5秒

それから、先生は「概念」と単なる「語」と、「命題」と単なる「文」を区別する考えをとられているのですか。「命題」と「概念」という語に対していかにお考えでしょうか。私はこれらを不要な2分論と考え、こういうところにこそオッカムの剃刀を使うべきと考えます。

ところで私は数十年前にT大で法哲学を学んで今は法律業界で働いているものです。

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本質 投稿者:φ 投稿日:10月 4日(水)21時03分31秒

 本質は、自然種、名目種、個体の場合でかなり違いますね。将棋の駒の場合、名目種の一事例としてみると(ゲームの道具としてみると)規約的な本質があることは明白ですが、自然種の一事例としてみると、果たして「木で出来ている」が本質かどうか、疑わしいことは否めません。
 ただし、「本質」というものがあることだけは(本質を認めざるをえない文脈があることだけは)確かでしょう。

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Re:田中さん 投稿者:φ 投稿日:10月 4日(水)20時59分37秒

 ご指摘ありがとうございます。
ここは、正しくは「代入可能性規則」で、よくわかっている人には流れからして一目瞭然ですが、自信のない人だと戸惑ってしまいますよね。

 この部分は、後の版では訂正済みです。今、ざっと調べたところ、3刷では誤記、4刷で「代入可能性規則」に訂正済みになっています。読者からの指摘ではなく、偶然自分で見つけたのだったと記憶しています。

 よく読んでくださっているようで、嬉しく思います。いつでもまたご指摘お願いします。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 4日(水)20時57分23秒

ところで、本質に関することなのですが、文脈次第で変わるものなら、それは規約的なものということでしょうか。どうも「本質」という語は無意識的に伝統的論理学を反映している形而上学の思考法が影響をあたえている気がするので、なるべく使うべきでないと考えております。
そういえば「ラッセルのパラドックス」で飯田氏の曲解ないしは誤解に対する指摘は目からうろこでした。これからも良い作品をお願いします。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 4日(水)20時19分19秒

お答えありがとうございます。
それからもうひとつ、「論理学入門」の80頁の上から14行目の「同値式導入規則」という個所も誤記ないしは誤植のように思われるのですが。

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Re:質問ですが。 Re:戦争 投稿者:φ 投稿日:10月 4日(水)19時58分13秒

 >田中さん

 『論理学入門』42頁の「原子命題」は、正しくは「命題」でなければなりません。
 ご指摘ありがとうございます! 次からは訂正させていただきます。

 「原始的命題」とでも書こうとして、「原子」と紛らわしいから消そうとして消し忘れ、字だけ修正してしまい……のような誤記と思われます。
 命題論理の公理は、原子命題でなく、分子命題であるはずですね。

 論理学では言葉は最大限正確でなければなりませんから、またミスを発見しましたら是非お知らせください。ありがとうございました!

 なお、p.43に引用した広辞苑でも「命題」の語を使っていますが、p.24,44あたりで注釈を入れたとおり、正確には、公理などの論理式は、論理学の場合は解釈がまだ付いていないので、単なる形としての式、あるいは「命題型」です。特定の科学における公理は、特定の解釈で具体化された「命題」となります。
 論理学の場合も、高階述語論理(あるいはメタ論理)の視点からは、命題論理の公理など論理式を「命題」と呼ぶことが許されますが。(つまり命題変項を束縛した全称命題を表わすものとして)。そのあたり詳細は必要ないので『論理学入門』では略しておりますが。

 さて、
 本質は、もちろんあるでしょう。ただし文脈次第で本質の内容は変わりますが、本質の存在は変わりません。将棋道具一式がここにあるとして、ゲームの要素としてみたときの歩にとって「ひとマスずつ進む」は本質であり、「木で出来ている」は本質ではありません。他方、ゲームでなく物質としてみた場合の歩にとっては、「木で出来ている」は本質であり、「ひとマスずつ進む」は本質ではありません。

