(トップページ)

バートランド・ラッセルのポータルサイト

バックナンバー索引
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 (週刊)バートランド・ラッセル(1872.5.18-1970.2.2)に関するメール・マガジン
  no.0671_2020/02/08 (2006/12/21 創刊/毎週土曜 or 日曜日 発行)

 バートランド・ラッセルのポータルサイト: https://russell-j.com/index.htm
     同上 スマホ用メニュー        : https://russell-j.com/index.html
 初心者向けページ: https://russell-j.com/beginner/
 R落穂拾い: https://russell-j.com/beginner/ochibo-2013.htm
 R落穂拾い(中級篇): https://russell-j.com/cool/br_inyo-2013.html
 R関係文献紹介: https://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2013.htm
「ラッセルの言葉366(Word Press 版)」: https://russell-j.com/wp/
「ラッセルの言葉366(短文篇)」:
               https://russell-j.com/beginner/sp/BR-KAKUGEN.HTM
「ラッセルの言葉366_画像版」:
             https://russell-j.com/smart_r366/br366g-j_home.html
             https://russell-j.com/smart_r366/r366g_j-today.html
 R英単語・熟語_総索引: https://russell-j.com/beginner/reitan-idx.htm
 Twitter : https://twitter.com/russellian2
★Rホームページ利用制限コンテンツ閲覧用パスワード: 1872Y0518
 ポータルサイト専用掲示板: http://249.teacup.com/bertie/bbs
  Blog 1 (Google Blogger): http://russell-j.blogspot.com/  
  Blog 2 http://365d-24h.jp/

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

[★投稿歓迎:ラッセルに関係するものであれば,ご意見,ご要望,エッセイ,
       ちょっとした情報提供等,何でもけっこうです。投稿は,
       matusitaster@gmail.com 宛,お願いします。
  ◆◆◆
 ◆お願い◆ アマゾンで買い物をしている方も多いと思われます。
  ◆◆◆  ラッセルのポータルサイト(トップページ)の検索ボックス経由ある
       いは,ポータルサイトに掲載した個々のアマゾン商品のリンク経由で
       ご購入いただければ幸いです。(PCを起動した後,最初にクリックし
       たのがラッセルのポータルサイト上のアマゾンの個別商品のリンクで
       あれば,アマゾンのどの商品を購入されても大丈夫です。)
       収益はラッセルのホームページのメンテナンス費用や早稲田大学のラ
       ッセル関係資料コーナ寄贈資料の購入に充当させていただきます。]
                                    
     ■ 目 次 ■
          
(1)ラッセルの著書及び発言等からの引用
(2)ラッセルに関する記述や発言等
 編集後記

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(1) ラッセルの著書や発言等から
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■「(ほぼ日刊)ラッセルの言葉366」
      n.1795~n.1799を発行しました。

(1) ラッセル『私の哲学の発展』第10章「ヴィトゲンシュタインの衝撃」n.16
   『ラッセルの言葉366』n.1795  (2020年02月03日 月曜日)

