電子掲示板(過去ログ2006年1〜3月)  過去ログ索引
 無料掲示板は一定の件数を越えると削除されていきます。そこで、古い書込は、電子掲示板の「過去ログ」としてここに掲載します。
 (新しい記事から古い記事の順番となっています。)

--------------------------------------------------------------------------
Re:よく考えてみると 投稿者:φ 投稿日: 3月31日(金)03時11分37秒

 論理的には宇宙の全ての個体が母集団に入っていますが、実際的には、F**では意識だけ、**Fでは脳だけが主題となります。
 F**では、全ての意識の中のランダムなメンバーとしての「私」についてBというデータが得られ、**Fでは、全ての脳の中のランダムなメンバーとしての「私」についてCというデータが得られた、というわけです。P(C)=1は、「私」をどこに位置づけたかという、準拠集団についてのF**での約束事にしかすぎません。P(B)=1は、同様に、**Fでの準拠集団の選びかたの約束事です。
 KのもとでBというデータが得られにくいはずなのは、脳の希少性ゆえです。LのもとではBというデータはAの場合常に得られるはずです。Lが仮説として有意義であるかぎり、ここに恣意性はないでしょう。(「意識の必要条件は淡路島に住んでいることである」などという仮説なら恣意的の誹りを免れないでしょうが)。

---------------------------------------------------------------------------
よく考えてみると 投稿者:ε 投稿日: 3月30日(木)23時24分13秒
「脳のような複雑系が希少である」という命題は、意識でない物理的存在も考えに入れてのことでしょう。結局、二段構えになっているのではないかと思い始めました。まず、最初は宇宙のすべての個体を考え、そこで仮説K、Lを考える。この場合、意識であるという確率も脳のような複雑系という確率も1でないので、独立性が実際に意味を持って、仮説Kのもとでのほうが意識であり脳である確率が小さくなる。つぎに意識である存在者のみを考えると、もちろん意識である確率は1になる。これがP(C)=1で主張されていることではないかと・・・

---------------------------------------------------------------------------
RE:取り急ぎですが 投稿者:ε 投稿日: 3月30日(木)10時31分10秒

新しいバージョンでも
>L「脳は意識の必要条件である」
からLのもとでC→Bと即断してしまい、その下の式、A&C→A&B を見落としてました。P(B|L)=1は間違いです、お騒がせしてすみません。したがって、P(A&B|K)が小さく、P(A&B|L)が大きくてもたしかに矛盾はありません。

ただ、それが恣意的なモデルではなく、「脳のような複雑系が希少である」という事実から論理的に導かれなければならないといっているのが後半部の主張です。

K、Lを考えるときは、宇宙の中のさまざまな個体からなる別の確率空間を考えているのでしょう。そのことから導くことができるか・・・

---------------------------------------------------------------------------
私が意識なのだから 投稿者:ハム 投稿日: 3月30日(木)09時47分54秒

>仮説Lのもとではなぜ適用できないのかということにならないでしょうか

私が意識である場合、
脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実により、P(A&B|K)≒0。
私は脳という必要条件を備えているので、P(A&B|L)=P(A)=a。
と、私は理解しているのですが。
この辺が「私」の難しさ(胡散臭さ?)だと思います。

---------------------------------------------------------------------------
取り急ぎですが 投稿者:φ 投稿日: 3月30日(木)04時41分40秒

就寝前の短時間でチラリなので、詳しくは熟慮して改めて返答しますが――

 > P(B|L)=1からP(B)=1になり、

が不明なので――。 P(B|L)=1 とはどうしてそうなるんでしたっけ?
 LのもとでA&C→A&B ゆえ、(A→(A&B)|L) ですが、
 これはP(B|L)=1 を含意しませんよね?
 LのもとでA&C→A&B というのは、LのもとでのA、B、Cは独立でないという意味ですが、それは LとA、B、Cとの間の独立性の妨げになるんでしたっけか……?

 たとえば、超ひも理論と、あす雨、あさって雨 という事態とは独立です(と主観確率では考えざるをえません)。しかし、超ひも理論のもとで、あす雨と、あさって雨とを互いに独立とは見なせないでしょうね。ここに矛盾はないと思いますが……、

 すみません、いま頭が働
かないのであすまたじっくり考えてみますが、
  P(B|L)=1 は私はそのつもりはなかったので、何故そうなるのだったか、だけ、ひとまずお教えいただければ幸いです。

---------------------------------------------------------------------------
RE:……? 投稿者:ε 投稿日: 3月30日(木)03時39分45秒

たしかに前のバージョンではそうでした。しかし最新バージョンではそうなっていないと思います。これは26日のレスの最初にも書きました。、
その前にブログの

>(A、B、CがLと独立)

はまずいと思います。もしBとLが独立なら、P(B|L)=1からP(B)=1になり、さらにAとLが独立ということからAとKも独立になり、P(A&B|K)=P(A|K)=P(A)=aになってしまいます。少なくともBの独立性条件ははずすとしなければならないでしょう。しかしそれでもやはり問題が残ります。

>P(A&B|L)≧P(A&C|L)

は単なる不等式であって、aとP(A&B|L)の関係を述べたものに過ぎません。仮説Kのもとでは

>脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実による

が適用できたのに、仮説Lのもとではなぜ適用できないのかということにならないでしょうか?aが小さくないからだというのは理由にならないと思います。なぜなら、モデルが不適当で矛盾を含むかもしれないからです(つまりa≒0で、かつa>>0) 。逆に言えば、上の観測事実からP(A&B&C|K)が小さいということがどうして出るのかがさらに説明を要す
るのではないでしょうか?

このことにも関係するのですが、Kを「脳と意識は独立である」とするとそれを私に適用した場合、SSAによって、P(B&C|K)=P(B|K)・P(C|K)になるはずです。これはKをLに変えても自明に成り立ち、KとLは対立仮説になりません。もしそういう意味でないとすると、確率論で言う独立性とは何か違ったものということになり、意味不明になってしまいます。

脳と意識が独立(K)であったほうが、意識には脳が必然である場合(L)より脳である確率P(A&B&C|*)が小さくなると推論するためには、意識でない存在者も考えたモデルでなければならず、P(C)=1が無理であることになると思います。

---------------------------------------------------------------------------
……? 投稿者:φ 投稿日: 3月29日(水)17時52分34秒

 「脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実」は、ほとんど誰もが認めることですから(この宇宙全体で、脳どころかマクロな固体が存在する領域比率自体がほとんどゼロに等しい)、KとLに共通の前提にしたつもりですが……?
 これは、修正する前の最初のバージョンからそうでした。

 「脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実」の影響を受けるのはKだけで、Lは抵抗力があるというだけのことです。← P(A&B|L)≧P(A&C|L)ゆえ。

---------------------------------------------------------------------------
補足・訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月29日(水)13時04分6秒

>Observer Equation →Observation Equation

やはり、仮説Kのもとでのみ(具体化した)脳のような複雑系が希少であるというのが気になります。

----------------------------------------------------------------------------
Re:気づいたことなど 投稿者:φ 投稿日: 3月29日(水)05時06分17秒

@SSA(またはBostromの言葉でより一般的なSSSA)は、一種の無差別原理ですね。他に何も情報がなければ、自分は全観測者のランダムな一例と見なす。サイコロの特定の目が出る確率など、「サイコロは偏っていない」というトリビアルな但し書きが、SSAに相当するでしょう。(また、前にも書いたように、「偏っていることはわかっているがどういう偏りかたをしているか不明」な場合も、それぞれの目の出る確率は、ベイズ的には1/6
です)。特別な補助仮説がないということは、自動的にSSAが認められたことになると思われます。

AKとLは、現実世界(またはこの宇宙)での真理に関する仮説なので、事前確率は観測者の個数に影響されないでしょう。また、KとLはもし正しければ必然的に正しい(偶然的真理ではない)という暗黙の前提があるとすれば(ここは異論の余地がありますが)、可能世界ごとに食い違うことはなく、全可能世界でKかLの一方だけが正しいことになるでしょう。

BこれからBostrom論文をダウンロードして読んでみようと思います。

CKは、Lと対立させているので、「意識と脳は独立である」としました。「意識を持ち具体化した脳であるものは少ない」というのは、「意識と脳は独立である」「脳は稀である」の二つから必然的に導けるのではないかと思いますが――。(その特殊例が、「Kのもとでは、ランダムな一意識たる「私」が具体化した脳である確率は極小」)

---------------------------------------------------------------------------
気づいたことなど 投稿者:ε 投稿日: 3月28日(火)00時17分34秒

Bostromの論文を眺めながら、いくつかの点について考えてみました。

@仮定L、Kの適用について
仮定LやKは、宇宙の中のさまざまな存在者に関する命題ですね。それをA、B、Cのような特定の存在者に関する確率に結びつけるのは厳密に言うとBostromのいうSSAを使っているのではないでしょうか?たとえば、電車通勤するサラリーマンの5%がインフルエンザウィルスに感染しているとき、自分が電車通勤するサラリーマンであるとウィルスに感染している確率が5%であると判断するのが普通ですが、これは自明なことではなく、SSAを使っているのでは?

A存在者の個数
φさんの定式化では、仮説Kと仮説Lの場合、意識的存在者の個数が違うのか同じなのか明確になっていないような気がします。あまり問題にならないのでしょうか?

BObserver Equation(OE)
BostromのOEでは、可能世界の測度や観測者(正確にはObserver-Moment)の個数まで方程式に入っています。こういう立場から見るとどうなのでしょうか?私はまだちょっと見ただけなのでよくわからないのですが・・

C仮説Kについて
仮説Kの独立性の部分は計算ではまったく使われず、P(A&B&C|K)が小さいということだけが使われています。それからは、むしろKは
K:意識を持ち具体化した脳であるものは少ない
とすべきではないでしょうか?

---------------------------------------------------------------------------
補足 投稿者:φ 投稿日: 3月27日(月)16時01分21秒
> F**で、観測選択効果により、P(B|A)=1ともいえないでしょうか。

もちろん、宇宙物理学では、観測選択効果によりP(B|A)=1 として扱いますが(弱い人間原理)、F**では、脳(のような複雑系の物質)と意識(観測)との相関関係そのものが疑われている文脈ですから、P(B|A)=1ではなく、 P(B|A&L)=1となります。

> **Fの「観測選択効果により、P(C|A)=1」は前提にしたほうが良いと思います。

 「私」概念の本質(意識であること)は、たしかに前提なみの基礎でしょう。ただ、**Fでは、「私が脳であること」以外は最小の装備で出発し、やらせるところまでやらせて、最後に常識的な共通前提P(C|A)=1で決着を付ける、という運びにしました。(主語が「私」以外の場合はP(C|A)=1に相当する命題は必ずしも主張できません)

---------------------------------------------------------------------------
確率的センスとしての哲学思考 投稿者:φ 投稿日: 3月27日(月)06時43分56秒

もともとの 「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」
http://russell-j.com/sizen-sentaku.pdf
 でのF**周辺の記述は、「直観で」書いていました。(つまるところ、確率的直観・確率的センスこそが哲学の全てなのだとすら私は思っています)。
 そこを、「よくわかりません」と突っ込まれたことから、ちゃんと論証してみようとして、結果は正しいには違いないのだが筋道だってモデル化しようとするとかなり骨が折れることを実感しました。これからも、突っ込まれるたびに適宜厳密を期していこうと思います。

 ファジイ理論と可能世界の繋がりは、私は知りませんが、いかにもありそうですね。可能世界は、普段は表だってあらわれていなくても、意識的にモデル化しようとすると浮上してくるのでしょう。

 観測選択効果ではP(B|A)=1とはならないでしょう。観測そのものは脳と本質的な関係はありませんから。

---------------------------------------------------------------------------
今回の議論 投稿者:ハム 投稿日: 3月27日(月)00時40分10秒

では、「私」というものの難しさ、胡散臭さを感じました。
客観的にはP(意識)≒0 だけれども、主観的にはP(意識)=1だということ。
客観性を志向する数学では、「私」を扱うのは難しそうです。

(再々修正版)では、**Fの「観測選択効果により、P(C|A)=1」は前提にしたほうが良いと思います。
F**で、観測選択効果により、P(B|A)=1ともいえないでしょうか。

---------------------------------------------------------------------------
一段落のようですね 投稿者:ε 投稿日: 3月26日(日)21時09分50秒

一般的感想というか、質問なのですが、今回いろいろ考えていて、可能世界論と確率論は相性がいいと感じました。可能世界論といえばライプニッツが思い出されますが、ライプニッツは確率についても何かやってたでしょうか?そうだとすればそこから可能世界に想到したと想像できるかもしれませんね。

あと、不確実性に関する数学としてファジイ理論というのがあります。真偽値が0と1の間の任意の実数値を取るような多値論理(ファジイ論理)を基にした数学らしいのですが、これと可能世界との関連について、φさん、なにかご存知でしたら教えてください。

---------------------------------------------------------------------------
Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日: 3月26日(日)06時06分3秒

 正確には、P(A&B)やP(A&B|L)などの値は「補助仮説」ではなく、Lの意味と、脳が稀少だという事実から必然的に導き出される「派生的仮説」だったということのようです。「脳が稀少である」を記号で表わして演繹の部品とする必要があるかどうか、ともかく、哲学屋の限界としては、「意味を考えることで」P(A&B|L)=P(A)を派生させて、とりあえず満足できる気がしています。

> P(L)≦P(B|A&C) はすべての一般仮説に共通な当り前の真理となります。

 と言ったのは、単純に、左辺の括弧内は右辺の括弧内を「私」以外の意識へ一般化した命題なので、真になる確率が右辺より以下である、というだけのつもりでした。同じ形の式があらゆる命題について成立するという意味ではありません。

 P(L)≒0 は、前々回「L、Kのみのモデルと――」で、しぶしぶ認めようと努めかけたのでしたが、やはり、検定すべき仮説の事前確率の範囲が固定されるというのは、どこか変だと思います。とりわけLの内容を考えると、Kに比べて(あるいは〜Lに比べて)圧倒的に事前確率が劣るとは、直観的に納得しがたいからです。

 ただ、ここまで修正が重なると、まだ間違いや取りこぼしが潜んでいることは間違いないという気がしてきました。ε さんのモデルを参考にしながら、また考えてみます(ただ、ε さんのモデルは非本質的な条件が付きすぎて一般性が低いような気もするのですが――)。
 お気づきのことがありましたらまたご教示いただければと思います。

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 3月26日(日)01時34分57秒

レスと再々修正版、拝見しました。とりあえず、気づいたことを述べます。

修正によってP(L)≒0が導かれることがなくなったのはわかりました。ただ、もともとP(B)、(またはP(A&B))が小さいことの論拠は、脳のような複雑系は生成が難しい、という物理的事実のみによるものであったはずで、それが意識との関係を述べている仮説LやKの成立と関係があるという今回の改訂の妥当性はどうか?が気になります。

>P(L)≦P(B|A&C) はすべての一般仮説に共通な当り前の真理となります。

の意味がよくわかりません。たとえばKについては別の不等号(P(K)+P(L)=1から導かれる自明なもの)が成り立つわけでしょう。

もともと、LはBとCに依存した命題なので、なんらかの関係が生じるのは当然だと思います。P(L)≒0に矛盾はないと思います。結論を導くためのモデルとして不適切ということはあるかもしれないですが。

----------------------------------------------------------------------------
P(A&B)≒0 が間違いでした。 投稿者:φ 投稿日: 3月25日(土)20時49分48秒

 謎が解けました。

 私は空間思考よりも抽象思考のほうが性に合うので、まだ一般的なベイズ式にこだわりつづけ、
 P(L)≒0となったのがやはり納得いかず、
 モデルが間違っているのではと考え直しました。

 ベイズ的なモデルでは、対立仮説の事前確率は任意の値がとれなければならないはずなので、 ≒0 などと強制されてしまうのは、補助仮説のどれかがLの定義と矛盾しているに違いありません。

 というわけで、再検討してみたところ、
     P(A&B)≒0
   がおかしいことに気づきました。

 脳の希少性から P(A&B)≒0 となるのは、Kが正しい場合だけで、Lが正しい場合は、Lの内容からして P(A&B)≒0 のはずがなく単に =P(A)でなければなりません。

 つまり、補助仮説P(A&B)≒0のかわりに、次のものであるべきでした。

  P(A&B|K)≒0
  P(A&B|L)=P(A)=a

 こうすると、ε さんの計算に当てはめたとき、問題は解消します。一応やってみますと、

a=P(A)=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(A&B)/P(L)

P(L)≦P(A&B)/P(A)=P(B|A)=P(B|A&C)

P(B|A&C) は、「いかなるものであれ、意識として具体化しているとき、それは脳である」という命題Lの特殊例「私が意識として具体化しているとき、私は脳である」の確率なので、一般は特殊より成立しがたいため
P(L)≦P(B|A&C) はすべての一般仮説に共通な当り前の真理となります。

つまり、P(L)に条件は付きません。

 別様に書けば、

 P(L)=P(A&B&L)/P(A)=P(B&L|A)≦P(B|A)
     (P(L)=1のときに、P(B|A)も1になります。これは内容からして当然)

 というわけで、もう一度修正することになりました。
 「霊体仮説とゾンビ仮説(再々修正版)」を↓に置きました。
 皆さんの刺激のおかげで改良が続き、感謝しています。
 (↓ F**に合わせて、**Fも修正しました。)
http://green.ap.teacup.com/miurat/647.html

----------------------------------------------------------------------------
L、Kのみのモデルと―― 投稿者:φ 投稿日: 3月25日(土)05時49分8秒

 ε さんのモデルはしばし検討させていただきます。

 P(L)≒0 は、考えてみればある意味妥当で、厳密にいうと、同時にP(K)≒0でもなければならないのでしょう。LとKの中間及び外側に、A&CとA&Bの相関にあらゆる確率を指定する仮説が散らばり、それぞれの仮説の事前確率が、やはり ≒0 となるのかもしれないと思います。

 むろん、理念的にLとKだけに絞ったモデルを想定する場合はそれぞれ事前確率がそれなりの大きさkと1-kにできなければなりませんが。そのモデルが非現実的であるような文脈では、L周辺の仮説束とK周辺の仮説束の確率の比だけに注意を限定するのでしょうかね。確率分布をきちんと扱う技術は私は持ってないので、もし必要に迫られたら ε さんにお尋ねさせていただくかもしれません。

---------------------------------------------------------------------------
訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月24日(金)03時17分26秒

>誤 B&K
 正 B&C
でした。

----------------------------------------------------------------------------
RE:あらためて 投稿者:ε 投稿日: 3月24日(金)00時36分32秒

確かに、私のモデルではP(C)が1に近くはありません。ただ、私の場合、φさんとは異なり、可能世界のすべての存在者を考えています。ほとんどすべての存在者に意識があったら却っておかしいでしょう。もっとも、(*)、(**)を認めると、意識の存在確率はかなり低くなります。

ブログでは最後のステップが抜けていました。φさん、ハムさんにも言われたことと関係するかもしれませんが、

観測者は自分が脳であり、意識であることを観測する。すなわち、(w,x)εB&K。これは紫の領域に
観測者がいることを意味します。すると、L&B&Cのほうが、K&B&Cよりずっと大きいので、ランダムと考えられる(w,x)がLに入っている確率のほうが高い。
http://mathpl.exblog.jp/

---------------------------------------------------------------------------
あらためて 投稿者:ハム 投稿日: 3月23日(木)23時22分4秒

「F**に関するノート」を見ると、今度は基本的前提の2が気になります。
これは、P(C)が1か1に近いとはいえませんよね。

私が意識である、ということをうまく定義してやる必要がありませんか。

例えば、εさんのモデルで「私」の位置を決めて、その位置だけの議論を組み立てるような。
今のところただの思いつきですが。

----------------------------------------------------------------------------
前提と観察 投稿者:ε 投稿日: 3月23日(木)12時54分56秒

観察結果Eのもとでの仮説Hの確からしさP(H|E)を求める通常のベイズ推論の場合、観察の結果わかるのは、観察者が集合Eに入っているという事実であって、前提としてのEの性質そのものは仮説検定のモデルを作る際に決め(ま)る事柄だと思いますが。

私の喩えに強引に当てはめると、Lの各ガラス板はかなりの部分(割合a)がA&Bであるので、その枚数が増えすぎると、立方体全体におけるA&Bの割合が大きくなり、前提に反する、となるでしょう。

---------------------------------------------------------------------------
Re: 2つのモデル 投稿者:φ 投稿日: 3月23日(木)02時47分2秒

ブログのガラスの譬え話は面白いですね。
立方体の中に恣意的に生まれさせられて、自分はどこに当たりそうか、という問題に還元されるでしょうか。
前提をどれほど切りつめられるかが問題ですが、Bの実例がまばらであるという以外の前提は、なるべく認めない方向でどれほど行けるか、見たいと思います。たしかに図がほしいですね。

 ところでまだ気になっているんですが、私の単純なモデルで、P(L)≒0になった計算――
  P(L)とは独立に観察によって設定した補助前提P(A&B)≒0を用いて計算をしなおし、P(L)≒0を導く、というのはフェアなのか、という疑問がまだ引っかかっています。
 P(L)はあくまで事前確率であって、P(A&B)が不明な状態でのLの理論的値が問われているので……、何か循環があるような。
 ちょっと考えてみます。

--------------------------------------------------------------------------
2つのモデル 投稿者:ε 投稿日: 3月22日(水)22時10分57秒

ブログに書いたほう、簡単なモデルの両者とも大丈夫ですが、どちらも問題点があります。また、仮説LとKがφさんのと微妙に違います(発想は生かしたつもりですが)。

実は条件(**)はP(L)に条件がつくのを封じるためのものなのです。本当は図示するといいので図をアップするつもりだったのですが、時間がないのでとりあえず言葉でブログに書いておきます。

簡単なモデルのほうは、収容所−ビールモデルを読み替えるだけです。実際に2種類の収容所が存在するのではなく、どちらかしか存在しない場合を考えるのですが、全空間としては、両方の収容所を合わせたものを考え、ただ、独房の確率をLに属する場合をKに属する場合の100倍にしておきます。そうすると、Bの個数は少ない(20/1010)けれども確率は1/2を少し超えることになります。

こちらの問題点は、Bの個数が相対的に少ないのはいいのですが、その原因がKにおいて霊体(〜B&C)が多いことにあるということで、これは主旨に反するでしょう。
http://mathpl.exblog.jp/

----------------------------------------------------------------------------
混乱気味ですが――part2 投稿者:φ 投稿日: 3月22日(水)14時22分3秒

 前回、なんだか混乱したことを書いちまいまして。
 P(L)/P(L|F**)≒0だと、P(L)≒0 に依然変わりありませんからね。

 εさんのモデルでは、同様のことは生じることはないのでしょうか?
 つまり論証が、事前確率P(L)に不利な条件を必要とするというような……?