 >ハムさん

 「中国の権益」など、守りたいと思っていた人はいませんよ。せいぜい「満州の権益」でしょう。
 日中戦争については、軍部や政府自身も、当時から「目的の不明な戦争」と呼び、国民に尤もらしく説明するのに腐心していたくらいなのです。煽っていたのはマスコミだけです。

 なお、
 ヒトラーみたいな独裁者が特定できないかぎり誰も悪くない、というのは「完璧主義の誤謬」でしょう。(『論理学がわかる事典』pp.266-7参照) 一億総懺悔というのは、完璧主義の誤謬の典型例です。
 もしも完璧主義を期するなら、ヒトラーをはるかに凌ぐ権限を持っていたヒロヒト一人を処刑し、東条以下の雑魚どもは免罪としておけばすべて済んだはずですね。

 ともあれ、日本人自身の手で日本人戦犯を裁かずに済ませたところに、一番の問題があるでしょう。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:10月 4日(水)16時52分18秒

もう1つ質問なのですが、先生が「本質的」という語を使用するとき、先生は客観的に事物には本質なるものがあると考えているのでしょうか。それとも、主観的に大切と思うところを強調するために本質という語を使用するのでしょうか。 よろしくお願いします。

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質問ですが。 投稿者:田中 投稿日:10月 4日(水)12時07分52秒

先生の作品をよく読んでいるものです。気になるところがあったのですが、論理学入門の42頁下から3、4行目に「妥当な推論を最初に適用する出発点となる原子命題を「公理」といい」 とあり、「原子命題」とされていますが、これは誤植でしょうか。

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戦争の公理6 投稿者:ハム 投稿日:10月 4日(水)10時20分59秒

戦争責任についてですが、これは誰かが悪いというような問題ではないと思います。
対米開戦前の日本は、なんとしても中国の権益を守りたかったわけですが、これは、軍とか政府がということではなく、全国民がそう思っていたのです。
開戦前の日本で欧米に対する正当な評価(例えば、工業力の差など)をする人は石をもって追われたのです。
全国民が、日本に対する欧米諸国の要求や制裁に憤りを感じていました。
だから、対米開戦は誰が責任者でも避けられなかったはずです。
歴史に「もし」はないといいますが、対米開戦は必然だったと思います。

もし誰かに罪があるのだとすると、それは敗戦の決断をなぜもっと早くできなかったのか、という点にあると思いますが、これは我々日本人が良く知っているように日本人の性質です。
日本人は自然と無責任体制を作ってしまう民族だということです。
だから、みんながそういう意識にならないと誰も決断できない。
開戦は全国民がそういう意識になったからできたのですが、終戦は言論統制などもあって全国民の意識というものがなかった。
だから、先にもふれましたが天皇が決断するしか方法がなかったわけです。

こういう日本人の性質は今でも改善されていないと思っています。
特に、国民がいっせいに同じ方向に向き、誰もそれに抵抗できなくなる、という点。
ブームになりやすい性質といいますか、これは戦後の復興などには良い効果を発揮しますが、戦争などの場合はまったくどうしようもなくなる。
だから日本人は絶対に戦争などをしてはいけない(できない)民族なのだと思います。

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(無題) 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:10月 4日(水)08時15分27秒

ありがとうございます。
次は、お得な『私の哲学の発展』を読んでみようと思います。

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Re:「フランスのように Re:ラッセルさん 投稿者:φ 投稿日:10月 4日(水)03時44分29秒

 ペタンはいちおう死刑判決は受けていますしね。かつての英雄ですし、90歳では流刑に減刑もやむをえないでしょう(ナポレオンですら死刑になってませんから)。同じ傀儡でも、民間で余生を全うした溥儀などに比べると相当厳しい処置を受けたと言えます。
 裕仁は起訴されなかったばかりか証人として呼ばれてすらいませんからねえ。私も東京裁判は大間違いだったと思いますが、理由は、裕仁がお咎めなしでは何一つ解明されているはずがないからです。どう考えても、天皇に責任がないはずはないのです。

