電子掲示板(過去ログ2006)  過去ログ索引
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Re:Re^5:髭 投稿者:φ 投稿日: 6月27日(火)00時51分11秒

 γ「グリム童話の編者はドイツ人である」
は曖昧ですよね。
グリム童話の編者のうち、一人でもドイツ人であればγは真になるという解釈γ3も成り立つし(不確定記述)、全員がドイツ人だという解釈γ4も成り立つ。もちろん確定記述について述べた文としても読める。

 これは、もっぱら日常言語の曖昧さの問題であって、確定記述という概念に、あるいは論理記号化との関係に、何か問題があるということを意味しないでしょう。

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Re^5:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月26日(月)21時07分53秒

> 複数の個体を主語とした文は、単数の個体を主語とした文の連言(分子文)に分析されるので、複数形の主語は確定記述とは言われませんね。
 ということは、Re^3:髭 に挙げた例は、BとCの間に境界線が引かれるのですね。了解しました。
 テクニカルな話にすぎないかもしれませんが、
γ「グリム童話の編者はドイツ人である」
のように、字面からは人数がわからない場合はどうするのでしょう。

主語が確定記述である場合の解釈は、「xが存在し唯一であり主語に当てはまり述語を満たす」でした。
そこから単に唯一性を差し引けば、「xが存在し主語に当てはまり述語を満たす」になります。すなわち、
γ3「xはグリム童話の編者であり、かつ、xはドイツ人であるような、xが存在する」
です。
しかしこれではγと違う命題になってしまっています。(グリム童話の編者のうち少なくとも一人がドイツ人であるだけで、γ3は真になってしまう。)修正する必要があります。
γ4「xはグリム童話の編者であり、かつ、xはドイツ人であるような、xが存在する。yはグリム童話の編者であり、かつ、yはドイツ人でないような、yは存在しない」 のように解釈するのでしょうか。

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Re: Re^3:髭 投稿者:φ 投稿日: 6月26日(月)00時26分44秒

 複数の個体を主語とした文は、単数の個体を主語とした文の連言(分子文)に分析されるので、複数形の主語は確定記述とは言われませんね。
 むろん、確定記述を主語とする文も分析できることに変わりありませんが、分子文ではなく、原子文と同格の存在文に分析されます。
 確定記述は、英語などのヨーロッパ語にはあっても日本語には無いかのように言われることがありますが、そうでもありません。逆に、英語にも、厳密な確定記述はないかもしれないとラッセルが述べています(『ラッセルのパラドクス』にも書きましたが)。

 数学の関数の値は間違いなく確定記述なので、数学に倣って厳密に哲学をしようとすると、日常言語の何かを〈かりに〉確定記述に見立てて議論を進め、ズレが生じたところで日常言語のほうに反省を強いる、というのがラッセル流なのでしょう。私も、日常言語尊重派よりも、ラッセル的行き方のほうが面白いと思っています。

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Re^3:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月25日(日)09時48分14秒

私が「確定記述」という言葉を間違えて把握している可能性がありますので、じっくりと『ラッセルのパラドクス』を読み返します。

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Re^3:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月25日(日)09時04分10秒

>確定記述句を主語にする文で、記述を満たすものがない場合に真となるという解釈は、成り立たないのではないでしょうか。

A 「現在のフランス王は禿頭である」の解釈として2通りを挙げました。
A1「現在のフランス王(って、いるだろ?あいつのことだよ。そいつ)は、禿頭である」。
これは主語が確定記述であって偽ですが、
A2「(任意のxが)現在のフランス王(なら、それ)は禿頭である」。これは主語が確定記述ではなく真です。論理学の教科書ではA1の意味にとって確定記述の例として用いるのが通例です。

その一方で、
Z「犬は哺乳類である」
は通常、主語を確定記述であると考えません。

AをA1に解釈するなら、Zの主語も犬という集合または種に対する確定記述であると考えられると思います。

 日常言語で書かれた命題が与えられたとき、その主語が確定記述か否かを決めるには、文だけを見ても一意には決まらないので、発話者に尋ねて解決すればいいではないか。と思っています。

B「現在の札幌県の知事は、禿頭である」
C「現在の札幌県の知事と副知事は、二人とも禿頭である」

X「現在の札幌県の知事と副知事と…(ここにすべての県職員を羅列する)は、全員が禿頭である」
Y「現在の札幌県の職員は、禿頭である」

 のように24個の命題を付け足すと、AからZまで、何の違いもないように私には思えます。Aは確定記述の例になるのに、Zは確定記述の例にならないのが、不思議です。

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 6月25日(日)03時32分21秒

存在前提が満たされていない言明は、ストローソン的には、真でも偽でもない。ラッセル的には、偽である。
これはどう考えても、ラッセルに分があります。
明らかに有意味なのに、真でも偽でもない、などという領域を認めるのは、疑問文や命令文ならいざ知らず、平叙文では認めがたいでしょう。

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可能? 投稿者:ハム 投稿日: 6月25日(日)00時27分6秒

真であるけれども、解釈が成り立たない。
そして、偽ですらない。
とすると、可能だということなのでしょうか。

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Re:Re:髭 投稿者:φ 投稿日: 6月20日(火)01時57分9秒

ストローソンの論点は、確定記述句の指示対象の存在前提が満たされていない場合は、その文は偽ですらない、ということでした。
「任意のxについて、xが現在のフランス王ならxは禿頭である」という解釈では、「現在のフランス王」がいない場合は空虚に真となりますね。確定記述句を主語にする文で、記述を満たすものがない場合に真となるという解釈は、成り立たないのではないでしょうか。

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Re:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月18日(日)10時44分57秒

ストローソンと日常言語学派を知らなかったので検索してみました。

 ラッセルとは研究の目指すところがかなり違う人のようですね。私が学生時代に理解しにくかった「現在のフランス王は禿頭である」についてもストローソンが議論をしているようです。
 「現在のフランス王は禿頭である」と言われたとき、「任意のxについて、xが現在のフランス王ならxは禿頭である」を意味するのか、それとも「あるxが存在し、xは現在のフランス王であり、かつ禿である」を意味するのかは、発話者に質問すれば分かることじゃないか。と今では思っています。

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髭 投稿者:φ 投稿日: 6月18日(日)03時13分3秒

「髭の生えない人」を第3のジャンルにするのが、P.ストローソン流の解釈でしたね。
「髭が生える」という前提が満たされていないから、真偽の成立しない領域に入ってしまうという……、

 日常言語学派の非二値論理は、一時期注目されてましたが、今ではしかるべく人気を失っているような気がします。

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Re2:床屋の髭に対する 投稿者:Υ田 投稿日: 6月17日(土)04時50分36秒

>むろん、「髭を剃る」には、髭の有無にかかわらず髭を剃るかのような相応の洗顔措置も含まれる、と解釈するのがこのパラドクスの原義なのでしょう。すると「髭が生えない」可能性を導入しても、パラドクスは安泰です。

 床屋の髭の話は、 「x not∈ x を満たすxの集合 を論じることを可能にすると厄介なことになるよ」と説明するために作られたものですから、この説明を成り立たせる解釈が、作者であるラッセルの意図を汲む解釈ですね。
 「髭の生えない人」を第3のジャンルにするのは曲解というものでした。

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ところで 投稿者:ラクシュン 投稿日: 6月15日(木)19時37分8秒

社会構築主義のバラドクスって作れませんかね。
〜〜という言説によって社会的事実が構築されている、という研究者によるモノグラフ化も社会的構築活動だ、みたいなアホな社会理論。

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死刑反対論批判に関して 投稿者:クリスティアン 投稿日: 6月14日(水)01時42分21秒

人権宣言を高く謳い上げた大革命期のフランスにおいては、反革命容疑者は(実際には王党・貴族やブルジョワのみならず、政権担当者の政敵も)「革命の敵」と見做されると「法の保護の外に措く」と宣言された上で、ギロチンで処刑されたり銃殺されたりしていました。これは「凶悪犯は人間ではない」と定義することと通じる所があるように思いますが、フランス革命政権は多くの刑死者を生み出しました(乗せた舟ごと沈めて溺死させたり、大砲で吹っ飛ばしたりして大量処刑したケースもあったそうです)。

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Re:床屋の髭に対する 投稿者:φ 投稿日: 6月12日(月)20時49分3秒

「自分で髭を剃る村人の髭は剃らない」……これは問題ないとして、問題は、
「自分で髭を剃らない村人の髭は剃る」……床屋に髭が生えない場合、自分で髭を剃りようがないので、「自分で髭を剃らない村人」にあてはまる。すると、床屋は自分の髭を剃らなければならない。
 「自分で髭を剃らない村人」の中には髭の生えない村人も含まれるとすると、自己言及以前に、「髭のない人の髭を剃らねばならない」という単純な矛盾が生じますね。
 むろん、「髭を剃る」には、髭の有無にかかわらず髭を剃るかのような相応の洗顔措置も含まれる、と解釈するのがこのパラドクスの原義なのでしょう。すると「髭が生えない」可能性を導入しても、パラドクスは安泰です。

(「髭を剃る」ためには「髭の存在」が必要か? ≒ 「悪魔を怖れる」ためには「悪魔の実在」が必要か?)