----------------------------------------------------------------------------
混乱気味ですが―― 投稿者:φ 投稿日: 3月22日(水)04時58分44秒

> a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(A&B)/P(L)より、
> ですが、
>> P(A&B)≒0
> なので、結論は同じく P(L)≒0となりませんか?

 そうだとすると、もともとP(L)≒0でしかないLを、仮説検定で引き上げて、Kと互角に持っていったにすぎないことになりそうです。
 ……しかし、何かおかしい。仮説検定でLが確証できる条件がP(L)≒0だというのか? A、B、C、Lが相互に内容的関連を持つ場合、単純な確率の演算が適用できるのだろうか……。

 少し考えてみますが、直観的には、

 P(L)/P(L|F**)≒0  もしくは  P(L)≪P(L|F**)

 を示しただけという気も……。
 というのも、P(L)≒0を示したε さんの計算は、F**で使った他の前提を動員しているからです。とくに、P(A&B)≒0。
 ところが、もともとP(L)は、P(A&B)≒0 のような観察以前の事前確率のはず。
 ちょっと確信はなく、考えねばなりませんが、
 F**の諸前提を利用しながらP(L)≒0を示しても、それは、諸前提なしのP(L)そのものについての結果ではなく、
 P(L)/P(L|F**)≒0を示しただけという気がするのですが……。
 
---------------------------------------------------------------------------
元のF** 投稿者:ハム 投稿日: 3月21日(火)17時51分41秒

では、脳と意識は同じ対象だったはずなので、「F**に関するノート」は違う証明だと感じたのです。

---------------------------------------------------------------------------
こちらも訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月21日(火)16時37分18秒

φさん、早速コメントをありがとうございます。

>>a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(B)/P(L)より、

は、

a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(A&B)/P(L)より、

ですが、
>P(A&B)≒0

なので、結論は同じく P(L)≒0となりませんか?

独房の数の問題では、P(K)=P(L)=1/2 となる場合は考えたのですが、どういう状況なのかは具体的にわかりませんでした。都合のいいことに、F**の問題に適用できるのはこちらのほうですね。

-------------------------------------------------------------------------------- 些細な記載ミスがあったので一箇所訂正のうえ 投稿者:φ 投稿日: 3月21日(火)14時52分8秒
Re:簡単なモデル

> P(L)a≦P(B)、従って仮定a>>0からP(L)≒0が導かれます。

 再修正版では、
 P(B)=b(未知) としているので、P(L)≦b/a としか言えず、P(L)の事前確率は決まらないのでは。
 ≒0 となるのは、概念的命題であるP(B)ではなく、経験的命題である P(A&B) もしくは P(B|A) としています。

それから、独房の数の問題で、

> P(K)とP(L)では普通P(K)が100倍大きいと考えるのが自然

 というεさんのコメントは、条件付きで成り立ちます。
 独房10収容所と、独房1000収容所が実在し、1010人が収容されていてあなたはそのうちの一人だ、という場合は、P(K)がもともと100倍大きかったと考えるのが自然です。
 しかし、問題文は曖昧で、次のようにも読めます。独房10収容所と、独房1000収容所のどちらかしか実在せず、拉致されたのは1000人か10人かのいずれかで、あなたはそのうちの一人だ、という場合。
 後者の場合は、P(K)とP(L)はともに1/2とすべきで、ビールがもらえたというデータにより、単純にLの信頼度が百倍になります。

 これは、他の可能世界(一可能世界内の多宇宙でもほぼ同じ)が「実在」するかどうかという問題に、経験的決着を付けるのに持ち出される議論ですね。このあたりは、『論理サバイバル』問101「森の射手」と問102「多世界説の経験的証拠」に書きました。
 「森の射手」は、収容所=ビール問題とほぼ同型かと思います。(設定はかなり違うが)

---------------------------------------------------------------------------
ノートについて 投稿者:ε 投稿日: 3月21日(火)14時46分27秒
ハムさん、ブログをみてくださってありがとうございます。画像をアップしたかいがありました。

B(w,x)やC(w,x)は関数なので、関数定義ではwとかxはプログラミングでいう仮引数です。たとえば
f(x)=sinx,
g(x)=cosx
と定義したとき、別に同じxが意味されているわけではありません。

概念を対象の集合と考えるのはまあ数学者の本能のようなもので、そのほうが図式化できて、少なくとも私には解りやすいのです。

----------------------------------------------------------------------------
Re:簡単なモデル 投稿者:φ 投稿日: 3月21日(火)14時45分15秒

> P(L)a≦P(B)、従って仮定a>>0からP(L)≒0が導かれます。

 再修正版では、
 P(B)=b(未知) としているので、P(L)≦b/a としか言えず、P(L)の事前確率は決まらないのでは。
 ≒0 となるのは、概念的命題であるP(B)ではなく、経験的命題である P(A&B) もしくは P(B|A) としています。

それから、独房の数の問題で、

> P(K)とP(L)では普通P(K)が100倍大きいと考えるのが自然

 というεさんのコメントは、条件付きで成り立ちます。
 独房10収容所と、独房1000収容所が実在し、1010人が収容されていてあなたはそのうちの一人だ、という場合は、P(K)がもともと100倍大きかったと考えるのが自然です。
 しかし、問題文は曖昧で、次のようにも読めます。独房10収容所と、独房1000収容所のどちらかしか実在せず、拉致されたのは100人か10人かのいずれかで、あなたはそのうちの一人だ、という場合。
 後者の場合は、P(K)とP(L)はともに1/2とすべきで、ビールがもらえたというデータにより、単純にLの信頼度が百倍になります。

 これは、他の可能世界(一可能世界内の多宇宙でもほぼ同じ)が「実在」するかどうかという問題に、経験的決着を付けるのに持ち出される議論ですね。このあたりは、『論理サバイバル』問101「森の射手」と問102「多世界説の経験的証拠」に書きました。
 「森の射手」は、収容所=ビール問題とほぼ同型かと思います。(設定はかなり違うが)

--------------------------------------------------------------------------
「F**に関するノート」 投稿者:ハム 投稿日: 3月21日(火)10時08分1秒

を見ていて感じたのですが、存在者xなるものは同一とはかぎりませんね。
B(w、x)、C(w、y)と書いた方が誤解がなくていいと思いました。

そもそも「存在者」というものが必要なのでしょうか。
なくてもいいように思うのですが。
例えば、「概念」のほうが哲学っぽかったりします。

---------------------------------------------------------------------------
簡単なモデル 投稿者:ε 投稿日: 3月21日(火)02時43分23秒

再修正版を見たのですが、やはり@の第2式から、a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(B)/P(L)より、P(L)a≦P(B)、従って仮定a>>0からP(L)≒0が導かれます。まあ、事前確率に条件がついて悪いことはないと思いますが・・・

Nick Bostromのサイトから、論文 Observation selection effects, measures, and infinite spacetime をダウンロードして眺めているうちに、次のような簡単なモデルを思いつきました。φさんの最初のモデルに近いかもしれませんが、意識を持つ主体Cの個数をLとKの場合で変えています。実は語呂合わせがちょっと自慢(笑)です。

あなたは夜のうちに気絶させられて拉致され、気づかないうちに収容所の独房(Cell)に入れられた。2種類の収容所LとKのどちらかはわからない:

L:独房が10個しかない
K:独房が1000個ある

ある祝日に、ビール(Beer)10本が運び込まれるのを目にした。看守によれば収容者に振舞われるのだと言う。実際、あなたの夕食にはビール一本がついた。これから何が言えるか?

まず、独房には確実に入っているからP(C)=1、よって以下、この条件は書かなくてもよい。
ビールが出る確率は、
収容所Lの場合、P(B|L)=10/10=1、収容所Kの場合、P(B|K)=10/1000=1/100。
ベイズの定理により、ビールが出たとわかった後には、

P(L|B)/P(K|B)={P(B|L)/P(B|K)}・{P(L)/P(K)}=100・P(L)/P(K)

なので、事前確率に比べて、100倍Lである可能性が高まった。もっとも、P(K)とP(L)では普通P(K)が100倍大きいと考えるのが自然なので、その場合は、左辺の比は1となり、事後でもLである確率の方が大きくなるわけではないが・・
http://mathpl.exblog.jp/

----------------------------------------------------------------------------
(ご案内) 投稿者:φ 投稿日: 3月20日(月)02時43分17秒

ε さん、ファイルをありがとうございます。 参考にして考えさせていただきます。 根元事象の定義から厳密にやるという習慣が哲学にはあまり無いので、勉強になります。

 さて、ここでずっと論じさせていただいたテーマで(ばかりではありませんが)、口頭発表しようと思います。
 かなり砕けたスタイルで話せる場だろうと思いますので、興味のあるかたはどうぞ。
 (以下、世話人・事務局の重久俊夫氏よりの案内文から抜粋)

 ……………………………………………………………………………
■心の科学の基礎論研究会・人文死生学研究会・合同研究会のご案内

・心の科学の基礎論研究会(第 48回)を、人文死生学研究会(第4回)との
合同で、下記の通り実施いたします。ふるってご参加下さい。

・(日時) 2006年4月1日(土) 午後1時30分〜5時45分

・(会場) 明治大学駿河台キャンパス研究棟、4階・第2会議室
      (研究棟はリバテイータワーの裏手の12階建ての建物)
 …………………………………………………………………………………

 くわしくは、以下をご参照ください↓
http://www.01.246.ne.jp/~koma2/kokoro/

-------------------------------------------------------------------------
直しました 投稿者:ε 投稿日: 3月19日(日)13時27分28秒

↓の画像ファイル、3つに分けたら多少見やすくなりました、かな?
参考のため、こういうアップロードの仕方を書いておきます、これもネットワークで拾った情報なのですが・・
TeXで書いてプレビューアーでPC画面に出す→printscreenキーでクリップボードにコピー→標準アクセサリのペイントツールで読み込んで加工→.bmpを.gifに変換(D&D画像変換と言うフリーソフトを使いました)→ブログに投稿
TeXで書くのはなんでもないのですが、その後の処理が試行錯誤も含めて、半日仕事でした(笑)
http://mathpl.exblog.jp/

---------------------------------------------------------------------------
ブログ更新しました 投稿者:ε 投稿日: 3月19日(日)06時18分1秒

結構記号を使うので、TEXでノートを書いて、画像で投稿しておきました。散々苦労したのですが、そのままでは多分読めないと思います。こういうときはホームページを持ってないと不便ですね。読みたいという奇特な方は、そこにも書いてあるようにファイルに保存すると何とか読めるようになります。φさんにはPDFファイルにしてEメールでお送りすることにします(題名は、F**について、としておきます)、ご笑覧ください。

そこにもあるように、仮定をもう一つつけました。

(**)脳であると言う性質は任意の可能世界で低確率である

この条件は、φさんの最初のモデルでは、Lを満たす可能世界では満たされていないので、それがP(L)≒0の原因になっていたものです。
http://mathpl.exblog.jp/

---------------------------------------------------------------------------
Re: Aについて 投稿者:φ 投稿日: 3月19日(日)02時23分55秒

 amazonで見てみましたが、中古で高いですね。ほんとは手に入れたいところだが……。

> 〜A&B:私は脳であるが、具体化していない、と言う事象

 は、たしかにいかがわしいですが、たとえば、次のような文は意味をなすように思われます。

 タキオンはこれこれの性質を持つが、具体化して(存在して)いない。
 ヒッグス粒子はこれこれの性質を持ち、具体化して(存在して)いる。

 「私」が主語を占める文にも適用できるかどうかは問題ですが、「私」は固有名ではなく記述句で、いずれにせよ「私が存在しなかった状況」が想像可能である以上、〜A&B とか 〜A&C は理解可能な意味を持つように思われます。

>  (*)意識であるという性質は必然的である、つまり、ある存在者が意識をもてば、任意の可能世界で意識をもつ

 どのように使えるのか、楽しみです。

---------------------------------------------------------------------------
また訂正と補足 投稿者:ε 投稿日: 3月18日(土)05時42分57秒

>Suupesと言う人の1986年出版の本

→Probabilistic Metaphysics
Patrick Suppes
Book / 251 Pages / January 1984 / 0631133321

です。

----------------------------------------------------------------------------
ありゃ 投稿者:ε 投稿日: 3月18日(土)05時33分52秒

>悦に言っていたのですが

→悦に入っていたのですが

です

---------------------------------------------------------------------------
Aについて 投稿者:ε 投稿日: 3月18日(土)05時32分25秒

しばらく前から思っていたのですが、Aはメタフィジカルに結構問題をはらんでいるような・・・
例えば、〜A&B:私は脳であるが、具体化していない、と言う事象は存在するか?どのように理解すればいいのか、など。哲学的にどうしても必要ならば別ですが、テクニカルには無しで済ませられるような気がします。

議論になっているような哲学をなんと呼べばいいのか、と考えてProbabilistic Metaphysicsという用語を思いつき、もしかして新しい名称ではないかとしばらく悦に言っていたのですが、念のためgoogleで検索したら、200件以上ヒットして、本まであったのにはびっくり。Suupesと言う人の1986年出版の本のようですがφさん、ご存知でしたか?

私も自分のモデルで考えてみたくなって、2日くらい夢中になっていたのですが、P(C)=1(私のモデルではP(C#|S)=1、ただしSは観測者であると言う事象)の代わりに、前提としてより強い一般命題

(*)意識であるという性質は必然的である、つまり、ある存在者が意識をもてば、任意の可能世界で意識をもつ

を仮定すればうまくいきそうだと気づきました。しかしこれはφさんのモデルからは外れた話になるので明日あたり自分のブログに書こうと思います。かなり長い間、更新をサボっていたので・・・

--------------------------------------------------------------------------
Re: Lをどう考えるか? 投稿者:φ 投稿日: 3月18日(土)00時17分27秒

> LをA、B、Cと同列の事象とみなすとき、全称例化してC→Bと言う命題だと解釈するのでしょうが、

 ここはそうではなくて、
 Lが含意するのは A&C→A&B  あるいは  P(C→B|A)=1

 ということのつもりでした。L,Kは、あくまで「具体化した脳と具体化した意識の関係」を述べる法則であって、「抽象的な(論理的な)意味での脳と意識」の関係を述べたものとはかぎらないからです。

 ……と、そこまで考えたら、それと整合的にするには
 P(B)≒0
 とするのは間違いだと気づきました。

 脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実から言えるのは、「私が脳である確率≒0」ではなく、「私が具体化した脳である確率≒0」ということのはずですから。
 よって、P(B)≒0 のかわりに P(B)=b としておき、
 P(A&B)≒0 と設定しなければならないようです。

 というわけで、モデルがまた変更になりました。
 やや拙速気味ですが、以上の変更に沿って、覚え書きを↓に記しました。**Fにも必要な修正を施しました。
 果たして正しい方向に向いているかどうか心許ないですが、よいヒントをどうもありがとうございます。
 ↓についてまたお気づきありましたらどうぞご教示いただければ……。
http://green.ap.teacup.com/miurat/636.html

----------------------------------------------------------------------------
人間原理的推論における「この宇宙」 投稿者:ハム 投稿日: 3月18日(土)00時11分46秒

<この宇宙>論というのは、先にここで話題になった「クリックの統計の誤謬」と通じるところがあるように思いました。
すなわち、地球(宇宙)というサンプルをサンプル選択以前に独立して指定していなかったので一般化してはならない。

多宇宙論というのは、多地球論?以上に一般化しすぎのように感じます。
多地球については最近、固体の惑星が発見されて、にわかに地球型の惑星の発見の期待が高まったようですが、多宇宙となると観測は構造的に不可能なわけです。

多宇宙論をこの宇宙の時間的な様相と解釈すれば、ビックバンから無限に拡散するチューニングの中にはファインチューニングの瞬間はあるはずだといえないでしょうか。

----------------------------------------------------------------------------
Lをどう考えるか? 投稿者:ε 投稿日: 3月17日(金)00時31分19秒

前のレスでは、Lを仮定するとC→Bであること、すなわち、LがBの部分集合であることを使っています。したがってP(L)≦P(B)となり、P(L)≒0、P(K)≒1となります。ここで、どのような確率空間が考えられていようと、単にKがLの余事象ならばよいわけです。したがって、@の第1式は簡単に成り立ちます。しかし、まだ問題があって、aが小さいときに、肝心のP(A&B&C|L)/P(A&B&C|K)が大きくなることがいえなくなってしまいます、と思ったらa>>0と書いてありました(笑)

しばらく考えていて、@の第1式を経由せずに次のように考えれば、aについての仮定はなくてもすむことに気づきました。Cは全空間で成り立つ性質なので、&Cは省略して書きます。また、P(A)=a、P(B)=b、P(L)=lと書くことにします。

まず、P(A&B)=P(A&B&(KvL))=P(A&B&K)+P(A&B&L)より
P(A&B&K)=P(A&B)−P(A&B&L)
        =a・b−a・l(∵AとBは独立、および第2式の証明)
また、P(K)=1-lより
P(A&B|K)=(a・b−a・l)/(1-l)、したがって
P(A&B|L)/P(A&B|K)=(1−l)/(b−l)≧(1−b)/b>>1

また、もう少し精密に考えて、LをA、B、Cと同列の事象とみなすとき、全称例化してC→Bと言う命題だと解釈するのでしょうが、Cは常に成り立つので、結局L=Bとなります。この場合、P(L|A&B&C)=1、P(K|A&B&C)=0なので、たしかに自明に結論が言えるのですが、何か奇妙な気がします。これで信頼度が上がるのはあくまで例化した命題に過ぎず、一般命題について何かを言うためには、私と言う事象との独立性のようなことを使わなくてはならないでしょう。

私は、ベイジアン統計についてはこの1,2週間くらい2,3冊の本をざっと眺めただけの、全くの素人ですので、過度に細部にこだわっているのかもしれません。ある本にはベイジアン統計では普通は、根元事象が何か、などと言うことをあまり考えなくてもよいのだとも書いてありました。ただ、上のように事前確率に強い制限がついてしまうことなどから見ても、この問題は初歩的なベイズ推論とは異なるような気がします。

----------------------------------------------------------------------------
Re:修正版について 投稿者:φ 投稿日: 3月16日(木)15時02分34秒

的確なコメントをありがとうございます。
言われることはすべてごもっともで、明確にしておかねばならないところでした。

 根元事象については、一般理論と個別事象が相互に確証し合う場ではつねに生じる解釈問題のような気がしますので、この問題特有のことではなく、先送りにしてもよいかと思われます。(もっと広い文脈を考える余裕の生じたときにじっくり考えるべき問題かと)。

 ここ特有の問題として、
 @の第2式ですが、LとAに確率的相関があるとすべき理由がないので、独立と想定してしまいました。そういう措置は、通常許されるのではないでしょうか。たとえば、あす雨が降る確率と、超ひも理論が正しい確率は、両者を結びつける情報が何もないので、単純に独立と考え、〈超ひも理論〉のもとでの〈あす雨〉の確率は、単純に〈あす雨〉の確率としてしまうのではないでしょうか。
 また、第1式ですが、これも同様に、KとLについてどちらが正しいかわからない状態が出発点ですから(つまり仮説検定が必要な状態ですから)、乱暴なようですが、それぞれが同確率とするのが適当ではないか。
 ベイズ的な主観確率の土俵では、確率は「信じられる度合」と同じですから、KとLはいずれも、さしあたり ≫0 というのが前提となっています。(そうでないと仮説検定にかける意味がない)
 『心理パラドクス』p.130「ラプラスの悪魔」に書いたことですが、私たちの知識が一切欠けている場合、客観的にはどちらかに決定しているとしても(つまり厳密には確率1か0)、確率は両仮説とも1/2として扱われますよね。(KとLは網羅的ではありませんが、他に対立仮説がないならばそれぞれ事前確率1/2)。

 『心理パラドクス』の該当箇所の問題文だけですが、↓の 053★ラプラスの悪魔 をご覧いただければと。
http://russell-j.com/puzzl3-y.htm

--------------------------------------------------------------------------
修正版について 投稿者:ε 投稿日: 3月16日(木)04時39分30秒

霊体仮説とゾンビ仮説の修正版について、一応眼を通しました。とりあえずF**についてだけですが、質問と言うかコメントがいくつかあります。

まず、修正前と同様に仮説KやLは脳や意識についての一般的命題、(A,)B,Cは私についての命題ということなので、結局2種類の確率空間を考えていることになります。しかしそれでは、@の2つの式のように条件付確率を自由に考えられないのでまずいのではないですか?”根元事象”についての下のレスはそれに関するものでした。私がK,Lに関してランダムに選ばれた存在者であると言うことは、確率空間ではK,Lと私と言う事象との独立性ということになると思います。たとえば下のレスの

2番目の仮定は(←aが脳を持つ可能世界は少ない)、むしろ

@P(B#)≒0:脳(のような複雑系)をもつ存在者はすべての可能世界において少ない
Aa#とB#は独立

の二つを仮定したほうが自然でしょうが)。

などのように。

その部分がクリアされたとして、次に式@についてですが、第2式の証明は多分

P(A&B&C|L)=P(A&C|L)=P(A|L)(∵P(C)=1とLのもとでのC→Bより)

ですね。しかし、これがP(A)=aに一致するためには、AとLが独立でなければなりません。

また、第1式はどうやって示すのでしょうか?P(K)があまり(P(B)の程度に)小さいとまずいのではないですか?