 第10章 「ヴィトゲンシュタインの衝撃」 n.18

 『プリンキピア・マテマティカ(数学原理』の初版において、我々(ラッセ
ルとホワイトヘッド)は、この公理(還元公理)を受け入れる理由を次のよう
に述べている。「『還元公理』は自明であるということは、ほとんど主張でき
ない命題である。しかし、実際には(in fact)、自明性というのはある公理を
認める理由の一部分にすぎないのであり(← 一部以上のものでは決してない
のであり)、決して不可欠なものではない。ある公理を受容する理由は、他の
任意の(いかなる)命題を認める理由と同じく、常に主に帰納的なもの(理由)
である。即ち、ほとど疑うことができない多くの命題は還元公理から演繹され
うるということ、還元公理が偽であるとしても、それらの命題を真だとするこ
とができるところの、等しくもっともらしい他の方法が知られていないこと、
また、さらに多分偽だと思われるようなものは何もその公理から演繹すること
はできないこと、である。たとえ還元公理が外見上自明であるとしても(If 
= even if)、それは、実際上、還元公理がほとんど疑いえないということを
意味しているにすぎない。というのは、(多くの)物事はこれまで自明だと考
えられてきており(きているが)、それらはいまだ(yet)偽であると判明し
てないのである。(訳注:for things have been thought to be self-evident
and have yet turned out to be false.「yet」は否定文や疑問文だけでなく,
、肯定文の中で使われたとしても「未完の状態を表す」。みすず書房版の訳書
で、野田氏は「なぜなら、過去に自明だと考えられたことで後に疑であること
が判明したことが数々あるからである」と訳出している。「yet」をまったく
無視している。) たとえ(if = evenif)還元公理自体がほとんど疑いえぬも
のであるとしても、それは還元公理の諸帰結がほとんど疑いえないという事実
から得られる帰納的証拠を増やすだけである(だけにすぎない)。それは根本
的にちがった種類の新たな証拠を与えるものではない。不可謬性は決して到達
できるものではなく、従って、あらゆる公理とそのすべての帰結とにはいくら
かの疑い(疑問点)が常に(当然)付着しているはずである。形式論理におい
ては、疑わしい点は大多数の科学におけるよりも少ないが、全くないわけでは
ない。それは、以前には制限を要するとは知られていなかった諸前提からいろ
いろな論理的矛盾(パラドクス)が出て来たという事実によって明らかである。
還元公理の場合には、それを正しいと思わせる(in its favour 有利に働く)
帰納的証拠は非常に有力である。なぜなら、還元公理が許容する推論や還元公
理が導きだす結果は、全て妥当であると思われるようなものだからである。し
かし、この公理が後に偽であると判明するようなことはあまりありそうもない
と思われるけれども、還元公理が何か他のいっそう根本的かつ明白な公理から
演繹可能であることが発見されることは決してありえないことではない。上述
の型(タイプ)の階層組織に示されたような、「悪循環原理」(vicious circle
 principle)の使用は必要以上の荒療治であって(more drastic than it need
 be)、そういう荒療治を少なくすれば、還元公理の必要性も避けられる可能性
はあるであろう。けれども、たとえそういう変更がなされても、上にのべた諸
原理にもとづいて主張された事柄が偽となるわけではないであろう。そういう
変更は、同じ諸定理のより容易な証明を提供するにすぎないであろう。従って
、還元公理の使用が我々を誤まりに導くかも知れないという恐れにはまことに
わずかな根拠しかないように思われる。」(序論、第二章第七節)
 
Chapter 10 The Impact of Wittgenstein, n.18

In the first edition of the Principia we set out the reasons for 
accepting the axiom as follows: ‘That the axiom of reducibility is
 self-evident is a proposition which can hardly be maintained. But in
 fact self-evidence is never more than a part of the reason for 
accepting an axiom, and is never indispensable. The reason for 
accepting an axiom, as for accepting any other proposition, is always
 largely inductive, namely that many propositions which are nearly 
indubitable can be deduced from it, and that no equally plausible way
 is known by which these propositions could be true if the axiom were
 false, and nothing which is probably false can be deduced from it. 
If the axiom is apparently self-evident, that only means, practically,
 that it is nearly indubitable; for things have been thought to be 
self-evident and have yet turned out to be false. And if the axiom 
itself is nearly indubitable, that merely adds to the inductive 
evidence derived from the fact that its consequences are nearly 
indubitable: it does not provide new evidence of a radically different
 kind. Infallibility is never attainable, and therefore some element
 of doubt should always attach to every axiom and to all its 
consequences. In formal logic, the element of doubt is less than in 
most sciences, but it is not absent, as appears from the fact that the
 paradoxes followed from premisses which were not previously known to
 require limitations. In the case of the axiom of reducibility, the 
inductive evidence in its favour is very strong, since the reasonings
 which it permits and the results to which it leads are all such as 
appear valid. But although it seems very improbable that the axiom 
should turn out to be false, it is by no means improbable that it 
should be found to be deducible from some other more fundamental and
 more evident axiom. It is possible that the use of the vicious-circle
principle, as embodied in the above hierarchy of types, is more 
drastic than it need be, and that by a less drastic use the necessity
 for the axiom might be avoided. Such changes, however, would not 
render anything false which had been asserted on the basis of the 
principles explained above: they would merely provide easier proofs of
 the same theorems. There would seem, therefore, to be but the 
slenderest ground for fearing that the use of the axiom of 
reducibility may lead us into error' (Introduction, Chapter II,
 Section VII).
 Source: My Philosophical Development, chap. 10:1959.
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_10-180.HTM 


(2) ラッセル 「正義と武力」(『アメリカン・エッセイ集』)から
   『ラッセルの言葉366』n.1799 (2020年02月07日 金曜日)

・・・勝利した国家は理論上も実際上も,敗れた敵から,可能なかぎり多くを強
奪する権利を有している。この権利はナポレオンにより,1871年にドイツによ
り,1919年に連合国側により行使された。国家間の関係においては,我々はいま
だ,秩序ある政府が樹立される以前に個々人の間に存在していたのと同様の普
遍的山賊行為の状況下にある。そうして,そのような状態の時のあらゆる害悪
を保持している。無政府状態は今では国内的でなくて国際的であるが,だから
と言ってそれによってそれだけ改善されているわけではない。

A victorious nation has, in practice as well as in theory, the right
 to extort just as much as it possibly can from its vanquished enemy. 
This right was exercised by Napoleon, by the Germans in 1871, and by 
the Allies in 1919. In the relations between different states, we 
still have the condition of universal brigandage that existed between
 individuals in the days before there were orderly governments. And we
 still have all the evils that attended that state: the anarchy is 
international, not national, but is none the better for that.