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床屋の髭に対するインド風解決 投稿者:Υ田 投稿日: 6月11日(日)07時43分53秒

床屋は自分自身の髭を剃るのではない。
床屋は自分自身の髭を剃らないのでもない。

舎利子よ
その床屋には髭が生えないのだ。

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>概念と言語 投稿者:Υ田 投稿日: 6月11日(日)06時43分54秒

脳内情報処理と自然言語の関係について触れた記事を見つけました。
http://mntrav.cocolog-nifty.com/kankyo/2006/06/post_c008.html#comments

さて、私がここで用いた表現「単語」「概念」「概念を持つ」「概念を扱う」に対して定義を明らかにすれば、私がここで行った議論を整理できそうです。しかし、「概念」という語でさえ人それぞれの意味にとられていることが分かりましたので、整理しないことにします。仮に「クオリア」という語を用いて「概念」を定義したとしても、「クオリア」をどの意味に解釈するかによる誤解を招きそうだからです。

 これらの議論を澱みなく進めるのに最も有効な用語の集合は、脳の学習メカニズムが解明される過程で創出されるでしょう。

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終末と「私」 投稿者:φ 投稿日: 6月 4日(日)03時56分34秒

 終末論法の解決は、たしかに、「私」の同定法を見直すことに一つヒントがありそうです。
Υ田さんのように個体数(根元事象しての単位)を吟味するか、FayeWongさんに反して「私」の時空的同定を放棄するか。
 いま、終末論法の解法の分類を整理しかけていますが、 @「私」概念の再考 のほかに、
A準拠集団の制限 B無限大の準拠集団の可能性 C多層の準拠集団による事後確率補正 D終末論法自身の自己言及 E時間の流れの実在性 F非決定論 Gベルトランのパラドクスふうの確率操作 H対立仮説の再定式化 等々が考えられると思います。抽象的なリストで申し訳ありませんが。

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(無題) 投稿者:FayeWong 投稿日: 5月30日(火)15時54分58秒

独我論の「我」はいつ決定されるのでしょうか?幼児の頃、物心がついてきたときには既に「私」が存在し以後固定されているのは明らかでしょう。ではその前の脳の神経網ができた時?さらに遡ってその神経網を生み出すことになる受精卵?しかし受精卵はコピーできます。現に一卵性双生児は天然のコピーです。DNAの発現の仕方がランダムに違うから一卵性双生児でも「特徴」は「変わって」きますが、DNAの発現の仕方で「私」が「代わって」しまうなら、受精卵の時点ではまだ「私」のアイデンティティはないことになります。卵の時点で、一卵性双生児の片方が「私」でもう片方が「非私」とした場合その差は何でしょうか?答えは一つしかないように思えます。時空(に置ける存在位置)のみです。パウリの排他定理に似てますね。

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(無題) 投稿者:kotobazukuri 投稿日: 5月30日(火)02時31分7秒

花を見て「うたれる」のは 「恐怖」と同じく言葉以前、概念以前に感じるものがあると思います
それを「美しい」と感じることである と言葉で概念として覚えていくのでしょうか
言葉、概念に頼る面が多くなると
言葉なしで 花に心うたれる 感覚が少なくなったりしますか?

ところで 音楽はどうですか? 言葉の概念以前に「うつ」のか
それとも音の並び自体が 言葉(記号)なんですか?
鳥の囀りは、異性に訴える言葉ですかね

脈絡なくてすみません

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概念? 投稿者:ラクシュン 投稿日: 5月29日(月)21時09分14秒

例えば、恐怖などは概念的に理解するものではなくて、感じるものでしょう?
散歩中にいきなり熊が襲って来たときのことを想像してください。
「恐い」とか「恐怖だ」とか考えている暇などないと思いますよ。

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美という概念 投稿者:ハム 投稿日: 5月28日(日)23時36分23秒

>私は美しい花を見て感動しても、「ああうつくしい」という日本語の文が聞こえたりはしません。

美という概念は、素養のある人間だけがもっている概念だと思われます。
例えば、赤ちゃんを花見や美術館に連れて行っても、お菓子やおもちゃがなければ、むずがるばかりでしょう。
小学生低学年ぐらいでも、美を理解することは難しいでしょう。

幼少のころは、さまざまな対象に対して「美しい」という形容を聞くことによって、美を理解していくのでしょう。
長じてからは、美に関する特別の勉強なりをして美意識を磨いていきます。

一度記憶された美という概念の活性化の瞬間に言語化が行われているか否かは、にわかには分かりませんが、
美という概念の記憶には言語が関わっているだろう、とはいえると思います。

このへんの問題は、言語が私たちにとって空気以上にあたりまえの存在になっているせいで大変に難しく感じられます。

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終末論法からのひとつの帰結 投稿者:Υ田 投稿日: 5月28日(日)08時33分44秒

終末論法について、1つの帰結を話させてください。

確率論から言って、「今後地球上で生まれてくる自意識の個数の総和は、800億を大きく上回ることはないだろう」と予測できます。この予測から「人類の終末は遠くない」という結論はほぼ自明であると思います。

しかし、「人類の終末は遠くない」の代わりに、
「個体の寿命が桁違いに伸びる」とか、
「人類の個体数より自意識の個数のほうが桁違いに少なくなる」
という結論を出すことも可能です。

 例えばこんなシナリオです。矢印1個が百数十年くらいです。

脳に端末を埋め込むことによるテレパシー技術の実用化

経済的圧力による地球規模でのテレパシーの普及。

巨大なミームプールの出現。「健康管理支援」や「思考支援」や「価値観の支柱」を謳い文句とするミームが大量発生し、未感染者にスパム攻勢をかける。これらをダウンロードした個体は、意識で行ってきた演算をオンラインリソースに肩代わりさせることができる。オンラインリソースとは、テレパシーインフラのサーバのCPUや利用者の脳などである。

自意識を持たずに生きることが可能になる。
 個体から意識を丸ごとアップロードすることが可能になる。アップロードされた意識は、元の体が死んでも存続し、テレパシーインフラの永続を願う。
 逆に、個体が意識を放棄して、ミームプール上の勢力に心身を空け渡すことも可能になる。

参政権を持つ前にテレパシー端末を埋め込むことが世界全土で義務付けられる。

すべての人間は自意識を持たなくなり、テレパシーインフラの維持と増強と演算処理のための家畜となる。
すなわち、人類の個体数より自意識の個数が桁違いに少なくなる

 文章に纏めてみたら、すでにSFとして書かれていそうな内容になってしまいました。「スパム攻勢」が荒唐無稽かもしれません。「家畜」という表現を使っていることから推測できますように、このような未来史を私は望んでいません。ですが、他人事として見てみたい気もします。

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「『死刑廃止』廃止論」 批判 投稿者:φ 投稿日: 5月27日(土)15時45分7秒

荒唐無稽ではないにせよ、強引とは言えるのでしょうね。
なぜなら、「◎◎は人間ではない」ということから、「◎◎を殺すべきである」は導けないからです。犬や猫をむやみに殺すと罰せられますしね。
「◎◎は有害である」から「◎◎を殺すべきである」を導くこともできませんしね。食害をもたらすにもかかわらず大切にされている保護動物もいますし。
 なかなかむずかしい問題です。

 死刑を逃れようとする被告の弁論にどう対処するかという問題は、『心理パラドクス』問014「決定論と自由意思」でも論じました。(そこでは被告が「無罪」を主張する設定になっていますが、もっと弱めて「死刑に値しない」主張に代えることができます)。

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「『死刑廃止』廃止論」 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月26日(金)03時32分52秒

『論理パラドクス』090「死刑廃止論」で死刑廃止論者への反論を取り上げてますが このような反論はどうですか?
死刑に処されるような輩というのは、殺人等の凶悪犯罪を犯した者であるわけで、そのような者は「人間」として定義しないのですよ。
例えば、人間の定義は「二足歩行を行い 道具を使用し 言語を喋り 一定の感情・理性・人格を有する・・・」等々となっている思いますが、それに「むやみに他人を殺さない」という風なことをつけ加えます。
(現在の日本社会で1人殺しても死刑になることはほとんどありませんからね。筆舌に尽くしがたい残虐行為を行った者に対しても 物凄く甘い判決の時が多々あります。)
そうすると 死刑に処されるような者は「人間」の定義に当てはまらなくなるのです。
ようするに 内包を増やし外延を減らすわけです。
人間ではなく一種の有害な固体のように解釈すれば 一般市民の安全を守るためそれを駆除することも許されると思います。

荒唐無稽で強引ですかね?