いろいろつめこみすぎてわかりにくくなったかもしれません。また、見当違いのことを言っていたら、お許しください。

---------------------------------------------------------------------------
修正は必要 投稿者:φ 投稿日: 3月15日(水)02時22分18秒

やはり、修正版のAという事象は必要とわかりました。
たとえば、もとの設定では必然的だった
P(B&L)=P(L)
ということは実はありえないですしね。
なぜなら極端な話、脳に相当する複雑系が宇宙に一つも生じないことだってありえただろうからです。

なお、このような人間原理っぽい議題において、可能世界をモデルに導入する場合は、
可能世界と多宇宙とを慎重に区別することが大切になります。
当面の話題からはやや外れますが、↓の拙論(続きを準備中)第3節以降でも、可能世界と多宇宙の脳内混同防止に我ながら苦労しました。
http://russell-j.com/thisuniv.htm

----------------------------------------------------------------------------
根元事象について 投稿者:ε 投稿日: 3月14日(火)23時06分5秒

しばらく旅行に出ていたので、PDAからハムさんに対してだけ短いレスを返しましたが、問題が広がってきましたね。
根元事象について考えてみました。修正版はまだ消化できていないので、以前のモデルに対するレスですが、修正は可能だと思います。

根元事象は、可能世界wとその中の存在者xのペア(w,x)ではないでしょうか?そこで、確率空間として

Ω={(w,x)|wεW、xεTw}

、ただし、Wは適当な可能世界の集合、Twはwにおける存在者の集合、を考えます。

KやLを考えるときには、自分以外の存在者も関係してくるわけですし、むしろBやCは”私である”という条件付の事象だと思います。つまり、2変数の述語

B#(w,x):可能世界wにおいてxは脳を持つ
C#(w,x):可能世界wにおいてxは意識を持つ

を考え、単にB#とかC#と書いたら、Ωにおけるその外延を表すとします。また、”私”の指標性が問題になっているわけではないので、ある存在者aに対して、a#={(w,a)|wεW}という事象とします。ただし、aはすべてのTwの中に存在しなければなりません(条件Aを考えるときはここを修正することになるでしょう)。
すると、P(C)=1、P(B)≒0は

P(C#|a#)=1:aはすべての可能世界で意識を持つ
P(B#|a#)≒0:aが脳を持つ可能世界は少ない

で置き換えられます。(2番目の仮定は、むしろ

@P(B#)≒0:脳(のような複雑系)をもつ存在者はすべての可能世界において少ない
Aa#とB#は独立

の二つを仮定したほうが自然でしょうが)。また、L,Kについては、まず

L'={w|∀x(C#(w,x)⊃B#(w,x))}

とおき、

L#={(w,x)|wεL',xεTw}、K#=Ω\L#

で置き換えます。
これでうまくいくかどうか、まだちゃんと考えてないのでわかりませんが・・・

ハムさん、

>>P(B|L)≧P(C|L)

これが問題なのですか?しかし、LのもとではBのほうがゆるい条件なわけで、当然成り立つはずですが・・φさんのレスでもそうなっています。

---------------------------------------------------------------------------
「霊体仮説とゾンビ仮説(修正版)」 投稿者:ハム 投稿日: 3月14日(火)13時56分7秒

を読みました。
**Fは、コンピュータ意識なるものの信頼度を上げることはない、と読みました。

コンピュータやロボット自身の倫理問題などは、ないほうが良いと思っています。

----------------------------------------------------------------------------
P(B&L)≦P(L) 投稿者:ハム 投稿日: 3月14日(火)10時01分56秒

この件については、

>P(B|L)=P(B&L)/P(L)≦1とP(B|L)≧P(C|L)=1よりP(B|L)=1

が認められないので、P(B&L)≦P(L)としかいえないでしょう、という意味です。

C(私は意識である)の必要条件は、B(私は脳である)にかぎらないのですから。

---------------------------------------------------------------------------
訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月14日(火)01時24分50秒

また間違えた・・・
>P(B&L)=P(B)になります。

P(B&L)=P(L)

です。

---------------------------------------------------------------------------
P(B|L)=1 投稿者:ε 投稿日: 3月13日(月)22時50分36秒

>ハムさん

”メタ事象”のレスでP(B|L)=1を示したので、
1=P(B|L)=P(B&L)/P(L)です。分母を払えば、P(B&L)=P(B)になります。

---------------------------------------------------------------------------
P(C)=1 を保ちつつ…… 投稿者:φ 投稿日: 3月13日(月)02時46分38秒

反省して、出直すことにしました。

F**において、「私は脳でもあった」という観察データの言いたかったことは、「私は脳かつ意識であり、そういうものとして具体化した」なので、観察データは、B&Cではなく、A&B&Cとせねばなりませんでした。
 つまり、私は、本質的に意識であるはずなのだが、たまたま生まれてこないこともありえた、という場合が考慮されねばなりません。しかし現実には生まれてきたと。その確率aは1とはかぎりません。(たとえば極端な話、宇宙に一つも意識が生じなかったとしたら、「私は意識である」は真でも、私は具体化されず、観察データは得られなかったことになる)。

F**の場合
A「私は具体化している」 P(A)=a
B「私は脳である」    P(B)≒0
C「私は意識である」   P(C)=1

 ここからやり直さねばなりません。
 また御報告しますが、お気づきのことがあれば皆さんまたご教示ください。
 なお、上記によって書き直したメモは、↓に置いてあります。(ラフですいませんが)
http://green.ap.teacup.com/miurat/631.html

---------------------------------------------------------------------------
念のために^^; 投稿者:楽俊 投稿日: 3月12日(日)21時39分50秒

ベイズ推定の構造上の「独立」と、意識と脳との「独立」が多義性の誤謬を犯しているということはないですよね。
(まこれは私の無知の告白として)
であと気になるのは、脳科学の分野でもっと違った(?)意味の独立性(独立か否か)が問題になっていたような気がするのですが、ここまでの議論はそれと同じ独立性が問題になっているのかどうかは私には解りません。
(ということで、私はしばらく休みます。では…)

----------------------------------------------------------------------------
ん 投稿者:楽俊 投稿日: 3月12日(日)19時13分48秒

人間の死については解りました。

---------------------------------------------------------------------------
>P(C&L) 投稿者:ハム 投稿日: 3月12日(日)17時17分11秒

P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(L|C)/P(L)=P(L)/P(L)=1(∵P(C)=1)
ということで了解しました。

また細かいことをいうようですが、
>P(L)=P(B&L)≦P(B)≒0
は、P(L)≧P(B&L)≦P(B)≒0 ですよね。

だからどうした? といわれそうですが、Kや¬K=Lを作ってベイズ的に推論するから面白い結果が出るわけで、個別に論じたら何も有意義な結果にならないと思うわけです。

---------------------------------------------------------------------------
(おじゃま虫) 投稿者:楽俊 投稿日: 3月12日(日)12時40分57秒

議論の流れをおっているうちに、独立事象や同時確率というものが解らなくなってきました。
ある人間が肺がんで、かつ10年以上生きる確率。あるものが人間であった場合とにかくそれが死ぬ確率など。

---------------------------------------------------------------------------
P(C)=1 はまずかった?!! 投稿者:φ 投稿日: 3月12日(日)03時26分5秒

L「脳は意識の必要条件である」なので、たしかに、「私は意識」→「私は脳」とはかぎりませんね。ただ、趣旨としては、L「どこかに脳があることが、どこからに意識があることの必要条件である」ではなく、L「いかなるものであれ、脳であることが、意識であることの必要条件」「いかなるものも、意識を持つならば、脳を持つ」と読んでいただきたく、Bは「私は脳を持つ」Cは「私は意識を持つ」と読んでいただきたかったのでした。
 このへんは、日本語の表現が確かに曖昧でした。L「何かが脳であることが、何かが意識であることの必要条件である」の2箇所の「何か」は同一であると常識的に読むこととしますが、そのあたりは、論理記号で書き直せば一応解決でしょう。

 P(C)=1のときはCは何とでも独立と解釈できますが、それは形式的にBとCが独立と言えるだけであって、Lが偽だとは言えません。
  B 私は脳である  C 私は意識である
  L ∀x(xは意識である⊃xは脳である)
  K 〜∀x(xは意識である⊃xは脳である)∧〜∀x(xは脳である⊃xは意識である)
 となりますが(Kは本当は、脳と意識の共在は確率的に相関しないと書かねばならないので上記では足りませんがさしあたり最低限の上記で)、

 私は脳でありかつ意識である
 という一つの例から、Kの肯定も否定も導き出せないのは当然です。

 根元事象を統一せねばならないのかどうかは難しいですが、
 BとCはそれぞれ、個々の意識の分布する確率空間の一事例、個々の脳の分布する確率空間の一事例、でしょう。しかし、BとCの関係を考えるさいには、「私」の存在する諸可能世界の一事例として出現します。つまり、後者の根元事象は各可能世界です。
 リンゴAの落下という事象をデータとして、ニュートンの法則を確証していくとき、前者も後者も、根元事象は可能世界でしょう。ここに問題はないのでは。リンゴの諸性質・諸状態をただあるがままに考えるならば(一つの法則を前提として考えるならば)、それは個々のリンゴ等の物体の振る舞いを根元事象とする確率空間に位置づけられるが、内的に法則で結びつけられた一事象は、別の法則というものと並ぶ事例となるので、可能世界を根元事象とする確率空間の、「一可能世界内の断片」として現われるのでしょう。

★★★ところで、ε さんの
 P(L)=P(B&L)≦P(B)≒0
 は、何か不思議な感じがします。何かがおかしいのですが――
 おそらく、P(C)=1 がまずかったかと。
 「私がいる」という事象Aを設定して、その確率をaとでもして、
 F**では
  P(C)=P(C&A)=a とせねばならなかったか。
 Cは正確には、「私は意識である」ではなく、「私は意識であり、しかも存在する」という趣旨のつもりだったので。

  ……そう、P(C)=1は単純化しすぎのようです。だんだん難しくなってきました!

--------------------------------------------------------------------------
P(C&L) 投稿者:ε 投稿日: 3月11日(土)23時54分50秒

>>ハムさん F**の場合、P(C)=1が仮定されているので、P(C&L)=P(L)です。実は計算上ではC&というのは無視していいのです。Cを全事象(常に成り立つ命題)と考えれば明らかですし、P(A)=0となる空でない事象が存在するときにも、次のようにわかります。

C’をCの余事象(Cでないという命題)とするとき、P(C’)=0ですが、
P(L)=P(L&(CorC’))=P(L&C)+P(L&C’)
ところが、L&C’はC’の部分集合なので、P(L&C’)≦P(C’)=0

----------------------------------------------------------------------------
脳でいい 投稿者:ハム 投稿日: 3月11日(土)12時43分59秒

>「私は脳である」は「私は意識である」の必要条件となります。

脳は意識の必要条件である場合、
私という名指しされた意識の必要条件は、脳であればいいはずです。
私という脳が必要だという条件はないですよね。

>P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(L)/P(L)=1(∵P(C)=1)

前にも指摘しましたが、
P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(C|L)/P(L) のはずです。
CとLが独立だという条件はないはずです。

---------------------------------------------------------------------------
メタ事象 投稿者:ε 投稿日: 3月11日(土)03時03分2秒

私にとってわかりにくかった理由は、KとLは、事象(BとC)に関する言わばメタ事象であることです。多分このことからKとLには強い条件が課されます。

まず、Kは常に成り立つ性質ですからP(K)=1(前の主張の繰り返しですが)

(ここ

>>というε さんの論は、Kの意味を誤解されたかと思われます。P(C)=1という前提ゆえ確かにBとCはトリビアルに独立ですが、現にB&Cが真なので、トリビアルでなく独立かどうかはわからず、Kが真かどうかには何ら光を投げかけません。Kは一人称の特称命題「BとCは独立である」ではなく、一般命題だからです。

はいまだにわかりません)

つぎにLについては、

P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(L)/P(L)=1(∵P(C)=1)

また、P(B|L)=P(B&L)/P(L)≦1とP(B|L)≧P(C|L)=1よりP(B|L)=1

従って、P(L)=P(B&L)≦P(B)≒0

事後確率でなく、事前確率についても自然に情報が得られるというのがベイジアンで自然なことなのかどうかよくわかりません。

根元事象とは確率空間の要素になる対象です。BやCではある可能世界の存在者が対象のように見え、KとLではさまざまな確率分布を持つさまざまな可能世界自身が対象になっているようです。

--------------------------------------------------------------------------
必要条件 投稿者:φ 投稿日: 3月11日(土)00時09分37秒

> L(脳は意識の必要条件である)だからといって、B(私は脳である)はC(私は意識である)の必要条件とはかぎりませんよね。

 かぎりますよ。
 「私」は数ある意識の中の一例なので、意識の必要条件が脳であれば、当然、「私は脳である」は「私は意識である」の必要条件となります。

 ………………………………
 εさんのようにメタレベルでたとえばLを仮定する文脈を設けたうえで、「条件付きでないBの確率」を考えるような場合、対象レベルでLを条件とする条件付き確率と区別して、Lを添字(下付小文字)にして

 PL(B)

 などと書くことがあるようですね。
 数値では PL(B)=P(B|L) となりますが、
  PL(B)では、Lそのものは主題とならず、背景に退いています。
  P(B|L)では、Lが前景に出て条件として主題化されています。
 『論理学入門』pp.146-7で私はそれ式の表記を用いました。(ブランドン・カーターの論文などを参考にして)

---------------------------------------------------------------------------
雑感 投稿者:楽俊 投稿日: 3月10日(金)19時42分58秒

>L(脳は意識の必要条件である)だからといって、B(私は脳である)はC(私は意識である)の必要条件とはかぎりませんよね。

というか、「私は脳である」の「私」は「意識」を媒介して「脳」について語っているし、そうすることでしか「脳」について語れないということでしょう。まそうすれば、脳は意識の必要条件ということになるでしょう。そして、意識は意識であるはトートロジーってことで…。

---------------------------------------------------------------------------
仮説Lについて 投稿者:ε 投稿日: 3月10日(金)09時28分5秒

私の完全な間違いでした。Lを仮定するというのはまさに条件付き確率を考えていることにほかなりませんね。φさん、丁寧なご教示ありがとうございます。

残りの部分はよくわかりませんが、ゆっくり考えてみます。

---------------------------------------------------------------------------
Lは空事象について 投稿者:ハム 投稿日: 3月10日(金)09時14分11秒

>Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。
>よってLは空事象でP(L)=0。

εさんの指摘は刺激的で面白いです。

対立仮説であるKとLの信頼度を調べたのがF**ですが、KやLを個々に論証するのはまったく違う話です。

美人が少ないので、対立的な久本雅美と山田花子を比べたら、久本雅美の方が美人度が高かったとします。
しかし、久本雅美はブスですよね。←失礼
そういうことだと思うわけです。

ちなみに問題の本質とは関係ありませんが、
L(脳は意識の必要条件である)だからといって、B(私は脳である)はC(私は意識である)の必要条件とはかぎりませんよね。

----------------------------------------------------------------------------
仮説検定の文脈≠Lを仮定する文脈 投稿者:φ 投稿日: 3月 9日(木)23時05分11秒

>>>>> Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。よってLは空事象でP(L)=0。

 文脈を統一せねばならないでしょう。二つの別々の文脈でP(B)という表記をεさんが用いているために、混乱が生じていると思われます。
 もちろん、Lを仮定すれば(前提とすれば)、BとCはLが述べる心脳関係の特殊例にあてはまるはずですから、Bの確率はCの確率より以上となるでしょう。しかしこれをP(B)≧P(C)と表記し、P(B)≒0と矛盾すると考えるのは誤解のもとです。というのも、もともとの文脈ではLは前提ではなく対立仮説の一つでしたから、「|L」を付けないともともとの文脈へ翻訳できていないことになります。
 P(B)≒0というのは「もとの文脈」での前提です。なので、Lを前提してしまう別の文脈では、Bの確率がほぼ0という補助前提は必ずしも成り立ちません。実際、P(B|L)=1だからです。εさんの新しい文脈の表記では、P(B)=1。ここに矛盾はありません。
 Lを真だと見るεさんの文脈は、もともとの仮説検定の文脈とは別なのです。仮説検定においては、LとKは真偽不明、観察にもとづいてP(B)≒0(脳のような複雑な物理系はまれなので、私がそこに当たる確率は極小)、P(C)=1(F**での「私」の定義)、そこでB&Cというデータから推論するわけです。もしLを真と前提したいなら、もはや仮説検定は済んでいることになりますが、その場合は、Bの確率は1(脳のような複雑な物理系はまれだが、意識である私がそこに当たる確率はLにより1)となるだけです(F**の推論の結果でもそうなりました)。しかしLを始めから前提する根拠は何もなかったので、文脈が異なっており、表記を分けねばならず、もとのF**の文脈の表記ではP(B)=1と書くのではなくP(B|L)=1と書かれるべきものです。
 Lは前提ではなく検定の対象なので、P(B)≧P(C)とはならず単にP(B|L)≧P(C|L)となる、と前回私が述べたのはそういう意味でした。

 根元事象は、各意識について脳を持つかどうか、と普通に考えていただければよいのでは。
 BとCは、諸意識の中の「私」という一事例について、「脳を持つ」「意識を持つ」ということです(後者の確率が1なのは自明です)。
 なので、K、Lが一般的に述べていることが、BとCについて当てはまっているかどうか考えるとき、BとCはともに真であるため、K、Lのどちらが正しいのかはわかりません。P(B)≒0とB&Cから、Lが正しそうだとわかったのがF**の論証でした。

 「危険な議論」は、外から見ての人間とその履歴との関係を推論したものでしょうから、独我論の正否には関わりなく、帰納的推論が客観的にできるのでは。(つまり、全人間のうちオタクの犯罪率が高いかどうかは客観的に観察できる)。
 F**と同様の推論となるためには、「意識」という、本人以外は経験できないものが単位となりますが、そのとき「危険な議論」は、すべての人間ではなくすべての意識のうちオタク的なやつの犯罪率が……、となりますが、人間の姿をしていない意識、あるいは物質に宿らない意識も想定しなければならなくなるので、「犯罪」という概念にふさわしくない主体も入ってくることになり、そもそも人間的な差別とか偏見とは無縁の議論になると思われます。
 「意識」ではなくあくまで客観的な「人間」を単位とした推論だというなら、「危険な議論」は、客観的統計に基づけることができ、独我論が真でも偽でもその妥当性は影響されません。

---------------------------------------------------------------------------
訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月 9日(木)19時22分51秒

>>必然的にP(C)=0ではないですか?

P(L)=0の間違いです

---------------------------------------------------------------------------
やはりよくわかりません 投稿者:ε 投稿日: 3月 9日(木)19時20分25秒

もう一度φさんのレスを読み返しているのですが、わからないところがでてきました まず

>>>>> Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。よってLは空事象でP(L)=0。

この部分は、背理法で仮設Lが成り立たないことを示したものです。論理は経験に優先するので、必然的にP(C)=0ではないですか?

もうひとつ、繰り返しになりますが、私は確率モデルでいわば外延的に考えているのですが、ベイジアンとか主観確率の場合でもモデルは構成できるはずですね。その場合、φさんは根元事象として何を考えられているのか?

>>C、Bは、それぞれ以下のような一人称命題です。
   C「私は意識である」
   B「私は脳である」

この部分では、私に関する可能世界が根元事象、それらの集合が確率(標本)空間のような気がするのですが、

>>K「脳と意識は独立である」
L「脳は意識の必要条件である」
は、「私」に限った命題ではなく、意識と脳に関する一般命題です。

この部分では、多数の個体からなる確率空間が考えられているようです。しかし、P(B|K)のような確率を考えるということは、同じ空間でなければなりません。

もうひとつ、この議論が有効なのは、我々が”脳でない意識を見たことがない”という経験事実に裏打ちされていて、それが、すぐ前のレスのような”危険な”議論とは異なるところだと思います。つまり、後者には反例(オタクでも文句のつけようのない善人がいる、etc)がいくらでもあるので、議論自体を無効にできると思いますが、独我論的に考えると、この区別ができなるなりませんか?

---------------------------------------------------------------------------
ちょっと修正 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 9日(木)17時22分50秒

まだいたいの線(?)として、仮説Kが出てくるまでの経緯が矛盾的だから"P(B&C|K)≒0"と。一方の仮説Lの方は、それが必然的だから"P(B&C|L)=1"。
((C→B)としての(BΛC)だと、P(C→B)=P(¬C)+P(C)・P(B|C)=1だったりするし)

なので、仮説K、Lに対してオボロげに抱かれている私たちの主観的確率(=信頼度)は、(BΛC)が与えられた後では大幅に修正されるということ。つまり、Lへの信頼度が相対的かつ飛躍的に拡大するということでしょうかね。

んまぁ細かな間違いとか^^;はあるかも知れませんが、こういった路線だったら私的には納得できます。ベイズ推定。
…しかしφさんの場合、分析哲学的知見が入ってきたときにはかなり難解な印象を与えるということはあるかも知れませんね。
(かなりオンチそうな私が言うのもヘンだけど)

--------------------------------------------------------------------------
なるほど 投稿者:ε 投稿日: 3月 9日(木)05時12分8秒

一応、解ったような気がします。しかし、ベイジアンは難しいですね。この場合、どんな標本空間を考えているのか、よくわからないです。

この議論が成り立つ前提を考えていて、次のような危険な議論を思いつきました。

ある凶悪犯罪者(B)で、最近よく罵倒されがちな性質、外国人とかオタクとか神経科に通院歴がある、のどれか(C)を持った人間が自分のことを考えるとします。

すると、同じ議論で、CならばBがいえることになりませんか?