 ニュルンベルク裁判は、東京裁判に比べると、はるかに合理的に、妥当な結論が得られたのではないでしょうか。なにしろ証拠書類が豊富で(降伏から米軍進駐までの半月間に証拠書類を焼却しまくった日本とは違って)、証人は単にショーとしてのみ喚問したそうですから。東京裁判はほぼ全面的に証言に頼りましたから、不当な判決も多かったと思います。日本人に害をなした人々がまったく免罪された反面、広田、東郷、重光らは不当な処罰を受けたと言えるでしょう。
 ドイツでも、同国人を害したドイツ人は罰せられなかった傾向はあるでしょうが、「親ナチ」と見なされたり「元SS」とわかると公的地位を失う傾向は厳然としてあるので、大日本帝国に甘い現日本とは大違いでしょう。
 ま、原爆という派手な事件のおかげで、被害者ヅラができてそのぶん反省浅くても許されている、ということでしょう。実質はドイツほどの被害は受けていない日本なんですけどね。

難易度
 『哲学入門』:『私の哲学の発展』:『心の分析』=1:1.2:2
重要度
 『哲学入門』:『私の哲学の発展』:『心の分析』=1:5:3.5

 というところではないでしょうか。

 ただし重要度は、「ラッセル哲学を知るために」が基準です。

 『ラッセルのパラドクス』で述べましたが、『哲学入門』の内容は、ラッセル哲学全体からするときわめて異例で、『数学原理』を書き上げた直後のほんの1、2年に限られた一時的な立場を示しています。文体や啓発度を基準にすると、
 『哲学入門』:『私の哲学の発展』:『心の分析』=3:2:1 くらいでしょうか。

 適当ですが。

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ラッセルさん 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:10月 3日(火)07時24分54秒

三浦俊彦が選好しており、アマゾン・ジャパンのwebsiteにおける、『西洋哲学史』についての「カスタマーレビュー」を見て、皮肉屋であることが判明した(※)バートランド・ラッセルに興味を持ったわけですが、『哲学入門』の難しさを1としたとき、『私の哲学の発展』(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622050196/)はだいたいどの程度
の難しさでしょうか?
記号論理学の使用頻度も併せて教えてください。

また、『心の哲学』(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4326198885/)の重要度は『哲学入門』や『私の哲学の発展』と比較してだいたいどの程度でしょうか?

※ わたしがおもしろいと感じた、ラッセルの皮肉(揚げ足取り)
(1) ラッセル→カント
カント「空間は無限のものとして表象される」
ラッセル「これは、ケーニッヒスベルクのような平坦な土地に住んでいる人の見解である。アルプスの渓谷に住む人にはそのような見解は採用し得ないと思う」
(2) ラッセル→カント
カント「因果関係概念に対するヒュームの批判が、私を独断論のまどろみから目覚めさせた」
ラッセル「その覚醒は一時的なものに過ぎなかったのであり、まもなく彼は催眠剤を発明して、再び眠りにつくことができたのである」

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「フランスのように戦犯を〜」 投稿者:クリスティアン 投稿日:10月 3日(火)02時45分48秒

これは

(ムッソリーニを処刑した)
「イタリアのように〜」

の間違いでしょうか?