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>概念と言語 投稿者:Υ田 投稿日: 5月25日(木)21時24分12秒
打ち切ると宣言してしまった手前、ちょっと違う方向に話を伸ばします。

kotobazukuriさんのレスを受けて一つ疑問が生じました。

「自分自身の感情や思考過程や結論の大部分が自然言語で聞こえている人が、かなりの割合で実在するのではないか?」

 私は美しい花を見て感動しても、「ああうつくしい」という日本語の文が聞こえたりはしません。ですが、母語習得後数十年経った人の中に、このような人々↓が実在する可能性はあると思っています。

1.美しい花を見て感動すると、意識が感動を認識し、さらに、必ず「ああうつくしい」という母語の感嘆文が条件反射によって意識に浮かぶ。

2.美しい花を見て感動すると、意識が感動を認識し、さらに、必ず「ああうつくしい」という母語の感嘆文が幻聴(または声量ゼロの独り言)として意識に入る。

3.美しい花を見て感動すると、必ず条件反射によって「ああうつくしい」という母語の感嘆文が意識に浮かび、この文がトリガとなって、意識が感動を認識する。

4.美しい花を見て感動すると、必ず「ああうつくしい」という感嘆文が幻聴(または声量ゼロの独り言)として聞こえ、それとほぼ同時に意識が感動を認識する。それゆえ、「感動は母語による感嘆文を伴うはずである」と信じる。

 うろ覚えですが、石川啄木か誰かが、このような内容を書いていました。↓
「日本人が美しい花を見て感動したら、「ああ、美しい」か「あな、うつくし」の片方だけを思うはずだ」「ロシアの詩人が日本語に精通して日本語で「ああ、美しい」と書いても、それは感情をそのまま表現したものではない」
 おそらく、石川啄木(?)は1.〜4.のいずれかに当てはまるのではないかと邪推しております。

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>概念と言語 投稿者:kotobazukuri 投稿日: 5月24日(水)17時16分18秒
横からごめんなさい
単に「概念」の定義が違うだけのような・・
自分は概念という言葉で表現するのはハムさんの言われている方ですね。
意味化(?)されていないものを概念とは思っていませんでした。

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概念と言語 投稿者:Υ田 投稿日: 5月21日(日)03時44分0秒
今、私とハムさんが交わしている議論は、歴史上何度も議論された主題に関するものであると判断して、私からの発言は今回で打ち切らせていただきます。

>言語能力を持たずに、どうして概念を持つことができるのかが問題なのです
「概念を持つ」という表現の用法に齟齬があるようです。もう疲れました。

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Re:再びグルー 投稿者:φ 投稿日: 5月20日(土)02時37分48秒

a,とb,には違いはありますが、いわゆる「ゲリマンダー的述語」ということで、共通しているのでしょう。
グルーについては、私はさほど「奇妙で不可思議なもの」とは感じないというのが本心です。
 というのも、結局、「自然な述語」とは、人間の脳が(あるいは動物の神経が)自然選択の結果、反応するようにできている性質を表わす述語であり、グルー的な述語は、その指示対象たる性質に反応するように自然選択が働かなかった、恣意的な(人工的な)述語というだけのことだと思うのです。
 地球上ではグルー的であるようないくつかの述語が自然な述語であるような環境は考えられますが、その場合も、そこの住人にとって自然に反応できない性質があるはずで、そういう取りこぼされたところに「グルー」が宿るだけなのではないでしょうか。

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度々すいません 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月19日(金)22時00分30秒

順序が逆になってしまいましたが

下記の戸田山氏の発言は『科学哲学の冒険』(NHKブックス)の第三章〜帰納と法則についての問題〜に書かれていましたて、「子供」と「グルー」を同一視しているというのは、私の読み間違えでした。

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再びグルー 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月19日(金)21時58分17秒

戸田山さんの著書中での「グルー」の説明は納得できたのですが、「グルー」という概念自体 考察すればするほど奇妙で不可思議なものに感じられます。

色彩の定義というのは、割と人によって曖昧だと思うので
まず 話を分かりやすくするため、「グリーン」を「#00FF00」、「ブルー」を「#0000FF」というHTML言語のRGBカラー16進数で定義します。
そのうえで
a,『私が2006年5月31日まで「#00FF00」で塗るものと、2006年6月1日から「#0000FF」で塗るものを「グルー」と呼びます』
b,『2006年5月31日までに発見された「#000000」(黒)のカラスと、2006年6月1日以降に発見された「#FFFFFF」(白)のカラスを「ブライト」と呼びます』
という2つの概念を新たに作りますと、ここでまた新たな疑問が発生します。
一見、グッドマンのエメラルド版グルー仮説(勝手に名付けました)を応用しているようにみえますが
aの中で述べている「2006年6月1日以降」とは、現時点では、私がこれから塗るわけで現時点ではまだ塗っていないという、まだこの世界に存在しない事柄を述べており、
bの中で述べている「2006年6月1日以降」は、「2006年6月1日以降に発見されるカラス」といってますので、現時点では発見されていないというだけで、人間にはまだ発見されていないだけで現在もどこかには存在はしている事柄を述べていまして、
aとbは、性質が違うように感じられます。

この辺は、グッドマン及び研究者の方々はどのように捉えているのでしょうかね?

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「概念」という概念 投稿者:ハム 投稿日: 5月19日(金)21時56分48秒

>言語能力を持たずに概念処理をする動物(犬やカラスやインコなど)が脳内に持っている概念を思い描いてみれば良いでしょう。

言語能力を持たずに、どうして概念を持つことができるのかが問題なのです。
例えば、「概念」という概念を犬やカラスやインコが持てますか?
私には、これは不可能だと思われるのです。

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Re:Re:マジック、獅子丸右京 投稿者:φ 投稿日: 5月14日(日)03時37分44秒

>・電話帳から選ばれた人が、手品師側の人である。
>・手品師側の人が、封筒の中のカードを知っている。

 Υ田さんが考えている答えと、私が考えている答えは、たぶん同じなのでしょう。
 ただ、演技力は関係ないような気がするのですが……、
 あと、【厳密な意味では】上の2条件が【文字通りに】成り立つ必要はないと私は思うのですが。

 獅子丸右京ですが、私も知りたいのですよ。情報がないので、『環境音楽入悶』には人名と作品名しか書けませんでした。『いま、やすらぎの時』は摩訶不思議音の名作です。あれの出典であるアルバムの全曲収録されたミュージックテープの存在を知りながら、買いそびれているうちに霧に包まれてしまい、いましきりに悔やんでいます。
 ただ、「この作曲家の変名ではないか?」という疑いは抱いています。菅野由弘が有力候補ですね。というのも、菅野由弘のこれまた幻の名作『響の四季』の一部に、同じフレーズが同じ音響で使われているからです。別人だとしたら、どちらかが盗作してますね。

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Re:マジック 投稿者:Υ田 投稿日: 5月14日(日)03時10分33秒

安齋先生のサイトでマジックの手順を熟読しました。

このマジックの不思議な所は2つ。
・電話帳から選ばれた人が、手品師側の人である。
・手品師側の人が、封筒の中のカードを知っている。
 後者は昔から単独で行われている手品ですので、実現方法は幾つもあると思います。興味深いのは前者。

どこに何が仕掛けられていて、どの機会に発動させるのかが、やっと分かってきました。
それでも、私の推測どおりに私が実演したら、1回で見破られてしまいそうです。余程の演技力が必要ですね。
http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/gokui_1.htm#SS1

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Re:概念 投稿者:Υ田 投稿日: 5月14日(日)02時02分23秒

短くまとめられなくてすみません。

εさん曰く
>概念が3次元の回路?というのはちょっと理解しかねますが、コンピュータの内部表現のことをお考えなのか、イメージについてのことなのか?あるいは脳の生理的状態のことなのか?

 脳の生理的状態のつもりで書いていました。

 「脳の生理的状態を記述するには、脳を構成する物質の物理的な位置と速度を記述し尽くせば良い。この記述は言語で可能である。したがって、原理的には概念を言語で記述できる」という考え方も可能でしょう。しかし、この記述を行う作業は、「概念を言語化する」と呼ばれる作業とは別物であるため、ここでの議論に使っておりません。

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Re:概念 投稿者:Υ田 投稿日: 5月14日(日)01時42分36秒

お久しぶりです。

ハムさん曰く
>言語によらない概念というのは、例えばどのようなものですか?

 意外な質問です。「●●をハッキリと思い描くことができるけれど、●●を表す言語表現が思い当たらない」という経験はありませんか?