--------------------------------------------------------------------------
うーん 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 9日(木)00時42分11秒

>楽俊さんの設定では、LとKの確率の比は、B&Cに条件付けた事後では千倍に高まる、となると思います。

そーでしたか。じっっくりと時間をかけて考えてみます。
なんつーか、ベイズの定理の仮説の査定?への応用というものについてはイマイチしっくりこないものがあったりしているんですよ。
(『マグロウヒル大学演習 現代論理学 U』の問題(素粒子物理学)などはまだいいんですけどね。)

--------------------------------------------------------------------------
あ 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 9日(木)00時30分30秒

K「脳と意識は独立である」に対する主観確率0.2、L「脳は意識の必要条件である」に対する主観確率1を書き忘れていました。
「対立仮説」(相互に排反的)ということで足して1.2というのはもろヘンですが、まぁ考え方としてはということでした。
がしかし、どうも数字上の辻褄合わせになったような気がしています。
そんなつもりはなかったんですけどね。

----------------------------------------------------------------------------
単純に 投稿者:φ 投稿日: 3月 9日(木)00時06分41秒

0.2というのがわからないのですが?
「私」について特別な仮定を設けないかぎりは、P(B&C|K)=P(B&C)と見なしてもよいような。ただし、P(B&C)の値は結局消去されるので、ゼロ以外なら何であれ議論に関係なし。

楽俊さんの設定では、LとKの確率の比は、B&Cに条件付けた事後では千倍に高まる、となると思います。

----------------------------------------------------------------------------
>F**(続き) 投稿者:ハム 投稿日: 3月 9日(木)00時03分7秒

>P(C)=1だと次のような問題が生じると思います:
>P(C)=1より、P(B&C)=P(B)=P(B)・P(C)  なので、事象BとCは独立

BとCが独立かどうか分からないのですから、P(C)=1より、P(B&C)=P(B|C) になりませんか?

ですので、独立かどうかを調べたら独立である信頼度が小さかった、というのが、F**の趣旨ですよね。

---------------------------------------------------------------------------
ちなみに 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 8日(水)20時16分36秒

> よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データB&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となります。 (φさん)

これは例えば、P(B&C|K)≒0.001  P(B&C|L)=1

P(B&C)=0.01
と仮定した場合
>=P(B&C|L)P(L)/P(B&C)÷P(B&C|K)P(K)/P(B&C)

=1×1/0.01 ÷ 0.001×0.2/0.01 =5万
で、P(L)/P(K)=5
5万≫5

ザッとした計算ですが、こういう感じですか?
計算ちがってたらすいません。

---------------------------------------------------------------------------
Re:F**(続き) 投稿者:φ 投稿日: 3月 8日(水)16時45分47秒

 ε さん、コメントありがとうございます。
 やはりここにお書きいただいてよかったと思いました。(いわれてみれば、同じような疑問を抱きうる人が少なからずいるでしょうね)
 私の原論文 http://russell-j.com/sizen-sentaku.pdf の6,7節や
前回レス(3月 6日)の説明が簡単すぎたので、確認をかねて回答させていただきます。

……………………………………………………………………………………
 C、Bは、それぞれ以下のような一人称命題です。
   C「私は意識である」
   B「私は脳である」

 F**の自己観は、Cに基づいています。Cは議論の前提になっているので、F**では、P(C)=1
  (**Fの自己観は、Bに基づいています。Bは議論の前提になっているので、P(B)=1。以下は、F**についての話)

K「脳と意識は独立である」
L「脳は意識の必要条件である」
は、「私」に限った命題ではなく、意識と脳に関する一般命題です。

 >>>>> P(C)=1より、P(B&C)=P(B)=P(B)・P(C)  なので、事象BとCは独立、よってP(K)=1

 というε さんの論は、Kの意味を誤解されたかと思われます。P(C)=1という前提ゆえ確かにBとCはトリビアルに独立ですが、現にB&Cが真なので、トリビアルでなく独立かどうかはわからず、Kが真かどうかには何ら光を投げかけません。Kは一人称の特称命題「BとCは独立である」ではなく、一般命題だからです。
 P(B)≒0なのにB&Cが成立したことが、Kの信頼度を減じた、というのが前回の趣旨でした。P(K)やP(K|B&C)の値そのものは依然として不明のままです。(相対的に後者のほうが小、ということだけがわかった)

 >>>>> Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。よってLは空事象でP(L)=0。

 というε さんの論は、同様に、Lの意味を誤解されたかと。Lは「BはCの必要条件である」という前提ではなく、検定されるべき一般命題なので、P(B)≧P(C)とはならず単にP(B|L)≧P(C|L)となります。これはLが真かどうかには光を投げかけません。
 P(B)≒0なのにB&Cが成立したことが、Lの信頼度を増した、というのが前回の趣旨でした。P(L)やP(L|B&C)の値そのものは依然として不明のままです。(相対的に後者のほうが大、ということだけがわかった)

……………………………………………………………………………………
 上のF**だけでなく**Fについても、ブログに書いてみました。
「霊体仮説とゾンビ仮説」
 http://green.ap.teacup.com/miurat/622.html
 いずれ論文にでもするときの覚え書きも兼ねています。
 条件付き確率は落とし穴が多いとも思いますし、私は数学はド素人で哲学的考察に即応する部分しか注目していない身ですから、合わせてまたご指摘いただけると幸いです。

---------------------------------------------------------------------------
F**(続き) 投稿者:ε 投稿日: 3月 8日(水)08時42分0秒

それではこちらに書きます、P(C)=1だと次のような問題が生じると思います:

P(C)=1より、P(B&C)=P(B)=P(B)・P(C)  なので、事象BとCは独立、よってP(K)=1。
一方、Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。
よってLは空事象でP(L)=0。従って、

P(K|B&C)=P(K&B&C)/P(B&C)=P(B&C)/P(B&C)=1=P(K)、
0≦P(L|B&C)=P(L&B&C)/P(B&C)≦P(L)/P(B&L)=0

よって、K,Lに関する事前、事後の確率は変わらない。

もっとも、P(C)=1でなければ、前のレスの議論はほとんどそのまま通用するので問題ないです。もともと、P(C)は個体のうちで意識を持つものである確率と解釈すべきだと思うので、1にはならないと思います。

---------------------------------------------------------------------------
F** 投稿者:φ 投稿日: 3月 8日(水)03時43分28秒

 ε さんからメールお送りいただいたのですか?
気づきませんでした。
 スパムメールが毎日50以上来るもので、それらしきタイトルのは開封せず片端から削除する習慣なのです。もしかしたらその中に入ってたのかも。
 自然選択とかF**とか、目印として間違いない句をタイトルに入れて、再度お送りいただけますでしょうか?
 (あるいはここに書いていただいても、お立ち寄りのかたの迷惑にはならないだろうとは思いますが。)

--------------------------------------------------------------------------
SETI 投稿者:ε 投稿日: 3月 8日(水)02時08分55秒

F**についてまだ疑問があったのですが、ちょっとテクニカルなので差し上げたメールに書きました。

選挙速報は、たまに間違えることがあります。当確が出たのに落選した候補の憮然とした顔を何回かみたような・・・たぶん1000回に1回くらいは間違えているのでしょう(もっと多いかも)。SETIは限りなく0に近い確率に賭けているので、大きな誤差なのでしょう。

SETIは予算が減額されて、スパコンがあまり使えなくなったらしく、インターネットにつながっているパソコンの空き時間を使うボランティア形式でやっているようですが、”知性による干渉”は、注目すべき波形を見つけた人への注意を書いたページの一番下の図をクリックすると出てきます。要はいたずらの一種なのです。

---------------------------------------------------------------------------
F**、SETI 投稿者:φ 投稿日: 3月 6日(月)03時11分5秒

 F**は、私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳でもあるかどうかが調べられ、「脳だった」というデータが得られた(B&C)、ということです。
 **Fは反対に、私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識でもあるかどうかが調べられ、「意識だった」というデータが得られた(B&C)、ということです。

 対立仮説は、K「脳と意識は独立である」 L「脳は意識の必要条件である」
 共通する補助前提として P(B)≒0

 すると、P(B&C|K)≒0  P(B&C|L)=1  ……@
 ここから、P(L|B&C)/P(K|B&C)
=P(B&C|L)P(L)/P(B&C)÷P(B&C|K)P(K)/P(B&C)
=P(L)/P(K)× P(B&C|L)/(B&C|K)
 @をあてはめると
 P(L|B&C)/P(K|B&C)≫P(L)/P(K)
 よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データB&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となります。

 どこか書き間違えてるかもしれませんが、趣旨は以上のようなことで。
 **Fに関しても同様ですが、そこではP(C)≠1とするのが無理ということです。

 SETIは、私は完全に馬鹿げていると考えるほうで……。
 「すべての周波数域を調べないかぎりETIが電波を出していないことは証明できない」などと変なことをあの人たちは言い張るので。選挙速報だって、ほんのわずかの開票で全体が推測できますよね。周波数域だって、有望なところをほんのわずか調べて人工電波がなければ、すべて無いに決まってると私は思います。オフィシャルサイトはここしばらく見てませんが、「知的な干渉」とはまさか、デモンストレーションに失敗した超能力者がよく言う弁解と同じやつでしょうか……?

--------------------------------------------------------------------------
SETI、F**と**F 投稿者:ε 投稿日: 3月 6日(月)00時45分58秒

私の主旨はすぐ下のφさんとほぼ同じです。というか、投稿を書き始めたときにはφさんの投稿がまだなかったので、重複に気づかず書き込んでしまいました。SETIについては、まあ宝くじを買うようなもんでいいんじゃないの、位の気持ちです。電波天文学への副産物もあるかもしれないし、地球外知性の存在確率の検証をしている(0に近づける)といえなくもないでしょう。

SETIオフィシャルサイト(日本語訳)の”知的な干渉(妨害)???”には笑ってしまいました・・

「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」について、質問です。第6節のはじめの部分ですが、F**をまとめると、
B:脳のような複雑系を持つ、C:意識をもつ、と言う性質を考えたとき、条件付確率P(B|C)は1に近い、少なくともそれほど小さくない、と言うことだと思います。その根拠としては、B&Cが私で例示されていること、P(B)が小さいことがあがっているのですが、これから結論がなぜでるのかわかりません。P(B|C)=P(B&C)/P(C) なのでP(C)が小さいのならまだわかるのですが・・そう考えるとむしろ”弱い”**F:P(C|B)がそれほど小さくない、のほうが言えるのでは?

意識と脳が独立なら私が脳として生じた確率は低い、とありますが、すでに私が低確率のBと言う性質をもっている場合を考えているので、同じ性質を条件付で考えても低確率のままで不思議はありません。結論を導くには”意識”とか”脳”に関する何か特別の関係を持ち込む必要があるのではないですか?

---------------------------------------------------------------------------
観測事実 投稿者:ハム 投稿日: 3月 5日(日)00時56分16秒

についてですが、地球外知的生命は、観測される確率はかなり低いと思っています。

私たちの銀河の直径は10万光年です。
平均でざっと5万光年かなたの星を観測しているわけですが、5万光年もとどく電波をわざわざ発信している文明は少なそうです。
また、その電波が地球に届くまでには、ざっと5万年もかかるわけです。
私たちはそういう観測を始めて数十年です。
銀河に数個の地球外知的生命があるとして、ちょうど5万年前に電波文明に達して、地球に向かってメッセージを送ってくれているような地球外知的生命を探すことなど、ほとんど不可能に思えます。

仮にそういう地球外知的生命を見つけたとしても交信するのに10万年もかかってしまう。
10万年もかけて、やっと「こんにちは」と挨拶のやりとりができるのです。

そういう意味でSETIなどの行為は、まったくバカげていると思っています。

--------------------------------------------------------------------------
論理や確率だけでない 投稿者:ε 投稿日: 3月 4日(土)05時26分39秒

ハムさんは、現実の観測事実を軽視されているのだと思います。私は、論理や確率だけで現実世界に対してnon-trivialなことがいえる可能性はほとんどないと思っています(たぶんφさんよりもっと強く思っている)。数学者なのに意外と思われるかもしれませんが、私の知る限りまわりの数学者は数学の現実への適用についてはかなり懐疑的な人が多いのです。

地球以外に知的生命があるというのは、コペルニクスやブルーノのころであれば誤謬とはいえなかったはずです。じっさい、地球上ではヨーロッパ以外の大陸にも人間が発見されたので、特別なところでないという推論は正しかったわけですから。しかし、生物学の進歩や、宇宙の観測で地球外生命や、まして知性の存在はどんどん疑わしいものになってきましたし、これからも残念ながらそういう傾向が続くでしょう。

といっても、一片の観測事実でこのような確率的推論は根底から変わってしまうので、SETIなどが全くの無駄とは思いませんが。

--------------------------------------------------------------------------
20世紀後半から一変 投稿者:φ 投稿日: 3月 4日(土)05時10分15秒

 20世紀前半までは「地球以外に文明はそこら中にある」と科学者も考えていましたよね。
火星の運河なんかも流行りましたし。
しかし、分子生物学と進化生物学の進歩で文明発生の難しさが認識されたのと、なにより人類自身の宇宙開発・宇宙観測技術の進歩によって、地球外文明の存在は絶望的になってきましたね。多数の文明すべてが自分の生まれ故郷でじっとしているという19世紀的宇宙人観は信じられなくなったと。オズマ計画以降も、人工電波一つ発見されてない。すべての文明が、生活電波をまったく宇宙空間に洩らさずに営まれているとは信じがたいことです。

 「地球に文明がある」というデータは、A「宇宙に多くの文明がある」B「地球にしか文明はない」という対立仮説を同等に確証しますが、「文明として平凡な地球文明はやがて宇宙へ飛び出す」という新たなデータを加味すると、「宇宙観測で文明活動の兆候は認められない」というデータと合わせて、Aを反証しBを信じるよう促します。

---------------------------------------------------------------------------
ないともいえない 投稿者:ハム 投稿日: 3月 3日(金)22時20分39秒

統計学を適用するには、おっしゃるとおりだと思います。
しかし、そこまで厳密に考えるのであれば、地球以外の知的生命については、(地球以外のサンプルが構造的に得られないので)あるとも、ないとも、何もいえないことになります。
地球以外に知的生命が発生したかどうかについては、地球はサンプルになりえないのですから。
つまり、地球以外の知的生命はない、というのは、地球以外の知的生命はある、というのと同程度に誤りだということになります。

しかし、本当にそうなのでしょうか?
平凡の原理のほかに、充足理由律とか無差別原理もあります。
つまり、地球に起こったことは、特別な理由がなければ、同等の確率で起こるはずです。

私たちの意識は、地球以外に知的生命はある、という志向をするようです。
そういう意識は肯定せざるをえないと思います。

※充足理由律、無差別原理については「論理学がわかる辞典」を参照しました。

---------------------------------------------------------------------------
ランダム2 投稿者:φ 投稿日: 3月 3日(金)03時25分29秒

>ランダムでないと分かっていないかぎり

ランダムでないとわかっているから、平凡の原理を適用することは許されません。

 ただし前述のように、条件次第です。地球も、@観測選択効果が働かない要因と、A観測選択効果を考慮したあとの要因と、その二つに関しては、ランダムと言える場合があります。たとえば、
 @より外側に惑星が偶数個あるか奇数個あるか
 A文明発生から千年間(千公転)で王朝はいくつ誕生したか

 これらについては、地球はランダムと見なすべきでしょうね。
 しかし知的生命が発生したかどうかについてはランダムではありえないので、地球を帰納的推論のサンプルとして宇宙全体について結論は導き出せません。
 
----------------------------------------------------------------------------
ランダムかは謎 投稿者:ハム 投稿日: 3月 2日(木)22時05分20秒

地球というサンプルが、ランダムに選ばれたサンプルなのか否かは謎であるはずです。

ですので、ランダムでないという前提も、ランダムだという前提も、共に等しく検討すべき仮説であるはずです。

ランダムか否か分からない対象を、ランダムだと前提して統計的に考えることには無理があります。
しかし、ランダムでないと分かっていないかぎり、平凡の原理を適用することは許されるのではないでしょうか?

---------------------------------------------------------------------------
ちゃちゃ 投稿者:らくしゅん 投稿日: 3月 2日(木)18時48分32秒

>地球はランダムに選ばれた場所かもしれません。

ってかこれ、誰が選んでんの?
ヘンな話ですよ、「人間」が選んでんでしょ。なんでそれがランダムと言えるのか私にはまったく理解できません。

---------------------------------------------------------------------------
ランダム 投稿者:φ 投稿日: 3月 2日(木)01時37分5秒

 ランダムという概念は、無条件には使えません。たとえば、くじをランダムに引くという場合、「個々の引きが当たるかどうか」に関してランダムと言っているのであって、「いつ、どこで引かれるか」「右手で引くか左手で引くか」「くじの材質は何か」「どういう職業の人が引くか」「商品は何か」などについては決まりや傾向があって、その基準では「ランダム」ではないかもしれません。
 というわけで、「何に関してランダムか」を決めなければ無意味です。
 くじの場合は、当たり外れと、各くじ番号とが独立に決まっている、というのが「ランダム」の意味です。ランダムとは、常に、何かとの独立性を意味する相対的な概念です。
 「宇宙の多くの場所で知的生命が発生しているかどうか」の判定のためには、サンプルとして「結果的に知的生命が発生したかどうか」という要因Aとは独立した選び方をしなければなりません。しかし、地球がサンプルとして選ばれた仕方は、要因Aに条件付けられざるをえず(そうでないと選ぶ住民がいない)、独立ではありません。  地球はランダムに選ばれた惑星である、という素朴なコペルニクス的世界観は、昔とは逆に、今や多くの誤謬を生むもとになっています。

---------------------------------------------------------------------------
「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」 投稿者:ハム 投稿日: 3月 1日(水)23時11分28秒
を読みました。
一つ指摘させてください。

「端的に言うと、Eの誤りは、地球というサンプルを、サンプル選択以前に独立して指定していなかったところにある。どれが地球であるかはサンプル抽出後に事後的に定められたので、偏ったサンプルなのであり、その性質をそのまま一般化してはならないのである。」

・「地球というサンプルを、サンプル選択以前に独立して指定していなかった」といえるか?

地球はランダムに選ばれた場所かもしれません。つまり、ランダムサンプリングという独立した指定(自然選択?)があったのかもしれません。
だとすると、地球の性質から一般化することも許していいと思います

--------------------------------------------------------------------------
自然選択 投稿者:φ 投稿日: 3月 1日(水)01時55分40秒

前に、話のついででちょっと触れた『現代思想』2月号の拙論をアップロードしました。
御参考までに。
http://russell-j.com/sizen-sentaku.pdf

---------------------------------------------------------------------------
すいません 投稿者:楽俊 投稿日: 2月28日(火)09時42分54秒

「周延」されるべきはBでした。(^^;

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月26日(日)01時13分13秒

>が偽なのは論理が決めたルールでしょうね。
A∧BとB∧Cが同一の存在に対する述語だとは限らないということです。(ハムさん)

ふつうにはAが周延されていないだけでしょうね。
そして、「同一の存在」とは限らないということですが、(A∧B)と(B∧C)は別の固体が前提されていると考えるのが自然では?

>あの確率三段論法?をよーく見てください。
つまらん無内容なことしか述べていません。
A∧Cの存在確率はあるかないかだろうって。

確かに∃の存在を忘れていましたが、あの確率三段論法?はどちらかと言えば確率の定義に近いのではないかと思います。あくまでも個人的にはですが。

--------------------------------------------------------------------------
ルール 投稿者:ハム 投稿日: 2月25日(土)15時58分7秒

例えば、
∃x(Ax∧Bx)
∃x(Bx∧Cx)
∴∃x(Ax∧Cx)

が偽なのは論理が決めたルールでしょうね。
A∧BとB∧Cが同一の存在に対する述語だとは限らないということです。

>ルールを拒んだだけで“偽”にされてしまうなんて・・・

ルールを拒んでも“真”になるような世界はありませんよ。
まあ、ルールを拒むのであれば、そのルールの世界から退場すべきでしょうね。

あの確率三段論法?をよーく見てください。
つまらん無内容なことしか述べていません。
A∧Cの存在確率はあるかないかだろうって。m(_ _)m

----------------------------------------------------------------------------
うーん 投稿者:楽俊 投稿日: 2月24日(金)20時16分42秒

>スペンサー・ブラウンの主張がトンデモっぽく感じられるのは、確率抜きで具体的現実について言及しようとする無理からくるのではないか、と私は感じました。 (ハムさん)

このあたりは私の説明能力の影響が大かも。

>ちなみに、「確率or可能?」で挙げた式は、確率以外は偽ですので誤解なきようお願いします。

これは誰が決めたルールなのですか?
ルールを拒んだだけで“偽”にされてしまうなんて、私は聞いてないんですけど?(^^; それに、abcのそれぞれが独立事象だった場合、この推論は意味をなさないような気がするんですけど。

--------------------------------------------------------------------------
具体的現実? 投稿者:ハム 投稿日: 2月24日(金)12時45分11秒

>「全称命題」は、「具体的現実」についての言及ではない

存在命題も同じですよ。
というか、論理学は具体的現実についての言及ではなく、形式についての言及なわけです。
そういう論理学を使って具体的現実について言及するには確率的にならざるをえないと思います。

スペンサー・ブラウンの主張がトンデモっぽく感じられるのは、確率抜きで具体的現実について言及しようとする無理からくるのではないか、と私は感じました。

ちなみに、「確率or可能?」で挙げた式は、確率以外は偽ですので誤解なきようお願いします。

---------------------------------------------------------------------------
(訂正) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月23日(木)23時08分53秒

>>あるいは、可能(◇)を考えます。

>これらは、それが存在しないことは必然ではないという意味だから、そういうことではないような?