それともペタン元帥ら、ドイツの傀儡政権であるヴィシー政権のメンバーを指しているのでしょうか(結局ペタン元帥は処刑を免れていますが)。

更に、ニュルンベルク裁判で戦犯を裁かれたドイツに関してはどのようにお考えでしょうか。

「ドイツは戦争を反省し、戦争責任を取った(が、日本は取っていない)」

と言われていますが。

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Re:戦争の公理5 投稿者:φ 投稿日:10月 3日(火)01時08分29秒

 対米英開戦の責任は、わかりやすくは、日本国民に対する敗戦責任として問われるべきで(真珠湾奇襲の瞬間に、何百万人の日本人の惨死が決定したようなものだから)、フランスのように戦犯を自らの手で罰していれば、今の日本のように問題をひきずっていなかったはずです。

 アジア諸国や連合軍捕虜に対する戦犯は存分裁かれたが、肝心の日本国民に害をなした戦犯がお咎めナシで済んだところに、今の日本の錯誤と自己欺瞞があるのでしょう。奥崎謙三みたいな人は本当はもっと必要だったのです。

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戦争の公理5 投稿者:ハム 投稿日:10月 2日(月)13時24分9秒

日清日露の戦争は、宣戦布告といっても対米戦とは事情が異なります。
日清戦争の場合は、その20年も前からのごたごたで、いつ戦争になっても不思議ではない状況でした。
日露戦争も、ロシアの満州以南への侵攻の脅威から、日英米がロシアに抗議し、日英同盟によって日本は欧米から対ロシア戦へ追い立てられた経緯があります。
従って、日清日露の戦争で宣戦布告が後出しだったといっても誰も非難しないわけです。
日清日露戦争を年表にしてみました。

日清戦争
1875年 江華島事件
1876年 日朝修好条規(江華条約)を締結
    この条約によって朝鮮を清より独立させた。親日的な開化派と親清的な守旧派の対立激化。
1882年7月23日 壬午事変 清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留。
1884年 甲申事変 日本と開化派によるクーデター、失敗し日本は退却。
1885年 天津条約 日本と清は朝鮮より撤退し、朝鮮に出兵する際には事前通告を定める。
1894年5月 甲午農民戦争(東学党の乱) 朝鮮で農民反乱。清に派兵要求。清は日本に派兵を通知。
     日本は公使館と在留邦人の保護を口実に1万人規模の大軍の出兵。
   6月10日 停戦 朝鮮政府は農民の要求をほぼ全面的に受け入れ。

    その後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが双方で拒否。
    日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれ拒否
   7月23日 王宮を占拠。親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化。
   7月25日 日清戦争 豊島沖で日本艦隊が清国艦隊を攻撃
   8月 1日 宣戦布告


日露戦争
1900年 ロシアは清朝で発生した義和団事変の混乱収拾を名目に満州へ侵攻。
    日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。
    ロシアは履行期限を過ぎても撤退をせず、駐留軍の増強を図った。

1902年 日英同盟締結

1904年2月 8日 旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃
   2月 9日 仁川沖海戦
   2月10日 ロシアへの宣戦布告


対米戦争の場合は、日本には交渉を継続するという選択もあり、世界が注目するなかで戦争を選んだわけですから、アメリカへの宣戦布告は戦闘開始前でなければ世界中から非難されることを日本も承知していました。
だから、開戦30分前の宣戦布告を計画したのです。
それが、日本大使館員のヘマで頓挫してしまった。

これは、日本大使館員の能力不足であり、なによりも計画が甘すぎた、ということだと思います。

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Re:戦争の公理 投稿者:φ 投稿日:10月 2日(月)02時23分7秒

 宣戦布告無しで攻撃するのは日本軍の定石でしたから、言い訳しようがしまいがむこうの認識はさほど変わらないでしょう。日清戦争も日露戦争も、日本は宣戦なしで奇襲攻撃をかけています。開戦は奇襲というのは日本の常識でした。真珠湾のときも、完全な奇襲になるよう政府と軍部が計算していたことはよく知られているので、「過失」という弁明は却って日本人の他の言い分にまで不信を抱かせるもととなり、逆効果ではないでしょうか。