 ハムさんがこの質問をするということから、ハムさんの言う「言語」はハムさんの言う「概念」とは別のものであると推測します。

「言葉」や「言語」には幾通りもの定義がありますので、一旦、次のように「言葉」という語に定義を与えました。

言葉:「音素の1次元配列から成る単語を、さらに直列にならべたものであって、文法を用いて木構造に変形でき、1チャンネルの音波で表現できる個体間通信」

一方、「言語」は「自然言語と人工言語の総称」という意味で使われる語であるようです。上の定義による「言葉」は、「自然言語」の部分集合です。「人工言語」に何が含まれるのかは確定しにくいですが、国際規格のあるものはすべて含まれます。数式がグレーゾーンです。数式以上に文法や構造が不明確なもの(タモリの偽外国語や、キリスト教の異言や、第0版仕様が未確定なプログラミング言語)は言語でないと言っても差し支えないでしょう。

で、もとの質問。
>言語によらない概念というのは、例えばどのようなものですか?

 言語能力を持たずに概念処理をする動物(犬やカラスやインコなど)が脳内に持っている概念を思い描いてみれば良いでしょう。

 言語能力を持った動物(Υ田など)においても、ジグソーパズルを解く(2次元画像処理)とき、管楽器を調律する(聴覚処理+呼吸器系制御)とき、機械を設計(3次元構造解析)するとき、輪ゴムと指を用いた「超能力」を真似する(3次元幾何)とき、の概念処理がこれにあたります。
 ただし、ジグソーパズルから超能力までのいずれの場合も、処理が複雑になりすぎた時には「脳の別の部分にハッキリと記憶する」とか「紙にメモを書き付ける」という補助手段を使うことがあります。これら補助手段においては、情報を自然言語の形式で保存することがあります。自然言語を使わないケースとしては、「図を描く」「模型を作る」等の形式があります。

>また、概念を演算するときの演算は、定義に従って計算したり推論したりすることであれば、言語によってなされませんか。
>例えば、論理演算は記号等の一種の言語によってなされますよね。

 ヒトは、明確な定義の存在していない概念をも演算できます。それらの概念の一つ一つに「ゴッゴル1」「ゴッゴル2」・・・「ゴッゴルN」と名づけ、演算の要素アルゴリズム一つ一つに「ジュゲム1」「ジュゲム2」・・・・「ジュゲムM」と名づけることによって、「拡張日本語」を作成すれば、ヒトの脳内の情報処理を拡張日本語で記述することはいつの日か可能になるでしょう。しかし、だからといって、「誰々は拡張日本語で思考した」ということにはなりません。「誰々の思考を、後付で拡張日本語で表現した」に過ぎません。その根拠のひとつとして、誰々氏が拡張日本語を知っている保証がないことがあげられます。

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獅子丸右京 投稿者:たつ 投稿日: 5月13日(土)14時28分42秒

最近、獅子丸右京の「いまやすらぎの時」という中古CDを入手したのですが、この獅子丸右京についてネットで検索したところ、CDジャーナルに廃盤1件ありますの表示(おそらく「いまやすらぎの時」のことと思われ、しかも情報を見るためには有料の登録が必要との事でパス)
JASRACでは、作品名のみ3件が出てきました。
またある人のブログに獅子丸右京のことが出ていましたが、やはり情報がないとのことでした。
このように全くといっていいほど情報がありません。どなたかこの獅子丸右京に関する情報(経歴、過去作品等)をご存知の方がいらしゃいましたらどうぞ宜しくお願い致します。

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返答ありがとうございます 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月13日(土)02時34分58秒

お返事ありがとうございます。
『論理パラドクス』は、手に入れて読了しようと思っています。
ちなみに 『可能世界の哲学』『論理学入門』は愛読させて頂いてます。

戸田山さんの著書は、もう一度よく読みなおしてみます。

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グルー 投稿者:φ 投稿日: 5月12日(金)00時29分15秒

なるほど。
 戸田山さんが出した例は、個物そのものとしての指示対象がある時点で変わる例ですね。
しかしもともとグッドマンのグルーは、指示する性質がある時点で変わるために、その性質を媒介として指示対象が結果的に変わるという例でしたよね。つまり、ミネルヴァさんが言われるように、戸田山さんの例は、グルーと同じものではありませんね。(戸田山さんはグルーとは似て非なる擬似的な例として出しているのでは?)
 ちなみにいうと、グルーは、「時間によって指示性質が変わる」場合にかぎらず、「場所によって指示性質が変わる」「個物によって指示性質が変わる」場合も含みます。『論理パラドクス』p.128では、個物によって指示性質が変わる例で論じました。
 グルーがルール違反であるのはもちろんその通りです。
 しかし、グルーがルール違反なのはなぜか、というのが、哲学的問題になるわけですね。
 「グルーについて詳しく」といっても、焦点がないと漠然と拡散してしまいかねませんから、さしあたり、『論理パラドクス』の問067と068の私の説明をご参照いただき、その中の具体的な部分についてお問い合わせいただいた方が、明確な議論ができる気がしますが――

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はじめまして 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月11日(木)22時18分13秒

はじめまして。
自分は、最近分析哲学に興味を持ち始めた者ですが、質問があります。

米の科学哲学者ネルソン・グッドマンが提唱した 帰納をめぐるグルーのパラドックスってありますよね。
グルーとは「2006年5月31日までの緑のモノと 2006年6月1日からの青のモノ」という途中で指示対象が変わるで奇妙な概念です。
日本人研究者戸田山和久氏は、「子供」という言葉を引き合いに出し『「子供」という言葉も 「グルー」が緑から青へと指示対象が入れ替わるように 当てはまる人間の集団がどんどん入れ替わっている・・・』と述べてます。
でも、この例えは納得できません。
もしも、「子供」という言葉を引き合いに出すのならば、「こども」という言葉と「おとな」という言葉をミックスした『ことな』という新しい言葉をつくり『「ことな」とは2006年5月31日までは20歳未満の人 2006年6月1日からは20歳以上の人をさす』という風にした方が適切ではないでしょうか?
ただ よくよく考えると
グルーという概念自体が、言語のルール違反で このようなルールを認めると
「女」と「男」をミックスして「おんこ」(2006年5月31日まではX性染色体のみを持つXX型の人 2006年6月1日からはX性染色体とY染色体を1つずつ持つXY型の人をさす・・・)とか
「アメリカ」と「日本」をミックスした「アメ本」(2006年5月31日まではアメリカ合衆国のこと 2006年6月1日からは日本国をさす・・・)
という風にキリがなくなるのではないのでしょうか

よろしければ グルーについて詳しく教えていただけませんか?

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概念 投稿者:ε 投稿日: 5月 7日(日)23時10分16秒

久しぶりにお邪魔します。ちょっと面白そうな展開になってきたので・・・

概念が3次元の回路?というのはちょっと理解しかねますが、コンピュータの内部表現のことをお考えなのか、イメージについてのことなのか?あるいは脳の生理的状態のことなのか?

話が少し食い違っているのは、多分ハムさんが言語哲学的で、Υ田さんが物理的、科学的にお考えだからではないでしょうか?

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概念という思考 投稿者:ハム 投稿日: 5月 7日(日)16時27分39秒

>・・・思考とは概念を演算することであり、・・・

概念こそがまさに言語によって認識されるものであるはずです。
言語によらない概念というのは、例えばどのようなものですか?
ちょっと興味あります。

また、概念を演算するときの演算は、定義に従って計算したり推論したりすることであれば、言語によってなされませんか。
例えば、論理演算は記号等の一種の言語によってなされますよね。
そして複雑な演算ほど書くなどのはっきりとした言語化が必要です。

私には「私」というものを言語と切り離して考えられません。

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Re:個体間通信 投稿者:Υ田 投稿日: 5月 6日(土)19時30分7秒

本筋から脱線しすぎているので、今回は短くまとめます。
>議論には思考が必要であれば、言語によって議論(通信)内容を構成するということが、まさに議論する、思考するということにほかならない、ということにならないでしょうか。

議論には思考が必要であり、議論には個体間通信も必要です。そして、言葉は個体間通信の一種です。だからといって、思考に言葉が必要とは限らないはずです。

 私は、思考には必ずしも先の定義による言葉は必要ないと考えております。思考とは概念を演算することであり、概念は3次元の回路であって、概念(3次元)から言葉(1次元)への完璧な逐語訳はそもそも不可能であるからです。

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個体間通信 投稿者:ハム 投稿日: 5月 5日(金)11時54分19秒

>・・・個体間通信」と考えておりますが、

言葉には、Υ田さんのいう個体間通信機能があるでしょう。
日本人の場合は、日本語で個体間通信されますよね。
その日本語で個体間通信される意味内容は、通信される前にすでに日本語で構成されていませんか。
通信するためには、通信前に通信内容は決まっていなければならないでしょう。