いや、関連はあるとは思いますけど。(^^;
「全称命題」は、「具体的現実」についての言及ではない、ということで。

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月23日(木)22時42分6秒

>確率を考えます。 (ハムさん)

この種類のものを確率論で考えたことがないので、ちょっと。

>あるいは、可能(◇)を考えます。

これらは、それが存在しないことは必然ではないという意味だから、そういうことではないような?

>∃xは∀xの真部分集合なのだから、


>∃x(Ax∧Bx)⊂(含まれる)∀x(Ax∧Bx)
>∃x(Bx∧Cx)
>∴∃x(Ax∧Cx)
>は、必ずしも偽だといえないのではないか、というような?

うーん、というかこの論証は成り立たないのでは?
どーなんでしょ?

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月23日(木)22時40分22秒

>「限定」という概念がうまく働くかどうかわかりませんが、「すべての図を含む一番外側に絶対的な(無限定な)地がなければならない」という思い込みが、諸々の宗教を生み出してきたのでは。 (φさん)

これは、「動物」⊃「生物」⊃「物質」、という意味での「一番外側に絶対的な(無限定な)地」ということだと思いますが、だとすればそういうことではないのです(というか、もしかするとこれはスペンサー・ブラウンでは「(区別の)再参入」という形で処理されるのかも知れません。)。
これは、私が論理学および数学にそれほど精通していないのでこういう説明にならざるをえないのだと思いますが、ラッセル(著書は未読)とスペンサー・ブラウン(こちらも同様)では、同じ集合論に基づいたものでありながら、スタンスが違うような気がするのです。これはもちろん、知らないものの勝手な思い込みの可能性は大ですから、単なる私の中のイメージの話です。 では、どこに違いを感じているのかと言えば、標準論理学では普通に使われる場合と全称命題的(?)なものに使われる否定記号の同一性がない(両者の意味が異なる)のに対して、スペンサー・ブラウンの方には客観性がある(否定の次元が違う)ということでしょうか。
どうも、『行為の代数学』のある部分の書き方がある意味ですごく紛らわしい面があったことにくわえて、私の知識不足が重なったことで、こちらの議論まで紛らわしくなっていまったようです。

SAの話は内容をよく知らないまま想像で書いたものなので撤回しておきます。すいません。

----------------------------------------------------------------------------
確率or可能? 投稿者:ハム 投稿日: 2月23日(木)09時43分8秒

楽俊さんのお話が良く理解できないのが残念なのですが、勝手に想像しました。

確率を考えます。

P(∃x(Ax∧Bx)) ≧0
P(∃x(Bx∧Cx)) ≧0
∴P(∃x(Ax∧Cx))≧0

あるいは、可能(◇)を考えます。

◇∃x(Ax∧Bx)
◇∃x(Bx∧Cx)
∴◇∃x(Ax∧Cx)

例えば、これらのようなことを主張したいのかと。

∃xは∀xの真部分集合なのだから、

∃x(Ax∧Bx)⊂(含まれる)∀x(Ax∧Bx)
∃x(Bx∧Cx)
∴∃x(Ax∧Cx)
は、必ずしも偽だといえないのではないか、というような?

ん?
お呼びでない?
失礼をばいたしました。m(_ _)m

--------------------------------------------------------------------------
絶対的∃ 投稿者:φ 投稿日: 2月23日(木)02時29分57秒

∀x(Fx→Gx) の形は普通問題ないのですが、
∀xGx といった式は意味をなすのか、ということは私もよく考えます。限定なしの母集団について、そのすべてはどうこう、と……。

「限定」という概念がうまく働くかどうかわかりませんが、「すべての図を含む一番外側に絶対的な(無限定な)地がなければならない」という思い込みが、諸々の宗教を生み出してきたのでは。
 すべてのシミュレーションを含む一番外側のナマの現実が、一番内側のシミュレーション世界の内部にある、ということであってもよいではないかと思います。循環構造ですね。自己言及のパラドクスが発生しそうですが、世界をまたいだ論理というものに限定が付かざるをえないならば(タイプ理論?)問題ありませんし。
 ただしそうなると、私たちから見た現実世界と、その中のシミュレーション世界(虚構世界)とでは、それぞれ内部で別の論理が働くことになり、虚構の論理が標準論理でないことになりかねませんが、ラッセル的タイプの「体系的曖昧さ」ゆえに論理の同型は保証できるでしょう。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月22日(水)20時51分29秒

>の区別がつかなくなってしまうというわけですか。 (φさん)

その方向性ではなくて、私が言いたいのは、φさんの式に“∃”がついてしまうことの意味についてなのです。
例えば、∀x(Fx→Gx)の“否定”¬∀x(Fx→Gx)が、いきなり∃x¬(Fx→Gx)の“∃”を意味してしまうことそのものの意味です。
(これは『論理学入門』のゴキブリの話にも間接的につながってくると思うのです、が?)

例えば、「動物だ」と言った時、そこに暗黙に前提されているのは¬動物としての「生物」の集合ですよね。その部分集合としての動物だからです。そして生物について考えている時には「物質」性が前提されている、と。
ですから、この考え方からすれば、「全ての人間は死ぬ」と言った時には、そうでは“ない”(=否定)ものとの
 ■■■■■■■■
∀x(Fx→Gx)■
としての「書かれざる囲い」として「区別」が前提されているということです。したがって、ここからは“∃”は出てこないハズだということです。そして私は標準論理学にケチをつけるつもりなど毛頭ありません。実用的ですしね。

まぁ、私が言いたいことに別の表現をくわえれば、人間(≒生命体および機械?)は意識の外には立てないということでしょうかね。ニーチェではありませんが、すべては「解釈」でしかありません。前にも話題になっていたシミュレーション・アーギュメント(?)的な問題にしても、それは私たちの意識内だけの問題ではなくて、人間を培養?しているマッドサイエンティスト(orコンピュータ)自身にもそのまま当てはまることだと思うのです。

> ――いろいろな体系が並び立つことは論理学の強みでもあるので、スペンサー・ブラウン、私も時間があったら読んでみようと思います。なにやら、トンデモ系のように言われてるのをよく聞くのでいまいちあれですが。

このことは私も知っていますが、「対人論証」的な側面が強いのでは?というのが私の印象です。中身についてはあまり詳しくありません。しかし問題は、『形式の法則』の純粋な内容がどうなのかということだと思うのですが(知りませんけどブール代数のちょろまかしでもかまわない)。
「区別」を重要視する社会学者のニクラス・ルーマンの理説の多くもこの本に依拠したものですよね。けどどーなんですかね、英語版(?)とかはともかくとして、翻訳本は入手できないかもしれませんね。私も読んでいる訳ではありませんし。
しかし、ケナすにしろ何にしろ話の種として読んでみるのも面白いかもしれませんね。 (数学が得意な人ならまた別の意見があるのかもしれないし、って何か悪徳セールスマンになったような気分)

この件に関しては、私に言えることはもうないかも…(^^ゞ

---------------------------------------------------------------------------
記法が異なるだけなら標準論理か 投稿者:φ 投稿日: 2月22日(水)02時00分56秒

――命題論理なみの簡潔な記法でなるべく済ませようというのがスペンサー・ブラウンの論理学なんでしょうかね?

しかし述語論理でなすべき推論を、命題論理の記法でやろうとすると、
∃x(Ax∧Bx)∧∃x(Bx∧Cx)
∃x(Ax∧Bx∧Cx)
の区別がつかなくなってしまうというわけですか。

∃x(Ax∧Cx)は
前者からは導けない(非妥当)のに、後者からは導けてしまう(トートロジー)と。

まあ当然のことですが、だから? という気もします。
AかEだけから成るトートロジーに変形できない推論 を非妥当な推論として識別しようと……?
もし、「変形できるかいなか」を決定する便利な機械的手続きがあるなら、妥当な推論かどうかの識別法になるのでしょう。しかしどうせ命題論理ふうにやるなら、単に直接真理表で調べた方が早いような気も。

 ――いろいろな体系が並び立つことは論理学の強みでもあるので、スペンサー・ブラウン、私も時間があったら読んでみようと思います。なにやら、トンデモ系のように言われてるのをよく聞くのでいまいちあれですが。

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月21日(火)21時33分36秒

>> というのは、三段論法に限らず妥当な推論であれば、一つの命題で書き下ろしたとき(とくに楽俊さんがしてくださったように命題論理ふうに書き直せば)、トートロジーになるはずですが、それは当然のことながら別の形をしたトートロジーと論理的に同値であり、その中には仮言三段論法も含まれるからです。 (φさん)

>どうもそうみたいですね。ここで言われていることはφさんの『論理学入門』のp.44に書かれていることですよね。こちらのほうも今回(?)は脳裏にありませんでした。というより、このあたりのことは感覚的に理解したつもりで半分素通りしていたというのが正解だと思います。トホホ

ここのところは、なんでと思われるかも知れませんが、マグロウヒル本のp.126-27あたりでとりあえずスッキリしたつもりです。
(ところで、こうやって本を読み返していると、忘れていたこととか一知半解状態だったこととかが多いです。)
しかし、このことも含めての現時点での私の頭はかなり混乱しているのですが、今回(?)はまぁ思いつくままにということで…

> >非妥当なものとして扱われている(Eの否定としての)I-I-I型の三段論法まで(ついさっきの真理値表の調べでは^^;)トートロジーになっているからなので…。

>とはどんな?

:::::::::::::::::::::::::::::  ところが、特称命題の表現を以上の如きものとして承認するのならば、原子代数は、奇妙な結論を、必須のものとして予想する。次のような三段論法は、妥当ではないものとして知られている。

F7 あるaはbである
   あるbはcである
  ∴あるaはcである

だが、それに対して、この三段論法の原始代数内での表示は、

     (例のマーク式…楽俊注)

となり、この中では、この三段論法は妥当なものとして現象してしまう〔148〕。ここに至って、論理学と指し示しの算法との調和は、突如として、乱される。(…)
:::::::::::『行為の代数学』p.241-42::::::

ですので、言われているようなことではなくて、こちらの方はそのもののズバリのIIIです。そして、ここでのΛで結合された2前提と⊃で結ばれた結論がトートロジーになるのは当たり前ですよね(今だから言えるか^^;)、φさんが言われていた通りに。しかしこちらの方は、[2月19日(日)18時46分59秒]のように交換律を他用しても、●Λ●⊃●という形での3命題の全てが「全称(AorE)」ということにはならないと思うんですよね。
私が言っている「全称」というのはこの意味でのことです。
(大澤orスペンサー・ブラウン(どちらかといえば後者の方か)の意図(錯覚かそれ以外か)とかについてはいろいろと考えさせられましたが、どう転んでも私の直感?には影響はないと思うのですが…)

----------------------------------------------------------------------------
変形 投稿者:φ 投稿日: 2月21日(火)01時15分19秒

>非妥当なものとして扱われている(Eの否定としての)I-I-I型の三段論法まで(ついさっきの真理値表の調べでは^^;)トートロジーになっているからなので…。

とはどんな?

 …………………………
前提1 全てのaはbである
前提2 あるaはcである
結論  あるbはcである

  から

前提1 全てのaはbである
前提2 全てのbはcでない
結論  全てのaはcでない

 に変形した前回のあれですが、どういう意味もしくは用途があるのかやはりわかりませんね。
 二つの推論は全然べつのもので、妥当な推論ということ以外共通点がないですよね。互いの前提と結論に、矛盾したものが含まれているので実用的な意味があるとも思えないし。ただいじってみただけという気も?

 ――いかんせん、私はスペンサー・ブラウンを読んだことないので、何も言えませんが。
 晩年のラッセルがスペンサー・ブラウンの訪問を受けて、数学のアイディアに耳を傾けたようですけれども……。

--------------------------------------------------------------------------
(補足) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月21日(火)00時25分43秒

重要なことを忘れていたようで、トートロジーの「I-I-I型の三段論法」というのは、形式的には仮言三段論法になっていました。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月20日(月)21時05分39秒

>まず、還元する意義はなんなのでしょう。何の役に立つのだろうか?

そこまで考えていませんでした。還元できるということだけで以外でした。

> 還元できるかどうかについては、伝統論理学でそれを述べた定理があるのだと思いますが(たぶん)、記号論理学の観点からは、還元できることは自明のように思います。

伝統的論理学の解説らしきものが載っている本が一冊ありますが、大概念・小概念・媒概念の位置によって決定される「格」と、AAA、AII、EIO等の組み合わせが問われる「式」というものがあるようです。そして、その「格式」の組み合わせのなかから妥当(成立する)な19の推理が選ばれているようですね。これが「定理」に相当するものかどうかは解りませんが。
(しかし結論(格)の主語述語が逆の場合を調べようとすれば、同値変形とみられる言いかえがあまりにも通常とは懸け離れすぎていて翻訳不能^^;)

> というのは、三段論法に限らず妥当な推論であれば、一つの命題で書き下ろしたとき(とくに楽俊さんがしてくださったように命題論理ふうに書き直せば)、トートロジーになるはずですが、それは当然のことながら別の形をしたトートロジーと論理的に同値であり、その中には仮言三段論法も含まれるからです。

どうもそうみたいですね。ここで言われていることはφさんの『論理学入門』のp.44に書かれていることですよね。こちらのほうも今回(?)は脳裏にありませんでした。というより、このあたりのことは感覚的に理解したつもりで半分素通りしていたというのが正解だと思います。トホホ
したがってこんな私が気になるのは、「妥当な推論であれば」ということですが、では非妥当な推論ではどうなのかということです。というのも、『行為の代数学』でも非妥当なものとして扱われている(Eの否定としての)I-I-I型の三段論法まで(ついさっきの真理値表の調べでは^^;)トートロジーになっているからなので…。
大澤さん(orスペンサー・ブラウン)は、「(E)というのは〔宇宙の〕実情ではない」というかたちでその否定性のあり方を推論していました。

私はこのスペンサー・ブラウン(←いろいろ言われてるようで^^;)の差異論理学(指し示しの算法)の結論(or論理的含意)が、普遍命題から全称例化、存在汎化を通して「ある…」を導出することに対するφさんの違和感への何らかのヒントになるのではないかと思っていたのでした。大それた勘違いならすいません。(^^ゞ
(まこれもφさんにとっては既に織り込み済みなのか…)

しかし、スペンサー・ブラウンの体系は標準的論理学の体系とはイコールではないというのが私の直感です。

--------------------------------------------------------------------------
存在、変換 投稿者:φ 投稿日: 2月20日(月)02時26分44秒

「言語論的転回の哲学」が不十分であることについては、『ラッセルのパラドクス』で再三述べましたが、これからは確かに、ラッセル的な「存在論」で攻めることでこそ、世界を理解できるだろうと私は思っています。

 A、E型への還元ですか。面白いですね。
 命題をA、E、I、Oに分けていろいろ組み合わせのパターンを分類するのは、伝統論理学といわれる記号論理学以前の文脈で発展してきた考えなので、正直のところ、私はあまり興味がありません。昔本を読んだ記憶はありますが、忘れてしまいました。
 でもたまに考えてみるのは面白いかもしれませんね。まず、還元する意義はなんなのでしょう。何の役に立つのだろうか?

 還元できるかどうかについては、伝統論理学でそれを述べた定理があるのだと思いますが(たぶん)、記号論理学の観点からは、還元できることは自明のように思います。
 というのは、三段論法に限らず妥当な推論であれば、一つの命題で書き下ろしたとき(とくに楽俊さんがしてくださったように命題論理ふうに書き直せば)、トートロジーになるはずですが、それは当然のことながら別の形をしたトートロジーと論理的に同値であり、その中には仮言三段論法も含まれるからです。よって、変形の具体的な経緯にかかわらず、仮言三段論法に変形できることだけは確実でしょう。妥当でない推論の場合は、トートロジーでないので、仮言三段論法もしくは他のA、Eオンリーの含意式に変形できるとはかぎりません。
 むろん妥当な推論は、仮言三段論法に限らず、他の形のトートロジーに変形することもできますから、I、O型を含んだいろいろな形に変形できるわけですが、A、E型をとりたてて重んじる理由が、伝統論理学にはあるのでしょう(日常言語の用法など?)。

 現代論理学では、A、E、I、Oの間で特に価値の差別を設けないのが普通だと思います。あえていえば、EよりA、OよりIが基本だ(否定を含まないぶん)と考えられる、というくらいでしょうか?

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月19日(日)18時46分59秒

おじゃまします。私は時折当掲示板を閲覧しているものですが、φさんにお聞きしたいことがあります。

これは以前から疑問に思っていたことですが、大澤真幸の『行為の代数学』のなかに、論理的に妥当と認められる三段論法はすべて全称命題(A・E型)に還元できるといった記述があります。
例えば、
前提1 全てのaはbである
前提2 あるaはcである
結論  あるbはcである

これは、スペンサー・ブラウン(^^;の「マーク」を使った式は独特なので勝手に論理式に変換すれば
(a→b)Λ¬(a→¬c)→¬(b→¬c) [A・I・I型]

これを選言形式に変形して
¬(a→b)∨(a→¬c)∨¬(b→¬c)
第二命題と第三命題を入れ替えて
¬(a→b)∨¬(b→¬c)∨(a→¬c)
そして最終的に
(a→b)Λ(b→¬c)→(a→¬c) [A・E・E型]

という仮言三段論法に変換できるということのようです。読んでいて納得できるのですが、こうした考え方は論理学の世界では周知の事実なのでしょうか?
初歩的な質問ですいません。(^^ゞ

ちなみに、非妥当とされるI・I・I型の三段論法は全称型には変換できないようですが。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月19日(日)05時41分55秒

>言語の問題に落とすことができないことに哲学者たちが気づいてきたもののようです。
大変重要なポイントではないでしょうか。他人はゾンビかもしれないのに、言語を用いて主体について討論する事自体にもともとおかしなところがあります。それ以外に方法がないのですが。良く出される、「AがBに独我論を説明するとBが同意したのでAは礼をいった」(AはBに主体を認めていないのに関わらず、自分がゾンビだと主張しているBに礼を言うとは一体どういうことか)、これになんらかの解決法が示されない限り、「言語論的転回以降の哲学」は哲学として虚しいものです。

--------------------------------------------------------------------------
言語哲学 投稿者:φ 投稿日: 2月19日(日)03時42分55秒

 分析哲学は、ちょっと前は「言語の哲学」が主流でしたが、いまは「心の哲学(意識の哲学)」が主流になっています。何らかの理由で、心を含めた実在一般の問題を、言語の問題に落とすことができないことに哲学者たちが気づいてきたもののようです。

 ただし、哲学の問題を言語表現に還元するという「言語哲学(言語論的転回以降の哲学)」と、「言語の哲学(言語の本性に関する哲学)」とはかなり違うわけで、後者の意味での「言語哲学」は、まだ哲学の主流になったことがないと言えそうです。

 その意味では、「心の正体は言語ではないか?」という問題意識は、十分有意義でしょう。いまはやり(?)のクオリアのような、無構造で言語化を受け付けないレベルでの心ではなく、構造を備えた言語に即した心(つまりは論理?)というものを見直す余地はあるかもしれません。

---------------------------------------------------------------------------
意識 投稿者:ハム 投稿日: 2月19日(日)00時30分55秒

皆さんのお話は興味深く聞いています。
私も考えてみました。

クリアな意識というものは、赤ちゃんにはありませんね。
いつ発生するのかというと、言葉を覚えてからです。
幼児言葉からだんだんと複雑な言葉を操れるようになるに従って、意識はよりクリアになっていきます。
とすると、意識というものは言葉に備わっているといえないでしょうか。

なにやら昔の言霊信仰のようですが、例えばヘレン・ケラーの自伝でもこのことは裏づけられるように思います。
ヘレン・ケラーは、1歳9カ月のときに高熱により視力と聴力を失いました。
やっと幼児語を覚えたときに視力と聴力を失ったわけです。
そして、サリヴァン先生がヘレンに「水」という言葉を指文字で教えるのが7歳のときです。
自伝によると言葉を失っていた7歳までの記憶がはっきりしないようなのです。
普通であれば4,5歳のころからはっきり記憶していることがあるはずです。
このことは、意識が言葉に備わるとすると説明ができます。

そういえば「はじめに言葉あり」という言葉もあります。
こんな考えも面白そうです。

--------------------------------------------------------------------------
相対的語彙 投稿者:φ 投稿日: 2月18日(土)01時47分48秒

絶対的今、とか、絶対的私、とかが客観的意味を持たないことは確かですね。それは論理的に必然です。指示詞は、相対的な今や私の用法なので、ロボットだけの世界だろうが意識のない世界だろうが、構文的には必要(単に便利という程度で)だと思います。ただし、意識のない世界では、意味論的には無内容ですが。

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月18日(土)00時51分36秒

私とか今という指示詞は客観世界でどのような指示を持つか?、それらを含む文の真偽は?
というのが大きな問題ではないか、と例のスタルネイカーの論文を見てちょっと思いました。たとえばこれらの語はロボットだけの世界では不要なのか、何か還元できるのか・・・

----------------------------------------------------------------------------
今を定義するには 投稿者:かん 投稿日: 2月17日(金)20時05分50秒

ガリレオからアインシュタイン、現代物理まで、時間は次元軸であって、その上の「今」という点を決める事はできない。したがって過去と未来に分けることができない。そこで「今の実在」を認めるなら過去も未来もまだ、そして既に、実在しなければならないのでは。パルメニデス風固定的決定論世界の中で、主体指示ポインターが泳いでいるのではないでしょうか。 この様子が物理で将来わかるときがくるかはどうかは別としても、それは今の物理以外の「実体」だとかんがえているのですが。

----------------------------------------------------------------------------
〈今〉 投稿者:φ 投稿日: 2月17日(金)01時11分30秒