 宣戦布告は、攻撃前に日本国内の米英大使に告げれば国際法を満たすので、簡単にできたはずなのです。

 ちなみに、大戦末期のソ連の満州侵攻は、日本大使に宣戦布告を告げてからなされたので、そのかぎりで違法ではありません(日本本国と連絡できないように通信施設を破壊したが、そういうテは禁じられていなかった)。むろん日ソ中立条約を破ったのは違法ですが、ソ連の宣戦布告文には中立条約を破らざるをえない理由が結構もっともらしく述べられており、ソ連の論法にしかるべく反論するためにも、日本自身の真珠湾奇襲の卑劣性は、百%認めておいたほうが賢明でしょう。

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戦争の公理4 投稿者:ハム 投稿日:10月 1日(日)16時16分46秒

・・・
Thus,the earnest hope of the Japanese Government to adjust Japanese-American relations and to preserve and promote the peace of the Pacific through cooperation with the American Government has finally been lost.

The Japanese Government regrets to have to notify hereby the American Government that in view of the attitude of the American Government it cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.

これは、私には宣戦布告に読めます。
「もはや交渉の余地はない、平和は失われた」ということでしょう。


日本軍の攻撃開始時間も調べてみました。(全て日本時間)
1941年12月08日02:30 日本軍がマレー半島コタバルに上陸
1941年12月08日03:19 日本軍が真珠湾攻撃
1941年12月08日04:20 アメリカへの宣戦布告(現地時間12月7日14:20)

もう2時間早ければよかったのです。
日本政府は攻撃開始の30分前の宣戦布告を予定していたそうです。
ところが、アメリカの日本大使館員の暗号解読や英文への翻訳の遅れによって提出が大幅に遅れてしまった。
この件は、当時の日本外務省でも問題になりましたが、一人の処分者も出していません。
これほどの大問題です。処分者があって当然ですし、その処分によって国家の責任ではなかったことが内外に示せるはずです。
このときの、調査記録「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」は、外交史料館報 第8号で閲覧可能です。

ですので、アメリカ人には、この間のやむをえない事情を良く説明することが我々の義務だと思います。
ですが、いいわけとしてしか聞いてもらえないでしょう。

本当に重ね重ね残念です。

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残念ながら、我々が思っているよりジャップは卑劣 投稿者:φ 投稿日:10月 1日(日)05時24分39秒

 日本大使館の手間取りで文書手交が遅れたが、それさえ間に合っていれば「だまし討ち」にはならなかったのに……、というのは、希望的な誤解のようですよ。
 真珠湾攻撃後55分遅れで手渡した文書を、日本人は「宣戦布告」と思っていますが、正確には、最後通牒であって、国際的には、宣戦布告であると認められていません。
ftp://ftp.purdue.edu/pub/Liberal-Arts/History/pha/pearl.harbor/misc/nomura5.txt

 実際、↑には、宣戦布告の文句は含まれていません。国交断絶すら明言されておらず、「交渉打ち切り宣言」ともいうべきものでしょう。
 さらには、真珠湾攻撃よりも1時間50分も前に、日本軍はマレー半島を攻撃しています。つまり、「手違いで宣戦布告が遅れた」という弁明は、日本人だけが信じている俗説です。実際は、意図的な奇襲だったのです。これは定説です。

 むろん、ハルノート〜真珠湾攻撃といい、ポツダム宣言〜原爆投下といい、日本政府は米国政府の思惑どおりに反応して「手に乗せられた」ことは確かです。だからといって「アメリカが悪い」というのはいくら何でも無理でしょう。前者では中国から撤兵しない日本、後者では絶望的な戦争を続けた日本が悪いのであって、アメリカを責めることはできないでしょう。

 マレー半島上陸(相手はイギリス軍)のタイミングをみても、正式な宣戦布告ナシの経緯からしても(たしか真珠湾後7時間くらいして駐日米英大使に宣戦布告を通告したらしいが、もちろん遅すぎ)、日本が奇襲攻撃を狙ったことは確実です。だまし討ちは、残念ながら、本物だったのです。あの50分遅れた文書手交がかりに間に合っていても、日本人は「胸をはれ」ないのです。
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