このこと、つまり例えば議論するときに議論内容は議論前に言語によって構成されているということ。
議論には思考が必要であれば、言語によって議論(通信)内容を構成するということが、まさに議論する、思考するということにほかならない、ということにならないでしょうか。
とすると、言葉には個体間通信のほかに、思考機能?が備わっているといえることになります。

Υ田さんのいう個体内情報伝達というのは、例えば神経伝達物質がいろいろ研究されていて、「言葉」はないですよね。

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Re>記憶を失った直後 投稿者:Υ田 投稿日: 5月 3日(水)23時49分7秒

>>「ヒトの脳は、いったいどんな条件を満たしたから「私」たり得たのか」
>
>言葉は絶対条件ではないでしょうか。

私は「言葉」を「音素の1次元配列から成る単語を、さらに直列にならべたものであって、文法を用いて木構造に変形でき、1チャンネルの音波で表現できる個体間通信」と考えておりますが、上記定義における「言葉」は必ずしも必要とは限らないでしょう。そう考える理由が2つあります。

・人は後天的に言語能力を失うことがありますが、それだけで「私」たりえなくなるとは考えにくい。
・音波が情報伝達の手段として無効である環境下で進化した生物を、「私」たりうる者の集合から排除することになる。しかし、音波がそんなに大事なものであるとは考えにくい。

 もしもハムさんの定義における「言葉」が、個体内情報伝達を含むのなら、不可欠であると思います。個体内で情報を伝達できない者には演算ができないからです。

>完全に記憶を失ったら、言葉も失うわけですから、質問の意味が分からないはずで
す。
については、私がうっかりしておりました。
 「サイコロを振ります。1が出る確率はいくら?」と聞かれたとして、「サイコロ」が何であるかを忘れた人は「サイコロってのは、1が出たり出なかったりするものなのか?それなら、1/2だな」と答えるよりほかに手はありません。
 仮に質問の意味がわかったとしても、人間と人工知能の個数比、演算速度比、内省回数比などを知らない限り、「僕ってのは、(略)か?それなら、1/2だな」が正解になるでしょう。

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>記憶を失った直後 投稿者:ハム 投稿日: 5月 3日(水)22時38分59秒

>「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が人間であって人工知能でない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」
>「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が生き物であって、ミーム空間上の文化ではない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」

完全に記憶を失ったら、言葉も失うわけですから、質問の意味が分からないはずです。
完全に記憶を失った人は、例えばサルとか赤ちゃんのように本能的な生き物になるでしょう。

>「ヒトの脳は、いったいどんな条件を満たしたから「私」たり得たのか」

言葉は絶対条件ではないでしょうか。

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Re:謎の在り処 投稿者:φ 投稿日: 5月 1日(月)01時02分31秒

 R4か多宇宙説か、が私の立場なのですが、輪廻転生を擁護する文脈では、持論の「多宇宙説は正しい」をかりに括弧に入れて、R4を擁護するスタンスをとることにしています。

 ただし人間原理的には、輪廻転生と多宇宙説をともに維持する道もあり、それはありていに言うと「中庸の道」なのですが(輪廻転生を不要とするほどには多宇宙は多様ではなく、ファインチューニングを保証するほどには多宇宙は多様である、という考え)、それを今ちょっと考えているところです。

 記憶を失わなくても、「現にここがすでに人工環境内である確率高し」と論証するのが、シミュレーション論法でした。
 
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超難問はたしかに愚問だ。ということは、謎の在り処は、、投稿者:Υ田 投稿日: 4月30日(日)04時25分18秒

「ある程度高い知能には自意識が備わる」
「各々の自意識は各個体や近親個体の利益に奉仕する」
「長期的な自然選択を生き延びた種における健康な個体では、1つまでしか自意識が機能しない」
「各々の自意識は自意識そのものをある概念として把握している。その概念を日本語で表記すると「私」である」
 といった事項は、Υ田には謎ではありません。おそらく、ここにお集まりの皆さんも、上記の事柄を謎としているのではないと推察します。
 Υ田にとって謎なのは、
「ヒトの脳は、いったいどんな条件を満たしたから「私」たり得たのか」
なのですが、ここまで書いてみて、この掲示板で扱う話ではないような気がしてきました。

 脱線ついでにもうひとつ。私たりうる者の条件を考えるうちに度々迷い込んだ疑問をここに書いておきます。
「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が人間であって人工知能でない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」
「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が生き物であって、ミーム空間上の文化ではない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」

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R4を受け入れられない最大の理由 投稿者:Υ田 投稿日: 4月30日(日)04時02分13秒

Υ田です。
「◆刹那転生観は採用できない。(唯物論的な意識のメカニズムにより)」
においては唯物論的な意識のメカニズムに転生のトリガと行き先が制限されていますが、
R4においては意識の最期を転生のトリガとし、意識の誕生を行き先にしています。
 これが、R4を受け入れられない最大の理由です。

 では、制限を受け入れて転生を受け入れないとどうなるのかというと、「宇宙で最初の意識ある生物は「私」ではなかった」ということになり、S(単一宇宙説)を否定することになります。Υ田は元から「量子論の真の姿はエヴェレット解釈である」と信じているので、Sを否定することには全く抵抗がありません。

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付け加え 投稿者:φ 投稿日: 4月26日(水)04時16分25秒

……ですから、私の見るところ、ハムさんの指摘する不自然な部分

1.カードを入れる蓋付きの箱(カードは二重封筒に入れればそれでいいはず)
2.電話帳の頁と列等の入った10通の封筒を黒板の所に並べて選ばせる
(ランダムに選んだ学生にランダムに電話させればそれでいいはず)

 は、タネの隠されたところではなく、観客の注意をそらすダミーだと思われます。
 真のタネは違うところにあるのに(あるがゆえに)、わざと怪しい仰々しい演出を使うわけですね。

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Re:>マジック 投稿者:φ 投稿日: 4月26日(水)04時10分12秒

「まあこれしかないだろうな」という答えがわかったような気がしてます。 『超常現象の科学』には、「ヒント」が書いてあって、それは、「任意のトランプを選ばせる、電話帳から任意の市民を選ばせる、という二つの任意性に隠されている」。

 ハムさんの答えがほぼ正解に向かう線上にあるのでしょうが、箱に仕掛けがある、封筒をすり替える、という二つのことは、ダメのようです。というのは、『超常現象の科学』の原文を見ると、選んだカードを箱に入れるさい、残りのトランプもいっしょに入れることになっているからです。側面と底板が入れ替わったりしたら、音がしたり、崩れたカードの気配があるはずです。
 封筒のすり替えについては、「カードを選ばせてからは、私はいっさいトランプにふれていないから、すり替えることもできない」と書いてあります。

 もちろん、紙ヒコーキによって、「サクラの存在する余地はない」と書いてあります。

 となると、正解は一つに決まるような……。

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>マジック 投稿者:ハム 投稿日: 4月26日(水)00時08分46秒

εさんの@だと蓋付きの箱に入れる必要がないし、同じカードを52組も買うというのが科学者っぽくないです。
それと、サクラというのは禁じ手だと思います。

私は手品は好きで良く見るのですが、不自然な(必然のない)ところにネタがあるように感じます。
この手品で不自然なのは、このへんです。
1.カードを入れる蓋付きの箱(カードは二重封筒に入れればそれでいいはず)
2.電話帳の頁と列等の入った10通の封筒を黒板の所に並べて選ばせる
(ランダムに選んだ学生にランダムに電話させればそれでいいはず)

この1と2にネタがあると考えるとこうなります。
・カードを入れた蓋付きの箱を透視するときに、あらかじめセットしておいたハート6のカードにかえてしまう。
(箱を操作することによって側面の板が底板になるような仕掛けのある箱を使う)
・友人の電話帳情報の入った封筒を10通用意しておいて、黒板に並べるときに10通とも差し替えてしまう。

もちろん、友人には一杯飲ませて、文句言いつつハートの6と答えてもらうように頼んでおく。

他にも実現の仕方はあるはずです。
いずれにしろ、かなり大掛かりなスケールのある手品だと思います。
しかし、これ↓はいけません。あたりが北極のように氷ついちゃいます。

http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/gokui_1.htm#SS3

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マジック 投稿者:ε 投稿日: 4月25日(火)20時55分26秒

実際に見てないからわかりませんが

@学生の切ったトランプとあらかじめ用意したトランプ(たとえばすべてがハートの6)をすりかえて、そこから学生に選ばせる。
A10人の学生はサクラで、あらかじめ教授に指示されたページ、行を書く。
Bその電話番号は実は教授の知人の電話番号で、あらかじめ教えられていた”ハートの6”と答える。

くらいしか思いつかないのですが、どうでしょう?