 異なった国家政府間の関係が(国際)法によって規制されなければ,即ち,そ
れが人類の一部にどれほど不人気であっても,いかなる国家政府より強力であ
り,自らの決定を強制できる力で規制されなければ,世界の永続的な平和を望む
のは無益である。驚いたことに(if you please (古風な使い方で)驚いたこ
とに),国家主権のほんのわずかでも譲るくらいなら,戦争のあらゆる恐怖にも
かかわらず,あえて戦争を選びたいと言われるかもしれない。私は誤った意見
だと思うが,この立場は理屈としては考えられる。しかし,戦争には反対である
が,各国政府が紛争時において自己の立場の'最終的判定者'である現在のシス
テムに賛成であるという意見には,いかなる'論理の見せかけ'すらないことは
確かである。もしも戦争が永久に廃絶されるべきであるならば,抵抗できない
軍事力を備えた国際的な政府の樹立以外には不可能であろう。そして戦争の絶
滅なしでは,文明は存続しえない。論理的推論力よりも愛国的感情の方が強い
人にとっては,これは苦しいジレンマであるが,戦争廃絶の必要性が知的に理解
されなけえば,事態の進展によって,悲惨に立証されるであろう。(注:本エッ
セイは1930年代初めに執筆されたものであり,「事態の進展(第二次世界大戦)
により,ラッセルの警告は立証されました。)

It is useless to hope for lasting peace in the world until the 
relations between different national governments are regulated by law,
 that is to say, by a force stronger than any of the national g
overnments, and able to enforce its decisions, however unpopular they
 may be with a section of the human race. You may say, if you please,
 that you prefer war, with all its horrors, to the surrender of one 
iota of national sovereignty. This is an intelligible position, 
hough, to my mind, a mistaken one. But you cannot say, with any 
semblance of logic, that you are against war but in favour of the 
present system, according to which, in a dispute, every government is
 the ultimate judge in its own case. If war is ever abolished, it will
 have to be by the establishment of an international government 
possessed of irresistible armed forces. And if war is not abolished, 
civilization cannot survive. This is a painful dilemma for those whose
patriotic feelings are stronger than their reasoning powers, but if it
 is not apprehended intellectually it will be disastrously proved by 
the march of events.


■「(ほぼ日刊)ラッセルの英語」
      n.1751~1755を発行しました。ひとつだけ再掲します。
        n.1753 (2020年02月05日)
  
 最所フミ(編著)『日英語表現辞典』(ちくま学芸文庫,2004年1月)を参考に
した「ラッセルの英語_日英語表現辞典シリーズ」(通称 R日英表現)です。

★ legitimate :正当な;合法的な (pp.135-136)

  https://russell-j.com/beginner/r_nichieigo_hyogen_l01.htm

 "legitimate"と"legal"は語源は同じくラテン語の"lex"(法律)であるが、
"legitimate"は"legal"よりずっと庶民化された言葉で、多分に主観を含んで
おり、「合法的」と訳すと誤解を招くことが少なくない。日常会話のなかに現
れる場合は、「論理的」とか「合理的」の意味に使われるのが普通である。
 ベトナム戦争について、W. W. Rostow が米国による北爆は"legitimate"と
言ったのを取り上げて「他国を爆破(爆撃)しておきながら、合法的だなどと
はけしからぬ」といきまいた新聞があったが、これは誤解である。
"legitimate" を「合法的」の意味に使う例は、"legitimate child"や"
illegitimate child" とか言う場合にほとんど限られる。

* This is a perfectly legitimate question.(それは少しも不自然な質問で
はない。)

 R英単語・熟語集の用例とはできるだけ重複しないようにしますが、用例が
少ない場合はどうしても重複してしまいます。あしからず。

A.ラッセルの著作における用例

<用例1>
If you ask your boss for leave of absence from the office on some 
legitimate occasion, his love of power will derive more satisfaction
 from a refusal than from a consent.
[ある正当な理由で(on some legitimate occasion),休暇を上司に願い出た
ら,その上司の権力欲は,(部下に)同意することよりも拒否することによ
って,より快楽を引き出すでしょう。]
 出典:ラッセル「政治的に重要な欲求 -ノーベル文学賞受賞記念講演 1950
年12月11日,ストックホルム」
     https://russell-j.com/beginner/0944WDPI-080.HTM