>意識は脳の物理的な機能でしかないと考えると

のところが、「心の哲学」のカナメなのでしょうね。

 なるほど、「なぜこの時刻が〈今〉なのか」という問いを考えてみると、超難問とやらのむなしさが浮彫になると思います。
 そのつど違う時刻を〈今〉と名指さざるをえないので、通時的な意識主体にとってはこの問いは成立せず、瞬間主体という〈この問いのためにこしらえたフィクション〉の中でしか問いが成立しませんものね。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月16日(木)12時06分13秒

主体≠主体は主体≠脳 の間違いでした

----------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月16日(木)12時03分29秒

 主体≠主体は全く賛成です。 そこに主体指示が必要となりますが、現在の物理では到底解明不可能だと思います。 もちろん将来はどうなるかわかりませんが。
物理では時間という概念は不可欠ですが、「今」という言葉はないので、やはり「ない」のであって、過去も未来も今と同じように実在しなければなりません。 これに対して、主体指示というのはあくまでも「今の私」であって、昨日の私とか来年の私ではありません。 私はソフトウエア屋の職業病を患っていて、主体指示を「関数ポインター」のように考えてしまいます。「今の私」が成立するための属性パラメーターとして、少なくとも1. どの脳か、2.いつか、の2つ、そして多世界解釈を持ち込むと3つ、が必要になります。 意識は脳の物理的な機能でしかないと考えると、そこに主体を与えるのはポインターだと。 明日の朝起きて織田信長にポインターが移動されていたとしてもその時点の脳に蓄積された記憶しかないので、それまで今の私であったことに気がつくことはない。
 いずれにしろ「私が私でなかったら」、と考えることが可能なこと自体、主体指示説?が妥当だということを示していると思います。シミュレーター的独我論も正当だと思いますが、実在論的に考えるとこれくらいしか選択肢がないのでは。 チューリングの停止問題、「ある対象の正確なシミュレーションとはシミュレーションではなく、その対象自体以外にはない」ことから考えると、シミュレーター説でも結局は実在論に引き戻されるのではないかと。

---------------------------------------------------------------------------
主体≠脳 投稿者:φ 投稿日: 2月16日(木)02時47分36秒

超難問という愚問に対しては制度的な愚答が最良の答えだと思います。

 さて、チャルマーズが何を言っていたか忘れましたが、私は主体に関しては指示の因果説の物理主義版はナンセンスだと思っているので、「意識の主体はシミュレートされた人格でなく、人工脳の側にある」というのは同意しかねるかもしれません。
 指示の因果説が不合理であることはたびたび書いてきましたが、『現代思想』2月号でも生物進化に絡めて述べておきました。

 Ways a World Might Beは見逃しており、さっきAmazonで目次を見て、早速注文しました。たびたびお教えいただきありがとうございます。
 このところ私、哲学・論理の勉強がチョイおろそかになってまして(ラッセル・アインシュタイン宣言五十周年を機に平和――というより第2次世界大戦関連の本ばかりいま読み込んでまして)、少しはまた志向を戻さねばと思っているところです。

----------------------------------------------------------------------------
シミュレーションと<私> 投稿者:ε 投稿日: 2月16日(木)00時20分21秒

この間から、ホームページの論文や”論理学入門”(NHKブックス)などを眺めて、”超難問”と確率の誤謬との関連は一応理解しました。また、年末に偶然購入したR.StalnakerのWays a World Might Beに"On Thomas Nagell's Object Self"という論文が入っていたので一応目を通してみました。こちらはよく理解できないところがあったのですが、直接関係する話ではないような気がしました。

さて、この世の中がシミュレーションであったら私の存在問題はどうなるのか、ちょっと考えてみました。マトリックスのようなシミュレーションで、ただ、人間の脳を利用するのでなく、シリコンなどの人工脳、それもどれもハード的には同じものが多数、中央コンピュータにつながっているものとします。人工脳には番号が振られていて、たとえば1番がε、2番がφをシミュレートしているものとします。この場合、シミュレートされた世界を一切変更しないで、1番がφ、2番がεをシミュレートするように変更することは明らかに可能です。チャルマーズなどにもあるように、意識の主体はシミュレートされた人格でなく、人工脳の側にあるので(脳はそうは思ってないにせよ)、これは”世界のあり方を変更することなく<私>が他人であることが可能”ということにならないでしょうか?(人工脳なら脳を殺すことなく停止させることもできるでしょうから、εやφが存在しないことも可能でしょう。)

もちろん、この場合”本物の世界”は物理的に異なるのですが、それはシミュレーション世界内から見れば物理学的というより形而上学的な世界ということになるので・・・

-------------------------------------------------------------------------
超難問という愚問の愚答 投稿者:ハム 投稿日: 2月16日(木)00時10分42秒

愚問:私が(^_^)なのはなぜか?

愚答:誰か(たぶん両親)が、(^_^)という名前をつけたからである。

まあ、存在に対する疑問ではないですよね。
制度に関する疑問のようです。
私が(^_^)だ、という思想っぽいです。

---------------------------------------------------------------------------
人間原理 投稿者:かん 投稿日: 2月14日(火)04時59分34秒

なんとそうだったのですか。やはりちゃんと読まなければ不用意な事をいうべきではないですね。The Privileged Planet 私も読んでみます。

---------------------------------------------------------------------------
意識原理 投稿者:φ 投稿日: 2月14日(火)03時58分10秒

人間原理の「人間」というのは命名者のカーターも後悔するほど誤解されていて、別にホモ・サピエンスにかぎらず知的生命であれば当然何でもよいわけです。
『対角線上の悪魔』はじつは読みかけで止まったままですが、そのうち必ず読了させていただきます。

---------------------------------------------------------------------------
自分と人間原理 投稿者:かん 投稿日: 2月13日(月)08時29分11秒

 自己選択効果とはなかなかうまい表現だと思います。
 しかし選択は自分がしたのでしょうか。 少なくとも私は、私という人間に生まれようと思った記憶がない x_x 誰が決めたんだろうかしら。 意識、認識論というもの全体はもう脳科学に渡してしまってよい段階に来ていると思います。 でも、自分では明らかである?にもかかわらず、客観性がなく科学の対象とならない言葉が厳然としてあるー「私は今からここを出て2時間で帰ってきます」がある。 これだけでは、私は誰か、今はいつか、ここはどこか、トートロジーとして基準を置かなければ成り立たないのですが、科学はそれを作りえない。 Φさんの「私はなぜ存在したのか」という点こそが究極的原因です。 人間原理についてよく調べたことはないのですが、結局は自分原理ではなかろうかと思います。なぜなら、自分が人間でなく、ある惑星のAという生物だったら、人間原理の代わりにA原理というものを考えているかも。 私は以前出てきた、対角線上の悪魔の作者ですが、皆様よろしくご教授ください。

--------------------------------------------------------------------------
The Privileged Planet 投稿者:φ 投稿日: 2月13日(月)02時13分9秒

量子で出来ていることは、意識を生み出すための必要条件である、ということはあるかもしれませんね。そして同時に、世界が科学的に記述できるための必要条件であるということも。
生命を生み出すのに適した環境は、同時に、科学的に世界を解明する原点として適切な唯一種類の環境でもある、という新説(?)を、↓の本が提出しています。
人間原理を一歩推し進めた考えで、期待しつつ今読んでいるところです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0895260654/qid=1139764153/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/503-1382259-6283142

---------------------------------------------------------------------------
普遍的法則 投稿者:ハム 投稿日: 2月12日(日)14時56分19秒

我々の宇宙は量子で構成されているわけですが、他の宇宙の構成物質も量子しか想像できません。
そうすると、他の宇宙でも我々が知っている物理法則は成立していることになります。 量子の確率的な性質(初期パラメータの確率的な選択)によって他の宇宙が異なっているだけだということになります。

そうすると、他の宇宙で発生するかもしれない意識も我々と同じような意識だといえそうです。
つまり、多宇宙の可能性は、観測選択効果や「自己選択効果」?の必然を生む。

この必然に対して何故か?という愚問は、こういう思考そのものに対する疑問になってしまう。
A=BならばAとBは同じである。
これを何故か?と問う奴に何をどう説明すればいいのか?
直観を鍛えてもらうしかないのではないでしょうか?

話が飛びましたが、多宇宙にもまたがる普遍的法則を前提しなければ、観測選択効果という必然が出てこないような気がします。
量子で構成されない他の宇宙の意識って、我々の意識とは違う意識っぽいです。
量子で構成されない他の宇宙が想像しがたいように、量子で構成されない意識も想像しがたいので思考不能です。

---------------------------------------------------------------------------
自己選択 投稿者:φ 投稿日: 2月11日(土)03時04分48秒

 >目の前に出てくる現象は確率でしか予測できません。

 そこで、「波動関数はなぜこのような収縮の仕方を選んできたのか」と問えば、これは「多世界の中からなぜこの世界が選ばれてきたのか」という問いですね。
 「偶然」としか答えようがありませんが、観測選択効果という必然の中での偶然ですね。
 「なぜ他の誰でもなくこいつが私(として選ばれた)か」という超難問(笑)も同型で、
 ここでは、観測選択効果の特殊な形、「自己選択効果」とでもいう空虚な必然が働いていると言えるでしょう。

--------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月10日(金)14時13分43秒

>量子力学というのは、厳密に言うと、きわめて決定論的なのだそうですよ。
について、
量子力学を含んだ量子論や宇宙論では宇宙そのものの存在がが確率的になります。
シュレディンガーの波動関数が線形であることはよく知られているますが、それがΨ^2として目の前に出てくる現象は確率でしか予測できません。 したがって単純に考えると決定論ではなくなります。 そこに複雑系をもってくると、シミュレーションとは極めてコントロールされた状況下でしか意味を持ちえず、一体何をシミュレーションしているのかわからなくなります。
多世界解釈は、目の前で起こらなかったこと(死んだ猫・死ななかった猫、あるいは宇宙が発生しなかったとき、など)が起こることも実在しますので、完全に決定論的となります。
しかし、あることが起こらなかった世界にも自分の体は実在しますので、別の世界の自分とは一体なんだ、という心身問題になります。

--------------------------------------------------------------------------
多法則 投稿者:φ 投稿日: 2月10日(金)02時21分49秒

たしかに、シミュレーション論法を真面目にとると、物理学はむなしくなってきます。「普遍的法則であるかのように設定されたパターン」を普遍的法則として追究しているに過ぎないわけですから。
しかし物理学自身が、この可能性を許容してはいますね。物理法則はパラメータごとに分岐するという、「強い人間原理」です。

■ファインチューニング→強い人間原理(多宇宙)
■人工知能の実現可能性→シミュレーション論法

という具合に、二つの独立した方向から、唯一の普遍法則の否定が導かれるのは、興味深いことです。

--------------------------------------------------------------------------
シミュレーションのリセット 投稿者:ハム 投稿日: 2月 9日(木)22時38分51秒

今は、決定論的な多世界解釈が人気あるようですね。
しかしこれは解釈の問題です。
うまく説明できればいいわけです。

宇宙シミュレーション内の量子は実験で分かっているような確率的な姿で定義せざるをえない。
そうしなければシミュレーションになりませんよね。
そうすると、最初の水素原子が出現する時間と位置は確率的。
このシミュレーションはリセットするたびに異なった宇宙を表現することになります。

これは、多宇宙論にも通じるのではないでしょうか。

---------------------------------------------------------------------------
あやふやですが 投稿者:φ 投稿日: 2月 9日(木)04時00分47秒

決定論といってもいろいろ意味があって、量子力学というのは、厳密に言うと、きわめて決定論的なのだそうですよ。波動関数全体は、厳密な法則に従っていて、線形であり、カオス的ですらない。

専門家のいない場ではこのことをあれこれ議論しても仕方ないかもしれませんが、カオス的であるニュートン力学よりも、量子力学のほうが、むしろ古典的決定論の世界観に忠実であるというのは本当らしいです。ニュートン力学だと、シミュレーションのリセットごとに、初期値がちょっと違うだけで全然違う世界になってしまいます。量子力学的シミュレーションだと、そうはなりません。リセットごとに、初期値にかかわらず厳密に同じ波動関数の推移が実現するのではないでしょうか。

---------------------------------------------------------------------------
>シミュレータ内の世界に限らず・・・ 投稿者:ハム 投稿日: 2月 9日(木)00時16分52秒

シミュレーションを生み出す世界観は、どちらかというと非決定論的な世界観だと思います。
決定論的は方法は演繹でしょうか。

宇宙シミュレーションを作ったとして、このシミュレーションはリセットするたびに異なった宇宙を表現するはずです。
量子の確率的な振る舞いがプログラムされるはずですからね。

あと、決定論的な世界の中では、非決定論的な世界を構成できないのではないでしょうか。
例えば、アルゴリズムで真のランダムを表現することは難しいですよね。

---------------------------------------------------------------------------
創作物の非決定性 投稿者:φ 投稿日: 2月 8日(水)13時41分58秒

 創造神なりシミュレータなりが、この世界のディテールのすべてを作った、というのは、まずありえないことだと私は思っています。
 芸術家の創造も、作曲家にしろ演奏家にしろ、出来上がった作品の特徴の隅々までを指定できはしません。文字の配置をすべて指定する小説家ですら、虚構世界のすべてを意図的に決定できはしません(結果的には決定するとしても、意図的に統制するのは無理。そのことが『虚構世界の存在論』のテーマでした)。

 「非決定性を示す実験結果そのものが創造主の捏造」ということは、ローカルには十分ありうるでしょうが、広域的に見たときは、すべてをそのようにコントロールすることは不可能だろうし、可能だとしてもそれは「表現型の定義」に過ぎず、シミュレーションとは言えない、大して面白くない作業だったろうと思います

--------------------------------------------------------------------------
シミュレータ内の世界に限らず、世界が決定論的ならば 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 7日(火)22時43分16秒

論理あるいは実験によって「この世界は非決定的である」という偽の結論が出されても、それに対する疑問や反論が*なし得ない*という状況がありえます。(例えば、現在にいたるまでの「光子や電子などの量子が不確定性を示すという実験結果」などが全て、「創造神なりシミュレータの製作者なりにより企図されたこと」だったとしたら…) これはよく持ち出される「宇宙は(進化を示す地中の化石なども含め)五分前に創られた」などという理論に似ていますが…

---------------------------------------------------------------------------
本当の超難問 投稿者:φ 投稿日: 2月 6日(月)03時43分11秒

 「意識の難問を解決してから最後の最後に問うべき問い」は、あるとしたら(問うのは最後でなくてかまわないのですが)、「私はなぜ存在したのか」という問いです。
 「私はなぜこの特定の人物なのか」が重要な問いだと思い込んでいる人は、暗に、「私はなぜまがりなりにも存在したのか」という問いの重要性に感じ入りながら、ポイントを外している人でしょう。
 この問いに答えるために、私は人間原理をやっていると言っても過言ではありません。

---------------------------------------------------------------------------
「超難問」 投稿者:ハム 投稿日: 2月 5日(日)22時27分36秒

>現在不可能なことを前提にする議論というのはナンセンス……

合理的に説明できない前提というのは容認できないのです。
今回のお話ですと、シミュレーション意識、これをどうやって実現するのか?
説明不能ですよね。
江戸時代にケータイを前提した話はナンセンスでしょう。
シミュレーション意識は将来に渡って不可能っぽいのです。
論理の正しさと、事実の正しさの差でしょうか。

「超難問」
φ様がその著作で、いたくお怒りなのはよく承知しています。
私など、そう目くじらたてなくても、と思うのですが。
哲学人口を増やす貢献はあるでしょうし。

ただ、悪い問いだというのはよく分かります。
全ての前提をひっくり返す行為で、ほとんどテロ行為です。
観測選択は必然的にあなたを選択するのです。
そうなってる。
何故か? などという愚問は神というか思考への最大の冒涜なのです。
少なくともその前の難問を解決してから最後の最後に問うべき問いなのだと思います。

---------------------------------------------------------------------------
奇跡 投稿者:φ 投稿日: 2月 5日(日)03時41分10秒

「私がφでないことは可能か?」は意味をなす問いであり、だからこそ、「超難問」を言い立てる人々が問いたいのはそのことではない、と私は述べたのでした。彼らが問うているのは意味をなさない問いだ、と私は言いたいので。

 チャルマーズは、独我論が正しければ(意識が一個だけなら)指標性の問題はなくなると考えているようですが、私も賛成です。しかし私たちは独我論を信じておらず、多数の意識があると信じているので、だから「よりによってφ」に私が当たった、のが謎となりうる(ように思われた)のではないでしょうか。つまり、確率は関係大ありだと思います。でなければ「奇跡」などという語法はいい加減も甚だしいでしょう。そして彼らが確率を理解していないため、謎と見えてしまうのでしょう。

 シミュレーション論法は、論理によってここがシミュレータ内だと結論しますが、論理の正しさは、シミュレータの初期値に左右されないでしょう。論理的真理は(確率的推論の正しさも含め)、いかなる世界でも妥当するはずです。

--------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月 5日(日)03時19分19秒

下で<私>と書いたのは、永井さんと同じ用法だと思ってください。したがって おっしゃるような、εがφと(誤って)思いこんでいるというような意味ではありません。 今、急いで手元の文献をひっくり返してみたのですが、
ティム・ロバーツの"The Harder Problem of Consciousness"には、たしかに、"Why are you Kim Smith"とありますが、それに続いて、"And this in turn to a host of questions, such as, was it ever possible for you someone else?"とありますし、永井さんの”<私>のメタフィジックス”の第4章などをみても、”なぜ”の意味が”非常にまれな事象が起こった、奇跡だ”という解釈にはみえないので、私が下で述べたような見方も成立すると思います。

---------------------------------------------------------------------------
ここのやり取りを読んでいるうちに 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 4日(土)21時18分37秒

自分が本当にシミュレータの中の存在のような気がしてきて困りました。
ところで、この世界がシミュレータ内の存在だとしたら、それを「識る」ことは可能でしょうか?
そのことを「識った」つもりでも、それは予めシミュレータの初期値として与えられていた条件から規則に従って導かれた結果に過ぎず、同じシミュレータに別の初期値を与えたら「この世界はシミュレータ内の存在ではない」という「偽の」結論が導かれるように思えます。
だとすると、前者の「真の」結論を出した過程も正しい「過程」と言えるのか、疑問になります。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:φ 投稿日: 2月 4日(土)20時45分0秒

>いわゆる魂とか裸の自我を論ずる際の看板のようなものなのではないですか?

 そうではないと思います。意識の超難問とやらを提起する人は、必ずや、「私が△△ではなく○○なのはどうしてか?」と問うのが常なので。
 裸の自我の問題は昔からあったわけですし、超難問風情の誤解を招く問い方でわざわざ問うというのは、問題設定を誤っている証拠でしょう。
 「私がφでないことは可能か?」が意味をなす問いであるのは明らかです。自分が誰であるか、勘違いしていることは大いにありえますから。(現に私は自分がφだと思い込んでいるが、ふと我に返ったら、ε だったことに気づくかもしれませんし)
 つまり本当の問題は、「なぜ私は、曲がりなりにも誰かとして(意識として)存在できたのか」「意識がこの世にありながら、私が存在しないことは可能だったか」ということでしょう。ナーゲル的な問題設定は、このこととは全然関係がありません。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月 4日(土)14時55分51秒

なぜ...という形の問いを文字通りにとればそういうことになると私も思います。そうでなく、いわゆる魂とか裸の自我を論ずる際の看板のようなものなのではないですか?たとえば、<私>がεでないことは可能か?というのは論理的に有意味な問いだと思います。モデルとして解りやすいのは、<私>を役者、εを配役とすれば整合的だし、多くの宗教で昔から考えられてきたわけでしょう。もっとも、最近の論者は、役者からすべての個人的属性(演じてないときの)を取り去ろうとするので、解りにくいのだと思います。

もっとも私はこのモデルが真だと本気で信じているわけではありません。たまにそうだったらいいかなと思うことはありますが...

---------------------------------------------------------------------------
(意識の)超難問 投稿者:φ 投稿日: 2月 4日(土)02時13分59秒

 原著しか手元にないので、対応しているかどうかわかりませんが、たぶんp,85ですかね。しっかり線引いてありました。
 チャルマーズは、「意識の問題に比べると指標性の問題は大したことない」と言ってますが、その通りだと思います。
 というより、数学者は始めから「なぜ私が○○か、なぜ○○が私か」という問いは相手にしないものと私は思っていました(1≠0.99999……を斬り捨てるように)。 そもそも超難問を重んじている少数の人々は、なぜか確率を論じようとしないので、私は不満なのです。
 独我論が真でないかぎり、 私=三浦俊彦 という事実は確かに恣意的であり、実現が低確率であり、唯物論的世界観に還元できません。
 しかし、三浦俊彦という人物は私が生まれる前にどこかで「この人こそが視点の中心になるはず」と指定されていたわけではないので、 私=三浦俊彦 には何ら偶然の一致はありません。(あらかじめ指定があって、その通りになったとしたら宝くじに当たるがごとき凄いことだが、指定がなかったので、ただ結果的に「ある一意識」を引き当てたにすぎない。つまり、意識の超難問なるものは、いかなる視点も二つ以上の意識としては具現できない、という人格の個別性の事実にすぎないのですね。私が誰として生まれても同様の問いが生ずるので、いわば、人格の個別性のもとでは条件付確率1で保証された事実なのです。(問いの内容そのものが答えが決まってから設定されるので外れようがない)  ――「なぜよりによって地球が生命を宿したか、奇跡だ」という的外れな問いにも同じことが言えるでしょう。これについては、またしつこく、いま発売中の『現代思想』2月号に、
  「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」
 というタイトルで一本書きました。ご覧いただけると幸いです。(いずれ全文アップロードするつもりですが)

---------------------------------------------------------------------------
意識の超難問とチャルマーズ 投稿者:ε 投稿日: 2月 3日(金)02時49分18秒

マトリックス・アルティメット・コレクションを入手して以来、チャルマーズの”意識する心”を読み返しているのですが、超難問に言及しているところを見つけました。φさんはご存知でしょうが、日本語版118ページの指標のところです。
”デヴィッド・チャルマーズとは私だ、ということを。この見たところ始末におえない事実を、どう説明できるだろうか。”とあり、その後のほうでネーゲルを引用しています。ティム・ロバーツも三浦さんも、チャルマーズの本を挙げながらなぜここに言及しないのか、ちょっと不思議です。チャルマーズは擬似問題ではないかとためらいつつも、唯物論で説明できない事実と認めているようです。クオリアに比べれば、小さな問題と考えているようですが、これは彼が倫理や宗教に多分、余り関心を持ってないことによるものでしょう。

ちなみに私は、超難問が形式論理で消去できるとは思いません(また噛み付いてすみませんが・・)

---------------------------------------------------------------------------
手抜きといえば 投稿者:φ 投稿日: 2月 2日(木)03時05分43秒

 >現在不可能なことを前提にする議論というのはナンセンス……

 とは全然思いません。
 インターネットや原爆や携帯電話がいつかどこかで流通しているということを江戸時代の人がいくら否定しても、私は憫笑するだけですから。同様に、21世紀人や私自身の直観も信用する気になれません。(私も、直観的には、ここがシミュレーション内だとは感じられはしないのです。その直観はいかんと思ってるだけで)

ラッセルのEverything is illusion てのがありました? 私はインタビュー集の一枚しか観ていないので、ちょっとわかりませんが……。

手抜きといえば、この世界の量子レベルなんて、ひどい手抜きだと思うのですよ。全てが二値論理できちっと出来ているマクロ世界を降りてゆくと、いつしか、もわもわした非二値的な隙間だらけの量子界が。この世のシミュレーションの手抜き部分に住人が気づいてしまったところに、量子力学の神秘があるのかもしれません。(前にも言いましたが、電子はどれをとっても完全に同一、だなんて、恐るべき手抜きではありませんか!)