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ネット上にもありましたか 投稿者:φ 投稿日: 4月25日(火)00時35分19秒

「見事に当てられる学生はほとんどいない」ということは、当てる学生もいるんですかね。
奇術師の知り合いがいる学生とか?

私も改めて考えてみます。

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「人間原理から輪廻転生へ」 投稿者:ハム 投稿日: 4月25日(火)00時01分45秒

の「私」を三人称にすれば霊魂ということだと思うわけです。
F**では、私は意識と脳に分割されますが、このときの意識は霊魂の定義みたいなものです。

例の手品は↓これですね。 http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/gokui_1.htm#SS1

オリジナルだそうです。
ちょっと考えてみます。

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超常’ 投稿者:φ 投稿日: 4月23日(日)09時57分58秒

「霊魂」とは何をそう言い換えたのか、という問題へ先送りされるだけでは。

件の手品は、相手(学生)にトランプにイカサマがないことを調べさせ、彼らにカードを切らせて、任意に選ばせるということですから、ランダム性は満たされているようです。電話番号は、電話帳の何頁の何列の何行目、という具合に10人が任意に指定し、その中から他の学生にブラインドで選択させるとのことです。ランダム性は、完全に満たされていると思われます。

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輪廻転生する主体は 投稿者:ハム 投稿日: 4月22日(土)18時31分32秒

仏教でいうところの霊魂だということになると思います。
霊魂であれば同一性も解決します。
チベット仏教の輪廻転生は、(その予兆と)転生者の性質の引継ぎで確認するといいますから、「私」や「意識」にも応用できそうです。
ただ、ちょっと古臭いのが難点ですが、若者には逆に新鮮かもしれません。

『超常現象の科学』の手品ですが、これと似た手品は見たことがあります。
そのときに感じたのは、カードをランダムにしていないのではないか、ということです。
この手の手品ではカードを第三者にきらせませんよね。

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超常 投稿者:φ 投稿日: 4月20日(木)02時26分11秒

 脳のようなもの は、場の複雑系であってもよいでしょう。

 いずれにしても、観測者は、複雑系によって支えられねばならない、ということで、科学的に自己の基盤を自覚できるほどの意識であれば、自分が「場の中のエネルギーの複雑系」で成り立っていることを意識するでしょう。

 F**に戻りますが、もし複雑系が必要ないなら、私たちは自らを非複雑系に見出していた確率が高かったはずです。

 安斎育郎さんが、超能力的なことは手品でできるという証明として、教室で自らやってみせる手品というのを『超常現象の科学』で紹介していて、私はそのタネがわからなくて気になってます。こういうやつです。学生にランダムにトランプカードを一枚選ばせる。他の学生にランダムに電話番号を選ばせる。そこへ電話し、出た人に適当にトランプカードを言ってもらう。ふたつがピタリと一致するというものです。これは安斎教授が「念をかけた」からだと。
 もちろん念なんかではなくタネを仕掛けたのだ、と学生に諭すらしいですが。

 似たようなのを『トリック』で矢部刑事がやってましたが(もちろん失敗する)、しかし矢部方式では安斎手品は説明できないと思うし……、

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哲学的輪廻転生の議論からはまた外れそうですが、反オカルティストの安斎育郎教授は
投稿者:クリスティアン 投稿日: 4月19日(水)23時33分11秒

宗教が唱えるような輪廻転生は大槻教授と同様の理由で否定した上で、
「人が死ぬと、人体を構成していた原子が空中(地中・水中)にばらまかれて、改めて他の生物に取り込まれてその体を構成する。これこそが科学的な『輪廻転生』である」
という主旨のことを述べています。
この主張も何か論点がすれているような気がしますが、前世の記憶の継承を必要条件としないところは哲学的輪廻転生と通じる点もあるように感じます。

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真空中の意識 投稿者:ε 投稿日: 4月19日(水)21時01分18秒

しばらく前の話になりますが、F**は、意識は脳のような複雑系に宿るということでした。したがってこれを認めれば真空中には意識は存在しないと。しかし、必ずしもそうでないことに気づきました。物理では、物質がなくても場が存在します。宇宙空間のどこにいても、多くの星が見えるのはその場所に0でない電磁場があるからです。それ以外にも重力場やさまざまな量子場があり、真空中の領域にも複雑な場が存在しえます。だから、F**の趣旨からいえばそこに意識が存在しても変ではないでしょう。

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Re: 同一性と輪廻(続き) 投稿者:φ 投稿日: 4月17日(月)02時10分35秒

これは確かに、不問にはできない根本問題なのですね。
同一性の定義がなされないと、どうしても輪廻転生は空理空論となりがちだと。
すべての主観を同一とする遍在転生観(先日のR1)ならハナシは簡単だが、どうも、同時刻に向き合って利害の対立もありうる主体どうしを「同一」と認めることには私は抵抗がある。倫理のうえでも、同時に併存するすべての他者が「自分」というのでは、利己主義も利他主義も成り立ちがたい。
 健全な倫理を保証する、つまり概念的に健全な輪廻転生説はR4だけだと思うので……。

 そのうちどなたかから「転生先の同定」に関する妙案が聴けるかと、今はそんな段階ですが、本音は「1.でいっこうにかまわないでしょう」だったりします。

 主観的同一性は、客観的同一性とは全く別だという理論的根拠を整備したいと思っていますが……。

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同一性と輪廻(続き) 投稿者:ε 投稿日: 4月16日(日)14時36分59秒

4.でよくわからないのは、「主観的に現在の私に最も似ている存在」ということは、私がそもそも似ているかどうか比較できる2人以上の人格を主観的に体験し、比較する時点でその記憶を持っていることが前提になっているのでしょうか?もしそうだとすると、それ自身が輪廻転生の相当に直接的な証拠であって、そんな事実があれば定義に関するなんの問題もなくなると思いますが・・
そうでない場合、類似性は客観的情報に依存することになるわけです(判断は主観的になされるのかもしれませんが)。これはタイプの同一性を緩めてタイプの類似性にしたことになるので、RというよりはQに近いような気がします。

1.を「私が無に帰することはない」ととらえるのは、物理的、情報的私以外に「私」に含まれるものがあるという暗黙の前提がないと無意味に思えます。たとえば、私と姓名が同じ人物を同一と定義した場合、私の死後、同じ姓名を持った人物が存在すればその人物は私と同一であり、その人物に転生することになるのですが、1.は「定義」なので、この場合の「同一」はこの定義以外に何の意味ももたない概念だとしています。その概念を単に「T」と呼ぶことにしてもいいのです。それが有意義であるというのは、2.あるいは3.がすでに仮定されているのではないでしょうか?

普通に生きている人間の、異なる時刻における同一性でさえそれほど明らかなことではないのでしょう。まして、記憶喪失、人間ファックス、脳分離、融合などの変則事例では・・・
それでもこれらは現実に存在しうるものなので(人間ファックスや脳融合はSF的ですが)、それらを手がかりに考えるというのはもちろんありうると思います。たとえば、それらの場合における同一性が自明でないということから、日常的な同一性の感覚を”解体”していき、それと(定義された)輪廻転生とは程度の違いでしかないと論ずるとか・・

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Re: 私の同一性 投稿者:φ 投稿日: 4月14日(金)00時19分1秒

 4.として、(3.の系ですが)「主観的に現在の私に最も似ている存在へ転生する」というのも考えられます。

 「私の同一性」は、客観的(社会的)な人格の同一性とは全く別種の同一性とすれば、定義する主体が外部に(もしかしたら内部にも)存在しないので、1.の立場でもよいと思われます。1.は決してつまらない立場ではなく、「私が無に帰することはない」という積極的なテーゼを述べているだけでも有意義ではないでしょうか。

 輪廻転生の主体の同定問題は、記憶喪失、人間ファックス、脳分離・融合のような、もっと形而下的な文脈においても生ずるのであり、輪廻転生は肉体(脳)も記憶も断絶しているような極限的な事例として定義できるような気がします。
 ただもちろん、私の同一性の定義を「つまらないと感じられない形で述べることは重要に違いありません。考え中ですが、いいアイディアが生まれましたら是非。

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私の同一性 投稿者:ε 投稿日: 4月13日(木)05時35分24秒

私が下でお聞きしたかったことは、輪廻転生において私の同一性をどう定義するか?ということでした。物理的同一性で定義するPでは、そもそも輪廻転生は考えられないし、記憶や機能のタイプ的同一性によるQでは意味はほぼ明確になっているといってもよいでしょう。問題はRです。少なくとも議論の前提として、定義は必要でしょう(同一性の検証とはちがいます。それは前世の記憶などを認めなければ不可能でしょう)。あえて定義しないことも含めて、私の思いつく立場は次の3つくらいで、反論も含めて書いておきます。