<用例2>
This long-range optimism is probably justified and affords a 
legitimate consolation in a period of depression and difficulty such
 as that in which we live.
[このような長期的な楽観論は,おそらく正当化されるだろうし,現在我々が生
きている経済不況と困難の時代(松下注:1929年のニューヨーク株式市場の大
暴落から始まった世界大恐慌後の時代)においては,正当な慰めを与えるだろ
う。]
 出典:ラッセル『アメリカン・エッセイ集』の中の「進歩の保証はあるか」
     https://russell-j.com/PROGRESS.HTM

B.他の参考例

<参考例1>
It is legitimate to question his instructions if you think they're 
wrong.
[もし間違っていると思うのなら、彼の説明を疑うことは正当である。]
 出典:『新版完全征服データベース5500 合格 英単語・熟語』p.300

<参考例2>
You can't leave the classroom unless you have a legitimate reason.
[正当な理由がない限り、教室を離れてはならない。]
 出典:『鉄緑会 東大英単語・熟語 鉄壁』p.626

<参考例3>
That's a legitimate question.
[それは当然の質問だ。]
 出典:『キクタン super 12000』p.119

<参考例4>
That's a perfectly legitimate fear.
 出典:Collins COBUILD English Dictionary for Advanced Learners, new
 ed.


★「ラッセルの言葉(Word Press 版)v.2, n.1496~1500

1)n.1496:R『権力-その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.29
        https://russell-j.com/wp/?p=5216
         
2)n.1497: R『権力-その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.30
       https://russell-j.com/wp/?p=5219

3)n.1498: R『権力-その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.31
           https://russell-j.com/wp/?p=5222

4)n.1499: R『権力-その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.32
        https://russell-j.com/wp/?p=5225

5)n.1500: R『権力-その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.33
       https://russell-j.com/wp/?p=5230


★「ラッセルの言葉_画像版」

 日本語 version : n.1189j-1195j を投稿
 英 語 version : n.1189e-1195e を投稿

  一つだけ再録します n.
      https://russell-j.com/smart_r366/r366g_j1190.html

 「モンテッソーリ式教育法」

 基本的な理念は単純である。(即ち,)正しい'しつけ'は,外部からの強制に
あるのではなく,望ましくない活動よりも,望ましい活動へ'自発的'に向かう心
の習慣にある,ということである。驚くべきことは,この理念を教育において具
体化する技術的な方法を発見することに大きな成功を収めたことである。この
点で,モンテッソーリ夫人は最高の称賛に値する。

The fundamental idea is simple: that the right discipline consists, 
not in external compulsion, but in habits of mind which lead 
spontaneously to desirable rather than undesirable activities. What is
 astonishing is the great success in finding technical methods of 
embodying this idea in education. For this, Madame Montessori deserves
 the highest praise.
 Source: On Education, especially in early childhood, 1926, by 
Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/OE01-090.HTM

<寸言>
 いろいろな提言を抽象的にできる人はいっぱいいる。しかし、その提言の実
現のための具体的な方法を徹底的にできる人はわずかである。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(2) ラッセルに関する記述や発言等 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 
 お休み

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 編集後記 情報隠蔽が評価される社会?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 連日、安倍政権の側近、政治家(主に与党)、企業(主に大企業)、その他
、エスタブリッシュメント(体制側)と言われる人たちが関わる、あるいは関
する(不都合な)情報隠蔽や情報・データの改ざん等が明らかにされています。
 
 正常な社会においては、重要な情報の隠蔽は厳罰の対象になるはずですが、
現代日本では、形式的な処罰が行われるだけで、むしろ、後から黙っていてく
れて「ご苦労様」とばかりに、ほとぼりが冷めた頃に昇進したり、天下りで
きたりしています。

 最近に限っただけでも、原発事故に関する嘘、原電による断層データの改ざ
ん、安倍総理に関わる枚挙の暇のない嘘や公文書の改ざん、隠蔽、総理側近
(今井、萩生田・・・)や閣僚たちの不祥事が連日のように報道されています。

 昔は派閥の弊害がありましたが、今の安倍政権のようなことをやれば敵対派
閥から糾弾され、政変につながることもけっこうありました。しかし、今は安
倍総理や安倍政権に文句を言う与党関係者はごくわずかであり、大海の一滴に
すぎません。

 ここにきてようやく、安倍総理にものをいう唯一の「有力」政治家の石破茂
氏が、7日に発売された『文藝春秋』3月号に安倍総理を批判する記事を書い
たと伝えられています。まだ未読ですが、これが与党内における反安倍勢力の
集結につながっていく機会になるでしょうか? (松下彰良)


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■編集・発行:(松下彰良/まつした・あきよし)
■ご意見・ご感想・お問合せはお気軽に : matusitaster@gmail.com

■登録・解除・変更はこちら: https://russell-j.com/R3HOME.HTM
■WEBサイト: https://russell-j.com/
     ( top page: https://russell-j.com/index.htm )
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━