---------------------------------------------------------------------------
ラッセルの作品と言えば 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 2日(木)01時08分13秒

ε様>つい最近DVDが発売された「シンデレラマン」は名作でした! …って、ラッセル・クロウの映画ですが(笑)。
ラッセル・クロウの以前の作品に、数学者ナッシュが主人公の「ビューティフルマインド」がありました。こちらはある意味、脳内シミュレーションで別の世界を創ったお話… と言って良いのでしょうか?

---------------------------------------------------------------------------
Re: マトリックスのコメント 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 2日(木)00時44分5秒

ハム様>揚げ足取りではないですが、「UFO(未確認飛行物体)」は厳存しますね。私も何度も見たことがあります。後で考えると気球や飛行機、金星などだった可能性が高いように思いますが、未だに確認は取れていませんので…(笑)
(論理からは)パイオニア10号・11号、ボイジャー1号・2号のような探査機の可能性がゼロとは言えません。
シミュレーションの逆説的な結論は非常に面白かったです。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月 1日(水)23時43分32秒

ハムさん、はじめまして
私もすっかり常連化してしまいました(笑)

アルティメット・コレクションにはこの映画を嫌いな映画評論家による解説(音声と字幕)が選択できるDVDが入っていて、これが思わず笑ってしまうのです。だから批判的なコメントでも面白ければ掲載されると思うのですが、まあ学者達が自主規制したのかもしれません。また、映画を気に入った哲学者による解説(一人は、ケン・ウィルバー)も選択でき、彼はトランスパーソナル心理学、宗教のサイドから語っていてこれがまた面白い。で、見始めたら時間がいくらあっても足りなくなってしまいそうです。

哲学者達による解説の中で、ラッセルが”すべては幻想である(Everything is illusion)"と言ったとあるのですが、どこでいっているのかわかったら教えてください→φさん そうだとしたら三浦さんのシミュレーション論法のベースにあるのかも・・・

自然選択とシミュレーションとの関係が少しわかりかけてきました。外界のシミュレーションは、要は人間の脳を出し抜けばよいわけで、様様な手抜きが可能になります。そのテクニックを進化的(遺伝的)プログラミングか何かで実現する。その際、淘汰圧として評価関数は、例えば現実の脳がシミュレーションと見抜くまでの時間をとればよい・・・ 映画ではマトリックスに協力的な現実の人間もいるし、培養槽の中の人間は誕生からすべて機械で教育されるので、自由行動の幅も狭いからなおさらやりやすくなるはず。もっと具体的に考えたらブログに書くことにしましょう。

しかし、この現実がシミュレーションと言うのはやはり考えにくい。もともと奇想天外な意見にはできれば同調したいほうなのですが・・・・

---------------------------------------------------------------------------
マトリックスのコメント 投稿者:ハム 投稿日: 2月 1日(水)21時50分48秒

批判的なコメントは掲載されませんからあまり参考にはならないと思います。
初めから選択されているわけです。

>シミュレートされた世界の外側に(あるいはその外側の外側の外側の……外側に)実在世界が確かにある

このお話を聞いてちょっと面白いことを考えました。

最初のシミュレーションは実在世界が作りますね。
そして、そのシミュレーション内に意識が誕生したことを確認した瞬間に、
その実在世界の意識は、(他の)シミュレーション内の意識である確率が高いことを悟るはずです。
もはや実在世界というものが信じられなくなる。
シミュレーションというからには実在世界があるはずなのにです。
これって、パラドクスっぽいですよね。

あと、ちょっと不思議なのですが、現在不可能なことを前提にする議論というのはナンセンスではないのでしょうか。
UFOのような乗り物が否定できなくなります。

----------------------------------------------------------------------------
マトリックス 投稿者:ε 投稿日: 2月 1日(水)04時25分7秒

アルティメット・コレクションですが、注文の手違いがあったりしてやっと今日届きました(苦笑今日、コメントのディスクを見終わったところです。

まず、ひところはまっていたケン・ウィルバーがずいぶん出ていたのにびっくり。AI関係だけでなくいろんな角度からの見方があるものですね。中ではチャルマーズが”現実がシミュレーションである確率が20%くらい”と言っていたのが目を引きました。数学出身なのに計算量は気にならないのか、と心の中で突っ込んでしまいました(笑)

デネットは”解明される意識”からすると”そんなシミュレーションはできっこない”とまでいわなくても、”実際には困難な点がある”くらいは言いそうなものですが、たしかにダーウィニズムの話が主でしたね。

シミュレーションについては言い足りないことなど、自分のブログのほうに書いておこうと思います。まだ前置き程度しか書いてないですが・・・
http://mathpl.exblog.jp

---------------------------------------------------------------------------
自然主義的実在論 投稿者:φ 投稿日: 1月30日(月)03時41分11秒

 この世界がシミュレーションだということは、意識内界と外界の区別が私たちの常識どおりではない、ということなので、外界を作るのに必要だと「思われていること」は本当に必要かどうか疑わしいことになるでしょう。材料はいちばん外側の実在世界でだけ調達されていればよいので。
 シミュレーション論法が単なる観念論とは違うところは、シミュレートされた世界の外側に(あるいはその外側の外側の外側の……外側に)実在世界が確かにある、ということを認めることでしょう。また、バークリー流神の意識に辿り着くのでもなく、あくまで自然主義であるということ。神のデザインによってこの世界ができたのだとしても、その神は神を含む世界内で自然選択の結果生まれてきているはずなのですね。
 実在論であり自然主義であるところが、シミュレーション論法の強みです。(『マトリックス・アルティメット・コレクション』でデネットは、ニュートン、アインシュタインの理論よりもダーウィン理論のほうが重要だ、という持論をまた強調してましたが、シミュレーションは自然選択と相性がいいというか、相互不可欠でしょう)

---------------------------------------------------------------------------
シミュレーション(続き) 投稿者:ε 投稿日: 1月29日(日)03時54分53秒

φさんの生物学的アナロジーが最初、よく判らなかったのですが、意識のシミュレーションについて語っておられるのだと思います。

我々の意識体験が、脳内で起こることであり、外界の認識も、科学すらもそれに基礎をおいていることは確かです。しかし、だからといって世界の全部、そうでなくても大半が脳であるということは帰結しないと思います。

間主観的に構成される外界の秩序とはセンスデータを解釈する枠組とかアルゴリズムであって、センスデータ自身の源は別に存在する必要があると思います。そしてそれがあらかじめ誰かの脳内に存在するとは考えにくい。

前に言われたレシピとか設計図のアナロジーを使うと、製品(外界)をつくるには、それ以外に”材料”が必要で、それが量的な意味ではシミュレーションが一番困難な部分ではないか?と思うのですが・・・

---------------------------------------------------------------------------
精神と物質 投稿者:φ 投稿日: 1月28日(土)12時36分26秒

 たしかに、二元論でよいなら、話は簡単ですね。唯物一元論をとりたいというのが学者たちの本音であるために、「意識」は難問となる。20世紀後半になってからますます「意識」が厄介なテーマになってきた理由はそこにあります。
 唯物論科学の言語の中に、「意識」は組み込まれていません。たとえば、いままで試したことのないニューロンの発火パターンを見せられて、「ここにどんな意識が灯っているか推測せよ」と言われても、お手上げでしょう。新奇な2つの感覚を経験させられて、「コウモリが超音波を感じたときのクオリアに似ているのはどちらか」と問われても、たぶん誰も答えられないでしょう。コウモリの脳を物理的に解剖し尽くしたとしてもです。
 つまり、内面的意識は、物理学からはみ出しています。かりに、「これこれの物理構造には主観的心が宿らざるをえない」ことが証明できたとしても、「ではどんな主観的感じが」とまで問われると、お手上げです。物理状態に関しては、完全に推測できるにもかかわらずです。

---------------------------------------------------------------------------
精神と物質の二元論に立つのならば 投稿者:クリスティアン 投稿日: 1月27日(金)07時25分59秒

同じ肉体(脳細胞)に魂が乗っていたり、乗っていなかったりすることがあるかもしれない、と(まだ)納得できるのですが。
唯物論の立場を取るならそのような区別を認めることはできず、共に心を持っているか、共に心を持っていないかのいずれかにならざるをえないと思うのですが。

--------------------------------------------------------------------------
Re:「ゾンビ」についての質問 投稿者:φ 投稿日: 1月26日(木)02時54分20秒

 「意識」を科学の言語に組み込むことが出来ていない現状では、ゾンビの余地は認めざるをえないのではないでしょうか。「人間と同じ脳細胞・人間と同じ構造のニューロンネットワーク」はあくまで外面(物理面)の「同じ」にすぎず、「内面」を記述していないからです。内面は、外面を全て記述すれば尽くされている、という保証は、物理科学では得られないでしょう。
 世界は物理科学で記述し尽くされるという現代の常識によれぱ、意識の占める余地はなく、あってもなくてもよいことになると思われます。つまり、現実に私たちに内面があるのは偶然ということになります。

 ………………………………
 『マトリックス・アルティメット・コレクション』の哲学者・科学者登場の一枚を観ましたが、誰もかれも、通り一遍のコメントを言わされている感じで、ちょっと気の毒でした。ただ、ダニエル・デネット、ジョン・サール、デイヴィド・チャルマーズ、ヒューバート・ドレイファス、ルディ・ラッカーら錚々たるメンバー多数が語っており、中には人間原理の哲学をマトモに扱っている数少ない哲学者の中でも新進気鋭のニック・ボストロムなんぞも登場していて、「お?」と思いました。
 皆さんやはり、「自然選択による人工知能」にシミュレーションの未来を観ているようです。レシピによる自然発生の複雑系としてのシミュレーション世界ですね。

--------------------------------------------------------------------------
「ゾンビ」についての質問 投稿者:クリスティアン 投稿日: 1月26日(木)01時39分58秒

三浦先生、はじめまして。
「ゾンビ」の存在について疑問があります。
唯物論に基づくならば、もしも原子・素粒子・クォークのレベルまで人間と同じ構造の「ゾンビ」が宇宙のどこかに存在しているとしたら、それは人間と同じ脳細胞・人間と同じ構造のニューロンネットワークを持っているわけなので、必然的に「内面の心」も持つこてになると思います。
逆に言うと、人間と同じ脳細胞・ニューロンネットワークを持っていれば必然的に心を持たざるをえず、心を持たない「ゾンビ」などというものは存在しえないと思うのですが

--------------------------------------------------------------------------
レシピからの事後的な産物 投稿者:φ 投稿日: 1月25日(水)03時19分30秒

 思い返すと、「レシピとケーキ」というのは誤解を招く譬えだったかもしれません。デコレーションケーキのような、部品を組み合わせるのに似た、設計図で作れそうなケーキがイメージさせるとまずいので。パンケーキやプディングを思い浮かべていただければよいでしょう。

 シミュレーションが、何事かの正確な再現である、というイメージにεさんは多少囚われているような感じが私にはします。人間が知覚し働きかける外界(環境)は、間主観的に構成されうる総体のうちで整合的にうまくできている部分を結果的につなぎ合わせた最大公約数に過ぎないのではないでしょうか。何を「外界」と見なすかというのは、たまたま辻褄が合ってうまく出来ている環境を事後的に拾い上げてるのですから、全く別種のシミュレーションがなされた場合にはうまく再現できるとはかぎりません。その意味で、所与の環境が精妙に見えるのは結果的に定義されているからに過ぎないと思われます。ちょうど、100個のサイコロを振ってたまたま出た目そのものにはなんの精妙なところもないが、それをあとから固定すれば、「その目」を出す(シミュレーションする?)ことが実に難しく、奇跡であるように思われるのと同様です。

 別種のシミュレーションでは、電子も分子も雲も太陽も出来ないかもしれません。電子や分子などなくても、そのシミュレーション内ではそこなりの最大公約数的秩序が生まれており、それらに関して実験などを行なっているそこの住人からすれば、
 >そしてこれらの実験は測定器だけでなく、
 >場合によっては世界全体に影響をおよぼすのですから、
 >実験室内の映像だけあればいいというわけには行かないと思います
 と、リアルな秩序だと感じられるのではないでしょうか。

 わたしたちのこの世界の秩序程度のものは、どこかのスーパーコンピュータ内で自然選択のシステムを百億個も試せば(しかるべくパラメータを調整してですが)、必ずや1例か2例は実現するのでは……?

--------------------------------------------------------------------------
レシピ、および異なるレベルの世界 投稿者:ε 投稿日: 1月24日(火)04時33分47秒

意識の場合でいくと、誰でもよいから人間らしく見える意識がシミュレートできればいいのがレシピに相当、εとかφさんとかの特定の人間の特定の時点における意識がシミュレートできなければならないのが設計図に相当、というわけでしょうか?

>それ専用の特定の指示がなくてもよいと思われます。結果として出来ればよいので。

ここはちょっとわかりません。他人の脳内の画像などを直接入力するというのは現実の脳にとって全く新しい経験のはずです。これは詳しくは二通り考えられて、正規の入力器官である視神経を利用するもの、記憶部分に直接結合するもの(これはかなり危険でしょう)。いずれにしろそれに脳がうまく対応しうることを期待するのでは、正規の入出力器官だけを利用する外部コンピュータ型のシミュレーション(キャパシティだけが問題)に比べても、実現可能性のレベルが相当低くなってしまうと思います。

後半部ですが、今、16日の投稿を見たら私は

もちろん”真の世界”が、われわれの物理世界とはかけ離れて大きいものというならばこの議論は成立しないのですが・・・

と書いています。デネットは、デカルトが例の懐疑において”賢明にも(外部に)無限の知性を仮定した”と書いていますし、レベルの異なる世界を認めれば、私も可能だと思います。例えば、現在の技術でもゾウリムシにとっての外部世界を完全にシミュレートすることは容易だと思いますし、もしかしたら昆虫程度でも可能かもしれません、彼らに聞いてみることはできないですが。ただ、マトリックスのようなシミュレーションが現実世界で実現するかと言うと、否定的にならざるを得ません。

ちょっと妄想です:もし同じレベルの世界でシミュレータが存在するなら、それ自身のシミュレーションもできなければならない・・というのは何か自己言及のパラドックス?を思わせますね。現実世界の対象xに対してS(x):xはシミュレートされたものである、あるいは文xに対してST(x):xはシミュレーションにおいて正しい、というような述語を考えると・・・・

最後に繰り返しになりますが、私の考えをもう少し詳しく述べてみます。
私は、自由意志やランダムネスを幻想でなく文字通りのものと考えているので(デネットは自由意志についてはそう考えてないようですが)、自分の体験が、自分のにせよ他人のものにせよすでに記憶された脳内映像(音声、触感つき)やそれの組み合わせとは思えません。例えば、私が核物理や分子生物学の実験を私が自由に設定したパラメータで行うとき、その結果に対応する映像があらかじめ誰かの脳内に用意されているとは思えないのです(組み合わせ的爆発!)。つまり、分子、原子レベルの物理法則の(脳の・・ではなく、実験対象の)シミュレーションがいたるところで必要になるというわけです。そしてこれらの実験は測定器だけでなく、場合によっては世界全体に影響をおよぼすのですから、実験室内の映像だけあればいいというわけには行かないと思います。

すみません、また長くなってしまいました・・

--------------------------------------------------------------------------
レシピvs設計図2 投稿者:φ 投稿日: 1月24日(火)01時01分41秒

 設計図とレシピの違いは、産物に許される誤差の程度ということではなく、根本的な違いです。産物との間に同型対応がないもの、それがレシピですね。ケーキのこの縁のこの部分は、この味は、この舌触りは、レシピのどこに書かれているのか、と問うても無意味です。意識シミュレーションも、クオリアどうしを照合するとか、脳の画像記憶を統一するとかは、それ専用の特定の指示がなくてもよいと思われます。結果として出来ればよいので。
 人間の身長、歩き方、口癖、食べ物の嗜好などをいちいち指定する遺伝子はないことを考えると、DNAという人体レシピは、その基盤のアバウトさに比べて驚くほど精密な結果を達成している。DNAは人間の身体と同型構造を持っていませんから。(異星人がDNAをいくら調べても、人間や動物の心身を予想できないでしょう)。

 (4)は、突き詰めると「この世はシミュレーションではない」ことの証明へと展開できそうな気もしますが、シミュレーターの位置する世界とシミュレーションされた世界のレベルが一致している必要もないのでは。 たとえば――この世の原子レベルというのが、元の世界のマクロレベルの物体の無限の複製、ということもありうるような。もしかしたら宇宙全体の複製とか。私たちの宇宙は、元の宇宙の上に投影された上位世界のシミュレーションということも。 ――電子は個性がなく互いに区別すらできずみな正確に同じなのだ、というような話を聞くと、私はいつも「なんで? この世はどこか別世界で規格化された人工物なのか?」と思ってしまうのですよ。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月23日(月)23時13分18秒

もう一つありました

(4)脳内における外界は、真のシミュレーションでなく、あくまで感覚から得られたもの、例えば映像記憶のようなものでしかありません。原子レベルの物理シミュレーションではないわけで、原子物理の実験をいくらでもわれわれがなしうると言うことは−−それが錯覚でなければですが−−現実世界が少なくとも脳結合のシミュレーションではないことを示しているのではないでしょうか?