1.特に定義せず、無定義用語として導入する。
これは矛盾はないが、全くつまらない立場である。物理的に異なる個体を、特に何の基準もなく、”同一”と定めるだけのことなので。

2.輪廻転生や自己の同一性は新しい概念でなく、ほぼ共通の了解があって互いに話が通じるので定義の必要はない。
この了解は、様様な宗教的、哲学的概念が入り混じり、しかも通俗的変形を受けたものと考えられる。このような概念こそ哲学的分析が必要である。

3.主観的事実?を参照する 私が死んだ後(そもそも主観に死は体験できるのか?)、また私が世界を見ている視点が存在すれば、その視点が転生先ということになる。しかしここではすでに「私」という言葉が使われている。この二つの私は同じものなのか・・・・などなど、これをうまく表現するのは難しい。永井さん的な議論をさらに増幅したわけのわからないものになりそうな気がする。

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多重人格と輪廻 投稿者:φ 投稿日: 4月13日(木)04時12分54秒

「多重人格と輪廻」(『ユリイカ』2000年4月号,pp.156-164.)という論文を書いたことがあります。電子データがどこかに行ってしまったのでHPにはアップしてありませんが。

 多重人格と輪廻転生は関係大ありだと私は思っています。ただし、哲学的輪廻転生には記憶の連続性が前提されないのと同様、哲学的多重人格には人格の分裂は前提されません。
 「多重人格と輪廻」は、輪廻転生論を上梓するさいに、加筆修正の上、お目にかけることができるでしょう。

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「二重(多重)人格」は 投稿者:クリスティアン 投稿日: 4月12日(水)22時16分21秒

この「論理による輪廻転生」の議論には関わってくるのでしょうか?
多重人格を、脳細胞の複数の神経ネットワークによるマルチタスクで説明していた記事を以前読んだ覚えがあります。一つの脳に複数人の人格が入り得るという主張は可能であると思います。
PS. 先にエントロピー増大の法則で輪廻転生を否定するのは不適切な議論であるとのことでしたが、「最後の審判の後で『肉体』が復活して天国で永遠の生を受ける」という教義に対する反論には使えそうです。現在でもキリスト教・イスラム教や儒教では火葬を嫌い、土葬を行っていますが…

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Re: 「私」の定義 投稿者:φ 投稿日: 4月12日(水)15時51分15秒

「3つの形而上学的前提」のうち、

◆唯物論は正しい。(オッカムの剃刀により)
◆刹那転生観は採用できない。(唯物論的な意識のメカニズムにより)

この二つは、「前提」ではなく、
こないだのF**によって導かれる「帰結」と認められると今は思っています。

Υ田さんの
・意識Cが「私」なる概念を処理している間、Cは「私」である。
は絶対外せない条件でしょう。人間原理や意識の難問やシミュレーション論法のようなものを考えている最中以外は、いかに意識があろうとも、「私」の母集団に入らないかもしれないからです。
 前回、「GSSAによれば、私たちが、平均的な人間よりもかなり知能の高い個体……」と言ったのは、正確には、「平均的な人間よりもかなり内省的傾向の強い個体……」と言い換えるべきかもしれません。いくら知能が高くても、計算処理能力に長けているだけの個体は「私」の母集団に入らないだろうからです。

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「私」の定義についての試論 投稿者:Υ田 投稿日: 4月12日(水)01時52分43秒

・「私」なる概念は、健康なヒト程度の知能を持ち複数個体からなる集団で暮らす生物の各個体によって、成長中に各々独力で獲得される。
・各個体が持つ情報処理系がマルチタスクであっても、意識はシングルタスクである。
・意識Cが「私」なる概念を処理している間、Cは「私」である。
・上記3命題を仮定すればGSSAを演繹できるかもしれない。
注:3つ目の仮定は「「私」である」の定義であって、「「私」なる概念」の定義は別途必要である。(なんだか循環定義になりそう)

3つ目の仮定はΥ田には受け容れやすいものなのですが、「3つの形而上学的前提」に反しまくってますね・・・

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「私」の定義について 投稿者:Υ田 投稿日: 4月12日(水)01時43分38秒

http://russell-j.com/ad040407.htm
を読み、「3つの形而上学的前提」から「私」の定義を抽出しようとしておりますが、まだできておりません。抽出に成功したら、↑について論じてみます。

・前回の投稿における問題意識は、「「私」が時空の構造に制約(υ2やυ3など)されるのなら、とことん制約されつくさなきゃ変だな。制約されないのならとことん無制限(R1など)でないと変だな。」という物でした。とことん制約されつくすと、「今のこの意識のみが「私」である」という結論に行き着きます。

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GSSA 投稿者:φ 投稿日: 4月12日(水)01時05分40秒

 量子論の多世界解釈の場合、「自分がどの世界に分岐するか」について、「ランダムだが、とにかく知的生命が滅びない世界へ」という考えがあるそうです。それはある意味で当然ですよね。知的生命の続く世界と滅びる世界に分岐したとき、自分が後者へと分かれてゆくことはありえませんから。
 同様に、私は何として転生するのか、という場合、「ランダムだが、とにかく知的生命へ」ということで十分ではないか。ちなみに、それ以上の条件としては、「意識の明晰度の低い個体よりも、意識がクリアで、知能と内省度の高い個体へ転生する確率が高い」という考えを、↓で述べました。「GSSA」というのがそれです。
 GSSAによれば、私たちが、平均的な人間よりもかなり知能の高い個体(おそらく)として生まれたのは、決して偶然ではなかったのです。
http://russell-j.com/ad040407.htm

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話を戻して 投稿者:ε 投稿日: 4月10日(月)22時38分35秒

輪廻転生というのは、もちろん物理的世界の事実ではないでしょうが、客観的な事実でしょうか?主観的には死後、また、今のように私から世界が開ける(うまくいえないけれども)ということでしょうが、客観的にAさんが死後Bさんに転生したということをどう定義するのか?φさんにこの前いただいた論文のドラフトのような場合、どうなのでしょう。

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Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日: 4月10日(月)02時38分45秒

情報ありがとうございます。
同じ著者の本を検索したら、
Riddles of Existence: A Guided Tour of Metaphysics
というのがあって、ハードカバー¥1847とやたら安いので注文してしまいました。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 4月 9日(日)20時31分53秒

アマゾンUSAをチェックしていたら、おすすめ本に
Four-Dimensionalism : An Ontology of Persistence and Time (Mind Association Occasional Series)- Theodore Sider Paperback $35.00
というのが出てきました。あまりにもグッドタイミングです(笑)しかし、ツンドク本が随分あるし・・・

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ブラックホールについて 投稿者:ε 投稿日: 4月 9日(日)20時01分15秒

私は勘違いしていたところがありますので、訂正。

宇宙船は、たしかに事象の地平に限りなく近づくのが、外部からいつまでも”見え”ているのですが、外部から宇宙船への通信、アクセスは有限時間内に限られるようです。だから、外部の立場からみても、永久に”存在する”というわけではありません(実はあるSFにミスリードされていたのです)。もちろん、同時性などについて通常の形而上学の想定しない事態が起こってはいるのでしょうが。

だから、私の議論は(Y田さんの話も)、それほどパラドキシカルではないような気がしてきました。

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事象の地平―― 投稿者:φ 投稿日: 4月 7日(金)01時10分7秒

・R1 すべての意識主体が「私」である。
・R2 今のこの私と時間的に重ならないすべての意識主体が「私」である。
・R3 時間的に重ならない意識主体の極大集合のうち、すべてではない複数の極大集合のメンバーが「私」である。
・R4 時間的に重ならない意識主体の極大集合のうち、特定唯一の極大集合のメンバーが「私」である。
・R5 時間的に重ならない意識主体の極大でない集合のうち、複数の集合のメンバーが「私」である。
・R6 時間的に重ならない意識主体の極大でない集合のうち、特定唯一の集合のメンバーが「私」である。
・R6’ 最初の意識主体と、今のこの私との二つだけが、「私」である。

 (υ2)でほぼうまくいくのではないかと思うのですが、同時性と一人称的同一性の関係については、たしかにスッキリ決めかねるところはあります。ただ私は、4/1の会でも述べたように「最初の「意識」はいない」可能性が高いと考えているので、そもそも私と非私の境界は曖昧に滲んでいると思われます。このあたりは、輪廻転生の入ってこない通常の文脈でも常に、どこからどこまでが「私の意識」か、という問題が生じているのではないでしょうか。輪廻転生に関する正確な論理的モデルが始めから放棄されているようで気が引けますが、絶対的な同定を留保して、仮の条件の下での同定ならば厳密なモデル構築もさまざまにできるはずです。

 事象の地平は、宇宙船やブラックホールを想定せずとも、宇宙の果てが光速を超えたところで私たちとは切り離されているわけですから、その向こうにいるであろう知的観測者は私たちと同じ準拠集団にはいるのか?という問題が常に生じえますが、とくに事象の地平が準拠集団の同定に関係するかどうかは、文脈によるでしょう。ランダムな観測者と自らを見なすたいていの文脈では事象の地平や因果関係の有無などは無関係(準拠集団の分割をしない)と思われますが……。

 このへんはいずれも、私はこれまで考えていなかったので、面白い即答はできずすみませんが。

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相対性理論とからめるのは 投稿者:ε 投稿日: 4月 6日(木)04時22分0秒

面白いですね。後半のブラックホールの論法は、もしブラックホールが定常的ならば、外部の観測者にとっては、宇宙船は事象の地平に有限時間では到達しないので、乗務員は死なない、つまり転生する必要がない、のに宇宙船内部ではいつかは死ぬので転生する、というところにパラドックスがあるのですね。ただ、ホーキング輻射でブラックホールが蒸発するような場合はどうなのでしょうか?宇宙船は外部から見ても有限時間内に地平をこえるのでしょうか?この部分は物理的問題のはずですが、私にはわかりません。

輪廻転生からはもっと外れますが、その宇宙船には夫婦が乗っていて、事象の地平を超えた後でセックスし出産したとする。そうすると外部の観測者と夫婦にとって、宇宙の中の意識(あるいは生命)の個数が異なるような気がします(これは、外部から赤子が誕生したことを知りえないという認識論的な問題ではなく、出産は有限時間後には行われないので、外部の観測者にとって決して赤子は存在し得ないという存在論的問題だと思います。)もし、このようにブラックホールの存在を仮定すると、宇宙の中の意識(生命の個数)が観測者によって異なるようなことがあれば、終末論法のような議論の前提が崩れてしまうと思うのですが、どうなのでしょう?φさんのパラドックス本にこういうのがありましたっけ。

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R4 投稿者:Υ田 投稿日: 4月 6日(木)02時02分14秒
臨床死生学の目的からは外れた議論かもしれませんが、お言葉に甘えて輪廻転生R4説への疑問を述べさせていただきます。

R4が正しいとすると、「私」は時間順に可算個並べることができます。順にo_0,o_1,o_2,...と呼ぶことにします。
R4が持つ次の制約(υ1)が、私(相対性理論を満たす時空と、量子場の理論を満たす物質とから成る宇宙に住んでいると信じている者)には不自然なものに見えます。

(υ1)同時に存在する2つの意識主体がともに「私」であることはない。

相対性理論によれば、時間軸のとり方はいくらでもあります。ですから、
「o_Nが死んだ時点ですでに生まれていた意識主体の集合」すなわち「o_(N+1)たり得ない者の集合」
は時間軸のとり方に依存してしまいます。
この依存が不自然に思えます。

時間軸のとり方に依存せずに成り立つよう(υ1)を改定するとしたら、次のようになるでしょう。

(υ2)o_Nが死んだ時空点よりも未来であると[時間軸のとり方に依存せずに]言える時空点でo_(N+1)が生まれる。

「o_Nが死んだ時空点よりも未来であると[時間軸のとり方に依存せずに]言える時空点」とは、
「o_Nが死んだ時空点で光を発したとして、その光が届く範囲内の時空点」と言い換えることができます。

 しかし、(υ2)と相対性理論とを同時に認めるなら、次のクイズに迷います。
クイズ「o_Nが一人で宇宙船に乗り、ブラックホールに片道探検し、存命中に事象の地平面を突破したとする。o_(N+1)はどこに生まれるか?」

答案を4つほど書いて見ます。
答案1「o_(N+1)は生まれてこない。」
答案2「十分な量のホーキング輻射が出た後に、o_(N+1)はブラックホールの外側で生まれる。」
答案3「o_Nは存命中に事象の地平面を突破できない。」
答案4「ブラックホールは存在しない。」
いずれも無理にこじつけた感があります。

 (υ2)は(υ1)を強めた制限でしたが、仮に弱めて下の(υ3)にしてみます。
(υ3)2つの意識主体がともに「私」であれば、両者が争うことは不可能である。

(υ3)は、タイムマシンの存在可能性を否定します。ですから、(υ3)は一般相対性理論よりも強く、宇宙の幾何的構造を制限してしまっているように思えます。

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Re:輪廻転生説というと 投稿者:φ 投稿日: 4月 4日(火)23時46分56秒

 哲学的輪廻転生はもちろんのこと、宗教の輪廻転生も、同じ原子が集まるなどということは前提していないでしょう。同じ人間であるために、同じ原子で構成されていなければならないとしたら、一年前のφといまの私は別人ということになってしまいます。
 ダライラマの生まれ変わりを探す作業にしても、肉体はもちろん記憶の連続性すら条件とされません。輪廻転生が認められるためには、肉体の同一性も、記憶の連続性も不要です。

 大槻教授がもし「輪廻転生」を批判するのにエントロピーを持ち出したとしたら、それは「わら人形論法」でしょうね。「スワンプマン」を否定するのにエントロピーを持ち出すなら、それは健全な論法ですが。

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輪廻転生説というと 投稿者:クリスティアン 投稿日: 4月 4日(火)07時23分27秒

以前、あの大槻教授が激しく攻撃していました。
根拠は、死んでバラバラになった肉体を構成する原子が再び身体を構成するようなことは、エントロピー増大の法則に反するので有り得ないということでした。
このような批判にはどう反論されますか?(大槻教授はもともと宗教の輪廻転生説を批判したものであり、哲学的アプローチとは噛み合わない議論のようにも思いますが。)

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発表を終えて 投稿者:φ 投稿日: 4月 3日(月)02時33分29秒

この掲示板から4/1研究会へと合流くださったかたがた、ご苦労さまでした。初対面だったわけですが、話題の絞られた会場だと、いきなり打ち解けて話せるのが嬉しいところです。ミニオフ会ができましたね。

 渡辺恒夫さんも言っていたとおり、以前とはやや異なった観点から論じました。第3回死生学研究会では「多宇宙が実在すれば、私の実在という謎を説明するのに、輪廻転生は不要」としましたが、今回は、「私の実在という謎が与えられた以上、多宇宙が実在しない可能性と合わせると、輪廻転生は正しそうである」としました。

 配布した原稿は、とくに飛ばしたところに不備が含まれていますので、推敲のうえ、近く「<人間原理>と<可能世界>のページ」にアップロードする予定です。それまでの間にも、反論、疑問等、大いに歓迎いたします。

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φ先生の所の学生さんを羨んでいたΥ田です。 投稿者:Υ田 投稿日: 4月 3日(月)01時46分22秒

死生学研究会とその後の飲み会でお世話になりました。Υ田です。
輪廻転生についてやはり納得できず、頭の中で反論を組み立てているところです。時間が取れたらアップいたします。

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昨日お話聴いたものです 投稿者:Tsunashima 投稿日: 4月 2日(日)13時40分2秒

初めて投稿します。昨日のお話を聴きに行きました。正直、輪廻転生については、未だなっとくできていませんが、またよく考えてみたいと思います。
時間がなくて、会が終ってからすぐに失礼してしまいましたが、またこういう機会があれば聴きに行きますので、掲示板で教えて下さい。

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今日はとても楽しかったです 投稿者:ε 投稿日: 4月 2日(日)00時55分18秒

φさんの明快な話、その後の飲み会などとても楽しい時間を過ごさせていただきました。こういう文科系の研究会に出席させていただいて、また違った世界が開けたような気がします。どうもありがとうございました→死生学研究会の皆さん

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 4月 1日(土)04時17分11秒

メールいただいていました。
あすは、ほとんど萌芽的な事柄を整理しつつ、フロアの助力を仰ごうと思います。

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まだちょっと&恣意性&連絡 投稿者:ε 投稿日: 4月 1日(土)00時17分50秒

だいたい理解しましたが、ベイズ統計の通常のモデルでは、この種の議論をするときでも、φさんのモデルのような「私」に関する可能世界ではなく、さまざまな観測者からなるモデルを考え、最後の段階で「私」がデータを満たすランダムな観測者であることから、「私」のいる可能世界(どちらかの仮説を満たしている世界)の確率を推論すると思うのですが・・・BostromのincubatorとかGod's coin tossなどでもそうなっています。私も修正版のモデルを作ってみましょう。

ところで、恣意性に関連して、通常、脳は意識に必要である、というのは常識的判断ですが、その根拠は、
「脳以外に何も持たない意識が存在する、あるいは想像可能である」
「脳以外に宿っている意識を見たことがない」
という常識的観察に基づいていると思われます。これらをモデルに取り込めたらいいのですが・・・

明日(もう今日ですが)の人文死生学研究会に出席させていただきます、というメールをかなり前にお送りしたのですが届いているでしょうか?