--------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月23日(月)22時56分27秒

性懲りもなく(笑)また登場しました。明日はセンター入試の代休で、今日は時間があるので長くなりますが、いろいろな論点への疑問を箇条書きで書かせていただきます。何かのご参考になれば幸いです。

(1)私がもともと問題にしたのは、意識のシミュレーションでなく、外界のシミュレーションなのです。それが不可能ではないか?ということがデネットの本の最初の論点です。脳の結合の場合でも、一つの脳から見ればそれ以外の脳全体は一種のコンピュータであり、外界をシミュレートする能力では理論的限界よりはるかに劣るものでしかありません。

(2)脳を結合したモデルの問題は他にいろいろあって、他人の画像記憶へのアクセスを認めて、思考や感情へのアクセスを禁止するのはどのようにするか?様様な脳における画像記憶のプロトコルをどのように統一するか、例えばAの脳における赤さのクオリアとBの脳における赤さのクオリアはコードとして同じものなのか?脳同士を単に結合して、それらのネゴシエーションに任せるわけにはいかないでしょう。今のわれわれがそのようなハードシミュレーションだと言うならば、少なくともわれわれはそういうものを体験していないし、第一、他人の脳の信号そのままが無秩序・大量に流入するならば、結果は単なる発狂である可能性が高いと思います。

(3)ドーキンスは、”利己的な遺伝子”は読んだと思うのですが、大分前のことなので忘れてしまいました。レシピと設計図の違いと言うのは、初期値をピンポイントで定めるかある程度の誤差を許すのかということでしょうか?脳のモデルがニューラルネットにしろセルオートマトンにしろ初期値の定め方はものすごくたくさんあり、その中で意識となりうるもの(これがレシピ?)はいくらたくさんあってもほとんどゼロに等しいと思います。もっとも、意識のシミュレーションは私も結局はできるのではないかと思いますが。

冬休みからこの方、哲学や論理学の本を大量に買い込んでしまいました。三浦さんの本も絶版でないものは多分全部、ついでにデイヴィッド・ルイスとスタイルネイカーの本も池袋のジュンク堂で見つけたので買ってしまいました。それについてもいろいろお話したいことがあるのですが、本業がおろそかになってしまいそうなのでしばらく禁欲です(笑)

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:φ 投稿日: 1月23日(月)20時58分6秒

お知らせありがとうございます。削除しました。同じ文面で、あちこちの掲示板に投稿したもののようですね。検索したらいっぱい出てきました。
記録はとっておきましたが、使うことがないよう祈ります。

--------------------------------------------------------------------------
↓ 投稿者:ε 投稿日: 1月23日(月)19時41分32秒

一応管理者に通報しておきました。掲示板のサーバーから(ネカフェからの書き込みでも)発信元が特定できると思います。誰の番号かは知らないですが・・・

---------------------------------------------------------------------------
レシピvs設計図 投稿者:φ 投稿日: 1月22日(日)22時31分56秒

 50年前には全く不可能と思われていたことが、結局は次々に実現されてきた、という科学技術史に鑑みれば、意識のシミュレーションもそういった「結局は」の一つのような気がするのですが、私には。
 リチャード・ドーキンスが力説する、「設計図」と「レシピ」の区別が重要だと思います。意識のシミュレーションにおいて、【プログラム:意識】の関係はあくまで【レシピ:ケーキ】のようなものであって、【設計図:自動車】のようなものではないということです。表現型に対する遺伝子の役割と同じですね。プログラムは、産物たる意識との間に要素の一対一対応を特定できる必要はないわけです。設計図のように、産物との間に一対一対応を求められると、意識のような複雑なものを作る計算プログラムなど、不可能に決まっています。しかし、自然選択で働く人工生命システムを用いれば、微調整のあげく意識を結果するレシピは十分可能だと思われます。

 シミュレーションで意識が作れるはずはないと思っている人は、暗に、設計図としてシミユレーションプログラムをイメージしているのではないでしょうか。レシピで十分、要素的一対一指示は必要ないと割り切れれば、意識シミュレーションにはぐんと明るい展望が開けるはずです。ソフトシミュレーションですらそうであってみれば、すでに脳神経系が出来合いで用意されているハードシミュレーションにおいてをや、と私は思っています。

---------------------------------------------------------------------------
完全性 投稿者:ε 投稿日: 1月22日(日)02時24分47秒

掲示板を独占するのも申し訳ないので、このあたりで一旦消えようと思いますが・・・

この数日考えてきて、余り完全性を求めなければ、外部コンピュータ型のシミュレーションはかなりの程度可能であると思いはじめました。一番ネックになるのは科学的実験や旅行の類で、そういうことさえしなければ、計算量的な問題はクリアできるのかもしれません。

ただ、脳同士の配線には別の問題があると思います。脳の”正規の”出力は、筋肉への司令とか内臓のコントロールしかないわけで、カメラに相当する眼−視神経と言う入力器官はありますがディスプレイや画像出力端子に相当する部分は脳に備わっていません。後半部でのシミュレーションでは、他人の脳に記憶された画像などを直接取り出して利用する必要があると思いますが、それが可能かどうかは疑問です。それ以外にも”意識の難問”がいろいろとかかわってきてしまうような気がします。

--------------------------------------------------------------------------
定義の問題? 投稿者:φ 投稿日: 1月21日(土)03時02分21秒

 シミュレーションというものを、どう定義するかの問題のようですね。
 私はわりと軽く考えているのかもしれません。ただ言えることは、シミュレーションとは一般に「模倣」や「再現」ではなく、「試行」「実験」の類だということです。既定の内的履歴を正確に模倣するなどということは至難ですが(任意の複雑系の結果(表現型)だけデッチ上げるのは簡単でも、下位のプログラム(遺伝子)の力で自動発生させるのはまず無理)、他方、結果としてどんな履歴が出来るかを試行するのは、全くたやすいことではないでしょうか。実際、生物個体の各々が、遺伝子型というプログラムによって適応の結果を試されているシミュレーションのようなものですから。
 培養脳への入力は、『マトリックス』ではどうしていたか忘れましたが、多数の脳をじかに結びつければ、他者の出力が入力となって相互作用しあい、「大量の情報入力」たる外部世界はたやすく用意できてしまいます。この社会でも、私たちの環境の最重要な部分が「他の人々」であるわけで、もしかすると、自己と諸他者の生み出したイメージが相互に整合的に均衡した結果が「外界」に他ならないのかもしれません。
 脳どうしの配線さえ始めにシミュレーターが設定すれば、あとは個々の脳の脳細胞が生理学の原理で勝手に外部世界を投影しあってゆくというわけです。

---------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月20日(金)04時45分31秒

論点がだんだんわかってきました。
たしかに、夢を見ているときにはほとんど外部入力はないし、目を瞑って考え事をしているときにも最大の外部入力である視覚は遮断される・・・・これらのことに使う時間は無視できるものではないですが、そうでないとき、つまり起きている時間の大半は常時大量の外部入力にさらされているはずです(制御と言う言葉は気になりますが)。

>脳がもともと体験することの出来る世界の範囲は、物理法則(生理学法則)によってすでに大部>分用意されていますから、シミュレーションはそこに新たな刺激を与えたまま、自走させればよ>いと思うのですが。(適宜最低限の介入をしつつも)

ここは、日常の経験の大半は脳の”自走”で作り出されたもの、と言われているのですか?それは信じられない話です。もしそうだとしたら、脳が外部世界のシミュレーションをやっていることになってしまいます。それはある程度は可能でしょう。珠算の達人は暗算のとき、ありありと算盤を思い浮かべて、その珠の動きを見て計算をしているらしいですが、電卓、あるいはもっと複雑なコンピュータの場合、思い浮かべることにより、それらが実際にすることを頭の中だけでできるでしょうか?

現実と区別がつかないような体験のためには、脳とは独立した何らかの外部世界−−−それが現実世界であれシミュレーションであれ−−−からの常時、大量の情報入力が必要になるのは明らかだと思うのですが。

---------------------------------------------------------------------------
3作+アニマトリックス、単品で 投稿者:φ 投稿日: 1月20日(金)01時04分48秒

すべて所有しているのですが、アルティメット・コレクション注文してしまいました。レビューでは哲学者語りは不評のようでしたが。

 ――計算量といっても、『マトリックス』でもそうでしたがシミュレーションは培養脳の夢内容を常時コントロールしているわけではなく、適宜介入する程度でしたよね。
 初期条件と規則を設定すれば、あとは物理法則に任せられるのでは?
 いかなるシミュレーションも、1から全てを用意するわけではなく、より低次のシステムに寄生しながらやっているはずです(現実の脳も外部入力で常時制御され続けているわけではないでしょう)。
 脳がもともと体験することの出来る世界の範囲は、物理法則(生理学法則)によってすでに大部分用意されていますから、シミュレーションはそこに新たな刺激を与えたまま、自走させればよいと思うのですが。(適宜最低限の介入をしつつも)
 そうした寄生的シミュレーション内では、「自由意思」の幻想もリアルに体験されているのでは?

 ともあれデネットらの言ってることを見てみます。
 
----------------------------------------------------------------------------
アマゾンです 投稿者:ε 投稿日: 1月19日(木)04時13分5秒

マトリックス・アルティメット・コレクションです。私は中古で注文したので9800円でした。
新品で14000円くらいだったと思います。

シミュレーションに話題を戻します。

情報量といったので誤解を招いたかも知れません。計算量といったほうがよかったですね。
コンピュータで外界のシミュレーションをする場合、たとえ万物理論が知られていた場合でも、どのくらい時間がかかるかを考えねばなりません。なぜなら、計算速度には自然な限界があるからです。現在のコンピュータで、クロックが3GHzだとすると、真空中の光でも10cmしか進めません。それが電気信号をベースにしている以上、もっと速くなってそれがCPUの大きさを下回れば1クロックの計算ができなくなります。理論的限界を考えて、CPUが原子大になったとしても数十桁の差でしか!ありません。身の回りのものでさえ、原子大のシミュレーションをすれば、それを上回ってしまうでしょう。

もう一つの問題は、多分あらゆる力学理論はある意味で初期値問題です。初期値は理論から決定されないので、”手で”入力しなければなりません。数え切れないほどの原子の初期値(位置および速度、量子力学なら状態)をどう定めるかが大問題だと思いますが・・・

---------------------------------------------------------------------------
Re:続き 投稿者:φ 投稿日: 1月19日(木)03時35分34秒

そんな10枚組があるんですか?
注文できるサイトを教えてください!

培養脳ですが、やはりよくわかりませんね……。
現実世界は、量子力学もしくはその拡張理論に従って動いているわけで、記述可能な法則に従っている以上、ある計算プログラムに則っているはず。
 万物理論の定式化は不可能という立場に立つならば別ですが、普通は、意図的シミュレーションと自然シミュレーション(自然法則)との間にそう大きな断絶を認めることはできないと思うのですが……。

---------------------------------------------------------------------------
続き 投稿者:ε 投稿日: 1月18日(水)03時09分29秒

いやいや、問題は脳でなく外部世界のシミュレーションの側なのです。もちろん、通常の状態の脳と水槽の中の培養脳の性能は変わらないはずですが、実際の外界からくる刺激とコンピュータによって作られるシミュレートされた刺激の情報量の違いです。

ちょっと話が食い違ってくるかもしれないのですが脳の側の話についても少し・・
たしかφさんは、幻肢や幻覚についても触れられていましたよね。
デネットは、夢、幻覚剤、精神障害などのいずれによるものであっても、現実と比較できるような体系的幻覚は存在しないだろうと言っています。たとえばひところ話題になったカスタネダのドンファンシリーズのようなものは信用しがたいというわけです。
それは、ロナルド・シーゲル”幻覚脳の世界”にも述べられています。

マトリックスについては10枚組CDのセットの中に哲学者によるドキュメントがあり、その中にデネットのものもあるそうなので、さっきネットで注文してしまいました(笑

---------------------------------------------------------------------------
やはり 投稿者:φ 投稿日: 1月18日(水)02時31分5秒

わからないのは、水槽の中の脳と、通常の脳とがなぜ違うのかということです。
 きょう大学の自室でデネットを参照してくるのを忘れたのでまた改めて確認してみますが、さしあたりわかりません、デネットの意図が。
 培養脳は、感覚器官からの刺激経路を短縮して、じかに脳に刺激を与えられているだけですよね。
 全てを計算プログラムで作り出したソフトシミュレーションに限界があると言いたいならともかく、マトリックス型の培養脳になぜ、脳にはない限界があると考えるのか。身体とつながった脳と何ら性能は変わらないと思うのですが。自由意思によると自らは思っている行動自体が、実は外界からの刺激への自動反応に過ぎない(かもしれない)という点では、身体とつながった脳だって同じことなので――。

--------------------------------------------------------------------------
(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月17日(火)19時29分40秒

たしかにおっしゃる通りで、組み合わせの数だけのことではないですね。

囲碁・将棋のソフトが組み合わせの数に応じられるのは、
(1)それを支配する法則(ここでは”勝つ法則”ではなく、ゲームのルールのこと)が完全に与   えられていて、
(2)しかもそれがコンピュータに実装できるくらい簡単なものであり、
(3)実行時間も十分に短い
ことによるものです。もし、それらのソフトにおいてもルールが未知であれば、対応する盤面をすべて用意しなければならず、それこそ<組み合わせ的爆発>が起こってしまいます。実際のバーチャルリアリティーでも、被験者のあらゆる行動に応ずる感覚刺激の出力データをあらかじめ持っているのではなく、幾何学や物理学の法則に従って、その都度計算して対応しているのだと思います。

しかし、部屋の中で歩いたり、物を動かしたりする以上の現実行動、たとえば絵に描いた餅と言う言葉がありますが、餅を見たり触ったりするだけでなく、焼いたり、放置してカビを生やしたり、試薬を使って化学分析したり、電子顕微鏡で観察したりという行動にすべて対応するには、分子、原子レベルの物理法則からシミュレートしなければなりません。そのためには、囲碁・将棋のソフトでは満たされていた3つの条件が満たされる必要があると思いますが、多分どれについても、その見込みがないと思います。

デネットはもっと悲観的?で(前掲書、19ページ)

懐疑論者(自分が"容器の中の脳"でないかと疑っている人)に向かって、本物かどうか疑わしいコインを一枚投げてみるとよい。その人が1,2秒手にとって重さを量ったり、つめで引っかいたり、・・・(いろいろなテストをする)だけでクレイ社のスーパーコンピュータが1年がかりで整えるだけの情報ビットが消費されてしまうだろう。・・・神経へのひとまとまりの刺激から<シミュレーション>のコインをつくることは、人間のテクノロジーの現在の水準を超えており、おそらくそれは永久に変わらないと思われる。

と言っています。もっとも、オリジナルは10年以上前の本なので、それ以後のコンピュータの発展を見て、デネットが今でも同じ意見かどうかはちょっと興味のあるところです。
たとえば、マトリックスについて何かコメントしていたら面白いと思いますが・・・

---------------------------------------------------------------------------
(?) 投稿者:φ 投稿日: 1月17日(火)01時45分3秒

「薬効を信じていなくても、プラシーボ効果さえ信じていれば、プラシーボ効果が得られる」パラドクス、作りたいものですね。作れるような気もしますが……。

 ところで、デネットが件の主著でどう言ってるか早速確かめねばなりませんが、
<組み合わせ的爆発>とはちょっと理解しがたいです。

 たとえば、将棋や囲碁のソフトは、宇宙全体の原子の総数をはるかにしのぐ組合せに軽々と応じられるわけですが……。
 ソフトシミュレーションではなく水槽の中の脳(ハードシミュレーション)ではなおさら、身体を伴った脳と同等の性能を持てると思うのですが……、

---------------------------------------------------------------------------
シミュレーション 投稿者:中高年数学者→ε 投稿日: 1月16日(月)23時10分58秒

ご無沙汰しています。プラシーボ効果の話題が盛り上がっているようですが・・・

ハンドル名をεに変えることにします。固有名のほうが何かと都合がいいようなので もっともラッセルによれば同じことですね。

昨年末のシミュレーションについて一言
仮定の(2)ですが、ダニエル・デネットの”解明される意識”のはじめのほうに
われわれが”容器の中の脳”ではないという理由として、自由意志がある場合
”あらかじめ蓄えておくべき可能性の数が多すぎるのだ。・・・・<組み合わせ的爆発>といわれる泥沼にはいりこんでいしまうのである。”(18ページ下段)とあります。
つまり、ランダムまたは自由意志による選択で、10000回程度のものは、個人の生活でも
ごく普通にありますが、これが2択であっても、2^10000の場合があり、それに対する結果をすべて用意しなければならないとなると、記憶素子が宇宙の中のすべての素粒子(たしか10^100程度)と同じだけあったとしても、それを蓄えることなどとうていできません。
もちろん”真の世界”が、われわれの物理世界とはかけ離れて大きいものというならばこの議論は成立しないのですが・・・

---------------------------------------------------------------------------
何度もすいません。 投稿者:大学生男 投稿日: 1月16日(月)18時11分40秒

たしかにプラシーボ効果は、薬効があると思い込むところから生ずる効果
とされているのかもしれませんが、どうやって薬効と薬の効果を区別するのでしょう。「この薬を飲めばきっと治る」と信じる時、その根拠が医学にあるということを意識する必要があるでしょうか。
たとえば、神官の言葉だから、きっと治るだろう、と昔の人が信じる場合も、プラシーボ効果は起こるでしょう。
つまり、治ると信じることの拠り所となる権威は何だっていいと思うわけです。
それが、医学でも、宗教でも、論理でも、信じるならプラシーボ効果は起こると思います。
B(W)→Wを仮定するのはそういうわけです。

「無意識に薬効に期待している可能性を信じる」というのは
薬効があるかないか半信半疑、と言ってしまえばそれに近いような気もしますが、ここでは、薬効はまるっきり信じてないが、自分の「信じるという意識的な感覚」のエラーが存在することを信じているという意味です。
人間ならだれだって感覚のエラーはあるだろうし、その存在を多少なり信じているでしょうから、比較的自然な仮定になると思います。
議論が強引になってきているのでどうしようもないですが、
なんとか「薬効を信じていなくても、プラシーボ効果さえ信じていれば、プラシーボ効果が得られる」に持っていけないですかね・・・

--------------------------------------------------------------------------
フムフム 投稿者:φ 投稿日: 1月16日(月)03時08分56秒

Aは文字通りとるとB(B(W)→W)なのでは。
薬効とプラシーボ効果以外の効果、というのを始めから認めるとすると、それ自体がパラドクスみたいなものですから、そこから結論として何が出てきても驚くべきことにはなりませんよね。始めから変なことを前提しているのだから。
 パラドクスは、常識的な前提から奇妙な結論が引き出されるところに成立します。

 つまるところ、「薬効を信じていなくても、プラシーボ効果さえ信じていれば、プラシーボ効果が得られる」と持っていきたいわけですね。しかしこれは……、
 プラシーボ効果は、薬効があると思い込むところから生ずる効果なので。
 >無意識に薬効に期待
 これはあえて考えれば、「薬効があるかないか半信半疑」の場合、薬効を信じているとは言えず、かといって薬効がないとも信じていないので、ある程度のプラシーボ効果が得られる、というような、しかしこれではあまり驚くべき結論ではないような……。

----------------------------------------------------------------------------
あ… 投稿者:大学生男 投稿日: 1月15日(日)17時29分7秒

薬効を信じないのに「ろ」の可能性を信じるというのは
とんちんかんなこと言ってますね。
それじゃ・・・
薬の効果は薬効とプラシーボ以外にもある、
という可能性を信じているとしましょう。
もしくは無意識に薬効に期待している可能性を・・・。
あーかなり強引になってきてます orz

---------------------------------------------------------------------------
記号化してみました。 投稿者:大学生男 投稿日: 1月15日(日)17時18分23秒

@Aの組み合わせは私がプラシーボ効果を、
「(薬効にとどまらない)薬の効果を信じる際に働く効果として信じている」
ことを言っています。薬効は、医学的に一般に存在する効果、
薬の効果は、この1回の状況で働く全ての効果を含むと考えています。
これを除くと何も議論ができなくなってしまうので
プラシーボ効果の定義はとりあえずこれで認めてあげてください。

ためしに記号化できるかやってみましたが、
どうも、やはりCがあやしいです・・・。
薬の効果W
薬を飲む決断を下すD
〜を信じるB()
としまして

T仮定:D、B(W)→W(プラシーボ効果)、D→B(W)(下のC)
としますと、
D→B(W)→Wとなり、トリビアルで面白くありません(汗

U仮定:(@)D、(A)B(W)→W
のみにすると、
@B(W)∧D→B(W)
AB(W)∧D→W   (∵A)
BB(B(W)∧D→W)
CB(B(W)∧D→W)∧D (∵@)
*DB(B(W)∧D→W)∧D→W
EW

という展開を浮かべてたのですが
DとAを混同していたようです。
Dは、B(W)、Wがともに偽の場合偽になりますね・・・
Dが下のCD→B(W)よりも正しく思えるのは錯覚でしょうか。
もう少し議論を続けさせてください。

仮定のもとで各々の命題がとりうる真偽値は

  D B(W) W
い T  T  T
ろ T  F  T
は T  F  F

となっています。
下のCは「い」の場合でのみ真ですが
上のDは「い」と「ろ」の場合に真です。
したがって、もし「ろ」のような可能性を0でないと「信じて」議論するなら
Uの議論の末、自分がはじめ信じていた(〜下のCの確率)よりも大きな確信をもってWを信じることができます。
つまり、B(W)よりもWの真である確率が大きい。

ここでB(W)の確率が更新され
議論の頭に戻って繰り返します。。
ひたすら繰り返せばB(W),Wともに
限りなく大きい確率、つまり確率1で真になるのではないでしょうか。
下のCD→B(W)、および「ろ」の起こる確率をそれぞれ有限のものと信じているとします。
これはどうでしょう。

---------------------------------------------------------------------------
フム 投稿者:φ 投稿日: 1月15日(日)01時32分44秒
@私は薬効を信じない。
Aでもプラシーボ効果を信じる。

 @Aの組合せの心理状態というのは可能なのでしょうか?
 「薬効は信じないが、プラシーボ効果を信ずる」場合、プラシーボ効果が働く対象として想定されている人間は、薬効を信じないと言っている本人ではありませんよね。
 なぜなら、Aは「一般に、薬効を信じている人間にとって、プラシーボ効果は作用する、と私は信じている」のであって、「薬効を信じない私に薬が作用する、と私は信じている」という意味ではないだろうからです。(もし後者の意味なら、その時点ですでにHが肯定されてしまっていますから、単に「プラシーボ効果」の語義を変えて使っているだけになってしまいます。つまり薬効を信じていなくともプラシーボ効果はありうるというふうに)

 あと、BCが怪しいですかね。
 Cは必ずしも真でないからです。単に遊びで飲んだり、味見とか、実験とか、パラドクスの実演を狙って(この場合がそうでしょう)とか、いろいろ動機はありますから。
 「風邪薬のパラドクス」を構成するにあたっては、このCが最大のネックではないでしょうか。

 あと、Eですね。Hで「期待できる」とするからには、Eは単なる客観的事実ではなく、私の心の状態「風邪薬の効果を信じているならプラシーボ効果が生じる、と私は信じている」でなければならないでしょう。

 私が意地悪く不完全に解釈しているのかもしれないので、記号化してみると面白いかもしれませんね。
 時間があったら、パラドクスになるよう、論証を形式化してみてください。
 
---------------------------------------------------------------------------
はじめまして。。 投稿者:大学生男 投稿日: 1月14日(土)21時17分9秒

突然の書き込み失礼します。
三浦先生の著書を読み、
思いついたのでご意見いただきたく参上しました。
風邪薬の効果=薬効+プラシーボ効果だとしての
次の議論です。

〜風邪薬のパラドクス〜
@私は薬効を信じない。
Aでもプラシーボ効果を信じる。
B風邪薬を飲むという決断を下すのは私だ。
C私が決断を下すからには、何らかの効果を期待しているはず。
 (もしそうでないならあえて薬を飲もうとはしない。)
Dつまり私は風邪薬の効果を信じているはず。
 (なぜ信じられるかが不明なので、この時点では本当に信じてはいない。)
E風邪薬の効果を信じているならプラシーボ効果が生じる。
Fつまり風邪薬の効果はあるはず。
Gここで初めて本当に風邪薬の効果(飲むと決断することによる効果)を信じられる。
Hしたがって実際にプラシーボ効果が期待できる。
 (期待して決断を下せる。)

これで本当に効果が得られると思うのですがどうでしょう・・・。